the garden of entropy

芸術カルチャーらへんが好きなKO学生が書く粗雑な感想たち。基本思いつきなので途中で投げ出したりするけど許してネ。

自分ごととしての政治

 

 久々の祭り、衆院選が始まった。現在私の籍がある直島町「香川1区」と呼ばれる注目区だった。菅内閣のデジタル担当大臣であり地元の有力一家の御曹司こと平井さんと、2020年に20年近く彼を追ったドキュメンタリー映画が公開され話題の小川さん、そして維新から出てきた町川さんの三つ巴の戦いが連日地元ニュースを賑わせていた。

 

 

 私はせっかく自分の選挙区の人がフィーチャーされてるなら・・・と映画「何故君は総理大臣になれないのか」(大島新監督)書籍『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか?国会議員に聞いてみた』(和田靜香著、取材協力小川淳也を視聴&拝読。

 

 

 正直二つとも凄く面白くて揺さぶられたので、これは政治信条関係なく日本の今を生きる人に見てほしい、読んでほしいなと感じた。正直現在の日本の政治のクオリティは著しく低いと思っていた。分断を煽るポピュリズム、マイノリティや弱者への配慮もなし(なんならやべえ言説が代議士から出てくる)、国民よりも既得権益が大事で何も動かない社会に失望していた。野党はすぐ内輪揉めするし・・・とため息をついて政治に興味を持つことを自分自身も辞めていた気がする。しかしそれは自分が持っている権利、自分の生活に責任を持たないという自己放棄みたいなもんだったんだなと反省した。

 

 

 前者はドキュメンタリーとして政治家小川淳也の初出馬からコロナ禍の現在に至るまでの政治家人生を淡々と映したフィルムだった。小泉政権時代から始まる彼の政治人生はまさに嵐。二度の政権交代小池百合子の乱による野党瓦解、現在の自公政権に至るうねりの中で彼がどういった選択してきたかを鑑賞者はカメラを通して見る。高松出身、郊外の小さなパーマ屋の倅として「世の役に立つ人間になれ」と父から言われ高松高校進学(県内1の進学校)、からの香川の育英寮に入り東大進学、そして官僚へと親孝行にも程があるルートを歩んできた小川さん。しかし突然ルートを外れて32歳、子供も二人小さいのに地元香川で出馬を決意する。理由は「世の中をよくしたいから」いやいや、代議士なんて自己顕示欲と承認欲求と支配欲求云々で・・・と言いたくなるが、政策について語るのを聞いている限り彼は本気だ。めちゃめちゃ本気だ。それなのに有権者たちには届かず、瓦町の駅前、娘の目の前で有権者に罵倒される姿は辛過ぎてこっちが見てられない。最初のキラキラとした瞳で落ち着きなく未来への政策を語っていた彼から10数年、政治という暗黒が彼の目を澱ませ顔に皺を増やしたのは明確だった。それでも世の中を良くするための政策を考え要綱まで出版してたのは何というか、普通に狂った人だなと感じた。笑 本当に世の中を良くしたくて政策を考えている人なのだ。しかし現実は甘くない。東大卒が持てる知識を駆使した上で本気で考えた政策なんぞ日本の有権者は興味も無く、それこそ地域で絶大なる支持と支配力を持つ平井一家の御曹司に勝つことなんて無理だった。しかし2021年、何と悲願の小選挙区勝利を果たすことになるとはこの映画時に誰が予想してたのだろうか・・・。映画も去ることながら、相手方の不祥事と奢りが彼の追い風となったのだと思う。しかしこれからまた政界のうねりが彼を襲うのだろう。彼はその中でどんな選択をするのか、是非大島監督に追ってもらいたい。

 

 

