二重窓を作ってみた

前回壁を防音にした部屋、窓を何とかしないと、ということで二重窓に挑戦してみた。

本格的な防音ガラスや二重サッシなどは自分ではとてもできないし、お値段も許容範囲外。調べてみたらDIYしてる人多いですね。情報もけっこういろいろある。

で、ホームセンターで材料調達してきた。ツインカーボ。ポリカーボネート製のダンボール構造みたいな奴ですね。軽くて丈夫。中空構造なので、断熱防音効果あり。

それとガラス戸レールというプラ材。基本これだけ。あとは道具と強力両面。

まずは設計図を引いてと。ちょーいいかげんアバウト図面。これで充分

まずはガラス戸レールの端を45°でカット。カッティングガイドがあれば案外簡単。

こんな感じ。切るのはかんたんなんだけど、45°でサイズを合わせるのは大変。窓内枠寸法に合わせてぴったり収まるように何度か切り直したり、ヤスリで調整したり。

へんな形の切りくずいっぱい。


窓はちょっと特殊な上下開きの窓。なので、内窓も上下に分割構造。サイズを確認したレールを内枠に接着。あとで中板を入れなきゃいけないんで、下半分だけ。

次はツインカーボを切断。薄い板だけど、ポリカーボネイトはけっこう頑丈。切るのも大変。

切り口の保護とゴミが入るのを防ぐために,台所ステン用のアルミテープで処理する。面倒面倒。

ここまで来ればあとは仕上げ。下半分設置したレールに二枚のポリカーボをはめ込んで、上半分のレールを設置。ちゃんと開け閉めできるように調整。

できました。


やれやれ。

外に出て聞いてみたら、なかなか効果大。全然音漏れしないわけじゃないけど、高音もかなりこもった感じになって響かなくなった。
逆に部屋の中にいると,外の音がほとんど聞こえなくなった。それと,すきま風が入ってこなくなったのと、結露しなくなったのが大きい。結露防止に違う部屋も全部二重窓にしようかな。

防音室を作ってみた

自宅に防音室を作ってみた。

ちゃんと防音工事しようとすると、かる〜く100万近くかかるので、もちろんDIY
防音というのは遮音と吸音の組み合わせである・・・らしい。
いろいろ調べて、広島の防音材専門業者から資材を調達。ばかでかいダンボールがどかどかと送られてきた。

まずはジョイナーという吸音パネルのレールを、天井高に合わせてカット、位置決めして壁に接着。
次にジョイナーの間に、隙間なく遮音シートを貼る。充填剤を練り込んだ重いゴムシートをパネルサイズでカット。

両面で壁に敷き詰めていく。とにかく重くてくたくたなので扱いがたいへん。念のため2重に貼ることにする。この壁一面分のシートだけで40数キロ。縦の白い線がジョイナー。

コニシの超強力両面ボンドテープはほんとにちょー強力。一度貼ったら二度とはがせない。スコッチの超強力両面はちょーでもない。扱いは楽だがちょっと不安。

あとはロックウール(人工石綿アスベストと違って無害)製の吸音パネルをはめ込むだけ。厚さ5センチ。一枚2.2キロ。ガラスクロス額縁貼り。

ジョイナーのレールにぱこぱこと嵌めていくだけ。

できました。スタジオみたい。

やれやれ。

ま、とりあえず壁一面分だけね。次は二重窓のDIYに挑戦する。うまくできたらまた書きます。

神とは?

神様は存在するか?死後の世界はあるのか?といった命題に答えはない。存在するともしないとも、あるともないとも証明することはできない。しかしある人は、100%神は存在し、死後の世界があると言い、ある人はそんな物は100%ないという。
 
神にとってそもそも存在の有無は無意味で、信じるかどうかだけが問題だ。神は信仰とともに在るのであって、信仰のないところに神は無い。

死後の世界は死んでみれば答えが出る。しかし死後の世界がなければ,その答えを知る存在はない。死後の世界があったときだけ,「あった」と知ることができ、無ければ「無い」と知ることはできない。「ほら見ろ、死後の世界はあるじゃないか」と言うことはできるが、「ほら見ろ、無いじゃないか」と言うことはできない。
 
この宇宙に起こっているすべてのことが、単なる偶然と成り行きに支配されていると考えるのは恐ろしい。そこにどんなものでもいいから、何らかの意志が働いていると考える方が気が休まる。すべての物事には何かしら意味があり、正しい方向というものがあり、すべての存在には何かしらの意義がある、と思いたい。
 
この世のすべてが偶然と成り行きで進んでいるだけだとしたら、そこには意味も意義も意志も正しい方向も、何も無い。そう割り切るのはなかなか難しいことだ。
 
「自分」という魂があるのではなく、たまたま存在し得たひとつの自意識が,「自分」と思い込むようになっただけのことだ、と納得するのは難しい。
 
そういう唯物論的な考え方を進めていくと、そもそものこの世界の成り立ちに疑問がわいてくる。世界が物理現象に支配されているとしたら、そのルールは誰が決めたんだろう?光速の数値や、相対性理論の定理は,どうしてそう決まっているんだろう?
 
