注意を貼り付ける運命の女神
人の注意の貼り付く先は、かなりの割合生まれつき決まっていると思う。
例えば、数字にこだわるASDは少なくないらしい。
数字にこだわるタイプのひとがカレンダーの日付やレシートの合計金額をいちいち気に留め、古代の文化で言うところのキリ番のようになっていると覚えていて嬉しそうに報告してくるなんてことは今の仕事になってからは時々ある。そういうひとは記憶の中に最後まで留まるのが数字であるようだ。
しかし私は正反対で、昔からずっと数字が頭に入らなくて入らなくて難儀してきたほうだ。記憶から真っ先に蒸発していくし、量的なイメージもそんなにうまく掴めない。診断未満のLD傾向とも言えるかもしれない。
前の仕事では売上高とか予算とかを扱っていたが、正直何のイメージも持てていなかった。何度興味を向けようとしても、氷の球体のようにツルツルと滑り、そうこうしているうちに溶けてしまうのだった。
逆に、私は食べることに対して異様な執着がある。
人生で食欲を失ったことは片手で数えるほどしかない。風邪を引こうがメンタルを壊そうがご飯は平気でお腹いっぱい食べられた。なんならデザートに食後のコーヒーもつけられる。
明らかにそれ以外のコンディションがひどい状態であっても、ご飯が食べられるというその一点で「まだ大したことない」と人に思われることが多いが、違う。並の体調不良だと私の食への執着が勝ってしまうだけだ。身体は普通にめちゃくちゃしんどい。私がご飯を食べられなくなるときというのは、秒読みレベルで死が迫っているときなんだと思う。しかしそうすると、食欲を失った数少ない経験の一つである社会人なりたての頃っていうのはまあ実際死にかけてたんだろうな。
小さい頃はお昼寝していてもご飯の時間になるとぱちっと目を覚ます子供だったらしい。また、親戚の集まりなどではいつも大人並みの量を食べていた。これは周りの大人が「たくさん食べて偉い」とか言うから残しづらかったというのもあったが、それよりはとにかく何か「食べなきゃ」という欲求がすごかった。頭が貼り付き視線が固定される。
登山家がそこに山があるから登るのだと言うようなのに似てるかもしれない。そこに食べ物があるから食べるのだ。
もちろん今は立派なデブに育っている。
自分以外の発達障害系のひとびとを見ていると、むしろ食べ物に興味がない、興味が持てないタイプのひとのほうが多数派なようである。他にもっと興味のあることにかまけてご飯の時間を忘れていたとか、ご飯なんて食べなくても済むなら食べたくないとか。
そういうありさまを、最近改めて見回してみて思った。私の食への異様な執着って、他の多くの人たちとは逆に、生まれつきそこに注意が貼り付くようになってるだけなんじゃ…?
思えば、私は食べることは好きだが特段美食家というわけではない。むしろ舌は割とバカなほうで、そりゃ美味しいに越したことはないけれど、安い物でそこそこ満足できてしまう。ファストフード、ファミレス、惣菜、冷凍食品、それで十分だ。あまり欲に忠実に食べすぎると体を壊すので、栄養バランスや量はある程度考えるけれど。でも普通、グルメが趣味という場合、たまに食べるご馳走を生きがいにしているとかそういうイメージがある。
けれども私はそういうのではなくて、次のご飯やおやつの時間をただひたすら心待ちにしているだけだったりする。軽い糖質制限は少しできたことがあるが(食欲が少し落ち着いた)、食事制限は一日もできたことがない。一年で一番つらいのは健康診断で絶食しなければいけない日である。何も食べてないと気持ち悪くなるから、精神科の薬も飲めないし。
それに、そういえば、基本的にどんなときでもご飯のことは優先順位一位に割り込む。何かに過集中してる真っ最中とかでない限りは。例えば、自分が食べてもよい食べ物を見ると割とそれのことで頭がいっぱいになってしまう。社会的なルールやマナーを破ってまで食べることはさすがにないけれど、頭から締め出すのは不可能に近い。
冒頭の数字の話もそういうようなことで、ASDの中の多数派は貼り付くようになっていて、私は反対に滑り落ちるようになっているだけ、なのかもしれない。
そして、ここまで極端ではないにしても、自分が何に対して比較的興味を持ちがちで、何に対して比較的つまらなく感じがちなのかについては、やっぱり同じような感じで運命づけられていると思ったりする。
そういった隠しパラメータは、逃れようがないほど強力とまでは言えないけれど、抗いがたくはある大きな流れとなって、その人の人生を知らず知らずのうちに決定づけているのかもしれない。
ライヘンバッハの滝の上
疲労検知能力が低い話。
まずはそこに至るまでの背景から。私には人生の問題が大きく分けて3つあった。人の内面などどうでもいいかもしれないけどちょっと付き合ってほしい。
- 寂しい
- 死にたい
- 親がしんどい
はい普通。人々の苦悩でトレーディングカードゲームを作るなら、これはさながら構築済みデッキのセット売りかというくらいありふれた組み合わせだ。「寂しい」というのは、人と繋がりたいくせにうまく繋がれず、クソデカ感情を持て余し、しばしば文字通り身動きの取れない状態に陥るというやつだ。「死にたい」は南国のスコールのように叩きつける希死念慮。「親がしんどい」のはいわゆる毒親・虐待とまではいかないが、何かどこかの僅かなズレ。奇妙さ。
生きづら界の中では全然大したことない部類だろうとは思う。ヒエラルキーの中の尖った三角形というよりは平べったい台形に位置するはずだ。でも生きづらさを他人と比べて測るのはちょっとナンセンスだとも思う。一見自分よりぬるそうに見える環境にいる人にも陰で何があるかわからないし、結局は生まれつきの脳神経の加減に左右されるような部分だってあるのだし。足が痛むのは、いかにもな茨の道を歩いたときだけとは限らない。清潔な温泉旅館に設えられた足つぼマッサージマットだって、脚を骨折した人や足裏をズタボロに怪我した人には激痛の元だ。
開幕早々話が逸れた。そんなありがちながら自分にとっては明らかにQOLをゴリゴリ削ってくるこの諸問題と、一生を共にしなければならないことを薄々悟り始めていたこの折、突然8割方が解決してしまった。雲散霧消だ。もうちょっと正確に言うと、「死にたい」のは100%消えた。「寂しい」のは70%くらいか。「親がしんどい」のはまだ50%ぐらいかな。足しても8割にならないがまあそこは感覚だ。3つのウェイトが均一でないのもあるか。「死にたい」のが一番きつかった。この3つは絡み合ってはいたけれども。
しかし、「死にたい」問題はある瞬間を境に完全に消えてしまった。「寂しさ」に関しては職場で人に恵まれるなどして徐々に解決していった感があるが、「死にたい」のはあることに気づいてその知識を得た瞬間にどこかへ行ってしまった。「親がしんどい」問題のある程度の部分も同時にさらさらと崩れていった。こんなにデジタルな解決になるとは私も予想していなかった。これは万人に適用できる解決フローではないと思う。かなり稀かつ変なケースだと思う(転職するにあたり、ハローワーク系の施設でキャリアカウンセラーの人に発達障害傾向をオープンにしたうえでこの話をしたら、「一般的にはカウンセラーの導きがないと達成しえないことをあなたは達成している」と驚かれてしまった)。たぶん大抵は、合う薬を飲むことや認知行動療法、カウンセリングといったものを通して徐々に解決していくもの、のはず。でもやっぱりどこかに同じような人がいないとも限らないから、書く。
ここでようやく今回のテーマと話が繋がるわけだけれど、気づいた瞬間「死にたい」のが消滅したあることというのは、「私は発達特性のせいで疲労を感覚的に検知することがほぼできないのだ」そして「私は今まで(特にここ1年)とてつもなく疲れていたのだ」ということだった。
……繋がってねえよという声が聞こえてきそうだ。もう少し説明が必要かもしれない。
疲れている感じがしないから、意識の上では自分はまだまだやれると感じる。そうすると、生来の真面目さが祟って、やれるのならやらなきゃいけないという気になってくる。もっと言うと、努力量も成果も足りていないのにどうして怠けてしまうのか、なぜ頑張れないのか、という方向にまで考えが伸びてくる。しかし実際のところ既に頭も心も体もはちゃめちゃに疲れている。動かないし動けない。でもそれを意識が正しく検出しない。万全のコンディションだと信じ込んでいるからひたすら自分を鞭打つ。その繰り返し。
