子供

朝。
荷物が届いた。
それは夫の実家からで、中にはきれいな桃が入っていた。
この時期になると、毎年送ってくる。

夫の実家は遠いので行き来も少ないし、夫の兄弟が実家周辺に
住んでいるので割と私たち夫婦は、いい意味で見放されている。

お義母さんに電話を入れる。
かける前にいつも、少し言うことを整理しながら。

夜。

夫は、その日、日付が変わるまでずっとテレビを見ていた。
彼はテレビがスキだ。
あたしはほとんど見ない。
リビングの大きな液晶のテレビも彼が買うと言い出して買ったものだ。

乾燥機がピーっと音を立てたので、あたしはまだ暖かい洗濯物を
取り出して、少しほっとした。
こういう小さなことにほっとする。

夫との寝室は、ベットがふたつ。
ダブルベットを買わなかったことを、今では半分後悔し、半分よかったと
思っている。
二つベットを買おうと言い出したのは夫だった。

「俺、寝付き悪いし、しかも仕事とかで遅くなったりすることも
あると思うから、ベットは二つがいい」
彼はそう言った。
あたしは、すぐに同意した。
どちらでも、大した差はないと思っていたから。


夫はリビングで、ウイスキーを水でずいぶん薄くしたものを飲みながら
洋画を見ていた。

「まだ起きているの?」
時計は0時を回っている。

「ああ、うん」
テレビを見たまま夫が答えた。

あたしは、一人寝室に引き込んだ。
携帯を見る。
何にも入っていない。

携帯が気になるなんてどうかしてる。
今までになかったことだけに、少しだけまだ動揺する。

本当は今日夫に言いたいことがあったのに。
お義母さんのこと。

当然だけれど、夫の両親はあたしたちが6年もの間子供を作らないので、
もう半分疑いだしている。
子供ができないのではないか・・・と。

両親は、息子が一番かわいいので、そうなるとあたしに問題があるか
もしくは、あたしがそういう行為を避けているか。
どちらにせよ、問題は「あたし」だ。

「マサキさん、最近の人は働きに出ている人も多いから
そういうので子供ができにくい人も多いみたいだけど、
マサキさんの場合は家に居るわけだから。
・・・・一度病院に相談してみるのも」


強引に布団にもぐりこんで、あたしは目をつぶった。
ラベンダーの匂いの中で。
ラベンダーの匂いをいいにおいと言ったユウキを思い出しながら。

夫の帰り

夫の帰りは、その日10時過ぎだった。

あたしは、シャワーを浴びていて、しかもラジオを聞いていたので
ちっとも夫の帰りに気がつかなかった。

物音に気がついて、キッチンに行ったら夫が、夕食を温めなおしていたところだった。

「お帰りなさい。気付かなかった」

「ああ」

夫はあたしが来たと同時に、キッチンから離れてソファーに座ってテレビをつけた。
そうして、缶ビールをプシュッっとあける。

ビーフシチューを作っていたので、温まったそれを皿に移して、フランスパンを
オーブンに入れた。

ビーフシチューを夫に差し出して、
「今、パン焼けるから」
というと、
「ああ」
と言いながら、夫はビーフシチューを食べ始めた。

夫婦の長い時間。

ほとんど会話がいらなくなってしまった。

別に気詰まりな空間でもない。

あたしが焼けたパンを差し出して、
「あ、いけない」
とサラダを取りに行くと、
「あ、他のはいいよ。」

「今度さ、出張あるかもしれないんだよ」
夫がシチューを啜りながら言った。

「え?どこへ?」

「XXの支社、前にも行った、
だから準備しといて」

夫のスーツのクリーニングや、出張の準備、あたしはそういうものを
怠ったことがない。
いつも、ちゃんとしたバッグに、きちんと整頓して渡す。
スーツも定期的にクリーニングに出している。
靴もある程度底が減ったら、直している。

