孤高の世界に凛々しく立つ〜武蔵野市立吉祥寺美術館にて〜
なんかまた更新サボってしまいましたね。こんな調子で大丈夫なんでしょうか。
さて、先日は武蔵野市立吉祥寺美術館に行ってまいりました。ここはコピス吉祥寺というショッピング・モールの7Fに位置している小さな美術館で、展示品もいわゆる西洋絵画ではなく、数人の画家に絞って、彼らの版画を展示しているというユニークなところなのです。
さらに企画展があるときもクレパス画だとか、一風変わった作品を展示しているんですよね。
で、常設展で焦点を当てられている画家さんが、浜口陽三、南桂子、萩原英雄の3人。浜口陽三と南桂子は夫婦で、僕も詳しくはわからないのですが、大別するとこの二人が銅版画、萩原英雄は木版画であっているはずです。
3人とも20世紀初頭の生まれで、作品は古いものは1950年頃に制作されています。うーん、いつも思うんですけど僕の眼前にある絵が、その昔に現在進行形で描かれていたことがあるっていうのはなんだか不思議ですよね。
さて、彼らの作品は常設的に展示されているわけですが、今回は期間限定でコンセプトみたいなものがありまして、ズバリ「女と鳥」。
文字通り、女性や鳥が描かれている作品が展示されているわけです。
浜口と南の作品が展示されている、浜口陽三記念室のタイトルが「孤高の瞳と少女の鳥」。
まずこの「孤高の瞳」を描いた浜口の版画がスゴイ。なんと女性が黒インクの濃淡のみで表現されていて、背景も殆どの作品で真っ黒なんです。作品中の女性は暗く、孤独な世界に閉じ込められていて、そこから何か強い意志のようなものを持った瞳で、一点を見つめているのです。まさに「孤高の瞳」です。彼の描いた女性たちは一体何者だったのでしょうか。
一方の南の作品は打って変わって、カラフルに彩られた小鳥たち(一部デカイ鳥もいますが)。絵の模様が刺繍の感じに似ていて、より可愛らしい印象を与えます。
しかし、同時に不思議な感覚にもなるのは、白い世界の中に、木や建物がポツンと描かれているからでしょう。つまり、何も描かれていない「余白」の部分が多い。普通は前方と遠方に何かを描くなら、その中間に森林やら川やらと言った背景があり、それがより絵を引き立てるはずなのです。
そういったモノが一切ないから、どこか突き放された感じになります。版画の性質ゆえの構図でもあるのかもしれませんが、それがまた独特の世界観を与えているのです。
さらに、この事は彼女の遠近感の巧みさによって、より効果を発揮していると言っていいでしょう。むしろ、それがなければ折角の余白もただ違和感があるだけで、終わってしまうはずです。
距離感によって物体の大小を変えるその絶妙さはもちろんのこと、鳥を中心に据えて主人公のように描く時は、落ち葉なんかも鳥と同程度の大きさにして、いわば模様のような演出をさせる。
作品ごとのそんな調節によって、余白が確かな意味を持っていきます。
背景がある作品なんかは、絵画の向こう側に何があるのか、想像力が引き起こされるので僕は好きなのですが、これはその逆です。
想像力が入り込む余地がない、なにせそこには描かれたもの以外は、白しかないんですから。でも、そこにいる鳥や樹木、さらには無生物までが確かに生きているような感覚を受けるのです。
お次は萩原英雄記念室。ここでは「貴婦人と寓話の鳥」。
彼は貴婦人というタイトルで何枚もの作品を制作しているのですが、その背景がすごい。赤や黄といった鮮やかな色を使って、世紀末のような演出をするのです。その中に当たり前のように女性が立っている。こちらもまた別の意味で突き放された感じを受けますが、一方で何だか引き寄せられるのです。
僕は花が咲いているよりも、枯れている冬の樹木の方が好きなタイプで、その意味で何だか破滅を思わせるようなものに惹きつけられたりもするのですが、これが一種の現実逃避のような気もしてくるのです。というか、多分そうなのでしょう。どうせなら落ちるところまで落ちてしまえばいいという投げやり感があります。でもこれは坂口安吾の言うところの堕落じゃあ全然ないんですよね。そこには誠実さが全くないですから。そもそも自身は堕落してないですし。
…話を戻しましょう。ところが、萩原はこの、破滅を思わせる世界に平然と貴婦人を描いてみせるわけです。彼は「芸術の根底にはヒューマニズムがなくてはならない」という趣旨のことを言っていたらしいですが、こういった所に、それが現れているのではないでしょうか。
う〜ん、何だかど素人がエラそうなこといっていますが、そもそも絵画の鑑賞ってこんなんでいいんですかね?