だから、「自分には知覚出来ないだけで、実際は疲れているから、今これ以上頑張れないのは仕方のないことなんだ」と気づいた瞬間、完全に救済された。休むことの必要性をようやく心の底から受け入れられた。それまでどこか、ダラダラしがちで何かと人よりとろい自分に引け目を感じ、休むことに罪悪感があった。休む必要なしと意識のモニターが常時返してくるのだからまあそりゃそうだ。サボっているような気になってしまう。だけれどきちんと働いていないのはモニターのほうだったのだ。
もしもうちょっと疲労のモニタリングがきちんとできる人間だったなら、いくら人が減って前職の仕事がきつくなったからといって、休職するまで仕事にのめり込んだりはせずに済んだかもしれない。ちなみに、休職直前~休んで最初の2週間ほどは、実はごくうっすら疲労を感じていた。ん?ちょっと疲れてるかな?くらい。しかし疲労の感覚に極端に鈍いことに気づいてからこの事実を振り返ると結構恐ろしくなる。極端に鈍い人が検知できるような疲労ってそれ何よ、と。
というわけで、私はなるべく自分の疲労感に頼らずに生きていこうと決意した。まず、累計作業時間をもうちょっと気にすること。そして、疲労感ではない感覚だとかはそれなりに知覚できる(このことが事態を一層ややこしくしていた面もある。筋肉痛やコリみたいなものは感じるため、自分が疲労をほとんど知らないことになかなか気づけなかった)ので、それを手掛かりに疲労を推定すること。それまで違和感があるといえばあったが治し方も原因もよくわからないので放置していた謎の症状をリストアップしてみた。上にあるものほど昔から存在する。
「希死念慮の発作」は上に書いた3つの問題のうちの1つで、かなり小さい頃からあったように思う。ただ頻度は多くなかった。増えだしたのは高校受験あたりからか。そのぐらいから双極性障害Ⅱ型の鬱にも結構浸かっていて、鬱由来の希死念慮も結構大きくなったけど、大学のときに服薬治療を始めたらそっちのほうはみるみるうちになくなっていったのだった。10代後半ぐらいの期間はずっと疲労由来の希死念慮と鬱由来の希死念慮が混然一体となって頭に居座っていたことになる。しかし服薬治療では消えない謎の希死念慮がずっと残っていて、それがようやくこの度疲労のせいだったとわかって消滅したのでした。めでたしめでたし。
それにしても、なぜ疲れが希死念慮の形で現れるのかはよくわからない。この場を離れてさっさと休めという逃避の欲求に近いのかもしれない。それか、体が「死ー!」とだけ言っているのに意識の思い込みが激しすぎるだけかもしれない。
「過眠」は高校生の頃に急に始まった。帰宅後即制服のまま玄関で寝るような日もあった。それまではむしろ不眠気味だったのに。そして休職してみるとたちどころに不眠に戻っていった(こういう風に休職すると消えたため存在に気づいた体調不良は数多い)。転職活動を始めて軽い負荷がかかるとちょっと眠めだがやっぱり入眠困難気味な日があったり中途覚醒が多かったりする。この事実から、私は元来過眠の民ではなく不眠の民であると推測される。不眠人間が20h/dayとか寝るようになる疲労って何よ。
「お腹の壊れ」は腹痛とかトイレに駆け込むようなことはないけど恒常的にお腹が壊れているというやつ。「痒い湿疹」は移動する湿疹が全身を行脚する。「生理不順」いつあいつが来るのか予測アプリにもわからない。驚くべきことに、私はこの3つの体調不良を体調不良として意識していなかった。休職して格段によくなったことで初めて気づいたのだ。時々気になって原因をググったりしていたのだけど、スマホの画面を埋め尽くす「慢性疲労」の文字はまったく意識に届いていなかった。だってまさか自分が疲れているなんて思いもしないもの……。
「エミュレータ(苦手なコミュニケーションを意識的に調整する癖)の機能停止」はあまり実感はないが、職場の状況がヤバくなりだしてからコミュニケーション事故が発生したり、上司に態度の悪さを指摘されたりすることが増えたことから推測。休職直後は外に出ようが人前に出ようがエミュレータが全然起動せず(というくらい私にとっては自動的なものだ)、もう二度とエミュレートできない体になってしまったかもしれない……と思ったが2週間休んだら治った。
「攻撃性の発作」というのは何か原因のあまりない怒りが突然湧いてくるというような現象がまず起こるようになり、そのうち架空の犯罪者などに怒る(例:痴漢は許せない!誰かが被害に遭っているのを見たら加害者を痛い目に遭わせてやる!)ようになり、最終的には実在の人物に怒りの矛先が向きがちになった。これを経験して思うに、SNSなどには、よくわからない敵に対して怒っている人や、著名人などを批判するというよりただ叩いているだけの人などが沢山いるが、あの人たちは実はものすごく疲労が溜まっているのではないだろうか。ちょっと心配になってしまう。
「虫や人がいるような気がする」は幻覚に近い。何かぽつんとゴミが落ちているのが一瞬虫に見えてギョッとしたり、人がいるのかなと思って近づいてみたら単に物体が影を作っていただけ、みたいな経験が休職半年前くらいから増えたような気がする。少なくとも最近は全然ない。
「やらかし感の発作」はあまりうまく説明できないが、やらかした事実が何もないのにたいへんいまおきました的な焦燥感だけが感じられる不思議な現象だ。これも昔からあるにはあったが、休職半年前?3か月前?ぐらいからガッと増えた気がする。
そしてここまで来てから「ほんのり疲れたような感じ」が来る。そのぐらい私の疲労検知システムはアホだ。なんというか冗談抜きで死ぬ手前だったんじゃないかと思っている。
他にもまだあるかもしれないが大体こんなところだ。軽くさーっと解説するだけのつもりだったのにな。そして書いているうちにまた色んなことが頭の中でつながってきた。疲労に限らず感覚による非言語的な自己モニタリング実はよわよわなのでは?具体例行ってみよう。飽きてきたので雑だ。
- おやつが食べたいような気がして一通り貪ってから最後にお茶を飲んで気づく喉の渇き(無駄なカロリー摂取)
- なんだかやる気が出なくて動けず2時間ぐらい溶かしてからふと暖房のスイッチを入れたり靴下を履いたりするとさくさく動ける寒がりの自分
- うっすら切った程度のケガには気づかないことあり
- 強迫観念もあり限界を超えて食べがちだった幼少期
- 運動神経のなさ
今のところそんな山ほどは出てこないけれども、今後注視していたら似たような例はざくざく出てくるような気がする。自分の意識に上る言葉や感情にはわりと敏感なほうだし、身体に出るみたいなこともそれなりにはある、しかし自分の身体が今どんな状態なのか感覚を通して知るということについてはポンコツなのだ。聞いたことあるなあこの話。結局よく言われる発達障害者あるあるはやっぱり真理を突いている。腑に落ちるまで時間がかかってしまったが。
ところで、一つだけ触れていなかった「親がしんどい」という問題までもがなぜ今回救済対象にある程度入ったのかというと、親も発達特性がかなり一緒だなと納得がいったからだ。遺伝子はほとんど共有なのでベースはあまり変わらない。変わらないがゆえに、親には私の抱える問題が問題として認識できない。自分もああだったなあとしか見えないのだろう。お互いに違っているなあと思う部分は、たぶんお互いが生きてきた異なる時代の価値観によるものが大きいんだろう。そう思うことである程度の諦めはついた。ある程度。
この辺で今日はもうまとめてしまおうと思うのだけど、かつての私は、自分ができないことを改めて認識して何になるんだと思っていた。知っ(て)た、終わり、となるような気がしていた。けれども、自分の感覚はずっと煙に巻かれていて、到底信用ならないものであると認識することは、予想外の救済を私にもたらした。これでようやく、なんとか生きていけるような気がした。
キラキラと輝くもの
このアルバムタイトルの引用がこれ以上に似合うテーマはそうそうない。たぶん。
先日、達研究(達マップ・達パワポ)をやっていた流れで、「コーピンググッズ」等と呼ばれる一群の物の存在を知った。
migawari-maria.hatenadiary.com
コーピング、までは聞いたことがあった。ストレスコーピングのコーピングだ。ストレスで疲れてしまったら、積極的に癒しのための行動を取って回復しましょうみたいなアレだ(と理解している)。
疲れた時にいろんなリフレッシュ方法を試せるよう、予め自分によさそうな方法を大量にリストアップしておくとよいという。これをコーピングリストという。
そして、実際にリフレッシュが必要だなあという場面になったら、リストを頼ってさまざまな方法を試してみる。
