深海航行記

海流の行き着く先

ビールストリートの恋人たち 静寂と美、隠された怒り

オリジナル・サウンドトラック『ビール・ストリートの恋人たち』

オリジナル・サウンドトラック『ビール・ストリートの恋人たち』

  • アーティスト: ニコラス・ブリテル,Nicholas Britell
  • 出版社/メーカー: ランブリング・レコーズ
  • 発売日: 2019/02/20
  • メディア: CD
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美しく鮮やかに切り取られた映像。抑制的で上質な演出。零れ落ちる生々しい感情表現。 ラストシーンで映し出される原題『If Beal Street Could talk』は、私たちの心をあまりに的確に突き刺す。 よい映画を見た・・・。 本作は、あまりにも純粋な恋愛映画であるが、決して人種差別への憤りを隠さない。 そうした怒りは、美しく、抑制的な演出の中で静かに表現される。

恋愛の普遍性と人種問題の特殊性

舞台は1970年代のニューヨーク。しかし、この映画からは必ずしも「古さ」を感じさせない。むしろ、今でも強いリアリティをもって、私たちに語り掛ける。本作で語られる出来事は歴史上、かつてあったことではない。現在においてもかつてから変わらずに起きている出来事だ。筆者には、現在にあって、1970年代を舞台とした監督の意図に、強い皮肉を感じられた。

ただ、だからと言って本作が描くのは、黒人が直面する現実に対するストレートな怒りばかりではない。 前作『ムーンライト』にもみられるように、本作は、映画的な演出を加えながらも、問題の複雑さをありのままに伝達しようとする。 人種差別は単なる人種間の対立に矮小化することはできないし、経済、ジェンダーや宗教といった他の要素が強く絡み合う。 黒人 v. 白人のような二項対立的な捉え方は、問題の本質を見失い、根深さを捨象してしまう。人種差別を問題視するときに、差別者をカテゴラズしてしまう見方は、自らも人種差別の枠組みに嵌ってしまうことを意味する。 本作は問題の複雑性から目を逸らさない。卓越した構成力のもと、ともすれば抽象論に陥ってしまう問題の複雑さを、高いリアリティを持って観るものに語りかける。 例えばフォニーを陥れる巨大な差別構造が厳然と存在する一方で、若いふたりをサポートする白人たちが印象的に描かれる。決して白人は悪魔ではなく、グラデーションが存在することが明示的に表現されている。

本作が優れているのは、差別の問題を恋愛という普遍的な枠組みで語る点だ。
私たちは恋愛というプライベートな問題と、政治や社会といったパブリックな問題は、どこかで区別して捉えようとしてしまう。 しかし、本作は観る者のそうした見立てを拒否する。 人種差別をふたりの純粋な恋愛の障壁として描くことで、観る者に当事者性を与え、人種差別への憤りを喚起する。

抑制的な映像表現と、感情的な演出

映像の美しさに舌を巻く。黒色が美しく表現できるように彩度を高めた画面。 暖色を贅沢に取り入れた衣装や、光の差し込み。決して動きの多い作品ではないが、取り入れられた色遣いや、採光の巧みさに支えられた演出は、感傷と心情の揺れ動きを語る。 例えば、映画のプロモーションにも使われた、フォニーとティッシュが雨の中、ひとつの傘をさして町を歩くシーン。 降り注ぐ雨は街を濡らし光を滲ませる。ふたりの頭上には鮮やかに花開いたかのような赤い傘。 世界の中でふたりだけが照らし出され、彼らの愛の物語の始まりを予感させる。 本作は、展開されるすべての場面が美しく、その彩に魅せられた。

登場人物たちの表情は、直截的に観る者の心に語り掛ける。 フォニーの「魂の救済」のためにティッシュの母が見せる決意の表情。レイプ被害にあった女性のおびえたような表情。 贅沢な長尺で切り取られた俳優たちの「見つめる」演技は、慄きすら覚える迫力を持つ。 あまりに多くを語ることに抑制的な本作だが、登場人物たちの表情のショットは、極めて多くのことを観る者に伝達する。

『ムーンライト』に引き続き、複雑な黒人社会を、巧みな映像表現で叙情的に撮影した本作。 その美しさと静寂と、深い感情表現に心打たれた。

PSYCHO-PASS SS Case.2 First Guardian システムのなかの政治のあらわれ

劇場に観に行くつもりはあんまりなかったが、征陸役の有本欽隆さんが亡くなられたと聞き、追悼の気持ちで劇場に足を運んだ。

だが、作品としても劇場に観に行ったことは正解だった。 本作は、psycho-passのファンへの優れたサービスであると同時に、作品世界を広げる一つの試みでもあると感じた。以下感想。

本作が描くものは執行官・須郷の過去。彼がいかにして執行官となったのかが語られる。 かつて国防軍に所属していた須郷。あるとき、彼に対してテロ事件の容疑がかかる。事件の担当は監視官・青柳と執行官・征陸。彼らとの出会いが、須郷の信条や進路に影響を及ぼす。

