マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

昇天日 『イエス様の昇天という福音』

 本日は昇天日です。前橋の教会でその記念の聖餐式を捧げました。
 本日の聖書箇所は、使徒言行録1:1-11、詩編47、エフェソの信徒への手紙1:15-23及びルカによる福音書24:44-53。説教では、イエス様の昇天とは、神様の普遍的な愛と私たちも天においてイエス様と共にいるという希望の福音であることを知り、その恵みに感謝し、私たちが今も後も絶えずイエス様と共にいることができるよう祈り求めました。
 テーマと関係する聖歌498番の歌詞や星野富弘さんの詩画集「足で歩いた頃のこと」の中の文章も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は昇天日です。本日は復活日から40日目の日に当たります。昇天日は7つある主要祝日の一つです。昇天日以外の主要祝日は、復活日・聖霊降臨日・三位一体主日・降誕日(12/25)・顕現日(1/6)・諸聖徒日(11/1)であります。 
 復活したイエス様は40日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられました。そこから、昇天日は復活日後40日目の復活節第6木曜日に祝われることになりました。多くのキリスト教国、フランスやドイツなどでは昇天日は法定休日となっています。

 本日の福音書ルカによる福音書24:44-53で、ルカ福音書の結びにあたります。この箇所は2つの段落からなっています。44-49節と50-53節です。本日は昇天日ですので、主に後半について見ていきます。
 50・51節に「それからイエスは、彼らをベタニアまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」とあります。「祝福」という言葉が2回続いて使われています。天に昇る直前も、そして天に上げられながらも、イエス様は弟子たちを祝福されたのです。イエス様は私たちをも祝福されるでありましょう。
 さらに52・53節に「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに戻り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」とありますが、この「伏し拝む」は「礼拝する」ことを表す言葉で、弟子たちがイエス様を礼拝したことが記されています。ここで初めて弟子たちはイエス様とはどういう方であるかを本当に悟ることになったのです。

 イエス様の昇天については2つの意味があると考えられます。
 一つはイエス様が天に昇り、神様の右の座に着いたということから人の子であるイエス様が神の栄光の状態に上げられ、御父のもとで最高の権威に参与されたことです。父なる神様と一つであることが示されたのです。また、イエス様が天に昇られたので、ユダヤ人だけでなく、どんな国の人も神様のもとに私たちは共に歩むことができるようになりました。「天」からなら世界中の人にイエス様のメッセージを届けることができるのです。それは、神様の普遍的な愛、それを全ての人が受けられるようになった、ということです。
 もう一つは、イエス様の昇天が私たちの昇天の原型であり、保証でもあるということです。本日の特祷に「わたしたちは独りのみ子イエス・キリストが天に昇られたことを信じます。どうかわたしたちも心と思いを天に昇らせ、絶えず主とともにおらせてください。」とありますように、私たちも、私たちに先駆けて天の栄光に入られたイエス様に倣って、いつかイエス様とともにいることができるという希望のうちにこの出来事を祝うのであります。

 このことを示している聖歌があります。先ほどの福音書前の聖歌 498番「主われを愛す」の3番です。こうあります。
『みくにの門(かど)を ひらきてわれを 招きたまえリ いさみて昇(のぼ)らん
  わが主イエス わが主イエス わが主イエス われを愛す 』
 天に昇られたイエス様は、天国の門を開いて私たちを招いて下さいます。私たちも喜び勇んで天国に昇っていきましょう、という意味です。
 なお、ここのオリジナルの英語を直訳すればこうなります。
「イエスは私を愛しておられる! 主はいつも私のそばに寄り添ってくださる。私が主を愛すると、私が死ぬとき、主は私を天のふるさとに、つれていってくださる。」
 これは天のふるさとに入れる信仰、確信への賛美であり、私たちが天国に招かれるのはイエス様の昇天のお陰なのです。今日はそのことを感謝する昇天日の礼拝であります。
 
 さらに、「復活→昇天→聖霊降臨」を時間的な流れの中で起きた出来事としてとらえたいと思います。「復活」は、イエス様が死に打ち勝ち今も生きているという面を表します。「昇天」は、イエス様が神様のもとに行き、そこで神様とともに永遠の命を生きる方となったという面を表します。そして「聖霊降臨」は、イエス様が目に見えないけれども私たちのうちに今も働いていてくださることを表していると言えます。特に、「昇天」から「聖霊降臨」については、今日からの11日間を、神様とイエス様の恵みを覚え、管区から送られてきた小冊子「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」という「祈りのしおり」を毎日使用することで、この意味も実感することができると考えます。

 なお、この運動は、祈りを通してイエス様との交わりを深め、主を証し、他の人をイエス様のもとに導くことを目的としています。ぜひ、皆さんの周りでイエス様のもとに導きたい5人の方の名前をご自分のしおりに書いて祈っていただきたいと思います。私も福音を宣べ伝えたい5名の名前を記しました。

 今回私の心に響いたのは、イエス様の本当の故郷は神のもとだということです。人間のイエス様の故郷はナザレでしたが、本当の故郷は神様のもとだったのです。では私たちはどうなのかというと、私たちの本当の故郷も、イエス様と同じように、この地上にあるのではありません。私たちもイエス様と次元は違いますが、私たちも神様のもとから来て神様のもとに帰っていく存在であるということを、イエス様の昇天と共に、もう一度思い起こしたいと思うのであります。

 先日の星野富弘さんの前橋キリスト教会での葬儀では、祭壇に「私たちの国籍は天にあります」というプラカードが掲げられていました。
 司式された内田和彦牧師は、こう祈っておられました。「あなたは、富弘兄をお召しになりました。富弘兄はその不自由な身体から解放され、天の故郷に帰って行かれました」と。
 私は、イエス様が富弘さんを大きな手を広げて招いておられる様子が目に浮かびました。このことを、富弘さんはこの詩画集「足で歩いた頃のこと」の中の「真っ直ぐに」(P.42)の詩画で表していると思いました。

 こうあります。
「坂道もあるけれど 
 この道の先には 両手を広げて待っている人がいる 
 真っ直ぐにこの道を行こう」
 私たちも、両手を広げて待っておられるイエス様に向かって真っ直ぐに歩いて行きたいと願うものであります。
 
 皆さん、イエス様の昇天の出来事は、神様の普遍的な愛と私たちが天においてイエス様と共にいることができるという希望の福音を伝えています。天に昇る直前も、天に上げられながらも、弟子たちを祝福されたイエス様は、私たちをも祝福し、私たちを両手を広げて招いておられます。私たちはその恵みに感謝し、今も後も絶えずイエス様とともにいることができるよう祈り求めて参りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 

 

 

復活節第6主日 『愛の本質を示した友なるイエス様』

 本日は復活節第6主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 本日の聖書箇所は、使徒言行録10:44-48 、詩編98、ヨハネの手紙一 5:1-6 及びヨハネによる福音書15:9-17。説教では、イエス様が私たちに示した愛の本質及びイエス様は友であることを知り、すべての人を大切にして、愛を生きることができるように、そしてイエス様とつながる喜びを分かち合っていけるように祈り求めました。
 テーマと関係する聖歌482番の歌詞や星野富弘さんの「愛、深き淵より」の中の文章も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 星野富弘さんが、一週間前、4月28日に逝去されました。富弘さんの御国での魂の平安を祈ります。富弘さんの詩画は多くの方に感動を与え、神様から特別の使命が与えられた一生だったと思います。5月3日のご葬儀にYoutubeで参列しました。司式をされた内田和彦牧師は説教で富弘さんが苦難を通して神に救われたことを話し、遺族挨拶で昌子夫人は、富弘さんは文や絵をかくことが遺言のようで、作品は子供のようだった、今は天に帰って寂しいと話しておられました。

