仕事概念
人類史を一気通貫して語れる「仕事」概念なんてものは、きっとない。だからたとえば「仕事ができる」と一概にいっても、その内実は曖昧なんだろう、というかケースバイケースなんだと思う。時代と場所によりちょっとずつ形が異なる。一律には語れない。ほとんど張りぼてで、スカスカなことだってありそうである。
といった、「仕事」の"とらえどころのなさ"がある一方、「それはそれとして"仕事ができる"といった境地は目指してみたい」という、ぼくの個人的な思惑・理想・偏見の問題もあって、そのあたりの釣り合いには苦労している。「仕事」と「仕事が上手くできる」ということを、どこにどうやって落ち着かせればよいか、つかみきれず、困惑している。せめて「仕事」が一律で語れるものだったらもう少しシンプルにできるのになあ、って思う。
しかもそのうえに、いまの職に関する、経験の少なさ、成功体験のなさ、自信のなさ、文化や風土のあいまいさ、といった余計な問題が乗っかってきて、なおさら面倒くさい事態になっていたりもする。混乱する。整理のため、すっきり切り分けてしまえばよいような気もするのだけど、それも、なんか、難しい。無関係とはしづらい。断絶させると問題意識としての活力・生気をが失われそうな気もする。結果として困惑は深まっている。
「仕事ができる」ほうがきっとよいよね~、と、極めて朴訥に考えてみたときに、二重苦・三重苦みたいな状況に陥りがちではあるのだった。「仕事ってなんやねん」「仕事ができるって何を指すねん」「そもそも具体的な業務が上手くできていないが?」「できたとしてもここだけで通じるやつなんじゃないの?」といったツッコミが響き渡る。足払いをしかけられてバランスを崩されるイメージだ。
したいこと混線
仕事ができる、能力を示す、成功する、役立つ、褒められる・認められる、稼げる、といった意志・欲望が混線しているところも間違いなくあって、そこも困りどころだ。求めているものが極めてわかりづらい。仕事ができるようになりたいとか言いつつ、その実、褒められたいだけ、役立ちたいだけ、稼ぎたいだけ、といった別の欲望が本体である可能性が、けっこうありそう、とは思えてしまうのだった。まあ、答えがたったひとつなんていう、わかりやすい事態もそうそうないはずなので、答えは別にあった、なんて雑な単純化はせず、たとえばレーダーチャートみたいに捉えるべきなんだとも思うけれど。
うっちゃって、ギャップを埋めようとするだけで、もうよいのでは
概念的な「仕事」「仕事ができる」に関して試行錯誤しているうちに、だいぶごちゃごちゃしてきてしまった。むしろ、ここまでの思索はまるごとうっちゃって、実際に、いま、ぼくのまわりにいる(社内で)「評価されている」「稼げている」人物をちゃんと見つめ、そことの差分を埋めようとしていく行動を、ただ、取っていけばよいんじゃないか、っていうふうにも思えてきた。迷ってるならもう動いちゃえばいいじゃんというか。なんか、書いていくうちに、吹っ切れてきたというか。落ち着いてきた。もともとは、そういった方向を見つめながら話していきたかったことも思い出した。難しそうだな~、好みじゃないやりかたっぽいな~、と感じて、いつの間にか路線変更していた模様である。目を逸らしていた。概念整理でお茶を濁していた。
現職の文化・風土を踏まえると、自主性・主体性・積極性といった「動き出し」を、もっとしっかり目立たせていけば、もうちょっとなんとかなりそう、っていう気は(正直)している。それくらいの"シンプルな"問題なのではないかという予感はなくもない。そこまでいくとシンプルに考えすぎ、というツッコミも思いついたが、逆に、いまが無駄に複雑に考えすぎなんだよ、って気もした。ビジネスで「うまく動けていなくて、行き詰まっている」ときの打開策って、結局はこのあたりによくある、って気もしなくはないけれど。