雨と晴れと舞台

踊り、演劇、お笑い、いろいろな舞台に関して綴ります。

チェルフィッチュ 部屋に流れる時間の旅 世田谷パブリックシアター

  チェルフィッチュの部屋に流れる時間の旅をシアタートラムで観た。

  3.11後の4日間の出来事を、女性(妻)が男性(夫)に語りかけ続ける。男性の身体は何かに捕らえられてるかはたまた呼応するかのような動きをするが、その問いかけには答えない。問いかけは男性に届いているのだろうか?二人は違う時空を生きていることがわかる。

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  登場人物は3人。まずはじめに女性(現在を生きる)が登場し、これから始まる現在と未来を語る。目を開けるとテーブルと椅子と窓とカーテンの部屋、無駄が削ぎ落とされたような舞台装置のなか、客席には背を向けた形で男性が椅子に座っており、その前に女性がたゆたっている。女性は男性に語りかける、「ねぇ、覚えてる?あの日のことを、、」

  この静かな濃縮された空間の強度、役者の身体から発する会話、死者と生者の対話、これはお能ではないだろうか?と思った。

  お能と少し違うのはお能は現世に思いをのこして憤死した人々の供養という物語が多いが、ここでは「未来への希望を抱えた状態で死を迎えた幽霊と、生者との関係」が描かれている、ところかと思う。「死者の生はすでに円環を閉じ、安定している。生き続けているわたしたちはそれを羨望する。わたしたちは苦しめられ、そこから逃げたくなって、忘却をこころがける。」

  あの日から今日まで、どう生きてきたか、生かされてきたか。忘れなければ生きづらいこともある。変わらなければいけないこともある。しかし、これで良かったのだろうか、忘却してはいけないこともある。 

  「ねぇ、覚えてる?」というのは忘却する我々へのメッセージではないだろうか。

  しかし また、作者は生者が生きていくために変化していくことや弱さ、を肯定している。

  作者は震災の数日後、「わたしに押しよせてきた感情のなかには、悲しみ・不安・恐怖だけでなく、希望も混じっていた、、中略、、あのときは。」と書いている。喪失はもちろん悲しみであるが、同時にそこには希望が伴われていることがある。それは社会が今より良い方向へ変化する突破口でもあり、個人レベルでも停滞から違う文脈へ向かうきっかけでもないだろうか。その小さな希望の芽をも忘却してしまってはいけないのではないか、そういうメッセージを受け取った気がする。

  

  










加賀見山旧錦絵 5月文楽公演

  東西東西(とざい、とーざい)の明るい呼び込み声で幕がひらく。

  「加賀見山旧錦絵」は女忠臣蔵とも言われる仇討ち場面が人気の人形浄瑠璃だ。

  加賀藩のお家騒動に、実際に起こった江戸での大名家の奥御殿での仇討ち事件をとりこんだ作品がベースとなる。のちに別の加賀騒動を描いた浄瑠璃の又助の悲劇を加え、上演する形式となった。

  話の接続がどこがどうつながるのか?とわかるまで少し時間がかかったが、同じ題材ではあるが、別の作品が組み合わさっているのである。江戸時代にはこの手法は普通。


  〈筑摩川の段〉春雨で増水した筑摩川の川辺。馬に乗った大殿様の加賀大領が川を渡ろうとすると、望月源蔵にだまされた鳥井又助が大領を悪家蟹江一角と思い込み討ってしまう。危険を顧みず使命を果たし、その達成感を表すような大笑いで幕となる。

  〈又助住家の段〉舞台は5年間後の又助の侘び住居。ここから繰り広げられるのは、陪臣の悲劇である。又助は谷沢求馬の家臣であるが、求馬が仕えている大殿(大領)や家老蟹江一角の顔を知るよしもない。ましてや、お家騒動渦中の動きもわからず、求馬を思う一心を利用されてしまったのだ。

  妻の身売り、我が子も手にかけ己も自害、と悲劇的な場面が重なってゆく。しかし又助自身を求馬に討たせることにより、大領暗殺の犯人を討った手柄をあげさせ、求馬の帰参が叶うことになる。事情がわかった又助の、騙されたやり場のない怒り、階級社会の重苦しさから、悲願がかなう静かな喜びまで表現されている。