 さて、本日は復活節第6主日です。復活節も終わりに近づきました。今週の木曜、9日は昇天日、復活日(イースター)から40日後にあたります。その日はマッテア教会では聖餐式がありますので、参列していただければうれしいです。
 本日の福音書箇所はヨハネによる福音書15節9節-17節です。先週の「ぶどうの木と枝」のたとえに続く箇所です。イエス様が最後の晩餐の席上で弟子たちに行った長い告別説教の一部であります。
 この箇所には3つの内容があります。「愛の本質」についてと「友」について、そして「神の選び」についてです。それぞれの中心聖句を基に思い巡らしたいと思います。

 11節・12節に「これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。」とあります。
 「これらのこと」は1-10節全体を指しています。「喜び」はイエス様と私たちが、ぶどうの木と枝のように愛によってつながっていることです。
 「私があなたがたを愛したように」とイエス様は、まず御自分が先に弟子たちを愛してきたことをお示しになり、そのように「互いに愛し合いなさい」と命じておられます。
 この「愛する」の原語(ギリシャ語)は「アガパオー」です。神の愛を表す「アガペー」の動詞形です。原文は命令形ではなく、直訳は「[あなたたちは]愛するようになる」であり、現在形で表されており継続を意味しています。つまり私があなた方をまず愛したから、あなたがたは「続けて愛し合うことになる」というニュアンスです。そのように生き続けていく中で、イエス様の喜びが私の喜びとなっていくということと考えられます。
  大阪の釜が崎で日雇い労働者と共に生活しながら、聖書の翻訳をしている本田哲郎神父の訳では12節はこうなっています。
 「わたしがあなたたちを大切にしたようにあなたたちが互いに大切にしあうこと、これこそ、わたしの掟である」と。
 本田神父はこれまで「愛する」と訳されていた部分を「大切にする」と訳し変えているのです。
 これは、日本の戦国時代のキリシタンたちが「神の愛」を「デウスの御大切」と訳していたのと似ています。当時は、仏教では、「愛」=「愛欲」であり、浄化すべきものと捉えられていたので、キリスト教の教義の中心となる「神の愛」という概念を正しく伝えるために、「愛」でなく「御大切」という言葉を使ったようです。
 キリスト教における「愛」とは、その人のことが好きということとイコールではありません。それは相手のことを思いやり、共感し、受け入れ、理解し、ゆるそうと努力することです。たとえ、その人が憎らしくても、その人のことを大切にしていこうとするのが、キリスト教における「愛する」ということであります。
 「この私を愛してくださった」というイエス様の愛を深く受け取ったからこそ、弟子たちは愛することができるし、愛さずにはいられなくなります。これは義務や命令ではなく、「恵み」なのであります。
 
 13節・14節はこうです。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。」
 13節ではイエス様の愛が語られています。ここの「捨てる」の原語(ギリシャ語)は「ティセーミ」、直訳は「置く」です。13節全体を直訳すれば「自分の命を友のために置くことより大きい愛はない」であり、十字架に示されたイエス様の愛を指していると考えられます。14節の原文では、最初に「あなたがたは私の友である」と述べてから、その条件に触れ、「私が命じたことを行うなら」と説いています。条件を後に述べるのは、「私の友である」ことを強調し、イエス様の友となるという希望の中で、戒めの実行に向わせるためであります。
 さらに15節でイエス様はこうおっしゃっています。
「私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」
 僕は主人のしていることを知りません。しかし、イエス様は父から聞いたことをすべて弟子たちに知らせました。だから弟子たちはイエス様の友なのです。私たちもイエス様は友と呼んでくださるのです。

 16節はこうです。
「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである。」
 弟子たちがイエス様を選んだのでなく、「私が」彼らを選んだ。このようにイエス様のイニシアチブを強調した後で、「(あなたがたを)任命した」と述べています。何のために任命したかと言えば、「あなたがたが行って実を結び、その実が残る」ためであり、「私の名で父に願うなら何でも、父が与えてくださる」ためです。ここで「任命した」と訳している言葉の直訳は「置いた」であり、この語は13節で「(命を)捨てる」(直訳では(命を)「置く」)と訳した動詞と同じです。十字架に命を置くイエス様が、同じ愛をもって、弟子を使命へと置くのであります。

 今回、この福音書箇所では、14節以下の「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。私はあなたがたを友と呼ぶ。」のみ言葉が響きました。イエス様が私たちを友としてくださる。親しい友だちとしてくださるということです。このことをしっかり受けとめたいと思います。
 「イエス様が友である」ということでは福音書前に歌った聖歌482番「いつくしみ深き友なるイエスは」をご覧ください。この聖歌は一昨日の星野富弘さんの葬儀でも歌われました。1節はこうです。
「いつくしみ深き 友なるイェスは 罪 咎(とが) 憂いを 取り去りたもう 心の嘆きを つつまず述べて などかは降ろさぬ 負える重荷を」
 イエス様は慈しみ深い友なるお方、言い換えれば、私たちを愛し、大切にしてくださる友だちです。そして、私たちの罪や過ちやつらい思いを取り去ってくださるお方です。「などかは降ろさぬ」とは、「なぜ降ろさないのか」という意味の反語的疑問文です。現代語にすれば「イエス様に心の嘆きをすべて話して、背負っている重い荷物をなぜ降ろさないのですか?(降ろしましょう)」となります。
 以下、2節では、「イエス様は、私たちが弱いことを知っていてお腹を痛めるほど思ってくださり、私たちが悩んだり悲しんだりして落ち込んでいる時も、祈りに応えて慰めてくださる」ことが歌われています。さらに、3節では、「イエス様は、ずっと私たちを愛して導いてくださり、世の友だちが私を捨てたとしても、祈りに応えて大事にしてくださる」ことが示されています。
 イエス様は、このように私たちの友なのであります。

 ところで、星野富弘さんが、多くの方に知られるようになったのは、手記等を収めた最初の著作「愛、深き淵より」の出版によります。今回、この本の新版を読んで、気づかされたことがあります。

 この本の題名となった「愛、深き淵より」の「愛」は、本日の福音書で述べられている「神の愛」、私たちを大切にしてくださるアガペーです。「深い淵」は詩篇130編の冒頭の言葉であり、私たちの人生にふりかかって来る災難や困難、苦しみなどを指すと考えられます。不慮の事故で手足の自由を失った富弘さんですが、神様はそれで終わりになさらず、「詩画」という賜物を与え、さらにキリスト者としての新たな生き方をお与えになりました。
 富弘さんの洗礼について、この本にこうありました(P.181)。それは1974年12月22日のことでした。「私の額に牧師の手によって三滴の水がつけられ、私が神の言葉に従って、この地上での道を天国の故郷に帰れるその日まで、神の愛によって力強く歩んでいくことができるよう祈ってくれた。」私は、今、天国の故郷で友であるイエス様と共におられる星野富弘さんを思うのであります。

 皆さん、イエス様は私たちをも、友として大切にしてくださっています。
 私たちはそのことを感謝し、今度は私たちが、今、関わっている家族や友だちなど、すべての人を大切にして、愛を生きることができるように、そしてイエス様とつながっている喜びを分かち合っていけるように、そのようにイエス様の心を生きることができるように、祈り求めて参りたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 

