正しくない欲、小児性愛/『正欲』感想
映画『正欲』を見た。
原作は朝井リョウの同名小説。「水に欲情する」性嗜好を巡る物語であり、「水フェチ」達それぞれの生きづらさを群像劇的に描くところから始まって、ストーリーが進むにつれて彼らが交わり、終盤一つの事件へと繋がる構成だ。
映画としての評価で言うと、「悪くはないが原作を読んだ方がいい」という感じだった。
実写化にはつきものだが二時間そこそこの尺で原作をほぼそのまま再現しているためどうしても掘り下げ不足が目立つ。特に、『正欲』は人物の内面描写が全てと言ってもいい作品だ。作中に登場する水フェチたちは総じて自己憐憫が強く、視野が狭く、いわゆる「普通の人」に対してやたらと攻撃的だが、原作は彼らがそうなってしまう個々の体験に説得力があったのに対して、映画版では描かれていないわけではないにせよ厚みを描いており、情緒不安定に見えてしまう。*1
また、映画はオシャレというか小綺麗な雰囲気があり、原作の汚さ、生臭さを伴った筆致の方がテーマに合致していると思う。BGMの使い方もよくなかった気がする。BGMはよくも悪くも受け手に演出したい雰囲気を強要する力があると思うのだけど、BGMの持つ雰囲気と劇中の文脈に不一致を感じる場面があった。
ただ、原作でも感じ、映画で改めて思ったのが、この作品のテーマへの不満だ。
【『正欲』とは何か】
タイトル『正欲』が意味するところは、「社会的に承認されている性欲」だ。
劇中ではその筆頭として「同年代の異性への性欲」が置かれ、さらに近年のLGBTQへの理解を示す世界的な流れを踏まえて、異性愛、同性愛、両性愛が「正欲」に位置づけられている。
しかし、劇中の「水フェチ」達は、そういった世間の理解者ヅラに反発する。
「所詮お前らが想定してるのはたかだか同性愛程度の癖に、自分たちの性欲なんか想像だにしない癖に」「『多様性』は本来不快で仕方ないものの存在も含んでるはずなのに自分たちが不快にならない性嗜好にだけフレンドリーなツラをして気持ちよくなってんじゃねえよ」と。
この作品は、「正欲」から疎外されている、自分たちはこの社会に決して馴染めないと思い込んでいる水フェチたちが同じ嗜好の持ち主と出会い、自分の欲求を自分で許すことができるようになる自己肯定の物語だ。
そのテーマ自体に文句はない。普遍的であり同時代的だ。
しかし、実際のその描き方は、小説として大変に巧みである一方で大きな欺瞞も抱えている。
それは小児性愛の扱いだ。
【無害な水フェチ、有害な小児性愛】
一般に知られる中で最も嫌悪される性嗜好が小児性愛だと思う。世間の目に触れるケースの多くが犯罪、それも子供を対象にしたものというのが大きいだろう。「実際に他者を害さない限りはどんな欲求にも貴賤はない」という正論では到底拭いきれないマイナスイメージがある。
ひるがえって、作中の水フェチはどうだろうか。
作品序盤で「小児性愛どころじゃない異常性癖が世の中いくらでもある」と語られていて、たしかに自分も原作を読むまでは想像もしなかったし、作中でその性嗜好を吐露された検事には嘘をついているとしか思われなかった。
しかし、本当にこういう性癖なんですと信じてもらった上で、どちらが嫌悪されるかと言えば間違いなく小児性愛だろう。水フェチはたしかにマイナーで、信じてもらえない、信じてもらったとしてもネタにされ、笑われる可能性は高いだろうが、小児性愛ほどの純然たる嫌悪をぶつけられるとは到底思えない*2。
何故なら水フェチは無害だからだ。対人でない、欲求を満たす上で人を害する可能性から遠い対物性愛は、性犯罪の大部分を占めるだろう異性愛よりはるかに加害性から距離がある。作中では水が噴き出す様を見るために水道の蛇口を盗むという「性犯罪」が描かれているが、言ってしまえばそれくらいの、被害者には申し訳ないが窃盗や器物破損程度の有害さが関の山なのだ。
原作にもあったか憶えていないが、「『自分に正直に』とかいうけど俺はその正直な自分が終わってるんだよ」と水フェチの一人が言う場面がある。しかし彼はその後、同じ水フェチたちと水場に赴き安全に無害に性欲を満たしている。
水フェチは、水というモチーフもあって、映画のみならず汚らしく生臭い原作においても透明な、清浄ささえ感じられるイメージで描かれているように見えた。正欲という言い方を借りるなら水フェチはさながら『聖欲』だ。
「不快にならない範疇の多様性しか許容しない」という多様性の欺瞞を登場人物に糾弾させておきながらそれでいいのだろうか。
【ペドフィリアベイティング】
まあそれでも、単に無害で透明な水フェチたちが居場所を獲得する話なら嘘臭さ、不徹底さは感じつつも別によかった。
しかし、前述の欺瞞性を際立たせるようなことをこの作品は敢えてしてしまっている。
劇中に小児性愛者が登場するのだ。
本作のクライマックスではオフ会のために集まった水フェチたちが小児性愛者と誤解され警察に逮捕される。
理由としては水場で遊んでいた男児の姿を撮影したためであり、発覚するきっかけはメンバーの中に本物の小児性愛者、且つ少年相手の性犯罪を働いた男が混じっていことだ。この展開を成立させるため以外で小児性愛者が劇中に登場する必然性はない*3。
逮捕という水フェチたちの最大の危機は、劇中における小児性愛者のマイナスイメージありきで成立したものなのだ。じゃあやっぱ小児性愛者の方が正しくない性欲ってことじゃん。何でそっちをメインにしないの?