その辺にネタを拾ったSF作品は数多い。この世界は,ある意志によって物理現象の数値を設定された実験空間であり、我々は実験動物として観察されているとか、そもそも我々すべてがコンピューター内のプログラムによるシミュレーションにすぎない、というものまで、いろいろ。
 
物理の原理や定理までもが、ある偶然や成り行きによって世界の誕生とともに決まった、と考えればすむ話でもある。そこに何の意味も意志もない。1+1=2であることは、たまたまそう決まってしまったことを、人間があとから発見したに過ぎない。
 
それですべて説明がついた、と考えることも、ひとつの可能性ではある。そういう意味では、神や観察者やコンピュータープログラムも、同じようにひとつの可能性であることに変わりはない。どれが正しいのか、永遠に答えが出ることはない。
 
つまりはすべてが信仰の問題である。真実は信仰とともに在る。

そろそろ

ここへの書き込みも、すっかりご無沙汰になっちゃってるけど、さすがにちょっとモチベーションが無くなってきた。

今後は気が向いたときに、最近はやりのついったーで勝手にぶつぶつ独り言ることにしようかと思います。自分の備忘録的な意味合いで。
 
https://twitter.com/maxpax4588

確かにちょこっとつぶやくのは、敷居が低くて気楽でいいわな。

さらばスペンサー

映画は観てない

ロバート・B ・パーカーが亡くなった。
 
自分が本当に気に入って、著作を全て読んでいる、数少ない作家の一人。
 
いくつかのシリーズを同時並行的に書いていて、どのシリーズもおもしろいし、それぞれに味わいが違って楽しめる。外れる心配のいらない作家。
 
特にスペンサーシリーズは日本でもかなりの人気。自分も20年近いつきあい。すっかりなじんだ登場人物たちとも、もうお別れなんですね。
 
チャンドラーよりちょっと軽いタッチのハードボイルド。微妙に肩すかしを食わす台詞。数々の至言。時にコテコテの男の世界。善とも正義ともちょっと違う、男たちのプライドの価値観。とにかくはまります。
 
スペンサーシリーズは恋人との別れ話のごたごたが一段落したあとは、ちょっとマンネリに陥った感じだったけど、ジェッシイのシリーズはどんどんおもしろくなってきて、スペンサーを食う勢いだった。ジェッシイのシリーズの中に、スペンサー、ホーク、サニイ・ランドルなど、他のシリーズの登場人物が顔を出して、いずれ全部統合されて、オールスターキャストのシリーズになったらどうなんだろ、と思っていたけど、もう新作は読めないんですね・・・(T T)

最近は、ヒッチ、コールの西部劇シリーズが一番気にいっていた。この世界観はたまりません。米版藤沢周平・・池波正太郎かな? 
 
画家は世界観を提示できるけれど、作家はそれに加えて人格を持った人間を提示できる。その人間に人生を演じさせられる。作家が没するとき、同時に多くの人格が死ぬ。
 
さらばスペンサー。ホーク、スーザン。ヴィニイ、チョヨ、ベルソン、クワーク、リタ。ジェッシイ、サニー、ヒッチ、コール。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(T T)  

しわけあとさき2

なんだかお祭りみたいな感じでした

事業仕分けが終了して、その結果を踏まえての政府の行政刷新会議が始まった。
 
いろんなマスコミで、仕分け作業の顛末と、検証が行われているけど、とにかく目立ったのは、レンホウさんの威圧的な態度。あの人、これで一気に顔を売った。宣伝効果としてはたいへんなものですね。
 
レンホウをはじめとする、仕切り人たちの厳しい表情と物言いに対して、官僚たちの冷めた態度が対照的だった。
 
「時間が足りなくて、必要性が十分伝えられなかった、こんな短い説明だけで予算カットとは理不尽だ」「予算が削られたら、事業が立ち行かなくなるんですよね。そこをご理解いただけないと・・」
 
官僚たちの言葉を聞いていると、なんだか人ごとな感じ。時間があらかじめ決められているのはわかっているんだから、その範囲で、いかに相手を説得するか、作戦を練ってくるのが当たり前だし、立ち行かなくてもかまわない事業と判断されたから削られるんだ、ということを理解していない。
 