『前橋上泉町教会献堂20周年記念礼拝説教』

 4月29日に前橋上泉町教会献堂20周年記念礼拝に招かれ、奏楽と説教の奉仕をしました。

キリスト教はなぜ十字架なのか?」というテーマを与えられ、30分以上話し、30名弱の会衆の方が熱心に耳を傾け頷いたりメモをとったりしていました。以下のその説教原稿を記します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 前橋上泉町教会の献堂20周年、おめでとうございます。
 私は日本聖公会の司祭で、前橋聖マッテア教会牧師のマルコ福田弘二と申します。既に、今回の記念集会のはがきでお知らせしてありますが、簡単に自己紹介をさせていただきます。私は現在69歳ですが、60歳の定年まで公立学校の教師として38年間務めました。最初の10年間は小中学校の通常教育、残りの28年間は特別支援学校(当時は養護学校)などの特別支援教育に携わり、退職してから神学校(聖公会神学院)に入学しました。そして、2018年に執事、2019年に司祭に按手(叙階)されました。現在、前橋・高崎・新町の教会の牧師と玉村の幼稚園(認定こども園)のチャプレンをしています。
 聖公会は、受付でお渡しました「前橋聖マッテア教会の教会案内」の中の解説にありますように、プロテスタント的でありながらカトリック教会と共通する多くの伝統や考えを残している教派です。言い換えれば聖書と伝統を重んじる「中道」ということですが、部分的にはカトリックよりも伝統的ではないかと感じるときもあります。例えば聖餐式で使う聖品(チャリス・ベール)や礼拝で行う所作(ひざまずく)などです。今回、事前の打ち合わせで、私に関しては聖公会の方法で進めてよろしいとなりましたので、そうさせていただきます。皆様には違和感を感じるところがあるかもしれませんが、ご理解をお願いします。

 今回、内田彰先生から記念礼拝で「キリスト教はなぜ十字架なのですか?」というテーマでお話をしてほしいと依頼を受けました。内田先生とは30年近くの知り合いで、先生がまだ教員で、前橋市養護学校にお勤めの頃に出会いました。私はその頃、県教育委員会特別支援教育の指導主事で、国の教育課程の研修会でご一緒したのを覚えています。 
 その後、内田先生が牧師になられてからは何度か前橋上泉町教会の礼拝や祈祷会に参列し、そして公民館で実施していた三浦綾子読書会にも参加したことがあります。これまでの長いお交わりに感謝しております。

 さて、「キリスト教と十字架の関係」ということでどの聖書箇所がいいか色々と考えましたが、今回は、先ほど朗読し皆さんにも部分的に唱えていただきましたマルコによる福音書15:1-39としました。聖書は一番新しい訳の聖書協会共同訳を使いました。ここは聖金曜日(受苦日)の夜明けの裁判から午後3時にイエス様が息を引き取られるまでを描いた箇所です。
 あらすじはこうです。
『夜が明けると、祭司長たちはイエス様をピラトに渡しました。ピラトは祭りのたびに囚人を一人釈放していた慣習に従い、イエス様を釈放しようとします。しかし、祭司長たちに扇動された群衆たちの声に負けて、ピラトはイエス様を十字架につけるために引き渡しました。兵士のあざけりを受けた後、イエス様はゴルゴタの丘に引かれて行き、十字架につけられました。途中でキレネ人のシモンに十字架を担がせました。通り掛かった人々も、一緒に十字架につけられた強盗もイエス様を侮辱しました。イエス様が十字架の上で息を引き取ると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、百人隊長は「まことに、この人は神の子だった」と言うのでした。』
 
 マルコ福音書は、異邦人、特にローマ人向けに書かれましたので、この当時の読者(主にローマ人)にとっては十字架刑は馴染みのあるものですが、現代の私たちがこの聖書箇所を理解するには、当時の十字架刑について知る必要があります。
 十字架刑は、ギリシア人及びローマ人が発明した刑です。元々は反乱した奴隷に限って用いられ、その後すべての犯罪者に適応されました。見せしめのために長く苦しむ死刑の方法です。十字架刑は、刑を受ける人が十字架を担いで行きます。その向かう途中で群衆の嘲りを受けます。この刑の本来意味していることは、かつて反乱した者が、今は「ローマ法に従順に服している」という姿を見せることでした。

 今回は読みませんでいたが、使用聖書箇所のプリントの2ページの後半にあるマルコによる福音書8:34をご覧ください。
「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。』とあります。
 「自分の十字架」とは、イエス様と同じような苦しみの十字架を担げという意味ではありません。「自分の十字架」とは、比喩的表現で「自分の思いと神の思いが交差する時、自分の思いを捨てて神の思いに従順になりなさい」という勧めです。
 つまり、「十字架を運ぶ」「十字架を負う」とは「従順の勧め」です。十字架刑が意味しているのは、ローマ法への従順、つまり、「支配している権威への従順」です。イエス様は、父なる神に従順に歩まれました。どこまで従順だったかというと、「死に至るまで」です。そのように、私たちも、神様の御心に従順になる必要があると思います。自分の思いを優先させたい、自分の欲望を満たしたいと思う時に、そうではなくて、神様の御心に従順になること、それが「自分の十字架を負う」という意味であると言えます。
 ですから「自分の十字架を負う」とは「自分の問題、悩み、傷等を背負って生きる」ということではありません。そうではなく、「主に従う」ということです。言い換えれば「神様の御心に従う」ということが、「自分の十字架を負う」ということであると思います。

 また、先ほど聖書朗読をしたマルコによる福音書15:1-39の中では、21節にこうあります。
「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、畑から帰って来て通りかかったので、兵士たちはこの人を徴用し、イエスの十字架を担がせた。」
 イエス様が十字架を担いで歩いているときに、この十字架が重過ぎてもう担げなかったのです。倒れてしまって、もう、持てなかったので、担ぐ人を探し、キレネ人のシモンに十字架を担がせたのです。
 キレネ人のシモンは、「何で自分がこんな十字架を背負わなければならないのか」と心の中でつぶやきながら担いだと思います。マルコの福音書は「アレクサンドロとルフォスとの父で」と、息子の名前2人を記していますが、それはこの2人が初代教会のリーダーでよく知られていたからです。そこから考えられるのは、キレネ人のシモンはこの後に回心して、キリストに従う者になったということ。一緒に十字架を担ぐことがきっかけで、彼は洗礼を受けた、ということが考えられます。一緒に十字架を担いだことは、彼の生涯において宝物になった、と思います。それは私達にとっても、同じだと思います。自分で苦しんでるだけならば、それはただの苦しみですが、その苦しみをイエス様と共に苦しむならば、どれほど恵みと価値があって、自分の宝物になるのかということです。
 十字架は本来、死刑の方法で、見せしめであり権力者への従順を示す悲惨なものですが、主に従い、イエス様と担ぐことでパラドクス(逆説)として、宝物となるのであります。

 十字架について、さらに思い巡らします。
 25節にありますように、イエス様が十字架につけられたのは午前9時です。罪状書きには、「ユダヤ人の王」とあり、ただの犯罪人の一人としてイエス様はあげられました。人々は頭を振りながら、イエス様を罵って言いました。29節・30節です。
『そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って言った。「おやおや、神殿を壊し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」』
 誰も十字架を意識していません。十字架にかからない賢い生き方、それこそが、救いだと思っているのでしょう。律法学者や祭司長たちはこう言いました。
「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。」
 彼らは上手に困難をくぐり抜け、結局は自分が良いところに置かれるために、信仰を生きようとしているように思われます。

