Sensuousに生きよう。

何も考えてないように見える僕の頭の中は、日本酒が溢れ出るくらいにくだらないことで頭が一杯だ。

銀行員時代 法人営業部編⑥

退職するにあたって、まずは職場の上司への報告が必要となるが、銀行では上司を捕まえるタイミングが思いの外難しい。銀行の営業現場における中間管理職は、日中は基本的に担当者と一緒に外回りに出て部内にいないか、部内にいる時も部長・副部長からの指示への対応に追われている。外回りから帰ってくる夕方になっても、各担当者からの報告を受けたり部長も交えて案件協議を行なったりと、常に忙しいのだ。そんな上司が忙しくしている時に「少しお時間いいですか?」などと新人が話しかければ、「どうした!?」とその場で要件を求められるに違いない。僕は、その時担当先で走っていた大口案件を理由に帯同往訪をお願いし、車移動の際にさらっと辞める宣言をすることにした。

 

「実は僕、会社辞めようと思ってます。」僕は面談帰りに営業車を運転しながらさらっと上司に退職の意向を伝えた。隣に座る上司が目を見開いて「急にどうした!?」と当然の反応を示したので、横目で上司の顔を見ると、上司は驚きの中に当惑の表情を浮かべていた。嫌な顔をするのも仕方がないと思った。日頃から部内の収益目標や部下のミスについて部長らに厳しく詰められ、ただでさえストレスフルな社畜生活を送っているのに、僕のせいで余計な面倒が増えるのだ。おそらく部長に僕の説得を指示されてまた板挟みの状況に苦しむのだろう、と想像すると申し訳なさで一杯になった。結局、車内では簡単な説明に留めて、部店に戻ってから詳しい話をすることになった。

 

部店に戻るとすぐに上司から応接室に呼び出された。そこで、僕は健友と哲誠と再会してから考えてきた自分の生き方についてありのままを話した。幼い頃から同調圧力が嫌であったこと、父のようにオンリーワンな生き方をしたいということ、その上で一人の人間として銀行にこのまま残ることは考えられないということ。その上司は、僕に自分の生き方を否定されたようで本心では憤っていたかもしれないが、表情を崩すことなく頷きながら僕の話を真摯に受け止めてくれた。でも、辞めて何するんだ、と聞かれた時はすぐに答えが口から出なかった。なぜならこの時は健友と哲誠でさえ将来的に何をするのか決まっておらず、今が楽しいという理由で皆が仮想通貨の世界にのめり込んでいたからである。僕はそのことも正直に伝えた。上司は、安易すぎる、と僕を想って厳しい言葉も投げかけてきたが、決意は固いということでなんとか部長に繋いでくれた。

 

ここからが苦難の道のりだった。急遽、部長と上司と三人で個室居酒屋に行くことになり、空気の重い牢獄のような空間に押し込まれた。何もこれは僕に限ったことではなく、部長と話すのは日頃から緊張するものだ。数万という従業員が出世で争う銀行という世界で、法人営業部長にまで上り詰める人はほんの一握りである。そんな出世競争を勝ち抜いてきた知識も経験も豊富な大人を相手に、社会人経験二年そこらの若造が何かを議論して勝つことは容易ではない。プロ対アマの詰将棋のような展開で、僕の主張は尽く跳ね返された。若くして銀行を離れる多くの人がこの状況を経験すると思うが、この時に大切なことは何を言われても自分の信念を曲げないことである。「部長のおっしゃっていることはごもっともですが、僕の気持ちは変わりません。」ルール無視の逆王手である。しかし、参りました、となるかと思いきや、まさかの対局は順延されその日に決着が着くことはなかった。

 

この半年近く悩みに悩んで出した結論をまた考え直せと言うのか。あまりに酷い仕打ちである。僕は考えることを放棄した。どうせ考えても自分の決心が揺らぐだけだと思ったからである。一度は辞めると決意しても、部長や上司の説得で考えを改め、銀行に残る選択をした友人の話も聞いていた。その人を否定する訳では無いが、ここで言い包められては彼らの思う壺だと思った。彼らは自らの保身の為に僕の退職を妨げようとしているのだ。もちろんそんな人ばかりではないが、特に部長の言葉からはそれが強く感じられた。確かに正論を述べてはいるのだが、そこに僕に対する気持ちは一切感じられなかった。僕は今一度自分の選択を信じることにした。家で健友と哲誠にそのことを愚痴ると「頑張れ(笑)」と自分たちが辞めた時のことを懐かしむように笑っていた。

 

あれから一週間が経った。考え直せと言われてすぐに話をしては、何も考えていないと突っ返されるだけだと思い、時間を置いて再び上司を呼び出すタイミングを探っていたのである。外訪帰り直後の今が狙い目か、と席で隣の先輩と話しながら見当を付けていると、まさかの"上司"から先制攻撃を食らった。副部長に応接室に呼び出され、再び副部長と上司と三人で勝ち目のない詰将棋が始まった。副部長は僕があおぞら法人営業部に配属された時の元上司にあたり、配属当初からずっと可愛がってもらっていた人だった。対局時間は三時間近くにも及んだ。居酒屋でもなくただの応接室で三時間である。仮想通貨・ブロックチェーンの世界でチャレンジしたいと言うけどお前は銀行に入って一度でもチャレンジしたのか、お前の辞め方は退職して失敗する奴の典型的な辞め方だ、その二人はお前の優しい性格もわかって利用しているだけの詐欺師だ、お前はそいつらに人生を賭けれるのか、等々。他にも耳を塞ぎたくなるような辛辣な言葉ばかり防戦一方に浴びせられたが、その"上司"の本気度合いに部下を想う気持ちが垣間見えて不思議と僕の目は赤くなっていた。それでも僕の決意が揺らぐことはなかった。

 

結局、副部長との長い対局もその日で決着が着くことはなかったが、そのさらに翌週に部長に考えが変わらない旨を報告して、ようやく最後の人事部面談に行き着いた。人によっては人事部面談で怒鳴り散らされると聞いたこともあるが、僕の場合は相手も若手で終始理解のある落ち着いた面談だった。辞めることを止めたりはしない。ただし、僕の人生観を聞いて少しでも考え直す余地があるならその時は今一度立ち止まって欲しい。そんな流れの話であったように思う。具体的に覚えていない為そこまで共感する話ではなかったのだろうが、その人は若くして銀行の人事部に配属されるだけあり、ただなんとなくではなく自分なりの価値観で銀行というキャリアを選択しているのだ、という印象は残っている。また、その人は六本木界隈のベンチャー企業を顧客として担当していた経験もあり、そのような世界が夢がある一方でいかに厳しい世界かという話もしてくれた。僕の職場もこんな人ばかりであれば、もっと気概を持って銀行員生活を送れたのかなと思う。単に職場で先輩らと真剣な話をする機会を設けなかった僕が悪いのだが。彼らがどんな価値観を持って銀行で働いているのかはわからない。ただ、楽しそうには見えなかった。

 

