小石川植物園

小石川植物園に行ってみる。

茗荷谷駅で降りて、大きな国立大学の近くの評判のよいカフェでランチを取る。

とても美味しい!

とりあえずエビの唐揚げを頼んだあと、鳥丼のセットを注文。

ほどよく焦げた鶏肉と、有機もの野菜がいちいち美味しい。

元気な女性たちの談笑が店内に響き渡っている。

賑やかなのに、うるさくないのはどうしてだろう?

隣りのテーブルには小さい子どもふたりを連れたパパ。

プラスチックのカラー・コップがならぶ。

飲み物はドリンクバー。

 

植物園までは相当歩く。

連休前半の土曜休日だが、住宅街にぽつんと残っている工場は機械が回っている。

私が育った京浜地区の工場とは趣がちがっている。

建物どうしがすかすかで密集していないせいか。

 

ようやくたどり着いた公園は、入場料が500円。

コインロッカーご利用できますよ、とお祭りのくじ引きのような台でモギリをする女性に言ってもらえるが、コインは戻らないのでご注意ください、と三回ほど言われる。

ぼろぼろの錆びたコインロッカーが植物園と道路沿いの壁にある。

やや斜めっているロッカーの扉をガタガタ開き、帰りに開けるまでは開けられない、と念押しして荷物を入れる。

かちゃんと300円が落ちる。

 

この植物園はどこの管轄なのか。

東京大学なのか。

いずれつぶされて既得権益の餌食にならなければいいが。

すばらしい木々である。

天に伸びながら、同時に地面をも這うような不思議な生命体。

枝ぶりがものすごい。

むらむらくる。

「木登り禁止」の立て札。

私のようにむらむらするひとがいるらしい。

 

休日の公園にしてはひとが少ない。

たまに家族連れがいるが、池の亀で遊んでいる子どもの傍をギリ通ろうとしても無言。

通してあげなさい、とかちょっと池から離れてとか言わない。

 

ベンチに座って本を読んでいるひとがいる。

500円も払ってベンチで本を読むのか、と夫が言う。

茗荷谷生協で買ったピーナッツを食べてお茶を飲む。

 

帰りは白山から帰ろうということになる。

白山駅へは一度上って、下りなくてはならない。

 

ぜいぜい言いながら上って、また下りる。

その辺りを歩いているとフシギな感覚に襲われる。

成人してからこの辺りに来た記憶はないが、どうも初めてのような気がしないのである。

遠い昔し、子どものころ、祖母に連れられて来たかもしれない。

祖母と祖母の姪にあたるとこちゃんと私と三人で来たかもしれない。

小学三年のとき、父が再婚をした。

滋賀県の田舎から出てきた女性は、父ともうまくいかなかったが、祖母やことさら私を邪険に扱った。

祖母が私を連れて家を出ていこうとした時期があった。

祖母にはいくらか蓄えがあり、とこちゃんと共同でコーポを購入しようと思ったのかもしれない。

1960年代のことで、当時「マンション」といわずこの新しいスタイルの住まいを「コーポ」と言っていた。

三人で見学に来たのかもしれない。

宣伝のチラシを見た覚えもある。

実現することはなかったが、新しい住まいを探すことで祖母のきもちがいっとき安らいだのかもしれない。

祖母が家を出るのは「私のため」と言うのが不快であった記憶もある。

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東京都写真美術館「時間旅行」

帽子をかぶった宮沢賢治が、土の家にうつむいて立つ有名な写真が写真展のポスターになっている。

どうしても行きたい写真展「時間旅行」

写真展の出だしの大正時代のすばらしい写真。

子どもをおぶった女性と、後に続くもうひとりの女性が歩いて行く。

祖母が孫をおぶって、母親が後に続くのか、

子守が赤ん坊を背負って、若い女中が後に続いているのか。

ややブレた白黒写真に彼女たちが先を急いでいること、前に向かう女性ふたりのスピード感がつたわってくる。

 

「時間旅行」は「春と修羅」にトリミングされている。

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桜並木

先週、友だちと行った桜坂。

五、六年前に行ったときは華やかな賑わいがあったが、桜が減ったのかあじけない。

寒いし雨が降っている。

そのとき桜の木の樹齢について話していた彼女が「馬込の桜もけっこう古いよね」と言った。

馬込?

そういえば、あったな桜の一本道。

あの通りを通って通勤していたんだ、急に思い出した。

あの道はどこだったんだろう?

どこをどういけば行けるのだろう?

