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サクブンチョウ

生活と音楽と物語と

2018の目標

目標を立てることにした。

先を見失ってしまわないように。

 

それから記録しておくことにした。

あとで立ち帰れるように。

 

 

大目標

2017の自分をダサく思えていること

 

そのために

企画として

・1つ以上の案件を提案し実現する

 

ビジネスマンとして

・社内新規事業の黒字化 

・英語力強化(ビジネスメール / 母国語の1.2倍以内に英語文読める / 日常会話ができる)

 

エンジニアとして

・小規模なシステムを1つ以上構築

・自分のサイトを完成

・vue.js ruby の習得

・gulpなどフロントエンドの技術キャッチアップ

・社外エンジニアとのコミュニケーションが取れる

 

生活について

・結婚する

・6時間睡眠の維持(寝不足、寝過ぎを避ける)

 

以上。

今年もよろしくどうぞ。

 

ステージを変えよ、そのスピードで

ニーゼロイチナ

2017年はアキラの年だったし、私が生まれて23年、 キリストの生誕から考えるとちょうど2017年だし、鎌倉幕府ができてからは、えーと、825年だ。 そう考えると2017年は特別な1年であった。 2018年はキリストの生誕から2018年で、鎌倉幕府ができてからは826年である。 2018年も特別な1年であることは間違いない。

特に何か伝えたいことがあるわけではいんだけれど、悶々とした何かを文章にしたい時がある。 というか伝えたいことがはっきりしていたら、こうやって大海にゴミを投げるような行為はしない。伝えたい人に、伝えたいことがしっかり伝わるように何かをするだろう。

2017年はいろんなことがあった。 恋人ができて、 引越しをして、 社会人2年目になって、 骨折をして、 フジロックに行って、 少し仕事の幅も広がって、 それから少し停滞があって、 一般的に見れば多分に早い転職を決めて それから恋人と別れた。

螺旋的に進んでいたはずなのだが、ループしているような感覚がある。2017年はゆっくりと過ぎていった感覚がある。

それは、きっとステージが変わらなかったから。

2016年の自分よりは人間的な成長をしている(人の悲しみがわかるようになったことは大きい)し、多少はマーケティングや企画のスキルもついた。

とはいえ、ステージは一緒だった。 2016年と同じ大きさで、いつもの観客数で、いつもの立地で。 演目は増えたし、演出の質も上がった。もしかしたら昼夜2公演やる体力もついたかも知れない。

けれど、見える景色は一緒だったのだ。 このステージが嫌い、なんてことはもちろんなくて、最高に楽しかったし学びもあったし、まだまだ学べることはあると思っている。

だからこそ、2018年はステージを変えたい。

ステージを変えるということ

それは自分が大切な人たちとこれからも一緒にいるためであり、 この先も楽しいな、って生きていくためである。

一緒にいるには、同じ(もしくは近い)ステージに立っていることが必要で、 楽しく生きていくには、ステージが変化することが必要なのだ。 (注記のように書いておくが、楽しく生きる≠楽に生きてる、ではない。楽に生きるにはずっと変わらないことが不可欠だと思う)

たかが世界の終わりでテーゼはあったし ソラニンにもそのテーゼはあった。 モテキだってそうだし、秒速5センチメートルもそうだ。 もしかしたら、大半の物語は上記2点が(あるいはどちらか)が満たされないことが起因となっているのではないだろうか。

たかが世界の終わりは、1人、ステージが変わってしまったために一緒にいれなくなってしまった家族の物語であり、 ソラニンは誰もがステージを変えたかったけれど、皆に勇気がなかった青年の物語である。

どちらも本当に好きで愛おしい物語だけれど、私はその物語をなぞりたくはない。

孤独は嫌だし、停滞も嫌なので、 ステージを変えていくしかないのだ。 私の友人 / チームたちがステージを変えていくように。 そのスピードで。

変わっていくことで失ってしまうこともあるけれど、 変われないことで失ってしまう方が悲しいので。

苦役列車と途中下車

各駅停車

約束していた友人にドタキャンされ、待ち時間のコーヒー2杯とコロッケサンドの合計1340円分だけをお土産に深夜1時に家に帰った。 一人でぼそぼそと歩く新宿はとても攻撃的で、「あゝ、新宿」なんておもっていられるか、と思う。一人で歩く道はどこだって寂しいが、どうも新宿は特に寂しい。