無事、銀行を退職することが決まった。人事部面談の後には健友と哲誠と三人で喜びの杯を交わしたのだが、その喜びも束の間、最後で最大の"稟議"が残っていた。シェアハウスを始めて以降、親に「銀行を辞めるかもしれない。」ということは、実家に帰った時やLINEでやり取りする時に都度伝えてきた。今更驚くこともないだろう。でも、いつどのタイミングで家族全員に伝えれば良いのか。そんなことを考えている時に家族旅行の話を思い出した。嬉しいことに、子どもが社会人になってからは毎年家族全員で海外旅行に出かけている。父が単身赴任で海外にいてなかなか家族で集まる機会がなかった為、父の企画でどこか行きたい国に集まろうというのがきっかけだ。この年はオランダが旅行先となっていた。正直、家族旅行でみんなが楽しく過ごしている時に、僕の退職の話をするのは気が引けた。全力で楽しいはずの旅行が、急にどこか気がかりな後味の悪い旅行になってしまう。しかし、家族全員に話をするならこの時しかないと僕は思った。

 

ちょうど日が暮れ始める頃、オランダのスキポール空港に一人到着した。空港の外に出ると「I amsterdam」という言葉が僕を出迎えた。よく写真で見るやつだと思ったが、この旅で親に反対されるであろう話をすることを考えると、ようこそ、という気分にはなれなかった。そのままタクシーでホテルまで行き家族に合流した。口数が多く話で賑わうタイプの家族ではないが、家族みんなの顔を見ると今抱えている不安も全て忘れることができて、どこか心を落ち着けることができた。退職の話をするのは最後のディナーの時と決めていた為、それまでは全力で家族旅行を楽しんだ。運河に囲まれた歴史的な街並み、カラフルなチューリップの球根が軒に並ぶマーケット、水上に無数のレトロな風車が立ち並ぶ風車村、そしてゴッホフェルメールの絵画が飾られた美術館、等々。友達と旅行に来る時ほど心を全開にしてはしゃぐことはできないのだが、やはり家族で行く旅行はこの上なく幸せだった。

 

そして、最後のディナータイムが訪れた。父母と兄妹とビールを飲みながら赤みの残った肉厚のステーキを頬張る。今回の旅の振り返りや次の旅行で行きたい国の話などたわいもない会話が続く中で、僕はなかなか話を切り出せずにいた。とにかく目の前の肉の塊に集中し緊張をごまかした。どこかで勇気を出して言わなければならない。どうしよう、このままでは何も言えないまま旅行が終わってしまう。そんな心の機微を察してか、兄が僕と以心伝心したかようにキラーパスを差し出してくれた。「そういえば、剣真仕事辞めるの?」と。後は健友と哲誠と再会してから僕が考えたことを素直に伝えるだけだった。母はこの時絶対に銀行に残るべきという意見を崩さなかった。父は基本的には自分の好きに生きたら良いという意見であったが、どうしても最後まで二つの不安が消えることはなかった。その同期二人は信頼の置ける人なのかということと、仮想通貨は大丈夫なのかということである。二人については、自分では全幅の信頼を置けると思っていてもそれを父に伝えることは難しく、仮想通貨については、正直自分でもこの先どうなるのかわからない。僕自身を信じてくれとしか言いようがなかった。結局、この時は退職する意向は伝えたものの、どこかもやっと感の残る形で話は終わった。

 

想いを伝えきれていないと思った僕は、帰国してから父とまた電話で話すことにした。父は僕が物心つく前から海外を舞台に働く人だった。父の仕事の関係で僕はオーストリアで生まれ、幼少期には海外に住むこともあった。日本に戻ってからも、父は出張帰りにお土産を持って家に帰ってきたと思ったら、またすぐどこか別の国に行ってしまうような人だった。正直、高校を卒業するまではお土産くらいしか父との思い出はない。しかし、そんな父がなぜかカッコ良く見えた。大学に入り、父の昔話を聞くようになると、その想いは尊敬に変わった。詳しい父の物語はここでは秘密にするが、父のように自分らしい生き方をしたいと思った。僕は学生時代就職活動に真剣に取り組むことができなかった。このまま銀行に残っていては社会に縛られるばかりで父のように生きることはできない。だから、僕は退職という決断をしたのだ。僕の生き方をリセットするきっかけを与えてくれた仲間二人には本当に感謝している。この先不安にさせるかもしれないけど、僕を信じてまた一から応援してほしい。そんな話を涙ながらにした。父は「わかった、頑張れよ。母さんには俺から話しておくから。」と父親らしく僕の背中を強く押してくれた。

 

電話を切ると自然と目からは涙が溢れた。既に日が変わる遅い時間であったが、家の中には居られないと思い一人静かに外へ。誰かに無条件に話を聞いて欲しかったのか、僕は家の前の歩道に一人しゃがみこみ、気づけば琴葉に電話していた。突然の泣きじゃくる男からの電話にさすがの彼女もびっくりしていたが、すぐに事情を察し「親にちゃんと話せた?」と優しい手を差し伸べてくれた。男泣きしたのは大学四年の部活動で引退前に怪我をした時以来だろうか。親への感謝の気持ちと申し訳なさが頭の中で入り混じる。それだけではない。二十数年間生きてきて、ようやく親から自立できたような変な解放感と喜びも混ぜ合わさった。意外な組み合わせで出来た美味しいミックスジュースを飲むかのように、僕はこの時の感情を存分に味わった。少しでも早く親を安心させなければならない、頑張ろう。泣き止む頃にはこれまでの不安は一切無く、ただ真っ直ぐ前を向いていた。この時、何も言わず話を聞いてくれた琴葉には本当に感謝している。

 

こうして僕は晴れて銀行を退職し親からの自立を果たすことになった。きっと新人研修で武蔵のメンバーに出会っていなければ、僕は今も不満を持ちながら銀行に残りそれなりの生き方をしていただろう。もしかしたら銀行員として父のように海外で活躍していたかもしれない。しかし、彼らと出会って自分を見つめ直すうちに気がついた。大切なことは、自分が今何をやりたいのかということである。なんとなくやる訳でも、人にやらされる訳でもない。意志をもって自分がやりたいことに挑戦し続けることが大事なのだ。その積み重ねが一人の人生をその人らしいものへと変えていく。

 

最後に、僕は決して銀行を否定する為にこれまでを綴った訳ではない。銀行ほど社会的信用があり規律の守られた組織は他にないし、銀行には使命感を持って働き続ける優秀な人材も確かにいる。業務内容で言えば、若くして一般企業の社長、役員と経営の話ができる仕事は銀行員くらいだろう。福利厚生も充実し給料だって悪くない。そんな良いとこ尽くしの銀行をなぜ僕は辞めたのか。何度も言うように生き方が合わなかったからである。銀行という巨大だが狭い世界の中で、我慢を続けながら他人と比較して生きることになると思うと、将来が真っ暗になった。このように闇を抱えながら銀行で働き続ける人が多いことも知っている。僕は出会いに恵まれきっかけを掴んだが、大抵の人は五年目辺りを過ぎるとこのステータスを捨てることができなくなる。参考にはならないかもしれないが、僕の話がそんな現状に不満を持ちながら一歩を踏み出せない人に少しでも勇気を与えることができれば幸いである。

 

退職後、僕は健友と哲誠と共に仮想通貨・ブロックチェーンの世界に入り込む。そこからの話は新たな驚きと苦悩の連続でこれまで以上に面白いのだが、それを語るのはまた別の機会にしよう。