そういうことを、多分夫は知らない。
いや知っているけれど、
当然だと思っているかもしれない。

久々の出張だった。
あたしはユウキを思った。
そうして、何だかすごく不謹慎な気がして動機がした。

ウサギ小屋

ユウキの小さなウサギ小屋みたいな住処の中で
あたしたちは、雨の中、インスタントコーヒーを飲んだ。
ひんやりとした部屋だった。


「ねえ。いつも仕事って終わるの早いの?」
あたしが聞いた。

「うん。朝が早いから」

「そっかー。あたし働いたことないから、何だかほんっと
仕事ってものがどういうものか分からなくて。
すごいよね。仕事ちゃんとやってんだもん」

「一回もないの?」

「うん。」

「お嬢だなあー。っぽいけど」
ユウキが眉間に皺をよせて笑う。

「違うよ。結婚したの早かったの」

結婚。って言葉を使うと、何だか決まり悪い。


ユウキも黙った。

夕方。
まだ明るい夕方。
雨の中。
あたしは、夫以外の人と何をしているんだろう。

ユウキが、なんかテレビでも見る?
と言いながら、リモコンを探して、そうして、あたしの側のリモコンを
発見して、そうして、あたしを見た。
目をまっすぐ。

いつもよりきりっとした表情で。

2秒あと、ユウキが、すすすっとあたしの元にやってきて
おでこにキスをした。

まぶたに。
頬に。
首に。

そうして、見詰め合ってあたしたちは、キスをした。
ユウキがさっきから、ずっとこうしたかったことを
あたしは実はわかっていた。
でも、自分から手伝ってあげないのは、あたしが意地悪で
ずるいからだ。


ユウキは服を脱がせる時、いつも少し慌てているような感じがする。
もう爆発しそうな何かを秘めているような、そんな感じ。


セックスをしながら、何度も何度もユウキが
あたしの名前を呼ぶので驚いた。
あたしは、そんなにセックスの途中にものを言われたことがなかった。

ユウキは時にかわいい。
あたしは、男の人がかわいいものであるということを
知らなかった。
甘えたりされたこともなかった。

「今日、マサキさんが、俺のことユウキって呼んでくれて
嬉しかった」

「ねえ。あなたって誰に対してもそう?」

「そうって??」

「素直に甘えたり・・・とか」

「うーーん・・・。違うと思う。
マサキさんにだけかもしれない」

「どうして?」

「うーーん・・・。大人っぽいからかな?
男って結構年齢気にしてたりするからなー。
俺は年下の子としか付き合ったことがないんだけど、
そうなると、しっかりしなきゃとか、リードしなきゃって思う気持ちが
強くなるような気がする」

「うんうん。それで?」
あたしは、少しだけ身を起こして聞いた。
ユウキがくすくすと笑う。

「なあに?なんで笑うの?」

「だってさ、マサキさんってほとんど何にも聞かないじゃん。
なのに、ほんとはイロイロ普段から知りたいって思ってる方だよね?
いろんなこと聞いてくるじゃん?これは?あれは?って」

「うん、それは・・・。あたしが世間知らずだからだよ」

「だけど、どうでもいいことばっかりで、っつーか一般常識みたいなものばっかりで。
ちっとも俺のこっち側に来ない。」

ユウキの言わんとすることはよくわかる。
あたしは、すぐにはじけて消えてしまうような話しかしない。
深く深く残るような言葉を言わない。

あたしの顔が曇ったのを察して、ユウキが話題を変えた。

「マサキさんの下着ってさ。なんっかセクシーだよね?」
ユウキがブラジャーの肩ひもをつーっとゆびで撫でた。
話題を変えたかったわけではなく、変えさせた事にあたしは胸が痛くなった。

「ね?」
ユウキが顔をのぞかせる。
きれいな鼻筋をしている。

「そうかな?」

「男だからよくわかんないけど、こんな風なのってあんまり
見たことない。上手くはいえないけど。なんかスキ」

あたしの下着は総レースのものだった。
肩ひもも、全部レース。
ユウキが聞いたらきっとビックリするような値段。
下着も、いいものを・・・と思うとお金がかかる。
うちの夫は、多分下着がピンきりだけれど、高いものは高いと
知っている男だと思う。
だけど、ユウキは多分そんなこと知らない。
今までの彼女だって、多分普通の可愛らしい下着を身に着けていたのだろう。

