世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年05月12日(日)温度感くらいむしろ説明してほしい

規則運用グラデーション

「こういうリスクがありうるんだから、うちの会社だとここは厳しくしている(ので、ちゃんと対応しとけよ)」「トラブルになったらそれはそれなので、そんなの厳守する必要ないだろ(無駄な時間を使うなよ)」、といった"規則運用のグラデーション"があるのは、まあわかるし、ある程度はしかたがないとも思ってはいるのだけど、しかしだからといって、なんの説明もなしにその温度感をつかむのは流石に無理だろ、とも思う。大昔にこういったトラブルがあったので、その事実を踏まえ、いま、うちでは、これくらい厳しくしているんだ、といった歴史背景によるものであったなら、なおさらだ。わかるわけない。

転職したあとのここ数年での疲弊ポイントを思い出していて、こういったシチュエーションで「喰らっている」ことが少なからずあるな、と気づいた。加えて、温度感を知らないだけで呆れ顔を向けられることにも、ダメージを受け続けている。胸中に渦巻く不満感の一側面ではあるが、とはいえここに関しては別にぼくのせいじゃないよなあ、と思えたポイントではあったので、とりあえず、書いてみた。自己正当化(による自尊心の回復)を狙ってみた。最近のテンションでいえば、ぐちぐち言いたい雰囲気はかなり緩和していたりもするのだが、反面、整理してみせたい欲は強めだ。

2024年05月11日(土)いっつもなんか褒めている型希望

褒める

無邪気というか無頓着というか、自分も相手もニュートラルな心持ちのもとで、「褒め言葉」を伝えられたらなとは思う。変に褒めすぎるとうさんくさい空気がただよいそうなのが嫌いだ。そういう解釈の優先度を高めたくなる世界の風情が嫌いである。大々的に言うものではないのかな、とは考えてしまう。まあ多少はこそこそしていてもよいから、率直に、褒め言葉を放ってみたい。昔のインターネット空間だと多少はそれができていたような気もする。まあ、単にぼくが無鉄砲ないし無遠慮だっただけかもしれないが。あるいは、変に気後れするようになってしまっただけかもしれない。気恥ずかしさを無視できなくなってしまっただけかもしれない。そもそも、感受性が鈍って称賛ゲージが振り切れるところまでいかなくなってしまっただけかもしれない。いろいろ考えたけど、基本は、よいと思ったら、よいと伝えたい。そこにある軋轢は減らしたい、って思った。

2024年05月10日(金)踏み込めるだけ踏み込みたいが

飲み会

楽しい飲み会ではあった。出てくる肉が美味しかったのも非常によかった。奢りも嬉しかった。奢りに対するありがたみは昔より深まっている。感謝はあったけど歓喜は薄めだった。というか、なぜか妙に無頓着であった。高価なものを食べる経験が少なかったせいというのはあるだろう。奢り奢られ自体も少なかった。

いろいろな話を聞いた。興味深い話も退屈な話もあった。話のおもしろさは難しい。誰かしらと話をするにあたって、どこまで踏みこんでよいのか、どういうところまで質問してよいのか、昔からけっこう謎だ。というか、そんなところに対して人類に共通する見解が定まっていそうなところが、昔から好きじゃなかった。「常識的なライン」みたいなものがある(とされている)ところが、正直、嫌いだ。ひさしぶりにそれを痛感させられた。

極めて勝手な話にはなるけど、「常識的なライン」なんてできるだけ気にすることなく、とても率直に、いろいろなことを訊いてみたい。なにを見て、どんなことを考えて、世界と人生を歩んでいるのか、ぼくなりの断面で、相手に尋ねてみたい。その希望と、そのしづらさを、思い出した。表層的なところで話題を"回し"ていく作法に、最近触れなくなっていたため、そういえばこういう不満を覚える飲み会があったな、と思い出させられた。ひさしぶりすぎてそれはそれでおもしろかった。

2024年05月09日(木)仕事については同じところをぐるぐると

仕事概念

人類史を一気通貫して語れる「仕事」概念なんてものは、きっとない。だからたとえば「仕事ができる」と一概にいっても、その内実は曖昧なんだろう、というかケースバイケースなんだと思う。時代と場所によりちょっとずつ形が異なる。一律には語れない。ほとんど張りぼてで、スカスカなことだってありそうである。