 次に、イエス様が十字架上で述べられた言葉に注目します。34節にこうあります。
『三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。』
 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」はイエス様がお話ししていたアラム語です。マルコはこの言葉をあえてイエス様が叫ばれた言葉そのもので記しました。これは父なる神様に訴える、人間的な率直な叫びです。イエス様は「わが神、わが神」と二度唱え、親しみを込めて語りました。この言葉は、詩編22編の最初の言葉でもあります。
 そして、37節です。
『しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。』
 マルコではイエス様の最後の言葉の内容は記されていませんが、ルカではこう記されています。23:46です。
『イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られた。』
 ここの「私の霊を御手に委ねます。」は詩編31編6節の言葉です。もしかしたらイエス様は詩編を22編の最初からここまで唱えていたのかもしれません。
 私たちは不安と戸惑いの中で、神様に「なぜか」と問いかけます。イエス様の「なぜ」も同じだと考えます。沈黙する神様に「わが神、わが神」と呼びかけるイエス様は、「なぜ」と問いながら、神様の声が聞こえるのを待っています。この叫びは絶望ではなく、神様の応答を求める祈りです。そこにあるのは「神様への全幅の信頼」であります。
 イエス様は十字架上で、人間的な「なぜ私をお見捨てになったのですか」という訴えの後、最後は「御手に委ねます。」と神様の思い(意志)を全面的に受け入れたのです。 

 さらに、39節の百人隊長の反応を見たいと思います。こうあります。
『イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、「まことに、この人は神の子だった」と言った。』
 「このように」とは、イエス様が息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が裂けて神と人を断絶させていたものが取り払われたということです。それを見て、百人隊長は、「イエス様は神の子だった」と断言したのでした。異邦人であるローマの百人隊長がイエス様を神の子であると告白したのです。
 この百人隊長の反応は、35・36節の人々の反応と対照的です。どちらの箇所にも原文を見ると「そばに立っていた」という分詞(35・39節)と、「見る」という動詞(36・39節)が使われていますが、同じ動詞を使うことによって、イエス様の十字架をめぐる二つの立場が対比されています。一方にとって十字架は嘲笑の対象であり、他方にとっては神様のみ心を読み取るしるしです。何がこの違いを引き起こすかといえば、イエス様に対して取っている百人隊長の姿勢と言えます。彼は十字架の「そばに立っていた」だけでなく、イエス様と「向かい合って」います(39節)。百人隊長はイエス様と「向かい合って」いたのです。この「向かい合う」はギリシャ語原文では「エナンティオス」であり「相対している」という意味です。英語の聖書では「facing(直視して、顔と顔を合わせて)」とありました。十字架のイエス様と「向かい合う」「顔と顔を合わせる」なら、イエス様を神の子と告白する者となるのです。イエス様をからかう者は「そばに立って」はいても、目をイエス様に向けてはいません。そのような者には十字架は嘲笑の対象でしかありません。イエス様と向かい合い、十字架の死を直視する者には、十字架を通して語りかける神様の声が聞こえます。

 本日お持ちした、イエス様が十字架についた磔刑像をご覧ください。

 

『イエスは十字架にかけられる前、言いました。「人の子が・・・多くの人ための、贖いの代価として、自分の命を与えるために来た(マタイによる福音書20章28節)」』
「贖い」と訳されているギリシャ語の元々の意味は、奴隷や人質を買い戻し自由にすることです。イエス様は様々なことにとらわれている私たちのために十字架に付き「贖い」、私たちを解放してくださるのです。これこそキリスト教の本資であり、「救い」の根本です。

 A4の使用聖書箇所のプリント2ページの終わりから2つ目のみ言葉、マタイによる福音書11章28-30節をご覧ください。
「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」
 イエス様はこう言っています。「私の軛を負い、私に学びなさい。」と。軛は二頭の首にかけられています。この場合の二頭とはどういうことかと言えば、一頭はイエス様で、もう一頭は自分だということです。イエス様と二人で軛を合わせていくには、歩調が合わなければうまくいきません。イエス様があっちに行こうとしているのに、自分がこっちへ行こうとしたらだめだし、イエス様がゆっくりしようと思っているのに早くしようと思ったらだめです。歩調を合わさない限り、軛は合いません。そして、何をするかと言ったら、土を耕すということです。耕さなければならないものがあるのです。それは私たちの固い心かもしれません。それをイエス様と軛を合わせてやらなければ、土をうまく掘り起こせないのです。この土とは日本の社会や家庭などかもしれません。そこをイエス様と共に耕していく、すると安らぎが与えられる。それをするように、私たちは呼ばれているのだと思います。
 端的に言えば、「私の軛を負い、私に学びなさい」とは「イエス様と一緒に軛を負い、イエス様のリードに従って歩みなさい」ということです。そうすれば「魂に安らぎが得られる。」というのです。なぜなら「私の軛は負いやすく、私の荷は軽いから」です。イエス様は「私がうまくリードする、あなたが負いきれない重い荷物は載せないから」というのです。

 ところで、カトリック聖公会の聖職者は、首にカラーを着けます。このカラーは、何のために着けているのかご存じでしょうか?
 諸説ありますが、一つには神様につながれていることをいつも自覚するということです。そして、周りの人もそれを着けている人は「神様に仕え福音を伝えるために生きている人だ」と見ます。日本ではあまりそういう目で見る人は多くありませんが、カラーを着けて街を歩いていると、時々恭しく挨拶したりする外国人の方もいます。ですから、聖職カラーは神様につながれている軛の象徴と言えます。
 しかし、重荷を負って苦労しイエス様のもとに来た私たちもまた、実はイエス様のもとで休ませてもらった後、イエス様の軛を負わされているのです。それは、目には見えない軛です。カラーのように、人に気づかれるものではありません。イエス様から与えられる軛は負いやすく、その荷は軽いのです。それはこの軛がイエス様によって一人一人に応じて作られ、そしてその荷物はイエス様が共に担ってくださるからです。
 私たちは皆、何らかの重荷を負っている者です。その私たちにイエス様は「私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」とおっしゃっておられます。重荷とは十字架と言い換えてもいいかもしれません。イエス様が一緒に重荷(十字架)を負っておられ、イエス様と二人で軛につながれ、イエス様のリードで人生を歩むとき、魂に安らぎが得られるのです。

 イエス様の十字架は十字架では終わりません。3日後に復活し、弟子たちの前に現れました。この場面を描いたマッテア教会のステンドグラスでは、イエス様の右の掌にはっきりと釘の傷跡が記されています。

 イエス様の傷跡に関しては、使用聖書箇所のプリントの最後のイザヤ書53章5節にこうあります。
『彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。』
 イエス様の受けられた傷によって、私たちに平安と癒しが与えられたことを思います。私にはこのステンドグラスのイエス様の右の掌の傷が輝いて見えます。