 書籍『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか?国会議員に聞いてみた』も拝読したが、とても読みやすく政治をきちんと学んでこなかったがぼんやりと問題意識はあって、でも踏み込むのは怖い。そんな人にぴったりの本だと感じた。和田さんのかわいらしく、社会問題とは結びつかないような「ゆるさ」と「真面目さ」で彼女が持つ社会への不満、また疑問を小川さんにぶつけ、小川さんが懇切丁寧に説明する。彼の考える北欧的社会(大きい政府、緊縮財政、緩やかな脱原発・・・)のステイトメントを聞く中で和田さんがちょっと待ったあ!と言わんばかりに反論したり、感情的に意見をぶつけたりする。その度に小川さんはまた丁寧に主張し、また時々日本の片隅にいる人たちを想像して号泣したりする。代議士で国民のことを思って泣ける人がいるんだ・・・と驚いてしまったのはやはり政治に対する失望が根深かったことの表れなのか。しかし読んでいて、今社会が孕む問題へどう対応していくのか。それは国民と政治家できっちり対話して決定していく。というのが民主主義だったはずなのに私たちはそれをノーマルとして考えられていなかった。勝手に放棄して勝手に失望していたのは私だったのだ。続く自公長期政権で政治はほぼ腐敗している。しかし腐敗させるぐらい放置したのは有権者なのである。勝手にメディアの印象とSNSの印象で動き、きちんと社会を知ることも、参画することも意見することもしなかった、アクティヴィズムをすることを放棄していたのは私だったのだ。

 

 

 私みたいな人は日本に沢山いると思うが、きちんと自分ごととして社会に参画すること、そして全ての仕組みを幅広く勉強することが生活において大切なのだと感じている。それは都市の希薄な繋がりの中から、離島のDIYコミュニティ精神へと身を移したのも影響していると思う。刺激を受けて勉強?し始めたMMT、人新世、脱成長やらさまざまな門外の言葉の間の中でそんな賢くない私は狼狽えているが、自分なりにマイペースに勉強していきたいし、ぼんやりと政治を忌避している人がいたら、是非上記の映画と本を見て貰いたい。信条とかに関係なく、政治がどこか身近になると思う。自分ごととして社会と地続きの生活を生きること、それが自分にできる小さなアクティヴィズムなのかなと思うし、日本人はもっとその意識を持つべきだと、アジアの友人たちと比べて見ても思う。

 

 

 

 

 

 

ウティット・へ―マームーン×岡田利規『プラータナー 憑依のポートレイト』バンコク公演

チュラロンコン大学にて初演が行われていた『プラータナー』を観劇。

タイの小説家であるウティット・へ―マームーンによる原作小説をチェルフィッチュ主催の岡田利規演出にて上演。

上演時間は四時間超で休憩が二回ほど。かなりの長丁場だったが、骨太で歴史が詰まったプロット、またContactGonzoによる空間デザインも美しく流動的で飽きることはなかった。原作小説は未読であったが、”欲望“という意味のタイ語である「プラータナー」と岡田利規がテーマとしている「身体と亡霊」というテーマがうまくミクスチャーされた作品だった。

 

事前に配られたパンフレットとレジュメにはびっしりとタイ現代史の用語説明が書かれている。私自身も東南アジアの現代史はとてもドラスティックで全容をきちんとつかみ切れておらず、その中でも特にタイの現代史は特に難しいと感じていたため、必死に用語説明を読んだ。タイは本当にいわゆるアンシャン・レジームと仏教や地方差別などがぐちゃぐちゃと混ぜられて現代に引き継がれているのでそれぞれの対立を読み取るのが難しい。

  しかし作品はとても深遠に、そして批判的にタイの現代史をなぞる。戦後、シラパコーン大学に入学したアーティストの人生を通して表現される激動の歴史と欲望に彩られた日々を観劇者自身が追体験しているような感覚になる。

 

身体と亡霊、身体であったものがカメラやネットを通じ亡霊になっていく。亡霊を通じて暴力と欲望は永遠に続いていく。歴史も同じだ。構成員は絶えず変わっているのにいつまでも歴史や伝統といった亡霊に憑りつかれ続けている。

21世紀、アジア諸国は近代化の渦の中でどう在るかを探してもがいている。そしてそれはリッチアジアと呼ばれ別扱いされている日本も同じだ。

腐りゆく肉体を持て余してなんとなく生きる日々に充満するのは気だるげで苦い憂鬱。

 

 この作品は休憩含め上演時間がなんと四時間という超ロング公演だったのだが、その強制力による苦痛さも込みで演劇というのは面白いと私は感じている。例えば現代であればブロードキャスティングやライブ配信、またDVDといったメディウムで演劇や映画を巻き戻したり一時停止したりして見ることができるが、演劇はそうはいかない。演劇側のペースに観者をある意味暴力的に巻き込むのだ。それは自分以外のものを内部に入れる(外部に身をゆだねる?)体験であり、それは日々普通に生きていれば起こらなかった価値観のゆらぎや視点のシフトを起こしてくれる。それもまた自分の世界を広げる経験なのだと思う。

