物集車塚古墳の墳丘を見た後は、西の斜面を上がって寺戸大塚(てらどおおつか)古墳を目指しました。
グーグルマップでは徒歩19分の表示。
最初は住宅街の緩い坂を。
小学校と浄水場を過ぎたあたりから登りがきつくなります。
この浄水場の北、ここから120mの地点に南条古墳(径23mの円墳)が残っているのですが、うっかり見過ごしてしまいました…
少し上がって振り返って。平地の対岸の丘は伏見稲荷のある稲荷山でしょう。
左右は竹林。一応車も通れる道です。
竹になりつつあるタケノコ。
その先で、西ノ岡竹林道という尾根道に合流。寺戸大塚古墳はもうすぐ。
右手に見えてきました。
道路脇の竹垣も見事。車で来ると停める場所はありません。
いろいろなデザインの竹垣が、目を楽しませてくれます。
上部が半円形のものは「古墳垣」
残念ながら垣根の先には入れません。
竹垣沿いにあった説明板。古墳時代前期の、墳丘長98mの前方後円墳です。
寺戸大塚古墳
全長98m、前方部幅45m、後円部径57m、後円部の高さ9.8m(標高84.8m)の前期の前方後円墳である。墳丘の主軸はやや西に傾いており、前方部は南南東に面している。
前方部は戦前調査され、長さ5.2m、高さ1.3m、幅0.9~1.0mの竪穴式石室が検出された。石室内からは、和製の銅鏡を初め、銅鏃・紡錘車・琴柱型石製品などが出土した。
後円部は昭和42・43年の2回にわたって調査され、主体部や墳丘の構造が明らかにされた。墳丘は三段に築成されており、各斜面は33度の角度でもって墳頂にいたる。墳頂には一辺約8.0mの埴輪をめぐらした方形の区画があり、その西辺に接して、埋葬後の儀式を行ったと考えられる土師器の供献場所もある。
後円部石室は、この方形区画の下に造られており、長さ6.5m、高さ1.6m、幅0.85~0.76mの規模を有する。石室内からは中国製の三角縁神獣鏡・合子・勾玉・石釧・管玉・鎌・鉄斧・鉄剣・鉄刀などが出土した。特に三角縁神獣鏡は、京都府椿井大塚山古墳出土のものと同笵関係にあり、同じような鏡を埋納する他の古墳ととてもに、寺戸大塚古墳の被葬者が椿井大塚山古墳の被葬者の支配下にあったものと考えられている。
現在、竹藪の土入れのため、前方部の大半が失われているが、向日丘陵に残る数少ない前期古墳として、当古墳は大変貴重なものである。
昭和55年3月 向日市教育委員会
”模式図”には埴輪も。
調査時の写真
向日市のサイトによれば、後円部と前方部からそれぞれ見つかった竪穴式石槨は、後円部は地元の西山産の板石で、前方部は大阪府柏原市産出の板石でつくられているそうです。
寺戸大塚古墳/京都府向日市ホームページ
ネット上には、講座の際の詳しい資料も(これから読ませていただきます)
https://www.kyoto-arc.or.jp/news/s-kouza/kouza242.pdf
後円部裾からパノラマで。左奥へ前方部。
くびれ部あたりから振り返って。
上記をズームで。後円部の前方部側も、かなり抉れていますね。
こんな大きな前方後円墳が、なぜこんな山の中に、と不思議に思いましたが、地図を見るとすぐ向こう側は20m程低くなって小畑川が流れる平地。そこを通る山陰道で北西に峠を越えると亀岡、その先は日本海側ともつながるルートでした。
前方部右裾(?)から。右奥が後円部。
前方部の先端側(?)だとすると、断面露出状態ですが…
その周辺の竹藪内。古墳がポコポコ有りそうな雰囲気でした。
2024年4月下旬訪問