 

 

(完)

※書ききれなかったところは番外編で

銀行員時代 法人営業部編⑤

いつからか琴葉は頻繁に家に来るようになった。週のどこか一日は僕が家に帰るとピンク色の髪をしたギャルがリビングの椅子に座っていた。どうやら哲誠とは学生時代の元恋人関係にあり、東京で再会して以来会う回数が増えたらしい。最初はこれまで接したことのない人種に一歩引いていたが、彼女とは話を重ねるうちに自然と意気投合した。彼女は誰とでもすぐに仲良くなれる稀有な社交性を備えていて、出会ったばかりなのに不思議と彼女のことを昔から知っているような感覚すら覚えた。

 

彼女が家に来ると決まって食卓にはお酒が並んだ。僕が次の日仕事であることはお構い無しに、哲誠と三人で朝まで家中のお酒を飲み明かした。お酒が足りなくなると三人で近くのコンビニに買い出しに行くのだが、帰り道に哲誠と琴葉の後ろ姿を見て「ガラ悪めなヤンキーカップルだ。」と内心に思ったことを覚えている。家では何かゲームで負けた人が飲むという学生のような飲み方をしていた。決まって負けるのは頭の弱い僕か琴葉。哲誠は、持ち前の賢さでゲームにはほとんど負けないのだが、琴葉が負けた時になぜか飲まされ潰れることが多かった。

 

休みの日には健友も含めた四人で新潟旅行に行くこともあった。日中は海辺で釣りをしたり滝を見に行ったり、夜は温泉に入った後お決まりのお酒を飲んで騒いで。流行りのAirbnbを使って民泊した時には、僕が泥酔して家主に入るなと言われた部屋でなぜか寝ていたり、朝起きて家主の寝ている部屋を無意識に開けてしまったり。そんな僕の奇行もあり、帰り道には車から花火を見ることもできて、終始笑いが絶えない楽しい旅だった。この旅行に限らず、琴葉がいる時はいつも楽しかった。彼女がいる間は、銀行のことも仮想通貨トレードのことも全て忘れることができたのだ。

 

ある朝目が覚めると、何やらリビングが騒がしかった。スーツ姿に着替え出勤の準備を済ませて顔を出すと、健友が焦った表情で誰かと電話していた。篤彦だ。篤彦はこの時東京には住んでいなかったが、遠隔でトレードのオペレーションに参加していて、時折健友や哲誠と電話することがあった。この時の電話では健友はなぜかやばいを連呼していた。どうしたの、と理由を聞くと、ビットコインが暴落して信用取引追証が必要になったとのことであった。確か中国で全面的に仮想通貨規制が敷かれた時の話である。理由を聞いたすぐ後には「お金を貸してくれ。」と言われ、考える間も無く駅のATMに連行された。そこである程度まとまったお金を健友に手渡し、僕は何もなかったかのように銀行に出勤した。その時はよくお金を預けたなと思うが、今振り返れば新手の強盗である。

 

結局、そのお金のおかげもあって最悪の事態は免れたが、これを機に僕の中で現状に対する不安が急に強まった。百万を超えるお金を預けておきながら、その資金の向先である仮想通貨周りの知識が全く追いつかないのである。この時はちょうどSegwitのハードフォークを巡りビットコインが分岐するかしないかで議論が盛り上がっていた時期で、業界的にも次々と新しいことが起きていた。正直難しい、けど面白い。僕が仮想通貨・ブロックチェーンに対して持った初めての感想である。このまま銀行員としての日々を送りながらこの業界に深く入り込むには、圧倒的に時間も労力も足りないと思った。銀行員としての仕事もこの時は上司の指示を機械的にこなすばかりで、自分のキャリアにとって何のプラスにもなっていなかった。このままではどっちつかずの中途半端な人間になってしまう。"退職"という言葉が頭の中を過った。

 

一方で、別の不安もあった。健友と哲誠、二人のキレ者に果たして付いていけるのだろうかという不安である。僕は決して頭の回転が早い方ではない。彼らのスピード感に取り残される心配をせずにはいられなかった。健友は新人研修の全体スピーチでこう述べている。「僕はみんなが生きる速度の何倍もの速さで生きている。」と。自分から自信を持って言うように、彼は本当に生きる速度が速いのだ。哲誠も健友に何ら引けを取らない。銀行退職後、わずか半年でプログラミングを習得し、仮想通貨・ブロックチェーンの技術的な理解についても誰より深かった。そんな彼らに加わって、僕は何ができるだろう。考えれば考えるほど自分を卑下してしまい、銀行に残る方が何も考えることなく楽なのでは、と退職にブレーキをかける感情も働いた。

 

現状を変えたい、でもその勇気が出ない。おそらく大企業に勤める多くの人が一度は抱いたことがある感情だろう。大抵の人はここで大きな一歩を踏み出せず企業人としての道を突き進む。彼らは社会的信用や金銭的安定を手放したくないという保守的な感情をどうしても無視することができないのだ。僕の場合、あらゆる不安の壁を取り除いた最後に待ち構えていたのは、やはり親であった。親の期待に応えることがある種喜びでもあった僕にとっては、親の安心を不安に一変することがどうしても耐えられなかった。きっと親は僕のやりたいことを尊重してくれる。それを頭ではわかっていても、退職という言葉を口にして伝えることは躊躇われた。

 

そんな一歩を踏み出せない"大抵の人"の背中を後押ししてくれたのは琴葉だった。気づけば彼女とはお互いに良き相談相手になっており、僕は銀行退職に向けた話を、彼女は、後に哲誠と結婚することになるのだが、彼との話をした。この時たまたま当事者界隈で話せる相手がお互いであったというだけだが、彼女の存在は僕を勇気付けた。健友と哲誠とのことを話せば「会社としてやっていく以上、あの二人の間には絶対に剣真が必要だよ。」と僕の存在意義を肯定してくれた。親とのことを話せば「きっと親は応援してくれる、また安心させられるよう頑張れば良い。」と僕の気持ちを前向きにしてくれた。彼女の言葉で何かが変わる訳ではない。ただ、誰かに僕は大丈夫であると言って欲しかった。

 

僕はついに退職を決意した。銀行に残って自分の将来が容易に想像できる狭い世界で生きるよりも、新しく先の見えない世界で生きる方が楽しいと思ったからだ。何より健友と哲誠がいれば大丈夫だ、と思った。二人と一緒にいて自分に何ができるのかはわからない。でも、まずは必死に付いて行こう。そう考えを新たにした。親とのことについても、今の自分の想いを正直に伝えることにした。どうして退職するのか、自分が今やりたいこと、そして親への感謝。自分の心の内を全て話せば、親は全身で受け止めてくれると思った。たとえ、それが親の本意でなかったとしても。

 

次回、銀行員時代もいよいよクライマックス。職場上司とのやり取り、親とのやり取りを経て、晴れて健友と哲誠に合流するまでを描く。

 

 

(続く)

