季節がうつろいゆくときに思うこと
久しぶりに晴れた。
朝、太陽が出ているだけでこんなにも気持ちいいのかと思うほどだった。
空へと続く階段があるなら、それを駆け上がってハイタッチをしてみたいと思うほどだった。
しとしとと雨が降りしきる中、肌寒さに首をすくめて急ぎ足で駅に向かうのもいいけれど、やっぱり家を出た瞬間に深呼吸したくなるような晴れの日の方が好きだ。
夏の暑さが、あれよあれよという間に消え去って、駆け足で秋を通りすぎ、師走の慌ただしさへ、季節とカレンダーが一斉にスタートダッシュを切っているようなそんな感じ。
そのスピードに置いて行かれないように毎朝すいと思うのは私だけだろうか。
朝、淹れたてのコーヒーを一口でもいいからゆっくりと飲む。
あまり一緒にいられなくなった年老いた相棒たちを抱き上げては、今日も元気でいてねと願う。
ここ最近近所できれいに咲いている花に目で合図をする。
金木犀の香りを、また1年後も思い出せるように脳裏に刻み込んでいく。
無機質な駅の入り口に流れ込む焼きたてのパンのいい香りを吸い込む。
そうゆうこと、そうゆうことを私は見落とさずに生きていきたいと思っている。
毎日、心穏やかにしてくれるもので胸をいっぱいにしたい。
日々の中で起きる僅かな違いに胸を躍らせたりしながら、一喜一憂していきたい。
こうゆうことを書いていると、ゆったりとした時間軸の中にずっと身を置いておいていた方がいいのかもなぁと思ったりする。
ゆったりと朝起きて、ゆったりと夜までの時間を過ごす。
きっと今よりも、つぶさに色んなことに気持ちを寄せて、時間をかけてすごすことができると思う。
そうして、自分の五感全部を心を寄せるもの対して向けていく。
それは、きっと穏やかで贅沢な時間の使い方に違いない。
でも、そうゆう時間の使い方を私はしないだろう。
なんだかんだ熱く燃えるように、何かを巻き込んで、そのあとに何も残らないようなパワーで、そして、目にも止まらぬ速さで進んで行ってしまいたいと思っている。
それは私が大切にしたい目線を多分正反対のようにも一見思える。
でも、それは戦争のようなあわただしさを送るときこそ、そうゆう視点がより自分にとって大切になるわけで、きっとゆったりとしていたら、その時間の愛おしさにも気づかないかもしれない。
そうやって、季節のことばっかり考えているからか、文章を書くときにも季節について語り始めることのほうがおおい。
それがいいかはわからない。なんだか、別に取り立てて気にすることのないものでもある気がする。
別に会話が弾むこともない。
特に男性陣に、季節の移ろいの美しさについて切々と訴えたとしても、怪訝な顔をされるだけだ(経験談)。
ただ、なんとなく。
ほんとなんとなくだけれど、そうゆうもの大切にしたいなと思う、気持ちを大切にしたい。
季節は、知らぬ間に移りかわっていることの方が多い。だけれども、本当は日々刻々と小さな変化の積み重ねで季節が変わっていく。
きっと、人も、技術も、時代もそうなのではないかと思う。
自分では、コントロールできない大きなうねりの中にいる。
時代に、身をゆだねつつ、自分の流れを持ち続けながら日々を送ることをしたいのかもしれない。
そんなことを季節のはざまでふと思っている。
大人になるということ
大人ってなんだろう。
大人と子供の違いはなに。最近の最大の疑問。
大人気ないとよく言われるから。そして、私も大人だと今でも思えないから。
例えば、電車賃とかアルコールが飲めるとか選挙権とか、そうゆうのは「子供」か「大人」かの違いがわかりやすい。
そうゆう数字的な区分で一見明瞭に分類してもらうと、私は間違いなく「大人」に分類されるだろう。
でも、中身はどうなんだろう。何ができて、何ができなかったら大人?