小児性愛は水フェチたちが誤解されるためのダシでしかなく、また、誤解でない本物の小児性愛者は有害性を発揮した犯罪者しか登場しない。正しくない性欲のままだ。
もちろん、水フェチたちが自分たちはよくて小児性愛はダメなどと言っているわけではないし、劇中に登場する小児性愛者が現に子供に手を出してしまった男一人だというだけで小児性愛を否定しているわけじゃない。作品を象徴する「この世界にあっちゃいけない感情なんてない」という台詞には小児性愛だって包含されているというのも、理屈としては成り立つと思う。
しかしそれはあくまで理屈だ。対してフィクションは印象だ。理屈で留まるならそもそもフィクションなんか作らずに現実で議論していた方がいい。
正欲になれない水フェチたちが無害に、小綺麗に自己実現していく物語で、正欲からはさらに遠く、有害な実践をしてしまった犯罪者という形でしか描かれなかった小児性愛者の印象はどうだろうか。
善玉は顔がよく、悪人はブサイクという描き方をしながら脱ルッキズムを唱えている、そんな印象の作品だ。
そして、こんな根本的な瑕疵があるにも関わらず『正欲』は間違いなく傑作と言えるのが作家・朝井リョウの恐ろしさなのかもしれない。
バービーは現実のお人形か?/映画『バービー』感想
映画『バービー』を見た。事前に原爆とかラストの産婦人科の意味とかあれこれノイズも耳に入っていたのだけど、見てから思い出したのはこのツイートだ。
映画、バービー観た。最初の方はお洒落だし可愛いし笑いながら観てたけど後半になるにつれてだんだん冷めていった。なんか強烈なフェミニズム映画だった。男性を必要としない自立した女性のための映画。こんなの大ヒットするアメリカ大丈夫なの? pic.twitter.com/hNqkOQy0By
— 奥 浩哉 (@hiroya_oku) 2023年8月11日
強烈なフェミニズム映画なのは冒頭のナレーションの時点で明らかだったと思うが、それはそうと正直この意見も部分的にはわからなくもない。
全体のストーリーは概ね文句ないし楽しかったが、後半になってそれまでとトーンが変わったように感じるのもたしかだ*1。
この映画では現実世界と別にバービーランドなる世界が存在していて、バービーと、その恋人役の男性キャラクター・ケン*2たちが概ね仲良く暮らしている。
現実世界の人間の思念が影響して足が扁平になる、セルライトができるといった異常に見舞われたバービーは思念のもととなった少女を探し、ケンと共に現実世界を訪れる。
目当ての少女を見つける(実際の思念の主はその母親だったのだが)ものの、自分は愛されていると当然のように思っていたバービーは、少女の口からバービーは唾棄すべき存在、女性を性的客体として貶めたフェミニズムの敵だと罵声を浴びせられることになる。
一方のケンは「バービーの彼氏役」というバービーありきの存在だった自分たちケン≒男性が現実では社会の主導権を握っているのを知ってバービーランドも斯くあるべしとマチズモに目覚める。
結果、女性の女性による女性のための世界だったバービーランドは一転してケンが支配する男系国家ケンダムとなるのだが、現実からやってきた少女と母親はバービーたちに戦うことを説いていき、バービーランドを舞台に男女の階級闘争が幕を開ける……。
奥浩哉の言った通り「強烈なフェミニズム映画」なのだが、前半に関しては同氏も「お洒落だし可愛い」と称賛している。
冒頭から直球のフェミニズム言説はあるものの、その後は「お人形の世界」として極端に戯画化されたバービーランドの描写に始まり、現実世界を訪れてからの男系社会の描写もよくも悪くもギャグ的だ。
この非現実性によって現実を想起させる具体的なフェミニズムと距離を置き、現実でアンチフェミの観客も「笑いながら観」られるものになっている。
それが後半になるとお人形の世界は「現実」へと肉薄する。
ケンダムではバービーたちの独占していた大統領、大臣、医師弁護士学者といった要職はごっそりケンたちに奪われ、バービーたちはケンのトロフィーやマンスプレイニングの客体でしかなく、さらに、当の彼女たちまでもがその状態を楽しみ、知識階級だったはずのバービーは頭使わなくていいって最高みたいなことを宣う。
そんな彼女たちに、現実からやって来た母娘は女性の窮状とエンパワメントを訴え、次々に洗脳から解放していく。
このシーンを見て思ったのは、「それって現実の話じゃない?」だ。
現実でフェミニズムに女性が賛同するのは、実際に男系社会で貶められ、男に従属させられてきた経験が多かれ少なかれあるから、個人の経験としてはそれほどでないとしても他の多くの女性がそうした目に遭っているのを知っているからだろう。
しかし、バービーたちはケンダムでの扱いを楽しんでいる。
もちろん、あの体制が続くにつれて楽しいだけでなくケンからの屈辱的な扱いも含むこと、それに抗う権利までもケンに奪われていることに気づくバービーは出るかもしれない。
でも、それは自分たちで楽しくないと気づく過程を描かなきゃダメじゃない?
