らりるれろ

振り返り備忘録*考えている事や思った事などをつらつらと。

千尋が千という名前をもらった時の話

突如として書きたい気分になったのでもう振り返りとか気にせずに書きたい事を書きます。その前に。ちょっと前に書きたい気分じゃなくなった原因が分かりました。そもそも振り返りは書きたい!ではなく整理したい!だったからでした。整理は書くよりも対話の方が楽しくてはかどるのでブログで行うのは辞めてみます。そして書きたい!とは私にとって出したい!であって、本当に私が出したい!のは「日頃から感じている違和感や不思議なことの姿」でした。なので振り返りという整理は別で行い、出したい!を叶える手段としてブログを書きます。
 
とりあえずぶわーっと 「出します
頭可笑しいこと言ってるよと思われるのは前提で、ただ出したいから「出します」
 
 
[ご飯は食べることが目的である]
少し前から食べる事に対するコンプレックスを感じていて、それは食べる時になんだかよく分からない違和感があったからでした。それはただ食べるだけでは可笑しくて、「おいしい」の為に食べる事が「食べる事」であるみたいな。甘い、苦いなど美味しいや不味いの判断(認識)にこだわりそれを目的として食べる事への違和感でした。私が思うに【食べるとは美味しいとか不味いとかではなくて、食べること自体が喜びであって、食べる事を目的として食べている】んだよと。甘いも苦いも含めて食べること(=味わうこと)が幸せで、美味しいから食べるのではなくただ食べるという目的(味わうという目的)で食べているのだと。強いては生きる事もそれに当てはまり、生きること自体が喜びであり(悲しみも嬉しさもそれ自体は判断して創られた認識に過ぎなくて)本当はその瞬間瞬間の「今」生きている(食べている)事実に喜びを感じる事が出来るんだと思いました。
 
 
[木の模様は樹齢の数、魂の模様は輪廻の回数]
ほら、いよいよやばい事言い出したよ、とりあえず出すよ。出会った時になんとなく感じる魂レベルってあるじゃないですか。あれってなんだろうと考えていたんですけど、もしかすると輪廻の回数なのかなと思いまして。木って切断すると◎←このように何十にも模様があって。あれって木の歳の回数つまり樹齢なんだそうです。魂も同じで、輪廻を何回もしていると、◎の丸の数が増えて輪みたいなものが大きくなって魂レベルの違いを生み出しているのではないかと。そして人それぞれで◎の模様は違うし、生まれ持ったきめ細かさ(もろさ)と粗さ(頑丈さ)みたいなものも違いがあるように感じています。
 
基本的に何か考え事をしている時にもしかしてこれはこうなのではないか?というものは大概「閃いた!」ではなく「ずーっと前から知っていたけどなんだか忘れていて今思い出したよ」という懐かしい感覚に近い様に思います。本を読んだ時に、「あ!これだよ言いたかったのって!」ってなるのと同じで、一度いつかの昔に体験した事があって感覚的には知ってるんだけど、上手に言葉(現代語、日本語)にできていなかった、様な。【もしかして人の魂は、身体がDNAという先祖代々から受け継がれているもので構成されているのと同じで、いろんな過去の魂から受け継がれていろんなものを記憶、継承しているのではないでしょうか】とか考えちゃってます。
 
 
[空間の中で自分と相手の振幅が一致したとき共同体になる]
なんだか相性がいい!という人は自分と振幅が非常に似ている気がします。ずっと一緒にいると振幅が自然と似てくるっていうのもあると思うのですが。最近インターンのメンバー4人で語っていた時、なんだか4人が繋がったぞ!という計り知れない喜びを味わいました。1つの空間の中で共同体になった感覚。これって各個人が出している4つの別々のエネルギーが、会話を通して空中で振幅の擦り合わせをし、全てのエネルギーが同じ振幅になった瞬間に、空間も自分自身(魂、強いては肉体である身体)も同じ振幅をする共同体となったからでしょうか。まあビジネスプランの発表をする前日の深夜にこんな事を考えている私は本当に馬鹿だなと思う限りですが【人間本来の喜びはこの共同体感覚にある】んだと思いました。分かり合えた!とかを通り越して4人がその空間そのものになった!という共同体感覚。それは計り知れない程の喜び、エネルギーの集合体を生み出すと感じました。周りの物や空間、人と振幅を擦り合わしてひとつになる、チームビルディングってほんまに大切ネ!
 
 
[相対がなければただ意識の中にあるがままである]
友人と就活の話をどんよりとしていて「私も悩んでいる」という発言をして数分後、「本当に私は悩んでいるのだろうか」ととてつもない違和感が押し寄せてきた日がありました。冷静に考えてみると、一切悩んでいない自分がいる事に気付きました。就活っていうものは私が今興味があって、やりたくてしていて【それ自体はただ私の意識の中にあるがまま】でした。ただ意識の中にあるだけでした。でも人と関わり、会話という手段で「就活」を表に出した時、急に私の意識の中から、社会の中に飛んでいき、そこで初めて善悪のような判断が下されていたのでした。【相対がなければ、ただ意識の中にあるがまま、自分の心がその存在をただ感じている】だけであり、ただ存在を感じる事自体は喜びであるのにな、と。
 
 
[無意識レベルに求めているものがイメージされる]
友人と「イメージ出来る事は実現出来た事が多いよね」という話をしていて、確かにそうだなと共感しました。だから成功者はイメージをするのが上手いとか言われるんだろうなと。だからこそ一般人はイメージをして成功をつかめ!と言われたりしますがいや本当にそうなんでしょうか、と疑問に思い出しまして。まずはイメージとは何かを考えてみて、結論イメージとは自分(輪廻を繰り返す魂やDNA達www)の欲求そのものだと思いました。そもそもある程度イメージ出来る事って「そうなる事が分かっている」感覚に近くって、それって分かるまで勉強しろ!とか分かるまで情報を集めろ!とかの次元ではなくて、本当に心からそうなる事を求めているからであり、「そうなる事」を本当に心から求められるということは欲求そのものが無意識の内にもう既に存在している、もうそれは既に知っているからではないでしょうか。だから【どれだけ勤勉に勉強して情報を知りつくしていても無意識レベルで本当に「そうなる事」を求めていなければイメージなんて出来ない】んだって!だからイメージ出来ないのはそもそもそんなに求めてないんだって!無意識の自分の存在(輪廻を繰り返す魂やDNA達)に導かれてないんだって!だから辞めちゃいなよ!とか持論を馬鹿みたいに唱えるハウツー本を出したい気分です。ただ情報を集める過程で「思い出した!実はかなり求めていたぞ!」というように自分の本当の欲求に目覚める事があるのも事実なのでしょう。
 
 
 
[認識の錯覚が欲求にもおこってるのかな]
【情報が溢れすぎている現代は情報に踊らされて自分の欲求を的確に認識出来ていない】ように思います。①欲求が発動された時②これはこんな欲求だ!という認識をし③その欲求を満たす為にこの手段をとる!と選択して行動し④その結果エネルギーというものが湧いてくる、みたいな構図をひたすら今日は友人に語っていたのですが、何が言いたいかというと、多くの人の不満は、情報というノイズが溢れている事で自分の心の声に耳を傾けにくくなり、②の認識を間違えているから起こっているのではないか、という事です。いくら③で妥当だ!と思う手段をとっていても、そもそも②の認識が間違えているので満たされなかったりするのだと思います。でも行動を起こした先で一時的に①にも②にも③にも捕われない抽象的なエネルギーが湧いてくるのであたかも一瞬満たされた気を味わってしまうのではないでしょうか。すごーくチープな例ですが①「愛が足りない」→②何かお腹がすいた、何か食べたいのではないかと錯覚→③カレーを食べる④エネルギーがわく =エネルギーは汎用性に長けているのであたかも愛が一瞬満たされた様な感覚に陥る。みたいな。
 