そんなの誰も教えてくれない。
いつからか、「もう大人なんだから。」と言われる。
そう言われたら、「確かに」と思って、自分を省みるのだけれど、
一瞬「待てよ。」と足が止まってしまう。
別に大人になんて、なりたくてなった訳じゃないし。そんなん言われたって、しょうがないじゃないか、困ってしまうって思ってしまう。
理由もなく、「大人だから」というのは、それが絶対的に正しいように聞こえてしまうという点でずるいよって言いたくなる。
何か、正したりするときには、納得できるように理由をつけて欲しいとかなんやかんやと屁理屈をこねては、指示に対して反発したくなる万年反抗期の私が「出番かな?」って顔を出し始める。
嫌なこと、気に入らないことがあるとすぐ反発してしまう辺り、まだまだ子供だし、直そうと思っていない辺り、年齢とは離れてやっぱり大人には程遠いなと思っている。
じゃあ、私が考える大人ってどうゆうことかと考えてみたのだけれど、
・年齢に関係なく、自分の役割をしっかりと演じられる人
・私情を切り離して、物事の決断・意見ができる人
のことを指すと思っている。
そうゆう人になりたいかと思うと、一瞬戸惑ってしまう。
颯爽と朝になれば自分の役になりきって、そして帰宅したら服を脱ぎ捨てるように自分の役割を終える。それはなんとなく、社会性があってかっこよくも思える。そうゆう人に憧れがないわけではないけれど、きっと疲れるんだろうなぁなんて他人事のように思ってしまうくらいには、まだまだ道のりは遠い気がする。
話は変わるけれど、私の手元には一枚の古い写真がある。
なんかのきっかけで手元にきたのか、はっきりとは覚えていない。ただ、なんかの折に、祖父母の家に訪れたときに、「好きな写真を持っていいよ。」と言われてもち帰ったものだった。
数ヶ月前に、米寿のお祝いをした祖父の20代の頃の写真。
当時は、まだモノクロ写真が主流だったのか、カラーの写真はない。
長身の祖父が、タバコを手にして、歩いている何気ないところを撮った一枚。
ポーズを決めている訳ではなく、あくまで自然な写真。
長身だったからか、身内びいきになってしまい恐縮なのだけれど、どこかの映画俳優のようにも思える。
颯爽と歩く姿には、自信に満ちていて、カッコ良い。
写真に写る祖父は、紛れもなく大人だ。
風貌だけではなく、難しい顔をしているから貫禄がある。
貫禄って、大人であることの説得力のことを指している気がする。大人にだけ許された遊び、食べ物などを経験し、社会の仕組みをそれなりによく知っていて、そして、人生の酸いも甘いも知っているようなそんな人のこと。
祖父の顔は、紛れもなく「説得的」だった。
祖父は、かっこよかった。でも、本当に大人になりたくてなったのだろうか。
時代背景とか、色んな要素が複雑に絡み合って、もしかしたら大人にならざるをえなかったのかなぁとも思ったりもする。
大人になる覚悟や意思がないのに、大人にならざるをえなかった場合、身体に合わないスーツを無理してきて、そして、その反動で家では全裸で過ごして、開放感に浸ったりしたくなったのではないだろうか。
家で威張ることで、外での「大人」の役割を家庭でも持ち込んで「おままごと」のように日常をやり過ごしたのではないか。
そんなことを、老いた祖父を目の前にして思ってしまう。
祖父は、最近とても老いた。年齢のせいだけじゃない。
わがままで、気に入らないことがあると癇癪を起こしたり、自分の好きなものしか食べない。そして、寝ている時間がとても長い。
一方で、笑う時には目尻が下がって、満面の笑顔になる。その表情に邪気がなく、「好々爺」である。写真に撮って、フォトショップで顔じゅうの皺を消してしまえば、赤ちゃんのように映るに違いない。
年老いた祖父は、大人の時期を経て、子供に還った。
その姿を見つめながら、早く大人にならなくても良い現在に少し感謝もしつつ、大人にやっぱりならなくてもいいんじゃないって思う。
子供として生まれて、子供に還るのだとしたら、
ずっと子供でいたっていいじゃない。
思った通りに、ありのまんま生きてもいいじゃないって。
それが、いい意味でいられるなら、それでもいいじゃないって思う。
わがままと言われたってそれでもいいじゃない。
ありのまま行こうよ。
こうして私は今日も会社へと向かう。
秋なのに、夏と見間違うような気温の中で、私はまだ夏に囚われたような気になっている。
でもそれは囚われた気になっているだけで、季節はしっかりと移りかわっていて
毎年、短い時間しか堪能できない金木犀の耽美な香りを今日も胸一杯に吸い込んでいつもの坂を下っていく。
つい1週間前に私は社会人になった。
もう、誰もが、そう私自身でさえも、「お前二の足だけじゃなく、三の足も踏んでるだろ。」って思う位に、社会人になるのに時間がかかった。
社会人になるのに時間がかかりすぎて、「社会人」という言葉に緊張を覚え、本当に社会人になれるのかなんて怖くなるくらいだった。
これは誰かの言葉の受け売りの、そのまた受け売りなのだけれど、
英語に「社会人」という言葉ないのだという。
なるほど、そうなのかもしれない。