その時に、これは効いたとか、いやこういう場合にはあんまりだったとかいう風に記録をつけていくと、次第に傾向が見えてきて、自分のストレスのコントロール可能度が上がっていく。
というような辺りまでは知っていたから、未知の複合語ではあったけれど、なんとなく「あー、ああいうのでしょ?」という想像はついていた。
「ストレス解消」「癒し」といった語句を引っ提げて雑貨屋さんの一角を陣取っている、握ると絶妙な感触でムニッとするアレとか、ポワーンと穏やかな光を発するアレとかだろ。そんで色が移り変わったりするんだろ。ゆっくりと。自動で。
あんな単純なものでストレスが解消されたら苦労しねーよ、と思っていた。人間はもうちょっとこう複雑なことを考えて生きてんだ。成型されたウレタンの塊ごときにその憂いがわかってたまるものか。もっちりしやがって。
だがしかし「センサリー」「フィジェット」などの関連ワードを渡り歩きつつ検索画面を掘り進んでいくとなかなかに興味深く、多種多様、どころかもはや奇奇怪怪とさえ言えそうな様相を呈していた。
特に激しい直訳調の日本語が並ぶ海外の通販サイトが一番すごい。原色の繭のようなものに笑顔で包まる子供。そんないい笑顔を向けられても戸惑ってしまう。スイングハンモックというらしい。
頭部までも包まりきって、完全に蛹化してしまったようなものもある。外から見ているとちょっと不気味だが結構楽しそうだ。こちらはボディソックスという名称が確認できた。
スクイーズのような触って気を落ち着かせるための物体だけでも色々な形があるし、手で触るためのものだけでなく足で踏むためのものもある。
もちろんこの頃話題のウェイトブランケットも出てくる。以前達界隈以外にも爆発的に流行したハンドスピナーや、それに類する「ただいじるためだけの道具」も山ほどある。
そんな中に懐かしい物を見つけた。砂時計の液体版とでも言うべきか、色のついた液体がぽぽぽぽぽと滴り落ちて、その雫の重みで水車を回すような形になっているアレ。
「オイルタイマー」がどうやら一番一般的な名称のようだが、「オイルモーション」「リキッドタイマー」「プレイタイマー」等何種類かの呼称があるようだ。
雫はペンのインクみたいな、明らかに食用に適さないビビッドなピンクやブルーなのに、ぽぽぽと落ちてできた玉はなんだかイクラやタピオカを思い起こさせる。
ああこれ昔よくお土産屋さんに置いてあった。見なくなったな。ていうかこれ小さい頃おばあちゃんがくれて家にもあったんだった。あれどこに行ったんだろう。よく眺めていた。
エモさに灼き尽くされた脳のうちわずかに残った部分で、この文脈でコイツに再会した意味を悟っていた。これもASD者がハマりがちなものらしい。あー。はい。
いやーでも確かにこれいいよな。全く実用性はないけど、割と欲しい。最近だと百円ショップとかで手に入るらしい。雫が坂を滑り落ちていくようなモデルは初めて見た。へええ。
しかし、人間は足るを知らない。いいなと思ったものでも、その味を知ったらすぐさらなる贅沢を言い出す。これちょっと滴る速度が速いんだよな。
もうちょっとこう、ゆったりと水中を揺蕩うクラゲのような……と思っていたときだった。
センサリーバッグ。
ほう。
ジップロックの中でビーズやスパンコールがぷかぷか漂い、それを眺める赤ちゃんはうれしそうだ。
とうとう赤ちゃん向けまで来たかと若干思ったが気にしてはいけない。君もなれよ楽でいいぜベイビーヒューマンとオーケンも歌っている。赤ちゃん人間に俺はなる!
だがジップロックではいまいち気分が上がらない。かわいくないのだ。閉じ具合が一目でわかる便利なチャックも、信頼の証たるロゴも。このときばかりは。
そうやって途方に暮れていたときに目に飛び込んできたのがそう、センサリーボトル。
毎度前置きが長いな。
原理は簡単だ。というか原理というほどでもない、見たままの単純さだ。密閉性のあるビンの中に何か液体とすてきなものたくさんを投入する。以上。
画像検索には多数子供だまし的なものがヒットするが、たまに猛烈に惹かれる作品がある(センサリーボトルの多くは工業製品でなく手作り品だ)。
そのうち頭が帰納的な画像処理を始めて気がついた。そういえば私、透明なものの中に何かが封じ込められてるつくりの物体にすこぶる弱いんだった。
そういう消しゴムとかフルーツゼリーとかレジン作品とか煮凝りとかスーパーボールとか…。鉱物好きもそのせいかもしれない。大量にあったスーパーボールコレクションはどこに行ったんだろう。
おそらくはこの謎の透明フェチも特性なんだろうけど、もう特性かどうかとかはどうでもいい。綺麗。好き。惹かれる。それで十分だ。
だいたい世の中には、置物とかフィギュアとか、別に実用性はなくて単に飾って眺めるためだけのものがいっぱいいっぱいいーっぱいあって、それはそれはデカい市場を作っている。知ってた。
知ってたけど、知らなかった。今初めて知った。そういうものに課金する自由が人にはある。またひとつ発達した。おめでとう自分。
すばらしいことに、センサリーボトルの手作りに必要な材料はほとんど百円ショップで手に入る。ものすごく安上がりだ。まずは百均に行って、気に入らなければ手芸店にでも行けばいい。
まずベースとなる液体。ベビーオイルや洗濯糊を勧めているサイトが多かったが、私は洗濯糊のほうがよいと思った。どろっとしていて、内容物がゆったり動くからだ。
1本で750gとか入っていて、他の材料も合わせると持って帰るのが結構大変だった。
もし、もっとさらさらしたもののほうがいいなあと感じる場合はベビーオイルのほうがいいかもしれない。
次に密閉性のあるビン。私は最初「“世界”が見たい…」と思ったからかなりでかいビンにした。500mlくらいだったか。割れにくいようにPET素材のメイソンジャー風のやつ。
そして中に入れるすてきなものたくさん。メインとなるカラータピオカみたいな粒は、観葉植物用の吸水ポリマーでできたビーズだ。
私が行った店では、青系、緑系、オレンジ系、透明のビーズの在庫があったが、オレンジ系の分だけなぜか不透明白の粒が取り混ぜられていて、ずるい…と思った(青と緑が欲しかった)。
私はレジンをやるので手持ちの端材があるしと思ってそれ以外は買わなかったが、手持ちがない人はネイルコーナーや手芸コーナーを物色するとちょうどよいものが見つかると思う。
具体的な名詞を挙げるとラメ、グリッター、クラッシュホロ、スパンコール、ビーズ、パールなど。縁のない人にとってはとことん縁がなく未知語ばかりという人もいるだろうか。
なお、スパンコールやビーズは穴が開いていないもののほうが綺麗かもしれない。後でヤーンを買っておけばよかったなと思った。
レジンの中に封入する専用の小さいパーツなんかもいい感じだ。試してはいないが、逆に紙類とかだと液が染み込んでまずそうだ。
家に帰ったら早速作業を始めよう。ビンを開けてみると、謎のちょっとフカフカした白い円盤が噛ませてあった。
高級チョコの箱なんかによくある、クッション材兼チョコと紙箱との接触を防ぐための、要は開封してしまえば役目を終えてしまうような、そういう類のものだと思って取り外して横に避けてしまった(伏線)。
ここまで来たら準備は整った。後はもう全部ぶちこむだけの楽しいフィーバータイムだ。
フィーバーだ、フィーバーだ、サタデーナイトはフィーバーだ。ジョン・トラボルタの名の下に、君は踊る殺人鬼となる…って誰もわからんな。まあタイトルからして趣味に走ってるんだからいいか。
吸水ビーズのボトルからトトトとぷくぷくの玉がこぼれ出る。なかなか弾力がありうっかり落とすと部屋の隅まで跳ねていく。適当に色のバランスを見ながら最初は加減して少なめに入れてみた。
続いて洗濯糊のボトルを開封。おお。屈折率の関係か一気にビーズの輪郭がぼやけた。透明のビーズはほとんど見えなくなる。
机や床に誤ってぶちまけないよう細心の注意を払いつつ、コポコポと糊を注いでいく。
少なめ少なめを心がけながら、またビーズを入れ、糊を入れ、ビーズをもう少し足し、とやっているうちに、ビンの7分目くらいまでがちょうどよい比率で埋まってきた。
正直、ここまでだけでも十分綺麗だと思う。ちょうどその辺にあった使い捨てのプラスプーン(なぜあるのか?)でかき混ぜてみるとなかなか中毒性のある振る舞いを見せるのでおお〜となる。
ここから先は単にどこまで凝るかの領域だ。だが私は自他共に認める凝り性だ。詰めは甘いが(伏線)。
レジン用に買ったもののいまいち日の目を浴びていなかった弾たちを、今こそとばかりに撃ちまくった。文字通り撃ちまくった。
配合はそれなりには考えつつも、ひっくり返し、ぶちまけ、浴びせた。デッドストックの総攻撃だ!
