『ハッチング ー孵化ー』ほか

休日の月曜日に下高井戸シネマでロベール・ブレッソンの『たぶん悪魔が』、『湖のランスロ』を鑑賞。『たぶん悪魔が』は70年代の左翼青年の話。登場人物も彼らが話していることも把握できず、なんのこっちゃ分からなかった。『湖のランスロ』は円卓の騎士もの。ランスロ(ランスロット)の横恋慕にまつわる話で、こっちは雰囲気好きだった。鮮血の描写は『椿三十郎』のラストみたい。

三本目に『ハッチング ー孵化ー』(原題はHatching)というフィンランドのホラー映画。中学生くらいの女の子が精神的虐待を受けて、蓄積した心の澱で怪物を育ててしまう話。

怪物の存在は明らかに、虐待を原因とする解離もしくはBPDのメタファーとして描かれていると思う。だとすると、その描き方にはだいぶ問題がある。怪物の行動はひたすら猟奇的な殺戮と傷害で、最後には制止が効かず、主人公をのっとってしまう。もちろんこんな展開は、解離・BPDに典型的なものではないはず。虐待のようすが真に迫るだけに、その帰結が安易に処理されているように思えて、後味悪かった。ホラーだから当たり前、といえばそれまでだけど。

主人公の役者は、かなり負担がきつかったんじゃないかと思う。ちゃんとケアされていてほしい。

8月31日 桜木町反天皇制集会。「責任」?「謝罪」?

8月31日の桜木町での集会「天皇制に終止符を! 『代替わり』で考える『天皇制』の戦争責任 」に参加。WAM館長の渡辺美奈さん講演のあと、堀江有里さんとの対談、そして場内交えた議論。「反天皇制運動」のありようについて、参加者に問いかけを突きつける内容で、とても刺激的でした。

渡辺さんが女性国際戦犯法廷の意義として語ったこと。「最終的な責任者は天皇である」と観念的に言ってしまったり、あるいは「日本国民全員に責任がある」のようにボカしてしまったりすることを拒否して、個々の事象につき、誰がどのようにかかわり、したがって責任を負うべきなのか、明らかにして、決める、ということ。

「記憶をつなぐ戦い」として、アーカイブの構築を進めている。文書はまだしも残りやすいが、声や映像は、持ち主の死などを契機として、簡単に散逸して、世の中から消えてしまう。その前にアーカイブ化しなきゃならない。これは、あらゆる社会運動について言えることだ、と思う。

謝罪について。ゆるしや和解を期待して行われる謝罪は、本当の謝罪ではないのではないか。

最後、参加者交えた意見交換では、韓国の文喜相国会議長による天皇明仁(当時)への謝罪要求を題材として、天皇に謝罪させることを運動として目指すべきか、議論されました。以下、自分自身の混乱した考え。

天皇であれ誰であれ、責任を問い、謝罪を要求することが、正当であることは当たり前だ。天皇が象徴であって政治的エンティティでない、などということは、日本国内でのみ通用する擬制に過ぎない。というかそれが実際の運用において、君主無答責、「神聖にして侵すべからず」の衣替えでしかない、ということは、文氏発言への反応を通じてあらためて明らかになった、と思う。

文氏自身は被害者ではない、ということは留意する必要がある。でも、留意ってどのように?なにを留保するの?

遠くない将来に徳仁が、たとえば植民地支配の責任について謝罪する、ということは、絵空事ではなく充分にあり得る。シアヌークやフアン・カルロスを見れば明らかに、君主制にとってそのくらいの機転は屁でもない。それが「和解」の役に立つ、ということ、それ自体が天皇制の足場を固めるだろうことも、たとえば沖縄における天皇の受容を見れば想像がつく。そのような「和解」はしてはならない、と思う。

集会が終わってから渋谷にとってかえし、翌週の渋谷秋祭りを準備する寄り合いに、遅れて参加しました。

船本洲治『黙って野たれ死ぬな』

山谷・釜ヶ崎で下層労働者解放に身を投じた船本洲治の文集。

[新版]黙って野たれ死ぬな

[新版]黙って野たれ死ぬな

以下、自分なりにかみくだいた彼のテーゼと、それについての考え。

資本は、いつでも動員し、放逐・野たれ死にさせられる流動的下層労働者の一群を必要としている。

これは今もそのまんま通用する。というか、より多くの労働者を、未組織の、流動的な状況へと押しやる運動が今も進行中である。

寄せ場解放を、フリーター、プレカリアート、下流、非正規、ワープア、そして野宿の仲間の状況に連続するものとして位置づけなきゃならない。

寄せ場は、そのような流動的下層労働者の中継地点であり、吹き溜まりである。

現在においては、「中継地点」の機能が他の場所、装置に拡散した、と思っている。

自己を徹底的に弱者として位置づける流動的下層労働者による、「だまってトイレを詰まらせろ」式の闘争が、プロレタリア革命を最終的に実現する。

船本は、大衆から遊離し、暴動を侮蔑する新左翼諸党派をこき下ろすのであるけれど、現時点でプロレタリア革命をまともに目指すこと自体、大衆から遊離することなのではないか。