 私は平日の毎日10時半からマッテア教会の聖堂で、「朝の祈り」と「ロザリオの祈り」を捧げているのですが、ある日、それを終えてステンドグラスのイエス様を見つめた時に、こんな声が聞こえたような気がしました。それは「傷も賜物だよ」という声でした。
 このことで私には思い当たることがあります。
 私は26歳の時、1981年のイースターに洗礼を受けました。信仰歴は43年になります。キリスト教との出会いは入学した大学が、たまたまキリスト教主義学校だったことです。卒業後、教師となり群馬県の山間部の小学校に赴任し3年を過ごし、そこではなんとか務めることができました。しかし、その後、都市部の中学校の教師になった時、その学校がかなり荒れていてどう対応したらいいか悩み、同僚の教師からは「もっと厳しく指導すべきだ」と言われました。生徒にも教師にも傷つけられ、ついには学校に行けず、不登校のような状態にまでなってしまいました。そんな折、大学で受けたキリスト教教育を思い出し、それこそが真実の教育であると思い、もっとキリスト教を知りたいと考え、出身大学と同じ聖公会の教会の門をくぐりました。それがアドヴェントの頃で、通って行くにつれ癒され希望が見えてきました。そして次の年のイースターに洗礼を受けました。それ以降、「イエス様の教え、キリスト教精神で生徒たちに接しよう、教育に当たろう」と考え、実践し、60歳の定年まで勤めることができました。
 生徒にも教師にも傷つけられ、苦しかったのですが、その傷のゆえに教会に通うようになり受洗し、さらに今は聖職として聖務を果たしています。まさに「傷も賜物だ」と思います。

 ここにお集まりの皆さんも、何かの傷を受け苦しんでおられるかもしれません。しかし、それは神様から与えられた「賜物」なのかもしれません。イエス様も傷を受けられたのです。それがイエス様の十字架であり、私たちは十字架のイエス様と向き合うことが求められていると考えます。

  本日の礼拝で十戒の後に歌った讃美歌294番「みめぐみゆたけき」をご覧ください。この曲は少し歌詞は違うのですが聖公会聖歌集では「聖歌520番」で私の愛唱聖歌であり、新島襄の妻、新島八重の愛唱聖歌でもあります。1節にこうあります。
「みめぐみゆたけき 主の手にひかれて この世の旅路を あゆむぞうれしき
 たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ みあとをゆくこそ こよなきさちなれ」
 この歌は神様を信じて生きていく喜びと感謝に満ちています。「主の手にひかれて」とは「主と軛をつながれて共に歩むこと」だと思います。そして、その主は傷を負った十字架のイエス様です。イエス様はこう言っておられます。「私のもとに来なさい。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いから、あなたがたの魂に安らぎが得られる。」と。私たちはこのイエス様と向き合い、そして、共に歩んで参りたいと思います。

 お祈りします。
「恵みに富みたもう父なる神様、私たちを前橋上泉町教会献堂20周年記念礼拝にお招きくださりありがとうございます。いつも私たちをみ守り導いてくださるあなたを賛美し崇めます。
 本日の聖書箇所から、十字架は見せしめであり悲惨なものですが、主に従い、イエス様と担ぐことで宝物となることを知りました。あなたは、十字架のイエス様と向かい合い共に歩むことを私たちに望んでおられます。イエス様が十字架につかれたのは私たちの罪を贖うためであり、それほど私たちを愛してくださっているのに、私たちは時に、思いと言葉と行いによってあなたから離れていることを懺悔します。「まことに、この人は神の子だった」と言った百人隊長のような信仰を持つことができますように。そして、どうかあなたの心を私たちの心として、み旨を行うことができるようお導きください。
 前橋上泉町教会がますますあなたに喜ばれる教会となり、この教会に連なるすべての方々にあなたの恵みと祝福がありますように。これらの祈りを私たちの牧者である救い主、イエス・キリストによって御前にお捧げいたします。アーメン」

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

復活節第5主日 『ぶどうの木であるイエス様につながる』

 本日は復活節第5主日です。午前は高崎、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。
 4月から新たに高崎オーガスチン教会の管理牧師になり、月の第4主日は高崎の教会の10:30からの礼拝の司式・説教をすることになりました。本日は久しぶりに高崎で聖餐式を捧げ、懐かしい皆さんにもお会いでき感謝な時でした。

 本日の礼拝の聖書箇所は使徒言行録8:26-40、詩編22:25-31、ヨハネの手紙一4:7-21及びヨハネによる福音書15:1-8。説教では、私たちはぶどうの枝であり、ぶどうの木であるイエス様の一部であることを知り、御言葉を聞き、祈り、聖餐に預かるなどの恵みに感謝し、イエス様につながっていくことができるよう祈り求めました。
 管区から送られた小冊子「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」という「祈りのしおり」についても言及しました。
 高崎の教会における説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 皆さん、お久しぶりです。こちらでの礼拝は2021年4月4日のイースター以来、約3年ぶりとなります。今度は管理牧師ということで、礼拝は月一回(第4日曜)で、あとは毎週水曜日に高崎で聖務を行うようにしています。私は平日は午前10時半から「朝の祈り」と「ロザリオの祈り」を捧げていますが、高崎でも同様にしています。よろしかったら一緒にどうぞ。また、お話等のある方もぜひお出かけください。主に事務的なことは大山執事さんにお願いしていますが、私は今年度は3つの教会の牧師になりましたので、前橋や新町との連携、例えば「聖書と祈りの会(Zoom)」や前橋の会館で行っている「キリスト教文化入門(赤毛のアンを英語で読む会)」等の教会行事の相互交流等を図りたいと考えています。心に留めておいてほしいと思います。
 
 さて、本日は復活節第5主日です。復活節は復活日(イースター)から聖霊降臨日(ペンテコステ)までの50日間ですが、本日は復活日(3月31日)から29日目で、来週の木曜(5月9日)が40日目で昇天日です。その日には前橋聖マッテア教会で10時30分から昇天日聖餐式が行われます。よろしければご参加ください。

 本日の福音書は、ヨハネによる福音書のイエス様が弟子たちに語った告別説教といわれる箇所から取られています。
 本日の箇所は15章1-8節で、イエス様がぶどうの木、私たちはその枝、そして父なる神様が農夫にたとえられています。この箇所で印象的なのは「つながっていなさい」または「つながる」というイエス様の言葉です。1節から8節までで9回も使われています。何のためにつながるのかということが「実を結ぶ」という言葉で説明され、これも7回出てきます。「実を結ぶためにつながる」ということが、本日の箇所のテーマではないかと考えられます。

 2節にこうあります。
「私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」
 ここの「取り除き」とはギリシア語の「アイロー」で、「持ち上げる、取り上げる」ことです。それに対し「手入れをなさる」と訳された語は「カサイロー」で、「清める、剪定(せんてい)する」という意味です。
 イエス様は、「私につながりながらも実を結ばない枝は、天の父が取り除かれる」と言われます。何ら実を結ばないならば、天の父なる神様が取り除かれます。しかし、イエス様につながって少しでも実を結びはじめたら、もっと実を結ぶようにと剪定されるのです。
 取り除かれた枝は「投げ捨てられて枯れ、集められて火に投げ入れられて焼かれてしまう」(6節)、そのように否定的な言葉がまた語られていますから、自分は取り除かれてしまう枝なのか、それとも残される枝なのか、ということが気になるかもしれません。
 そのことについては、3節後半にある「あなたがたはすでに清くなっている」という言葉に注目します。ここの「清くなって」と訳された言葉は「カサロイ」でそれは「手入れをなさる」と訳された「カサイロー」から派生した言葉で、その意味に従って訳すと「あなたたちはすでに手入れがすんでいる」(本田哲郎神父訳)となり、私たちはみな神様によって手入れされ残された枝であることが分かります。私たちはイエス様につながる枝として、エネルギーを与え続けてくださるイエス様からそれを受けながら生きるのです。