  〈草履の段〉ところ変わり、着物の色が華やかに映える鎌倉の鶴岡八幡宮。局岩藤と中老尾上の一行が参詣している。尾上は武家ではなく裕福な町人出身であるが、高い役職である中老を若くして勤めている。そんな尾上を岩藤が執拗に当てこするが、尾上はお家の先行きや両親の嘆きを思い、賢明に耐える。最後は岩藤は尾上を草履で打ちつけるが、それをもなお心を抑え耐える尾上に岩藤も呆れ諦め立ち去る。しかし、寺々の暮れの鐘の音を聞きながら一人退出する、そのときにはすでに自害の覚悟を定めていた。

  〈廊下の段〉翌日。館では腰元たちが通りかかった尾上の召使いお初を呼び止め、鶴岡での出来事を聞かせ、岩藤をそしっている。その後、お初は岩藤と弾正とのやりとりから、お家乗っ取りの恐ろしい陰謀が表と奥の両方で進行していること、尾上がそこに巻き込まれてしまったがゆえに、嫌がらせを受けていることを知る。

  〈長局の段〉長局とは奥女中たちのそれぞれの居室が連なっているところ。だれもが昨日のことを意識している息のつまりそうな局面が舞台背景としてある。当事者である尾上と、尾上を最も気遣うお初の、主従の葛藤が描かれる。

  一人残った尾上ははじめて胸に秘めた思いを吐露する。後半は、不吉な前兆に胸騒ぎを覚えたお初が、尾上の最期に際し激情を爆発させるまで、物語は一気に進行する。

  〈奥庭の段〉烈女となったお初は、主人の仇を討つため懸命に岩藤と闘う。三味線のメリヤスが流れる立ち回りの末、見事岩藤を打ち果たす。

   新参者の少女お初が、主の仇を討つ烈女に変容する様が、素晴らしかった。こちらの身体も一緒に持っていかれるような躍動感。外見的な動きがf:id:miverde:20170701175056j:plain

激しいためだが、内面からの湧き出る表現が伴っているからだろう。一見違う話しのようではあるが、又助の話、筑摩川の段、又助住家の段、も主人を思う臣下の話しであり忠義という点は共通したものが流れている。しかさは又助場面では解消しきれない不条理と、また尾上の物語り、草履打の段、で耐えに耐えた鬱屈が烈女お初の身体の動きにより一気に昇華されていった。

  しかし耐えに耐えた尾上は、現代のパワハラ事情を考えるヒントになるのではないか、とも漠然と考えた。舞台上では仇討ちはなくてはならない大捕物であるし、これがないとすっきりしない。今でも脳裏に浮かぶのはお初の躍動感である。しかし町人の出であり耐えた尾上も素晴らしい。自害がないと次々の仇討ちに話が繋がらないが、耐えてしぶとく生き残る尾上であってほしい。嫌がらせをしてくる相手にはとことん相手に合わせると、相手はもう嫌がらせをする気もなくす、という話しを聞いたことがあるが、そういうことかもしれない。



















杜若 お能

 杜若を初めて観ることができた。いつも5月6月の初夏のシーズンをのがしていた。ストーリーは大まかには知っていたが、、もう少し学んでから観れば良かったかと思う。

  素朴な感想は、、若々しく華やかな装束に身を包んだシテの踊りが、初夏の明けゆく朝に朝露の残る植物の緑、を連想させた。それは時間がたってからも脳裏に浮かぶイメージである。

  「先生ギャルみたいで可愛いかったですね!」

これは先生の演能をみたお弟子さんの感想である。お面や装束が少し若めで襟合わせもベージュ系で可愛らしいかんじ?そんな見方もあるのか、、軽いな、、いやいや正しい見方だろう。

  主人公は在原業平が和歌で詠んだ杜若の花の精である。しかし一方、業平であり、二条后高子であり、高子に代表される業平の恋人たちでもある。しかもそれは歌舞の菩薩でもあるという。

   シテの身体ひとつでそれを表している。ギャルに見せかけて、多様な面をもつ。

  業平の恋人たちは業平により救済される。恋人たちは杜若の精でもあるので杜若の精も救済され成仏ができたという。

  草木国土悉皆成仏、草木も成仏できる、杜若の精も成仏できるという思想が背景にはある。シテは天台本覚論の身体化でもあるという。

  




滝沢歌舞伎2017

  滝沢歌舞伎2017を新橋演舞場で観た。なかなかチケットはとれないそうだが、友人が激しい競争率を勝ち抜きチケットをとってくれた。友人はこれを観て1年の糧にすると言う、一体どんな世界が繰り広げられているのだろう?