といった、「仕事」の"とらえどころのなさ"がある一方、「それはそれとして"仕事ができる"といった境地は目指してみたい」という、ぼくの個人的な思惑・理想・偏見の問題もあって、そのあたりの釣り合いには苦労している。「仕事」と「仕事が上手くできる」ということを、どこにどうやって落ち着かせればよいか、つかみきれず、困惑している。せめて「仕事」が一律で語れるものだったらもう少しシンプルにできるのになあ、って思う。

しかもそのうえに、いまの職に関する、経験の少なさ、成功体験のなさ、自信のなさ、文化や風土のあいまいさ、といった余計な問題が乗っかってきて、なおさら面倒くさい事態になっていたりもする。混乱する。整理のため、すっきり切り分けてしまえばよいような気もするのだけど、それも、なんか、難しい。無関係とはしづらい。断絶させると問題意識としての活力・生気をが失われそうな気もする。結果として困惑は深まっている。

「仕事ができる」ほうがきっとよいよね~、と、極めて朴訥に考えてみたときに、二重苦・三重苦みたいな状況に陥りがちではあるのだった。「仕事ってなんやねん」「仕事ができるって何を指すねん」「そもそも具体的な業務が上手くできていないが?」「できたとしてもここだけで通じるやつなんじゃないの?」といったツッコミが響き渡る。足払いをしかけられてバランスを崩されるイメージだ。

したいこと混線

仕事ができる、能力を示す、成功する、役立つ、褒められる・認められる、稼げる、といった意志・欲望が混線しているところも間違いなくあって、そこも困りどころだ。求めているものが極めてわかりづらい。仕事ができるようになりたいとか言いつつ、その実、褒められたいだけ、役立ちたいだけ、稼ぎたいだけ、といった別の欲望が本体である可能性が、けっこうありそう、とは思えてしまうのだった。まあ、答えがたったひとつなんていう、わかりやすい事態もそうそうないはずなので、答えは別にあった、なんて雑な単純化はせず、たとえばレーダーチャートみたいに捉えるべきなんだとも思うけれど。

うっちゃって、ギャップを埋めようとするだけで、もうよいのでは

概念的な「仕事」「仕事ができる」に関して試行錯誤しているうちに、だいぶごちゃごちゃしてきてしまった。むしろ、ここまでの思索はまるごとうっちゃって、実際に、いま、ぼくのまわりにいる(社内で)「評価されている」「稼げている」人物をちゃんと見つめ、そことの差分を埋めようとしていく行動を、ただ、取っていけばよいんじゃないか、っていうふうにも思えてきた。迷ってるならもう動いちゃえばいいじゃんというか。なんか、書いていくうちに、吹っ切れてきたというか。落ち着いてきた。もともとは、そういった方向を見つめながら話していきたかったことも思い出した。難しそうだな~、好みじゃないやりかたっぽいな~、と感じて、いつの間にか路線変更していた模様である。目を逸らしていた。概念整理でお茶を濁していた。

現職の文化・風土を踏まえると、自主性・主体性・積極性といった「動き出し」を、もっとしっかり目立たせていけば、もうちょっとなんとかなりそう、っていう気は(正直)している。それくらいの"シンプルな"問題なのではないかという予感はなくもない。そこまでいくとシンプルに考えすぎ、というツッコミも思いついたが、逆に、いまが無駄に複雑に考えすぎなんだよ、って気もした。ビジネスで「うまく動けていなくて、行き詰まっている」ときの打開策って、結局はこのあたりによくある、って気もしなくはないけれど。

2024年05月08日(水)勝手に言い換えるが、既存の単語を誤解させるんじゃなければまあよい

可視化と見える化

「可視化」と「見える化」という二つの単語に対して、「見える化」なんてビジネス界隈で勝手に使われているだけの俗で薄っぺらな言い回しじゃん、「可視化」があるんだからこんな言葉使うなよキモイ、といった形で糾弾するような見解を見かけた。その理屈を見て考えたことはいくつかあるが、ほんとうに同じ意味なんだっけ、というのはまず思った。ある単語の「外来語版」や「日常語版」が、もともとの意味と示す範囲を微妙に変えてみせてくれる(繊細な差異を表現してくれる)ことくらい、いくらでもあったので、変に同一視して切り捨てようとするのはよくないんじゃないかな、と思うところはあった。

