もう『好き』になることは無いと思う。出会いのチャンスが極小だという意味も含めて。
この年齢になるとそろそろ『人間』という生き物の正体を自分なりに解釈して勝手に納得している自分をコントロールすることが難しい。
解釈の妥当性を日々体感しながら傍観し、対処し、怒り、悲しみ、楽しんでいて、まんざら間違いでもない。若しくは解釈の方向性は間違いではないと感じてしまっているから。
異性に対しても同じ。
人はみな自分と同じく弱い生き物で、何かしら自分を満たしてくれる対象を求めいていて、その『都合』という台の上で動いてくれる人がいれば、時間を共にすることができてしまう。
はっきりと『好き』という感情を感じるわけではない。それよりむしろ『ありがたい』という気持ちの方が十分に大きい。
お付き合いしてくれてありがたい。僕と同じ時間を過ごしてくれてありがたい。旅行にいってくれてありがたい。ごはんを作ってくれてありがたい。
このことは何も今の彼女に対する感情だけには留まらないと思っている。
どんな人とお付き合いすることになってももう僕は『好き』という感情を異性にいだくことは無いと思っている。だからその先の感情につながることも無いのかもしれない。
そろそろ一緒に暮らそうとい雰囲気に大きくためらう自分がいる。
『責任が持てない』と思っているから覚悟ができない。そして『責任』を彼女にも求めてしまっている。この時点でアウトなんだと思う。
若かりし頃のように『あなたがいるだけで幸せ』とは思えなくなってしまった。
『好き』だけでお腹は満たせないことを知ってしまった。
金銭的なこと。互いの親のこと。生活を共にするからこそ起こる摩擦によるすれ違いや揉め事。僕はこれらのことがめんどくさい。すぐに『破局に発展するトラブル』に意識が直結してしまう。
平日の出勤時、自宅のドアを開けた瞬間に自分からもれだすあのため息。あんな思いはもうしたくない。
彼女とはもっとすり合わせが必要だ。共同体になるための。
きっと多分彼女は共に暮らすことを望んでいる。僕と同じように打算的な部分も含めて。各々に『都合』がある。
その『都合』という台の上で動いてくれる人がいれば、時間を共にすることができてしまう僕たちはもっと勇気と覚悟が必要なんだと思う。自分に対して。
おわり