「社会人」になることで、私自身は変わらないはずなのに、それでもなんとなくだけれど窮屈になったり、肩身が狭くなったりする気がするのはきっと私だけではない。
それは、見てくれがいいけれど、履くと足が痛いハイヒールに無理やり足を突っ込んでいるようなもので、誰が早く根をあげるかの根比べをしているようなものである。
別に根をあげて、ビーサンに履き替えたからといって、それはきっと取るに足らないのだけれど、皆が皆そろいもそろってハイヒールを我慢して履いている内は、きっとビーサンを履いているだけでは心もとなくなるだろう。
きっと「社会」ってそうゆうものなのだと思う。
そんな訳で、やっと観念して私はハイヒールに足を突っ込むことにしたのだけれど、
ね、皆一体どうしてこれを履き続けていられるのと思う程、痛くて窮屈である。
私の脚は、化学繊維をまとって女性らしい質感の脚になるようにカバーされ、雑踏に紛れ込むと誰も私に気づかないような無個性の堅苦しくて窮屈なスーツに身を包み、毎日なんとなくどんよりとした電車にのり、地上にでることなく、決められた時間に決められた場所へと向かうようになった。
新しいハイヒールを履く時は当然そうなるように、靴ずれが心にも出来る。
慣れない雰囲気、慣れない環境、慣れない人間関係
かすり傷が組み合わさって、バンドエイドを貼るのもバカバカしくなるような靴ずれができる。
もういい大人である。
靴ずれが、そう遠くない内にかさぶたになり、そして、その後数日もすれば、皮がペリリとむけて、傷などなかったかのようになっていくのも知っている。
それなのに、
それなのに、
電車の中で、いきなり思い切り踊ってみたくなったり、
そんな一見ふざけたことを、でもやってみたらとんでもなく気持ちがよいことを
スーツを着てやってみたくなるのはなぜだろう。
偶然同じ電車に居合わせた、同年代やら目上やら年上やらそんな方々の顔を覗き込んで、一体生きがいって、働くってなんですかね?と年甲斐もなく詰め寄りたくなるのはなんでだろう。
働きたくない訳ではない。
ただ、働く前提として、当たり前のように皆と同じ秩序を保つことを要求されるのが嫌なのである。
でも、
それでも、
やっぱり私は明日の朝、鏡に向って仮面を整え、窮屈な服に身を包み、あわない靴に足を突っ込んで
同じ電車で会社へと向かうのだろう。
きつかった靴が足にいつか馴染んでくれることを願いながら。
同時に、きっといつか翻すであろう反旗を心にかかげながら。。。
ね、働くってきっと多分そうゆうことでしょ。
アブラケタブラと言葉の縛りとか
書けと言われたので書いてみる。
この文字の連なりが、どこまで続いていくのかさっぱり訳がわからないけれど、心赴くままに流されていけたらと思う。
”アブラケタブラ”という呪文があって、
それは子どもの頃から慣れ親しんでいる「ハリー・ポッター」の中に出てくるのだけれど(そう、あれがちょうど小学生の頃、ハリー・ポッターの一大旋風が極東でも起こって、まじめそうなスーツを着ているサラリーマンたちまで毎朝通勤電車に揺られながら、あの分厚い本に夢中になっているのを私は子どもごころながらに不思議に思ったのだった)
魔法の杖と一緒にこの呪文を唱えると一撃必殺をばかりに相手の存在まで一瞬にして消してしまえるようなそんな力強い呪文なのである。
そんな言葉にするのもきっと恐れられるような(そして、一度口にしてしまえばその後それをつい口にすることが多くなってしまいそうな)呪文である。
ただ、私達のマグル世界にも、言葉が放たれることで、一瞬にして心をパリンと折ってしまえるようなそんな力強い言葉も存在している。
その言葉を口にすることは簡単で、友達との会話で気軽に使っている場面に出会うし私も機嫌が悪い時には、そんな言葉を使ってしまっている気がする。
でも、言葉を心が重なって人に向けて放たれた時のその衝撃は忘れたくない。忘れられない。
もうこれはずっと忘れられない思い出なのだけれど、生まれたばかりの妹ばかりに両親・親族がかかりきりになっていた時、私は寂しくて注意を向けてほしいがために
「妹なんていなくなっちゃえばいいのに!!」
と吐き捨てたことがあった。
その次の日から、妹は体調を崩し数週間程、入院することになった(もちろん今はピンピンすぎる程にピンピンしているが)。
もしかしたら、私の放った言葉と結果に因果関係はないのかも知れない。
それでも、子どもをびびらせるのには十分な体験だった。
それから、心を言葉に乗せるときは強い言葉を使わないように気をつけている(まぁ、十分口は悪いが、それは愛嬌の一つだと信じたい)。
そんな訳で、言葉が持つ力故に私たちは言葉に縛られながら生きているのではないかと、それを忘れてはいけないのではないかとふとそんなことを思った。
じゃあ、私がここにこうして紡ぐ文字の連なりは言葉として、なにを運んでいくのかが気になるところだけれど。
例えば、会社や電車の中で、ふと目があった時に微笑みかけられる瞬間だったり、なんの気ない一瞬だけど、それはマグル界でいうところを魔法がかった瞬間に引き合わせられたらなんてそんなことを思っている。
予定に遅刻しそうなので、時間に間に合うようなオンプロンプト魔法を今は自分にかけたい。いや、願わくばタイムワープか。