桝田省治のゲームは、そのコンセプトの面白げさとその実体たるゲームシステムのベースのオーソドックスさが俺の中で上手くかみ合わないということを再再認識。
「滅亡確定した星の生き物を保存する」とか「一族かけて敵を殲滅する」とかから明らかなように、彼のゲームは一個人や一生物を超えた視点においてプレイされるものであり、各々のゲーム部分はその視点から導きだされる目的のために処理されるものであるに過ぎないので、そのシステムがオーソドックスということは問題にならないし、彼も問題にしてないので、ああなっているのだろうが。
こういうコンセプト、超越的な視点を俺が面白げだと思う時、想定しているのはおそらくSLGの視点で、そこにオーソドックスなRPGが現われて面食らう、ということになっていそうだ。クォータービューでマウスオペレーションなゲームだったら評価も変わりそうな気がひしひしとするのだが。
翻ってみれば、自分がRPGで志向しているスケールは「等身大」とでも言うべきものなんだろうし、多分目的はPCの自己実現で、このスケールにおいて充実したシステムがないとRPGとして物足りないのだ、と言える。これは考えとかではなく、本当に志向なので、あまりろくでもないのだが、仕方ない。
最近意識しているのが、しっくり来ないことが面白くなるというか、食い違った形を楽しむ形式があるよなーということなので、そこらへんに当たりをつけてスタンスを調整してみるかという気分。というかこれを解決しないとまた次買って後悔するのが目に見えてるので。

同人・インディーゲーム部会(SIG-Indie)第1回研究会「同人・インディーゲーム開発の現状と課題」の最中に考えていたこと

作ったとしても……

パネラーはノベルゲームとアクション系(動的ゲームと呼ぶそうな、初めて知った)という畑が違うように思える二つの陣営? から構成されていたが、発表したゲームが紹介されない、プレイされない、数多にある娯楽の中で埋もれてしまうという問題点は共有しているようだった。

そういう話だとゲーム製作者でない私でも少し分かる所がある。
ニコニコ動画でもそういう「埋もれ問題」があって、それに対処するために作り手たちが知恵を絞っている状況があり、それを見てきた。

ニコニコ動画における埋もれ対策は、寄せ集めを上手くパッケージングすること

埋もれ対策として最も有効、かつ人口に膾炙しているものが「イベントの企画」であり、なぜ有効かと言えば、参加作品の中のクオリティの高いものから他の参加作品に視聴者が流れるからだ。
参加作品の中に人気作品の二次創作、固定ファンがいる作り手がいれば、その動画が毎時ランキング入りする可能性があり、そこから遊動層が入りこみ、他の作品へと流れていく。
ただ人気の動画が現れても、普通それだけではそこから視聴者は流れていかない。しかしニコニコ動画には「イベントの企画」の方向性自体に興味を引く要素を持たせ、その全体を吸収しようという気にさせるような仕掛けと受容の文化がある。
それはニコニコのタグ文化と深く関わっている。

ニコニコ動画のエコシステムによるパッケージング

ニコニコ動画にはクリックしてみたくなるような変なタグがたくさんある。
例えば懐かし系の動画には「おっさんホイホイ」というタグが付いていて、その先には同じ性質を持つとされた動画がたくさん詰まっている。
あくまで十人十色のユーザーがめいめいの視点や気分で付けたものなので、これをおっさん向けとするか、と感心したり首を傾げたりするようなものもある。その単純でないのが面白かったりする。
ニコニコにおいてタグを作る・付けることはジャンル、グループ、文脈を作ることである。それを受けて動画が投稿されたり、MADが作られたりすることでタグに集う動画が増えていくからだ。そしてその効果はタグの出来が左右するとさえ言える。
例えば最近ニコニコで(MAD素材としても)人気のテニスプレイヤー松岡修造が、そのキャラに似つかわしくないネガティブな発言をしまくるというMADが長期にわたってランキング入りし、再生数を伸ばした。
それには「鬱岡修造」というネタ系のタグが付けられて、視聴者にウケけていた。私もそういう感じの(全く伸びていない)MADを一つ作っていたので、それに「鬱岡修造」タグを登録してみると、わずかではあったが再生もマイリストもそれまででは考えられない増加を示した。
かかる活況を呈すタグ文化があるからこそ、タグで統括する「イベントの企画」が成り立っている。

イベントの検索結果 - ニコニコ大百科
祭の検索結果 - ニコニコ大百科

動画をイベントタグで統括せずに、一つの動画にまとめるということもある。これは固定層が厚い、人気ジャンルで行われる傾向があるようだ。視聴者の負担が少なくて済み、全ての視聴者が一つの動画に集まるので盛り上がりが強くなる。
もちろんここでも、寄せ集めに文脈のようなものを持たせたり、参加者でコラボさせたり、単なる寄せ集めを「編集」して一つのものにする(全部見なければならないようにする)工夫があることは言うまでもない。