以前に「可視化」「見える化」それぞれのフィーリングの違いを丁寧に解きほぐしていく説明を見かけたことがあって、そのときに感じた驚きから、なるほどこういうところにもそれぞれの使い道があるんだな~、いずれも大切だと見なして使っててよさそうだな~、と思うようにはなっていた。あいまいな記憶だけど、「見える化」のほうを、より実践的な意味合いを持つものとして語っていたような印象である。頭と手でいえば「手」に近い。数学的か工学的かでいうなら「工学的」寄り。あるいは、実際に"役立つかどうか"というところで線引きをしてみてもよい。役に立たなくても「可視化」とは言えるけど、「見える化」は、役に立つ形で「見えるようにした」ところにしか当てはめられない、というような。

あとは、ごくごくシンプルな不満として、同じ意味合いでも複数の言い回しがあったって別にいいだろ、って思った。薄っぺらくて俗な言い回しだから許されないとか安易に言っちゃうのもなんなの?スラングであることが非難の理由になるってどういった理屈なの?とも思った。学術用語・専門用語が、我田引水的に、意味をねじ曲げられて悪用されているケースだってときにはあるのに、そういった極悪非道なケースを差し置いて、こんな「見える」くらいの日常語を織り交ぜた単語なんか攻撃している場合か?とも思った。

スラング好き

若者なりビジネスマンなりが、新しさ×わかりやすさ×馴染みやすさ、くらいのノリで出してくる変化球的な言い回しは、けっこう好きだ。ネットスラングとかも同様である。たしかに、前述したような、「使いやすいように勝手に捻じ曲げられた学術用語・専門用語(勘違いを誘発させるやつ)問題」もときにはあるため、なんでもかんでも「よし」とは言えないところはあるのだけど、まあしかし、そうじゃないものだってある。「可視化」というちょっと難しそうな言い回ししかなかった時代に、もう少し柔らかさを出せないかな、違う面を強調できないかな、手触りが変えられたらもっとしっくりくるかも、というふうに想像力を働かせてみて、「見える化」とか言ってみせる精神は、だいぶ嫌いじゃない。

2024年05月07日(火)日記文化圏のジン

ジン

自主制作的な少部数の出版物を「ZINE/ジン」という言葉で示す文化圏があるようだ。今回初めて知った。リトルプレスという言葉もあわせて知った。同人誌とジンの線引きは難しいところもみたいだけど、用いるときの空気・文脈が、きっとかなり違うんだろう。下手に混同したら(というか、乱暴にあつかったら)愛好家たちから白い目で見られるやつだと思う。こういう「厳密な意味合いでいえば、グラデーション型なので、きれいに区切れないけれど、愛好家間ではしっかり区別されている(区別したいと感じられている)」言葉は、難儀もするけど、なんだかんだ好きかな。愛も偏屈も感じられるし。

時系列

onmosm.base.shop

一方、日記はその日に起きたことや感じたことを、朝から夜に向かって順番に書いていけば、それだけで1本のテキストができあがる。ひとが読んで面白いかどうかは、まずは気にしなくていい。それより、本当に自分にとってしっくりくる表現ができているか意識するほうが大事。その作業を繰り返せば、だんだん自分にしか書けないものに必ずなっていく。それは、自分が書く意味があるということと同じだ。

そして10日続ければ10日分の、100日続ければ100日分のテキストになって、1冊にまとめるのに十分な分量になる。

ただ時系列に出来事を記していけば、日記は「日記」になってくれる。内容に意識を割かなくてもよい。そしてそのぶん、表現に集中することが許される。おのれにとって最も快い言葉の連なりを探すための空間を提供してくれる。といった「日記」に関する推薦文が書かれていて、たいへん素敵な切り口だなと感じた。ただ時系列に書けばよい、と言われても、なにを思い出せるか、なにを書くか、という編集的な思惑を、結局は(少なくともぼくの場合は)交えてしまうところはあるのだけれど、こういった指針で書いてみるのも、悪くない。言葉選びにだけ注力できる空間は素直におもしろそうだった。

日記のおもしろがれるところについて、ほんとうにいろんな角度から照らし出していて、非常によい本だった。偶然の出会いだったけど買ってよかった。