その昔、あるところに弓を習った者がいた。

師から弓を習い、師を超え、もはや敵がいなくなり、その者は弓の達人が住むと言われる山に登った。頂上付近で老いた弓の達人に出会い、衝撃を受けた。達人は弓など持たず、鳥を射抜いて見せた。名人芸だった。 このブログはその名人芸と深く関係していません。

TVドラマ「それでも、生きてゆく」

2011年7月7日放送。
全11話。


いったい何が描かれていたのか。
かんがえてみる。

殺人罪を犯した加害者の家族。
家族を殺された被害者の家族。

犯罪者を生んだ家族。
その犯罪者に家族を奪われた家族。
残された2つの家族。


事件から15年。
2つの家族がふたたび接点を持つ。

事件から15年。
どう生きてきたのか。

事件から15年。
どう生きていくのか。


毎話ごと、1つ1つのシーンで、
それぞれの立場で、
父親が、母親が、兄が、妹が、
どんなことを感じていたか、
どんなことを感じているかが見えてくる。
そして、犯罪者が犯罪者であるべき理由も見えてくる。


俳優さんたちが演じた姿、
演技なのか、憑依なのか。
予想を越える台詞の連発。


悲しみ続けたのは誰なのか。
苦しみ続けたのは誰なのか。
悲しくて苦しみ続けたのは
残された被害者家族だけなのか。
悲しくて苦しみ続けたのは
残された加害者家族も同じだったのか。


被害者の家族は、加害者家族に復讐していいのか?
それは仕方のないことなのか?
それは許されることなのか?
事実を受け止め、悲しみ続けるしかないのか?
我慢し続けることしか出来ないのか?
前向きになることが、大切なことなのか?
後悔し続けるしかないのか?
犯罪者とその加害者家族を、
恨み続けるしかないのか?


加害者の家族は、被害者家族に対してどうあり続けるべきなのか?
謝罪し続けるべきなのか?
謝罪し続けるだけでいいのか?
被害者家族を思い、一家心中すべきだったのか?
被害者家族を思い、ひっそりと生き続けるべきなのか?
生き続けていくうえで、希望をもってはいけないのか?
自分たちの幸せを考えてしまうことは、許されないことなのか?
生きていくうえで、なにひとつ望んではいけないのか?
望んでしまうことは、諦め続けるべきなのか?
それが被害者家族に対する、唯一出来ることなのか?



全11話。
いったい何が描かれていたのか。


このドラマをひとことであらわしてみる。




「どう生きていくのか。その答えは。」

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小説「死の棘」

1977年に発行。
(短編として、一部1960年に発行)
約600ページ。
トシオとミホの物語。
トシオから見た、ミホとの物語。


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10年。
認めてもらいたい人に認めてもらえず、
求めてほしい形とは違うかたちで求められ、
感じれるのは愛する人からの拒絶のみで、日々打ち砕かれていく白い心。
そして自身の存在価値を見失っていく。

10年。
時が経てばいつかは、と希望を胸に持ち直すが、
しかしその欲求は満たされることはない。
他の人では充足できないため、その人から離れることも選べない。
それができる相手は、その間自分以外の人にそれらを注ぎ、
こちら側に与えられ続けるのは孤独と渇望、そして絶望。
溜まっていく黒い心と相反し、いよいよ希望の火が消えていく。

10年。
ついにその火が消えた。

10年。
ミホは、通常以外の方法でその欲求を満たし、
望みを叶え得る方法を見つけてしまった。
そして黒い心の中、1つのものが芽を出した。

それはなんだったのか。
結果、どうなっていくのか。


小説はここから始まる。


芽を出したのは、世界。
ふたりだけの新しい世界をミホがつくりだし、
トシオを引き込むことに成功する。

それは、どんな世界なのか。

 

 

狂気の世界。
表も裏もなく、本能のみの世界。
理性が消えたその世界には、言葉による会話など存在しない。
理性が消えたその世界には、感情を支配下におく力など存在しない。

その世界では、
互いが感じていることを、どう伝えるのか。
その世界では、相手の気持ちをどう確かめるのか。
その方法、選べる方法は1つしかない。


乱暴狼藉な感情をむき出しにして、混乱を呼び込み、相手に突進していく。
切れ味鋭い言葉の刀を両手で握り、防御は選択肢にはない。
攻撃のみに特化して、相手の心を切り刻むことのみに集中し、
同時に、相手からも斬られることだけを望む。
さらけ出された敏感な神経、極限の集中状態が24時間続き、
向けられる意識は相手の動向1点に注目し、休まることはない。
相手の存在以外、我が子さえもその世界から姿かたちが消え去り、耳に聞こえるのは相手の息遣いのみ。
しかし。
その対峙している瞬間のみ、斬り合っている瞬間のみ、
唯一、相手を感じれる。
唯一、嘘がない意思を感じれる。
唯一、満たされることが出来る。
唯一、自分の生を感じれる。
唯一、自分の存在価値を感じれる。
それがその世界での、
唯一成立しているコミュニケーション。


その世界では、反転する。
ふたりを引き離すものが、ふたりを繋げるものに反転する。
それは

嫉妬、執着、憎悪、依存、絶望、恐怖、狂気、発狂、刺激、破滅、憔悴。

これらがふたりを繋げるものに反転する。
異常に感じる全てのことが、その世界の中では通常になる。


その世界では、生きてきた世界の倫理は働かない。
その世界特有の別の倫理が働いている。

その世界では、ルールが違う。
その世界特有の別のルールが発動している。


その世界で生きていくには、
その世界の倫理にとらわれ、
その世界のルールに従い、
その世界に自分の感覚をチューニングし、
生きてきた世界と決別する時間を長くしていき、
その世界に染まっていくことでしか適応させる方法がない。


引き金を引いたのはトシオ。
ミホをその世界に導いたのも、突き落としたのもトシオ。
ミホによって、その世界に巻き込まれることをトシオに拒む権利があるはずもなく、
ミホと共存するため少しづつトシオもその世界の住人になっていき、
ミホの後を追うように、その世界の酸素でないと生きていけないかのように、
その世界のめりこんでいく。

1章から最終章まですすむなか、
トシオに対してのミホの態度は一貫していたの対し、
ミホに対してのトシオの態度は変態していく。

トシオがその世界に染まっていく過程・描写が、
ドキュメンタリー映画として頭の中で自動再生されるほど
重厚に濃厚に書かれていて、その世界の訪れは、誰にでも
前兆なく突然訪れる、戻ってくる可能性があることを刻み込む。


そして、読者としてその世界を体験しながら
時折垣間見えるものがある。
その世界にも、そんな世界だからこそか、
時折垣間見えたものがある。


それはなにか。




驚きなのか、当たり前なのか、
それは、美しさ。


ミホの美しさ。
ただ生きる、という美しさ。


偏りながらも、一途で儚く、
嘘偽りのない、相手に向けて一直線な
無邪気で愛おしくなる。


生きている。
傷つきながら、ミホは生きている。
生きているを感じている。
それが、美しく、感じる。




それらは、
その世界だからそう感じたのか。

生きてきた世界では、
それらは感じれなかったのか。
感じれなかったとしたら、
なぜ感じれなくなったのか。


この感覚は、先日観た映画「乾いた花」に通じていた。

生きるとはなにか。
生きているとは、どういうことか。
生きていると感じるということは、どういうことか。

 

 

2017年7月29日、
著者・島尾敏雄の奥さん島尾ミホさんが1974年に書いた、
『海辺の生と死』
が映画化される。
https://www.youtube.com/watch?v=wi23Xq2SZBg


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時間軸でかんがえると、

著者・島尾 敏雄
『死の棘』
発行;1977年(短編としては1960年)。

著者・島尾 ミホ
『海辺の生と死』
発行;1974年。

『海辺の生と死』は、ミホから見た
ふたりが出会う物語。
『死の棘』は、『海辺の生と死』の後、
ふたりが過ごした物語。

映画「無法松の一生」

1958年に上映。
1時間と43分。
いったい何が描かれていたのか。
かんがえてみる。


1つ1つのシーン、
起こる出来事によって、
無法松がどんな人間なのかが見えてくる。


一生という時間の流れを通じて、
無法松の性格が見えてくる。

そしてその性格がゆえに呼び込んだ
運命の出会い。

その出会いは、
無法松に何をもたらしたのか。



それは、愛。
それは、孤独。


愛を知った無法松。
孤独を知った無法松。

 

愛を知ることは孤独を知ること。
孤独を感じたのは愛を感じたから。


1時間と43分。
いったい何が描かれていたのか。


この映画をひとことであらわしてみる。




「愛するということ。」

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無法松の一生 予告篇

www.youtube.com