というのも用意したビンがちょっとあまりにもデカすぎたのである。いや後悔はしてないけど。常識的なサイズを選べばこうはならないはずなので安心してほしい。
「こう」というのは……ひとつまみとか入れただけだとすぐ呑みこんでしまう。世にも不思議なポータブル底なし沼である。ちょっぴり想定外。まあいいや。
普通、レジンなんかだと大抵作る物がもっともっと小さいので、ラメとかを入れるにしても要求されるのは量より微妙なさじ加減だ。耳かきの先どころか爪楊枝の先の世界なのである。
それが今は、よく焼けたトーストに残り少ない蜂蜜をボトルから絞り出すがごとく、ラメのボトルのお腹をペコペコパフパフ押さえまくっている。あるまじき光景!
まあ、パジコさん(手芸用品メーカー大手)のラメは専業作家さんでもない限り使っても使っても使い切れないくらい入ってるからいいんだけど…。ちなみに今回のボトル作りをやり終えても、まだラメはなくなっていない。
ひとしきり中身を入れ終わったら、蓋を閉めて揺すってみる。
見たかった“世界”がそこにはあった。深々と降る雪のように、輝くラメが、金色の幾何学パーツが、極小のブリオンが、ゆっくりと沈んでいく。
反対に、洗濯糊よりも軽い水で満たされたビーズはさらにゆっくりと昇っていく。うっとり。
これはかなり中毒性のある合法ドラッグだ。個人差はあるかもしれないが。
中でもクラッシュホロはかなりいい味を出している。風情のある言い方をすれば、北欧の夜空を包む凍れるオーロラをこっそりと削り取ってきたかのような神秘的な輝き。
風情のない言い方をすれば、1ロットに1パックしか入っていないという伝説のキラカードならぬキラ鰹節といった趣だ。出汁は多分取れない。
ビン上方と蓋との間に空間があると逆さにしたとき綺麗に落ちにくいことに気づき、洗濯糊をギリギリまで追加。とそれに合わせてビーズやラメももう少し追加。
ビーズはさすがに体積が大きいので、入れ方を間違えると溢れる危険性があるので注意だ。ラメの体積は無視できるのでガンガン入れよう。ある程度入れたほうがよりドラッギーに仕上がるかもしれない。
そしてここにクソデカセンサリーボトルが完成した。やったね!
いじくり回しているうちに、遠心力を使うように振ったほうが綺麗に内容物が攪拌されることに気がつく。
振っている最中はペットボトルを洗っている人みたいになってしまうがドンと机に置くとうーんやっぱりうっとり。水族館のクラゲの水槽レベルのポテンシャルがあるのではなかろうか。
それが500円ほどで作れてしまうのだからすごいぞセンサリー。
とか思いながら遊んでいたら伏線回収の刻(とき)が来た。あれ?これじんわり漏れてる?
まあちゃんと蓋を上にしとけばこれ以上漏れることはないよねと思い、そのように安置してその日は寝た。漏れ方は本当にじんわりだったし、夜遅かったので。
翌日、Google先生にお伺いを立てると、密閉性の有無はパッキンの有無によるということがわかった。パッキン?パッキンか……(左上に「資料」と書かれたバッキンガム宮殿の写真が脳内を横切る)……最初に横に避けてしまった円盤ってもしかしてパッキン!?
そういえばこれまでペン立てにしようと思って買ったメイソンジャーにもそんな感じのものがついていたし百均で買った別のビンにもやっぱりついていたしいやでもこっちのビンにはついていただろうかあっビンにゴム的なものがもともと塗りつけてあるのね……。
そんな思考が瞬間的に駆け巡り、私はひとつかしこくなった。アホが常識を得ただけだけど。
とするとこのフカフカディスク…パッキンをビンの中に入れなければいけないのではないか。そうすれば漏れは防がれるはずだ。
というわけで蓋を開けなければならない。が、どうしたことかものすんごく固くてびくともしない。
腕力に自信があるほうではないが、それにしても温めても滑り止めを使っても開く気配がない。漏れた糊が固まってるせいかと思い削り落としてみたが関係なさそうだ。
その後しばらく格闘して気がついた。ここまで固いということは中が減圧してしまってる…?
仕方ない、空気穴を開けよう。レジン用のピンバイス(手回しドリル)を買っておいてよかった。手芸にハマると工具が増えていく。金属には使うなと書いてあった気がするがちょっとくらいいいだろ…。
幸い付属のパッキンは水筒などによくある帯状のものではなく円盤状でど真ん中を塞ぐから、蓋の中心に小さな穴を開ける分には問題ないのだ。
キュリキュリと慎重にドリルを回す。程なくして無事なんとか穴開けに成功し、空気が入った瞬間蓋は簡単に開いた。なあんだ…。
パッキンを蓋にセットし蓋を閉め直すと、もう漏れはなくなったようだった。まあでも逆さにして放置するのはやめといたほうがきっと無難だ。
そこまで考えて閃いた次なるアイデアは「飲料用として実際に使われていたビンならかなりの密閉性が最初から保証されているのでは?」ということだった。
家の中を漁ると、ちょうどよさそうな酒瓶が二つ見つかった。
水色のガラスでできたミニチュアサイズのボンベイサファイアのビンと、頂き物の焼酎飲み比べセットのうちの一本だった、一升瓶をぎゅっと小さくしたようなビンだ。
余っていた糊の量的にもちょうどよさそうだ。吸水ビーズもまだあるし。もう2本作っちゃうか!
ミニ一升瓶はなかなか口が狭い(伏線2)。ビーズが一つずつしか入らない。しかも割り箸でキュポンと押し込んでやらなければ入ってくれない。
少しだけビーズと糊を入れ、そこでいらんものが目に入ってしまう。余っている入浴剤の存在だ。入浴剤ってお湯に色つくし、着色料として使えるんじゃね?と思ってサラサラと糊の中に投入して思い切りシェイクしまったのが運の尽き。
入浴剤だったものはみるみるうちに腐海に生えていそうなカビめいた物体になり、あっという間に巨大なゴム状の塊に変化してしまったのだ。ワオ。
何かの成分が反応して糊を固めてしまったらしい。糊が無駄に……っていうかこの塊どうやって出せばいいの?(回収2)
我ながら気づくのが遅い、というか作業中にいかに脳を使っていないかだ。さながらコイツは実体化したアホという概念だ。
この物体、弾力がありそうなのがまだ救いだろう。割り箸でつつくとぶよぶよしている。カチコチだったらどうしようもなかった。この柔らかさならなんとかビンの口まで持ってこれたら引っ張って取り出せる気がするが…。
割り箸を突き刺してみたり、ワイヤーを使ってみたり、ピンセットは太すぎて入らず、アートナイフは刃が抜けて焦り、などなど格闘すること30分。
結局「割り箸を突き刺したままビンの壁に押しつけ、そのまま螺旋状に持ち上げてくる」ことでどうにかこうにか引っ張り出すことに成功した。
常温で固体、青色、弾力ありというのがアホの化学的性質らしかった。世界初であろうこの実験結果にイグノーベル賞でももらえないものかと思いながら、ゴミ箱に捨てた。
♪見つけた入浴剤(ソルト)はぶちこむな センサリー! センサリー! という電波を受信したのでここで成仏させておく。
気を取り直して再びのフィーバータイム。作業工程はあまり変わらないので割愛。
ミニ一升瓶のほうは星モチーフや黄色味を足し、グラデーションの効いたゆめかわ風味にした。元々「芋焼酎」と筆文字のラベルが貼ってあったとは思えない仕上がりだ。
ミニボンベイのほうは銀ラメとグラデーションパールを主力に、アクセントに赤いハートを一枚だけ入れたちょっと大人っぽい雰囲気だ。とてもじゃないがこれで子供はあやせない。
アホの析出実験のせいで糊が結局足りなくなったのと、変化をつけたいなという気持ちもあり、それぞれ水で薄めて粘度を変えた。ビンのサイズ的にも多分これが合うはずだ。
センサリーボトルは見て癒されるためのものだが、作る過程もなかなか癒しがある、と作っていて思う。創作系の趣味全般に言えることかもしれないが、箱庭療法的な側面があるのだ。
それでいて敷居はかなり低い(これ誤用って言われるけどじゃあこの意味はどう言ったらいいん…?)と思う。