 
[千尋が千という役割をもらった時の話]
最近の奇妙な体験。混沌とした日々の中、導かれているかのように「似たことを言ってくる人達」に毎日何人もと出会い「これは何を私に伝えようとしてくれているのだろうか」と思う様になっていきました。そして気付けば段々と自分に託された使命みたいなものを感じる様になりました。なに言ってんだよと内心思いつつも、私は混沌値が最大になった夜、不思議な感覚に見舞われました。それは「千と千尋」の千尋が初めてゆばーばの部屋に訪問する時、猛スピードで扉が勝手に開いていき、気付いたらゆばーばの目の前にたっているかのようでした。なんだか自分の全部が「なにか未知なるもの(=ゆばーば)」に突きつけられて、私は自分の名前をペリッと剥がされて、新しい非常にシンプルな名前(=千)がつけられた様でした。その時にこれが自分に託された使命(役割)か、と肌で感じて、翌朝は混沌としていたものはすっかりなくなりクリアな視界と空と未来が待っていました。
 
千と千尋を初めてみた当時小学生の私は、千尋が不安を抱えながらトンネルに入っていった時に(不安を抱きながら未知の世界に足を踏み入れるという)「同じ感覚を知っている」と思い涙を流したのを覚えています。序盤だし全然泣くシーンではないですがどこかリンクするところがあったのでした。そして今、ああ、ここまで(ゆばーばの部屋にたどり着くまで)長かったなと、自然と涙がでました。「ここから誰の為に、なんの為に生きるのか」というのが明確になり、宮崎駿監督がこういう感覚を偶然ではなく必然的に映画に落とし込みしていたのならば、もう心が震え上がりそうなくらいに感動します。小学生の頃から七夕の短冊では毎年「二十歳で死ぬこと」と書いていましたが、本当に二十歳で二十歳までの私は一度死んで、新しい自分を授かったようです。【役割が降ってきている事を感じると、自分の身体って自分のものではなく、貸し与えられているのだな】と思う様になりました。だから役割を全う出来る様に自分の身体を大事にしないといけないなと身体に対する意識が変わりました。
 
加えて身体(心臓)は誰が動かしているのでしょうか。電気信号でしょうか。その電気信号によって動かされた身体(心臓)という貸し与えられた物質に生と死があるという事は【もはや人間ってプログラミングされているのではないか】とか思っている私もいます。 まあとりあえず私は私だけで成り立っているのではなく、過去の沢山のDNAや魂の集合体で出来ています。そしてその集合体の中で1番表に顔を出す(強くなる)魂が、混沌とした日々を経てついに入れ替わったんだと感じました。
 
 
 
[オーガニックに生きたい]
朝とか夜とかってなんだろう、寝るとか起きるとかってなんだろう、と疑問(違和感)を持たないくらい自然に、オーガニックに生きたいです。生きているそれ自体が喜びであり、その瞬間にだけ自分が存在をしていて【嬉しいとか楽しいではなくその瞬間に生きている事をとにかく味わいたいんだ!】と思っています。
 
 
【まとめ】
①食べるとは美味しいとか不味いとかではなくて、食べること自体が喜びであって、食べる事を目的として食べている
②人の魂は、身体がDNAという先祖代々から受け継がれているもので構成されているのと同じで、いろんな過去の魂から受け継がれていろんなものを記憶、継承しているのではないか
③人間本来の喜びはこの共同体感覚にある
④それ自体はただ私の意識の中にあるがまま
⑤相対がなければ、ただ意識の中にあるがまま、自分の心がその存在をただ感じて喜ぶだけ
⑥どれだけ勤勉に勉強して情報を知りつくしていても無意識レベルで本当に「そうなる事」を求めていなければイメージなんて出来ない
⑦情報が溢れすぎている現代は情報に踊らされて自分の欲求を的確に認識出来ていない
⑧役割が降ってきている事を感じると、自分の身体って自分のものではなく、貸し与えられているのだなと思う
⑨もはや人間ってプログラミングされているのではないか
⑩嬉しいとか楽しいではなくその瞬間とにかく生きている事を味わいたいんだ!
 
 
結構躊躇わずに日頃考えている事を「出してみた」。
すっきり。

【新しい角度の追加】

こんばんは。こうしてブログで振り返りをするのも5週目に突入しました。頭に変な違和感をもってから3週目に至ります。そうです「混沌」の極みにきています。混沌しすぎてそろそろ爆発するのではないかと不安を抱きつつ、いやこれは思考が新たな転換期を迎える前の暗示だと光が見えてきた一週間でした。

 
[純度が高いまま文字へおこす事は不可能]
日曜日に、夢カレッジというイベントでお話をさせいただく機会がありまして、月曜日から私は何を話そうかと悶々と考えて文字におこそうとしておりました。今頑張っている事やその理由、そして将来の夢。抽象度の高い話は、対話の中ではある程度ごまかせても講演では伝わりにくくなってしまうので(結果的にごまかした事は置いておいて)いかにして伝えようかと悩みました。なんだか伝わりやすい様に抽象度を下げて文字におこそうとすればするほど、どうしても嘘が混ざってしまうような感覚があり苦しくなっていきました。思うにいろんな想いは一瞬一瞬の細かい感情で出来ていて、まるで純度が高い宝石の固まりの様で、無理に言葉におこすと表しきれずちっぽけな塊になってしまうように感じました。ただの塊に。分かった事は【純度が高いまま”文字へおこす”事は不可能】だと言う事でした。
 
私は昨年5月に寝たきりになった事を機に、心の声を聞く事を意識する様になりました。するとその時々の想いや感情をそのまま言葉にする事が難しくなり、言葉にできないので瞬間的にふぁーー!!ぷぉーー!!といった奇声を発する事が増えました。真面目に話すと【なぜ想いや感情をそのまま言葉にする事が難しくなったのかというと、湧き出る(受け取る)感情の純度が高くなったからではないか】と感じています。純度が高いってなんだよ!って話ですが、非常に細かい感情の集合体みたいなものでしょうか。ここらへんは難しいですね、だって言葉にできないからこそ純度が高いのだもの。
 
とりあえず全神経が研ぎすまされる様な空間でface to faceの会話が出来れば、純度が高いまま伝える事は可能なのではないかと思っています。「全神経が研ぎすまされる様な空間」作りたい・・・!
 