自分たちは全然苦を感じていない状況に対して女ってこんなに惨めなんだと言われても、彼女たちからしたら「は?」じゃないだろうか。
また、その前段階の、バービーたちがケンに支配されるのを楽しんでいるというところにも疑問がある。
あれは現実でも男性優位の価値観を内面化している女性が多いことのメタファーだろう。
しかし現実でそうした女性が多い最大の要因は、「そういう社会で育ったから」のはずだ。
人間はもともとの環境を正しいものと見なす習性があるし、男系社会の理不尽さは端々で感じながらも概ね慣れてしまい、自分の人格に深く根を張っている価値観にわざわざ逆らうほどのモチベーションは湧かない。社会がなかなか変わらないのは人間が基本的に保守だからだ。
でも、バービーランドはずっと女尊男卑社会だった。
インテリバービーたちは自分たちの学識や任された立場を誇っていた。それを突然ケンに奪われたのだ。何の抵抗もなくその後の「ケンの女」としての生き方を満喫できるなんてことあるだろうか*3。
この映画のモブバービーは、ケンが今日から俺たちの天下だと言えば即彼らの女に成り下がり、その後彼女たちに実感があるとは思えない女の苦しみを吹き込まれて突然フェミニズムに目覚める、まるで個々の人格を感じられない描き方をされている。それこそ着せ替え人形のように。
この映画は、「お人形のバービーが現実同様の自立した人格の女性になる」という明確な流れがあるのだが、その映画でバービーたちがフェミニズムへの目覚めにおいてすらお人形にしか見えないのではメッセージは台無しなのではないか。
フェミニズム自体に反発する層がたしかにいる以上、フェミニズムを描くのが悪いと言っているのではない、というのはすっとぼけに近いかも知れない。
ただ、フェミニズムに限らずフィクションに現実的なメッセージを持ち込む際、それがあくまで作中世界から出た言葉であるように作中世界を作らなければ、メッセージは物語から浮いたただのメッセージになってしまう*4。それなら、現実で現実の問題について直接メッセージを発した方がずっと誠実だろう。
バービー人形で遊ぶ現実の女の子を題材にフェミニズムをやることはできても、バービー人形の世界というものを出してそこでフェミニズムをやるにはいくつものステップを踏む必要があるのではないか。それを怠った映画に見えた*5。
*1:もちろん反感の要因として奥浩哉が単純にアンチフェミなのはあるだろうけど
*2:自分のようなバービーに詳しくない人のために言うと、少数の例外を除いてバービーランドでは女性≒バービー、男性≒ケンであり、これまでに発売された商品のバージョンの数だけ多様な容姿、人種、職業のバービーやケンが存在するらしい
*3:バービーランドの国家運営が現実同様に大変な難事でケンダムの樹立で全ての労苦から解放されたならまだわからないでもないが、死も災害も犯罪者も恐らくいないあの世界でそんなことはないだろうし、そもそもバービーランドは毎日飲めや歌えやの暮らしだった
*4:例えば『黒博物館 三日月よ、怪物と踊れ』では19世紀イギリスを舞台にフェミニズムをやるべくフェミニストの走りと言われる女性を母に持つ女性作家メアリー・シェリーを主人公に据え当時の女性にまつわる言説への丹念な取材の上に描かれている。
*5:ここまで言っておいてなんだが、全体には面白い映画だと思う。見ていて楽しいし、男尊女卑社会を女尊男卑社会に戻しかけたところで男女が手を取り合う形に落ち着き、ケンがバービーを踏み台にした男らしさから降りた一個人として歩み出す結末は男性の在り方としても現代的だ。
きっちりクィア映画にして欲しかった/映画『怪物』感想
映画『怪物』を見てきた。
感想を一言で表すと「要素は面白いが面白い映画ではない」という感じだ。
この映画は二つの要素で成り立っていて、それぞれがタイトル「怪物」にかかっているのだけど、その二要素のミスマッチがこの印象の要因ではないかと思う。
【ミステリ映画『怪物』】
二つの要素とはミステリ映画の側面とクィア映画の側面だ。
まず前半はミステリとして進行する。
クリーニング店を営む麦野早織は息子・湊が学校でイジメられているのではと疑い学校に説明を求めるが、校長及びイジメを行ったとされる担任教師・保利に不誠実な対応をされた上、さらに湊が同級生の星川依里をイジメていたのだと言われる。
早織はその星川のもとを尋ねるが、湊が彼をイジメていたという印象は持てないまま、事態は学校側の謝罪会見を経て、湊が保利に階段から突き落とされた、というところまで発展する。
その後、視点人物が沙織から保利へ移り、前半の舞台裏が描かれる。
保利は色々落ち度はあるものの早織の印象ほどにひどい人間ではなく、イジメ疑惑は偶然と誤解の産物だった。
しかし釈明の機会も与えられず、教え子をイジメた上に抗議する母親をせせら笑った最低の教師として追い詰められていき〜というストーリーだ。
前半において「怪物」は「自分から見える情報だけで他人を怪物呼ばわりすること」を意味しているように感じた。
学校側の不誠実な対応(実際、全てを見た上でも対応は最低だと思う)に憤った早織は校長はじめその場の教師陣を「あなた人間ですか?」と罵倒するのだけど、その後は実際にちゃんと人間である保利や校長が掘り下げられていく。