男の人は、下着の値段なんて知らなくていい。

「ありがと。でも、あんまり見ないで」
あたしが笑うと、ユウキはさっとあたしの胸に顔を埋めた。

「いい匂いがする」
ユウキがもごもごと言う。

「ちょっと。やだ。くすぐったい」

「この匂い何?」

「下着を洗うときに少しだけ香りをつけるようにリネンウォーターを
入れるの。だからラベンダーの匂いが」

ユウキが少し顔を上げた。
上目使いのユウキの顔は、眉がきりりとしていてとてもハンサムだと思った。

「連絡先教えて。
また会ってよ、それだけでいいからさ。
マサキさんといると、すごく嬉しいんだ。
わかんないけど。今までなかった気持ちなんだ。
ただ、コンビニで待ってるだけってのは正直辛い。
もう、会わないつもりなんじゃないかっていつも思う」

「うん」
あたしは小さな小さな声で答えた。
ユウキも我慢しているんだと思ったら、可愛そうになった。

あたしはユウキに携帯の番号を教えた。
ユウキの携帯にあたしの携帯から電話をかけて、
「ありがと。約束は守る」
とユウキがそれをその場で登録した。

夫の居る時間帯には絶対に電話やメールをしないと約束したユウキ。

「守る。マサキさん、一回でも破ったらもう二度と会ってくれないような
そんなオーラあるし。携帯の番号も平気で変えそう」
ユウキが笑った。

「あたしってそういうイメージ?」

「うん」
ユウキは連絡先が聞けただけでとても嬉しそうだった。

「帰るね」
あたしは雨の止んだ外に飛び出して、また現実の世界へと戻っていった。

臆病でずるい女

電話が鳴った。

お昼間だったので、勧誘なんかの電話かと思ったら、
友人Aだった。

「どうしたの?」

「今度うちでバーベキューしよっかってヒロくんと言っててねー」

Aは自分の旦那のことを「ヒロくん」と呼ぶ。
まだ新婚の域の二人。
Aは、マンションではなく一戸建てに住んでいるから、そういうことも
できる。
Aは、あたしの高校来の友人だけれど、あたしたちはいわゆる
「お嬢様学校」といわれる所に行った。
あたしは普通の家だったけれど、Aは本当にお嬢様だった。

結婚しても、家柄ってモノは左右するらしく、
Aの一戸建ては、彼女の両親が建てたもの。
旦那さまの稼ぎでは到底無理だと、Aがからからと笑って言った。


夜。
あたしは、夫にその事を告げた。
「Aが、家でバーベキューをするって言ってるんだけど、
〇日行けるかなって。その日は休みだよね?」

テレビを見ていた彼が
「仕事が入るかもしれないし、俺はいいや」
と言った。
仕事っていうのは言い訳で、行きたくないんだ。
そう思ったら、どっと疲れた。

Aと、昔言っていた。
「どっちもいつか結婚してー、夫婦共に会ったり、バーベキューしたり、
仲良く出来たらいいよね?」

あれから10年以上が経ち、そのときがやってきたけれど、
あたしのパートナーはそういうことを望んではいなかった。



思った事を、ぽんぽん言うのが苦手だ。

あたしは、一度飲み込む癖がある。
飲み込んでしまうと、もう、言葉を吐くのもいっかーっという
面倒くさいような気になってしまって、結局のところ、あたしはものを言わない。

