「説得力、テーマ性」が皆無の伊藤計劃『虐殺器官』

虐殺器官 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

虐殺器官』は1年ぐらい前読んだときあまり面白くないなあと思ったものの、ちょうど作者が死んでたころだったので Web に感想を書くのは控えていたのだが、最近書店で平積みになっているのを改めて読んで、やっぱこれおかしいよなあと思ったのでちょっと書くことにする。
もっとも総評としては文庫版解説に載ってる小松左京の評

肝心の「虐殺の言語」とは何なのかについてもっと触れて欲しかったし、虐殺行為を引き起こしている男の動機や主人公のラストの行動などにおいて説得力、テーマ性に欠けていた。

で大体言い尽くされてるのだが。

まずあらすじはこんな感じ、
テロ対策のため管理社会化が進んだ近未来。それまで何の火種もなかった国、再建に向けて動き始めていた多くの国で突如虐殺が始まった。そしてその影に見え隠れするジョン・ポール。アメリカ特殊部隊隊員である主人公は彼を追う過程で、彼が「虐殺の文法」を広めていること、そしてその理由を知ることになる。

「虐殺の文法」

まず、作中で「虐殺の文法」というのが出てくる。虐殺が起こっているところでは虐殺する側もされる側も言語が一定の傾向(虐殺の文法)を示すことになる。だから逆に「虐殺の文法」を広めてやれば虐殺が起こるのだ、と。

これ自体は面白いアイデアだと思うのだが、その「虐殺の文法」の詳細は一切語られない。本当に全くと言っていいほど語られない。せいぜい言語の進化論的解説が延々と続くことから、「言語ってのは本能的なもので、人間にはもともと虐殺を起こす素質があるから、言語をいじくればその素質を呼び起こすこともできるんじゃねーの?」ということがおぼろげながらに推測出来る程度だ。そりゃあ人を虐殺に導く文法なんてのを考えるのは難しいだろうが、これはフィクションなんだからなんかそれっぽい理屈を並べることぐらいできなかったのか。

というか…。実際「虐殺の文法」的なものは存在する可能性がある。例えばこんな話がある。ナチスユダヤ人虐殺の際には、人間を「積載物」、虐殺を「処理」、というように相手が人間でありそれを殺しているのだということを意識しないような表現を用いていて、虐殺される側であるユダヤ人も現実逃避のため焼却所を「パン屋」、ガス室に送り込まれる者を「モスレム」と言ったり、「優遇された輸送」「私は暗黒を見る」「ドラマの終幕」など婉曲表現を多用して、自分の死を直視するような言葉の使用を控えていた。

だからこういうのを出して、「こんなふうに虐殺が起こってるときは相手を非人称化する言葉が使われるんですよ、だから逆に相手を非人称化する言葉が使われるようになると虐殺が起こるんですよ」とか言ってくれれば、こちらも「そういうこともあるかもなあ」と思うのだが、そういうのが一切ないのだ。

ジョン・ポールの動機

さらに、虐殺を広めている敵役のジョン・ポールはこんなことを言う。自分はアメリカを守りたい。だからアメリカに対してテロを起こしそうな国で内戦・虐殺を起こし矛先がアメリカに向かわないようしたのだ、と。

が…恐るべき事に彼が虐殺を広めた国が過去アメリカにどういう事をされ、どういうふうにアメリカを憎んでるのか、という話は一切出てこない。ナイキとかアメリカのグローバル企業が低賃金で後進国の人間を働かせていて〜という話すら出てこないのだ。作者は貧しい国はすべからくアメリカにテロを起こすものだとでも思ってるのだろうか。

だいたいテロなんてのはパレスチナ自爆テロから加藤智大にいたるまで未来に希望が見えない状況で起きるものだけど、なんで困難を乗り越えてようやく未来へと歩き出そうとしてる国の人間が「よし、アメリカにテロを起こそう」と思うのか。当人が言ってるとおり、テロが絶望から起こるものならむしろ内戦で希望がなくなった国のほうがテロを起こしやすくなったっておかしくはないだろう。

