いつもへりのほう

崖っぷち社会人2人のブログです。

2019年と西武・そごうの元旦広告

新年早々、なんだか怒られそうなことを書く。
西武・そごうの元旦広告が一部で批判されている件についてだ。

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画像出典:西武「わたしは、私。」新聞広告

ボディコピーは以下の通り。

女だから、強要される。
女だから、無視される。
女だから、減点される。
女であることの生きづらさが報道され、
そのたびに、「女の時代」は遠ざかる。

今年はいよいよ、時代が変わる。
本当ですか。期待していいのでしょうか。
活躍だ、進出だともてはやされるだけの
「女の時代」なら、永久に来なくていいと私たちは思う。

時代の中心に、男も女もない。
わたしは、私に生まれたことを讃えたい。
来るべきなのは、一人ひとりがつくる、
「私の時代」だ。
そうやって想像するだけで、ワクワクしませんか。
わたしは、私。

 

女性にまつわる問題を扱って広告が炎上することは珍しいことではない。
それでも、特にこの件が気になってしまったのは、
わたしはこの広告を初めて見た時、「いい広告だなー!」と思ったからだ。

広告に対する批判の内容の一例を取り上げると下記のようなものがある。

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・一方的にパイをぶつけられるビジュアルや、「わたしは、私」というコピーは、
 女性を応援するような内容と思えない。それどころか、不快に感じる。


・実際に女性にまつわる社会問題が山積していることが考慮されておらず、無責任。


・「今年はいよいよ、時代が変わる。」等の言葉に根拠がない上に、
 西武・そごうがそれに対して行動するわけではない。

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おっしゃる通りだと思う。
本当に、その通りだ。

上記の意見は、フラットで、現実的で、
実際の社会の現状を考慮したものだと思う。

一方で私がこの広告を「いいなー!」と思った根拠は、
主観的で、視野の狭いものなのだが、
いちブログの主張として少しだけ書かせていただきたい。

たしかに、この広告では、女性が自分らしく、差別を受けず、笑って生きていくためには
社会に問題がありすぎる、ということは考慮されておらず、
このコピーやビジュアルを見せられたところで女性にとって何の役にも立たない。
それどころか、クリームのようなものを顔面にぶつけられているビジュアルを不快に感じる人もいる。

女性は今年も引き続き、差別されて損をして我慢させられると思う。
2019年も、たぶんそういう年だ。
「わたしたち」=女性が生きていかなくてはいけないのは、
そういうしんどい時代なのだ、今年も。

だって、一気に魔法のように問題が解決するわけはなく、
これまでのように、ひとつひとつ変えていくしかないからだ。
長い時間をかけて、男も女も向き合っていかないといけないのだ。
で、その間にも女性の人生は続いていく。
しんどくて理不尽な今日、明日を生きていかなくてはいけないのだ。

西武・そごうの広告は性差別問題を解決しない。
西武・そごうも性差別問題を解決しない。(と思う)
でも、性差別問題を抱える時代で生きていく女性と一緒に生きていくことはできるし、
それってとても重要な百貨店の役割だと思う。

ボディコピーで「わたしは、私に生まれたことを讃えたい。」というとき、
主語の「わたし」および「私」には広告の受け手と西武・そごうの両方が含まれている。
女性と同じ立場で、主に女性のための商業施設として時代を歩んでいくことが、
西武・そごうができることで、
それが元旦広告にも表現されてるんじゃないだろうか。


気になっているのが、
女性がパイを男性にぶつけるビジュアルにするべきだったという意見がネット上に出ており、
一定数の賛同を得ている点である。
純粋に疑問なのだが、その元旦広告って何なのだろうか?
男対女の構図を作り、女が男を虐げる図は、一部の人の気持ちをスッキリさせるかもしれないが、
その広告に、どんな意味があるんだろう。

それって図式としては正しいのかもしれないけど(私は正しくもないと思うが)
間違いなく、西武・そごうの広告ではなくなってしまう。
西武・そごうの役割は女性と男性を戦わせることではない。


この元旦広告について、いろんな感じ方がある。
でも、多くの人の思うところと同じで私もこう思っている。
2019年が、去年より一歩でも前進する年でありますように。

 