[マッチ棒のアート]
テスト勉強を少し頑張りました。途中から文字がマッチ棒のアートに見えてきて、踊るマッチ棒を見つめて3時間。何も覚えられないという驚異的な記憶力の無さ(!)に愕然し絶望を感じました。楽しいのスイッチがズレたところで入ってしまったら終わりでしたね、うん。そしてただ無心でマッチ棒と向き合う時間は新しい感情や感覚が全然生まれずどんどん腐っていく様でした。変化が心地よい事がよくわかりました。だってもし変化しなければ【新しい感情や感覚が生まれず、古い感情や古い感覚に潰されて侵されて腐っていく】からなのでしょう。心身ともに。
 
[大根専用の土壌]
今まで自己分析みたいなイベントにいったり、むしろイベントを作ったりしていましたが、私は全然分かりやすく私の事を伝えられる様になっていないな!という現実に直面しました。もうそろそろ笑ってごまかせません。愛嬌を振りまいたって無駄です。論理的に?そんな力があったら悩みません。「伝えたいことは感覚的になんとなく分かるんだけどもっと言語に出来ない?」「きっと少数派だからこそ上手く伝えられないと、理解されなくて終わるだろうね」「難しいね変だね」みたいなあの反応です。楽しんでもらってる感じはするのですが、いざ一緒に働くとなると土壌的に難しいかもなと遠回しに言われるアレです。興味はあるんだけど、土壌がな、大根専用なんだよ、みたいなアレです。うぬ。でも問題はそこにあるわけではなく、きっと恐らく【育ててくださいと頭を下げない私の雰囲気があるから】なのでしょう。「土壌耕させてくださいよスコップ持っていきますから!」みたいな威勢が無いからでしょう、そうです以前は。
 
 
最近は梅田で「1時間空きが出来た!」と言うと、その1時間自己分析の為に急遽かけつけてくれる先輩や、素敵な夢をもつ人事さんや沢山の人との出会いで、急ピッチで自己分析が進み、方向性が定まって参りました。そうなれば早いものです、頭下げてでも学びたい事がぐもおおおおおおおおって目の前に広がっていて、もし今「大根専用の土壌だからジャガイモまじ勘弁」と言われたとしても「遺伝子組み換えるので3分待ってください」と言えるでしょう。いやむしろ栄養含んだ水になります精神です。とにかく改めて思うのは家で閉鎖的にごもごもと考えたり悩んだり自分を見つめたってしゃーないという事です。どうしようか考えて悩んでしまうくらいなら外に出て話聞いてヘタクソでも話して伝えて動くことがベストだと思いました。【考えてしまうと悩みになる、動いてしまえば希望になる】
 
 
[あなたは私だ]
一緒に居て心地悪いなと思う人からは何を(誤認して?)受け取ってしまっているのだろう。自分は何にそんなに拒否反応を示しているんだろうか、これは幼稚園の時から永遠のテーマです。先生や友達のお母さんとの居心地の悪さを感じてる人って結構いると思います。あれってなんなんだ。
 
居心地段階は3パターンあるのではないかと思っています。①から③にかけて上質になっていきます。
①プレッシャーをかけてくる人(承認欲求など願望を他者に求めてる人) 
②プレッシャーをかけてこない人
③選択の自由を与えてくれる人 
 
①の人は出会った瞬間に容赦ない「くれ!」という圧力があります。この人と話す会話も、行動も、私の存在さえも全て”相手の欲”を満たすためのものと化します。なんてつまらないんだと一気に冷めてしまうのと同時に、その欲を上手に満たせてあげられなかった時には得体の知れない申し訳なさ、自己嫌悪に陥ったりします。だから心地が悪いです。私が相手のプレッシャーと自分を切り離さないといけないやつですね。②の人はフラットな状態で話して遊んで流れに身を任せる様な、心地よさがあります。③の人は最初から「どっちでもいいよ。あなたが選んだら?」という半ば無関心の様な選択の自由をくれてます。ただそれは無関心ではなく、【根底では”繋がっている感”があり、受け入れているかのような温度を感じます。言葉で表すなら「あなたは私だ」と伝えてくれている様】です。そうです自然も宇宙も人間も全てひとつ。
 
[プラマイゼロ]
先週は理性と感情というところで、「理性を保っている状態では何も劇的な産物は生まれないのではないか」と考えていました。思えば中庸やバランスをとる事にエネルギーを使っていた時は、結局何も生み出さなかったなと。迷惑をかける事は減ってもプラスもなかったなと。プラマイゼロで進まないのだなと。いよいよ【中庸やバランスを捨ててエネルギーをどこに使うか絞っていく】時期が本格的に来ているようです。
 
 
[新しい角度の追加]
今週は多夫多妻に共感してくれる人がチラホラいて非常に嬉しかったりしました。今までこれについて話をしても、気味悪い提言だと思われたり(いや今の常識をふまえたらごもっとも)常識だからこそ考える機会もなく、肯定するにも否定するにも然るべき持論を持っていない人が多かった様に思います。思えばいろんな物事について私はこう思っている、こう考えている、あなたは?とフラットに話して【新しい価値観(=角度)の交換が出来る場】って少ないなと感じました。少ないのではなく私が求めていなかったのかもしれません。幸いにも今私は就活生です。これを利用して(!)新しい角度の考えを投げてくれる様な人のところにスイスイと出向こうと思います。きっとそういう人は私の生活とはかけ離れたところにいたり、想像も出来ない仕事をしている事でしょう。新しい角度の考えを投げてもらうと、自分が更新される感覚があります。今までの様に挑戦して動くのも良いけれど、それは範囲が拡張するだけで、角度(起点)は変わらない(増えない)様に思います。角度が変わらなければ範囲は拡張するけれどそれは更新ではなく退化を防いでいるも同然に思います。範囲の拡張は本当にどれだけやったかの場数ですよね。これからは質だと思います。新しい角度(起点)を増やす事。そして角度をその場その場で自在に操ること。
 
[思考が新たな転換を迎える前の混沌]
正直今書いていて心地が悪いです。タイピングは早いので書くのに時間は全然かかりませんが、本望ではなくなってきた様に思います。私にとって振り返りは二種類あります。【心地よく生きる為の振り返りと、感じたこと思ったことを言語化する為の振り返り】です。明らか後者に振り切りすぎていますよね。最初の趣旨は前者だったので一度リセットします。そしてこの混沌さは、きっと収束の前の混沌さでして、おかげで今最も注力したいものが絞れてきたので、そこに時間をあてたいと思います。今後の振り返りについては流れに身を任せてみます。イエッサ。
 
 

【まとめ】
①純度が高いまま”文字へおこす”事は不可能
②湧き出る(受け取る)感情の純度が高くなると、想いや感情をそのまま言葉にする事が難しくなる
③新しい感情や感覚が生まれなければ、古い感情や古い感覚に潰されて侵されて腐っていく
④育ててくださいと頭を下げない私の雰囲気がある
⑤考えてしまうと悩みになる、動いてしまえば希望になる
⑥根底では”繋がっている感”があり、受け入れているかのような温度がある。それを言葉で表すなら「あなたは私だ」である
⑦中庸やバランスを捨ててエネルギーをどこに使うか絞っていく
⑧新しい価値観(=角度)の交換が出来る場
⑨心地よく生きる為の振り返りと、感じたこと思ったことを言語化する為の振り返り
 
 
スピード感がないのでいろいろとやる事がたまってきている現状に嘆きやっほい。

 

【言葉にしない方が純度が高い事がある】

テストという青春を満喫して楽しんでいます、こんばんは。
 
[目的をすり替えない]
先週は頭が混沌としていたので、内観をやめて”得た物を生活に落とし込む事の振り返りをしたい”とかなんちゃら言ってましたね、はい。結論からいうと全然出来ませんでした。抑えようとすると更に混沌としてきたのでとりあえずこれは続けます、イエッサ。
 