 

クラスメイトのMinkを誘いBkk art book fairに行ってきた。Book fairは若者でごった返しており若干人混みにあてられる。キュレーターによると東京のart book fairを踏襲して開催されたそうで幾つか日本の団体もいた。私は中国のZineに惹かれ購入。漢字に馴染みがあるからか知らないが中国語で構成されたものが凄い好きなのだ。チャイナタウンの毒々しい漢字のネオンとかも大好き。またその団体さんが売ってた雑誌に柄谷行人の名前を見つけた。かつての日本の代表的な批評家が今中国の若い人々によってこう紹介されてるのか〜〜と思うと感慨深い。

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その後ホドロフスキーのHoly mountain上映がJAMライブハウスであるらしいということでそこに向かった、が、あまりにもローカルな立地とDOPEすぎる外装に慄く。上映も深夜に食い込むとのことだったのでまた今度とその場を後にした。

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その後カフェを探してウロウロしていると、不思議な中国系の寺なんだか公園なんだかもうとりあえず不思議な場所へと迷い込んだ。しだれ柳で縁取られた道、そして一面を覆う墓!!中国の墓はポップな墓碑と棺(?)を埋めた土から緑を生やしている不思議な土葬っぽい感じ。そしてその周りには平気でフィットネスやバトミントンコートがあり中国系の人達の憩いの場となっていた。ここなんなんだろうと思いながら緑いっぱいの墓ロードを歩いた。

 

バンコクのすごい所は、王族でも住んどるんか?!?!的な高級駅前コンドミニアムに驚いた後、小さなsoiを少し入るとその瞬間に突然バラック街のようなガチローカルに出くわすところ。それは経済格差の表象でもあるんだろうけど、私はそのナチュラルな歪みがこの世ってサイケだなと感じられるので好きだ。そう、この世って普通にまともなんかじゃないのにどいつもこいつもまともヅラしてベラベラいろんなこと喋ってるのが不思議でならない。ナチュラルに狂ってる不思議な世界が表象されてるのを自分の目で見るのはとても刺激的で楽しい。

バンコクに留学しています ギャラリー巡り1

 数日前からバンコクに滞在しています。大学の交換留学でタイのチュラロンコン大学(タイでは少し保守的な国立トップ校)にて文化政策を学ぶ予定です。

 一応悪筆ながらバンコクでの生活や芸術、アートの調査等を自分なりに行ってみたことをこのブログで記録していけたらなと思います。けど普通に趣味のことも書きなぐるつもりですイェーイ

 

 昨日はとりあえずギャラリーを幾つか見てみようということでエカマイやプロムポンあたりをうろつく。

 ギャラリーが駅近にあまりなく(公立のは駅前なんだけども)モーターサイというsoi(通り)の中なら値段据え置きで乗れるバイクタクシーにて移動。普通20Bのはずだが韓国人だろと30Bぐらいとられる。いやコンイープン(日本人)だわと思いつつ金を払う、今度は強めに行こう。

 まずはS.A.C.Subhashok The Art Centerを訪ねた。メインギャラリーは丁度展示替えで常設展しかやっていないとのこと。ありゃまーと思っていたらキュレーターのお兄さんがお詫びにオススメのバンコクのギャラリーを全て教えてくれるということでバンコクアートマップ(ギャラリー等が共同で制作しているらしいマップ、全部英語なので有り難い)を参考に色々お勧めギャラリーを聞いた。一応こちらにもメモ→○Case Space Revolution○Gallery ver N22○C.a.p studio Residence(これはチェンマイだそう)

 ギャラリー自体もあまり人が来ないらしく雑に作品置かれてるわ温度調整されてないけどええんか?!と心配になったが作品自体は良かった。サブ展示は、本業はファッション写真家のLik Sriprasertの展覧会をやっていた。美術を学びながら写真も制作していたようで彼の作品は確かにファッショナブルなポートレイト風の作品が主だ。色彩の用い方は少し暗いが暗い中にビビットな赤や青をアクセントにしている。

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 次に向かったネットで調べていたギャラリーは潰れておされレストランになっておりメンブレ。わざわざGrabしたのに…(東南アジア専用のタクシー配車アプリ、割高だけど安心なのだ) レストランのお兄さんにドンマーイ~マイペンライ~エカマイ楽しいで~と言われながら帰り道スコールに降られる。けどモールの入り口とかでたむろしながらスコールをみんなでやり過ごす感じが凄い楽しい。近くのねえちゃんはスコールの間食べてたケンタッキー三本を雨が上がった瞬間ポイ捨てして猫にあげていた。うーーん、食物連鎖(??)