重要な登場人物が次々に死んでいく/去っていくこの作品において、アニメより過去の時間軸が描かれる意味は大きい。 すでに過去の人物となってしまった登場人物たちの活躍は、観る人に鑑賞と享楽を提供する。 実際、私は公安局の一員として事件に取り組む、青柳や征陸、縢、狡噛たちの姿には強い感慨を覚えた。

だが、こうした過去の時系列を描き出すことは作品が単なるファンムービー的なものに押し込めてしまいがちにもなる。「現在」の設定に影響を及ぼさないように過去を描けば、おのずと無理なストーリー構築はできない。しかも、今回の劇場3部作は、もともとファン向けの劇場作品でもあるわけだから、世界観を広げるような挑戦を取ろうとする発想は生まれにくいように思う。コンテンツとしてはコアなファンを守ればいいわけだから。

しかし、本作は、そうしたファンムービー的な作品とは一線を画し、psycho-passの世界観を広げることに成功している。しかも、設定の後付け(実際にはそうであるのだろうが)的な無理のあるものではなく、psycho-passの世界観を補強し、より深みのあるものとしている。

国境を守る国防軍の存在。須郷に対して大友が提起する、シビュラシステムによって認められた戦争とサイコパスの関係性。
シビュラシステムを傘下に収め、絶大な権限を有する厚生省と、その他の省庁の管轄争い。

特に後者の観点は、これまでの作品全体を通して、初めて政治が描かれたという意味で印象的だった。また外務省から人事交流で1係に派遣されるなど、今後の作品世界への足掛かりになりそうなテーマである。 外務省管理区域においてシビュラシステムが機能しないところなどは、両者が険悪な雰囲気にあることを象徴している。現実世界で厚生労働省と外務省は対立するような政策領域は見えにくい。例えば、前の劇場版で描かれていたように、シビュラの輸出により、国外に権限を伸ばしたい厚生省と、国防の管轄を厚生省に奪われたくない外務省による政治的対立があるのだろうか。

アニメ版ではシビュラシステムの無謬性に視点が集中し、その他の社会、社会システムや、公安局以外のそこに生き、働く人々の描写が弱かっただけに、このあたりをさらって見せた今作は、作品として重要な位置を占めるのではないか。

平野啓一郎『マチネの終わりに』「運命」に呑まれる「自由」

ずっと読みたいと思いつつ、読めずにいた平野啓一郎作品。とても好みだった。著者の自由への関心の高さが伝わってくる小説。恋愛小説というよりかは、自由の物語のように僕には感じられた。広くおすすめしたい。

今年の秋には福山雅治さんと石山ゆり子さんで映画化もされるらしい。ぜひ観に行こう。 刊行からだいぶたつけれども、感想を。

マチネの終わりに

マチネの終わりに

ふたりの主人公は、平均的読者から大きく外れているように見える。ひとりは、通信社の最前線で活躍する記者であり、深い教養と聡明さを兼ね備える。またもうひとりも、幼少より天才の名を恣にするギタリスト。ふたりはあまりにも才能に恵まれている。 また、ふたりが生きる舞台もイラク戦争リーマンショック東日本大震災など、同時代性を感じながらも、語るには思わず身構えてしまう事件が選択されている。そんな世界にあっても、極めて聡明で、思慮深いふたりは当事者性を持ちつつ、それでいて高い客観性を以て自らの存在を把握する。

読み始めてすぐのころ、ふたりは縁遠い世界の人物のように感じられてしまう。 だが、筆者の優れている点は、卓越した人物を違和感なく描き出しながらも、読者を決して蚊帳の外に置かないことにある。実際、私自身読んでいて、明らかに縁遠いふたりの主人公たちの息遣いを身近な存在として感じることができた。

あるいは、「恋愛小説」というテーマが、身近さを感じさせる装置なのかもしれない。恋愛は、特殊性と普遍性を兼ね備えた概念のように僕には感じられる。遠い存在のふたりと私たちの共通概念として、恋愛が存在する状況が作り出されている。確かにふたりは特殊であるが、彼らが恋愛において抱く感情は、どこか共感を覚える。
恋愛というテーマによって、特殊な存在を普遍的に描き出すことに成功しているのではないだろうか。

しかし、そのようなテーマ自体の効果があるにせよ、ふたりの特殊性を、広く受け入れられる普遍性をもって表現できる筆者の力量には、やはり感服するほかない。

個人的に、本書のおもしろさは、恋愛よりも「自由」にあった。正確言うと、恋愛というテーマも、自由というより大きなテーマに内包されているのだと思う。 個人的な関心に重なるところもあって、以降では、「自由」というキーワードから、話を進めていきたい。

過去は変えられる

物語全体を貫くのは、蒔野による次の印象的な言葉。

「過去は変えられる」

ふたりの主人公、あるいは、その身近な人々が生きるのは、必ずしも未来を選択できない世界。イラク戦争も、リーマンショックも、東日本大震災も、繰り返されるはずだった日常を人々から奪い去り、暗転した世界に否応なしに引きずり込む。