再決起

少しはこの人に追いついたかな。少しはこの人と対等に話せるようになったかな。そう思いながらいざその人を目の前にすると、急に昔に戻されたような錯覚に襲われたことはないだろうか。距離が縮まるどころか、その人との距離を余計に遠く感じてしまう。あぁ、やっぱりこの人は自分の手の届かない人なんだと痛いくらいに現実を突きつけられる。悲しい、少し前の自分であればそう思っていた。でも今は違う。その人に認められる一人の大人になりたい。30歳になった時に「素敵な大人になったね。」そう言ってもらえることができれば僕は満足だ。

 

一人の知人との再会を機にこう思った訳だが、そんな素敵な大人になる為には僕は何をしたら良いだろう。今すぐできることとしては身だしなみを整える。とりあえず自分に合った服装をしよう。その為ならお金も惜しまない。そして、健康に生きる。適度な運動とバランスのとれた食事、言うだけなら簡単だが実際に継続するとなると難しそうだ。美味しいお店を知っているというのも大人らしいかもしれない。良いお店があれば覚えるようにしよう。

 

次に、難しいが趣味を持つということだ。正直、趣味は何かと聞かれて「映画と読書」と陳腐な回答をするくらいに、僕にはこれと言って趣味がない。その知人には、自分が好きだったら趣味って言って良いんだよ、と言われたが、やはり僕の中で趣味というのはどこか造詣が伴うものという認識があり、それらを趣味というにはあまりにおこがましい。音楽・ファッション・絵画あらゆる芸術に対して関心の強い知人は、人生豊かそうで一人の人間としても魅力的に見えた。まずは局所的に興味の湧くものを見つけよう。

 

最後に、最も重要な仕事である。会社を辞めて早一年が経つが、この間に僕は少しは成長しただろうか。いや、何も成長していない。新しいスタートラインに立っただけだ。自分で大企業を辞めるという選択をして、この一年は仲間とのスタートアップ環境に身を置いた。自分を見つめ直す期間にはなったのかもしれないが、正直何一つ周りに誇れることを成し遂げていない。どこか人と違うことをして良い気になっていたが、実際は僕は周りから一歩後退しただけなのだ。

 

幸い、今の僕は発展途上で変化の著しい仮想通貨・ブロックチェーン業界に身を置いている。具体的にどのような功績と明言することは難しいが、業界の発展に貢献する新しいサービスを今の仲間と作りたいというモチベーションが改めて湧いてきた。それが業界のみならず社会に対して何か価値を提供できるものであれば、なおさら自分に自信も着くだろう。来年から労働環境は少し変わるが、僕には一抹の不安もない。僕は後ろを振り返ることなくただひたすら前を向いている。

 

さあ、頑張ろう。これからもよろしく。

銀行員時代 法人営業部編④

「やっぱり、もう少しだけ時間くれる?明日までには返事するから。」シェアハウスの物件契約を進める直前に僕は健友にそう言った。シェアハウスの話がいざ現実的になると、本当にこのまま寮を出ていいのだろうかと不安になったからである。寮を出て健友と哲誠と住むことになれば、おそらく今の生活に戻ることはできない。近く僕も銀行を辞めることになるだろう。そう考えると急に心が臆病になり、僕は自分がした決断を今一度躊躇した。健友は直前の連絡に驚いただろうが「いいよ、最後は自分で決めることだから。」と快諾してくれた。後日談によれば、実はこの時健友は激怒していたらしい。

 

僕は何も銀行を退職することに抵抗を覚えた訳ではない。僕の心を悩ませたのは心臓に刺しこまれた"親"という楔である。僕は生まれてから日本の一大企業に勤めるまでの二十数年間、何不自由することなく過ごしてきた。成功者の自叙伝では想像を絶する程に苦労した経験が人生の糧になったという話もよく見られるが、僕はこれまで何かに追い込まれて絶望したこともない。いわゆる僕はよくある中流階級の家庭に育つ子どもであったが、気づけば幼い頃から暮らしの自由と引き換えに親の期待に応えることばかりを考えてきた。そんな親に守られた子どもが"親"という楔を取り外すことは周りが思うほど簡単ではない。僕は親のことを考えると思い切った決断ができずにいた。

 

決断までのタイムリミットは一日。僕は一人寮の部屋に籠りとにかく頭で考えを巡らした。ここで寮を出ていいのか、あるいは残るべきなのか。親に心配かけることにはならないのか。そして、本当によくわからないまま二人に付いていって大丈夫なのか、等々。健友が自分の生活環境を改善する為に僕の銀行員としての立場を利用しようとしていることも理解していた。家賃が比較的高い優良物件を借りる際には、二年という短いキャリアで転職を繰り返した人よりも、何も考えず銀行に残っている人の方が社会的信用が厚いのである。それを表すように、物件契約時には僕が契約者になるという話になっていた。この時の僕は彼の目的を果たす手段に過ぎなかった。

 

そんな悲観的なこともあれこれ考えたが、想像の通り結論は出なかった。頭の中が堂々巡りになって決断しきれない自分に嫌気が差していた時に、僕は健友からのLINEを見返した。…最後に決めるのは自分。そうだ、親がどうとか、二人がどうとかは全く関係ない。大事なのは僕自身が今どうしたいかである。「契約決定で。」何かを吹っ切ったように翌日の出勤前に僕は健友にそう返事した。彼らと暮らしてこの先銀行を退職することになるかはわからない。とりあえず今は退屈な毎日に刺激を与える意味でも、僕の置かれた環境には変化が必要なのだ。そんな想いから僕は健友と哲誠との共同生活に踏み切った。

 

共同生活することが決まってまず僕がしたことは、退寮の手続きである。退寮届にあおぞら法人営業部の部長印をもらい寮長に提出するという簡単な作業であったが、僕はここで一つの嘘を付いた。退寮の理由を友人とのシェアハウスではなく兄弟で一緒に住むことにしたのである。基本的に退寮は個人の自由意志に委ねられる為、馬鹿正直に伝えても部長印はもらえたかもしれない。しかし、誰とシェアハウスするのかと部内で変な詮索をされることが嫌だった。シェアハウスする仲間が元銀行員であるからその想いはなおさらである。付き合いの長い上司ら一部の人は嘘であると感づいていたが、特に問題が起きることなくこの手続きは済んだ。

 

次に親への対応だが、僕は行員時代に退寮してシェアハウスしていたことを未だ親に告げていない。親に僕が寮を出ると言えば、特に母親から強い反発を食らうことがわかっていたからである。誰と、どこで、何で、家賃は払えるのか等先の見えないやり取りをしなければならないことが目に見えていた。幸い寮が実家に近かったこともあり、親から寮に何か荷物を送ってもらうことも、親が寮に来ることもなかったし、シェアハウスすることを言わなくても親にはバレないと思った。実家に帰った時にはまだ寮に住んでいる体で親と会話し、ここでもまた嘘を付いた。

 

二つの嘘を経てようやく三人での共同生活がスタートした。場所は田園調布。誰もが知る高級住宅街である。改札を出てから緑の銀行が見える通りの坂を下り、住宅街を抜けていった徒歩十分くらいのところに僕らの家はあった。築15年以上にはなるであろう外からは少し古びた戸建て住宅であったが、中は4LDKと三人で暮らすには十分な広さであった。そして、寮を出たとは言え銀行に通勤するという日々に変わりはなかったが、塗り直されたワックスで光を放つ床や貼り直されて白く生まれ変わった壁紙からは新生活の香りが感じられた。