まぁ、このようなことは同人でも散々やってきたことなのかもしれないし、その先にある問題に今ぶち当たっているなら、むしろこっちが参考にさせていただきたいくらいだけれど。

それで。
そんなことを考えながら、しかし寄せ集めるという発想ではゲームの方にずっとラディカルな例があることにすぐに思い至らずにはいられなかった。「メイドインワリオ」シリーズのことに。

寄せ集めスタイルの手本としてのメイドインワリオ

あれは凄いじゃないか。一つのゲームは数秒で終わる。それを次々投入して、プレイヤーにゲーム自体を評価させる暇を与えない。ああいうスタイルを借用してしまえば良いのではないか。
議題に上がっていた「小さいゲーム」が生きる場である。ちと、小さすぎるが。しかし例えば長くなりがちなRPGみたいなゲームも、5秒したら次のゲームに移ってしまうような、大量のプチゲーム洪水の中で少しづつプレイさせるような、そんな形にしてしまっても良いのものしれない。
案外付いていけるような気がする。何かちょっと新しいゲーム性が出てきそうだし。

他に印象に残ったこと

後日

カーニバル*1装置


仮の衣装として機能したのは匿名化して現実から遊離した私たちが打ち込む反射的で卑俗な(あるいは高尚な)言葉。
会場の人たちはリアルタイムで付けられる無遠慮なコメントの中に自分の思いつきと同じものを見つけたりするような体験をするうち、不用意にも思ったことがコメントになって流れてくるような錯覚*1に、心を誘われるようになり、無遠慮な愚者に接続される。
同時に会場で自然に要求されていたあたりまえの感覚、現実生活の規律が異化されて、その輪郭を浮き彫りにしていく。
そして浮き彫りになった自己の多義性の矛盾を臨界に達させる毛髪の欠如。

此処は遠い太古の市、ここに一人の武士がいる。この武人は。恋か何かのイキサツから自分の親父を敵として一戦を交えねばならぬという羽目に陥る。その煩悶を煩悶として悲劇的に表すのも、その煩悶を風刺して喜劇的に表すのも、ともにそれは一方的で、人間それ自身の、どうにもならない矛盾を孕んだ全的なものとしては表わし難いものである。ところがファルスは、全的に、之を取り扱おうとするものである。そこでファルスは、いきなり此の、敬愛すべき煩悶の親父と子供を、最も滑稽千万な、最も目も当てられぬ懸命な珍妙さに於て、?み合いの大立廻りを演じさせてしまうのである。そして彼等の、存在として孕んでいる、凡そ有らゆるどうにもならない矛盾の全てを、爆発的な乱痴気騒ぎ、爆発的な大立廻りによって、ソックリそのまま昇天させてしまおうと企らむのだ。
 
坂口安吾「FARCEに就いて」

いろいろと思った。
とりあえず、中心化をやるなら一人でやろう。対話を離れてやろう。と思った。
否定は修羅の道と思った。何で固めたらあんなに歩めるんだろう。
そもそもこんなことを考える程の問題じゃないのかもしれないが、まあしょうがない。
参考になりました→「ハゲのおっさんから一言」のブクマコメがあまりにも気持ち悪すぎる件[2] - 雑念雑記はてな出張所

*1:それを可能にさせたものが何なのかはわからない。彼らの顔も名前も人数も見せず、そのコメントを映像に覆いかぶし、全てを追えないような量をもって流していくニコ動の形式とか思いつくけど。

伝記小説の挿絵

つか伝記小説の挿絵って付属物じゃねーのと思ったが、なんでこんな言葉がでてきたんだろね。
あーいうのの挿絵の印象がすごく残っていて。やたら絵画的で、やたら緊張感に満ちた絵面。あの絵の効果は文章よりも先にくるものだ。
まず絵で「え、なんでこんなことになってるの?」と興味を引かれ、文章を読んで事件のあらましを探らねばという気にさせられてしまう。
多分冒険小説の挿絵とかもやってて、同じ手法でやっちゃってたんだろうな、あれ。

コマの中身のこと

沙村広明の『ブラッドハーレーの馬車』
この人ので他のものはアフタヌーン読むときに連載していた無限の住人をちょっと眺めたくらい。よくわかんないと思って、そりゃ連載物だから途中からじゃよくわからんだろて話なんだけど、これ読んで、加えて漫画があんま上手くないというのもあるな、と。
コマの中身が凡庸。絵にけれんみが無い。
漫画として、読むのがつらいものだった。
もっと饒舌な、伝記小説の挿絵のような象徴的な絵面で描いてみたらいい感じになりそうな人だと思ったんだけど。
今のだと絵が話やセリフの付属物みたいで、とにかく普通だなぁ。