ここにおいて、「自由な選択によって未来を選び取る」、という世界観は現実感のない神話に過ぎない。退屈で呑気な日常を選択することなどできない。 外在的な「運命」と表現することで痛みから気を逸らすしかないように見える世界において、なお、自由はありうるのだろうか。

このあたりのテーマは、洋子とソリッチによる親子の対話に鮮やかに提示される。わずかに数ページの短い対話篇であるが、この対話に物語の多くが込められているように感じられた。

人間の行動すら、すべてシステムの予期する通りに組み込まれ、我々の選択の余地は縮退の一途をたどる。システムによる「運命」が拡大する中で、人間の自由意思なるものは、どこにありうるのだろうか。

ふたりの答えは「過去は変えられる」ということ。どれほど選択の余地もないままに、世界に翻弄されたとしても、過去を「受け入れ可能な形」に捉えなおすという選択によって、新しい世界を歩むことを可能とする。

変えられない過去と運命

このあたりの発想は、以下の著者インタビューで語られるように、現在から過去を推論しようとする態度への反駁があるだろう。

「過去にこんなことがあったからいまの自分はこうなんだという因果関係の牢獄に閉じ込められたままでいる必要はなくて、未来をどうしたいというところから、いま何をすべきかを考えてみてもいい。」

http://crea.bunshun.jp/articles/-/10921

「過去は変えられる」という言葉は、現代の不確実な世界を生きる上で、救いにもなる。過去の自分から、現在の自分を決定的に定義する必要はない。現在と過去は、一定の因果関係で結ばれるかもしれないが、その関係は、再定義可能である。だとすれば、現在の自分の在り方が、自らを取り巻く世界を生きる上で、困難を感じるのならば、「過去を変えて」、また新たな自分を定義すればよい。

しかし、現代社会は、繊細な過去すらも変えさせまいとする論理が働く。

個人情報ビジネスの進展と、ビッグデータによるプロファイルの存在は、現代を生きる人の「自由」を変容させる存在である。ECサイトのリコメンド機能は、自らの過去の選択から、将来の選択を決定づけている。また、今後始まるであろう、採用活動におけるAIの活用は、自らの過去から将来を予測され、合否に影響を及ぼす。

この意味で、私たちが自らの心の中で過去を変えたとしても、サーバに記録された過去は、強固な実在として、私たちの選択の自由を脅かす。 この世界は、自由意志の領域を削減し、運命論へと向かっていく。「過去を変える」ことすら許さずに。

あるいは、恋愛すらも、こうした論理に取り込まれいくかもしれない。恋愛に関しては、本作においても、比較的自由意志が通用する領域のように見える。だからこそ、ソリッチの「自由意志」と「運命」の語りが、鮮烈な印象を私たちに与えている。 だが、プロファイルが進めば、私たちのパートナーすら、データによって知らず知らずに決定されゆく世界は十分にありうるだろう。 この世界は、今再び、機械的な「運命劇」へと向かっている。こんな世界で「自由」はいかにあるべきなのだろうか1

『マチネの終わりに』で語られる、運命と自由のせめぎあいは、この世界の切実な現実として、僕には感じられた。

選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち

選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち


  1. このあたりの議論は、キャスサンスティン『選択しないという選択』に詳しい。

谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』溶け合う「日常」と「非日常」

レーベルを角川文庫に移した『ハルヒ』。僕は常々ハルヒ岩波文庫入りを願ってきているのだが、その未来は確実に一歩近づいたようだ。
ラノベ作品には見えない、とネットで話題になった表紙と、筒井康隆解説に釣られて思わず購入。感想というか、ほとんど懐古厨の懐古をする。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川文庫)

懐古

何を隠そう、ゼロ年代を中高生として送った僕にとって、ハルヒはひとつの転換点であった。多くの同世代のオタクたちと同様に、僕の歴史は、ハルヒ以前とハルヒ以降に区分される。ハルヒ以前は、根暗でカーストの下の方でひっそりと生きていただけの時代。ハルヒ以降は、相変わらずカーストは下のほうだったけど、僕の暗くて閉ざされた世界にサブカルチャーが舞い込み、精神の安寧と、適度な刺激を手に入れた時代。

とはいえ、僕が中高生を送ったゼロ年代の田舎は、いまだオタク文化=キモイの定式が崩れていなかった。オタクであることがばれれば待ち受けるのは社会的な死。というのは極端にしても、見られる目は変わってしまった。様々な人の目の網の中、閉ざされた教室で、「こいつ違う」という烙印を押される恐怖は、中高生の僕にとっては何よりも避けるべきものだった。カミングアウトできなかったのだ。だから、僕の世界は開けたものの、オタクは隠すべきものであり続けたし、実際、うまく隠し続けていた。と思う。

このころからすれば、現在は国民総オタク時代。アニメキャラは様々なところへ活躍の舞台を広げ、生活のいたるところへ浸透している。誰もが自然とオープンにアニメや漫画について語ることができる。聞くところによると、我が地元の小学校では、アニソン、ボカロ曲がお昼のリクエスト曲として流れることも少なくないという。 なんともいい時代になったものである。たぶん今の中高生だって、周りから隠したいと思う何かは依然として存在しているだろうけども。