大森靖子が「わたし、新宿が好き 汚れてもいいの」なんて歌っていたが、歌いたくなる気持ちが少しだけわかる。 その点池袋はいい。サクラホテルの一階、サクラカフェで深夜まで時間を潰したってちっとも寂しくなかった。だから歌にもならないのだろうけど。 ちなみにサクラホテルは代田橋だか笹塚のサクラホテルがいい。深夜まで空いているし、日本人がいない。仕事をやめたらそこで本を読む生活を取り戻したいと思う。

小田急線の各駅列車は終電が遅くて、本当に便利である。各駅列車はのんびりしすぎて、乗れない時期があった。停滞した人生を予言しているかのような気持ちになっていたからだ。今思えば随分とアホくさいが、結局1時まで友人を待ってしまうあたりアホくささに変化はないのかもしれない。

とりあえず、私の口はもう酒を飲むような気持ちで満ち溢れており、ゲーム機を買いにおもちゃ屋にきたものの、クリスマス商戦で売り切れていた時の小学生が味合うような、大変に大きな絶望と枯渇を感じていた。 諸事情で今年の有給が0になっている私にとって3連休は、旅人にとってのオアシスであり、北朝鮮にとってのミサイルであり、いわゆる希望というやつだ。

社会人になってからというもの、飲酒を控えるようになり、家にはアルコールを置いていないのだが、押し入れを漁ると、いつかの友人が置いていった鍛高譚が出てきたので、こいつを飲むことにした。 Wiiの代わりにゲームウォッチを使うようなものだが、まあゲームはできる。問題はない。

ただ飲むにしても寂しかったので、映画でもみることにした。 見よう見ようと思って、2年だから3年だかが経過していた映画でもみることにした。翌日が休みというのはよい。どんな気分になっても引きずることができる。そう、こんな風に。

苦役列車

原作は西村賢太。中卒の私小説作家であり、主人公の貫多が中卒で小説家を志す設定であることから、非常に私小説的な作品である。2010年に書籍『苦役列車』は芥川賞を受賞している。原作を読んだものは映画を見ない、と決めているので、読んでいないが時間があれば手にとってみたい。

人生は不条理(これはこの作品のテーマでもある!)であるので、原作の後に映画は見ないが、映画の後に原作は読む。論理式なんてものはまやかしである。論理は屁理屈であり、便所の紙にもなりやしない。

で、映画は監督山下敦弘、主演に森山未來高良健吾前田敦子。いい塩梅の布陣である。山下監督の作品はどれも秀逸で、リンダリンダリンダなんてものは、青春映画の結晶である。高速バスでリンダリンダリンダを見て、号泣しながら大阪に着いたこともある。


映画『 リンダ リンダ リンダ』

世の中を二分して「サブカル」と揶揄される人たちで見ていない人間はいないと思うが、見ていなかったらぜひ見て欲しい。なぜなら今日は3連休だから。3連休じゃない人たちはもっと見てほしい。なぜなら君たちは3連休ではないから、だ。

話が脱線したが、昭和後期の東京を舞台にした映画である。 雰囲気は予告編でも見て欲しい。雰囲気を伝えることにかけては、予告編ほどあてにならないものはないが。


「苦役列車」予告編

小学五年生の時に、父親が性犯罪を起こし一家離散。中卒から人足仕事を続けている貫多こと森山未來は、とある現場で日下部正二に出会う。彼らは友人となっていき、日下部の力を借りて憧れの櫻井康子とも友達になる。 彼らは全員19歳であり、上京組の日下部、櫻井は次第に変質していき、東京でくすぶり続けていた貫多もまたコンプレックスを引きずるばかりで停滞を続ける。その果てにあるのが、離散であるのだが、この映画は序盤から離散の匂いが漂っている。

