巻第十
万葉集 巻第十春雑歌
1873
何時鴨 此夜乃将明「」之木伝落梅花将見 「」はウグイス
いつしかも この夜の明けむ 鶯の
木伝ひ散らす 梅の花みむ
「いつしかも」は 「いつかは明けるだろう」等の曖昧な待望ではない。「当然の様にもうすぐ明ける」疑いの無い確実な事なのです。現代人には理解すらできぬ精神安定度合なのです。
1819
打靡(雨冠に非) 春立奴良志 吾門之
柳乃宇礼尓「」鳴都 「」はウグイス
うちなびく 春立ちぬらし 我が門の
柳の末(うれ)に うぐひす鳴きつ
柳の末に ウレ とは 先 柳の枝先 柳の葉先 の意 です。細い まして春先はなおのこと。
鳴きツ 此のツ(都)は瞬間事実を表す。
鳴きヌ ならば継続状態を。鳴いている。となる。
鳴いたカナ 鳴いた様だ くらいの状態です。 ウレ も ナキツ も非常に繊細です。
万葉集の巻第十辺りは この種の歌が多い。これらは世の中が平和で安定し何の心配もない極楽なよのなかであったはず。西暦520年から531年二月七日までの僅かな時期だけです。
蘇生
アイリスを育てておいでのお宅を訪ねて 撮影の許可をお願いした折 「昨日 周りの雑草を刈った際 一本間違えて切ってしまった」と。
その萎れたホワイト一本を丁重に頂いて帰りました。一昼夜かけて養生しましたら 願いを聞いてくれたのか 蘇りました。微弱なフリルも何とかなりましたね。見かけによらず逞しさを感じて 感謝 感謝......
山本周五郎の短編
長編は「樅木はー」は表現や展開に参考になり 読む度に新たな感動を呼ぶ魅力に溢れていて好ましい。「虚空遍歴」が身につまされる共感が堪らない。中編というか「さぶ」などは書いてみたい身近さの魅力に溢れている。
そこにゆくと短編は珠玉の作品が多く一つ二つと特定は困難だ。
なかでも「その木戸を通って」を数多く読み返すことに気付く。ドラマ化されることの多い氏の作品の中で 少しく異端児かな?
「古今集巻之五」が近時気になり 巻第五秋歌下 を精査してみた。我が国の最初の勅撰和歌集 然も何故巻第五秋歌下なのか?この和歌集は二十巻から成り合計千百首の和歌集である。平均より十首多い巻だが 秋の作品は春程によく詠まれるのだ。 続く
飛鳥川原寺の謎 続編
三尊塼仏がこれです。川原寺の側 板蓋神社⛩の崖付近から1600前後出土しました。主尊一体の塼仏も含めると数十の事例は有りますが これ程の多量な出土は川原寺のみです。しかも一枚には はっきりと「阿弥他」と「陀」では無く「他」の表記がされております。
これは非常に意味深い真実を包含しています。ご存知の様に仏教はインドで起こりました。関西王朝に伝わった仏教はインドから中国 朝鮮を経由して関西王朝に伝わりました。九州王朝には400年頃 インドから直接 伝わるのです。
その形骸がこれです。