カブトムシ

カブトムシに打ち倒されるな、と言ったのはカーネギーだ。
この言葉は本当にありがたくて、何度も助けられた。

すぐに打ちのめされがちなわたしは、社会で生きていくために何度もこの言葉を心の中で唱えた。わたしは大木であり、自分を悩ませる出来事は全て小さなカブトムシ。そんなものに負けている場合ではないし、負けるはずがない。
全部些末な出来事だ。わたしの人生のにおけるほんの小さな障害たち。
心が強くなった。くよくよしたりしなくなった。心を悩ませ、会社に行きたくたない、などと思うことはない。

先日、他の会社の2年目と10人くらいで飲んだ。隣に座っていた男の子に、飄々としていて傷ついたりしなそうだねと言われた。
初対面なのによくわかるな、と思った。
それともそれ程までに、わたしは見るからに傷ついたりしなそうなのか。

小説を読まなくなり、暗い映画をあまり見なくなった。読むのは実用的な本や新聞。観るのは流行っているドラマか有名な映画。
なぜなら必要ないから。今までは必要だったがもう必要ない。悩んでいないから。心に闇がないから。
むしろ小説に触れることで悩みが生まれてしまう。
小説を読むこと、考えることは自分の中にカブトムシを見つけることだ。無視していないことにしなくてはならないカブトムシをわざわざ見つけ出し、観察すること。時にはそれを飼い太らせることだ。


社会人になってずっと抱えているジレンマがある。カブトムシを無視するのか、捕まえにいくのか。
いつかカブトムシを捕まえにいく、つもり。でも、生きていくために、無視しているうちに、カブトムシの捕まえ方を忘れてしまうんじゃないだろうか。それどころか、カブトムシが一体どんなものなのか忘れてしまうのではないだろうか。


皆、うまいことやっているようにわたしには見える。カブトムシを捕まえながらもそれなりに生きている。
優柔不断で中途半端な性格の癖に不器用だからわたしはどちらかに偏ってしまうのだ。カブトムシを完全に無視して感情を排し、強く生きていくのか、毎晩泣きながらカブトムシを探し続けるのか。
ずっと迷っているけど、いつかカブトムシ採集に行くことだけは決めている。

コメダ珈琲の豆が消えた

ファミリーマートで売られているコメダ珈琲にはお茶請けの豆が付いていた。学生時代にアルバイトをしている時、いつもそれを買って飲んでいた。
そのうち、社員のおじさんが真似して買うようになった。
これおいしいな、なんて言ってわたしにおごってくれるようになった。

あれから数ヶ月。
コメダ珈琲のおまけの豆が消えていた。他のコーヒーと同じように、何のおまけもついていない。どこいっちゃったんだよ豆。

ああ、なんか泣いちゃいそうだ。
いや、コンビニでコメダ珈琲見つめて泣くなんてメンヘラじゃないか。わたしが日々、蔑み、愚弄し拒絶しているメンヘラじゃないか。行きつけのコンビニの一角でメンヘラになることだけは避けたい。避けるべきだ。

気がつくとわたしは涙をパラパラ流していた。
どうして何でもかんでも消えてしまうんだろう。

こうして思い出の証拠がまず消えて、それによって思い出も消えて、わたしだけがいつまでも昔のことを覚えているのだ。誰とも共有できない思い出をずっと持ち運ぶのだ。

通っていた幼稚園はもうない。昔住んでいた家もない。祖父母の家ももうない。通っていたスイミングスクールも、ピアノ教室もない。

そしていつの間にかコメダ珈琲の豆もない。

ゆっくりゆっくり戦うゆとり

 サカナクションのスローモーションて歌が好きだ。

あと黄色い車って歌が好きだ。

 


サカナクション「スローモーション」MUSIC VIDEO

 

 

ゆとり世代だからなのか、この二曲の歌詞がすごく刺さる。

特に、「行けない つらりつらりと行けない」とか「ゆっくりゆっくり行けばいいのさ」ってところがいい。

安心するから。

 

 

 

でもわたしはたまにトップオブヤンキーの半田さん(仮名)が言ってたことを思い出してしまう。

 

わたしが通っていた中学は校舎の窓ガラスが割られてるタイプの学校だったので、クラスの半分くらいがヤンキーまたはヤンキー予備軍だった。

ある時、クラスの不登校の子が久しぶりに登校してきた。でも結局クラスに馴染めずにまた不登校になってしまった。よくある話だ。

トップオブヤンキーの半田さんも半分不登校みたいな感じだったのだけど、それはクラスに馴染めないからとかじゃなくて気分次第で来たり来なかったりって感じだった。ヤンキーの中のヤンキーだから学校に来るも来ないも自由なのだ。