役に立たないものは価値がないのかっていうことは芸術が基本否定してくれてます

 相模原事件の際、ネットで犯人の思想に関して「考えていることは正しい」と結構擁護する意見が多かったのを見たときから日本の社会にある「役に立たないものは価値がないもの、存在すべきではない」という価値観について考えていた。

 最近問題になっている、杉田議員が「生産性の無い人々に支援する意味はあるのか」ということを言っているのをみて、やはりその価値観は日本のメインストリームなのだなと感じたのと同時に私自身のその考えを内在化させていたことに気が付いた。私の場合他人にそれを向けるというよりは自分自身の立場や属性等から私なんて…という自己コンプレックス方面に振り切ってたため僻み根性みたいな感じだったが、結局あり得ない!と批判していた杉田議員や植松容疑者と同じ価値観を自分の中に持っていたのだ。発露の仕方が違っていれば私もこの人たちのようになっていたんだろうなと思いゾッとした。結局自分に向くか他人に向くかの違いだけだったのだ。

 

 この前、小説家の王谷 晶さんが数年前自分がネトウヨだった時を書いた記事を読んだ。王谷さんが「学歴も職もなく人生からコースアウトしてしまったと思っていたけれど、それでも「日本人」という属性だけは剥がれ落ちていない。だからそこを褒められると自尊心がくすぐられて、嬉しかったのだと思う。」と記事で書かれていてあーーそうかーーネトウヨになる一部の人たちもこの価値観を内在化させてるからなのかーーと膝を打った。役に立たないゴミみたいな自分でも日本人である内はマジョリティ、価値があるから存在してもいいとなる気持ちはよく分かる。ネトウヨに対しても(まさかのネット上にて)噛みつきがちな私だったが結局その人たちも同じ価値観を有して日本に暮らしている人間だということにそこで気が付いた。 

 日本の大多数の人が「役に立たないものは価値がないもの、存在すべきではない」と信じていて、そこから逃げるためにある人は技能を磨き、ある人はSNSで成果や充実、貢献をアピールしそこからあぶれた人たちはコンプレックスや歪んだ愛国心を持ち、そして全員が価値のないものを排除する方向に行く。

 

 かつて坂本慎太郎No music No Lifeのコピーに「音楽は役に立たない。  役に立たないから素晴らしい。 役に立たないものが存在できない世界は恐ろしい。」と書いてあって、見つけた私は感動して一時期待ち受けにしていた。「役に立たないものは価値がないもの、存在すべきではない」へのアンチテーゼはまさにこれなんだろうと思う。

タワーレコードホームページから

 

 ホドロフスキーの「リアリティのダンス」も障がい者を虐げていた父が障がい者になり、そして差別していた彼らから真の愛を与えられるという描写があって構造がうまいなあと感じていたが、このご時世に生きる今彼が晩年描き続けている生命礼賛の大切さを感じる。私はまだマジョリティに染まってねえヅラして生きてきたが、もう全然まだまだなのだなということを最近気が付いたので自分自身と向き合って価値観を流されないように生きていく。役に立たない、低スペック人間は価値がないものだと平気で言ってのける世間にNoを突き付けられるよう強い意志を持ちたいですな。   

シンプルなブログ 

 

 最近オタクがやや再燃してきたのでまた楽しくブログを書こうと思います(何度目の宣言だろうか)

 

 この前に書いた幾つかのブログは、全体的にレポートを書く気概で書いてしまった。というのも、きちんとライターさんのように書かなきゃいけないと思い込み、それもうまくできずに楽しんで書けなかったのでこれからのブログは楽しく書くことを大事にしようと思う。自分が楽しくなければ読んでる人も楽しくないし自己満足にもならないので無駄すぎる。

 

最近の興味範囲

・アジアのコンテンポラリーアート、カルチャー

・ポストコロニアリズム(カルチュラルスタディーズ)