真相開示においても保利は勝手に自分がやったと判断した学校の保身や下世話な好奇心で追い詰められていくので、人間を怪物に仕立てる≒断片的な情報で事の真相や人物像を決めつけることの罪深さ、というテーマには十分に説得力があってよかった。
ただ、問題はこの前半が後半・クィア映画としての部分とあまり関係ないことだ。
【クィア映画『怪物』】
後半は視点人物が校長へと移っ……たかと思えば彼女はすぐに脇役となり、湊と星川の物語が展開する。
このパートでは「前半のあの出来事は実は〜」という種明かし部分もないではないが、それよりも二人の関係性の芽生えと変遷に重点が置かれている。
後半における「怪物」の意味は「クィア故に親や同級生から怪物呼ばわりされる星川佑里」だ。
(同性愛とか性同一性障害とか名言はされないが、クィア映画に贈られる賞を受け取っている以上制作側もクィアのつもりなのは間違いないのだろう)
ミステリ的な面白さは薄めだが、個人的にはこちらの方が断然好きだ。
二人の子役の演技も本当によかったし、容姿も非常に好みだった。『万引き家族』でもあったけど男子小学生が勃起したと仄めかすくだりは興奮した。映像の美しさや二人だけの秘密の場所である廃バスというロケーションもたまらなく魅力的だった。
この映画について、「監督が『この映画はクィア映画ではない』と発言しておきながらクィア映画の賞を受け取っている」との批判があり、発言についてはネットの記事くらいしか確認していないのであまり言えることはないが、「発言が本当だとしても『あくまで映画を成り立たせるための設定でクィアを描くのが主眼ではない』って意味なら別にいいんじゃない?」(賞は受け取るなよというのはまあわからんでもないけど)と思っていた。
ただ、実際に映画を見てみるとこの映画はクィア映画として十二分に魅力的だったと思うし、それだけに、前半のミステリ要素が邪魔に思えてしまった。
一本の映画として、前半と後半はあまり関係がない。
前半の主眼は「保利が湊をイジメていたと思われたが実は〜」で、後半の主眼となる湊と星川の関係性、星川のクィア性について、特に何か怪物呼ばわりするような雰囲気はないからだ。
(前半でも早織の「湊はいずれ結婚して家族を持つ」という決めつけや保利の「男なら〜」というジェンダーロール強要といった後半への布石らしき要素は散見され、こういう決めつけがクィアを怪物にするのだと言おうと思えば言えなくもないが、やはり保利へのイジメ疑惑に比べると弱く、取ってつけた感は否めない)
後半は完全に二人の世界であり、前半の主人公だった早織と保利は終盤には何ら関わってこない。
この前半と後半が分離した感覚、前半の構造が物語全体の完成に寄与しないあたりで、二人の恋物語で二時間保たないからミステリ要素で尺を稼いだかのような印象を受けてしまった。
(校長が孫を轢き殺したが夫が身代わりになった疑惑だとか冒頭のビル火災の真相だとかも示唆されこそすれ明言はされず、これらがあることで物語が面白くなっていた気もしない。無駄に複雑にしているだけだ)
あくまでクィアではなくミステリ映画のつもりにせよ、ここまでクィアという設定に存在感を持たせたならクィアや二人の関係性が真相の核心となるよう構成すべきだったと思う。保利がイジメてただのどうのはどうでもいい。
コンセプトが統一されていない、二つの怪物の歪なキメラ、そういう印象の映画だった。
ちゃんとマリオブラザーズを描け/『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』感想
『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』を見た。
マリオ、滑ってんなあって思うギャグで隣の席から笑いが起こり、眠いなって感じだったのに終わったら拍手が発生しもうあそこで泣いちゃったとか俺は映画を見たんじゃないマリオをプレイしたんだみたいに喋ってる客がいて俺だけがキノコ王国に迷い込んだ人間の気分だな……になった。
— 産の光 (@Sunlightshower) 2023年4月28日
率直な感想はこういう感じで、理由としては上述のギャグの寒さとか、映像面はまあ綺麗だけど現代の技術でマリオをアニメにしましたの域を出ないというか、おどろかされるような表現があるとか物凄く爽快で楽しいとかじゃなかったのもあると思う。
ただギャグの合う合わないは個人差が大きいしアニメーションにケチをつけるには知識がなさすぎるため、この記事ではストーリー面にケチをつけようと思う。
【マリオブラザーズの映画じゃない】
『ブラザーズ』と入っている通り、この映画はマリオとルイージが主人公だ。
二人はブルックリンの配管工だった序盤からダメダメで元上司からも家族からも軽んじられているが互いを思う気持ちは非常に強い兄弟として描かれている。
この兄弟が助け合ってクッパに立ち向かうストーリーであれば文句はなかったと思う。
問題は、『兄弟の映画』していたのが序盤と終盤だけだったことだ。
土管を通ってスーパーマリオ的世界に飛ばされた時点で二人は離れ離れとなり、クッパに捕まったルイージを、マリオがピーチ姫やキノピオ、ドンキーコングの助力で助け出すというストーリーになっている。
それってただの『スーパーマリオ』じゃない?