久々に学校に来た半田さんがクラスの近況を隣の席の人に聞いていたのだが、その時、再度不登校になったあの子の話になった。

半田さんは「だめじゃん」とその子について一蹴した。

そのあとポツリと「戦わなきゃ」と言った。それでその会話は終わった。

何でもない一言だけど、わたしにとってこの「戦わなきゃ」というのはものすごく衝撃的だった。

 

半田さんも戦ってたなんて!

生まれ持ったヤンキー気質とか怖い顔だけでトップオブヤンキーとして君臨してるわけじゃなくて、半田さんだって戦いの日々を送っていたのだ。その時は全く知らなかったが、半田さんが実はいろんなものと戦ってたのが後々わかったので、しばらくしてからもこの「戦わなきゃ」はじわじわ来て、いまだに覚えているのだ。

生きるということは、戦い続けるということなのだ。結果に関わらず、生きてる限り勝負は繰り返される。いろんな形で。

当時、スクールカーストが社会の全てだったわたしにとって、半田さんの「戦わなきゃ」という言葉はいろいろなことを悟らせるに十分だった。

 

そんで、わたしは中学を卒業して女子高に入った。そこでわたしは誰とも戦うことなくぬるま湯に浸かりきって4年間を過ごした。友達と男を取り合ったり、部活の大会で勝ち上がったり、偏差値を高くするために切磋琢磨したりすることはなかった。

大学も特に何かと戦った記憶はない。

戦う前に逃げてしまったし、戦いそうになったら戦わなくていいように努力した。

そして、ずっといろんなものの最下位や最下層にい続けた。

 

そして、ちょっと辛いことがあるとすぐにへこたれてきた。そしてサカナクションを聴く。

なーんだ、山口一郎だってぐずぐず悩んでるし、「ゆっくりゆっくり」でいいんじゃん!

と思って安心する。

 

ぬくい。いや、ぬくかった。これまでの人生。

 

 

そんなわたしもついに会社員になった。

会社という所は、今までみたいにぬくい場所ではなさそうだ。

 

怒られたくないので、手の爪には何も塗っていない。

 

これからは、ゆっくりゆっくり戦い続けようと思う。

まあ、わたしがわざわざそんなこと思わなくても、戦いは強いられるんですけど。

今度は逃げずに戦い続けようと思うのだ。

 

だからといって、完全に大人にもなりきれず、足の爪にはこっそり子どもっぽいショッキングピンクを塗って出社する。ばれないから平気平気なんて思いながら。

 

そんなわけで、もう女子大生でもないし、相変わらず本の話も書かないまま、ブログは続きます。

そういえば、村上春樹の『アフターダーク』には「ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」って台詞が出てきますね。これも安心するのでとても好きです。

 

 

 

やっと本の話ができた…。

 

 

M

平野レミになりたい

平野レミになりたい女は多い。
平野レミみたいになりたーいって言ってる女、あなたの近くにもいるんじゃないだろうか。
わたしの周りには割といる。

 

わたしも平野レミみたいになりたい。

 

 

なぜ平野レミに憧れるのか。
それは、平野レミは最強の女だからだ。
平野レミは誰にも負けない。
結婚していて、夫はあの和田誠。義理の娘は上野樹里
自分も仕事をしていて夫婦で稼いでいる。
スキルを活かしてメディアに引っ張りだこ。
シャンソンも歌える。
平野レミはおよそ女が欲しい名声を全部持っている。

平野レミ栗原はるみにも速水もこみちにも負けない。他の料理研究家にはない魅力とレシピがあるから。

 

女のあらゆる脅威から解き放たれた存在、平野レミ
今日も画面の中で飛び跳ねながら、変な料理を作って人々を魅力する。


平野レミになりたい。無敵だから。
平野レミになったらもう何も怖くない。
結婚できるかどうか不安になったりしない。お金の心配をしない。自分がどう生きればいいのか迷ったりしない。平野レミになりたい。早く。

 

 

 