あたしは、すべてのことにエネルギーを注いでいけるタイプでも
ない。

もし、あたしが後先省みず、噛み付いたり怒ったりできたのなら
あたしと夫の今の関係も変わっていたのかもしれない。

夫と22で結婚したこと。

後悔しているのか、していないのかさえ、結局のところ、
あたしは分からないのだ。

どこかで、ユウキの存在でそれを確かめたいのかもしれない。
とてもずるい女。


ユウキのことがとても気になる。
一緒に居ると、とてもほっとする。
心地いい。

だけど、一方で、あたしは家庭を壊せないこともわかっている。
これはあたしの性分みたいなもの。

それを壊す日がくるのかどうなのか
あたしにもわからない。





ユウキと会ったのは、次の日だった。
雨が降っていて、買い物に行くのも面倒だなあーーっと思っていた。

雨が止んでから・・・と思っていても一向に止まないし、
クリーニング屋にも行かなきゃいけないし。
傘を差して、渋々出かけた。


クリーニング屋さんを出たとき、コンビニからユウキが出てきた。
一週間ぶりくらいに見た。

ユウキはビニール傘をぱっと開いて、こっちに小走りにやってきて、
少し笑った。

きょとんとしているあたしに向かって、
待ち伏せしててよかった」
と言った。

あたしは、ほとんど泣きそうになりながら笑った。小さく。
不器用な人なんだと思う。

「100万回の1回目のキス」

彼のアパートは、ここからそんなに遠くない。
ちょっと歩くけど、歩いていけるくらいの距離。

あたしたちの共通点といえば、
木曜の魚屋の出店の日と、コンビニくらい。

夫は早いと9時ごろには帰ってくる。
仕事で泊り込むという日もたまにある。
飲み会だと言って、深夜に帰ってくる日もある。

だけど、実際のところそれが仕事なのか、なんなのか
あたしは知る由もない。
夫の仕事のことも、同僚の人もよく知らない。

女の勘が働くような人ならともかく、あたしはそういう事にも
疎いような気がする。


ユウキと会ったのは、それからしばらく経ってからだった。

いつものコンビニで。
あたしはコンビニの先のクリーニング屋へ向かっていて、
コンビニを通り過ぎたら、ユウキがコンビニから出てきた。

待ち伏せしていたかのように。

「たまに、マサキさん通らないかなーって寄ってて、ここ。
よかった。」

彼はどういうつもりなんだろう?
一瞬怖くなった。
これから先、どういう風にあたしと付き合っていくつもりなの?

「話がしたかったから」
ユウキが控えめにものを言うと、あたしは、何でも聞いてあげたくなる。
やっぱりユウキに惹かれているような気がする。

「ちょっとでいいから、家に寄らない?」

「じゃあ・・・、クリーニングだけ取ってくる」

ユウキの部屋は少しだけ片付いていた。
「片付けたの?この前よりきれいになってる」

「うん。ちょっとね」

小さなテーブルを囲んであたしたちは向かい合って座った。

「連絡ちっともくれないんだもんなー」
ユウキがふざけたみたいに言う。

「あの・・・。あたし一応結婚してるんだよ」

「分かってるよ」

自分が言おうとしていることがすごく薄っぺらくて
説得力がないことがわかったから、それ以上は言わなかった。

「分かってるけど、俺、マサキさんに会いたかったから。
それだけなんだけど。
結婚してて、旦那がいるんだーーーって思うと、正直
落ち込むこともあるけど、だけど、俺は」

そこまで言って、
「あーーー。何言ってるのか自分でも訳がわからなくなってきたっ。」
と止めた。

自分の為に何かを一生懸命話す人がいるのはやっぱり嬉しい。

結局あたしは、ユウキの彼女のことや、ユウキのこと自身を
何も聞かなかった。

あたしが帰ろうとしたとき、小さな玄関に腰掛けてミュールを
はいていたあたしに、ユウキが巻きついてきた。

うしろから覆いかぶさるように抱きしめて、
首筋にキスをしてきた。
「え、あ、ちょっと」
とあたしは慌てて、首をすくめた。

「なんか、マサキさん見てると、無性に抱きたくなる」

「え?うそだよ。」

「ほんと。セクシーだと思う。鎖骨とか出てて、色が白くて
美人で、でもぎらぎらしたタイプじゃなくて、控えめで目立つタイプ」

「褒めすぎ」

「いつも思う。裸にしたい。裸にしたいって」

あはははとあたしは笑った。
ユウキも少し笑った。

ユウキはあたしに隙が出来たことを瞬時に嗅ぎ取って、
自分の手をあたしの服の中に滑り込ませてきて、そうなると
もうどうしようも止められなくなるみたいで、一気に興奮してしまう。

若い男の人だなあーーと思う。
そういうしぐさにどきどきする。

夫と二人で結婚式に出席した週末。

あたしは水色のスーツを着た。
夫は黒のスーツ。
あたしと夫は背が高いので、こういう場に行くと結構目立ってしまう。

あたしは夫の妻として何人かの人に挨拶をした。
夫の会社の方と、そのご夫人。
ご婦人はもう50歳くらいで品のいい顔で微笑んだ。

「まあ。なんてスタイルのいい奥さんだこと。
お綺麗な方ねえ。最近の奥様は若いわよねえ。
お子さんいらっしゃるの?」

「いえ。うちは、まだ」
夫が答える。

「そうなのね。まだお若い方たちだから。
ゆっくり今の時間を楽しむのも、今風なのよね?」

ゆったりとした笑顔であたしに微笑んで、
夫婦で肩を並べて去っていった。


たまに思う。
夫は、あたしという「妻」という立場が欲しかったんじゃないかと。
例えば、あたしがとっても太っていたり、ちっとも可愛くなかったら
この人はあたしと結婚しただろうか?
そういうものを、この人からは感じる。
たまに。
こういう場で。



