重ねられた生活 20181214~1220

1214(Thu)

この間何をしていたかといえば、およそ人生とはかけ離れた、生活のことばかりして暮らしていたのだった。読まず書かずの日々。この街を出ていくことを決めてからは、そのことばかりで、どうやらそのうちに秋は終わってしまったようだった。

言葉に触れる時間が短いと、どんどんと感性が死んでいくのがわかる。わかるのにも言葉が必要で、実際には死んでいることに時々はっと気づいては、それすらも流れていくような日々なのであった。

かといって不快感がそこにあるかといえばそうでもなく、結局は人生と生活のどちらに軸足をおいて生きるのか、という話のような気はしている。前者に戻れる気がしないのは悲しい。ような。うっすらと。でも確かに。

 

1215(Fri)

年間ベストの選定を進めている。今のところ、120枚まではしぼれていて(果たしてそれは絞れているのか?)そこからさらに50枚程度にしぼりたいなと考えている。

この街を出ることを決めてから、もう少し感傷的になるかなと思っていたのだがそうでもなかった。部屋を探すために見に行った新しい街は、正直あまり好きになれそうにもなく、かつ部屋も多少妥協しなければならなかったことを考えると、どうなんだろうなというのはある。恋人が住むことになる街も妥協の産物で、お互い1年は耐えるしかないねなどと話しながら、4つの季節をやり過ごすのは、果たしてあっという間なのかどうなのか。君といた10年近くの日々は確かにあっという間だった気はしているけれど。


 

1216(Sat)

最近気分がよいことは何かというと、新調したハンドクリームの香りがとてもよいことと、これまた新調したダウンがとても軽くて暖かいことだ。うきうきである。少し前はなにやら雨が降っては気温が上がるなどしていたけれど、やっぱり冬は当たり前に寒いほうがいい。そして天気が良いほうがいい。なんでそんなに冷たいのと笑う声を聞きながら、同じ時を過ごしながら僕のそれとは対照的にぽかぽかの手を握っては、そんなことをぼんやり考えていた。今考えられることの「際」がその辺りあるようにしていて、それがすこし寂しいのであった。生活が落ち着いてきたら、その辺りがまた広がるとよいのだけれども。
 
 

1217(Sun)

ものを捨てる作業に励んでいる。よくもまあこんなに溜め込んだものだと思いながら。使っていないものよりも使っているもの、使う頻度の高いもののほうがまだいるとかいらないとかの判断の俎上に勝手にのってくるのが当たり前とはいえ面白いと思う。完全にいらないのにこの部屋に住みついてるモノたちは、いらないがゆえにほとんど視界にすら入っていないのだなと思う。息をひそめていた彼らは、見つかって、捨てられてしまうのをじっと待っているしかないのだ。
 
 

1218(Mon)

過去1年でろくに日の目を見なかった衣類は積極的に捨てようと思っているのだけれども、新生活での日々のやり過ごし方を思うに、部屋着としてはまだ使えるし数が必要なのでは?と思ってしまいなかなか減らない。必要なら新調してしまえばいいと頭の中で鳴っているのだけれども、何かと出費がかさむ以上、二の足を踏んでしまうのも事実で。

普通だ、と思う。別に刺激的な日々を求めているわけでもなければ、普通であることを退屈だと感じるような類の人間ではないが、アンテナがびびっとくることがなくてゆっくりと死に向かっているのだなと感じることが多くなってきた。死への跳躍力という意味では以前のほうがあったけれども、今はひたひたとしたものが周辺をうろついている、そんな感じだ。

1219(Tue)

部屋にある音源を次から次へと手放している。僕にも青春があったのだと思うくらいには思い入れの強いモノたちで、一瞬迷いが出ることもある。やはりフィジカルのあるメディアは強いなと思う。でも時代が変われば感覚も変わるということで、データに同じような感慨を抱く世代もあるのだろうか。でも例えばスマホとかタブレットとかそういった物理的なデバイスが存在しない世界になったなら、今僕が抱いているような想いはきっと失われてしまうような類のもののような気がする。いいとも悪いとも思わないけれど。


1220(Wed)

自分の予定をキャンセルして、恋人との時間にまわした。最近プライヴェートでの時間をなかなか作れていなかったので良かった。キャンセルするかどうか迷ったとき、仮にこれが人生最期のイベントだとするならどちらを選ぶか?と自分に問いかけたのは極端ではあるけれど良かった気がしている。ふたりの未来の話をした。寒くて、楽しかった。

先週はここまで。

2018年夏の折り返しに寄せて

▼今これを窓から夕焼けを眺めつつ書いている。久しぶりの休みを少しの体調不良とともに怠惰に過ごした後悔と、予報を信じて外出を控えた判断の誤りへのいら立ちと、そのどちらが強いかなということを考えながら。よい色だ。雲は多いが。
 
 
▼雲と言えば、この夏の前半は教室の窓から毎日外を眺めては子どもたちと雲の形について話していた。これは好みじゃないとか、もう少し大きさがどうとか。雲も含めた空の様子というのは刻一刻と変わっていて同じものはなくて、とてもよいと感じる。「先生が注文したやつになってるよ~」と教えてくれたの、色がもう少し薄かったら完璧だったね。テキストに目を戻させながら、ふとした時に空を見る人生をこの子達には歩んでほしいと思っていた。
 
 
▼夜には暑いからという理由で指だけをつないでは、恋人と空を見上げながら帰ったことがあった。彼女は夏の空の方が近くて好きだと言って、僕は冬のそれの方が高くて好きだと言った。相容れねえなあと笑うその人と、それでも最後は都会の空は汚いねと俗っぽく納得しあった。僕は都会に出てきてから空を見るのが好きになったということは言わなかった。
 
 
▼書いていなかったのは満たされているからではなく、ましてや書いて異化しなくても日常を行けるようになったからでもなく、単純に多忙だったからなのだった。2足のわらじに追加してやることがあって、隙間の時間にいろんなものを詰めてこなしていく日々。生活をしながら人生をいこうとして、さらに僕なりの真理を言葉として残そうとすればどうしたって無理は出るというものだ。しばらくは仕方がないかと思っている。
 
 
▼音楽は浴びるように聴いている。外国の方はきりがないので、また記す頻度が上がった頃にでも少しずつ触れていこうと思う。国内の音楽でいえば、lyrical schoolの新作が抜群に良くてこればっかり聴いていた。つれてってよで始まって神様ごめんねで閉じるというコンセプトだけで僕には言いたいことがたくさんあるし、スチャとかせきが参加した楽曲も最高だしでもう今年の夏はこれだけでいいかってくらいの気持ちである。

lyrical school「つれてってよ」

 
 
▼…とまあここまでつなぎつなぎで書いてきて、書き始めてから3日経ってしまった。久しぶりに書こうとすると時間がかかって仕方がない。それにしても今年の夏の前半は暑かった。梅雨が一瞬で終わった時の喜びは、その速度と同じくらいあっという間にどこかへ行ってしまった。それでも何年かぶりにまともな花火を観たり、誰かと泊りがけで出かけたりもした。自分のこと以外で嬉しいこともあって、それは自分のことなんかよりよっぽど喜ばしいことだった。うんざりするような暑さ、それに負けずに外へ出て会いたいと思える人がいる人生でよかった。君のことを思い出す回数はぐんと減ったけれど、僕が瞬間のことを思うとき傍らにはやはり君がいて、これからはどれだけ上手に、どれだけ丁寧にそれを反復していけるのかというフェーズなのだろう。あとはそうだな、強めに、死ぬのやだなあと思っている。まだまだ見えていないものがあるのだから。