『スーパーマリオ』が『スーパーマリオブラザーズ』となる、ルイージがマリオのパートナーに返り咲くのは終盤の決戦時のみであり、スターを手に入れたことでマリオと無双するのだけど、それはスターを取ったからに過ぎない。マリオのように特訓も冒険もルイージはしていない。基本的にピーチ姫ポジションだ。
兄弟が主役の映画でそれはダメじゃなかろうか。
また、それでもピーチ姫ポジションとして、クッパにルイージを奪われる場面を悲劇的に演出し、囚われのルイージもマリオと再会すべくあれこれ奮闘しているとかちゃんと描ければルイージを助ける映画として成立したのかもしれないが、そういう見方もできなくはないにせよ上手くいっているとは言い難かった。
だって、劇中のルイージはクッパに囚われている連中の一人でしかないし、クッパパートでルイージが出ている時間もそこまでないし、映画のメインとなる中盤において、マリオに比べて存在感が著しく希薄なのだ。
こういったところから、ちゃんとコンセプト通りに描けておらず、映画からカタルシスを得ることができなかった。
【ドンキーコング不要論】
『すずめの戸締まり』のレビューで「映画ではいたずらに要素を増やすとほぼ失敗する」と書いたが、今回の映画でいたずらに要素を増やしている大きな要因がドンキーコングだ。
クッパとの決戦に向けて戦力増強のためにサルの王国(?)に助力を求め、マリオがそこの王子たるドンキーコングと対決して勝利し、王にも認められ〜という過程を経て仲間になるのだけど、この映画にこいつが必要だとは思えなかった。
基本的にマリオワールドのキャラクターではないのだし(マリオがもともとドンキーコングに登場したキャラだと言ってもそれはキャラクターアイディアの原点に過ぎずその後の作品において世界観の繋がりがあるわけではないだろう。ないよね?)、ドンキーコングの役割は仲間その3程度というか、道中マリオと通じ合って慰める場面もあるが、それくらいの役目は別にピーチ姫でもキノピオでもこなせるだろう。
この映画の尺は正味90分弱だと思うが、ドンキーコングを出すために多分15分くらいは消費している。その尺でルイージをもっと描くべきだった。
【あるべきザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー】
自分ならどうしたかというと、まずドンキーコングは抹消する。どうしても出したいならペンギンと一緒にクッパに征服された国の捕虜としてでも映して終盤で檻が壊れるとかして背景でノコノコクリボー相手に無双とかしたあとクッパにワンパンされるくらいでいい。
今作では現実世界から迷い込んだマリオたちだが、この設定も今作と実写版だけでゲームでは基本あの世界の住人なのだろうし、そっちの方がわざわざ現実世界を描く尺も省けるしいいと思う。(現実世界出身設定にせよ今作のピーチが現実世界で誰の子だったのかなど掘り下げられていないようにマリオたちもそれでいいのでは)
基本的なストーリーは、原作通りクッパに囚われたピーチ姫を救出する、でいい。
マリオとルイージは二人共彼女に惚れていて、ダメダメな二人が手を取り合い救出のために奮闘するが同じ相手に惚れているため兄弟の間に初めて対立が生じて……という話にもできる。異性との恋愛をダシに同性関係を描く作品は珍しくないが、ピーチ姫をダシに兄弟の話を存分に描き、救出後ピーチ姫はどっちにも興味がなかったみたいにすれば丸く収まるのではと思う。
また、今作のピーチ姫は無力なお姫様という旧来的ジェンダーイメージを払拭するためかマリオより強くて有能なキャラになっているが、このストーリーであってもそのようなキャラに描くことは可能だろう。
キノコ王国を守るためにクッパに従ったふりをしつつ実はクッパを倒すために動いていて〜という形にすれば、正面からクッパを倒そうとするマリオルイージと内側からの崩壊を画策するピーチ姫でより面白い話にできたのではないか。ドンキーコングもいないし。
私はあまり楽しくなかったが、この映画が何となく楽しい作品であるのはわかる。わかるが、もっとストーリーを洗練させればもっと効果的に楽しくなれる映画だったのではないか、そんな気にさせられた。
要素が多い映画はほぼ駄作/『すずめの戸締まり』感想
『すずめの戸締まり』を見た。駄作だった。『君の名は。』『天気の子』はそれなりに好きだし、廃墟に佇むドアを開けようとする少女、というビジュアルからくる期待感はむしろ過去No.1だったので裏切られたという気持ちでいっぱいだ。
駄作な理由は一言で言えば要素が多すぎることだ。
連載漫画なんかはともかく映画や小説など作品全体を短時間で一気に摂取するタイプのフィクションでは、要素が多いというのはそれだけで駄作である確率が高いと思う。
ネームドキャラが多ければ全員を掘り下げて関係性を作りドラマ役割を与えるのが難しくなるし、扱うモチーフが多ければそれぞれの物語上の意味が掴みづらくなる。
この作品はまさにその失敗の典型だ。
【超常要素を削れ】
本作は大地のエネルギーが噴き出して地震を起こす扉「後ろ戸」を閉じる使命を帯びた青年・草太と、エネルギーを封じる要石なるものを引っこ抜いてしまった少女・すずめが、猫に変身して逃げていく要石(劇中ではダイジンと命名される)を共に追いかけるというストーリーだ。
ダイジンの魔法(?)で母の形見である椅子に変えられてしまった草太を抱えて旅をするすずめは行く先々で現地の人と交流し、後ろ戸を閉めて地震を阻止し、最終的には関東大震災の再発を止めるべく要石となってしまった草太を救うため、自分が東日本大震災で母を亡くした生まれ故郷へ立ち寄り、後ろ戸を通って常世(死後の世界的なところらしい)へと足を踏み入れる……。