 

新生活を始める上で、まず初めにすることは家具集めである。新しい家具を購入するだけのお金がなかった僕らは、今ではサービス停止となってしまったメルカリアッテというアプリを利用して家具集めを行なった。このアッテというアプリは、郵送でモノをやり取りする通常のメルカリとは違い、買い手が売り手の時間場所指定でモノを取りに行く。その分販売価格は安いのだが、これが思いのほか大変で、もう二度と使うまいと最後三人で嘆いたことを覚えている。レンタルしたハイエースを哲誠が運転して家具を取りに都内を回ったのだが、荷物を取りに行く手間と積み降ろし作業の手間とを考えると、多少お金を払ってでも業者に頼むべきであった。

 

家に一通りの家具が揃うとようやくそこに生活感が生まれた。僕はこれまでと大きく変わらず毎朝七時前に家を出て夜九時頃に帰宅する銀行員生活を送った。健友は政府関係の仕事をまだ続けていた為、銀行ほど明確に決められた勤務時間ではなかったが、僕と帰る時間もそれほど変わらなかった。哲誠は既に健友から紹介されたITベンチャーの職場を離れていて、健友の職場の補佐としてバイト的な働き方をしながら比較的自由な生活を送っていた。つまり、正社員とバイトとで自由度は違えど健友と哲誠の職場は同じだったのである。僕だけが銀行員としての生活を続けていた。

 

そんな中、僕が疲れて家に帰ると二人はいつも何やら楽しそうに会話していた。プログラミングやトレード関係の話をしているようだったが、二人が話す内容は正直僕にはさっぱりだった。共同生活を始めて早々どこか言葉の理解できない異国に来てしまったかのような錯覚を覚えた。同時に、研修の頃から二人は頭がキレると思っていたが、半年から一年という短い期間でここまで成長速度に差があるものかと銀行に残る自分への疑念が強まった。寮を出る前は二人に触れることで職場のストレスが多少和らぐと思っていたが、現実には家に帰っても余計に気の抜けない日々が続いていた。二人の会話に付いていくことに僕は必死だった。

 

僕は仕事終わりや週末を利用してキャッチアップに励んだが、なかなか二人の話し合いに参加できずいた。そんなある時健友からフィンテック関連の本の読書感想文を書くよう指示された。何の為に書くのかもよくわからないまま、僕は言われた通りに隙間時間に本を読んで感想文を書いた。この時はあまり本を読むことが好きではなかった為、学校の宿題をこなすようなストレスを感じたが、本の内容は近年のフィンテック動向を解説するもので当時の僕には大変勉強になった。本について僕が書いた内容を二人にどう見られるのか不安もあったが、幸い二人とも良く評価してくれた。この読書感想文をきっかけに、僕は後々三人の中でレポート関連の執筆を担当することになる。実際に二人と肩を並べて動き出すのはもう少し先の話ではあるが。

 

一般に言う"入社試験"のようなものを通過して以降、少しずつではあるが二人の取り組みを理解するようになった。二人は自分たちでアルゴリズムを考え、仮想通貨の自動売買を行おうとしていたのである。二人と再会する以前に、突然健友から電話が来てお金をせびられた理由がこの時わかった。彼らは仲間内から投資元本を集めては、試行錯誤する中で最適なトレード手法を模索していたのだ。今でこそ相場は落ち込みを見せているが、当時は世間的にビットコインが注目される前の時期で、仕込み方次第ではトレードで儲ける機会が世界的に広がっていた。実際に二人が考えたアルゴリズムはリスクを最小限に抑えた上で着実に利益を上げるものであり、一時期メディアで取り上げられた「億り人」程の規模ではないが相応の儲けを出していた。結果、僕も資金を投じることにした。

 

投資的な面で二人が何をしようとしているのかは理解した。しかし、この時の僕は仮想通貨・ブロックチェーンが何であるのかをよくわかっておらず、二人の議論に参加できない状況に変わりはなかった。認知度の高まった今日ですら一般に理解が難しいと言われる仮想通貨・ブロックチェーンであるが、銀行員生活で衰えた思考力では到底すんなり頭に入ってくるはずもなく、いつになったらマラソンで先を走る二人の背中が見えてくるのだろうと不安になった。そして、その気持ちはいつしか疎外感・劣等感に変わっていった。

 

そんな後ろ向きな感情が芽生え始めた頃である。仕事を終えて家に帰ると一人の見知らぬ女性がリビングの椅子に座っていた。ピンク色の髪で派手めな格好をした彼女は哲誠の学生時代の友人であり、一目見て「ヤバいやついる。」と思った。しかし、いざ話をしてみるとその印象はすぐに変わった。騙されたと思って仲良くしてごらんと自分で言うように、彼女は見た目からは想像もつかない程に芯のある確りした女性だった。琴葉は退職前に僕の背中を後押ししてくれた一人の女性である。

 

次回、今のどっちつかずのままではいけないと思い、ついに退職を決意する時が訪れる。その決意に到るまでの心の葛藤をお伝えしたい。

 

 

(続く)

銀行員時代 法人営業部編③

僕に声をかけてきたのは健勇と哲誠だった。僕らは自由が丘で再会し、駅最寄で美味しいと評判のPIZZA17で看板メニューのマルゲリータを頬張りながら、互いの近況報告をした。僕にはその辺のサラリーマンと同様職場の愚痴以外に話すことはなかったが、二人は僕より先に銀行を退職しそれぞれの道を歩んでいた。健勇はIT大手企業への転職を経て政府関係の仕事に就き、哲誠は健勇が紹介したITベンチャーインターン生としてプログラミングを学んでいた。そして、篤彦と三人で合同会社を立ち上げ何やら新しいビジネスを始めようと計画している様子だった。

 

「三人でシェアハウスしないか?」健勇のその一言が全ての始まりだった。食後のコーヒーを飲みながら突然の一言に僕は驚いたが、二人の話を一通り聞いた後で自然と「その話悪くないかも。」と心の中で思った。銀行の充実した福利厚生を放棄することにはなるが、今の自分の状況を変えるにはもってこいの話であった。二人が具体的に何をしようとしているのかはわからない。しかし、一緒に住むことでまた二人から刺激をもらえると思うと少しワクワクした。「いいよ。」あまり深く考えず直観的に僕はそう返事した。

 

当時の二人のアパート契約の関係もあって、実際にシェアハウスを始めるのは七月辺りになるだろうという話であった。物件探し等は二人に任せて僕はひとまず"現実"に戻る。

 

 

銀行員三年目となった四月、いよいよ僕は担当を任されることになった。任されるといっても全社合わせて二十社にも満たない程で、それらは全て部内業績にほとんど影響を及ぼさない単独メイン先か未取引先であった。なかなか外に出れない状況を不満に思っていたが、いざ営業担当としてお客さんを目の前にすると変に緊張するものであり、先輩との引き継ぎ挨拶を終えて初めて一人で担当先を回る時には、「ちゃんとお客さんと会話ができるだろうか。」と支店研修時代の初期に記憶がフラッシュバックした。しかし、新人ということで可愛がってくれた面も当然あるだろうが、お姉様方の厚い指導のおかげもあり、お客さんと打ち解けるのにそれほど時間はかからなかった。