なぜ混沌としてきたのかというと、これは成長欲求を満たすための手段ではないからでした。ただの趣味。その趣味である内観や考える事を、生活に落とし込むといった成長に目的をすり替えてしまうのは不快でした。結果的にもっと息苦しくなり処理速度が遅れて余計に混沌としました。カオス。【趣味は趣味。目的をすり替えない】
 
 
[無理に言葉にすると純度が下がる]
先週は周りの人に話したくても全然言葉が出てこないほど嬉しい出来事がありました。「言葉にならない」って事象がリアルにあるのかと感動する程の喜びでした。”嬉しくて気が動転して何から話していいか分からない”のではなく、この得体の知れない感情を上手く表す術を知らなかったんです。【若干21歳にしてまだ知らない感情がある】のは希望に思いました。その後少し出せる言葉を使って友達に話した後は、想定外にも不快感が残りました。(友達は喜んで聞いてくれましたが)なんていうかその瞬間の喜びは言葉にできるものではなく、無理に言葉にした瞬間に一気にシャボン玉が消える様に価値が乏しくなってしまったようでした。【言葉にしない方が純度(濃度?)が高い事があるんだ】という事を知りました。これは刹那的な喜びだったのでしょうか。
 
[生きている実感]
非常に嬉しいと思う事があれば贅沢にも非常に悲しいと思う事にも見舞われました。家に着くと膝から出血していたそうで気付けば住人が手当をしてくれていました。大騒ぎしてわんわん泣いて「私は何をやっているのだろう」と思いながらも「生きている」を強く実感して満たされていました。【喜びも悲しみも怪我という痛みも「生きている」を実感出来て】温かい気持ちになります。住人にはいつも迷惑をかけています、5歳児でごめんなさい、いつも本当にありがとう。
 
 
[就活生になるよ]
無理矢理ではなく自然な流れでやっと就活に興味が出てきました。ブアーーとやる気が出てきました。今ははっきり答えられます、私は就活します。何事もそうですが、自分が納得する形でしっかりやったら大概の事は楽しいものです。だから私の場合【まずは納得する形(やり方)を見つける事が大切】なんだと勉強になりました。やっと自分が楽しめる納得する形を見つけたので、自分に正直に気ままに誠実に時には運任せに頑張りたいと思います。
 
 
[テスト習慣はお花畑]
「学校で学生をするって楽しい」
 
私は高校時代実はテスト週間が好きでした。なぜかというと、みんなで毎回「もう嫌だー!今回やばいよ!助け合おうよ〜」とか言って嘆いてる青春の1ページを創っている感が心地よかったからです。それは大学生になっても変わらずで、絶賛テスト週間で心地よいシアワセを噛み締めています。テスト週間の魅力は【普段意識出来ない事を強制的にやらざるを得なくなり、その結果新しい興味関心や喜びや趣味が発掘されること】です。こういう理由で毎回「学校で学生をするって楽しい」と実感するのですが、何故日頃から学生を謳歌(全う)出来ないのだろうかと不思議に思いました。
 
私は記憶力ないわりに勉強は好きだし、友達も一定数居て、学校で嫌な事や苦しい事は何一つなく家も近く通いやすいです。でもいつも「学生をするって楽しい」と思うのに、興味関心が他にいってしまって結局学生を全うせず、安定のテスト期間のみ学生らしいシアワセを噛み締めているのはなぜだろうか。ーそれはきっと高低差が少ないからではないかと思いました。(無いなら生み出すまでですが)現状普通に学校に通って知識をインプットして友人と昨日聞いた噂の話をするだけでは際立った刺激は得られません。私にとって【高低差が少ないと楽しさに欠ける】というのは普遍的なものであり、いかに高低差を生み出していくか、あるいはいかに無理にも行かないといけない仕組みを作るかが継続する為の鍵であると再確認したのでした。
 
 
[存在に地味にありがとう]
割と用事で東京に行くことが多く、行くといつもいろんな人の家に泊めてもらうなどお世話になるのですが、今週は珍しく東京在住の友人が関西に来ると知り、とっても嬉しい気持ちになりました。何でこんなに嬉しいのだろうと考えると、それは私もその人に何か価値を提供出来るからだと気付きました。なんだか純粋に【与えられるよりも与える喜びの方が嬉しい】んだと感じました。そしてそんな与えたいと思える相手がこの世の中に存在しているだけで十分幸せ者であり、おもてなし出来る喜びを無条件に感じさせてくれて、さんきゅー。
 
 
[素朴な打開策]
今取り組んでいる事、従事していることを書き出したら27個から23個に減っていました。そもそも何故こんなに多いかというと、片手で収まる数だけに取り組んでいると、コミット量のバランスがとれず苛々したりと精神的に不健全だったからです。その不健全さをみて周りは優しさ(常識)から「苛々するなら休みなよ」「頑張り過ぎだ」などと声をかけてくれましたが、休んでも一向に改善されず悩み暮れていたんですね。そこで逆転の発想をして「むしろ4倍に増やしたらどうなるんだ?」と思い一か八か4倍に増やしてみたらバランスがとれて健全な精神状態(のめり込み度)になったのでこんなにも取り組んでいる訳です、はい。これは【解決策は何通りもあって、必ずしもこうするのが良いだろうという一般論からは逸脱する事もあるんだ】という事を学んだ良い経験です。きっと世の中すぐに浮かんでしまうような解決策ではない所に、打開策があるんだろうなと素朴に思っています。
 
 
[理性と感情]
話を戻すと、とりあえず取り組んでいる事は27個から23個に減っていたわけですね。始まりがあれば終わりはくるし、沢山挑戦しても途中でポシャる事だってあり、むしろ大当たりの方が圧倒的に少ないけれど【沢山失敗する中で当たりを生み出す過程自体が楽しいんだなー】ってぷかぷかと考えていたわけです。ところが本日インターンの選考で【実際はハマらないように制限をかけているだけではないか】と指摘されてしまいました。はい、ごもっともです。あくまで私は理性と感情の結合点にいたいのだと思いました。社会性をもちつつ偏りたくないのです。でも内心【理性を保っている状態では何も劇的な産物は生まれないのではないか】というもやもやがあります。思考錯誤は来月に続きます。
 
 
[実体がない]
存在しないものに不安や恐怖を覚える事が日々0.2秒程あります。たとえば感情。もしかして「こう思われているのではないか」というのが典型例です。でも「殆ど全ては実態がないものなのだから、自分の都合の良いように捉えたらいいのではないか」と思えば0.2秒でその不安や恐怖を消し去る事が出来ます。思えば殆ど頭で考えている事って実態がない事です。最近ではむしろ目の前の全ての事が実態がないとすら思えてきています(やばいやつ)いやでも冗談抜きに、それくらい気楽に生きていたらいいと思うんです。【全て実態がないのではないか、だからこそ自分で描けるのではないか】くらいのポジティブさで自分の目にうつる世界の色を彩れるといいですよね。まさに魔法。
 