まあとりあえずは萩原英雄の著書を買って、彼の人生観をのぞいてみたいなと思います。「美の遍路」というらしいです。皆さんもよろしければ、読んでみてください(自分もまだ読んでないくせに)。
後は、武蔵野美術学園というところの学生さんの日本画が展示されていましたね。それを観ると、人と同じように絵画にもそれぞれ個性があるんだなあという事を実感できたのですが、その話はまた別の機会にでも。まあ人の個性が絵画に表れるって言う方が正しいんでしょうけど。
さて、かなり的外れだったところもあると思いますが、未熟な大学生の独り言と思って読んで頂ければ幸いです。
後は武蔵野市立吉祥寺美術館、是非訪れてみてください。1時間半ほどで観られると思うので、買い物の帰りなんかにもオススメです。
それでは。
火の鳥とB’z
毎日更新とかほざいておきながら、かなりの日数サボってしまいました。いきなりよくないですね。
さて、僕はB’zをよく聞くんですけど、昨年、彼らはHINOTORIというツアータイトルのLIVE-GYMを開催しました。そこで、新曲「HINOTORI」も披露されました。音源化が楽しみです。
ですがこのブログタイトルはそのことではなくて、手塚治虫の漫画作品、「火の鳥」を指しています。
他愛ないことなんですが、火の鳥とB’zのあるアルバムに一つの共通点を見つけまして、今日はそれを紹介しようかなと思った次第です。
さて、 火の鳥ですが、この作品では巻ごとに様々な時代が舞台に選ばれ、一つの物語は一巻で完結しながらも、それぞれの話が時系列的な繋がりを持っています。
さらに、物語の舞台が(手塚治虫の生きた時代から見て)過去→未来→過去→未来→・・・と交互に移動し、渦巻きながら現代に近付いていくという構成をしているのです。
例えば、1巻の黎明編では邪馬台国などの諸国が分立していた弥生時代が、2巻の未来編では35世紀の人類滅亡の日が、3巻のヤマト編では古墳時代が、それぞれの舞台となっています。
そして、この構成の重要なポイントが未来編の中で示されています。
(以下、火の鳥未来編のネタバレ含みます。あんまりネタバレって感じの作品でもありませんが、念のため)
未来編では、核戦争によって地球上の生物が滅亡した後、ただ一人生き残ってしまったマサトが火の鳥から永遠の命を授けられ、再び人類の文明を築き上げるという使命を受けます。
当初は、ロボットや人造人間を試すマサトでしたが、どれもうまくいきません。やがて彼は、一から生物の進化を繰り返すしか方法はないと悟ります。そして、生命の素となる有機物を海に託し、何十億年もの時をただ待つのです。
そんな彼の思いは実り、やがて陸上に進出する生物が現れ、紆余曲折がありながらも文明を再興することに成功します。
ラストシーンで再び火の鳥が現れるのですが、なんとそこで黎明編の冒頭のシーンが繰り返されるのです。これは黎明編の時代のずっとずっと前に別の人類文明が存在していたことを示している。
そして、最後は火の鳥の次の言葉で締められます。
「生物が滅びてまた現れて進化して滅びた…火の鳥の目のまえで何度くりかえされたことだろう…そして何度目かの人間がいままたおなじ道を歩もうとしている」
「『今度こそ信じたい』『今度の人類こそきっとどこかで間違いに気がついて…』『生命を正しく使ってくれるようになるだろう』と…」
この言葉に、人類(に限らず万物の霊長に上り詰めた生物全ての)文明が過去に何度も滅び、マサトによって再び始められた文明は何回目、何十回目かもしれないということが表されています。
手塚治虫は仏教の影響を強く受けており、火の鳥にも輪廻の考え方が度々登場しますが、彼はそれを全人類、全生物という非常にマクロな単位で適用してしまったのです。
その中で、いつか人類が核兵器など、その文明の発達の末に自滅する道を避け、新しい歴史の第一歩を踏み出してくれる日を待っているという描写がなされているのです。
↑火の鳥未来編(角川文庫新装版)
さて、これが一体全体なんでB’zと関係があるんだと思われるかもしれませんが、もう少しお付き合いください。
先ほど僕はB’zのあるアルバムと言いましたが、それがこちらです。
FRIENDS。1992年にリリースされたミニアルバムです。このアルバムには有名な「いつかのメリークリスマス」など、8曲が収録されており、内4曲はインストゥルメンタルです。