なんて、まるで老人のような文を綴ってしまったが、まあ仕方ない。だってハルヒ読んだのだから。

感想 日常/非日常の境界と侵食

と言っても今さら僕などが付け加えることなどあまりないけども。
やっぱり日常/非日常の区分け(あるいは曖昧さ)は大きなテーマなんだろうなあと。登場人物たちはその境界線上でドラマを展開しているし、。そして、この区分けを強調する作品に過去の僕はひかれたのかもしれない。学校というシステムは、僕にとってどうしても「繰り返し」の日常を意識させてくれたので。
キョンの視点で語られる日常世界は、ハルヒの登場に伴って、次第に非日常なものに変化していく。宇宙人、未来人、超能力者。彼らと出会い、交流を深めていくキョン。しかし、彼はそれらを避けるでもなく、おかしいと声を上げるでもなく、自らの日常へと取り込んでいく。彼の日常は平凡なものではなく、非日常な日常とでもいうべきものへと変化する。
このあたりは、のちに『消失』へとつながる重要な構造だ。果たして彼が選択するのは、「平凡な」日常か、それとも、「非日常な」日常か。彼は、ハルヒたちが持ち込む非日常を、ただただ呆れつつ流されていたのか、それとも、自らの意思で取り込んでいたのか。

日常/非日常という区分は、ハルヒ自身がその体現といえる。彼女は、非日常を求めつつ、その一方でそんなことはあり得ない、という普通の判断基準を獲得している。彼女の内面は、日常/非日常の境界を作り出している。
日常に飽き飽きし、SOS団を結成したハルヒ。それでも退屈な日常に嫌気がさし、いらだちは止まらない。ついには非日常な世界を生み出し、世界の再創造を行おうとする。それでも、最終的にハルヒが選択したのは、元の日常であった。
彼女はこのとき、退屈な日常をできうる限り楽しもうと(少なくともこの時は)決意をした。彼女は以降、非日常を希求し続けつつも、あくまで日常の存在を受け入れ、楽しんでいる。結局、彼女の選択も、日常の中に非日常を取り込もうとしたという点で、(出発点は違うにしても)キョンの選択に通ずるものがある。

キョンにとっても、ハルヒにとっても、当初明確に見えていた日常と非日常の境界は、徐々にその輪郭を失う。彼らの世界は、日常でありつつも、非日常。非日常でありながら、日常として立ち現れる。彼らは、非日常を愛しつつも、日常もやはり楽しむのである。

こう考えると、中高生のとき読んだ頃は、「非日常いいなあ」とか単純に思っていたわけだけど、少し違った読み方をしていたなあと感じられた。案外「日常」も大切にしているじゃんと。


角川文庫で再版されたハルヒ。まさに「襲来」。あと『消失』は買いたいなあ。

『Fate Stay Night Heaven's Feel Ⅱ lost butterfly』感想 実像としてのふたつの内面

Fate Stay Night Heaven's Feel Ⅱ Lost butterfly(以下、HFⅡ) を見てきた。最高。感想を書く。

 黒い影に侵されゆく世界。士郎が願った「正義」の行方とは。

 緻密な背景描写と、不穏さと緊迫感を孕んだサウンド。そして、それらに支えられた圧巻の戦闘シーン。相変わらず高品質な映像作品として仕立て上げられている。

「正義」の在処

物語上重要な点として、士郎の「正義」の在処がある。切嗣から士郎へと受け継がれた「正義」は、今作において究極の問いを士郎に突き付けた。すなわち、「世界を救うか、それとも、桜を救うか」、と。「桜だけの正義の味方になる」という士郎の選択は、前作までで語られてきた「正義」から大きな転換を見せた。世界より、愛する人を選択する姿は、ときとして美しくも聞こえる。しかし、fateシリーズに限っては、彼の願いに対する「裏切り」は私たちに捻じれた感情と行く末の不穏さを感じさせる。

このあたりは、過去シリーズにおいて、繰り返し士郎の選択を描き出してきたからこそであり、「fate」のノベルゲームとしての重層的な性格と、全ルートを高い完成度でのアニメ化を可能としてきたコンテンツの強さを示していると言えよう。
私たちが士郎の選択を知るとき、冒頭で描かれた冬木市の風景は、失われゆく日常として切実に訴えかけてくる。冬の日。道を行き交い、電車に乗り通勤、通学していく人々。彼らの明日は、士郎の正義の転換によって黒い影に塗り潰されゆく。この演出の妙には、感服するよりほかはない。

二面性という実像

HF、特に本作において顕著であるが、他の2つのルートに比して登場人物たちの昏く、捻じれた内面が前景に表れている。他のルートの登場人物たちの選択は、「正しさ」であった。しかし、本作において正しさは後景に退き、登場人物たちは、ときとして利己的で、ときとして暗い重みのある愛を選択し、物語を駆動させていた。それはある意味極めて人間的で、誰しも少なからず向き合い難い共感を覚えることだろう。