パーツを自由に配置して封じ込めるという点ではレジンと近いが、こちらは結構一式揃えるのが大変(お金もかかるし、最初何が必要かわかりにくい)だし、一度作ったものは固まってしまい動かない。まあ、だからこそアクセサリーなどには向くのだけど。
私はまだなんとなく知識があったからすんなり入っていけたし、レジンはレジンでめちゃくちゃ楽しいのだが、普段は全く創作系の趣味をやらないという人にとってはちょっと敷居が高すぎるのではないか。
一方センサリーボトルはそんな人でも取っ付きやすいはずだ。必要最低限の材料がすごくシンプルだし、基材となる洗濯糊なんかは完全にやっすいので十分だし、中に入れるパーツもかなり百円ショップで揃う。
レジンで安い材料を使うと、かなりうまくやらないと結構見るからに安っぽくなってしまい、またそれがマイナスに響いたりもする。
でもセンサリーだと案外百均パーツばかりでもいい感じになったり、というかチープさが逆にお土産物屋さんを想起させるようないい味になったりするのだ。
もし凝りたくなったらビンやパーツにお金をかければいいし、とりあえず安い材料で手軽に試行錯誤もできる。圧倒的にお金のかからない趣味だ。
ていうかこれ全世界的にもっと流行ってもおかしくないとさえ思っている。
なにせコイツらめちゃくちゃ映えるのだ。キラキラだもの。みんな大好きインスタ映えだ。お洒落なお酒や化粧品のビンを使えば攻撃力倍増だ。何と戦っているのか。
ハーバリウムやスライム、それにタピオカが突然ブームになったりした世の中なのだから、次はセンサリーが来てもそんなにおかしくはない。
パーツやビンの雰囲気次第で、トロピカルにもコズミックにもフェアリーにも、グロテスクにさえもできるだろう。アイデア次第だ。
何なら、ストローの穴やカップの隙間を塞いで固定してしまえば、タピオカドリンク風のセンサリーだって作れそうだ。そろそろブーム終わりそうだけど…。
私は写真ヘタクソだが、もっと技術のある人ならセンサリーの透明感とキラキラ感を最大限引き出せることだろう。浮遊する様子を動画に撮ってもいいし。
ただ、パーツたち動くし、動きは重力次第なので、うまいこと撮るのは結構難しいのだけど。
後はそうだなあ、絶対子どもはこういうの好きだろうなと思う。まあ元々小さい子向けのおもちゃだし。要は子どもも達も感覚が未発達なんだろう。
親子で一緒に作るのも楽しそう。自由研究なんかにも最適だ。やろうと思えば、比重とか、混色とか、屈折率の話とかにも繋げられる。
ただ、ぶちまけリスクはあるので、ゴミ袋とか敷いておいた方がいいかもしれない。お子さんの年齢によっては誤飲にも注意だ。
うーん、そろそろ飽きてきたし、たぶんもう書くことも残ってないのでこの辺で終わりにする。なんつー終わり方だ。
また思いついたらひっそり更新するかも。
これを読んで作ったよという制作報告をもらえるととてもうれしいです。
達マップ
仕事がしんどすぎて潰れてから、休養ついでに今後の作戦を立てている。
なぜ仕事があそこまでしんどかったのかと考えてみるに、普通に厳しくなっていっている状況とかもあれど、やっぱり私はどこまでいっても普通ではなくて、一般的な人の数倍、ずっと(年単位で)無理していたんだろうと思う。だって他の人、仕事に愚痴や文句を言うことはあっても、ここまでぶっ壊れてないもの…。要は私はこの仕事には適性が低いということなのだけど、普通ならそこで並行して転職とかやりきれるものだが、そこに至りもせず潰れてしまった。つまり普通はもうちょっと計画性のある行動とか自己モニタリングとかができるものなのだ。おそらく。
加えて、私は今までの自分の仕事(接客業)をなんやかんやで結構楽しいと思っていた。ずっと。弊社のことも結局なんやかんやで好きだし。仕事というのは無数のタスクの集合体であるとも言えると思うが、その一つ一つの小さなタスクがだいたい全部性に合っているという感覚。それで楽しさだけでのめり込んで、結局こうして潰れて周囲に迷惑をかけている。テレビゲームにはまりすぎて何日も徹夜して遊んで最終的に身体を壊してしまう人、のスケールデカい版みたいなものか。あるいは、本来の医学的な意味での過集中からはずれてくると思うが、ある意味で長い長い過集中をしていたようなものかもしれない。
というような考えに至り、そして結論:私には普通の働き方は無理だな!
まあ幸い、手帳こそ取っていないものの一応診断済なわけで、こういうとき名前がついていて専門家による大変さのお墨付きがあるというのは便利だ。人に説明しやすい。しかも幸い中のさらなる幸いとして周囲が親身になってくれる人でわりと固まっている。そうすると、説明のし甲斐がある。私の特性を正確に理解してもらい、凹部分に対して必要な援助を得、逆に凸能力の火力を提供する。この調整が聞き入れてもらえるなら、やっぱりできれば弊社で働き続けたいなーというのも叶う。あわよくばうまい使い所を創設する勢いで作ってもらえないかなあなんて思う。というか、このえげつないアンバランスさを本当に実感してもらえるのであれば、ああこいつ普通の駒にはならんな、と私と同じ結論に至ってもらえるのでないかとちょっと思っている。まあ、うまい使い所なんてそう簡単に作ったりなくしたりできるもんではないと思うので、そういう意味でごめん普通の仕事して?って言われてしまう可能性もあるがまあ仕方ない。
そういうわけで、私は怒涛の達研究を開始した(まあ達研究と言っても実質ADHD+ASDだけの話で、LD他は当事者でないのですみません)。人に説明するにはまず整理からだ。よく箇条書きになっているような特性とか、これまでのサバイブの過程で嫌と言うほど身に染みているあるあるとか、正直ソースのよくわからん情報とかを一通り漁り直し、整理していくとあらビックリ、「実はこういうふうに絡み合ってんじゃね?」という壮大な仮説が錬成されてしまったのである。完全に自分の感覚頼みで科学的根拠はないに等しいが、ありえなくはないのでは…?ぐらいのものにはなったつもり。しかし、独自研究すぎてこれで説明してわかってもらえるのかわからんくなってきたぞ…。あと、見れば分かると思うけど、だいたい上のほうがADHD、下のほうがASDにまつわるもろもろです。
誰かの何かのヒントになれば幸いです。
代わりの男はまだ来ないから
潰レポ。
発達障害者が仕事にやられてダメになるまでのレポート、である。つくれぽみたいに言うのをやめろ。
今回は珍しくタイトルに引用している歌詞の解説をしておこうと思う。今回も相変わらず筋少だ。
「代わりの男」というめちゃくちゃゆったりした、割と短い曲がある。
ゆったりした曲は基本私の好みではないのだが、オーケンの歌詞が載っているとなると話は別だ。
夜が明けたら 僕の代わりが 待ち合わせの この駅に やってくるはず
ねえ君 うまくやりなさい 悲劇的な詩を歌って おどけていれば だれも気づかない
昔えらい人が 娘を刺した この駅で
僕は 待ってるから 夜がもうすぐ明けるよ
ねえ君 代わりの男 僕を早く休ませてよ
星も帰り始めて 代わりの男は まだ来ないから
こんな歌詞だ。これで全部。
どうにも自分の人生に疲れたとき、誰か代わってくれよとつい思ってしまう心情、だけどそんな「代わり」が現れるはずもなく、という曲なんだと思う。本来は。
でも私には確かにずっと「代わり」がいた。幼児のような私に代わって、社会生活をそれなりにうまくこなしてくれるほうの私。少し二重人格的かもしれない。
「代わり」はいつもいてくれるわけじゃない。家に帰ると消えてしまう。でも仕事の場面や他人の前になると、どこからともなく急に現れて、全部うまくやってくれる。
うまく、と言っても「代わり」もせいぜい高校生くらいの歳だ(と感覚的に思ったのだが、確かに実年齢に2/3を掛けると17歳だった)(発達障害者の精神年齢は実年齢の2/3程度だという噂がある)。それなりに失敗もする。
一人親家庭で、働きに出ている親の代わりに子守りをしなければならない苦労人の女子高生みたいな絵面だ。
そんな「代わり」に負担をかけすぎたのかもしれないな、と今なら思う。壊れてしまった「代わり」だったものの残骸は、倒した敵キャラのように薄れて消えてしまった。また発生するのだろうか?