貫多と正二は仲がいいのだが、どこか正二が一歩引いているのだ。ある種の侮蔑、貧乏に向けられるあの眼差しがある。友達であるに違いはないのだが、一線を引いてしまうあの感覚が描かれている。

例えば食堂のシーン。 貫多がみそ汁を白米にかけてべちゃべちゃと食べるのだが、正二は一瞥して、一瞬だけ顔を曇らせる。あるいは、書店のシーンで、「お前も本なんて読むんだな」という言葉が口をつくし、正二と貫多が通うのは風俗と酒場だけである。映画には行かないのだ。

何も責めることはできないし、正直なところ言えば、正二の気持ちを理解できてしまう。共有したい相手と共有したくない相手はいるのだ。私たちは日々そんな選択ばかりしている。この映画はあいつと見たいな。このイベントはあの子と行こう。あいつはちょっと違うな。なんて。 逆に言えば、私たちは常に選ばれている。そのことに自覚的であるとチクリと苦しいのだろう。選択の対象として、選ばれやすい人間と選ばれにくい人間がいて、その差がコンプレックスを生み出しているのだ。

そして貫多の恋もうまく行かないのだ。「友達」になれたはずの康子ちゃんを貫多は押し倒してしまう。このシーンは土砂降りで、いささかモチーフがベタすぎやしないか、とは思ったが、前田敦子の演技が帳消しにしている。 「好きになんてならないよ、ヤったって」哀しさと愛情を混ぜて、キリッとした目で貫多を見つめて言うのである。女性には勝てないなって思わせる、あの瞳で。そのあと貫多は愕然として、そのシーンは終わっていく。ここでヤらないところに貫多の真剣な恋心も同時に映されている。性欲が瞬間的に蒸発してしまう、あの瞬間。 二度と経験なんてしたくないけれど、そんなこともあった。

全てを失った貫多だが、最後に希望を映して終わる。 軽蔑していた人足のおっさんが夢のために立ち上がっている姿を居酒屋のテレビで目にするのだ。それから貫多は筆をとる。ようやく筆をとるのだ。

極めて青春だな、と思うのは、このおっさんが立ち上がったきっかけは貫多にあると言うこと。貫多がおっさんを叩き起こし、それからおっさんが貫多を叩き起こす。3年遅れで。 きっとおっさんを軽蔑していたのではないだろう。貫多は怖かったのだ。おっさんも怖かったのだ。自分の小さなプライドを失ってしまうことが。 彼らに自分を見てしまった人たちは、この2時間は苦役列車である。しかし、最後に救われるのだ。安心してほしい。このシーンがなかったら、鍛高譚をもう2杯は飲んでゲロ吐いて寝てた。

こんな碌でなしの物語を見るたびに浮かんでくる音楽がある。 ハヌマーンバズマザーズである。 ハヌマーン私小説的な世界で生きている。どうしてこんなにおぼつかないのだ、と。音楽については何か書くのはアホくさいので、聞いてほしい。


ハヌマーン「Fever Believer Feedback」

フロントマンであった山田亮一が私小説的帰結を迎えた結果、解散。その後、再始動したのがバズマザーズである。 正直音楽のキレも感度もハヌマーンには劣っている。しかし、これが現実であり、本人も自覚しながらそれでも歌っている。その姿には心が打たれる。音楽はコンテキストも含めての鑑賞作品であるので、こっちもめちゃめちゃ格好いい。

途中下車

全編を通して、どこか自分の人生と重なってしまった。 私は平成を生きているし、大学を出ているし、家賃も6万円のところで暮らすことができた。でも、人足の現場は、古本屋時代のバイトを思い出すし、そこでの友人のことを思い出す。幸いにも私たちは離散していないが。

最初重ねていたのは、貫多であるのだが、ある時から日下部にその対象はシフトする。おそらく貫多が倉庫番を逃げ出したところだろう。日下部はきっとあのまま倉庫番を続け、それから一般企業に就職し、おしゃれな彼女と暮らすのだろう。それからふとしたタイミングで、人足のことを思い出し「あの頃は刺激的だったな、もう今更土は運べねえけど」なんてこぼすんだろう。