こうした、人間的な選択は、世界よりも、桜を選択する士郎に代表されるが、とりわけ、桜の凛に対する内面描写は、危うい魅力を多分に孕み、私たちを引き付ける。桜にとって凛は、一方では「大事な人」であり、大切なものをもらった「お姉さん」1である。朝ご飯を共に作るシーンは微笑ましく、彼女にとっても幸せなひと時であっただろう。他方、士郎と仲良くする凛は桜を嫉妬に狂わせる存在として立ち現れる。教室で士郎を助けに入る凛、土蔵で士郎の過去を語る凛。そのいずれも桜にとって耐えがたい、「奪うもの」の表象である。桜は、士郎を凛から奪われないために、士郎を「穢し」、自らのもとに奪い取った。ここには、ただただ純真な思いで士郎を思うだけの少女の姿は存在しない。
桜の凛への感情に思いを馳せることは、彼女が対極する感情をその内面に秘め、そのいずれもが、彼女の行動原理として成立することをありありと表現している。

そして、まさに凛への相反する感情は、内に黒い影という闇を秘める桜その人を、より克明に描き出す。普段士郎に見せる純真で薄幸な桜と、誰よりも暗く深淵なる闇を抱えた桜。どちらかが正しい桜でどちらかが誤った桜なのではない。その両者が桜の実像として彼女の中に共存しているのである。
本作のラストにおいて、暗黒面を覚醒させた桜。強い愛憎の矛先を向ける凛との関係も改めて問われることとなるのだろう。

英雄たちの攻防

最後に、やはり戦闘シーンへの言及は避けては通れない。セイバーとバーサーカーのアインツベルン城での戦いは、圧巻の一言だった。黒い影に使役される騎士王と、狂気に身を堕とす英雄。互いの持つ破壊と殺戮の力を総動員し、相手の破滅のみを追求する争いは、これまでのfateにでも類をみない描写だ。

また、アーチャーによる黒い影からの防衛戦も圧倒的な迫力を誇る。深手を負いつつも、凛たちを守るためにアイアスを展開するアーチャーの姿は、ただただ格好良く、見惚れるばかりだった。花弁が展開する姿を士郎の目がはっきり捉えるのは、次章への伏線だろうか。

圧倒的な映像美と、暗く、グロテスクな感情の渦を目の当たりにしたひと時。物語的には続きが気になるタイミングで終わっていたが、非常に満足して帰路に就くことができた。


  1. 作中の桜の台詞「大事な人から大事なものをもらったのは、これで二度目です。」より。一度目は凛のリボンだと解釈した。ただ、そう考えると物語上、桜が衛宮家を去るときに一緒にリボンを置いていくような気もするので、別の解釈もあり得るかも。

『リズと青い鳥』感想・考察 少女たちは遠き空へと羽ばたく

はじめに

「えもいーー!」が最近の口癖。世のえも成分を余さず摂取していきたいと思う今日この頃。 えもいと言えば昨年公開の『リズと青い鳥』。『リズと青い鳥』といえばえもい。というわけで、山田尚子監督作品、『リズと青い鳥』のBlu-rayを購入ました。あまりのえもさに感銘を受けたので、いまさらながら感想を文章として昇華します。関係各位に圧倒的感謝。
みぞれも希美も本当に強くて美しい人だよ……ということを伝えたい。

ざっくり感想

圧倒的えもさ

極めて濃度の高い映像作品。 登場人物の一挙手一投足、何気なく置かれている一つ一つの静物、背後に鳴る音楽、取り入れられた様々な表現技巧。映像上に載せられるそのすべてによって物語が表現されている。だからこそ、私はこの作品を前にひと時も目が離せないし、一切の雑音を立てられない。
本作にダイナミックで明確なストーリーラインはない。そこを評して「静的」な作品と表現されることも多いと感じる。だけど、見事な映像で表現された揺れ動く感情は大波を生み出し、鑑賞していると心の中で何か熱っぽいものを感じずにはいられなかった。その意味で、私には熱情的で動的な作品に感じられた。

美しく、残酷な青春

物語の中核をなす希美とみぞれの物語。アニメーション作品では曖昧な形で表現されていた、ふたりの関係の非対称性に焦点があてられる。希美にとってみぞれは多くの友だちのひとり。でもみぞれには希美しかいない。 ふたりが織りなす物語は、美しい映像表現の背後でどこか悲しく、残酷な青春の1シーンとして炙りだされている。
『ユーフォ』シリーズにも共通するけども、こうした「キラキラしていて爽やか」、だけでない青春の描写はとても好き1。私もあまりイケイケな青春を送れなかった質なので、なんとなくその表現に同族意識を覚えるのかもしれない。

さて、徐々に核心的な話を書いていきます。以下ネタばれ注意。

束縛と解放

「解放」へ向けて

本作品の大きなテーマは、束縛と解放。リズと青い鳥の原作を読む希美とみぞれ。ふたりは物語を自分たちに重ね合わせる。孤独な少女リズはみぞれ、自由な翼をもつ青い鳥は希美。リズは青い鳥との暮らしを喜ぶが、最後には、青い鳥を自由な大空へと羽ばたかせる。みぞれは青い鳥を逃がすリズの思いがつかめず、演奏に力が乗らない。 でも本当の青い鳥はどちらなのか?これは、少女たちが遠き空へと羽ばたく物語だ。