・綜合芸術

カンディンスキー

・画家の舞台芸術について

フェミニズム(日本での独特すぎる位置づけの理由を知りたい)

サイケデリックアート

坂本慎太郎

・ジャニーズ(キンプリ、かつん)

K-POP(BLACK PINK、てか私アイドル好きだな)

 

に基づいて雑多に書きまーす。

 

 私自身のこれからは、8月から一年タイ・バンコクに留学してカルチュラルマネジメントを学ぶ予定。目的としてはアジアのカルチャーに興味を持っていたのでそれを学ぶために交換留学を決めた。ほぼ本能で決めたというか、数年前バンコクにいたときに、交換で行く予定の大学キャンパスを歩いていて「私はこの学校に通うかもな」とふと思ったことがあったのでそれが今だ!と思いアプライを決めた。

 色々不安はある、日本の「新卒採用」やら所謂「普通」のルートから大きく外れたし芸術を貫くことに不安もまだある。けれど周りを見ていても、やっぱりきちんと自分の価値観、判断を持っていて、周りからみて凄い職業、じゃなくて自分がやりたいこと、楽しくできる仕事を選べる人は就職も諸々もうまくいっていると思うので、自分の判断でこの留学を決めたことは間違ってないんだろうと思う。なんだかんだ給付奨学金も決まったし。

 既に職業として考えてるところは幾つかあるけれど、それとも並行してインディペンデントに動ける人間にもなりたい。この前も取り合えず流行りのZine作ってみるかとかほざいてたけどアジアに関するテーマがぼんやりあるだけで形にできておらず。ブログとかのが向いてるかもと思うのでマイペースに紙もウェブも作れたらいいなと思います。同じ興味範囲の協働する人永遠に募集中。

市原佐都子/Q『地底妖精』

会場:早稲田小劇場どらま館

出演:永島由里恵(青年団)、中田麦平(シンクロ少女) 

舞台美術:高田冬彦 

 

 私達がいる世界は毎回何かを隠して均衡を保っている。実は人間の身体の中には汚いピンク色の臓器が蠢いていること、私達が食べた美味しいご飯はそこであの茶色い排泄物になること。私達が日々必死に消している汚物と死の臭気。

 

 

 市原さんの作品に出てくる登場人物、主に女性の身体は毎回緊張して強張っている。ヒステリック、痙攣、麻痺、不随の身体。異常にしか見えないその身体所作は生まれたまま、ありのままに生きられない歪な登場人物たちが必死に世界へ、社会へ輪郭を合わせようとした結果なのだろうか。彼女の作品には、その出自による血、先天障害、性別、見た目の醜さといった要素で「普通」からはみ出した人々が、匿名性を持って現れる。それは誰でもなくて誰でもある「普通」からあぶれた人間なのだ。

 「普通」の私達は汚物や死と同じように、普通ではない人から目を逸らしている。それか心の奥底にある異形への恐怖、差別、悪意を誤魔化した善意で彼らに優しさを「施す」こともあるだろう。見えない、見てない、けど、あるもの。市原さんの作品は、実生活では痕跡を消された「みえない」ものを暴いている。

 

 

  丁度アリストファネスを始めとしたギリシア喜劇について学ぶ機会があり、かのK先生から喜劇の要素は、セックス、スカトロジー、グロテスク(奇妙)という話を聞いた。その話を聞いていた時、私は市原さんの作品の構成要素はまさに喜劇ではないかと感じた。ギリシア劇には劇中でパラバシスという登場人物が劇の枠組みを逸脱して作者の信条等を語る場面があるのだが、劇中に何度か挿入されるユリエリアの演説のような語り(出自の特異さから妖精に受け入れてもらえない自分の立場、マーマレードボーイを例に出し何故愛があっても近親相姦は許されないのかという問い等)もパラバシスのようだった。

 演劇自体が身体や人に語り掛ける力の強いメディウムだと思うのだが、その中でも笑い、と身振り、言葉の強さがある作品は語り掛けるパワーが凄まじい。市原さんの作品にはその全てがあり、今回は高田さんによる臓器のような無数の地底芋が吊るされた舞台や、永島さんの迫力の白目ひん剥いた演技が合わさるので最早暴力的な力を持った喜劇になっていたと思う。素晴らしかったです。