まるで今の私みたいに。あるいは彼みたいに。 あんなに何かを変えると言っていたのに、何も変えられないまま23歳になってしまった。学問への批判も、映画も、設計も、それから文章を書くことも。全て丸っと投げ出して、途中下車してしまった。 苦役列車からの途中下車はとても魅力的で、安定したものだなって思う。本当に幸せだ。

けれど終着点にたどり着くのは貫多であり人足のおっさんなのだ。苦役列車に乗り続けた人々なのだ。

途中下車を悔いているつもりは毛頭ないが、そろそろ駅のホームに立って、次の電車を待とうではないか。 各駅停車の苦役列車かもしれないが、もし次の電車が来るならば、もう一度飛び乗ってみようと思う。

生活と蜃気楼

「ねえ、聞いてよ。この前久しぶりに家に直帰したの。それも3時。何していいか全然わからなくって。」

「飲みにいかないなんてありえないね。」

「そうなの。でもお金がなくなっちゃって。あーマジ渋い。」

 

「大学の授業ってなんだか高校に比べて退屈で。頑張っても成果は出ないし、やる気も出ない。」

「わかる。高校の頃はなんでもやればやるほど結果が出たもんね。あ、そういえば。今度飲みに行こうよ、うちらまだ飲んでないじゃん」

 

ふらっと入った喫茶店で、隣の席の男女が工場で大量生産されたみたいな青春で盛り上がっている。どこにでもある話とどこにでもある悩みは彼らにとってここにしかない話であり、悩みなのだろう。

 

工場で大量生産された煙草を吸いながら、これまた大量生産されたマシンでこの文章を書いている。

わたしが感じている遣る瀬無さもありふれた遣る瀬無さなんだろう。コンビニの化粧品棚の隣にひっそりと売っていてもおかしくない。

 

良品計画、遣る瀬無さ、580円。

 

いつからかキラキラしたものは減ってしまった。ガラクタだと思っている。会社で働くこともだんだん霞んできてしまった。

 

俗に言う社会人2年目のありふれた悩み。

 

 

そもそもこの「社会人」という言葉、よく考えてみるとてんでおかしい。

 

社会人ってのは高校や大学を卒業し、組織に属すことができた人間のことを指す。逆にそうではない人間たちは社会人ではないのだ。社会の外にいる人たちである。アウトサイド。

 

だから隣の男女は社会には属していないのだ。彼らはアウトサイダー

 

この三軒茶屋の喫茶店には社会とその他の境界がある。彼らはなんなんだろう。

言葉はなんて傲慢なんだろう。

 

でもそれならば、わたしはアウトサイダーでありたい。

 

 

最果タヒの「夜空はいつでも最高密度の青色だ」は我々の希望である

詩は逃避でなく希望である

 

詩は逃避ではなく希望である。

私たちが最も手軽に、どんな場所でも、どんな時でも言葉を使って作ることができる希望、それが詩なのだ。

 

インターネットの普及によって、ポエジーが散乱している。自己の不甲斐なさ、不確実さ、それに伴う不安、広がっていく格差、不透明な情報、見えない現実、去っていく大切な人、区別される人の生死、数えればキリがない、わんこ蕎麦みたいに不幸が降ってくるこの時代に、不幸を受け止めたりその傷の痛みを止めるための脱法ドラッグ、すなわちポエジー。ポエジーはじわじわと人を殺す。

しかし、ポエジーはポエムのようなものであってポエムではない。詩は、この苦しい世界でその先の新しい世界を示す。

 

不甲斐なくて遣る瀬無い夜に、一編の詩を朗読することで、明日に立ち向かえる気がする。街頭のスピーカーから歌われる詩で、すくむ一歩を踏み出すことができる。ふとしたタイミングで、詩は突然顔を出す。背後からそっと、我々に力を与えてくれるのだ。

ポエムはじわじわと人を生かす。

 