 

多くの新人行員が営業に出てまず始めに上司から言われることは「お客さんを知り仲良くなれ。」である。これは特に銀行業界に限った話ではないだろう。いきなり現れた営業マンにこちらの状況を無視して何かを売りつけられても、話すらまともに聞いてもらえないのは、保険営業や新聞営業を見ても明らかだ。僕はこの言葉通り、まずは顔を出してお客さんと仲良くなることに努めた。とは言え、用もなしに会ってくれる程お客さんも暇ではない。特別用がなくとも、相場や業界動向レポートといった行内のドアノックツールを駆使して、多少無理やりにでもアポイントを取り付けるのである。

 

面談回数を重ねて担当先のビジネス概要の理解が進んでくると一つの壁にぶつかる。経営者が何か悩みを話してくれた際に、経験ある先輩であればどこの行内部署・グループ会社に繋げば良いのかを瞬時にイメージできるが、新人の場合その場で即座に提案できる武器がほとんどないのである。最近の潮流から行内ではソリューション営業に徹することが重要視されているが、総じて新人は営業の武器を身につける意味でも初めはプロダクト営業に偏ってしまう。僕もまたその内の一人であり、凡その検討をつけて「この商品について話をしてみよう。」と試してまわり、行内の商品理解を少しずつ深めていった。

 

正直に言ってこのプロセスは、長い目で見た時の銀行員としての知識を蓄積するには有効的だが、成果に焦点を当てた時にはあまりに非効率である。成果を最優先に考えるのであれば、新人がやるべきことは一つ、上司を使い倒すことだ。お客さんの悩みを聞いたらすぐに上司との帯同アポを入れる、用がなくても上司のスケジュールが空いていれば帯同往訪をお願いする。子どもが親の臑を嚙るように、新人は上司の脛を齧れるうちはなくなるまで齧り続ければ良いのである。実際に僕が経験した案件のほとんどが、お客さんと上司との会話をきっかけに生まれたものであった。ここで、上司が忙しそうだからと声をかけるのをためらったり、変なプライドで上司には頼らないと決め込む新人は苦労するに違いない。

 

僕はこの点上司に頼りきっており、案件を進める過程では上司にこっぴどく怒られたが、退職するまでの半年という短い期間で新規や大口の貸金案件、運用案件、グループ会社協働案件等新人としては最低限の成果を上げることができた。これらの案件を通して特別仲良くなった担当先も何社かできて、営業マンとしての面白さを享受し始めた頃であったが、僕は最終的に退職という決断を下す。仕事が鬱になるほど嫌だった訳でも職場の人が嫌いだった訳でもない。前にも述べたが、彼らの生き方が僕の性に合わなかったのだ。頭ではこのことを理解しながらもこの決断に到るまでには長い道のりがあった。次回、健勇と哲誠との共同生活に焦点を当てながら、僕が伝統的社会すなわち"親"からの離脱になかなか踏み出せない様をお伝えする。

 

 

(続く)

独立遊軍武蔵の会合

支店研修を終えて一人一人がばらばらになった後も、独立遊軍武蔵の五人は連絡を取り合い、GWや年末年始といった休暇の間には何度か会合を開いた。車で地方観光に行き旅先でひたすらお酒を飲むだけのたわいも無い会合であったが、五人が集まるだけで「頑張ろう。」と自分を思い返すことができた。最初五人で集まった時には誰が一番早く銀行を辞めてもおかしくない状況であったが、会を重ねるごとに一人また一人とまずは関西組の三人が銀行を離れていった。関西で三人が何やら面白いことを始めようとしていることは耳にしていたが、頻繁に顔を合わせることができなかった僕は遠目に眺めることしかできなかった。

 

 

ここでは武蔵のメンバーを簡単に紹介した後、僕らにまつわるエピソードをいくつか紹介する。法人営業部編の続きが気になるだろうが、先を物語る上で欠かせない内容なのでしばしお付き合い頂きたい。

 

関西組

健勇:じっとしていられない性格で常に何か新しいことをしようと考えているキレ者。アイデアを思いつきこれをやると決めたら一直線。男子校出身の体育会系で相当の負けず嫌い。独りよがりで自分の想い通りにならないと気が済まない部分があるが、根は優しく人付き合いに不器用なところがある。旅好き。

 

晢誠:知性はもちろんのこと特筆すべきはそのバランス感覚。常に冷静で的確。自由な家庭で育ったこともあり、自分の好きなように生きている。逆を言えば、自分の嫌なことは基本的にはせず、嫌いな人とも付き合わない。優しいように見えてドライな部分があり、本質的には他人に一番興味がない。おしゃれでガラ悪め。

 

篤彦:変わり者で人との距離の詰め方が不自然。なぜか新人研修時代に僕ら四人とだけ仲良くなった。実家が自営業で不自由無い生活を送ってきたからか、どこかわがままでだらしない部分はあるが、自分の考えは明確に持っており自立している。寂しがりで人に優しい。お金はあるのになぜかケチ。

 

関東組

将一郎:左手に女、右手に酒。裏社会も知るガラ悪めの男だが、五人の中では一番しっかり者で強い。その強さはおそらく高校時代甲子園出場に迫るほど野球に打ち込んだ経験から来ている。自己承認欲求が誰より強く、お金はその為の手段として必要と考えている。車が好きで運転が得意。

 

剣真(僕):中流階級育ちのモデルケースで五人の中では一番普通、と思っていたがどうやら一番の変人らしい。頭で考えていることと口が非連結的。幼少期を海外で過ごした経験を持ち、大学までは体育会系。我慢強く負けず嫌いな部分もあるが、自己表現が苦手。流行りが移ろいやすい。

 

こんな個性がバラバラな五人が銀行の新人研修で出会ったわけだが、最初は体育会出身の健勇と僕、チンピラまがいの哲誠と将一郎、一人煙たがられる篤彦という感じで互いに見えない距離感も存在した。しかし、何がきっかけと明確に言うことはできないが気づけば皆が意気投合していたのである。その時はまさかここまでの関係になるとは想像もしなかったが、今では銀行に就職したことの意義はこの四人に出会えたことであると胸を張って言うことができる。

 

武蔵で語り継がれる伝説のスピーチ

僕らには生涯忘れられないスピーチがある。それは2005年にスティーブ・ジョブズスタンフォード大学で卒業生に向けて行なったような、誰もが賞賛する立派な内容のものではない。「コイツ、何言ってんだ。」と誰もが度肝を抜かれたスピーチである。

 

僕らの新人研修の最後には、一人一人がクラス全員に向かって思いの丈を述べる場が与えられた。ワンピースのルフィのように「俺は頭取になる男だ!」と恥ずかしげも無く豪語する人やクラスの思い出を語り涙する人、配属後の不安を吐露しこれからも一緒に頑張っていこうと同期愛を訴える人など語られる内容は人によって様々である。通常このような全体スピーチの場ではその場にいる全員に伝わる内容を話すものだが、一人だけ内輪も内輪、僕ら五人にしかわからないことを話し、周りをきょとんとさせた人がいた。篤彦である。