束縛のモチーフ、学校、水槽

本作品には様々な「束縛」の表現が登場する。まず、学校。もちろんみぞれも登下校するし、あがた祭やプールに行っているわけで、外の世界にも出るのだけど。でも映像に映されるみぞれは、常に学校の中にいる。みぞれは学校という大きな「鳥かご」に閉じ込められ、はばたくことができない。希美によって束縛され、外の世界へ行くことができない。そんなみぞれを、舞台そのものによって表現されている。ある意味、束縛されているのはみぞれ、ということは、最初から学校によって表現されていた。
でも、学校が鳥かごっていう感覚ってどれくらいの人に共有されているんだろう……。だけどこういうとらえ方は僕の琴線に触れる。山田監督ありがとう……。

もう一つの鳥かごは、生物学教室の水槽だ。こちらは学校とは少し意味が異なる。水槽の中にいるフグを飼育するのはみぞれ。また、この行為について希美に「リズみたい」と言われたときに、みぞれは「うん」と返答する。ここでフグを閉じ込める主体はみぞれとして表現されている。したがって、水槽は、いまだ自分が「リズ」であり、「青い鳥」=希美を逃がせないと考えるみぞれの心象風景を示していると読み取れる。フグに餌を与えている間、みぞれは青い鳥を逃がせない。

鳥かごから外の世界を見る

物語のうえで重要な役割を果たすのは、剣崎梨々花さん。圧倒的にいい子。
鳥かごの中に閉じ込められているみぞれ。そんなみぞれに外の世界を知らせる存在が梨々花だ。彼女はみぞれに対して、あの手この手でアプローチを試みる。最初は「私といても楽しくないから」、と拒否を示していたみぞれであったが、物語の進行とともに徐々に心を開くようになる。

梨々花のためにリードを削り、梨々花と練習曲を合わせる。そして、ついに希美のプールの誘いに対して、梨々花を誘う。みぞれの世界は梨々花の存在によって広がっていった。
私にとって印象的だったのは、梨々花がみぞれに対して一緒に行ったプールの写真を差し出すシーン。 みぞれが鳥かごの中にいる間、学校の外側の世界はほとんど描かれない。ラストシーンを除けば唯一現れるのが、このスマホの写真。
このシーンで、梨々花はみぞれに「外側」の世界を教える存在として描かれていることが表象されているのではないか。 みぞれにとって、外の世界を知れることは、私たちにとって望まれるべきことだろう。しかし、彼女の登場は、希美とみぞれの関係を変えるものでもあった。

束縛していた/されていたのはどちらか?

自分でも自覚しないうちにみぞれへ依存していた希美。梨々花とみぞれの関係が深まり、みぞれが外の世界を除き始めると、希美は自分でも処理できない嫉妬の感覚を覚える。そして、決定的瞬間が訪れる。新山先生が音大に誘ったのはみぞれだけだった。
そのとき、希美はみぞれが羽ばたけないのは自分がいるからであり、知らず知らずのうちに束縛していたことを悟った。ひとり藤棚の下で呟く。「どうして鳥かごの開け方を教えたのか」と。
同時に、みぞれも新山先生のアドバイスで、羽ばたくヒントを得る。今は、自らが青い鳥。青い鳥は、リズへの愛ゆえに、はばたく決意をしたのだと。

そして訪れる演奏のとき。大空へ向かってはばたく青い鳥。希美は明らかな技術の差に気づく。何とか吹ききるものの、フルートを構えることすらおぼつかなくなってしまう2。 演奏が終わり、あの生物学教室のシーンが訪れる。

「みぞれのオーボエが好き」- 鳥かごを開けるとき

みぞれからの熱烈な「大好きのハグ」への希美の答えだ。その言葉は、決してみぞれが望んだものではない。みぞれからすれば、精いっぱいの告白だった。みぞれから見れば、あるいは静かに見守っている私たちから見ても、明確な拒絶である。
また、希美にとっても、みぞれの才能に対する持たざる者の嫉妬の言葉。みぞれを突き放す言葉。あるいは、いつまでも彼女が欲しい言葉を言ってくれないみぞれへの精いっぱいの返事だ。このシーンは、彼女たちの心情から考えれば、悲しい失恋、あるいは訣別と言えそうだ。
しかし、それでもこの言葉はもう少し前向きに解釈できる。

希美はあの言葉によって、みぞれを解放した。それまで希美は、みぞれを鳥かごの中に閉じ込めていた。そして生物学教室のシーンではもう、「鳥かごの開け方」を知っていた。 青い鳥は飛び立つ前、決してリズとの別れを望まなかった。もしもリズが、やっぱり行かないで、と言えば青い鳥の大空への飛翔はあり得なかった。みぞれ(=青い鳥)も同様に、希美のそばに居たかった。もしもあのシーンで希美(=リズ)がみぞれの告白に応えていたら、やはり、みぞれは鳥かごのなかにいるままだ。