お願いだから、僕がみえているだけのそれだけの瞳になってくれないか。だれかの暇つぶしのために、愛のために喧嘩のために、僕は生きているわけじゃない。退屈を知らない人に、生きる意味って、あるの。ネオンと呼び込み、雑踏と罵声。ひとごみは、ぼくは、お前を孤独にするために流れていくわけじゃない。

 

ー「新宿東口」(夜空はいつでも最高密度の青色だ、より一部抜粋) 

 

詩は流体だと思う。気体ほど不確かではなく、個体ほど断定的ではない。その世界を映像として体現していたのが、映画『夜空はいつでも最高密度の青色だ』である。

 

映画ではなく、詩の映像化


『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』

 

監督は『舟を編む』の石井裕也。主演は池松壮亮石橋静河。盤石のキャスティングだと思われるが、観るまでは一抹の不安があった。詩を元に映画を作った時に、果たしてそれは観るに耐えるものとなるのだろうか、と。ポエジーになってしまうのではないか、と。

 

結論はタイトル通り、ポエムであった。すごい。

基本的に各役の台詞は少ない。映像と音楽と、それから小道具で演出している。それから台詞の半分は最果タヒの詩の一節の引用である。それから、詩を映像化しているところもあった。例えば、首都高の詩。

 

きみがどこかにいる、心臓をならしている、それだけで、みんな、元気そうだと安心をする。お元気ですか、生きていますか。

ー「彫刻刀の詩」

 

 

きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、きみはきっと世界を嫌いでいい。そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。

ー「青色の詩」

 

 

余分な言葉がないからこそ、劇中の言葉が脳内に響く。時には不協和音のように、一方ではパイプオルガンのように。

 

この映画は、水面のカットから始まる。詩が流体であることのメタファーなのではないか、と私は思っている。詩の世界が始まったことを示している。

 

それから物語は始まる。詳述は避けるが(なぜなら、スクリーンで見て欲しいから。こんなに良いのにすっからかんだった!)登場人物の誰もが、社会の間で、不安に不甲斐なく、それでも懸命に生きている。気をぬくとぬるま湯で溺れてしまう、月収30万の生活はそこにはない。地震に怯え、明日に怯え、社会に怯えている、そこには私やあなたもいるはずだ。

 

でも、そんな彼らの中で、希望となるのは「詩」であった。言葉によって(あるいは風景によって)希望を手にするのだ。

それから、恋と愛。

 

恋と愛なんてものは、我々が我々自身を嫌いでいる間は存在しないのだ。でも、この映画では終に存在する。自分自身を愛することができるようになったのだ。朝日と共に、希望を咲かせている。

 

見終わった後、明日が少し楽しみになったし、ちょっといいことが起こる予感がした。日常に生息するいやな予感は、すっかり影を潜めている。

 

石井裕也はこの作品によって、私たちに希望を伝えたかったのだろう。だから、最果タヒを選んだし、詩をモチーフにしたのだろう。

 

そこでようやくエンディングがThe MirrazのNew Worldであったことにも合点がついた。4年前の曲をなんで今更、と思ったし、The Mirrazとこの作品がマッチしているようには予告の時点で思わなかったのだ。うどんとそばみたいな、近いけど遠い。

 


The Mirraz - 「NEW WORLD」歌詞PV

 

でも、これはうどんととり天だったわけだ。

未来を作るために生きてるんだ、って。そうだよ、その通りだ。

 

今ある答えなんてもういらないんだよ

それはもう終わった問題なんだよ

こんな時代なんだ 好きにやろう

 

好きにやるという口実のもと、明日も仕事なのにこんな時間まで(AM 3時)文章を書いてしまった。新しい時代へ追いついていこう。

 

1300円で買える希望。 サウジアラビアとロサンゼルスの違いはなんだろう。

夜空はいつでも最高密度の青色だ

夜空はいつでも最高密度の青色だ

 

 

 

 

私たちは岡崎体育の「感情のピクセル」を笑えない

盆地エモ

マーケターとして十分に食っていけるんじゃないかと思う。岡崎体育と寿司くん。

 

公開から2日で100万再生越えを達成し、急上昇ランキングでも1位を記録し、上々な滑り出し。

 