 
[スティーブジョブズに会っていない]
私はお金の管理がへたくそでして(!)MacBookをネットで購入し翌朝届いて思わず「ボタン1つで無料で買えたよ」と言ったんですね。するとその発言の根底にあるものとして「スティーブジョブズに会っていないからだ。彼がどんな想いでこれを作って売っているのか知らないからだ」と言われてしまいました。いやごもっともです。ネットでボタン1つで買える様になった時代。その物の有難さや価値が”購入した後”に実感出来る様になり、買う瞬間の感動は減ってしまったかもしれません。利便性の弊害なのでしょうか。事実ネットでの購入は”ボタン1つで無料で買えた”という軽率な発言をしてしまうように(私の場合基本カード払いなので余計に購入実感はなく)その物の対価を有難く払おうという意志が芽生えにくいのですが、もしその物を作った人の想いが可視化されればもっと人の心が動いて、物の対価をしっかり払おうという購入の実感が芽生えるのかもしれません。今後は【利便性を超えて想いなどの人間的な部分が市場を占める時代がくる】かもしれないなんて考えています。精神世界マーケットでしょうか。まあなんてファンタスティックな。
 
 
【まとめ】
1、趣味は趣味。目的をすり替えない
2、若干21歳にしてまだ知らない感情がある
3、言葉にしない方が純度(濃度?)が高い事がある
4、喜びも悲しみも怪我という痛みも「生きている」を実感出来る行事
5、まずは納得する形(やり方)を見つける事が大切
6、普段意識出来ない事を強制的にやらざるを得なくなれば、新しい興味関心や喜びや趣味が発掘される
7、与えられるよりも与える喜びの方が嬉しい
8、解決策は何通りもあって、必ずしもこうするのが良いだろうという一般論からは逸脱する事もある
9、沢山失敗する中で当たりを生み出す過程自体が楽しい
10、実際はハマらないように制限をかけているだけではないか
11、理性を保っている状態では何も劇的な産物は生まれないのではないか
12、全て実態がない、だからこそ自分で描ける
13、利便性を超えて想いなどの人間的な部分が市場を占める時代がくる
 
 
今日だって、例外なく「テスト週間を楽しむ学生という青春の1ページ」になっているのかね、おやすみ。

【猫の寝姿に開眼】したいな

火曜日ですねこんにちは。3回目の更新になります。まだ続いていますよ、なんとか。

 
【不完全、不安定の美学】
今週も沢山の人との関わりがありました。人と関わる上で先週は「居心地の良い人になりたいな」と思ったのですが、それって「不完全さを受け入れている余裕のある人」だなあと感じた一週間でした。
 
私はいつも頑張っていて憧れの存在で自信に溢れた人の、目標に向かって(まるで完全を目指して)走るかのような姿は「すごい」けれど、「素敵」だとは思えませんでした。それは自分もそんな完全に近い状態で接していないといけないというプレッシャーを感じて、窮屈で居心地が悪いと思ったからです。向上心を否定するわけではなく、あくまで【人との関わりにおいては不完全さは美学にもなる】という事です。自身の不完全さを受け入れている余裕感が相手の不完全さを受け入れている余裕感となり、居心地の良さに繋がるのでしょうか。余談ですが私は結婚するなら家でゆで卵の殻を向きながら小さな幸せを愛しそうに笑って「こたつがぬくくて出れないよ〜」とか言ってる人がいいです。それは置いておいて【男女限らずいつも上だけを見て頑張っている人は「すごい」けど「素敵」だとは思えない、不完全の美学】が在る様に思います。足るを知るではないですが、人との関わりの中では不完全さを受け入れて余裕のある人になる(ぶってみる)のが私がまず目指す”居心地の良い人”への一歩に感じたのでした。
 
 
【答えや正解が無い】
私は廃墟が好きです。それは過去のいろんな情報を記憶している物の魅力だけではなく、整っていないボロボロの状態に可能性を感じるからです。自然と想像力が豊かになり、まるで頭の中で廃墟を通したヒューマンストーリーが創られていく感覚(!)。もしかして不完全や不安定や不明確に美学を感じるのは、”完全”安定”明確”といった出来上がった状態がない=【答え、正解が見えていないが故に想像を発揮できるワクワク感】があるからかもしれないと思いました。
 
【ミスマッチの面白さ】
今週ワクワク感が高まった印象的な出来事としては、温泉で書道をしたことです。温泉をあがった所に書道スペースがあるなんて全く想定していませんでした。一歩一歩近づくと心が静かに踊り始め、躊躇う事無く筆を持ち、「挑戦」という字を書きました。温泉後に精神統一をして書道に真剣になる姿は非常にシュールだったことでしょう。ただこの時の私は想定外な温泉と書道のミスマッチ感に心からワクワクしていました。上の文を踏まえても【マッチする事は完全に近い状態であり、それならミスマッチは私にとって心地よい面白さを生み出すのかもしれない】という仮説が出来ました。2月は古墳の上で書道をする日を決めたので今から楽しみにしています。更に願望としては、廃墟の遊園地でB’zの「ウルトラソウル」の音楽に合わせて妖怪ウォッチの踊りを6人くらいで踊りたいです。一緒にミスマッチの面白さを体感したい人はいませんかね。
 
 
【自分なりの動機】
木曜日家に帰ると、住人は”超絶辛い”カレーを前にしてお手上げ状態でした。「一口食べてみ」という言葉に何故か挑戦欲が沸き、全部一気に食い尽くしました。(ちなみに言うと私は普段甘口もしくは中辛しか食べれません)不思議だったのは、辛いカレーに挑戦してやる!という気持ちではなく、実際食べている時は”目の前の事に妥協したくない”今日をやりきりたい”という気持ちにすり替わっていた事でした。食い尽くした後は舌の感覚がなくなったという事実しかありませんでしたが、私の中では「目の前の事に妥協しなかった」「今日をやりきった」という満足感がありました。きっと「辛いカレーを食べきったぜ(ドヤッ)」をしたいだけならば、絶対に食べきる事は出来なかった事でしょう。大げさではなく【自分と勝負する為の自分なりの動機】の効果の絶大さに感動しました。
 
 
【サイズにあった靴を作る】
実際に在った事柄は伏せるので超絶分かりにくい文章になりますが。団体活動において不本意な事が起きてその原因を探っていると根本は「そもそも自分が出来ていなかった」からだと気付きました。周りの人は自分のミラーだと改めて驚愕しました。私はやってみたい!という気持ちは長く続かない事がほとんどです。そのやってみたい!を持続させる為に過去の経験から、自分で一歩目の行動をおこすこと、最低限のコミットをすること、一緒に取り組む人に誠実でいる事が大切だと思っています。でもそれが出来ていたのかというとNOです。思う事と出来る事には大きな差がありました。そんな私の姿勢を見ていたら、今回の不本意な事が起きたのは必然的だと思い反省をしました。はい真面目なのキタ。
 
加えて私は一歩というのも雑な一歩しか踏み出さない癖がありますこれがまた。とりあえず出したよ?いいかね?って感じです。いやせめて靴を履いてから一歩踏み出して。サイズにあった靴を自分で作ったら自信もって大きな一歩を踏み出せる、だからまずは靴を作ろう。ということで、少しは予習といいますか計画といいますか準備といいますか、それをする自分に変わります。【自分のサイズに合った靴を作って一歩踏み出す】!
 