6階のマンションのベランダから、
水色の空と白い雲を眺めて。
ユウキに会いたいと思った。

だけど、あたしは自分から連絡することもしなかったし、
彼にはあたしの連絡先は教えていなかった。

彼はただ、あたしの連絡を待っているんだろうか。

それとも、あの時の台詞はあの時だけのものだろうか。

あの夜だけで終わらせることはできる。
何の約束もしていないし、向こうも連絡がないのだから
そういうものだったと解釈しているかもしれない。

もう一度こちらから連絡をとるのは、なんとなく、
なんとなく、いけないことのような気がした。
不倫だから・・・
とかではなく。

ワイドショーを見ても、ドラマを見ても、自分には関係ないと思っていた
「不倫」
それに、出会いなんてないし、こんなテレビみたいなことは普通には
起きないこと。
そう思っていた。

暇つぶしというより、気を紛らすために友人のAに電話をかけてみた。
Aはあたしの友人たちの中で、唯一の既婚者。
あたしとA以外はまだ独身。
Aは結婚して2年目。

ドラマの話や、最近読み始めた本とか、そういう他愛もない話と
Aの夫の話をした。

結局。
あたしはAに、ユウキのことを言わなかった。

ほんとは、どっかで、それが言いたくてかけたのに。
Aは、なんて思うだろう、と思うと怖かった。
学生のころからいろんなことを話してきたけど、
結婚してしまうと、恋愛話もなくなったし、あたしたちは
ほんとに、食べ物や、テレビや、健康の話や、ほんとにそんな
話題しかしなくなった。

Aは最近食欲がないので、「今日はそうめんにする」と言っていた。


あたしは、あのスーパーには行かなかった。
なんとなく、照れくさかったし、現実を見るのも少し嫌だった。

彼の携帯番号は、メモリーには入れなかった。

手帳の隅っこに、アドレス帳でもないところに、暗号みたいに
文字だけを並べて書いた。

夫以外

彼の名はユウキと言うんだってことを、あたしは事の後に聞いた。

ユウキが後ろからぎゅっと抱きしめてきた。
あたしが服を着ようと起き上がろうとした瞬間だった。

「きゃっ」
あたしは少し驚いた。

「どうしたの?」
少し振り返ったら、ユウキがあたしの背中に顔を埋めて
あたしのおなかに手をまわしてきた。

「俺、マサキさんが好きだ。ずっと気になってた。
ほんとは。」

あたしの心臓がどくどく言ってて、緊張しているわけでもないのに、
どくどく言っていて、
ユウキが
「ドクドクしてる」
と言った。

「だから、嬉しい。こうなれて、すごく嬉しい」
ユウキはおなかの手をあたしの胸に伸ばしてきて、
嬉しそうに「嬉しい」といってそれを揉んだ。
「やわらかい」
って言いながら。

あたしも嬉しかった。
恋愛ってこんなにふわふわして、楽しかったっけ?

ユウキに彼女がいても、あたしに夫が居ても、別にそれと
これとは結びつかないような気がした。

ユウキが、こんなに甘えん坊な一面があることも初めて知った。



あたしは、深夜自分のマンションに帰って、風呂に入った。
家に帰った途端、自分がやったことにドキドキした。
夫にばれるわけでもないのに、何だかそわそわした。


ユウキに抱きしめられた事を思い出すと、甘酸っぱいような感覚がして
鼻の奥がつーんとなった。

翌朝。
夫が帰ってきて、「寝る」と言ったっきり彼は寝室に閉じこもって寝ていたので、
あたしはクリーニング屋に行った。

いつもの日常。

あたしの。

彼の。

つまらない日常。

彼のスーツと自分のワンピースと、そういうものを抱えて、あたしは
6階の我が家へ帰る。
いつからだろう。
旦那を見ても、何も思わなくなったのは。