気になりはじめた。

移転前の庁舎まで行けば、道がわかるかもしれない、と私鉄を乗り継ぎ、バスに乗っていまは区のコンサート・ホールになっている会館まで行く。

池上通りはいつも混んでいる。

曽祖母の家が池上と大森駅のあいだにあったので、子どものころから通った場所であり、祖母の認知が進み、ふらふらしているところを発見されたのも、このあたりだった。

 

今日は、入学式の日で、制服を着た中学生や、親と一緒に式に出た帰りの高校生たちがいる。

ねえねえ何組だった?

先生はだれ?

名前しらないやつか、やばいかも
など女子が叫んでいる。

 

こんもり高台の公園があり「佐伯栄養学校跡地」となっている。

佐伯栄養学校は、曽祖母の家のあった坂一帯を占めていた。

池上通りのバス停から栄養学校のうっそうとした緑の影になったやや急な坂道を登る方法と、なだらかな宝来坂を登っていく方法と二通りあったのだ。

 

栄養学校の終点で道が分かれている。

お地蔵さんがある。

六地蔵のうちの五地蔵で交通安全と書いてある。

ぱらぱらひとが行く方へ行くと、桜並木の通りに出た。

なかなかの賑わいだ。

私が通勤していたころにはなかったが、桜の木が石に囲まれている。

いまでは暴走できないように歩道が一段車道から高くなっている。

これでは走りにくい。

 

五時に退勤すると一刻も早くその場を立ち去りたい一心で自転車をこいだ。

今ではとても考えられないことだが、ものすごいスピードでウォークマンでハードロックを聴きながら走った。

目撃したひとからは一様に「あぶない」と言われた。

今はもうそんなスピードが出せないのと同様、当時スピードをゆるめることができなかった。

 

今年は、どこの桜を見てもあまりきれいでない。

桜坂への帰りは冷えて具合がわるくなった。

世田谷公園も、多摩川台もまばらな桜の花がうすぼんやりしてい。

しかし、馬込の桜並木は見事だった。

花見をしているおばあさんたちも、子ども連れのひとたちも活気がある。

 

このところもやもやして、3月のもやもやは許されるが、4月に入ってもまだもやもやしているのはだれも許してくれない。

朝、ふっと馬込の桜並木、何十年も行ってないあの場所はどこだったっけ?

とネットで調べた。

ネットで調べた「馬込の桜並木」が果たして私が通っていたあの通りなのか小さな写真と地図から確信が持てず、またどうやって行くのか?

地理的には遠くないはずだが、ととりあえず出かけよう、と帽子をかぶって外に出た。

 

もう写メをして喜んでくれる大伯母はあちらの側へ行ってしまった。

ホームのベッドで池上周辺の写真を受け取ると、すぐに「懐かしい、ありがとう」と返信がきた。

今年桜を見に市の倉周辺へひとりで行くことが供養になるような気がする。

池上駅は、お気に入りのたこ焼き屋も、あまりひとの入ってなかった弁当屋も消えて、無印とマツモトキヨシになっていた。

たこ焼き屋さんも弁当屋さんももとからなかったかのよう。

無印とマツモトキヨシに塗り替えられている。

長いエレベーターを下りて駅の外へ出るとき、大伯母も、池上の葛餅屋に嫁いで奴隷のようにこき使われて亡くなった友人も、私のなかにまだ生きている、と感じる。

私が死んだあとも、こんなふうにひとのこころに存在するんだな、きっと、そんなことを思った。

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嘘 続き

2000年の8月に叔父が亡くなった。

叔父との最期は、愛にあふれるものだった。

「あとで桃たべようか、皮むいて」と横になって私の気功を受けながら言った叔父のやさしい声が忘れられない。

 

その後、父が13ヶ月の昏睡状態の後亡くなり、数年後養母もこの世を去った。

今年1月に101歳で生涯を終えた大伯母に、ことばにしづらいふしぎさをやっとことばにできたとき、

「私もそう思ってたわよ、なぜあなたが帰ってこないのかって」

と祖母の葬儀に顔を出さなかった私に言いにくそうに言った。

育ててもらった恩を忘れた不義理な孫、という役を担わされていたらしい。

ことの次第を話すと、まあ、とひとこと。

私が養母の仕打ちについて相談するたびに、

「してもらってることに感謝してごらんなさい」

などとおとぼけなことは、このころになるとだれも言わなくなっていた。

 