あるいは豊かな国であるといことはそもそも貧しい国を搾取しているということだ、という話なのかもしれない。それ自体はわからなくはないが、だが果たしてそれがテロを起こすところまで行くのか。「日本は豊かだから」という理由で日本にテロを起こした外国の人間がいるだろうか。

結局そうした国に内戦と虐殺を広めればテロが減るという根拠として出されるのは、「(作中世界では)内戦が起きてから実際にテロが減っている」ということ。要するに現実にそれを支持する証拠はないということだ。

もちろんこれはフィクションなのだが、現代の世界の問題をリアルに描いた〜とかいう宣伝をしておいてこれというのはどうなのか。

主人公のラストの行動

さらに輪をかけて意味不明なのが主人公のラストの行動だ。最終的にジョン・ポールが死に、主人公は「虐殺の文法」を手に入れるのだが、そこで主人公が何をするかというと、なんとアメリカに虐殺の文法を広めて内戦を起こすのだ。「アメリカ以外の世界を救う」という名目で。

そりゃあ虐殺が広まったのはジョン・ポールが「アメリカのため」行動したからだが、これは彼の勝手な行動なんだからアメリカに責任はない。というか、仮にあったとしてもひとりひとりの国民が死を持って償わなければならないと言うことにはならない。もちろん世の中には「『日本は悪いことをした』から『原爆を落とされても仕方がない』」という論理展開になんの疑問も覚えない人というのはいるが、主人公はそこまで頭の悪い人間ではなかったはずだろう。

さらにいえばこの小説内のアメリカは(初期にジョン・ポールに資金援助をしたことを除けば)むしろ虐殺を止めようと頑張っていた側なのだから、それを無力化したりすればますます状況が悪化するということがわからないのだろうか。

「もうアメリカは世界に迷惑を掛けることはできない」。はあ。でも、迷惑をかけることができないかわりに手助けすることもできないんですけど。あるいはアメリカにはNGOがたくさんあっていろいろ支援活動してたりするけどそういうことは考えないのだろうか。だいたいアメリカが突然なくなったら仮に最終的には良い方向に落ち着いたとしても、それまでは政治的・経済的に大きな混乱が起きて紛争やら経済混乱やらでたくさんの人間が被害にあうと思うのだが、そういうことは考えないのか。これならまだ「僕は内戦を行うすべての国に対して武力介入を宣言する! 僕の本当の戦いはこれからだ!」というエンドの方が良かったんじゃなかろうか。

だいたい、アメリカで虐殺が始まったところですでに虐殺が始まってしまった国で虐殺が止まるわけでもない。というか主人公は「虐殺の文法」を手に入れてるのだから、言語学者と協力してそれを解除する方法を探すとかなんかやることがあるだろう。結局のところ主人公の行動は何重もの意味で無意味なのだ。

自分は最初このラストを読んだとき「はあ?」と思いながらも、作者自身わかった上で書いてるかもしれないとも思ったのだが、しかしこれが「衝撃のラスト」扱いされてるところを見ると、仮に作者はそのツモリだとしてもどうも少なくとも多くの読者には真面目に受け取られてるようなのだ。個人的には「唖然とするラスト」の間違いだと思うけど。



それにしてもこう考えていくと小松左京の評はほとんど作品の全否定な気がする。「虐殺の文法」にせよ、敵役のジョン・ポールの動機や主人公のラストの行動にせよ、作品の中心となる根幹に関わる部分なんだから、そこがダメと言うことは要するに全体的にダメということではないのか。

他にも「ナチスの虐殺にはIBMのシステムが不可欠だった」とか本筋と関係ない知識の羅列が延々と続くところとか、主人公が母親を尊厳死させたことを必要以上に気にしてるところとか(というかカウンセラーは「尊厳死」という言葉ぐらい教えてやれよ)いろいろ不満はあるのだが、長くなったのでとりあえずここまで。