マンガの動きの件oyomot氏の連続ツイート
うんなんつうかどんどん話が迷宮入りしてる。まず前提として、たとえ題材や素材がスポーツや格闘技であったとしても「動きを表現すること」自体は最優先事項じゃない(何を優先するかはその都度)ので / “漫画とアニメの動き表現が違うというこ…” http://t.co/VzEIwe8DmN
— oyomot (@oyomot) 2014, 11月 1
アニメーションですら「動くこと」は武器ではあるがそれ自体が目的である幸福な時代は遥か昔だ。ついでにいえば動いてるものが止まってるように見えること自体も別に決定的な悪ではない。動いてることは二次的な話題でしかないこともある。
— oyomot (@oyomot) 2014, 11月 1
たとえば、馬が走るとき、四本の足が完全に宙に浮いている瞬間があるのか、それともどれかの足が必ず接地してるのかが議論されたとき、動いてる馬を連続して撮影することに成功することで馬の足が四本とも宙に浮いていることが証明された、というエピソードがあったと、子供のころに読んだ覚えがある
— oyomot (@oyomot) 2014, 11月 1
その話において「馬の走ってる写真」は、動きを表現するのが大事だったのかといえば、そんなことはない。むしろ逆ですらある
— oyomot (@oyomot) 2014, 11月 1
どうもこう、「新寶島」の「映画みたいだ」「動いてるみたいだ」から、「動く」「動き」「動いてるみたい」というのが逆に言論の束縛になってやせんか。おそらく彼らの議論の本来の順序は「どういう出来事が発生してるかが判る」「言葉で説明しなくても説明が足りてる」のがまず目的としてあり、
— oyomot (@oyomot) 2014, 11月 1
その「何が起きてるか判る」上で便利なのが「動いてるものが、どういう方向に、どういう角度に、どういう速さに、動いてるかがよく説明されている」、から、絵を見て説明が足りている、つまり何が起きてるかわかる、その説明が効率的なので読みやすさや読む速度、読む理解度に貢献し、結果として、
— oyomot (@oyomot) 2014, 11月 1
それが連鎖して隣り合う「説明」に貢献していき、という、一連の総合において「格闘シーンが迫力がある」「かっこいい」というところに落ちがつく。そういう順序をきちんと言わないといけないものが、「動き」という単語に脊髄反射しすぎて相互の話がどんどん噛み合わなくなっていく
— oyomot (@oyomot) 2014, 11月 1
さて、実際に動いてるものを撮影した映像や写真は、「動き方を説明するための道具」である。それ以上ではない。そして「何がどう動いてるかを説明するか」という目的においては、描くものの動いてるもの全部を気に掛ける必要すらない。というか説明したいとこだけ重点的に「動いてる」よう見えればいい
— oyomot (@oyomot) 2014, 11月 1
絵は文脈上でありさえすれば、すべての情報は均等である。1000年前の日本の絵巻物の文脈上の「動き」であっても、最新の機材を使って得た写真からの借り物であっても、どちらも「動きを説明するための道具」としては等価だ。
— oyomot (@oyomot) 2014, 11月 1
さらにマンガの場合、絵ですらない。絵と文字の混合物であり、文字と絵の中間物のどちらつかずの要素もきわめて多い。そして文字=記号であるなら、絵としての文脈を記号化し分解し要素として細かく分けても、分けたものを合成しても、その場でどうとでもなる。絵の構図としての枠組みさえ相対化される
— oyomot (@oyomot) 2014, 11月 1
「動いてるように見える」ことも「スピード感」も、その場限りの道具立てである。作家としては、その「その場限りの道具立て」に全精力を注ぎこんだりもするだろうが、それでもなお評価される時点で作品の一部分でしかない。
— oyomot (@oyomot) 2014, 11月 1
という程度のことは踏まえたうえで「動いてること」の話はしたほうがいい。というか、踏まえたなら「動き」について比較論をものす、なんてのは出来ないと思うが
— oyomot (@oyomot) 2014, 11月 1
つうか俺は「動かない」ほうが好きだからマンガを読んでるんだ。あいつら全員、地獄に落ちろ
— oyomot (@oyomot) 2014, 11月 1
野家啓一はいい加減すぎる
野家啓一「歴史を書くという行為――その論理と倫理」(『歴史/物語の哲学』5-6ページ)から
この方向転換は、「すべての哲学は〈言語批判〉である」(『論理哲学論考』4.0031)というウィトゲンシュタインの言葉によって端的に表明されている。だが、そこでは命題と事態、語と対象の指示関係は自明の前提として疑われてはいない。いわば、言語と世界とは予定調和的な対応関係(写像関係)に立っているのである。それゆえ、フレーゲやラッセルを含めて、第一の言語論的転回を推し進めた哲学者たちは、基本的に言語を、実在を指示する透明な媒体として捉える、実在論的言語観を保持していたと言ってよい。
よくない。
「実在を指示する透明な媒体」とことばをとらえていたなら、なぜ「宵の明星=明けの明星」という文に認識的価値があると考えたのか、なぜ「意義」と「意味」の区別を導入したのかまったくわからない。
あと、フレーゲが命題の指示対象としたのは真理値だ。
はてなブログでもはてな市民になれるようになったそうなので、何か書こうと思う
実はwikipediaに投稿しようとおもって資料を集めてる。
MathJaXのテスト
1階論理 $ \gamma $