思えば、夜が明けて仕事の時間が近づいてくるのに「代わり」の気配がしないことが、ちょうど1年前ぐらいから少しずつ少しずつ増えていった気がする。
それはちょうど職場が大きな方向転換をし始めた時期と一致する。この方向転換はあくまで計画的なものだったが、途中でコロナの邪魔が入り、全世界が大きな方向転換を余儀なくされた。
当然、職場もいろいろとそのとばっちりを食った。元々手探りで事を進めていかないといけないだろうとは言われていたが、その手に野球のグローブでもはめられてしまったかのようだった。
それでもこの秋までは、まだ「代わり」はそれまでと同じように持ちこたえていた。
職場がひとつのターニングポイントを迎えたころから、仕事をしていてわけがわからなくなることが増えた。
初めてやる種類の仕事だというのも大きかったが、いつもの「代わり」ならもうちょっと状況を読み解けるはずだった。
子守り役のいなくなった私には、忙しなく動き回る同僚と目まぐるしく変化する状況がまるで魚の群れのように見えた。
私と世界の間には、水族館ご自慢の分厚いアクリル板でできた水槽があった。わずかに不自然な屈折率。歪みをなるべく抑えてあるんですよ。
私も魚の一匹となって来館者を出迎えなければいけないはずなのに、透明な壁に隔てられ、人工の海はあまりに遠かった。
ただ仕事場に来るだけでは「代わり」は現れなくなった。仕方がないので幼児のほうが仕事の真似事のようなことをする。
人に話しかけられると「代わり」が急にやってきてそれなりの受け答えをしてしまうのだけれど、やはりそのうち社内の人相手には現れないことも出てきた。
年末が近づいてくると、もうお客様の前でしか「代わり」は出てこなくなった。その代わり、出てきたときはほぼ完璧に仕事をやり切った。
なんやかんやでどこで一番粗相をしてはいけないかはわかっているらしい。
だんだんとミスが増えて、というような潰れ方がきっと人間典型的なのだろうが、残念ながら私は非典型的人間だ。潰れ方すら非典型的な経過を辿るとは知らなかった。
思い返せばたしかに多少のやらかしもあったが、周囲が心配になるほどの壊滅的な感じにはなっていなかった。
結局、年明け少ししてある日、身支度の仕方がよくわからなくなって出社できず、しばらく休ませてもらうことになったのだった。我ながらすごい理由だ。
その当日が一番状態としてはヤバく、普段の口下手に輪をかけて喋れないというか、話そうと思っても全然文章が組み立てられないというような症状もあった。
PCやスマホで文章を打つことだけはできた。さすがに言語活動の中で一番得意なだけある。ちなみに文章を手書きで書こうとしたらそれも潰れた直後はできなかった。
前回潰れたときは鬱がひどかったものだが、今回気分はどこまでも平坦だ。
数日積極的にダラダラさせてもらい、とりあえず服の着方も思い出し、書いたり話したりも一応できるようにはなった。
途中で、今ものすごく職場が忙しいはずだというのを思い出した。前から極限状態だったのに。大戦犯だなあと思った。でも何人かがもったいなくも優しい言葉を掛けてくれた。
もうとっくに働けるまでに治っていてサボっているだけのような気もするが、試しに買い物しようと思うとわけがわからなくなって何も買えない。
ご飯の注文とか、おやつを買う位のことならまだできるが、服や雑貨を見たときにいつも動いていた頭の部位が黙ったままのような感じがする。
分厚いアクリル板は私を繭のように取り巻き、相変わらず世界は遠い。
またこれは外出に連れ出してくれた人がいたおかげでわかったことだが、私は他人と一緒に行動しているとき、率先して例えばエレベーターのボタンを押したりするよう心掛けていた。普通なら。
そういう気を回す行動全般ができなくなっていた。これも「代わり」がやってくれていたのだろう。
他にも歩き慣れた道でどっちに行くべきか一瞬迷うことも増えたし、これで接客業に戻るのは割とまだ危ないような気もする。
潰れた引き金が何だったのだろうと考えると、ふっと気が緩んだことだったのかもしれなかった。
潰れる少し前、職場内でとてもえらい位置の人に話の流れで発達障害をカミングアウトしたら、予想外にものすごく理解があったという出来事があった。ありがたいことだ。
こちらの苦しみを想像しようとしてもらえた。環境調整をしていこうと話してくれた。それは心強いことだったけれど、もう「代わり」の足元には踏み出すべき地面がなかった。
崖を走り抜けてから間を置いて急に重力の存在を思い出したトム・キャットのように、いつの間にか限界を超えていた「代わり」は落ちて、壊れた。コミカルな効果音は鳴らなかった。
誕生日が来ても、年が明けても、世紀が変わっても、別に効果音が鳴ったりはしない。そんなこと小学校に上がる前くらいにはとうにわかっていた。
なのに、限界になっても音とか鳴らないんだ、と思ってしまった。この世界は人が壊れたくらいでは別に何の音も鳴らしてくれやしないのだな。
何が壊れたら世界はブーと鳴るんだろうな。
僕らの生きてた地獄を
クールスカルプティングをやった話。やっとこさ本編。
予約時間にクリニックに着くと、今回もやっぱりものすごくプライバシーに配慮した形で、施術内容の確認がなされ、そして料金を支払った。
前にも書いたように、知らない人と顔を合わせる待合室で名前を口頭で呼ばれることのないよう番号を振ってくれるし、
内容確認の際は、いろんなメニューや身体のパーツが予め印刷された表を使い、「こちら(手で指し示す)の内容」「○○番の部位」というような具合で、他人に内容がわからないように最大限配慮して行ってくれる。
もちろんコロナとか関係なくカウンターには衝立があり、隣の人が受付と何を話しているかは見えないようになっている。
これならVIOの脱毛(それにしても、初めてこの名称の意味を知ったときにはいいネーミングだなと感動したものだ)とかのちょっとデリケートな施術のときでも気にならなくていいと思う。
料金の支払いはあっけないものだった。さよなら私の月収ピーか月分。でも脚の脂肪がこれでいくらか消せるんだもんな。
物質と反物質はぶつかると対消滅するが、マネーと脂肪もぶつけると対消滅するのだなあ。そんなアホなことを考えた。
検討初期段階では全然気づいておらず、契約直前ぐらいにさらっとスタッフさんから言われてアッたしかに!と思ったのだが、1日に8エリアもこの施術を行うということはわりとなかなかの時間を要する。
40分×8か所で単純計算で320分。実際は他にもやることがあるのだから、ほとんど半日仕事だ。
施術は複数日に分けてもよいし1日で済ませてもよいし、どちらでも都合の良い方でと言ってもらったので、迷わず1日に詰めこんだ。身支度困難勢にとって外出回数は少ない方がいい。
いざ施術本番、の前に、どういう風に施術を行うかの最終打ち合わせおよび確定作業と、あとモニター割引の対価としての写真撮影・身体計測が必要だ。
自分の下着を脱ぎ(写真に写り込んでしまうと身バレに繋がるため)、用意されていた使い捨ての下着を履き、その上からシンプルなブルマのような、究極に没個性的な黒い水着を重ねて履く。
おお、よく広告に載っている写真の人みたいだ。いやそのための写真を提供するのがモニターなのだから当たり前だが。ちなみに今回は顔は出さず、施術部位だけの写真を提供するという条件だ。
よく、あやしい業者の広告とかだと、ビフォーとアフターで化粧の気合の入り方が違うやんけとかライティングの加減やんけみたいなことがあるが、
そういうことにならないように、つまり誰がいつ撮影しても一定のアングルになるように、ここに沿って立ってくださいねみたいな板が用意されていた。
そして写真だけでなく、採寸もある。スタッフさんがメジャーで決まった場所のサイズを計測してくれる。もちろん記録される。前後で比較するのだろう。
当然だけど結構太くて心のなかで凹む。でもそのダメージは純粋に数字に起因するものだ。
スタッフさんの視線とか態度によって傷つけられるようなことはなかった。他人にコンプレックスをバーンと晒しているにもかかわらず、なぜだか安心して信頼できた。
それはたぶん、(おそらく)同性であることに胡坐をかくことなく、私の身体に敬意を持って接してくれていたからかもしれない。
敬意といってもそんな難しいことではない。お世辞とかでもない。触れる前にちょっと失礼しますと添えてくれるとか、その程度のことだ。
普通の病院のお医者さんだと、時々いる。あっ医療行為なんで。触らないとわかんないんで。そんなノリで、触診にまったく遠慮を見せないタイプの人。
女医と女性患者の組み合わせのときのほうが、却ってずけずけという言葉がちょうどいいような勢いで触られる場合も多いような気がする。
医師にとっては日常の流れ作業的なしょうもない仕事の一つだし、たしかに遠慮なんてしているだけ時間の無駄かもしれない。だからガシガシ行く人がいるのも理解できる。