神道っぽい世界観の超常現象を軸に展開するのは『天気の子』『君の名は。』も一緒だが、前の二作は今作に比べて圧倒的にシンプル*1に魅力ある展開(男女の入れ替わり→少女が死んでいることが発覚、晴れを呼ぶ能力を持つ少女→反動で東京が水没するほどの豪雨に)が作られている。
今作も、少女と青年が不思議な扉を閉める旅をする、と一言で書くと魅力的に思えるが、そこに付随する超常存在が無駄に多い。無駄、というのは面白さに寄与していないということだ。
今作の超常要素のうち、映画のコンセプト上必要だと思えたのは異界へ繋がる扉だけだ。
扉が別の世界に繋がっているという設定は、扉の基本的な機能(二つの空間を隔て、そして行き来する者のために開け放たれる)と直結しているし、母の死を引きずっていた少女が再出発するというテーマ的な意味とも繋げやすい。
後は全部いらない。
大地のエネルギーで地震が起きなくていいし、地震を沈める要石が猫になって逃げる必要はないし草太が椅子にされる必要はない。
地震は、すずめが東日本大震災で親を亡くしている設定もあって物語の根幹を成すようにも思えるが、はっきり言ってその部分に全く価値を感じなかった。
こう言うと被災者のトラウマを軽んじるようで失礼かもしれないが、地震というか自然災害は、戦争や今まさに世界を覆うコロナウイルスに比べて物語のモチーフ力は弱いのではないかと思う。震災直後ならまだしも十年以上を経た今取り上げられても別に……という感じだ。
劇中で何かしらの災いを防ぐストーリーにするなら、あの扉が開くことで常世と現世が繋がってしまう、この世も死者の世界になってしまうとかそういった形にすべきだったのではないか。扉のモチーフ性から直感的に連想しづらい地震という災厄は、阻止することに物語的な意味を感じづらかった*2。
草太が変身させられ、扉に次いで重要な小道具に使われていそうな母の形見の椅子だが、これも何なのだろうと思わされた。
椅子というモチーフは腰を下ろして体を休めることのできる安心感、慣れ親しんだ自分の部屋、扉の“出発”と対応させるなら“停滞”というネガティブなテーマ性を読み取ることも可能かもしれない。かもしれないが、それは劇中でそうであるとはっきり描かなければ意味がないと思う。
三本足の椅子になった草太が椅子の状態でとっとこ駆けていく姿はカートゥーン的な面白さがあるし美青年が椅子になっている間の抜けた愛らしさなどもまああるのだけど、それもドラマ的な意味がないというマイナスを覆せるものでは到底なかった。
【価値がないものを守られてもしかたない】
今回の映画において主人公たちの主目的は地震を未然に防ぐことだ。中盤では発生すれば万単位の死者が出ただろう東京での震災を阻止しており、少女一人を救うために東京を水没させた『天気の子』は言うに及ばず、救った人名で言えば『君の名は。』よりもずっと多いことになる。
ただ、今回の映画が問題なのは、そのことに全然価値を感じないことだ。地震を絶対に起こしてはいけないという気にならないし、地震が起きなくてよかったと別に思えない。
フィクションの出来事は根本的に他人事だ。架空の世界で地球が滅亡しようと知ったことじゃない。
『君の名は。』の真相が衝撃的だったのはそれが三葉や彼女の家族友人の死を伴って発覚するからだし、『天気の子』の雨が止まず水没していく東京においヤベえよという気持ちになるのは、そこに穂高や陽菜の暮らす場所として愛着が湧いていたから(逆説的に、それが東京を犠牲にするラストの決断を引き立てている、観客にとって価値あるものを切り捨てたのだから)、キャラクターに価値があるから彼らの生命や生活を脅かされてハラハラするし、救われてホッとする。『すずめの戸締まり』を見てそんな気持ちにはなれなかった。
【何が言いたい話なの?】
要素が多いから失敗したと書いたが、その要素の多さが生んだ感想を一言で表すとそうなる。これって何が言いたい映画だったのと。
いや、何が言いたいかはわかる。だって劇場特典の小冊子でも劇中でもはっきり明言してるから。
ただ、作品自体がそれを具現化した作りになっていない。だから言ってるテーマに実感が湧かない。それが言いたい映画に見えないのだ。
小冊子によれば本作は「生きて帰りし物語」らしい。日常の対極の世界を経て日常に帰ることで生きていることの確かさ、安心を得るのだという。ただ、すでに書いたように今作を得てそんな安心は感じなかった。
すずめの成長も大きなテーマだとパンフレットにもあったし劇中でも前面に押し出しているのだが、これもよくわからない。彼女の成長を表す記号として扉というモチーフ、そこを潜って出発する姿が描かれているわけだけど、じゃあ物語序盤の彼女はずっと塞ぎ込んでいたとかなのか。そんなことはない。母を亡くした悲しみから周りの人に心を開いていないのか。そんなことはない。友達は普通にいたし、通学途中ですれ違い、何か見覚えある気がするだけのイケメンを学校サボって追いかけるほどに彼女はアグレッシブだった。彼女には何が欠けていて物語の何が彼女を成長させたのだろう。わからなった。*3
終盤、すずめは常世で出会った昔の自分に対して、「あなたは大丈夫だよ」「今目の前が真っ暗闇に見えても光の中で大人になっていくんだ」みたいに説いている。
それは劇中においてはいずれ母を喪った悲しみからも救われるとわかっているからなのだろうけど、これが現実を生きる観客へのメタ的なメッセージなのは明らかだ(小冊子でもコロナに言及しているし、企画段階でパンデミックが発生していた時期なことがわかる)。