 

彼が語った全文までは覚えていないが、簡潔に言うと「武蔵のメンバーで研修期間中に行った旅行が最高に楽しかった。お疲れっした。」以上である。あまりにメッセージ性がなく話に挙げられる残りの四人が顔を見合わせて赤面した程であったが、反応に困るその他全員には目もくれず僕らとの思い出を楽しそうに語る篤彦にはどこか好感が持てた。この時のスピーチは今もなお、飲み会の席では笑い話として僕らの中で語り継がれている。

 

取られたら取り返す

レンタカーで四国旅行に行った後、旅の締めくくりとして神戸でディナーに向かう時のことである。健勇は学生の頃から投資関係は一通り経験していて、この時も篤彦と一緒に何やら投資の話をしていた。哲誠と将一郎が疲れて寝ている中、後部座席で僕は小耳を立てて二人の会話を聞いていたが、どうも内容がおかしい。個人ブローカー経由で南米のコーヒー豆に投資したようだが、その人としばらく連絡が取れなくなっているとのことであった。

 

まさか健勇に限って詐欺師に騙されることはないだろうとそこまで不安には思っていなかったが、僕はそのブローカーの名前を聞き軽いノリでググってみた。ネット上でその人らしき写真が何枚か出てきた為二人に見せると、「コイツや!」と揃って口にした。詳しく調べてみると二人が連絡を取っていたのは被害者の会ができるほどに有名な詐欺師であった。その"まさか"であった。

 

結構な額を預けたと聞いていた為、そのことに気づいた時には二人は気が気じゃないだろうなと思ったが、二人が焦りの表情を見せたのはほんの一瞬であった。次の瞬間には二人はどうやってそのお金を取り返すかを考えており、むしろこの状況を楽しんでいたのである。いや、前向き。その後、健勇を中心に緻密な戦略を練り、結局今ではそのお金も全額ではないが一部戻ってきている。

 

カオスな状況でクラスに仲の良さをアピール 

熱海の温泉街に旅行に来ていた時の出来事である。五人で集まる時には僕と哲誠と将一郎の三人が進んでお酒を飲み、決まって僕が真っ先におかしくなる。この時も二軒目で入った温泉街でよく見かけるスナックで、僕は付いてくれた女性そっちのけでWANIMAを熱唱してハイになっていた。テンションそのままに次に向かった先はカラオケ。この辺りから僕の記憶は無い。

 

目を覚ますと僕は旅館の布団で横になっていた。こういう時に最後まで記憶があるのは健勇か篤彦である。二人にカラオケに行ってからの話を聞くと「えぐかった。」と一言。そのえぐさを物語るように、将一郎は部屋のトイレでパンツ一丁で布団に包まり眠っていた。何が起きたのか全く理解できなかったが、畳の上には片方のテンプルが折れた僕のメガネが転がっていた。ちなみにこれは将一郎が破壊したものである。

 

お酒を飲んで記憶をなくすと毎度後悔の念に襲われる。健勇がカラオケで撮った動画には、マイクを持って意味不明なことを叫びながらジョッキに入った酒と氷を掛け合う僕らの姿が収められていた。旅館に戻ってからの動画も酷く、奇声を上げながら僕が将一郎から逃げまわり哲誠に近づく姿や英語で謎のやり取りをする姿が映されていた。カオスな状況とはまさにこのような状況を指すのだと思う。

 

さらなる後悔は携帯の通知画面からやってきた。これらの動画がクラスLINEに投稿されていたのである。悪酔いしてクラスLINEも荒らしてしまったのかと深く反省したが、開けてびっくり。「みんな元気?武蔵のメンバーは楽しく過ごしてます。」と久しぶりの挨拶としては至ってまともなやり取りを僕はしていたのである。動画とのギャップがあまりに激しく皆困惑しただろうが、武蔵の仲の良さをクラスにアピールした瞬間であった。

 

 

ここで紹介した以外にもたくさんの思い出が僕らにはあり、今後も新しい思い出が生まれるだろう。僕を含め残された関東組二人も関西組を追って銀行を辞めることになるわけだが、各々がどのような道に進むのか、現在五人はどのような関係にあるのか等今後の展開から目が話せない。法人営業部編の続きに乞うご期待である。

銀行員時代 法人営業部編②

配属後の業務内容について振り返る。配属後すぐに担当を任され営業マンとして現場に出される場合もあるが、支店の時と同様にあおぞら法人営業部は大型店ということもあって、部内で行う下積み業務の期間が長かった。僕が実際に担当を持ち始めたのは配属して1年以上が過ぎてからである。その頃には残りの同期二人は担当を任されることもなく、次の部署へと異動していた。閉じられた空間から外に出るまでの道のりが長く、その道中で何度か心が病みかけた訳だが、ここではその苦悩をお伝えしたい。

※行内の審査プロセス等は機密情報に関わる為、あくまで大枠での説明に留める。

 

稟議添付資料の作成

電話応対やコピー等その他雑務を除いてまず新人が任されるのは、融資審査に使う稟議書の添付資料の作成である。担当者は社内において「なぜこの取引先に融資することができるのか。」ということを論理的に説明しなければならない。その説明書が俗に言う稟議書と呼ばれるものである。その稟議書には説明を補足する為の資料が添付されている。例えば、取引先の資産明細やグループ関係図などがあるが、これらを作るのが結構手間な上につまらない。最初の頃は企業の資産状況や商流を知る意味で重要な作業と思いながら取り組むことができたが、繰り返している内にそれが単純作業に成り下がった。それもそのはず、基本的にはマニュアルに従って決められたフォーマットに値を入力するだけの作業であり、そこから何を想像するかは担当者の力量に委ねられるからだ。僕は上司から「担当者になったつもりで取り組め。」と何度も叱られたが、先輩の補佐として部内作業に止まっている間は最後まで当事者意識を持つことができなかった。それどころか、僕はこの作業を面倒臭いとしか思えなかったのである。ひたすらこの作業を繰り返す一般職の人たちにただただ感心していた。この人たちがいるおかげで営業マンが伸び伸びと営業できていることは間違いないが、どこか非効率さを感じて仕方がなかった。

 

稟議書作成

稟議添付資料の作成をある程度こなすと次に稟議書そのものの作成を任される。これは個人的に最初の頃は面白かった。文章で論理的に何かを説明する。僕の得意分野だ。稟議書も案件ごとにある程度書き方が決まっていて、その決まりを習得するまで多少の時間はかかったが、それを身につけてからは割と退屈せずに稟議書作成に取り組むことができた。一つ大きな壁になったのが、稟議書を回覧した際の先輩・上司とのやり取りである。担当補佐として作業していた頃は僕→担当者→上司→部長席という順で稟議書を回覧したが、内容に関して当然僕も上司に詰められた。上司からの質問に僕が答えられないと上司の怒りが担当者に降りかかる。期限まで時間がない時には怒られるのを覚悟で「とりあえず俺の印鑑押して回覧しといて。」と確認無しに稟議書を回覧する担当者も一部いて、ちょっとした寸劇が部内ではしばしば繰り広げられた。確かに、稟議書を回覧しても上司からの指摘がデフォルトならば、急ぎの時にとりあえずで回覧することは理にかなっている。しかし、その度に担当者と二人で上司から叱りを受けるのは耐え難かった。僕が当事者意識を持って先輩の担当先を入念に調べ、なんでも一人で上司の質問に回答できれば良かったのだが、そこまで僕は"できた"新人ではなかった。僕の新人らしさと言えば、先輩にイライラしても何一つ文句を言わず笑って迎合した程度である。まさに一兵卒らしい最悪の対応であった。