 5節にこうあります。
『私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。』
 イエス様は別れを前にした弟子たちに語っています。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と。イエス様はご自分のことを「ぶどうの幹である」とおっしゃっているのではありません「ぶどうの根である」と言っているのでもありません。「私はぶどうの木である」とおっしゃっているのです。つまり、根も幹も枝も含めたぶどうの木全体であると言うのです。そして弟子たちに「あなたがたはその枝である。」とおっしゃっています。つまり「あなたがた枝は、ぶどうの木である私の一部である」とおっしゃっているのであります。  
 ここで「つながる」と訳されているこの元々のギリシャ語は「メノー」という言葉です。葬送式等の福音書箇所の「私の父の家には住む所がたくさんある。」
ヨハネ14:2)の「住む」も原文は「メノー」です。「メノー」の本来の意味は「ある場所や状態に留まる」ということです。そこから「つながる、留まる、住む、離れないでいる」という訳になります。「人が私につながって(メノー)おり、私もその人につながって(メノー)いれば、その人は豊かに実を結ぶ。」とはキリスト者とイエス様との深い交わりを表しています。
 イエス様は、ここで弟子たちに「ぶどうの枝になりなさい」と言っているのではありません。「あなたがたはその枝である。」と断定されているのです。そして、この言葉はイエス様の弟子である私たちにも向けられています。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と。このままイエス様につながっていれば豊かに実を結ぶことができるのです。

 再度、6節の言葉に注目します。それは「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」と脅かしのようにとらえかねない言葉です。これはどういうことでしょうか? この前後をよく読みますと、4節の「私につながっていなさい」には「私もあなたがたにつながっている」という言葉が続いています。同様に、5節でも「人が私につながっており、私もその人につながっていれば」と語られ、7節では「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば」と述べられています。つまり、「私につながっていなさい」という命令には、「私もあなたがたにつながっている」からというイエス様の慰めの言葉が付いているのです。単に、「イエス様につながりなさい」と言っているのではありません。その前に、「イエス様が私につながっている」のです。

 具体的に、私たちはどうしたらいいでしょうか? 日々聖書を読み、み言葉を聞き、祈る、礼拝に出席する、教会に連なる、そのようなことが考えられます。信徒である私たちは、聖奠(サクラメント)である洗礼と聖餐でつながることができます。特に聖餐式での陪餐、イエス様の体とイエス様の血をいただくことで、私たちは養われ、育てられるのであります。

 さらに言えば、祈祷書の聖餐式の式文で、181ページの「近づきの祈り」の後半で、私たちは、このように祈ります。
 「恵み深い主よ、どうかわたしたちが、み子イエス・キリストの肉を食し、その血を飲み、罪あるわたしたちの体と魂が、キリストの尊い体と血によって清められ、わたしたちは常にキリストにおり、キリストは常にわたしたちにおられますように アーメン」
「わたしたちは常にキリストにおり、キリストは、常にわたしたちにおられますように」。この祈りと共に、主イエス・キリストの肉と血に与ることこそが、「私につながっていなさい」と言われる、イエス様の言葉が、目に見えるかたちで示される「大切な時」なのではないでしょうか?
「イエス様につながること」の大切さを噛みしめたいと思います。

 ところで、冒頭お話ししましたように、来週の木曜(9日)が昇天日です。私たちは「復活→昇天→聖霊降臨」を時間的な流れの中で起きた出来事としてとらえたいと思います。「復活」は、イエス様が死に打ち勝ち今も生きているという面を表します。「昇天」は、イエス様が神様のもとに行き、そこで神様と共に永遠の命を生きる方となったという面を表します。そして「聖霊降臨」は、イエス様が目に見えないけれども私たちのうちに今も働いていてくださることを表していると言えます。特に、「昇天」から「聖霊降臨」については、神様とイエス様の恵みを覚え、今回、管区から送られてきた小冊子「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」という「祈りのしおり」を毎日使用することで、この意味も実感することができると考えます。

 この「祈りのしおり」は一昨年から主教会が黙想文を作成し、日本社会に即した内容となっています。ぜひ、5月9日(木)から毎日、この小冊子を活用してほしいと思います。

 最後に、先ほど、福音書前に歌った聖歌491番「天なる喜び」にも触れたいと思います。聖歌491番をご覧ください。この聖歌はチャールズ・ウェスレーの代表作で、2年前のエリザベス女王の葬送式でも歌われました。この聖歌では、キリストの受肉に見られる神の愛を大きく讃え、その後に清めについて触れています。2節では、神様を信じる一人一人の体に宿る聖霊の真理を強調し、3節では、私たちの信仰が栄光と共に増し加えられるように語っています。さらに「み国に昇りて み前に伏す日 み顔の光を 映させたまえ」とあるように、死後の光明を祈っています。
 1節最後に「乏(とも)しき心に 宿らせたまえ」、そして2節最初「命を与うる 主よ とどまりて」とありますが、ここの「宿る」や「留まる」がおそらくギリシャ語では「メノー」で主イエス・キリストとつながることを祈願していると思われます。
 この聖歌から本日の使徒書のヨハネの手紙一4:9の聖句を思い浮かべます。
「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。」
 父なる神様は、私たちを愛するがゆえに独り子イエス・キリストをこの世に遣わされました。それはすべての人の救いのためです。
 エリザベス女王葬送式の最後にこの歌が歌われたのも、一人女王のためでなく、人類すべての救いを願ってだったのだと思います。

 皆さん、私たちはぶどうの枝であり、ぶどうの木であるイエス様の一部であります。御言葉を聞き、祈り、聖餐に預かるなどの恵みに感謝し、生涯、イエス様につながっていくことができるよう祈り求めて参りたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 

復活節第4主日 『良い羊飼いであるイエス様に従う』

 本日は復活節第4主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は
使徒言行録4:5-12 、詩編23 、ヨハネの手紙一 3:16-24及びヨハネによる福音書10:11-18。説教では、イエス様こそ私たちを導く「良い羊飼い」であることを知り、そのみ声に生涯聞き従っていくよう祈り求めました。
 吉田雅人主教の「特祷想望」にある「み旨」についても言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 先主日は「み言葉の礼拝」でS・Mさんが司式をされ、その中で私の説教を代読していただきました。その中で、神に立ち帰り悔い改めた「キリストの証人」として紹介したN・Mさんが先週の月曜15日に逝去され、一昨日の金曜19日に当教会で葬送式が執り行われました。ヨセフN・Mさんの魂の平安とご家族に慰めがありますようお祈りいたします。

 さて、本日は復活節第4主日です。復活節第4主日は、「良い羊飼いの主日Good Shepherd Sunday」と言われ、毎年、ヨハネによる福音書第10章の「良い羊飼いのたとえ」が読まれます。そのことから、将来の良い羊飼い・牧者を育てるという意味で「神学校のために祈る主日」とされ、聖公会神学院・ウイリアムス神学館のため、この後、代祷を捧げます。

 先ほどお読みしました福音書の箇所、ヨハネ福音書10:11-18について思い巡らしたいと思います。
 本日の福音書では、良い羊飼いであるイエス様を3つの側面から述べています。第1は、イエス様は羊のために命を捨てる「羊飼い」であること。第2は、羊を知り、羊に知られている「羊飼い」であること。第3は、囲いに入っていない羊をも導く「羊飼い」であることです。
 今回は2つ目の側面を中心に考えてみたいと思います。
 