その上で言うとよくこんな薄っぺらいこと言えるなと思う。今人類を覆うコロナは収束の兆しも見えず恐らく半永久的に人類社会を支配するだろうし、それに起因する不自由、閉塞感も画期的なブレイクスルーでもない限りは解消されないだろう。そんな状況をリアルに生きている人々が、あんな楽天的な言葉を聞いて希望を持てるのだろうか。
こんなにわざとらしくメッセージを言語化して、かつそれが何の説得力も宿っていない。無様な映画だと思う。
『BLACK SUN』の和泉葵は何がダメだったのか
今回も『仮面ライダーBLACK SUN』の話だ。
『BLACK SUN』の無限のツッコミどころの中で最も槍玉に挙げられやすいのが差別周りではないかと思う。
怪人の設定とかはあくまでフィクションとしての粗だが、差別は「現実」に属するからだ。
現実の差別エピソードのパロディが多数登場するのもそうだし、9話の「画面の向こうでシラケた顔してこれを見てるあなた」という言葉は作中においては動画視聴者に向けてだが、間違いなくBLACK SUN視聴者をメタ的に指している。
現実の問題である差別を取り扱いながら描き方が極めていい加減なことでBLACK SUNは顰蹙を買った。安倍麻生パロも同様かもしれない。
それはもう散々言い尽くされているし、自分はパロディ元と思しき現実の在日朝鮮人差別や黒人差別について全く詳しくないし、だから言えることなどないと思ったが一つ考えたことがあるので書いておこうと思う。
それは本作の主人公・和泉葵についてだ。
【和泉葵の立ち位置と変遷】
本作は和泉葵が国連でのスピーチで怪人との共存を訴える場面から始まる。
怪人の少年とも友達で怪人差別撤廃を訴えるデモにも参加し、差別主義者ともバチバチにやり合う。
彼女は1話で怪人に襲われかけて南光太郎と出会い、怪人にされた父親に殺されかけ、自身も怪人に改造され、怪人の友達を殺され、9話では怪人誕生の真実を暴露すると共に改めて「差別は生まれてきた喜びを奪う行為だ」と演説し、10話での光太郎の死を経て、在日外国人を始めとする差別される子供たちに殺人の技術を仕込んでいる……という反応に困る姿を描かれて物語を終えることとなった。
和泉葵の物語上のポジションは『脳内お花畑の理想家』だろう。
現実が見えていなかった理想家が現実を知り……というのは古今東西よくあるフォーマットだろうし、嫌な言い方をすれば『世間知らずのメスガキに現実をわからせたい』という欲望もあるのだと思う。
ストーリーライン上、実際に「現実を知った」と思しき経験をする。そのことで何かが変わったのか。答えとしては何も変わっていないと感じた。
葵の何が変わらなかったのか、何故変わらなかったのか、どう変わってほしかったのかというのがこのテキストのテーマだ。
【差別はダメ、の先は?】
葵のスタンスは基本的に「差別はダメ」一辺倒だ。
差別はダメなのだが、葵の問題点はダメとひたすら叫ぶだけで止まっていること、差別をなくすためにどうしていけばいいかを掘り下げないところにある。
もちろん葵はただの中学生で行政や福祉の人間じゃないし、怪人差別を是正する取り組みができる立場にはそもそもないのだけれど、それでも活動家として差別への考えは深めることができたはずだ。
考えを深めるにも色々あるだろうけど、筆者が必要と感じたのは差別主義者への共感だ。
物語中盤、葵は自分自身が怪人にされてしまうのだがそのことに強い拒否感を示し、その後の戦いでも他の怪人がやっているように怪人態に変身して能力を発揮することを躊躇っている。*1
これによって葵は何かスタンスが変化したのか、何もしていない。9話の演説でも、自身の差別感情を認めつつ差別はダメ、と叫ぶだけで終わっている。
葵は、自分の差別感情を自覚したなら差別する側に寄り添うべきだった。
劇中の怪人差別派は井垣を筆頭にひたすら嫌悪感を煽るように描かれているが、井垣も怪人差別をするきっかけがあったのかもしれない。怪人に家族を殺されたみたいなわかりやすい契機はなくとも、どういう心理で彼は怪人差別を煽っているのか、描こうと思えば描けたのではないか。
差別する側への寄り添いというのはともすれば差別の正当化や維持に傾きかねないが、犯罪に至る背景を知らずに犯罪を減らせるとは思えない、差別も同じことだと思う。
井垣が「あなたの隣りにいるのもひょっとしたら怪人かもしれませんよ」と叫ぶ場面があるが、葵は隣に怪人がいる恐怖に寄り添うべきだった。怪人は人間にない能力を持っているし怪人態の姿も醜い。それが日常に潜んでいる恐怖や嫌悪感を認めるべきだった。
その上で、その差別感情が実際に怪人を害さないようにする、内心で嫌悪感を持っているからと言って害していいことにはならない、人間同士がそうであるように、と差別主義者たちに説くべきだった。
葵は内なる差別を自覚してなお糾弾一辺倒のスタンスを変えないし、そのスタンスのまま手段を暴力、そのために自分よりずっと幼い子供たちに殺人スキルを仕込むという許されない道へと走ってしまった。
政治家を目指すだとか、穏健な道、現実的な手段として差別に立ち向かう選択肢を取れず、極端で幸せになれない道を選んだのは糾弾しかさせてもらえなかった故ではないかと感じる。
そして、これはひたすら描写を過激化していくだけでそもそもこの世界における怪人差別のメカニズム、怪人はどんな存在かを作り込んでいないという作品全体のスタンスとも繋がる。被差別層の彼らはそもそもどんな存在なのか、という部分が欠落しているのに差別について建設的な描き方はできないだろう。