    劇場はいってすぐそこは滝沢ワールドでお弁当も滝こみ弁当など心憎いネーミング、食べてみれば良かった。タッキー一色、日常を忘れて楽しめる趣向がこらしてある。


  一部は歌と踊りのエンターテイメントショー。いきなり宙吊りになったタッキーが舞台前方から飛んでくる(ように見える)。

  前半はバレエダンサーの女性とタッキーの美しい踊り、三宅健の手話ダンス、立廻り、映画こどもつかいの映像、大和太鼓上の三宅のタップダンス、ジャニーズJr.の腹筋和太鼓、タッキー&三宅の和太鼓等。なかでもこのタッキー&三宅が上下、縦に括り付けられ、上へ下へと垂直にぐるぐる回転しながらの和太鼓演奏は圧巻であった。

  場面かわり、白波4人男に扮したジャニーズJr.が口上を述べあげ、後半の歌舞伎ショーがはじまる。石川五右衛門娘道成寺をとりこんで滝沢歌舞伎の演出をほどこしている。道成寺ではタッキーと三宅健白拍子に扮し女形の踊りを踊る。タッキーは女形になっても顔立ちの美しさが映え、洋風な華やかな女形三宅健は可憐な甘さのある女形で、もう一度見たいくらい可愛らしい。日本舞踊もなんなくこなす。そして道成寺なので大蛇と大鐘が登場。蛇とジャニーズJr.が舞台狭しと大立廻りをはじめ、タッキー&三宅はいつのまにか大鐘の上にはんなりと乗って下界を見物といった風態。


  お能や歌舞伎の道成寺とはもちろん見せ方は違うが、現代版としてわかりやすく道成寺インパクトを強める表現としてなるほど、と思った。


  滝沢歌舞伎は和の魅力を絵巻物のように見せるエンターテイメントと聞くが、見て納得であった。ストーリーがどうの、ではなく、お客様に非日常世界で楽しんでもらいたい、という精神にあふれている。いいとこどりであろうがなんであろうが良いものは自由自在にとりこみ、滝沢歌舞伎の様式に消化されている、ように思えた。このとりこみこそ芸能の基本だろう。

  

第二部は鼠小僧夢小判ー笑いあり、涙なしー。タッキー扮する鼠小僧とそれを追う三宅健扮する岡っ引き仙吉は幼い頃生き別れた兄弟だ。お互いがお互いの心情を実はわかっていながら探り合い見得をきる見せ場の科白劇。 仙吉に問われ鼠小僧がこう言う。

 「すぐに叶っちまう夢なんざ、追いかけてもつまらねえじゃねぇか」

  これを言ってきまるのはタッキーならでは。夢という言葉が似合う。そうだ夢は夢だ!夢が簡単に叶ったらつまらないぞ!という気にさせてくれる。

  自然体、普通っぽいなど身近なアイドルが流行る一方でタッキーはオーラのある王道を行くアイドルだ。





















場踊り 早稲田大学演劇博物館

田中珉さんの場踊りを観た。早稲田大学演劇博物館の一角と外のスペースで踊っていた。作業着で現れた珉さんはまるで別の時間を生きている人であった。この動きにはどういった意味があるのかを問うてみたが、次々の動きに頭を整理する暇もなく、意味は見ている側に問いかけられているものなのだろうか。

このあとの中沢新一氏とのトークで、珉さんの踊りには自意識がない、という話がでた。自分が見られている、ナルシスというものがない、そこに中沢氏はとても惹かれるという。舞踏ではなく、あくまでも踊り、踊りは普通は外に向かうが珉さんの場合は心が筋肉となる動きであるという。

それと関連があるかどうかはわからないが、珉さんの踊りにとても解放感を感じた。優れた現代美術でもそれを感じることがあるのだが、おおいなる解放感であった。

秀山祭九月大歌舞伎

伊勢物語

 紀有常生誕1200年、「伊勢物語」の趣向を歌舞伎に巧みに取り入れた作品であり、歌舞伎座では半世紀ぶりの上演作品である。

 文徳帝の崩御後、朝廷では惟高親王と惟人親王が帝位をめぐって争っていた。そうした中惟高親王方に三種の神器が奪われる。その頃、玉水渕では水が振動する不思議がおこり、その様子から行方の知れぬ三種の神器が沈んでいる可能性があるとのこと。

 大和国春日野に住む小由(東蔵)の娘信夫(菊之助)は、夫、豆四郎(染五郎)のために、銅鑼の鐃八(又五郎)と争い手に入れる。それというのも豆四郎の父は在原業平の父である阿保親王に大恩を受けていた、夫に忠義を立てさせたい一心でのことであった。ここでの信夫と鐃八の立ち回りが、平面で動いているのに奥行き立体感があってとても見ごたえがあった。

 しかしそんなことは知らぬ豆四郎は信夫が他の男と会っていたのではないかと疑っている。そのやきもちをやいているすねた様の染五郎がとても愛橋がある。

 鏡を渡し、事の次第を打ち明けると信夫の心に豆四郎は感謝をするが、玉水渕に立ちはいった罪により母の小由に累が及ばぬように、勘当を受けるようにと諭す。信夫はその言葉に従い、わざと小由に嫌われるような言動をするが、うまくいかない。心の底では母を愛し、それが故に冷たい態度をとる菊之助の演技が上手だ。なにをされても可愛くてしょうがないという小由の愛情の深さにおもわずほろりとさせられた。今も昔も変わらぬ親子の情であろうか。

 しかし、小由と信夫は実の親子ではない。信夫は紀有常(吉右衛門)の子供である。

17年前兄の勘当を受け陸奥に下り百姓暮らしをしていた有常が昵懇にしていたのが小由夫妻でああり、信夫のことは事情があり小由がひきとったのである。その信夫を有常が引き取るために、有常は小由の前に現れた。17年ぶりの再会を喜んだ小由ははったい茶で有常をもてなす。

 吉右衛門の長裃姿と周りの情景、簡素な百姓の家であるが、このふたりのやりとりをながめつつ、俵屋宗達「鹿下絵新古今集和歌巻断簡」が思い起こされた。金箔の雅さ品格に素朴さの融合のようなイメージがふっとふかぶ。

 しかし、有常は信夫をひきとり大事に育てるというわけではなく、こちらもわけあって有常が育てた井筒姫の身代わりにする為であった。現代では考えられない話であるが、そこは歌舞伎である。また、夫の豆四郎は井筒姫と相愛の在原業平の身代わりとなる。豆四郎の父は業平の父に仕えていた、その恩義に報いる為であり容姿もよく似ているからである。

 別れに際し、信夫の弾く琴とそれにあわせる小由の砧の音をバックに吉右衛門の演技が見ごたえがある。肚には幾重にもの万感の思いがこめられているのが、抑えた演技から伝わってくる。

 最後、在原業平染五郎)と井筒姫(菊之助)が姿を見せる。自分たちの身代わりとなってくれた豆四郎と信夫を悼むためであるが、ふたりの生まれ変わりのようにも見える。能「井筒」と見比べてみるのも面白いだろう。

ザ・ラスト・ナイツ/The Last Knights

 監督/紀里谷和明 出演/クライヴ・オーウェンモーガン・フリーマン、アクセル・ヘニー、クリフ・カーティス伊原剛志、ペイマン・モアディ、アイェレット・ゾラー、ショーレ・アグダシュルー、アン・ソンギ 他

 

 舞台は中世ヨーロッパを思わせる架空都市、グレーの城壁、硬性な石畳の街に騎士達の鉄鎧、剣、が堂々と重厚に重なり合っている。物語は日本の忠臣蔵をベースにしてある。腐敗した封建政治がまかりとおり、騎士道の精神を忠実に守る者たちが追いやられている時代、自己の信念を曲げずに不正を受け入れなかった君主バルトーク卿(モーガン・フリーマン)の仇を討とうとライデン(クライヴ・オーウェン)等騎士達が立ち上がる・・。

 忠臣蔵の武士道を騎士道にかえて、しかし本題は忠臣蔵と同様、忠義、であろう。プラス騎士道の高潔な精神、信仰心、などを加えているように思う。さらに、仇打ちへの作戦では、トロイの木馬を思わせるシーンも。

 印象的だったのは、なくなったバルトーク卿の一族が強制的に郷里を追いやれる場面。卿の未亡人と娘を、没落した一族と見下し、侮蔑的に移動を強制した部下を伊原剛志扮するイトーが一刀のもとに討ち捨てる。日本ではシチュエーションは違うが、織田信長にもそういったエピソードがあるようだ。中世の英国の騎士も主君の夫人や姫君に対しては特別の敬意を払っていたという。