希美はみぞれの飛翔を妨げることを望まない。みぞれを無意識に閉じ込めていてはいけない。みぞれはその自由な翼で大空へとはばたくべきだ。希美は「みぞれのオーボエが好き」によってこのことを宣言した。大空に飛び立つべきだ、と。希美の言葉は、鳥かごからの解放だ。みぞれのオーボエは解き放たれるべき自由の翼……。

みぞれも、鳥かごを開けた希美の決断を「止められない」。もちろん「青い鳥は幸せだった」かはわからない。でも飛び立つしかない。だってみぞれは希美のことが好きだから。「それだけは本当」だから。

……書いていて涙腺が緩くなってきた。でも、希美ってとてつもなくいい子ですね。あんな明確な実力差を見せつけられて、楽譜に「はばたけ!」なんて書けますか。書けないよ。僕は書けない。まさに「愛ゆえの決断」。

大空へ

希美はみぞれを解放し、みぞれは大空へとはばたく決意をした。ふたりは別々の世界へと歩みだす。みぞれは音楽室へと向かい、楽器の練習へ。希美は図書室で一般大学の受験勉強を始めた。でもそれは、ふたりにとって不幸な別れではない。幸せになったか、はやっぱりまだわからないけど、でも二人とも次の段階へと確かな一歩を踏み出した。みぞれは確かに羽ばたきだした。そして、「愛ゆえの決断」ができる希美も、やはりいつの日か大空へと羽ばたけるのだろう(次の章参照)。

物語のラストシーン、これまでずっと学校という鳥かごに閉じ込められていた世界は、学校の外の世界へ初めて移行する。束縛されていた世界は解き放たれ、自由な大空へと羽ばたいていく。このシーンは涙なしでは語れない。泣いてます。

「幸せ」について

無意識ながらみぞれを解放できない希美。そして希美が好きで離れられないみぞれ。二人のどこか奇妙なかみ合わせによっていまの関係性は成立していた。それって幸せなの?? でも幸せって何か、なんて自明には決まらない。才能があってもそれを生かすことばかりが幸せではない。もっと自分にとっても相手にとっても、大切なものだってあるはずだ。だからこそ、覚醒前のみぞれは青い鳥を逃がせないと考えていたわけだし。

でも、希美は最後に鳥かごを開ける決断に向かう。自由に羽ばたいていくみぞれに目が行きがちだけど、希美もすごい人だと思うんだ。希美はみぞれのことをずっと大事に思っている。みぞれが梨々花を誘っていいかと聞くと、顔を曇らせた。「よく覚えていないんだ」と言いつつ、彼女たちの出会いを鮮明な記憶として大切に保存していた。でも希美は、みぞれの幸せのために、大空へとはばたかせる。これはすごい勇気だと思う。たぶん、僕にはそんなことはできない。大事な人をどうして逃がすことなんてできようか。

もちろん、希美の意思=「束縛からの解放」が「幸せ」をもたらすかはわからない。実のところ単なるエゴかもしれない。それでもやっぱり希美の愛や勇気は本物だと思うし、きっと彼女はこれからもっと強く、美しくなっていくのだろうなあと、思ったわけだ。希美にもきっと大空へと羽ばたく日は来るはずだ。

その他言いたいこと

黄前さんが好き

黄前さんがかわいいのである。 元のアニメシリーズから私は黄前さんのことを愛してなやまない。表面的にはとても上手にふるまいつつ、その実性格が悪いところなど、本当に魅力的で素晴らしい。それでいて、「特別」なるものの熱情に侵され、自らもその域へと到達しようとする姿勢。好き。
リズと青い鳥』は『響け!ユーフォニアム』とは別作品として描かれている(と私は認識している)ため、黄前さんの出番は少なく、みぞれの後輩の一人として描かれている。

しかし、その中でも今回の黄前さんは全く新しい姿を私たちに見せてくれた。なんだろう……。京アニスタッフ陣による線の美しさ、かわいらしさも、声優・黒沢ともよさんによる相変わらずのよそ行きのトーンも……。なんか、こう…… ネコ っぽい。はい、やめます。私はずっと黄前さんは攻めだと認識していたけども、今回の作品を見て受けもありかもなと思いました。まる。

高坂さんとの絡みも素晴らしかったですね。校舎の裏で奏でられたのは、希美とみぞれのそれとは明らかに違う、美しく、それでいて強いメッセージの込められた協和音。言葉などいらず、二人の間の「特別」で結ばれた強固であり、なおかつ儚い関係性。黄前さんと高坂さんの愛を確かめ合う行為を見せつけられたひと時だった(本人たちは希美とみぞれに聞かせようとしたのだろうけども)。
また黄前さんの活躍がみられるかと思うと春公開の映画が楽しみで仕方ない。春までは生存したい。

額縁のような音楽

吹奏楽部を舞台にした作品だけに(それが本作のメインテーマではないものの)、劇中音楽も素晴らしかった。
絵画作品が納められる額縁は、それ自体が美しく、一つの芸術作品である。しかし、決して主役である絵画の邪魔をせず、むしろ引き立てる役割を負っている。らしい。この作品における音楽はまさにそういう役割を体現していた。集中して聞けば、どの音楽も美しく繊細で、音楽作品として自立している。にもかかわらず、登場人物たちの紡ぐ物語に溶け込んでいて、私たちの意識には登場しない。それでいて、私たちの感情のふり幅を増大させている。