歌詞は本当によく考えてふざけられていて、メロディはキャッチーなので、思わず歌ってしまう。うんぱっぱーのやっほー。近所のコンビニ行くときにも口ずさんでしまったけれど、心が少し壊れてしまった人みたいに見えたんだろうな。

でも、この文章を書いてる横で、家の下の道を、「わんわんわん」って、どう聞いても人の声が通り過ぎて行ったので、本当に心が壊れてしまったら、言語体系も変わってしまうのかもしれない。

 

他方、曲は結構格好いい。日本の「そこそこ人気のエモバンド」っぽい。ギターとアレンジはPay money To my PainのPABLOが参加しているし、本気でエモをやりにきているのはヒシヒシと伝わってくる。

 

 

 

完成度が高いからこそ笑えない

で、本題。完成度が高いからこそ笑えないのである。いや、正確には笑ってしまったんだけど、笑った後で胸が痛くなるというか、心の底から笑えないのである。

 

無論、エモをディスっているように見えるから、というわけではない。(これについては岡崎体育もツイートしているし)

 

それじゃ、なんでかって話になるんだけれど、エモバンド側の心境を想像してしまうから。ずっとエモだけでやってきて、そこそこ売れてるバンドまでなってきたのに、今までテクノやってた知らない奴が突然やってきて、同じレベルのクオリティを出してきた。

やってられないでしょ。積み上げてきたものが一気に持っていかれる訳じゃないですか。しかも全然外野から。後輩のエモバンドが売れていくよりよっぽどきついんじゃないかって。

 

で、こういう理不尽なことって日常にあるわけで。たまにいるでしょ、圧倒的なセンスとか知性とか才能とかでこっちが積み上げたものをポーンと越えて行く奴。本当にすごいし、敬意も払うし、こっちも負けじと追っていくんだが、やっぱりちょっと胸は痛んでぽきっといくじゃん。私は心が弱いので、すぐ凹む。2mmとか先いかれただけでも凹む。

 

あるいは、3年間遊びもせずコツコツと勉強していた人の成績を、青春を謳歌していた奴が受験期になってさらっと越えて行くようなものだと思う。

 

しかも、エモバンドたちの曲より、岡崎体育の曲の方がPVも伸びている。

これって、コツコツしてたのは結局大学落ちて、クソ野郎は東大受かっちゃうような感じ。僕は後者です、本当にすみません。

 

ま、でもより良いものが出ちゃったらそれは仕方がないし、より良いものを出せる方が強いんだから、岡崎体育はやっぱりすごいな、と。

 

事象が変われば、おんなじ現象は、明日は我が身に起こるかもしれないし、あるいは、読んでいるあなたに起こるかもしれない。あるいは、起こしていけるかもしれない。

 

どちらにせよ、身を絞りながら生み出していくしかないな、と。願わくば、起こす側でいたい。

 

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おやすみなさい。

 

不自由なくらしと不自由な精神

今月頭に骨折をした。

正確に言えば、右足首を脱臼骨折し、ついでに靭帯があるべき場所から剥がれてしまった。正確さを欠けば欠くほどに、情報としての意味は失われていく。単に骨折としただけでは、そこには無限の可能性があるのだ。だから面倒にも補足をした。とはいえ、これでもまだ正確であるとは言えない。

しかし私はこれ以上正確さを増やすことはできない。靭帯がどのように剥がれて、どのくらいずれているのかもわからない。折れた骨の名前も知らない。

 

正確に言えることは、私の右足首には鉄のボルトとプレートが入っていること、それから松葉杖を使わなくては(しかも2本!)移動ができないということである。

 

 

今朝恋人に言われた言葉が耳にこびりついている。ずっと奥の耳垢みたいに。あるいは、古びたマンションの外装のシミみたいに、しっかりと染み付いている。

正確に言えば、「どうしてそんなに卑屈になっているの」だ。

言った相手からすればそれは本当に他意はないだろうし、実際私は卑屈になっているのだ。だから耳から離れずに延々とこだましている。

 