所詮人のお金をどう使うか、というお仕事をしている人たち。仕切り人たちは、ここが見せ場とばかりに張り切って仕掛けてくるのに、役人たちには自分のところの事業を守ろうという必死さが感じられない。そこの温度差がかなりある。
 
今まで、一度ついた予算や事業計画は、よほどのことがない限りそのまま継続するという慣例の中でやってきた。今、まさに、政権交代という、「よほどのこと」が起こっているんだ、という実感が乏しいとしか思えない。
 
ところで、行政刷新会議の方は、仕分け作業の親会議に当たるということだけど、けっきょくはここで仕分け結果を最終的に検証するわけで、せっかくの仕分け結果が無意味になってしまうこともあり得る大事な会議なのに、なぜこちらは非公開なんでしょうか?仕分けを公開してあれだけ盛り上がったんだから、こっちも公開して、透明な予算編成に徹するのがスジと違うんですか?非公開の理由がよくわからない。
 
それと、半年か一年後ぐらいに仕分けの結果判定作業をやって欲しいですね。今回の仕分けの結果、どこにどんな影響が出て、どんな結果になったのか。仕分けの功罪判定会議、みたいなのを公開でやったら、また楽しめそうです。

しわけのあとさき

のーべるもらったひとたち

政府の行政刷新会議事業仕分けで、スパコンの開発費とか、若手研究者の支援など、科学関係の予算が大幅カットされていることに批判が集中している。ノーベル賞科学者や大学教授など、いわゆる有識者たちがこぞって反対の声を上げている。
 
細かい事情とか、科学的な予算の必要性など何も知らない一般国民から見ると、まさに現場にいる頭のいい人たちがこれだけ言うんだから、やっぱりちょっと乱暴なんじゃないかな?という気にもなる。
 
確かに、彼らの言うとおり、科学技術への投資というのは、短期的な対費用効率では計れないものがあるだろうし、国際競争という視点で見れば、技術立国である日本が、世界的に立ち後れるかもしれないという危機感もわかる。
 
いわゆる文化というのもそうだけど、一般人的には、実態はよくわからないけど大事にしなけりゃいけないもの、というイメージがあって、そこに予算をつぎ込むのはまあ仕方ない、ばっさり切るべきじゃないだろ、という感覚が強いと思う。
 
でもね、と思う。今回の事業仕分けって、お金の使い方をはっきりさせて、どこにいくら必要なのかを見極める作業。今までの事業のやり方でほんとにいいのか検証するということで、聖域なき改革であるべき。
 
たとえば、スパコンの開発費。世界一を目指すことの必要性を問われた官僚の答弁はいまいちはっきりしなかったし、ノーベル賞科学者たちが力説してるのも、日本の科学がダメになる、みたいな感覚論ばかり。
 
今までそういうノリでずっとやってきた。未来に投資する。若手を育てる。長期的展望に立って・・・。そういう感覚論を一度廃して、具体的に何をどうするか、どこに目標を置くのか、考えていくのが今回の仕分けの本筋だと思う。
 
スパコンで世界一を目指すのが目的ではなくて、世界一になることで具体的に何がどうなるのか、そこを納得いくように説明できるなら、反応はまったく違うと思う。
 
政治は感覚ではなく、説得で決められるものだ。今まで、あやふやな感覚論が幅をきかせて、何となくいいことをしてる、というだけで予算が付いてきたものも多い。そこをすべて一度見直して、納得のいくもの、ちゃんと人を説得できるものに限って予算を付けましょう、という作業を今やっている。
 
スパコン開発は、景気の悪化で今年になってNECと日立が降りてしまった。それによって開発の方向性も大きく変わることが確実なのに、当初予算のまま進められようとしていることに、仕分けの手が入った形だ。民間と単純比較はできない事柄だけど、民間企業だったらそんなことはあり得ない。計画の方向性が大きく変更されたら、事業の規模や予算を見直すのは当然だ。
 
もちろん仕分け作業の全てがうまくいっているとは思わないけど、説得力のないものは切る、というスタンスはぶれないで欲しいと思う。そろそろ日本人も、何となく感覚的にじゃなくて、論理的に物事を判断する癖を付けた方がいいんじゃないかと思う。
 
鳩山総理は、ノーベル科学者たちの言い分を聞くと言っているけど、感覚論で押し切られるようだったら民主の改革も本気には見えなくなっちゃう。彼らと真っ向から論戦して、説得できるようならたいしたもんなんだろうけど・・・。