 イエス様は14・15節で言われます。「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。」と。
 この箇所では4回「知って」という言葉が繰り返されています。
 ギリシャ語の「知る」には二つあります。「オイダ」と「ギノースコー」です。前者は「見ている、知識を持っている」、後者は「観察、経験により知るようになる」というニュアンスがあります。「オイダ」は単に知覚の範囲内にあることを示すのに対し、「ギノースコー」はしばしば知る者と知る対象との間に能動的な関係があることを示していると考えられます。
 今回のこの箇所では「ギノースコー」が使われています。良い羊飼いであるイエス様と飼われている羊は、単に知識として知っている関係でなく、観察、経験により知るようになる能動的な関係なのです。そしてそれは、父なる神様とイエス様との関係と同じだというのです。
 そのように羊を「知る」良い羊飼いは、このような人格的交わりに動かされて、羊のために命を捨てる、と言います。ヨハネ福音書15章13節に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」とありますように、「知る」という人格的触れ合いは愛へと高まっていきます。ここでの「知る」は、熟していけば犠牲をいとわない愛になるという「知る」なのです。
 
 先ほど交唱した、詩編23編の「主」こそが、羊である私たちのために命を捨てる「羊飼い」です。その方こそ私たちのことを観察し深く知り、私たちと共に歩んでおられる主イエス様です。2週間前の墓地礼拝や一昨日のN・Mさんの葬送式でもお話ししましたが、「主イエス様は私たちと共に死の陰の谷を歩いて、向こう岸の安全なところに連れて行ってくれる」お方なのです。
 本日の福音書では冒頭から「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と始まり、15節で「私は羊のために命を捨てる。」、最後の18節に「私は自分でそれを捨てる。」とありますように、「イエス様の死」が通奏低音のように響いています。
  イエス様が羊のために「命を捨てる」のは、羊のことを深く知り人格的交わりがあるゆえであり、それが父のみ旨だからです。父なる神様とイエス様の間には、深い豊かな交わりが広がっています。私たちは、良い羊飼いであるイエス様を通して、この同じ交わりに包まれています。イエス様が私たちのために十字架上で「命を捨てる」のは、この交わりへと招き入れるためであり、それが「贖い」です。「贖い」と訳されているギリシャ語の元々の意味は、奴隷や人質を買い戻し自由にすることです。イエス様は様々なことにとらわれている私たちのために十字架に付き「贖い」、私たちを解放してくださるのです。イエスの贖いの業は「この囲いに入っていない羊」(つまり、異邦人)にも及んでいます。
 先ほど福音書前に歌った聖歌462番「飼い主わが主よ」をご覧ください。この聖歌の一節の終わりに「われらは主のもの、主にあがなわる」とある通り、私たちは主イエス様のものであり、イエス様によって贖われるのです。さらにこの聖歌では3節に「われらをあがない 命をたもう」とあるように、イエス様の十字架の死により私たちが永遠の命を得ることも示唆しています。そのようなことを知った私たちがなすべきことは何でしょうか?  それは4節にありますように「今よりみ旨を なさしめたまえ」ということ、つまり、「み旨(神様のみ心)がなされますように」と祈ることだと思います。

 本日は特祷についても見たいと思います。本日の特祷の中で私たちは「み旨」に関して、「わたしたちを み旨にかなう者とし、み前に喜ばれるすべての良い業を行なわせてくださいますように」と祈りました。では「み旨」とは何でしょうか?
 このことについては、この本、「特祷想望『日本聖公会祈祷書』特祷、解説と黙想」が参考になります。

 この本は、昨年退職された吉田雅人主教がウイリアムス神学館館長の時に執筆されたものです。この本の中にこうあります(P.140)。
『神様のみ旨、御心、御意志とは一体何なのでしょうか。まさにそれは私たち人間には図り知ることのできないものかもしれません。イエス様はそれを「神様を愛し、隣り人を愛する」ことだと言われました。(中略)神様のみ旨にかない、み前に喜ばれるような良い業を行うことなど私たち人間には不可能なことなのです。ただ、私たちは神様がイエス・キリストによって私たちの「内に働いて、御心のままに望ませ、行わせて」(フィリピ2:13)くださることを信じたいと思います。』
 ここでは、神様のみ旨とは「神と人を愛すること」であり、それは神様がイエス様によって私たちの内に働くことで実現されることを信じたいと述べています。

 皆さん、良い羊飼いは羊のことを知っており、良い羊飼いに養われる羊は、羊飼いのことを良く知っています。羊はすべてをゆだねて安心しています。単に見て知っているのではなく、心の深いところで受け入れられています。このように、イエス様は私たちのことを深く人格的に知り、受け入れて下さっているのです。先日帰天されたN・Mさんはこのことをよく知っておられて、すべてをイエス様に委ねる信仰をお持ちでした。
 イエス様こそ良い羊飼いで、私たちはこの羊飼いに養われる羊です。良い羊飼いであるイエス様は、羊である私たちを贖うために命を捨てるほど、私たちを愛しておられます。
 羊は、羊飼いの声をよく聞き分け、羊飼いをよく知らなければなりません。羊飼いに、すべてを委ねきる、本当の信頼がなければ、迷いだしてしまいます。私たちも良い羊飼いであるイエス様に全幅の信頼をしていきたいと願います。
 イエス様は十字架のみ業を為し遂げられた後、復活し、今も私たちと共に生き、導いてくださっています。この良い羊飼いのみ声に、生涯聞き従っていくことができるよう祈り求めて参りたいと思います。 

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 

『祈りの構造』

 前々回の「聖書と祈りの会(Zoom)」の中で祈りの4つの内容ACTSについて学び、前々回のブログで、そのことについて記しました。その後、この内容の前提のことを示す必要があると思いました。それは特に、祈りの「最初」と「最後」の言葉についてです。そこで、前回の「聖書と祈りの会(Zoom)」では基本的な「祈りの構造」について学びました。参加者には事前に資料をメールの添付で送りました。それは、信徒教養双書「聖公会の礼拝と祈祷書」(森紀旦編)の中にある文章です。

 この本の中のP.26・27にある、竹田真主教様が執筆された「特祷の構造」についてです。特祷の構造が自由祈祷の構造と同様であると考えたからです。先日、「聖書と祈りの会」の参加者等に添付した資料は以下のものです。

 この資料では「特祷の構造」について5つの部分を示しています。それは以下の5つです。
(1)神への呼びかけ
(2)告白
(3)祈願
(4)祈願の目的の表明
(5)結びの言葉
 それぞれ少し解説します。

(1)神への呼びかけ
 祈りの最初には、必ず父なる神への呼びかけを行います。「主よ」「神よ」だけの場合もありますが、「全能の」「あわれみ深き」等の形容詞がつくことが多いです。「恵みに富みたもう主なる神様」「私たちの主イエス・キリストの父なる神様」といった具合です。この部分は祈りにおいて必須です。
(2)告白
 ACTSの中のConfession(懺悔・告白)に当たります。これには、神の救いの働きについての特質の告白と、人間の弱さについての告白の二種類があります。前者の例は「すべてのものの創造主である神よ」「天地万物を治める父なる神よ」等、後者の例は「私は思いと言葉と行いにより罪を犯しました」「罪を赦してくださるのは主だけです」等が考えられます。
(3)祈願
 実際の祈りの言葉です。ここでは、この部分も聖句に基づいているものが多いと指摘されています。竹田主教様は「われわれの祈りの言葉も基本的には聖書の言葉を規範とすべきである」と述べています。例えば、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」(マルコによる福音書 14章36節)や「父よ、私の霊を御手に委ねます。」(ルカによる福音書23章46節)等が考えられます。
(4)祈願の目的の表明
 ある特祷には、祈願の目的となる希望がつけられています。この目的は神の栄光に向けられています。例えば「この願いはあなたを証するためです」等が挙げられます。
(5)結びの言葉
 これは常に「主イエス・キリスト(のみ名)によって(祈ります、お願いします、み前にお捧げします)」です。キリストが私たちの祈りの唯一の仲介(仲保者)であり、とりなしであるからです。