どうにもこうにもしようがないが、この気持ちをどうにかするしかないのだ。問題の解決には情報収集と課題発見が不可欠である。だから、卑屈の意味について調べてみた。

【卑屈】《名・ダナ》

自分をいやしめて服従・妥協しようとする、いくじのない態度。

 なるほど、もっと傷がついた。「朝日と同時にC7を弾く」ことが起こらなかった人生を誇らしく思っていないが、自分をいやしめて服従・妥協しようとしてきたとは思っていない。腹が立ってきた。課題が増えてしまった。

 

元来内向的な人間であるので、外部に情報を求めたのが間違いだ。自己の問題は内省によってのみ解決されるべきなのだ。ああ、こうしてまた独りよがりになっていく。

 

まあ、元からここ1、2週間の精神の変化は、今私の足元に転がっている銀色の物質に起因していることは明白だ。

 

松葉杖の生活は想像以上に精神的に負荷がかかる。

人ごみに出れば多くがこちらを一瞥する。気の毒そうな顔をする人、何があったのかと足元に視線を移す人、何もみなかったように視線をずらす人。どことなく周囲に漂う気遣いの優しさと少しの窮屈さ。

コーヒーを飲むにも、人の手を借りなくてはならない。スタンド型のコーヒーショップでの「席までお持ちしますね」が痛い。

映画館にいけば、狭い通路をなんとか歩く。人の邪魔にならないようにいそいそと端の席を探す。上映前の静かな場内にこだまする「コツン、コツン」という音。席に座れば邪魔にならないように足元に杖を置く。映画の間はトイレは絶対にいけない、水も飲まずじっと鑑賞するのが賢明な選択のようだ。

音楽を聞きに行くことは不可能だし、晴れた空の下走り回ることもできない。食事も近くの飲食店ばかりになってしまう。

電車やバスに乗れば、皆疲れているにもかかわらず席を譲ってくれる。仕事に向かうサラリーマン、子供を抱いたお母さん、そんな人が譲ってくれることもあるのだ。右足以外は元気な23歳男性なのに、譲らせてしまっている。とはいえ、たち続けて30分の通勤できるはずもなく、「ほっ」としながら席につくのだ。

 

 

どこにいても、どこの店に入っても気を遣わせてしまう。

誰と過ごすにも気を遣わせてしまうのだ。

 

恋人と友人と周囲の親切な他人とに支えられて日々を生きている。本当にありがたいし、心の底から感謝している。みんなの力がなくては私は生活ができない、本当にありがとう。

 

でも「みんなの力がなくては私は生活ができない」のだ。本当にこれが苦しい。だんだんと人に会うのも申し訳なくなってしまうのだ。感謝しているからこそ、これ以上を手を煩わせたくないのである。でもその願いは届かないのだ、だって足がつけないのだから。

 

自分自身がとても弱い存在に感じてくる。この世に上下はないのだが、地に足をつけ、自動販売機でジュースを買い、コーラ片手にハチ公前で緑のバスに背をかけながら、携帯片手に友人を待つ女の子が上に見えてしまう。疲れた顔でカバン片手に読書をするサラリーマンが上に見えてしまう。彼らに比べて私の存在はとても弱い。

 

そんな日々である。しかし、時間は過ぎていくし、明日も次の予定もやってくる。

じわじわと精神を蝕んでくる猛毒である。遅効性の毒は怖い。着実に昨日より少しだけ多く毒が溜まってく。そうして或る日突然死んでしまうのかもしれない。

 

でも、きっとその時は訪れないだろう。

毒が増えるのと同じように、解毒もこの世界には溢れている。日々少しずつ解毒されているのだ。『そうして私たちはプールに金魚を』という映画によって。友人の「本当に気を使うな」という笑顔によって。真っ赤でおおきな苺がのった、真っ白なショートケーキによって。そして自分で書くこの文章によって。

 

足が治ったら歩けることの幸せを感じるのだろう。それから、世界が今までよりもほんのすこし、キラキラと見えるようになるのだろう。

 

今日も渋谷から私は松葉杖でバスに乗るのだ。