 
【前職での女子会】
キラキラ女子に囲まれたら心無しか女子力が(意識だけ)アップしただけでなく、なんだか仕事に真っすぐ(中毒)だった過去の私を少し覗いた気分になりました。【今の仕事にしっかりコミットしていない期間は、もしかして成長や葛藤や楽しさなど価値ある機会を沢山損失しているのかも(逃げているだげだぞ!)】だなんて思えてきました。兼ねてから言われてきたけれど働くにおいての環境や今の自分を見直す必要をやっと我がごとの様に感じてきました。同時に就活に対しての意識も変化を見せてきました。少しずつですが働きたくてうずうずする時間が増えました。少しずつですが社会に必要とされたいとか価値を生み出したいとか少しずつですが思ったりしてきました。そうでなければ私はこのままうんことなり雨となり山となり自然に還っていたことでしょう。この今の素直な感情に身を任せて徐々に(極端にしすぎず)働くに頭をシフトしていきたいと思います。
 
 
【ディスラップ】
月曜日に友人と音楽したいね!という話になり、バンドとかではなく何故か私たちは『ディスラップを歌ってYouTubeに投稿する』という方向性で話をトントン拍子で進め、なんと実際に土曜日にカラオケでレコーディング(!)を行いました。音源の出来は想像を絶するもので、私至上トップ10に入るくらいな黒歴史が出来上がり、腹を抱えて笑いまくりました。【結果はともあれどんな挑戦も実際にやってしまえば素晴らしいネタになる】事を強く感じました。それは面白いという意味でのネタだけでなく、実践家として話をするネタが出来たということです。「これをやりたい」と日々いろんな事を考えますが思い返せば実際にやった経験の方が圧倒的に少ないです。いろんな話題の中で【傍観者や批判家ではなく実践家として話すネタが出来た事は、結果はともあれ挑戦する事の醍醐味のひとつ】だと感じました。加えて「やりたい」と思ってから一週間の間に実際に形にするという所まで動けたのはエネルギッシュな友人がいたからです。恥ずかしさの先の清々しさを一緒に体験してくれて本当にありがとう!
 
【時止まり人】
 
久々に会ったり電話をした時、捉え方や考え方や言っている事が一切変わっていない人がいると固まっている石像をイメージしてしまい話が上の空になってしまいます。それが良い悪いではなく、ただ私は変化が好きなので何も面白くないなと感じてしまいます。そしてそれは総じて「主語があなたじゃない話」だと気付きました。あなたと話をしているのに、あなたに会いにきているのに、なぜ目の前にいるあなたの話をあなたはしないのだろう。あなたは主人公じゃないのだろうか、なぜ安堵した傍観者としての話ばかりするのだろうか、あなたは石像としてそこに満足して座り続けるのだろうか。嗚呼、時止まり人。
 
これは自分にも言える事だと思っています。私は新しいコミュニティに積極的にいきません。馴染めないし既存の居場所あるコミュニティにいた方が安堵するからです。同じ考え、捉え方をする人達ばかりのところにいると安堵出来るからです、まさに私は石像化した時止まり人。現状は自分自身の箱の大きさを知っていて、それの満たし方も知っている。【今足りないのはその箱を拡張する様な面白い展開が起きる出会いや挑戦】だと思いました。
 
 
【猫の寝姿に開眼】
なぜ?と本質をつく質問は非常に大切だと思っているのですがただその答えがごもっともらしいものではなかった時(自分の価値観から逸脱していたとき)私も相手も訝しげな顔をしてしまう時があると思います。なんだか【動き出す時にごもっともに聞こえる様な深いきっかけや意味がないといけないかのような風潮】に疑問を感じていたんです。
 
そんな時これまたヒッチハイクで日曜日に淡路島に行って、中浜稔猫美術館に入りました。そこで中浜稔さんのプロフィールをみて衝撃を受けました。『愛猫「タワシ」の寝姿に開眼「生きる意味」を問い続けようと決意』って、タワシの寝姿に開眼って・・・!中浜稔さんはそれ以降猫の絵を描いたり猫を通して自然と人間を考える会「にゃん会」を設立するなど我が道を極めてそれを仕事にされているそうです。本当に尊敬しました。今一番お会いしたい人です。
 
 
【内観の障害】
薄々お気づきの方もいるかもしれませんが私は内観が好きで一週間の間にいろんな事を感じて考えて見つめています。ただ余りにもその量が増えるとこうしてまとめていても頭の中はまとめきらないもので溢れて混沌としています。常にクリアにはなりません。だから瞑想をしたりしています。でも最近より混沌としてしまい目の乾燥が激しいので、それが直接的に関係があるかないかは置いておいて来週から【内観で得たものを生活に落とし込む事の振り返りに時間をあてたい】と思います。
 
 
【まとめ】
①人との関わりにおいては不完全さは美学にもなる
②男女限らずいつも上だけを見て頑張っている人は「すごい」けど「素敵」だとは思えない、不完全の美学
③答え、正解が見えていないが故に想像を発揮できるワクワク感
④マッチする事は完全に近い状態であり、それならまミスマッチは心地よい面白さを生み出すのかもしれない
⑤自分と勝負する為の自分なりの動機
⑥サイズに合った靴を作って大きな一歩踏み出す
⑦今の仕事にしっかりコミットしていない期間は、もしかして成長や葛藤や楽しさなど価値ある機会を沢山損失しているのかも(逃げているだげだぞ!)
⑧結果はともあれどんな挑戦も実際にやってしまえば素晴らしいネタになる
⑨傍観者や批判家ではなく実践家として話すネタが出来た事は、結果はともあれ挑戦する事の醍醐味のひとつ
⑩今足りないのはその箱を拡張する様な面白い展開が起きる出会いや挑戦
⑪動き出す時にごもっともに聞こえる様な深いきっかけや意味がないといけないかのような風潮
⑫内観で得たものを生活に落とし込む事の振り返りに時間をあてたい
 
 
今週のテストはやれることをやって挑みたいな。

何億個という楽しさを手放してきた事に気付いた一週間

ヒッチハイクをして家に帰らない日が続いていたので振り返りが遅れておりますが(いい訳です)マイペースに続けます。また今回は長いですし後半になるにつれてまた大真面目に変な事をつらつら語ります。
 
 
[自分自身を開放的に]
私は「見ず知らずの人と触れ合う会」というイベントをしておりまして、1月5日に”わらしべ長者”と”頂いたもので生きる実験(!?)”をしたんですね。興味深かったのは「わらしべ長者をしているのでこれと何かなんでもいいので交換してください!」と頼むと、少し困った顔をされて断られたりもしたのですが、「頂いたもので生きる実験をしているので何でもいいので余ってるものをください!」というと、全員おもしそうに笑って差し出してくれたんですね。実行する前は頂いたもので生きる実験なんてバカげているし、何か渡さないと申し訳ないかも、交換の方がいいんじゃないか、と思っていましたが見事に覆されました。わらしべ長者との違いからみてそこには”単純に変なことをしていて面白い"や"人の役にたてる喜び”以上に、【何も(プレッシャーが)ないからこそ差し出しやすい(踏み出しやすい)のではないか】と感じたのがなんだか突き刺さりました。
 
 
日本は沢山の食料が余って捨てられていて(変に面白く)素直にくださいと言えれば頂けるくらい豊かな国なのかもしれないです。食に限らず困っている事を素直に表現することが出来れば、助ける方も助けられる方も喜びが生まれたりするのかもしれません。自分が持っている物や自分が出来ることなど【自分自身をもっと開放的にシェアしていき、面白く助け合う生き方がしたい】と思ったのでした。
 