仮面ライダーBLACK SUNはもっと差別を派手に、ではなく丁寧に地に足を着けて描くべきだった。仮面ライダーBLACKのリメイクをしつつそんなことやってられないというのならそもそも差別なんてBLACKにない要素をわざわざ持ってくるべきではなかった。そう思う。
『BLACK SUN』の和泉葵は何がダメだったのか
今回も『仮面ライダーBLACK SUN』の話だ。
『BLACK SUN』の無限のツッコミどころの中で最も槍玉に挙げられやすいのが差別周りではないかと思う。
怪人の設定とかはあくまでフィクションとしての粗だが、差別は「現実」に属するからだ。
現実の差別エピソードのパロディが多数登場するのもそうだし、9話の「画面の向こうでシラケた顔してこれを見てるあなた」という言葉は作中においては動画視聴者に向けてだが、間違いなくBLACK SUN視聴者をメタ的に指している。
現実の問題である差別を取り扱いながら描き方が極めていい加減なことでBLACK SUNは顰蹙を買った。安倍麻生パロも同様かもしれない。
それはもう散々言い尽くされているし、自分はパロディ元と思しき現実の在日朝鮮人差別や黒人差別について全く詳しくないし、だから言えることなどないと思ったが一つ考えたことがあるので書いておこうと思う。
それは本作の主人公・和泉葵についてだ。
【和泉葵の立ち位置と変遷】
本作は和泉葵が国連でのスピーチで怪人との共存を訴える場面から始まる。
怪人の少年とも友達で怪人差別撤廃を訴えるデモにも参加し、差別主義者ともバチバチにやり合う。
彼女は1話で怪人に襲われかけて南光太郎と出会い、怪人にされた父親に殺されかけ、自身も怪人に改造され、怪人の友達を殺され、9話では怪人誕生の真実を暴露すると共に改めて「差別は生まれてきた喜びを奪う行為だ」と演説し、10話での光太郎の死を経て、在日外国人を始めとする差別される子供たちに殺人の技術を仕込んでいる……という反応に困る姿を描かれて物語を終えることとなった。
和泉葵の物語上のポジションは『脳内お花畑の理想家』だろう。
現実が見えていなかった理想家が現実を知り……というのは古今東西よくあるフォーマットだろうし、嫌な言い方をすれば『世間知らずのメスガキに現実をわからせたい』という欲望もあるのだと思う。
ストーリーライン上、実際に「現実を知った」と思しき経験をする。そのことで何かが変わったのか。答えとしては何も変わっていないと感じた。
葵の何が変わらなかったのか、何故変わらなかったのか、どう変わってほしかったのかというのがこのテキストのテーマだ。
【差別はダメ、の先は?】
葵のスタンスは基本的に「差別はダメ」一辺倒だ。
差別はダメなのだが、葵の問題点はダメとひたすら叫ぶだけで止まっていること、差別をなくすためにどうしていけばいいかを掘り下げないところにある。
もちろん葵はただの中学生で行政や福祉の人間じゃないし、怪人差別を是正する取り組みができる立場にはそもそもないのだけれど、それでも活動家として差別への考えは深めることができたはずだ。
考えを深めるにも色々あるだろうけど、筆者が必要と感じたのは差別主義者への共感だ。
物語中盤、葵は自分自身が怪人にされてしまうのだがそのことに強い拒否感を示し、その後の戦いでも他の怪人がやっているように怪人態に変身して能力を発揮することを躊躇っている。*1
これによって葵は何かスタンスが変化したのか、何もしていない。9話の演説でも、自身の差別感情を認めつつ差別はダメ、と叫ぶだけで終わっている。
葵は、自分の差別感情を自覚したなら差別する側に寄り添うべきだった。
劇中の怪人差別派は井垣を筆頭にひたすら嫌悪感を煽るように描かれているが、井垣も怪人差別をするきっかけがあったのかもしれない。怪人に家族を殺されたみたいなわかりやすい契機はなくとも、どういう心理で彼は怪人差別を煽っているのか、描こうと思えば描けたのではないか。
差別する側への寄り添いというのはともすれば差別の正当化や維持に傾きかねないが、犯罪に至る背景を知らずに犯罪を減らせるとは思えない、差別も同じことだと思う。
井垣が「あなたの隣りにいるのもひょっとしたら怪人かもしれませんよ」と叫ぶ場面があるが、葵は隣に怪人がいる恐怖に寄り添うべきだった。怪人は人間にない能力を持っているし怪人態の姿も醜い。それが日常に潜んでいる恐怖や嫌悪感を認めるべきだった。
その上で、その差別感情が実際に怪人を害さないようにする、内心で嫌悪感を持っているからと言って害していいことにはならない、人間同士がそうであるように、と差別主義者たちに説くべきだった。
葵は内なる差別を自覚してなお糾弾一辺倒のスタンスを変えないし、そのスタンスのまま手段を暴力、そのために自分よりずっと幼い子供たちに殺人スキルを仕込むという許されない道へと走ってしまった。
政治家を目指すだとか、穏健な道、現実的な手段として差別に立ち向かう選択肢を取れず、極端で幸せになれない道を選んだのは糾弾しかさせてもらえなかった故ではないかと感じる。
そして、これはひたすら描写を過激化していくだけでそもそもこの世界における怪人差別のメカニズム、怪人はどんな存在かを作り込んでいないという作品全体のスタンスとも繋がる。被差別層の彼らはそもそもどんな存在なのか、という部分が欠落しているのに差別について建設的な描き方はできないだろう。
仮面ライダーBLACK SUNはもっと差別を派手に、ではなく丁寧に地に足を着けて描くべきだった。仮面ライダーBLACKのリメイクをしつつそんなことやってられないというのならそもそも差別なんてBLACKにない要素をわざわざ持ってくるべきではなかった。そう思う。