叔父が誤解したまま死んでいった、と思うたびに苦しかった。

死者は、なにもかも知っているはずだが。

そういえば、と思うことがある。

叔父の納骨の日に、おばあちゃまのときも暑かったわねぇと親族のほうを向いて言った養母の顔である。

うすわらい、

《あんた知らんやろ、うちがはめてやったんや》という、おかしくてしょうがない、という顔。

 

彼女はあの世へ行ったって、私が知ろうが知るまいが気にしていない。

いっとき私の評判が彼女が同じく憎んでた父の親族のなかでわるくなることが目的なのだ。

だから嘘というのとも少しちがうか。

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ひとの嘘というのは、いつかわかるものだと思う。

2000年に亡くなった叔父の病床で祖母との思い出話しを持ちかけると彼が怒った顔になるのかなぜなのか、ふしぎの理由を考えた結果、どうやら祖母が亡くなったとき私が葬儀に欠席したというのがその理由であるらしいことに行きついた。

その当時私はスリランカに暮らしていたが、もちろん帰ってこれない距離ではない。

 

晩年アルツハイマーであった祖母が、それまで永く入っていた千葉の病院から追い出しがかかって行き場を失い、実家からは近いが扱いの荒い大田区産業道路沿いの病院に転院させられた。

私は二度目の妊娠で一時帰国していた。

大きなお腹でバスに乗って見舞いに行くと大部屋に収容された老人たちのあいだに祖母のベッドがあった。

おばあちゃま、と呼びかけて泣いた。

灰色のもやがかかっているような病室は、祖母のあたまのなかの有様でもあったのかもしれない。

もう、呼びかけても反応が返ってこなかった。

私たちがスリランカに戻っても、祖母はしばらく生き続けた。

 

コロンボ・セブンのコロニアル風の大きな家の二階には広いバロコニーが付いていて、この物件を見にきたときたまたま父が日本から来ていて、一緒にバルコニーに立って庭を眺めながら、ここから侵入しようと思えば上がってこれるよね、と言うと、

侵入しようと思えばどんな家だって侵入できるさ、と言った。

そぉ?と聞くと、ああ、と言った。

 

そのバルコニーでときどき瞑想のようなことをしていた。

おばあちゃまが死んだような気がする、とかなりはっきりした感覚だったので夫に言った。

翌朝、早い時間に祖母が亡くなった、と養母から電話が入った。

簡単にするから帰ってこなくていい、と言ってくれた。

 

私にとっては、母親代わりの祖母だったから、帰るべきだろうな、と夫と話していると、また養母から電話がかかってきて、小さな子どもを連れて帰ってくるのは大変だから、帰ってくることないよ、とやさしい口調で言われた。

東京から戻って数ヶ月してやっとこっちの生活テンポになれたころでもあり、帰るべきという思いと、おっくうな思いと両方あり、行かないことにしてしまった。

養母のめずらしく私を気づかうやさしい口調も決心に手伝っていた。

こんなに言ってくれてるのに帰ったら気を悪くするかもしれない、という気持ちがどこかにあったとしたら、自分自身に対してとても残念だ。

「やっとよいほうに向かう」何度も何度も裏切られながらも、八歳のときからいじめられてきた養母との関係に習慣のような希望がわく。

これは虐待の構図。

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まつもとがTVから消える日

このひとが画面に登場するたびに、即チャンネルを切り替えてきた。

チラリと黒い影が見えただけでぞっとするGのような存在。

フシギでならならないのは、このみにくい、半笑いの顔でいやなことを言う芸人に対して、私以外のひとが文句を言っているのを聞いたことがなかった。

今回のことがあって急に、実はきらいだったというひとが声をあげている。

「べつに気にならない」というひとが多かった。

永作博美という女優がいやだ、というひとの方かむしろ多かった。

私のほうは、この平凡な顔立ちの女優さんのどこが気に入らないのか理解できなかったが。

「私のまわりはみんなすきだよ、きらいって聞いたことない」と当時30代でケーブルテレビの仕事をしていた姪は遠慮がちに言った。

「おもしろいよ」

えーっ?