最大の特徴はアルバム全体で一つの物語になっているということです。かつての恋人と別れた主人公は「いつかのメリークリスマス」で楽しかった日々を思い出します。
「僕の罪」では「まだまだ時は十分に過ぎてない」「何かが違うと感じるのは僕がただ臆病なだけなのか」と、躊躇いながらも「君」との再会を果たします。
続く「恋じゃなくなる日」(これはB’zのバラードの中でもトップクラスの名曲です。必聴!)では、「ほんの少し離れて歩く傷つかないように」「強い戸惑いを意味のない笑顔にすりかえてまた戸惑う」と、かつて自らを傷付けた恋に怯え、その中で段々と気持ちが近付いていく様子が表されています。
そして「どうしても君を失いたくない」と、彼は胸に決意を秘めるのです。
しかし、ラストに「いつかのメリークリスマス」がピアノで演奏されるのです。
これによって、二人の物語が「どうしても君を失いたくない」でハッピーエンドとなるわけではなく、再び失恋の悲哀を味わうことになるかもしれないということが示されています。
どうです?火の鳥の世界観と相似をなしていると思いませんか?勿論、スケールは全然違いますし、同じ人と、別れと再会を何度も繰り返すことはありませんが。
「心を燃やした人」との再会を果たした主人公の行き着く先はどこになるのか。それを聴き手に想像させる(というより聴き手も想像しきれない)形でこのアルバムを完結させているのです。
これは「僕の罪」の「罪がはじまってくりかえす」などのフレーズにも表れされていると思います。
さあ、少し長くなりましたかね。いかがでしたか?こんな感じで、全く別の人間が別の表現方法で描いた二つの作品が交錯するっていうのが意外とあるんですよね。それが小説、漫画、音楽等に触れる一つの醍醐味だと思っています(勿論、それに限らず、大学で学ぶような学問とか、社会で生きてく上で必要なことも)。
要は、寒い冬の日は暖かい家で手塚治虫を読んで、B’zを聴こう!って事です。
それでは、また
はじめまして
急にですが、本日よりブログを書き始めようと思います。
一応身分を明かしておきますと、僕はそこらに転がっているような、石のような大学生でございます。
この頃、食欲は右下がりのグラフを描いているようで、最近ではラーメンも並盛りで満足できるようになってしまいました。
その一方、現在上昇し続けているのが好奇心でございまして、金の使い途が急激に増えているような気がします。僕の今年度予算案も赤字待ったなしで、この如何ともしがたい現状に頭を抱えているところであります。
まあそんな中、折角増えてきた趣味のあれやこれや、一時の興奮だけで終わらせてしまうのは勿体ない!ということで、始めたのがこのブログであります。
主な目的は2つございまして、
➀文章化する事によって、自分の思考を整理する
➁僕の考えをごく少数の人にでも(多いとなお良いですが)披露する
➀は皆さんも結構経験あるんじゃないでしょうか。何だかいい感じのことを思い付いたのに、フワッとしたまま消滅してしまう…。本を読んでる時、音楽を聴いている時、何気ない瞬間、様々なところで考えは湧いてきます。それを失わないために、思い立ったが吉日、このブログに書いてしまおうというわけです。いいですね。面倒臭がり屋の僕ですが、目標は毎日更新!…途切れないようにやっていきたいです、切実に。
後は➁ですけど、人は何かアイデアが浮かんだら、他人に聞いてもらいたいもんです、どんなにしょうもないことでも。友達と会話を交わすなんてのも手段の一つですが、まあ顔を合わせて話すには気恥ずかしいこともありますし、何と言っても僕は友達が少ない。ブログは昨日の晩飯から宇宙人の話まで、何を書くのにも最適です、多分。そんなわけで僕はここに、一方的に勝手なことを書きまくります。気に障ったらごめんなさい。謝罪ならいくらでもします。
書くジャンルはあまり決めてないですが、本、音楽、スポーツ、散策…ようするに、何でもです。僕に興味を持たれたものは片っ端からブログの材料になります。その内、ゼミの研究分野に絡めて話なんかも出来るようになるといいですねえ。
そんなこんなで、マイペースに(毎日!)更新していく予定です。あと、ブログの文体がよくわからないので、ヘナチョコな丁寧語になっていますが、段々変わっていくかもしれないです。
それでは、また