校舎を隔て、希美とみぞれがフルートの反射で遊んでいるシーンの音楽は特にそう。あそこで流れる音楽は、音楽担当の牛尾憲輔さんが作品コンセプトを聞いてすぐ作曲された楽曲という(リズと青い鳥、スタッフコメンタリより)。単体で聞いても切実な差し迫る感情にに満ち、美しさの中に不穏さを孕んだ素晴らしい音楽だ。しかし、映像に乗ると、少女たちの奏でるかみ合わなさとその切なさを表現しつつも、決して強い主張はしない。あの画面の向こうから覗き見るのもはばかられる重要なシーンを、より繊細で象徴的な一場面へと昇華させている。

音楽といえば、「リズと青い鳥」そのものもすばらしい楽曲ですね。本当に1アニメ作品の劇中曲のためだけに作られたのか、というクオリティ。圧倒的才能。 完全にクラシック音楽。本編では第3楽章がメインで使われるものの、第1から第4楽章まで作曲されている。孤独な少女リズと青い鳥の出会いから別れまで、あまりに多くの情景がこめられた名曲。風の音の表現にウィンドマシーン(楽器)が使われるなど、現代音楽的な表現が取り入れられていて、音楽的にも面白い。サントラを買おう。

まとめ

リズと青い鳥』はいいぞ。いや、まじで。名作、という評価を惜しまない。ラストシーンで初めて学校(=鳥かご)から出ていく演出で泣き出し、その直後に初めて二人の歩くテンポがあった瞬間に号泣した。束縛から解き放たれたふたりは、高校を卒業したらたぶん、会う機会はほぼなくなる関係性になるだろう。でもあの瞬間ぴったりと合った、互いに素の数どうしの公倍数を見つけた瞬間は、「それだけは本当」だから。大空へと羽ばたく少女たちの行く末に光あれ。


  1. 青春のどこか残酷な感じと映像美を掛け合わした表現は、岩井俊二監督作品なんかにも共通するところがあるなあと感じた。『花とアリス』とか『リリィ・シュシュのすべて』とか。映像論の知識があればこのあたりの考察をすると面白そう。ああ、知識と教養がほしい。

  2. 観ているときはあまり意識しなかったけど、演奏している方も演技されている、ということですよね。本当に作りこまれた作品だ。

踏切板からの眺め

出会った踏切の名前をメモ帳に書き込んでいた時期がある。だいたい小学校3年生くらいだったろうか。肌身離さず手帳を持ち歩き、踏切の名前を蒐集していた。旅行かなにかで、たまに車で遠出するのが大きな楽しみだった。なぜなら、未知の踏切の名前に出会えるからだ。  沢踏切、赤木踏切、小沢踏切、……。ただひたすらに踏切の名前をメモ帳に書いていくだけ。それでも、踏切の名前集めは、なにか特別のことのように思えた。踏切の名前を示す板は、僕の心になにかを訴えかけてきた。これから死ぬまで全国津々浦々、踏切の名前を集めていけば、なにかを成し遂げられるのではないか。踏切の名前ばかり集めたたくさんのメモ帳を前にすれば、なにか世界の真理なるものにたどり着けるのではないか。その頃は、なぜだか真剣にそんなことを考えて、日々、踏切の名前を書き連ねていった。ただただひたすらに。  

  もちろん、今ではそんなことはしていない。いつの日にか、メモ帳は持ち歩かなくなり、机の引き出しの中で深い眠りについている。踏切を見ても、名前なんてわざわざ見てもいない。かつてあれほどの存在感をもっていた踏切の名前板は、もはや僕に何も語りかけてこなくなった。ただの金属板にしかみえない。  踏切の名前集めをやめた理由はよく覚えていない。インターネットで調べればすぐわかることを知ったからかもしれないし、踏切の名前を集めても世界の真理などわからないことを悟ったからかもしれない。あるいは単純に飽きたのかもしれない。意外と飽きっぽい性格だし。

ただ、世界から新しいものを集めようとする感性は、小学校のころと変わらず残っていると思う。知識欲とか好奇心でも言うのだろうか。知らない場所に行ったときなど、まずはそのまちの、自分にとっての新しさを見出そうとする。初めて大学のある京都に来たときは、やたらリプトンと銭湯多いなと思ったし、イギリス旅行に行った際には、電線がないことと、ホームレスが見当たらないことに驚いた。僕は踏切の名前板より広いところに、面白さを見出すようになったのかもしれない。子どもにとって、世界はなんでも新しいから面白いが、大人にとって、そうではないという。しかし、大人になっても、世界の新しさなんていくらでもあって、それに気づくか気づかないかだけなのだと思う。

そんな気持ちを抱えながら、僕は電車に乗り会社に向かう。いつも同じ繰り返し、にならないことを祈りながら。