 
 
[居心地]
重ねて今週は初めましての人と出会う機会が多かったのですが、やっぱり人との出会いが人生を楽しくすると再確認しました。だからもっと自分を解放的にして【初めて出会う人にとって(意図的ではなく)本当の意味で居心地の良い人になりたい】と思いました。自分を貫きながらも居心地の良い人にはどうしたらなれるんだろう。今後のテーマになりそうな予感がしています。
 
 
[味わい]
今週は総じてリアルでの対話の時間を多く取れまして、少し悲しいことや辛かった事を話す場もありました。ただ今となっては感謝そして刹那的だったなという認識に変わっていて心がほかほかしました。常に前を向いて歩くのもいいけれど【後ろを振り返って辛かった過去すら味わい感謝する(時間的、精神的)余裕のある女性でいたいな】と柄でもなく思いました。今の環境もきっといろんな意味があって、今の自分なりに意味づけをして一瞬一瞬味わっていきたいものです。
 
 
[何億個という楽しさが潜んでいる]
興味ない事をする時は「これくらいでええやろ」と思って中途半端に投げ出す私ですが、部屋に完遂宣言の紙を貼ったところ、なんと!やりきって楽しんで満足する事が出来ました。やりきろうと頑張ってる自分の”内観”を楽しんだりしながら一生懸命取り組んでみると、苦悩が楽しさにすり替わる転換点みたいな存在がある事に気付きました。今まで【やりたくない事を中途半端にやる事で苦悩を手放していた様に思っていたけど、実際は楽しさを手放していた】事に気付いて2秒程超絶ショックを受けました。今までそれに気付かず苦悩から逃げて何億個という楽しさを手放してきたのか・・・!
 
(同じく新幹線に乗った時にもその土地を自分で歩く楽しさを手放しているのだなともどかしくなりました)
 
 
[落ち込んだりもするよ]
昔よりはだいぶ緩やかな波になったものですがそれでも私は起伏が激しいタイプです。もはやそれを味だと思って内観を楽しんでいるのですが。今週は東京でMTGやプレゼン発表があり意気込んでいました、が、全然納得いく動きが出来ず自己嫌悪の波にのまれていました。なんとなく納得のいかない時間を過ごしてしまう時の自分は嫌いです。ただ少し変わったのは思った事を伝えるという一歩を踏み出せたことです。でも強いていうならば、【気付いたその瞬間にうやむやにせず効果的なアクションを起こせる自分になりたい】です。オラララ!
 
そして自己効力感が低くなるのは何故なのか考えていたのですが、”そもそも自分が得意でないフィールドで頑張ろうとして、努力する前から他人の目を気にして勝手に鼻が折れた(不安で傷を負う)様な気持ちになっているから”だと。いやいやどうせなら【自分が得意としているフィールドで思いっきり鼻を折られたいぞ!】と思ったので、まずフィールドを選んで自ら鼻を折られに走りたいと思います。そして【解放を一気にしようとするから難しいので、自分でいれない自分を許して解放までの道筋を段階的に計画する】という事に少しずつ挑戦している最中でございます。なんだか難しいことゆってるね!とりあえず【しんどい事も内観を楽しむ人体実験なんだとナチュラルハイに楽しめる自分の事は好き】です。
 
 
[自由・共生・共創]
チームラボ展に行ってきました。少しびっくりしたのが、共創により成り立つ空間として線路を創る様なアートがあったのですが、1人の男の子しか共創しようとしていませんでした。みんな【その(共創の)仕組みの法則にも気付かずただ1人で悶々と取り組むのだけれど、1人では出来ない仕組みになっているのでなかなか上手く線路を創れない】でいました。なんだか世界を俯瞰して見ている様な気分になりました。
 
 
[行き当たりバッチリ!ヒッチハイク
”想定外の機会を創ってもっと毎日楽しくしていきたいナ!”という沸き上がる欲求があり、急遽弾丸ヒッチハイクで福岡に行って参りました。6組の心優しい方々との出会いで無事福岡に着いてラーメンを食べたり温泉に入ったり帰りに香川県の直島に行ったりしました。感じた事は沢山ありますが、今回は最も【行き当たりバッチリ精神の重要性】を感じました。兼ねてから計画性のNASA!や無鉄砲さは感じていて”行き当たりばったりなんだね”と微妙なニュアンスで言われる事が多かったのですが。いや、違う、これからは「行き当たりバッチリなんだ!」と胸を張って言いたいと思いました(笑)計画をたてても全てが計画通りにいく事はないし、リスクまでじっくり考えて行動を起こすのが鈍くなるよりは、起こした行動をバッチリにしていく、その選択を正解にしていく覚悟が大切なんだとより一層感じました。
 
 
[刺激を食べる]
私はあまりご飯を食べる事は好きではないのですが、もしかしてご飯よりも刺激を食べる事が好きなのではないかと思い始めました。(ご飯は食べる前からだいたい味の予想がつくので楽しくないのです)人は苦しい事があれば、少しの嬉しい事が幸せに感じるように、”差”が快感をもたらすという事を友人に教えてもらって以来そんな事を日々考えています。いかにして差=刺激を食べるのかを考え【日常に差が生まれる様な行動を本気でしていきたい】と思っています。興味がある事や新しい事だけではなく、自分が嫌だと感じる事や、やりたくない様な事にも差を生むエッセンスが詰まっていると思うので、日々挑戦しレポしていきますよお楽しみに。
 
 
[不完全、不安定の美学]
(音楽経験者ゆえに)憂鬱な日があると、無意識に毎日を長調の曲にしようとしている自分に気付きます。そうではなく【今日はラで明日はミの様に生きて、1ヶ月後に長調の曲が出来ている様な生き方】が理想だなと感じています。たまにはファ♯の様な濁った音があるからお洒落な長調の曲になるし、Cコードみたいに明るい音が重なる曲は面白みに欠けていてそもそも私は好きじゃない。だから怠惰な日も含めていろんな一日があっていんだな。そしてどこか不完全で不安定な曲のお洒落さに惹かれる様に、不完全で不安定の美学があるなと感じています。これは次の週にてより深堀します。
 
 
トイレ掃除ですら魅力的]
”好きな人とだったらトイレ掃除もディズニーランドでスペースマウンテンに乗車しているのと変わらないのではないか”とふと思いまして。そんな(大きな?)イベントじみた事や楽しむ場所になんかいかなくても、好きな人たちと【自分達で楽しさを創り出す心や楽しいを感じる心さえあれば最高に楽しい】のだと。例えばトイレ掃除であってもスペースマウンテンの様な精神的楽しさは味わえると思うのです。なんて事を考えているので最近は作為的な空間よりも自分で創造を発揮できるような物や空間に魅力を感じています。そこで自分達なりの面白さを創って面白いと感じる遊びを重ねていきたい!仲間は随時募集中です。
 