 

現物回収

新人であっても外に出られる機会は存在する。それが現物回収である。別件で忙しい担当者の代わりに現金や契約書等を受け取りにお客さんのところに出向く。要はお遣いである。新人に許された唯一の気晴らしであり、外に出た際には缶コーヒーを片手にゆっくりしたものだ。受け取り作業は現代のデジタル化社会とは程遠いもので、手書きで決められた用紙に授受を記録する形式を取る。これにも細かなルールがあり、小さなミスであっても上司の印鑑あるいはお客さんによる訂正が必要となった。作今の事務簡略化の流れを受けてか、僕の在職期間中に何度か形式の変更が行われたが、担当者が新しい形式に慣れるのに時間がかかるような中途半端なものであった。コストの関係もあるだろうが、一早くテクノロジーによって効率化を図るべきである。以上を読んでわかる通り、現物回収とは外に出られることを除いて何の面白みもない作業である。だからこそ先輩たちも面倒だからと新人に任せる。上司は現物の授受からお金の流れ、契約内容等を学べと口酸っぱく言ってきたが、僕はその心がけを持続することができなかった。最初は目新しさから興味も湧いたが、1年以上もそれを繰り返していると思考がどうなるかは想像に易いだろう。

 

 

主には上の三つが僕が担当を任されるまでに一年以上続けて行なった業務内容である。これらを意識的に取り組めなかった僕が悪いと言う人もいるに違いない。それは否定しない。それぞれから銀行業務に関して学ぶこともたくさんあったのは確かだ。しかし、一年以上に渡ってこればかりを任されるというのはあまりに酷ではないだろうか。支店研修の時もそうだ。僕は他の同期に比べて窓口に出るタイミングも遅く、その間窓口後方で作業をするか、ATMに立つか、あるいは綺麗なお姉様方と話をしているだけであった(悪くはない)。これが大型店に配属された新人の宿命であるということも僕は十分に理解していた。おそらくあのまま銀行に残っていれば、次は海外あるいは本部に異動となり、10年目くらいまではそれなりの銀行キャリアを歩んでいただろう。そんなことも頭の片隅に置きつつ僕は我慢を続けてきたが、当然負の感情に支配された心が耐え続けられるわけもなく、僕の脳はついに思考を停止した。以下では、僕がおかしくなり始めてからの話をいくつか紹介しよう。

 

無言と作り笑顔

思考が停止してからは、僕は必要以上に職場の人間と話さなくなった。黙々と稟議関係の"作業"を進める日々を繰り返した。わからないことがあれば先輩や上司に聞くが、それ以上の会話はしなかった。中には「お前、最近元気ないな。」と気にかけてくる先輩もいたが、僕は「そんなことないです!元気です!」などと笑顔を作って見せた。自分で言うのも気が引けるが、支店研修の頃に職場の人に可愛がられお客さんにも一度も怒られたことがないという話を紹介したように、僕は割と人に好かれやすい方である。あおぞら法人営業部でも僕は多くの人に可愛がられていた。一つ下の後輩が入ってきても、先輩や上司から何か頼まれる時は決まって僕に声がかかった。「なんで僕より下がいるのに彼らに頼まないんだ。」と内心では不満に思っていたが、作り笑顔で引き受けた。それらを後輩に丸投げしても良かったが、僕は自分がされて嫌なことは他人にするまいと依頼された雑務の半分を後輩にお願いするに留めた。古い体質の会社で働く人間は僕の行動を甘いと言い切るかもしれないが、そんな彼らに僕は声を大にして言いたい。「雑務は若手に任せれば良い。」などという時代は終わったのだ。日本でも多くのベンチャー企業が成長を見せる中で、この先企業として成長し続ける為には年功序列に従った企業体質を変えていかなければならない。いつまでも戦後・バブル期の幻影に囚われていては日本は国として沈んでしまう。

 

逃避先は酒

社会人になる時に典型的なサラリーマンには絶対になるまいと心に誓ったが、気づけば僕はお手本のようなサラリーマン生活を送っていた。思考が停止してストレスフルになってからは、仕事終わりや週末に決まってお酒に逃げたのだ。職場に関係ない友人とお酒を飲んでいる間は少しばかり救われた気分になった。お酒を飲んで記憶を飛ばすようになったのはその頃からだろうか。次の日仕事であることを忘れて飲み過ぎた時には、起きたら見知らぬ街のビルの階段に座っていて、始業時間に間に合わなかったこともあった。その時は財布も失くしていて上司に怒られるのを覚悟で出社したのだが、不思議なことに軽い注意で済んだことを今でも覚えている。後から先輩に聞いた話だが、ロボットのように無表情で働く僕を上司も心配していて、ストレスで飲み過ぎたことをすぐに悟ったからであった。銀行員に限らず日本のサラリーマンの飲み会の話題は大半を職場の愚痴が占める。各々が仕事にストレスを抱えその発散をしているわけだが、傷の舐め合いとしか言いようがない。職場の人の悪口を言ったり説教をしてくる人については最悪である。非公式の場で人を蔑むか自分を持ち上げることで尊厳を守っているのだろうが、そんなことをしなければ自分を誇示できない大人はあまりにかわいそうである。僕は先輩や上司に誘われた飲み会には極力参加するよう努めたが、その度に彼らのような大人にはなりたくないという想いが強くなった。勘違いしないで欲しいが僕は彼らを否定しているわけではない。あくまで一つの選択肢として、その生き方が僕には合わなかったというだけの話だ。

 

僕はお酒以外にも数々の失敗をした。研修をすっぽかしたり営業車で物損事故を起こしたり。ここまでを読むと僕が鬱になっていたかのように思うだろうが、決してそうではない。会社への強い疑問と自己キャリアへの不安を抱きながらも最低限の正気は保っていたし、理由もなしに仕事を休むということは一度もしなかった。しかし、僕の精神状態は裏路地でチンピラに袋叩きにあったくらいにボロボロになっていた。そんな人っ気のない裏路地の暗がりを歩いていた時のことである。目の前からまばゆいヘッドライトを灯しながら二人を乗せた一台の車が僕に近づいてきた。

 

「久しぶり。俺ら二人東京に住むことになったから今度飯食わない?」

 

眩しくて一瞬誰だかわからなかったが、車に乗っていたのは独立遊軍武蔵の二人であった。異動発表があってようやく担当を任されるとわかった春先の出来事である。仲間と再会して以降、僕の銀行員人生は大きく動き始める。どのようにして僕は生気を取り戻し、伝統的社会の枠組みから抜け出すことができたのか。次回、銀行の営業マンとして働きながら、日本人として身体に染み付いた保守的思考と葛藤する様子を述べていく。

 

 

(続く)