でも、本当に平野レミになっていいのだろうか。
平野レミの料理研究家としての成功は、彼女の努力と才能と運の結晶に違いない。
何も持ってないわたしが平野レミみたいに振る舞ったとして、ただのやかましいおばはんになってしまうんじゃないか。
何の努力もせずにあのチャーミング&ユーモラスな感じが出せるわけがない。

 

 

 

これが、平野レミに憧れることの罠だ。

 

 

このままでは、平野レミになりたいけどなれなかった平野レミゾンビが大量発生してしまう。ハイテンションでブロッコリーを皿に突き立てたりする平野レミゾンビたち…。


両手にブロッコリーを握りしめた平野レミゾンビはいつか気づいてしまう。
自分がただやかましいだけだということに。
いつまでたっても平野レミにはなれないことに。

 

 

 


そんで、平野レミになりたーいって言ってる女たちはその未来のことをちゃんとわかっている。
なりたいけど、なれないことをわかっている。だから死んだ目をして平野レミになりたい発言はするものの、実際に平野レミ的振る舞いはしない。

 

 

 

 

本当はこう思っている。
平野レミみたいに、なれたらいいのに。

 

 

以下、参考動画です。


Web限定動画「平野レミの神ワザ!1分クッキング? ぶっさしグラチー編」

 

 

 

M

ゆとりにウケる朝ドラを考える

朝ドラが苦手だ。
朝から前向きを押し売りされるのがいやだ。
こっちはもっと寝てたいのだ。
眠いから出かけたくないし、本当は何もしたくないのに、朝ドラの登場人物たちは今朝も夢に向かって奮闘する。
打たれても打たれてもめげない。
何度でも立ち上がる。

 

わたしは絶対に朝ドラの主人公にはなれないと思う。
だって朝からこんなに眠くて、やる気がない。

グータラ人間は、朝から前向きサクセスドラマなんて観たくない。

 

 

映画『モラトリアムタマ子』みたいな朝ドラだったら観たい。


映画『もらとりあむタマ子』予告編


大学を卒業したが、働かないタマ子。
一日中漫画を読み、ダラダラするタマ子。
働いている父親に家事全般をやらせ、自分は一切手伝わないタマ子。

 

タマ子の物語だったら、「きょうのわんこ」みたいにほっこりした気持ちで眺めることができる。
タマ子みたいな人間もいるけど、自分はそうではないからがんばろうと思える。たぶん。
自分はグータラ人間だけど、タマ子みたいにはならない程度にがんばろうと思える。きっと。

そんなゆるゆる朝ドラを求む。

 

 

 

いつか実現しそうだけど。
少なくとも、今ではない。

ヒロイン中島はありうるのか

友達に変な人が多い。
いっしょにこのブログをやっているRも言っとくけどすごい変な人だ。

 

 

ヒロイン失格』という漫画がある。

ヒロイン失格 1 (マーガレットコミックス)

漫画も映画も大変面白いので知らない人はぜひ読んでほしい。

 

 

本作品の主人公、はとりはすごく変な女だ。
はとりは少女漫画の主人公らしからぬ態度と方法で、不器用に、意中の男の子にアタックしてアタックしてアタックしまくる。

 

はとりには中島という親友がいる。
いつも冷静にはとりを悟し、読者と主人公との橋渡しをする。

中島の名前は、お馴染みの彼に由来する。

 

 

そう、『サザエさん』の中島くんだ。
彼もまた、カツオというコンテンツ性の高いキャラクターの添え物として、作中での役割を果たしている。

 

 


わたしは中島なのかもしれないと思う。
いつも、キャラの立った友達に振り回され、呆気にとられ、ツッコミを入れている気がする。

わたしは漫画やアニメだったら、メインキャラの親友ポジションな気がしてならない。

 

 

 

そんなのやだ!
中島だって、ドラマチックな恋して幸せになりたい!下の名前まで覚えてほしい!
(ちなみに『サザエさん』の中島くんのフルネームは、Wikipediaによれば中島弘らしい)

 

 

 

 


まあ、でも、ほんとはやだなんて思ってないからこういう立ち位置にいるんだけど。
中島としてブンブン周囲に振り回されるのがたぶん気に入ってるのだ。

 

 

 

しかし、中島的ポジションの人がヒロインまたは主人公の漫画やアニメがあったら、それはそれで気になるので誰か教えてほしい。

 

 

 

 

 

 


おーい、野球しようぜ。

ブンブン

 

M