 前々回と今回の祈りの構造とを合体させると、以下のようになります。
(1)神への呼びかけ  
 「全能の父なる神様」「恵みに富みたもう主なる神様」等。
(2)祈りの内容
 ACTS(賛美・懺悔(告白)・感謝・祈願)+代祷を意識して、この中から組み合わせる。
(3)結びの言葉
 「主イエス・キリスト(のみ名)によって(祈ります、この祈りをみ前にお捧げします)」等。 
 皆さん、ぜひ、これまでのことを参考に自分の言葉でお祈り(自由祈祷)してみてください。祈りとは父なる神様との対話です。肉親と話すように率直に語り合ってほしいと思います。

 

復活節第3主日 主教巡杖・堅信式『キリストの証人として生きる』

 本日は復活節第3主日です。新町聖マルコ教会では、主教巡杖及び堅信式がありました。堅信を受領(按手)されたのはアントニオ栁井孝幸兄です。

 新町では2年ぶりの主教巡杖及び堅信式でした。堅信式後のご本人の挨拶で「天国で両親が喜んでくれていると思います」との言葉が印象的でした。聖堂が喜びに溢れました。参列した皆さんもうれしそうでした。

 礼拝後は、旧幼稚園舎のホールで祝会(愛餐会)。主教様を囲んで交わりの時をもちました。

 本日の聖餐式の聖書箇所は、 使徒言行録3:12-19、詩編4、ヨハネの手紙一3:1-7、ルカによる福音書24:36b-48。前橋の教会は、信徒奉事者の司式による「み言葉の礼拝」でした。そこで私の説教が代読されました。その原稿を以下に記します。復活したイエス様が私たちと共に歩んでおられることを知り、キリストの受難と復活、また悔い改めを宣べ伝える「キリストの証人」として生きることができるよう祈り求めたいと思います。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 マッテア教会では、この4月から第二日曜は以前のように「み言葉の礼拝」
となりました。信徒による聖餐式の前半部分を中心とした礼拝です。信徒奉事
者による司式で、今月については福田司祭の説教代読とさせていただきました。
 
 説教の本題に入ります。本日は復活節第3主日です。本年はB年ですので、聖書日課はマルコによる福音書が中心ですが、今回はルカによる福音書24章36節以下から採られております。
 こんな話でした。
『イエス様が十字架で亡くなった3日後の夜、弟子たちは集まって「全ては終わりだ、これからどうしたらいいだろうか」と考えていたと思われます。その時にイエス様が、彼らの「真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』」とおっしゃいます。最初は亡霊を見ているのだと思って恐れましたが、イエス様と話し、イエス様の傷跡や魚を食べるイエス様を目撃するうちに、弟子たちは「イエス様が本当に復活した」と、実感しました。そして、イエス様は弟子たちに言いました。46節の後半から48節です。
「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる。』あなたがたは、これらのことの証人である。」と。
 つまり、イエス様の復活を目撃したあなたがたはメシア(キリスト)の証人なのだ、というのです。これが今日の箇所の結論でした。

 今日はこの「キリストの証人」ということにスポットを当てて考えたいと思います。
 ここの「証人」のギリシャ語原文はマルチュレスで、動詞「マルチュレオー」の名詞形です。「マルチュレオー」は「事実や出来事を確証し、証しする」の意味です。 証しする内容・対象がキリストであれば、イエス様の生涯に起こった出来事を単に「証しする」だけでなく、イエス様とは誰なのか、その本質はどこにあるのかを「証しする」ことを含んでいます。
 48節の「これらのことの証人である」の「これらのこと」とは何でしょうか? それはその前の46・47節にある通り、キリストの受難と復活、また悔い改めが宣べ伝えられることです。悔い改めとは、神に立ち帰ることです。
 神様はイエス様を通して、私たちの背きと罪を拭い去り、「立ち帰れ」と呼びかけています。神様のこの呼びかけを証しする証人として、弟子たちは遣わされていきます。本日の旧約聖書代用で読まれた使徒言行録3:19には、こうあります。ペトロが民衆に語った言葉です。
「だから、自分の罪が拭い去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」
 ここではイエス様の一番弟子のペトロが罪が拭い去られるように、つまり罪が赦されるように悔い改めるように、言い換えれば、神に立ち帰るように呼びかけています。
 そして、それは現代のキリストの弟子である私たちにも向けられています。

 私は、今日、悔い改めて神に立ち帰った一人の「キリストの証人」を思います。その方はヨセフN・Mさんです。N・Mさんは昨年のクリスマスにご自宅で洗礼を受けられました。先週の月曜、8日にI病院の緩和ケア病棟に入られ、その翌日9日に病室(個室)にお見舞いに行き、塗油をさせていただきました。中川さんの名親(教父)であるN・Sさんも一緒でした。N・Mさんは最初は目をつぶって黙っておられましたが、油を塗るときに、私が「父と子と聖霊のみ名によって、あなたに聖油を塗ります。アーメン」と言うと、私の声に続いて「父と子と聖霊のみ名によって」と言って十字を切っていました。N・Mさんは食事の前には「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」と言って十字を切って祈っているとのことでした。Nさんは洗礼を受ける前の学びでも、すべてを主にゆだねる姿勢があり、悔い改めて神に立ち返る信仰をお持ちであると感じました。先日の病床訪問では、お祈りを終えて病室を出てから、傘を部屋に置き忘れたことに気がつき、私が静かに戻ると、Nさんは目をつぶり手を合わせて真剣に祈っておられました。悔い改めて神に立ち帰った姿を目撃したように思いました。ヨセフN・Mさんは私やご家族等に、キリスト者として信仰のあるべき姿勢を示された「キリストの証人」であると確信しました。

 聖書に戻ります。本日の福音書ルカによる福音書24章48節「あなたがたは、これらのことの証人である。」は、ギリシャ語原文をそのまま直訳すると「あなたがたは 証人 これらのことの。」であり、「証人になれ」という命令形でも「証人になるでしょう」という未来形でもありません。「あなたがたは、証人である。」とイエス様は弟子たちに断定しているのです。
 私たち、キリスト者も人生のあるときに主イエス・キリストに出会い、イエス様によって新たな生き方に導かれ、今、キリストの受難と復活、また悔い改めを宣べ伝える「キリストの証人」なのです。そのことを、私たちは意識することが大事であると思います。
 
 皆さん、十字架の3日後に弟子たちに姿を現した復活の主イエス様は、私たちにも出会ってくださり、今も行く道を共に歩んでくださっています。そして、弟子たちと同様に私たちも、キリストの受難と復活、また悔い改めを宣べ伝えていく「キリストの証人」として生きる使命が与えられています。
 神様の恵みや慈しみ、主イエス様の復活の素晴らしさを思い起こしながら、私たち一人一人が「キリストの証人」として生きることができるよう祈り求めて参りたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン