久々に明晰夢を見た。小学校低学年くらいの甥を抱きしめた時の服越しの生温かさを感じながら、これは夢なのだと分かっていた。実際私には姪しかいないからだ。その男の子は綺麗な顔をしていて、そして周囲の環境によって決定的に損なわれる一歩手前にいた。彼を抱きしめ、肉の詰まった温かい身体を抱きかかえた時、この子だけはもう二度と絶対に手放してはならないと思った自分をその時私は俯瞰していた。起きるその瞬間まで私は彼を強く抱きしめ続け、彼も私を抱きしめ続けた。生々しい夢は現実を凌駕する。夢と現実は逆転していく。現実は夢のように心もとなく、夢は現実のように生々しい。

 

愚痴1:起きる。何度起きたのか分からない。寝てはふと起き、寝てはふと起き、悪夢を見ては起き、奇妙な夢を見ては起き、不快な夢を見てはおき、自分の動きで起きた。睡眠の質が異様に悪く、頭がばらけていた。不穏さがあったので、試しに昨日貰ったものを飲んでみたが、多分効いているのだろう程度だった。日々悪化していく。布団に潜ってじっとしていると、化物の胎動が分かる。子宮を食い破らんと貪る化物。得体のしれない、それ。

愚痴2:手の甲をつねり過ぎて痣になっている。つねってもつねっても生じる痛みが自分のものだと分からない。そう感じられない。首をかしげる。またつねる。私と肉体が断絶されている。これ以上何があるというのか。これ以上。私は私をある種の形で失いつつあるのだ。手を握って留めようとしたけれど、それだけでは留められなかったのだ。これ以上私は何を失うというのか。やめてくれ。

愚痴2.5:昨日大学からの帰り、ふらつく身体で歩きながら「私のせいではない、私のせいではない」と思い続けた。だからといって誰のせいであると決められるほど事態は単純ではない。私を含めた全てのせいでもあり、同時に私を含めた全てのせいでもない。何かに奪われる。何かに理不尽に奪われていく。私がただ存在するだけで、世界が、正常な知覚が、私自身が何かに奪われ、食い尽くされていく。何故だ。どうしてだ。理不尽すぎる。だが過去の原因を考えても無駄だ。それを考えても現状は全くよくならない。だから、何故だ、という問いが宙ぶらりんになって、それ以上進まない。進める気にもならない。

愚痴3:研究内容は自らの疾患に肉薄する。どの程度まで近づいてよいのか分からない。なので昨日カウンセラーに聞いた。(昨日はカウンセリングと医師との面談が連続してあったのだ。)「例えば、ラカンとか、精神分析の本を読むとか、私の、その、○○○○○について哲学的に考察された本を読むとかいうのは、してもよいのでしょうか。」カウンセラーは言葉を濁した。しかし「今は止めた方がいいかもしれない。もう少し経ってからの方がよいと思う」と言った。そうか、と思った。あまりそれがよくないかもしれないという事は自分でも薄々分かっていた。研究する私は研究書と距離を保てていても、私はどこかでそれを直に受け止め傷付き蓄積しているという事に気付いていた。しかし、もう少し、とはいつなのか。10年単位で物を見ろと言われた時、もう少しは一般的な意味でのもう少しではない。かなり遠くだ。いつやれというのか。

愚痴4:どこに行くのやら分からない。完治させる薬もない。というか薬で寛解するとかそういう類の病気ではない。私が解決するしかない。何が起こるのか分からない。予言しかない。不吉な予言しかない。世界を、現実を、私を取り戻す術が分からない。多分ない。

愚痴5:奪われていっている正常さが溶けて異常さが何も知らない他者の前で発露されたその時、私は終わるだろう。酷くなった時私は動けなくなる。急速に全てがフィクションの世界に変貌していく。遠くなる。私は目玉をぎょろぎょろと忙しなく動かす事しか出来なくなる。上辺の正常が剥がれたら異常が現れる。異常がそれを知らない人間の前で起こった時、私はどうなるのか。○○○○○は決して理解されない。一般的ではない。障害ではなくフィクショナルなものとして処理をされる事の多いタイプのものだ。以前の私の認識もその程度だった。そしてこちらに理解して欲しいという気もない。発露したら表面上の凪はなくなる。困る。居場所がなくなるのは、困る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シャリシャリと音を立てて淡い味の西瓜を食べるカブトムシ、みたいな。シャリシャリと音を立てて私の知覚を齧っていく何か、みたいな。何かが私の現実を啜る音、みたいな。平板になってく世界、みたいな。歪む空間、みたいな。ずれ、みたいな。眩暈、みたいな。みたいな。みたいな。

 

長期的に見ればよくなっていると信じているのですが、やっぱりそうあって欲しいですし。(うん。)でも短期的にみると日に日に悪化というか、うん、や、うん、悪化していっている感じしかしないんです。それが正直凄く怖くて。(そうでしょうね。)何ていえばいいのか、なんていうのかなあ、すみません、なんていうか、んー、全身が布に包まれてるみたいな、何か白い布みたいな、そういうの越しに全部の知覚があるって言えばいいのか、(はい。)十代の頃からそういうのは、たまにあってたんですけど、それこそ数か月に一回とか、その位の頻度で不定期に、(うん。)でも四月に入ってから、指数関数的に増えていって、(はい。)もう毎日、毎日何回もそういう感じになっちゃうようになっちゃって。(そういう感じに?)はい、例えば手をつねっても、確かに痛いんですけど、それが私の痛みなのかいまいちよく分からないんです。そういう。(うん。)映画を見てるみたいなんです。例えば、こうやって手を動かす時、当たり前ですけど、私が意図して動かしているわけじゃないですか。(もちろんそうですね。)でも、そうなっちゃったら、私から見える私の手を私が動かしてるみたいな、そういう実感?みたいなの、そういうのが全くなくなっていって、(繋がってない感じがするっていう感じですかね?)そうですね、手と脳が繋がってるのか分かんない、身体と精神が切断されている、うーん、(うん。)視界にある手が誰のものなのか実感としてよく分かんないんです、常識的に考えて私の手なのに。私が後ろに引っ張られていって、幕を隔てている。うーん。とにかく、視界が、私じゃない誰かの手元だけ映してるみたいな、変な映画みたいな感じしかしないんです。私はただそれを画面越しに見ている感じしかしないっていうか、(うん。)酷い時は、高熱、例えばインフルエンザになって高熱が出た時って、空間がこう、変な感じになるじゃないですか。(そうですね。)一番酷い時は、そんな感じもあって、なんか、空間が歪んで見える、見える?見えるって言っていいのか、ちょっと分からないんですけど、とにかく、感覚として、空間が膨張していくっていうか、とにかく歪んでる?ん、や、はい、歪んでるんです。(そっかー。)酷い時は、聴覚も、ほんとに布越しに聞いているようなかんじになっていって、(うん。)それが酷い時と軽い時みたいなのは勿論あるんですけど、で、なんか、とにかく、画面酔いっていうか、そういう画面越しの認識と自分?自分、まあ、自分か。自分がずれてるので、そのずれに酔って、眩暈がして、吐き気がして、偏頭痛がして、とにかく気持ち悪いんです。(そうでしょうね。)最悪、なんというか、そういう変な感覚があっても別にいいんです。(はい。)でも実際眩暈がして気分が悪くなるってなるとちょっと。(それはきついですね。)はい、ちょっと。(うーん、それがずっとある感じですか?)はい、最近はずっとあって、何かに集中していると大丈夫なんですけど、ちょっとでも気を抜くと、そういう風になっちゃう感じで。(そっか。)はい。…現実感がない、ない、現実感がない?いや、勿論私がいるのはどう考えても現実だと理解はしていますが、でもこれは夢だと言われた方が「あ、そっか」ってなるというか、説得される感じが。(そういう感じがある?)あります。(うーん、そうですか。そんなことに。)はい。

こういう話を医者とした。私が言ってる事って客観的にみたらどうなるのかな、と思って、あと今日は文章が上手く書けないので、再現してみたけど、本当はもっと混乱してて順序もぐちゃぐちゃだった。でも、とにかくこういう話をした。最近はもう手を握っても意味がない。誰の手かいまいちよく分からない手を握って何の確認ができるのか。今は手や喉をつねって確認している。生じた痛さを自分の痛さとして感じられるか、そういった類の事を。歩いていても地面のコンクリートが硬いのか分からない。よく分からない。正常な知覚が、私の現実が、私が、食われている。啜られている。損なわれている。何かに。海底で。見えない所で。

酷い眩暈と気分の悪さと偏頭痛と。

困るのだ。

それらがあると正常に生きていけなくなる。

表面上を取り繕うという事に必死なのに。それを周囲から期待されているのだから。そして私も周囲に期待されるそれを期待しているのだから。私の欲望は他者の欲望か。世界の奥行きがない。スクリーンに映った映像。

文章が上手く書けない。

薬が増えた。

○○が現れている、と言われた。

知らない。聞きたくもない、そんな事。

あなたは自分の同一性を固めるために毎日頑張っていて、緊張している、と言われた。

分からない。でも多分そうかもしれない。それに、信用しているあなたがそう言うなら、きっとそうなのだろう。

緊張しているのを解かなくてはならない、と言われた。

そうかもしれない。なら薬を飲んだ方がよいのかもしれない。

だから薬が増えた。

これから色々起こっていくかもしれないので、薬を飲むというのは一つの方策であると言われた。

これから。

これから。

これから、色々。

色々。

色々って、何。

これ以上何が起こるっていうのか。誰かに首を絞められる自分だとか、自分の後ろ姿だとかのイメージの唐突な挿入というか浮かびがあって、混乱して、そして世界が平板になって、私は私から遠く離れて、知覚が歪んでいって、これ以上の何があるっていうのか。これ以上、どれだけ狂っていくっていうのか。おかしい、そんなの。狂ってる。

よくない。

狂ってる。

怖い。

誰が誰から○○してるの。私が何から○○しているの。何が私から○○しているの。分かんない。なんにも分かんない。意味が分からない。私はどこにいるの。私はどこにいて今何をしてるの。現実はどこにあるの。夢はどこから夢なの。現実と夢の境界線はどこにあるの。

眠りに逃避しても、内容は覚えていないけれどたくさんの夢をひっきりなしに見て、寝た感じはしない。逃避ももうできない。現実が夢のようならば、夢は現実のようなのかもしれない。

恐らく追い詰められている。どうしようもなく。

引き摺って、生きるしかない。

平板な世界と遠くなる私を引き摺って、生きるしかない。

しかない、私、しかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ソーレソレソレソーレソ!ぼうりょく☆ミックス~ドキドキ!これがつみとばつですか!?~

 

 

人生BGMの重要性みたいなのは確実にあって、どん底マイナス1000000くらいの時にバカみたいにアッパーな曲を聴くと自分のどん底と関係なく世界が周回体勢に入っており自分のどん底や暗黒などあろうがなかろうが外界は向こう側にあると否が応でも認識させられ、例え私がどん底マイナス1000000でも100000000でも100000000000でも世界は勝手に周回してくれているんだから極東の端に住む私ごときが多少のどん底モードでも許されるだろうと世界の自分への無関心さや残酷さに安堵するのだ。『よっしゃあ〇唄』を聴きながら私とは関係なく統制のとれた動きをする事の出来る大いなる世界を観察する。こんばんは、私だっちゃ!調子はかなりよくないけど、世界は別としてある。ウフフ☆オッケー!私の状態云々ではなく、世界が別としてある、それが重要なのです。それの認識は境界を固める事に繋がり、結果私自身の状態改善の礎となるのです。『よっしゃあ漢〇』は最強である。ある種の善きしらけをもたらすのだ。強制賢者モード。はたと気付く。ああ、世界はあるのだと。

最高。やばい。リビドーすら感じる。興奮する。ごめん、これは嘘。

 

別のお話をしよう。書いている私しか分からない文章を書いて状況整理!なのです!

頭を掴んで型にはめるのだ。すなわち、首を絞め、髪の毛を掴んでそこら辺にある手すりやコンクリートに頭をぶつけ続けるのだ。血が飛び散る。顔面から血を大量に流し、歯が折れ、動かなくなる。型にはめる。完了。正解だ。私は暴力を誰よりも恐怖する。私は暴力を誰よりも厭う。同時に、私は暴力を誰よりも好んでいる。私は暴力を誰よりも愛している。暴力を選択し、暴力を振るい、血を全身にたっぷりと浴びて、生き残る事を誰よりも望んでいる。

暴力である。暴力を受けた結果として私は暴力を振るうしかないのである。これが現実である。現実は血と膿の匂いで溢れているのである。暴力の反動でまた暴力を受け、また私は暴力を振るう。その繰り返しは少しずつぶれていき、拡大していく。最小の暴力など実際問題続かない。最小の暴力はあっという間に拡大し、全てを飲み込む巨大な最大の暴力となる。暴力という手段を選択し、暴力を行使した瞬間、私の敗北は決定している。平穏に生きたかっただけなのにと思う事すら馬鹿らしい程に自己責任。しかし暴力しかない。暴力を振るい、私はこの世界で私として、仮初の勝者として、偽の王者として生きる。それしか我々に手段はないのだ。我々は宿命的に敗北を決定付けられている。我々は暴力なしでは生きてすらいけない。そして実は常に暴力の手ごたえに飢えている。暴力の発露を厭う振りをしながら、暴力の発露の場を常に求め彷徨っている。それが恐らく我々であり、何より私である。その暴力の矛先が私に向いていると恐らくは分かっていながら、血まみれになり歯が折れるのは私であると恐らくは知りながら、それよりも暴力の発露を優先せよと、他を黙らせ生き残れと叫び、黄ばんだ歯を見せつけながら大声で笑う。

一人称パースペクティブと三人称パースペクティブを軽やかに移ろう暴力のイメージの挿入は、暴力の形をした正当な復讐である。唐突に私は何者かに首を絞められ、突然道端で何者かに頭を掴まれコンクリートに何度も打ち付けられる。その度にびくりと身体を震わせ、或いは道端に立ち竦む。その向こう側にいる何者かは何時も見えない。憎悪に塗れた手しか見えない。私の範疇を超えた何者かもまた暴力に飢えているのだ。血に飢えて底知れぬ底を彷徨っているのだ。揺さぶられる深海。ぶれる一人称パースペクティブ。一人称に混じっていく三人称に混じっていく一人称に混じっていく三人称。視点が混乱する。視点が一瞬混ざり合い、私がどこで何を見ているのか分からなくなる。誰がどこで何を見ている?私は今どこにある?決して混じり合わない筈の何かと何かが、混じる。眩暈がする。気分が悪くなる。立っていられなくなる。世界が平板にのっぺりと伸びていく。作り物のくせに、偉そうに、するな。行使してきた暴力の最果てで、私は何度も転覆する。転覆してはギリギリのところで生き返り、また転覆する。

いずれ崩壊するのだろうか。今はそれがぼんやりと怖い。

しかし、脳というのは奇妙なものだ。常識的に考えて狂っている。一日一日壊れていく自己と悪化していく感覚を抱えながら、「よくなるさ」と自分の傷を目隠ししたまま舐め続け、今はひたすら自己同一性について考えようじゃないか。罪と罰

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなクソみたいなグチャグチャの人生でも、怖い事嫌な事絶望な事ばっかりじゃなくて嬉しい事だってちゃんと用意されてて、嬉しい事を迎えに行くんだって思って生きてる限りきっと大丈夫だって分かっている。知ってる。

嬉しかったのは、カウンセリングが一週間に一回じゃなくて近いうちにもしかしたら二週間に一回になるかも知れない事。 先生に冗談じゃなく助けてもらったから、毎週先生が「自分を傷付けないと約束して欲しい」って目を見て言ってくれてなかったら、先生がその約束を毎週根気強く一方的に取り付けてくれなかったら、私は多分二月の終わりには身辺整理の延長線上に発作的にそのまま突っ込んでいってた。あの頃は混乱で頭が爆発しててだから頭がおかしくて、まあ今だって色んな意味でおかしいんだけど、今よりもっともっとおかしくて、でも外用の鎧すらも付けられなくなったグチャグチャの醜い私を真っ直ぐに見て、私の生をとどめようとしてくれる人がたった一人でもいたから、最後の力で私はその約束を頑なに守ろうと思えた。約束で縛られないとどっかに飛んでいきそうだった頭のおかしさを抱えた私の生を、仕事だからとはいえ真っ直ぐ最大限に尊重してくれた先生に恩返ししたくて、クライアントである私が出来る一番の恩返しはきっと先生に会わなくても一人でも大丈夫になる事だって思って、自分なりに日常を取り戻そうと戦ってきたから、今日その可能性を示唆してもらった時は凄く凄く凄く嬉しかった。まだ全然だけど、ちょっと実際進んでんじゃん!って、気分も明るくなるよね。こういうの、いいと思う。嬉しかった事がとても嬉しかった。だから大丈夫って思えた事も嬉しくて、頭のおかしい歪んだ穢れた私のグチャグチャな生を、それがとても汚いと分かっていても、その中で待ってる今日みたいな儚い嬉しさを見るために、もう少し頑張ってみようって思えた事が、嬉しかった。大事なのはこれで、人生の中で明るい方を見ようと気をつける事で、こういうのが大切なんだって思った。

でもまあ嬉しい事もあればしょっぱい事やら絶望事項もあるもので、やっぱ私はカウンセリングでは治らないっぽくて、メインをカウンセラーから精神科医へと移すみたいな示唆が伏線のように結構前からあって、今日比較的はっきりとそれを示されて、まあそれ自体に関しては「プロの判断だからそれがいいのだろうなー」と単純にそのまま捉えているのだけれど、なんか自分の頭の深刻さみたいなのを見せつけられたみたいでしょっぱいなあと思った。でもそっかって。人生。宙に浮いた私の人生を掴むチャンスだと思えば。思うのは簡単で、実際はえげつない。論文の構成を考えるのは比較的簡単でも、具体的に内容書き始めると全然進まない。そんな感じで、私の中ではぴったしくる表現でも全然伝わらない事ばかりで、今日も渾身の表現は全然伝わらなかった。何がこんなに怖くてたまらないのか、何が私を日々追い詰めているのか、相手に全然伝わらなくて、その時だけ使ってる言語が全く違うみたいだ。あれーって、これ、こんだけ私の事を全面的に全力で受容しようとしてくれているプロにも全く伝わらないって、これもう世界中の誰にもこの怖さとか絶望とかって絶対伝えられないんじゃないかって、なんかそれって物凄く孤独だな、これから先私は究極的には一人でこの恐怖に立ち向かわないといけないんだな、それってまあまあえげつないな、と思った。やっぱり人間って共感を必要とするから、共感の得られないこれを私は一人で、そうかあ、うーん、最悪10年も?私の人生を掴む?うーん、掴めるのは嬉しいけど過程がえげつなさそうで、それはとても怖いであるなあ、とか考えて、なんだか、なんというか、まあ辛いものが。でもとりあえず一人でやるしかない。自分で自分の手を握るしかない。まあ、いいんじゃないの、そういうのも訓練として必要だよねって思う事にする。そうじゃないと救われなさすぎるって。せめて出来る限りを明るく解釈しようって意識しないと、そうじゃないと簡単に私には絶望しかなくなっちゃう。そんなの、嫌だよね。哀しすぎるよね。哀しいのも絶望も嫌だね。それはまるで海底ケーブルを齧る烏賊みたいに、人と人とを切り裂くような、嫌なものだね。

嬉しいは簡単に消えてしまうのに、怖いはずっとずっとここにあるのって、不公平で、歪んでて、多分おかしい。少しでも、変な事に、おかしな事に、歪んでる事に、怒れるようになりたい。最小の暴力で。海の底で蠢いて水面を微かに揺らす何者かに、いつかきっと会える。

薄っぺらくて簡単に消え去る明るさでそれでも照らして。

私の人生。私の人生。

わたしのじんせい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

禄に眠れていないから、表層は眠くて柔いのに芯の部分が硬く覚醒している。何故か明け方パッチリと目覚めてしまった。夢見は悪くなかったと思う。海の底で烏賊が暴れているのかもしれない。海底に張り巡らされたケーブルを齧っているのかもしれない。見えない所で烏賊が起こした微かな漣を感じて、私はふと起きたのかもしれない。

表層の柔らかさのせいで、ぼんやりと覚束ない。頭の中にある思考システムがまだ全然温まっていない。これでは勉強出来る気もしないし、今日は昼前に出かけないといけないので、煙草を咥えながら朝っぱらからブログを書いている。

フィクションとノンフィクションの境目はかっちりとしている。これが現実でこれが虚構。これが本当でこれが嘘。これが実際あった事でこれが実際なかった事。その区別はしっかりと付く。当たり前だ。しかし感じる事というのは、確実な世界に属する、ソリッドでリアルな事象ばかりではない。リアルにある具体的対象を見る時、或いはリアルに起こった現象を見る時、その裏に潜む幾万もの手の蠢きや息遣い、存在の訴えを感じる。勿論、実際に手が見えているとか、声が聞こえるとかではない。ただ、それ等が存在しているという息吹を感じる。感じる、というのもずれた表現かも知れない。ただそれ等が存在しているという事が分かる、と言った方がより近いのかもしれない。

私の目の前にあるサングラスは具体的対象としてのサングラスであるけれども、裏には別の幾多もの手が潜んでいる。それは確実にサングラスであるけれども、同時にサングラスだけではない。サングラスという名付けを受けた具体的対象、それが例化している種、例示化している性質、それ以上の何かが潜み、それぞれが存在しているのだと訴えかける。今ではもう分らなくなってしまった「見ただけで目の前の女性が処女か非処女かが分かる」というものその類の感覚だったのだと思う。果実が熟れ腐りかけ始める時のような、生臭いがしかし同時にどこまでも芳しい、潤んだ匂いが見える(実際に見える訳ではないし匂いがする訳でもない)としか言いようのないあの感覚。

まあ勿論普段の生活で上記のような事を言えば、或いは意識し続ければ、頭がおかしいと思われる、或いは頭が本格的におかしくなるので、普段はサングラスはサングラス以上の何物でもない確固たるサングラスであると思ってそういう類の事をあえて気にせず生活しているのだが、本来的には私に向かって(思うのだが、私だけではなくおそらく万人に向かって)あらゆる事物から無限の手が伸びている。手を掴むか掴まないかはその人次第なのだ。

なんというか、事物がこの世界で実際に表現している以上の何かを受け取ってしまうみたいな、そういう奇妙なある種の感受性のようなものを持っている人間は少なくないのではないかと思っていて、インプットされる情報量が多分通常の人よりも過分で過多である、そういう人って結構いる気がする。ただ、その情報の出所は判然としなくて、私が勝手に余計なものを組み立ててそれを感じているのか、或いは本当に事物から手が伸びているのかどうかというのは謎である。感じる側の人間からすれば圧倒的に後者なのだが、前者の可能性は全然あるだろう。何せ想像力が豊かな個体なのだ。その想像力を培ったのが、事物から伸びる手という可能性もあるけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界が枯れたから、触ると途端にばらける沢山の世界を束ねて逆さ吊りにした。ガサガサのバサバサの茶色の灰色の橙色の黒色の赤色の白色の青色の世界の束は、窓際の風に乗って透明な体液をまき散らしては騒ぐ。その悲痛な叫びの余りの姦しさに耐えきれず、無駄と分かっていてもデスクの上にあったペーパーナイフを手に取って乱雑に切りつけた。しかし世界を切った手ごたえも感触もなく、世界はザラザラとばらけて散って元の場所に戻り、痛みに更に騒いで泣いて姦しさは増すばかりだ。意味がない。武器が何もこの手元にはない。大音量で騒ぎ続ける世界を見つめていると、次第に世界こそが最も醜く、全ての憎しみをぶつけられるべきものであり、駆逐されねばならないものだと錯覚し始める。途端に底に潜む脅迫と暴力がその発露の場を見定め、その歓喜に哄笑し騒ぎ始める。手段としての脅迫と暴力は、欲望と致命的な穢れを餌にして、容易く目的にすり替わる。手段と目的は反転して、パンパンの頭蓋骨の内容物を巻き込みながらミキサーみたいにグルグル回る。グルグル回って、刃に細かく切られて散り散りになって、グルグル回って、手段と目的が何だったっけ?グルグル回って、グルグル回って、グルグル回って、何と何が何だったっけ?グルグル回って、高速で回り過ぎて頭頂が飛んで行って、中のピンクと灰色の中間みたいな色のデロデロした汚い液体が堰を切ってはじけて周囲にぶち撒かれる。途端に吐き出された生臭さでそこら辺りが一杯になって、べた付く液体が壁や床や身体に止め処なくかかって、なんだったったけ?なんだったkつけ?なんだttけk??????空になった頭蓋に誰かに何かを放り込まれて大きな音を立てて蓋を閉められた。さっきまで緑だった空の色が紫になった。ぼんやりピントが合っていって、頭蓋の中の何かと肉体の接続を確かめるみたいに試しに液体の中に浮かんでたピンクのズルズルしたよく分かんない破片を指先でちょっと触ったら、力加減が分からなくて途端にぐちゃりと醜く潰れた。指先がぬるつく。致命的に絡み付く。ああ、そろそろ始めなければ、といつか分からないずっと前に開始の合図を受け取っていたのを思い出し、なんかよく分かんない弾力あるやつの破片とか、透明とピンクが分離しかけたとろみのある液体とか、とにかく吐瀉物みたいな饐えた匂いのぐちゃぐちゃしたやつ、そういうのが身体や壁や床に広がっているのを、接続が上手くいっていない指や手でなんとか掬って、掬えなかった分は唾液を垂らしながら舌で舐めとって集めて、コップに入れて、逆さ吊りにしておいた世界を活けた。ガサガサのバサバサだった世界は途端に潤って美しく濡れて、触っても引っ張ってもばらけなくなった。静かになった。静かしかなくなった。静かすらなくなった。消えた。視線の先にあった筈の世界は消え去り、色んな悪臭が交じり合って淀みきった空気と穢れた肉体と茫漠と広がる時空間だけが残された。日常のよしなしごとだ。

いつもならば次第にふんわりと或る重要な目的を思い出し、汚い身体のままで日常を送り始めるのだが、今日は接続が途切れがちだからか、このべたつきを落とすためにシャワーを浴びなければ、と別の目的を思った。穢れは宿命的に落ちず、蓄積されていくと分かっているからこそ、せめてこの落とす事の出来るべたつきだけでも落とさねば、と身体を起こす。まだ接続の安定してない身体をふらつかせながら部屋にある階段を下りた。白い壁と天井がどこまでも延長されてるみたいに感じて、視界が簡単に斜めになったり平行になったりして、空間把握がうまくできていない。頭蓋の中に何を入れられたのか、よく分からない。今まで分かった試しもない。誰かに何かを乱雑に突っ込まれて、次の日にはぐちゃぐちゃの臭い液体になる。世界は或る形の暴力では黙らず泣き叫ぶ一方で、違う形の暴力で途端に黙り込む。世界は血と脳漿と脳みたいな見た目の何かをめちゃくちゃにかき混ぜた液体を思い切り吸って腹をくちくすれば満足しきって黙り込む。贄を捧げさえすれば、今日の世界も静かになる。明日の世界も、明後日の世界も、10年後の世界も、1000万年後の世界も、万人がサクリファイスから逃れられなくて、そういう形の暴力と諦めを通してでしか世界は存続できないと誰かに決められているのなら、誰かの吹き込んだグロテスクな手法に従って、毎日永遠そこかしこで世界は束の間の生き残りを手に入れ、そうやって美しさを取り戻すのだろう。無邪気なシステムだ。階段に添えられてある手すりを両手で掴みながら、時間をかけて階段を降りきった。小便をしたいという事に気付いたので、シャワーを浴びる前に、倒れかけながらトイレに入って、なだれ込むように便器に座った。ズボンと下着を脱ぐのを忘れていたので、座ったまま脱いで、脚をふって床に放り投げた。視界が縦に横に斜めにとガチャガチャと忙しないので目を瞑った。小便が便器に当たる音を聞きながら、ふと煙草を吸おうと思って、カーディガンのポケットの中で手をうろつかせてみたけれど、昨日ポケットに入れた筈の煙草の箱はどこかに行ってしまったようだった。具体的対象は穴に簡単に落ちて吸い込まれていってしまう。不安定だ。服を乱暴に投げ捨て、浴室に入り、シャワーコックをひねる。湯が裸の身体にかかり、べたつきが溶かされ排水溝に飲み込まれていく。このべたつきで排水溝が詰まらないだろうか、と少し不安に思った。

 

「脳みそ爆発。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大人にならなくてよい所ばかり大人になって、子供のまま足踏みしてはいられない部分ばかりその場で足踏みをして一向に子供のままだ。アンバランスさが平衡感覚を失わせて、また宙に浮く。泣ければきっと楽だ。未練を残す諦めではなく地団太を踏んで駄々をこねることが出来たらきっと楽だ。逆に潔く全てを諦めらめたらきっと楽だ。これはこれだから仕方がないと全部割り切ることが出来ればきっと楽だ。

大人と子供が歪な凸凹ではまり込んで、外れなくなった。多分私以外の皆もそうだ。そうやって無理やりはめ込んだピースが外れなくなったまま、それをそれとして受け入れて生きているのだ。そうやって。それをそれとして、そうやって。

そうやって。

そうやって。

碌でもないことしか考えられない日は、何もせずに眠ろう。

脚に何個痣が増えたって、逃避できる分、何よりもましだ。薬が三時間経ってもなかなか効かない。効くのを、ただ待てばいい。動悸がして煩わしい。振り切って、眠りに引き摺り込まれるのを待望すれば、多分、それで。