私の感覚がおかしいのか。

大阪ローカルテレビの老舗番組は録画して観ていたが、あるとき西田敏行氏が司会を降りて、あろうことかこの品性うたがわしい、信じがたくきたならしい男が西ちゃんの後釜に座った。

いつもの無意味なわらいが、歯並びのわるい口をだらしなく開けて漏れ続ける。

やむなく録画を中止した。

いつかいなくなればいいと心から願っていた。

私の祈りが通じたわけでもないだろうが、どうも雲行きがあやしくなっている。

 

報道が嘘でもいいから目の前から消えてほしい。

 

さんまもたけしもどちらかといえば苦手だし、言ってしまえば古典落語もたいてい気に入らない。

後輩芸人たちを従えてえばっているホモソーシャルな世界がいやなのだ。

男の口で語られる噺は、男性中心で女性をみくびっいているか、女性を男に従う便利な存在として描いている。

(女性落語家の語った「芝浜」はすばらしかった!)

例外はある、すばらしい作品はある。

 

いま、報道の方向がどこかで変わってしまって、消えたはずのGがどこからか出てきたらとYouTubeニュースから目が離せない。

従って、見るのもいやなこの顔を毎日見ているのだ。

 

※わらいのニューウェーブ。ママタルトと真空ジェシカ。平和で仲良しのコンビ。でもいちばん好きなのはランジャタイ。

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森は生きている 後編

カーテンが開いて、舞台が始まった。

雪深い森のなか。

茶色い着ぐるみを着たリス二匹と、尾の短いうさぎ一匹、木の上から美しい黒い羽をもつカラス、そして狼。

このうさぎはかの有名なおみじかうさぎである。

楽譜でしか知らなかったおみじかうさぎの歌を初めて聴くことになる。

狼は大きく、毛皮もふさふさでリアルであるが、なにせとんまなのでいつもカラスにだまされ続ける。

 

一部だけで1時間半、15分の休憩を挟んでさらに1時間半の長丁場である。

夫は、用事が入ったので途中抜けで退座。

私はこの休憩中にぜひトイレに行かなくてはならない。

終わったと同時にちゃっと立ち上がって小走りに走る。

このような場所のトイレ休憩は長〜い行列がつきものである。

そうと知っていながらトイレに割くスペースがやさしくない。

案の定、私の後ろから走ってくるおばさん二名はねぇねぇ外のトイレ行こうか?と劇場の外のトイレへと出ていった。

私の前にトイレに入った小学生がパンツをずり上げながら個室から出てくる、小学校のお便所風景。

さっと用を足して出ると、短い時間のあいだに列は通路まであふれている。

 

やれやれ、席に戻ると私のすぐ後ろの席の小さな女の子が泣いている。

みたくない!みたくない!

と叫んでいる。

帰りたい、やだよぉ。

と泣いている。

振り返ると、狼がこわくて泣いているんです、と優しそうなお母さんが言う。

なんとかなだめて後半の舞台まで居たい、という気持ちはわかるが、この強烈な泣きを静めることはできそうにない。

あれはなかにニンゲンが入ってるの!

とお兄ちゃんが冷静に言って聞かせるが、効果なし。

どうも母親が真剣に取り合ってくれなさそうだ、と不安になったのだろう、耳をつんざくような悲鳴をあげ始めたので、私は左耳を押さえた。

左耳が聴覚過敏なのだ。

妹と母親が退場し、お兄ちゃんはひとりで観劇。

 

意地悪な継母と継姉に、いためつけられるみなしご、という設定。

継母と継姉の嘘、不正、陰謀に翻弄され森で凍え死にしそうなところを、十二月じゅうにつきの妖精に助けられる、とざっくりいえばそういうストーリー。

みなしごの後をつけて森に迷い込んだ継母と継姉に、木の上のリスが雪の高まりをなげつけるシーンでは小さな笑い声が起こる。

小さいながら毒のある笑いである。

継母と継姉が雪だらけになって困っていると、小さな拍手まで起こる。

娘と顔を見合わせて笑う。

さて、ハッピー・エンドで幕が閉まり、外へ出ようとすると用を終えた夫がまた会場に戻って来ている。

少し前に着いたのだが、なかに入れてもらえなかったそうだ。

 

ロビーには、機嫌を直した妹とすらっとしたお母さんが立っている。

よかったですよ、後半も狼さんいっぱい出てきたから、と言う。

どうもすみません、と頭を下げられてしまう。

 

《森は生きている》

とても楽しい芝居だった。

林光の曲が見事だし、内容もへんな教養主義にならずきれいな仕上がりだった。

なみしご役の若い女優さんがどこも嫌味がなくてすてきだった。

女王役も、そして最後は犬にさせられ継母と継姉も、それぞれ若々しいハリのある声と演技で森世界を拡張させていた。

 

夜は、テレビを観ながらクリスマス・チキンを食べた。

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ママタルト残念!がんばれひまん!