でもたいていの場合、医師の診察を受けるということは、受ける側としてはそれなりに非日常だし、やっぱり自分の身体を他人に見せるというのは、いくら必要に迫られてであってもそれなりにはストレスだと思う。
とか語っているが、私自身は診察という明確な目的のもとで医師に身体を見せたり触らせたりすることには、実はそんなに抵抗がない。気にならないほうだ。
それでも、敬意を持って身体を扱ってもらうことは明らかによい体験だった。ある種の癒しや救いとさえ言ってもいいかもしれない。
自分の身体を大切にするということが全然ピンと来ない人生を送っていたが、ああ自分の身体も尊重されるべきものなのかもしれないな、とその時初めて思ったのだ。
ただの身体計測に対して思いつくことがいちいち重すぎである。こんなことを考えていたなんて当のスタッフさんが知ったらドン引きだろう。
今日施術に当たってくれるスタッフさんは、前回説明や部位の選定をしてくれた人とはまた別の人だったが、この人がまあめちゃくちゃ有能だった。
前回の打ち合わせ内容で既に私は十分納得していたし、もちろんその内容がスタッフ間でもきちんと引き継がれていたのだが、それを踏まえたうえで今日の方はさらに新しい提案をしてくださった。
元々、(内腿3か所+膝上1か所)×両脚、で8か所の設定であった。しかし、そのスタッフさんの見立てによると、膝の直上よりもう少し内腿に寄った、斜め上ぐらいの微妙な位置のほうが、私の希望に合い、かつより高い効果が見込めるという。
そうすると、内腿に3か所も使わなくてよくなる。2か所で十分だろうと。では余った1か所はというと、次点の優先度であった太腿の付け根(バナナロールというらしい)に回してはどうか?という提案だった。
秒で乗った。
ちなみに、この信頼できそうなスタッフさんいわく、私のふくらはぎはあまりクールスカルプティング向きではないようだった。自分で思っていたより筋肉率が高いっぽい。私に筋肉があったとは知らなかった。
クールスカルプティングを重ね掛けしまくって棒きれレッグになる夢は儚く散ってしまった。
とりあえず、今回どういう風に施術を行うかこれで決まったので、それを今度はペンで身体にマーキングしていく。印を付けておかないと確かにどこに器具をつけていいかわかんなくなりそうだものなあ。
どうやらホワイトボードマーカー的なものを使っているようだった。書き直すとき(毎回これでいいかどうかこちらに確認しながら進めてくれる、気に入らなければ微調整も頼める)はアルコールで拭く。
しかしこれ、薄くなるが、綺麗さっぱり取れるという感じではない。今が夏で、半袖とミニスカートで来て脚や腕をやってもらっていたとしたら終わっていた。教訓:クールスカルプティングをやるなら秋冬に限る。
ひとしきり身体に印を書きこまれ終わったら、いよいよ施術室へ。殺戮の宴が始まる。
角度調節できるベッドの上で、座ると寝るの間ぐらいの体勢になる。プールサイドで雑誌を眺めて寛ぐセレブか、毎日テレビを楽しみに過ごしているお年寄りみたいな角度だ。
凍傷防止などのため、施術部位にはべちょべちょのジェルパッドが貼り付けられ、その上から器具が装着される。
寒くないようにブランケットがかけられ、痛くないようにクッションが詰められる。ベッドサイドには持参を勧められた各種暇つぶし。飲み物まで出してもらえて、何もかも至れり尽くせり。介護されているかのようだ。
装着箇所はベルトでぐるぐる巻きに固定され、まず減圧だけがかかる。吸われる肉。痛くはない。
そしてスタートボタンが押されると、いよいよ冷却が始まる。万一の時のためにナースコールが手渡され、スタッフさんは一旦退室する。
ひんやりしてきたなあと思ったらすぐにキンキンになった。保冷剤を当てているような感覚。そして、もう少し温度が下がったら痛いのだろうなという手前で止まる。それが40分ほど続く。
痛くはない。ただとにかく冷たい。飽きるほどに。飽きてもタイマーが止まるまではやめられない。
事前の説明やネット上の口コミでは、そのうち感覚がなくなるから大丈夫とのことだったが、感覚が完全になくなるまではいかなかった。冷たさが背景化するというか、冷たいことはしっかりと冷たいのだけれど、なんとなく気にならなくなってくる。
体勢を変えられないのが少ししんどいが、持ち込んだ本やスマホを見ていると時間はどんどん経つので、長すぎて苦痛というほどでもなかった。
タイマーが気の抜けた音を立てると、遠隔で見れるのだろう、スタッフさんが駆けつけ、器具とジェルパッドを取り外しつらいと噂のマッサージをしてくれる。
マッサージは思っていたほどはつらくなかった。種類としては、痛いような痒いような、霜焼けのような不快感。凍った脂肪がシャリシャリと音を立てるのが結構ホラーだ。
私は身体を揉まれることに対する触覚過敏が少しあるから、そこ由来かもというつらさも多少あった。肩やお腹は揉まれると完全に無理になってしまうくらい過敏が強いので、たぶん耐えられないと思うが脚ならまあなんとかだ。
ジェルパッドを取った後は拭き取ってくれるが、このべちょべちょも容易には取りきれないもののようだったので、多少ベタベタが残っていても大丈夫なように着てくる服とかその後の予定とか考えたほうがよさそうだ。
これを8か所やる。なかなかの長丁場だ。スタッフさんたちがめっちゃ気遣ってくれるがぶっちゃけこっちは寛いでるだけだ。まあ、しばらく動けないしんどさは多少あるけれど。
お手洗いはマッサージの後、次の部位に移る前のタイミングで申し出れば問題ない。
途中から、まだ経験が浅そうなスタッフさんがもう一人加わり、二人がかりで私の脂肪を殺してくれる感じになった。
というか、たぶんその新米さんの練習の機会なのだろう。やりやすい客だと思ってもらえたみたいでうれしくなる。
最初からいたほうのスタッフさんがサポートしながら、後から来たほうのスタッフさんが器具の装着を進めていく。明日の美の作り手が目の前で育成されている。寝ながらできる社会貢献活動である。
そのうち新米さんが一人でやる回も出てくるようになる。全部お任せしている立場でなんだが、心の中で応援する。
あと、後から振り返って気づいたけど、私が打ち合わせに時間かけすぎてベテランさんが休憩取れてなかったりしたんだと思う。すみません…。
おそらく外ではもう日が暮れているころ、最後の部位をやっていると、なんだかポコポコと隙間ができているような変な音や感触がする。
気のせいかな?と思ったがやはりポコポコいうので、ついにナースコールを使ってみた。そしたらスタッフさんが飛んできてくれて、状態を確認してくれた。
泡が入ってしまってそれが動いているようだが、器具は密着しているので問題ないとのこと。たしかにしっかり吸われている感触はちゃんとしている。
そういう感じで安心して最後まで施術を受けることができた。
終わったらさすがにちょっと疲れていた。
私は何もやっていないけど達成感があった。頑張ったのはスタッフさんたちなのだが。
帰って身体の状態を確かめてみると、脂肪が死んだあたりは微妙に痺れたような不思議な感触だ。
皮膚や筋肉はちゃんと生きているので触覚があるのだが、脂肪は死んでしまったので感覚がない。なのでとても奇妙な痺れ方をする。
術後2~3日は筋肉痛のような我慢できる程度の軽い痛みが続いたが、すぐに治った。
だがそれが治った頃に、内腿にだけ内出血がわっと出た。なかなかグロい。時間差で出る場合もあるのか。
これがフェイスラインや夏場の腕とかだったらと考えると結構大変だ。やはり大抵の部位を衣服で隠せる秋冬がいい。
内出血は10日程度で跡形もなく引いていった。そして内腿以外は内出血にならなかった。
まあ、経過はかなり個人差が大きいっぽいので、あくまで一例として。
そして気になる効果のほどであるが、3週間経った今、ぶっちゃけまだ全然わからない。
体重が減るわけでもないし(もともとそういう性質の施術だ)、少しずつ変化する見た目って実感できるのだろうかという不安は少しあるが、
モニター割引条件である写真撮影が2か月経ったころに設定されているので、その頃にはかなり効果が出ているのだろう。
今の時点で唯一感じられた変化といえば、食生活などは一切変えていないのに、お通じが増えたような気がすることだ。気がするレベルだが。
まあでも、「死んだ脂肪は少しずつ体外に排出される」という話だったのだから、そんなに変な話ではない。
なんにしても、放っておいても時間は経つ。春が来たら、前に買った花柄のワンピースをまた着るのだ。
その時に、鏡のなかの自分をもう少し好きになれたらいい。
私の代わりに生まれてくる人間は
私は脚が太い。
いや脚以外もなかなかのものだが、とりわけ脚が太い。というか形が悪い。