 
まとめ
①何も(プレッシャーが)ないからこそ差し出しやすい(踏み出しやすい)時がある
②自分自身をもっと開放的にシェアしていき、面白く助け合う生き方がしたい
③初めて出会う人にとって(意図的ではなく)本当の意味で居心地の良い人になりたい
④後ろを振り返って辛かった過去すら味わい感謝する(時間的、精神的)余裕のある女性でいたい
⑤やりたくない事を中途半端にやる事で苦悩を手放していた様に思っていたけど、実際は楽しさを手放していた
⑥気付いたその瞬間にうやむやにせず効果的なアクションを起こせる自分になりたい
⑦自分が得意としているフィールドで思いっきり鼻を折られたいぞ!
⑧”解放を一気にしようとするから難しい”ので、自分でいれない自分を許して解放までの道筋を段階的に計画する
⑨しんどい事も内観を楽しむ人体実験なんだとナチュラルハイに楽しめる自分の事は好き
⑩(共創の)仕組みの法則にも気付かずただ1人で悶々と取り組むから、創れない
⑪行き当たりバッチリ精神の重要性
⑫日常に差が生まれる様な行動を本気でしていきたい
⑬今日はラで明日はミの様に生きて、1ヶ月後に長調の曲が出来ている様な生き方
⑭自分達で楽しさを創り出す心や楽しいを感じる心さえあれば最高に楽しい

今週も楽しもう。

【空間の色とそれを表す手段】に興味がわいた一週間

【まったりお正月】

内観にはまっておりますおはようございます。1週間の振り返りをします。後半になるにつれて大真面目に変な事をつらつら語ります。
 
歴女メン]
朝からみかとカフェで猛烈に1年の振り返りをし、途中から小野田が合流し、語り合った月曜日。受験期を共に乗り越えたからなのか、離れてる時間が長くても本音で語り励まし合う、時には叱り、共に喜ぶが当たり前になっていて、変わらない二人に感動しました。本当に大切な人です。【一緒に頑張った仲間って素晴らしい】と再確認したのでした。
 
 
[プレッシャー]
実家のピアノを弾きながら考えていました。下宿をしている時はお腹が空かないと食べないので(時には食べなくても平気なので)不規則な時間に不規則な量を食べるのですが、実家では”お腹が空いていなくてもご飯を頂けて決まった時間に食べる”事が当たり前としてありました。非常に有り難い環境です。ただ私は空腹がない時に食べるとどうしようもない不快感を感じるので、ここで”お腹が空いていないから食べるのを後にしてもいいかな”と言いたい気持ちが浮かんできました、が言えない変なプレッシャーを感じていました。有り難いと感じているが故です。
 
思えば誕生日が好きではなかったり、記念日が好きではなかったり、大人数の集まりが好きではないのはこれに似ていると感じました。捻くれている事を承知で”色々してもらえるから喜ばないといけないと感じる誕生日”特別な日だから特別楽しくないとと感じる記念日”その気がなくても仲良くしないといけないと感じる集団行動”。これらは全て【自分で勝手に認識してプレッシャーを感じてしまっている】のだと気付きました。不思議なくらいただそれだけなんだなと。不快感を感じたときって決まってそんな考えに捕われているだけだと思ったので思いきってもっと手放してみたいなと思うのでした。とりあえずは”空腹がない時に食べることのどうしようもない不快感”は「単なる生命維持活動がいやなんじゃないか」という興味深い助言を頂いたので近々紐解いていきたいと思います。
 
 
[漫画の世界]
お正月は漫画を読みまくりました。昔の自分の心情を思い出すヒントがあるんじゃないかと思ったからです。ふふ。結果【登場人物が尋常じゃないくらい精一杯生きてる】姿に自分を重ねて擬似的に自分の人生を楽しんでいた自分が見えました。あー私って【もっと精一杯生きて泣いて怒って波瀾万丈に近いくらい豊かな人生を送りたいんだ】という欲求に気付きました。真面目に語っていて笑えます。
 
 
[空間の色]
お正月は帰省したりお婆ちゃんの家に行きました。そこで人やワンちゃんが笑ったり怒ったりしている場面がありました。【そういったひとつひとつの場面って良い悪いではなくその空間に色があるだけなのかもしれない】となんだか思えてきまして。その空間を構成している人の感情の色が合わさった時の、空間の色は非常に興味深く”そこにただ在ること”や”在り方”が大切だと言われる要因を空間の色で感じたりもしました。今後は絵でその都度印象的な場面を表現出来るくらいアンテナをたてて過ごしてみようと思った正月でした。とりあえず【空間の色とそれを表す手段】に今非常に興味があります。
 
 
[腐っていく感覚]
お正月は1年でもっともゆっくりできる時期です。ただ毎年ゆっくりしすぎると自分が腐っていく感覚に苛まれて、狂った様に何かに没頭する時間をとらないと魂の肉体維持が保てない様な気になります(幽体離脱・・)この感覚はあまりよろしいものではないので【来年のお正月はむしろ今期最大の多忙を体感してみる時期】にする事にします。
 
 
[プリのシュールさ]
プリクラを整理してしたのですが、全然楽しくなさそうなのに「たのしい〜」って落書きや親友やマブダチの多いことのシュールさに笑っていました。中には”我等友情永久不滅”といった厳つすぎる落書きもありました。若いっていいですね、尖っていた過去や良く魅せようとする必死さも全て微笑ましいものと化します。ただ楽しくなかったのは、感情が何も芽生えないくらい適当なプリクラでした。適当に撮って落書きした様子ですが、適当な撮った記憶すらない。あー【必死にやるからおもしろいに時効はない】んだなと思いました。
 
 
[おかまに間違えられた]
高校2年生の時のプリクラを見て思い出しました。当時いろいろと必死だった私は厚化粧にウィッグをかぶって派手な格好をしていたわけです。それに更に磨きをかけて厚底履いて名古屋にいったら行きの電車でおかまだと間違えられるという衝撃の体験をした事を思い出しました。【やりすぎは性別すらも色々と超えてくる】のは面白い体験です。これにひるむ事なくネタになる様に色々と過度に超えていきたいと思ったのでした。
 
 
[男装ONB]
ぶっちゃける訳でもなんでもないですが、高校の時に男装をして雑誌に載ったりしていました(変な雑誌ではありません)思えば”変わる事、変化していく事”は昔から好きでした。【自分が変わっていくプロセスと、周囲の反応が変わる事がとてつもなく面白い】からです。そしてこういった行動の根底には、現状の自分の存在や事象のつまらなさ(飽き)と好奇心があると見ています。そこで、もしかして決まった就活をして面接を受けるよりもオナベのオーディションとかを受けた方が私は心が躍るのではないかと思い始めました。速攻調べると、残念ながらオナベのオーディションは開催されていませんでした。空しい。ただ現状シークレットガイズというイケメンおなべユニットが存在している事は把握できました。将来の競合ですね。AKBではなくONB!オナベミュージックのパイオニアになりたいものです。
 
 
まとめ
①一緒に頑張った仲間って素晴らしい
②自分で勝手に認識してプレッシャーを感じてしまっている
③登場人物が尋常じゃないくらい精一杯生きてる
④もっと精一杯生きて泣いて怒って波瀾万丈に近いくらい豊かな人生を送りたい
⑤ひとつひとつの場面って良い悪いではなくその空間に色があるだけなのかもしれない
⑥空間の色とそれを表す手段
⑦来年のお正月はむしろ今期最大の多忙を体感してみる時期
⑧必死にやるからおもしろいに時効はない
⑨やりすぎは性別すらも色々と超えてくる
⑩自分が変わっていくプロセスと、周囲の反応が変わる事がとてつもなく面白い
 
 
一週間おつかれさまでした。継続出来るかなこれ。でも楽しいからやってみます。