太いにしてももうちょっと均整のとれた太い脚だったらいいのにと思う。アンバランスなのだ。
正直他人から見たらどうでもいい程度の歪みかもなとは思う。とはいえこっちは24時間365日その脚と苦楽を共にしなければならない。
それならやっぱり自分の身体が自分にとって心地よい形をしているというのは結構大切なことなのではないかと思う。
私は人形のような見た目への憧れが強い。
理想的には「まるで生命が宿っているかのようと評される人工物」くらいの希薄な生命感で生きていたい。
健康的という言葉からは対極にある、血色のない白い肌、ほとんど棒きれのような手足、みたいなのが好きだ。それを無理に目指すことがよいことなのかはさておき。
もうちょっと現実に寄せていくとすれば、いわゆる量産型とか地雷とかと呼ばれる系統の見た目は結構好きだ。自分をああいう風にできる技術も素地もないのでやらないが…。
ゴスロリとかもいいなーと思うほうではあるがそこのカルチャーに飛びこんでがっつり実践したいとまでは思わない。私の理想とは何かちょっとまた違うので。
もっとこう、そこらへんのアパレルではちょっと見ないくらいの布量をつぎ込んだ仰々しいフレア型をしていながら、潔い無地、どシンプル、みたいなスカートが欲しいのだ。もちろん丈は長めだ。
そこから折れそうな脚が伸びているのがかわいいのイデアだと私は思う。私は脚フェチなのかもしれなかった。
だが翻って我が身に目を落とすと、今回の生で折れそうな手足になることはちょっと無理そうだった(ヲ格を項とする他動詞の可能形として解釈することはめっちゃ鍛えれば可能かもしれないが)。
肌のほうは幸いそれなりの白さに生まれついたが、二物はなかなかもらえないものである。
そういうわけで、ちょっと生命感が薄くなるくらい細くなりたい、特に脚、という願望は昔からあった。
けれども体を動かすのは嫌いだし、食い意地は張っているし、体質的にもハンデは大きいような気がしなくもないし、願望が実現できることはなかった。
一回そこそこ頑張ったことがあったが全然痩せなかったし、拒食症になりかけたのでやめた。
だから、いわゆる普通のダイエット以外にも痩せる手段があるというのは、福音だった。
しかも手術みたいなことはしなくていい。高いけど。でも高いだけの価値があると思った。
そして予約していた日、無事早すぎるくらいの到着を決め、問診票に記入し、施術についての説明を一通りしてもらった。
今回も当然前からお世話になっていた湘南美容外科さんである。
カラオケボックスばりの個室に案内され、スタッフさんが丁寧にレクチャーしてくださった。この方も同じ施術を受けたことがあるそうだ。脚ほっそ。
専用の装置から、いわばトイレ掃除のラバーカップのような吸い込み口の付いたホースが伸びており、その吸い込み口を脂肪を減らしたい部位にあてがい固定する。
吸い込み口には、人体のさまざまな箇所に適合するよう設計された何種類かの形状・サイズがあり、大きい物を1回使っても、小さい物を1回使っても、料金は同じだ。
サイトには1エリアいくらというような表記がしてあるが、要は吸い込み口にかかわらず1吸引いくらということなのだ。
そうしたら大きければ大きいほど得なのかという気がするがそうではない。形状が合わず隙間ができてしまうと施術は失敗してしまう。小さい物のほうがよい場合もあるのだ。
どうすれば最小の吸引数で最大の効果が得られるか、こちらの希望を聞きながら最適なものをスタッフさんがめちゃくちゃ丁寧に考えてくれる。
実際必要に応じてお肉をつまみながら、ここは効きそうとかここは効かなさそうとか教えてもらえる。私は体のあらゆる箇所がつまめる女なので、結構凍らせ甲斐がありそうだった。
しかしお腹だけは検討のために触れられるだけで無理寸前だったので(触覚過敏)、お腹にはこれ使えないな…と思った。
装置はスイッチひとつで動き出し、約40分の間、贅肉を吸引しつつ絶妙な温度に冷却し続ける。
凍傷になるほど冷たくはない(というか防止処置をしてもらえる)が、冷蔵庫並みには冷たいので、次第に感覚がなくなり、痛みは結局ほとんど感じないという。
それが終わると今度は、スタッフさんが2分間マッサージをしてくれる。冷やした箇所をもみほぐすように。これが結構つらいらしい。
しかしこれをやるのとやらないのとでは最終的な効果が大きく違ったというデータがあるそうで、ここだけ頑張ってください、と言われた。
そして、複数箇所に施術する場合は、また吸い込み口をあてがうところから初めて、マッサージまでを繰り返す。
だいたい2~3カ月もすれば、凍って死んだ脂肪細胞は、体内の老廃物が排泄物となって出て行く普通のサイクルに乗って、体外に排出されてしまう。
1回の施術で脂肪の約20%減が見込め、同一箇所を2回(もしくは少し重なりができるように配置して1回ずつ)施術するとかなりはっきりと効果が実感できるという。
終わった後はすぐに普通の生活に復帰できる。人によっては吸引した箇所に内出血が出ることもあるが、単なる内出血なのでそのうち治る。
かがくのちからってすげー!という感想しかない。
一通り説明を受けた後は、医師と話せる時間がもらえる。説明してくれるスタッフさんは別に医師ではないので、一応言えること言えないことがあるのだろう。
相変わらずリスク面の質問をしてしまうが、非常にリスクの低い施術だと聞き(細かい数字は忘れたので言及しない)安心する。
また、施術箇所だけやたらと痩せてしまい、未施術箇所と比べてアンバランスになることはないか?というのも気になっていた点であったが、
わりとマイルドに効果が出るものだそうなので、それも心配するほどではないようだった。
これはスタッフさんからも聞いていたが、吸い込み口の中心が一番効果が高い。中心から離れれば離れるほど効果はゆるやかになり、周辺部が一番弱い。
そんなグラデーション的な効き方をする施術であるため、不自然にえぐれるような痩せ方にはならないのだという。
そして最後に、予算とのすり合わせに入る。見積もりだ。
私はとにかく脚が一番気になるんだよーということで話を進めていたので、結局脚だけに集中して施術することにした。まあ、元々の計画通りだ。
スタッフさんが部位ごとに優先順位をつけて整理してくれるので、考えやすかった。
結局、全体的に棒きれに近づけたいということで、8エリア(片脚4エリア)つぎ込むことにした。それで約40万。
もっと節約する方法として、モニターとして1回で複数エリアを契約しつつ、ビフォーアフター写真を提供するという技もある。それで約35万。
あんまりちまちま追加するとモニター適用がしにくくなるので、もし今回やってみてもっと攻めたいと思ったら同じ8エリアをもう一回さらうつもりでこう決めた。
あと手足の脱毛についても簡単に説明を聞き、全身コースにしてしまうのもありだし、背中とかが要らなければ手足だけのままでも、などと提案してもらう。結局約20万の手足のみにした。
どうせ背中の空いたドレスを着る機会も海に行く予定も当面ないのだ。
加えて、会員ポイントと有料会員システムをうまいこと組み合わせて、もう少し料金を削り取る技をスタッフさんに教えてもらう。
たぶんそうしたら幾許かのインセンティブでもあるんだろう(下衆勘)。でも優しくしてもらったし、どうぞどうぞと思う。
私は世の中の様々なサービスを利用するにあたり、ボーナスステージ的な客でありたいのだ。クソ客も多いこの世界で、私に当たったときくらい今日はいいことがあったなあと思ってもらえたらうれしい。
それに普通に条件的にもまあ自分にとっても得かなという内容だったので、有料会員になることにした。
それにしても、こんなデカい買い物をしたことがないのでどうやって支払ったものかと困っていたが、そこのところもスタッフさんは慣れていて丁寧に親身に説明してくれた。
分割払いもできるし、現金一括でもいいし、現金とクレカの組み合わせということも可能だ。支払いも後日(施術日当日の施術前)でかまわないと言ってもらえた。
クレカ会社のポイントが貯まるかなーということで、限度額内に収まる程度のまとまった額をクレカで払い、残りはATMから下ろしてきたりした。
一通り契約やらなんやらが終わって部屋を出ると、なかなか時間が経っていた。
めっちゃあのスタッフさんを拘束しちゃったなと思ったけど、私は今回この支店にとってそれなりのエモノだったわけで。
数十万の契約が取れるかどうかが私への対応にかかっている、とスタッフさんたちの側からは思えることだろう。緊張するよなあ。
この心理を理解したままダークサイドに堕ちると、高い買い物をしてやっているんだと調子に乗る人間ができるのだろう。
いや、それともこの程度の話なんて日常茶飯事だったりするのだろうか。
そんなことを考えながら帰途についた。
いつまでも当日のレポートに辿りつけない。(つづく)