でもそれってつまり、牙を抜かれた、ということなのではないか。

『私の20世紀』(1989)、『心と体と』(2017)

ハンガリーの映画監督、エニェディ・イルディコーの二作。

『私の20世紀』は、生き別れの双子が詐欺師と革命家になる話。残念ながら話が理解できなかった。

『心と体と』は、強度の自閉症スペクトラムを持つ食肉検査官が主人公のラブコメ。可愛らしくて素敵な映画でした。

『金子文子と朴烈』(2017)

下高井戸シネマで『金子文子と朴烈』を鑑賞。関東大震災の直後、皇太子(裕仁)爆殺予備のでっち上げ弾圧を受けた、実在する二人のアナキストの話。

朝鮮人民の敵は天皇およびそれに蝟集する勢力である。作中の二人は左記の立ち位置から一歩も動揺しない。プロットの主眼は、二人の確信的なアナキストが、いかに権力を出し抜いて行動するか、というところにあり、したがって本作は純粋なコメディである。

朴烈が天皇制国家の破滅を予告するときも、あるいは日本人民が必ずしも敵ではないことを確認するときも、そこにはなんらためらいや呵責が無い。彼らは単に自由である *1

本作は、自由な朝鮮人民から日本人民への連帯の呼びかけである。その日本人民は、百年経っていまだに後生大事に天皇をおしいただき、三・一独立運動を敵視し、関東大震災の際の朝鮮人虐殺を否認している。私は非常に恥ずかしい。

*1:『ブルース・ブラザーズ』でアレサ・フランクリンが「Think」を歌うのと同じ意味で。

『The Autobiography of Malcolm X』

マルコムXの自叙伝を読みました。1965年、彼が暗殺されるまでをカバーしています。実際に筆を執ったアレックス・ヘイリーによる、解題とも言うべき長大なエピローグと合わせて、非常にスリリングでむちゃくちゃ面白い本です。

The Autobiography of Malcolm X (English Edition)

The Autobiography of Malcolm X (English Edition)

マルコムXについては、「戦闘的な公民権運動の活動家」くらいの雑な理解しか持っていなかったのですが、だいぶ誤解をしていたことがわかりました。

  • マルコムは、独立した活動家としてではなく、ネイション・オブ・イスラムの幹部として、少なくとも主観的には教団の声を発する役割に徹した。この立場は教団を追放される1964年まで続いた。
  • 公民権以前に人権の獲得が課題である、という立場を取っている。
  • 「戦闘的」であること自体に積極的な意味付けはしていなかったものと理解した。非暴力直接行動を代表するガンジーやM. L. キングについて、基本的には高く評価している。
  • 直接行動を含む行動という点では、むしろその欠如が批判されている。

構成

本書には構成上興味深い点がいくつかあります。

ひとつは、話者であるマルコム自身の立場・思想が、テキストの中で大きく変動していること。執筆が行われた1963年から1965年まで、マルコムは教団からの離反/追放、アフリカ訪問、メッカ巡礼、正統派イスラムの受容、暗殺の危機という、極端な変動を経験しています。したがってテキストには、インタビューが行われた時点ごとのマルコムの思想が反映されています。著者がモザイク状になってるわけです。

もうひとつは、実際に執筆を行ったアレックス・ヘイリーの存在。ヘイリーが集中的なインタビューによって、マルコムに自分自身を語らせたことは、マルコムの人生と思想に無視できない影響を与えています。ヘイリーは執筆を通じ、単なるゴーストライターの枠を超えて、マルコムの親友になっています。にもかかわらず自伝の本文からは、ヘイリーの影が完全に消し去られています。ヘイリー自身の名がクレジットされたエピローグで、彼らの関係と執筆の様子が語られるのと対比すると、テキストはあくまで世界の一部分を選択的に切り抜いたものである、ということが再認識させられます。

女性差別

マルコムの女性に対する差別については、はっきりと不快です。

マルコムは女性についてfoxyという形容を多用し、男性を破滅させる信頼のならない存在として描いています。しかし、複数の女性の人生を破滅させているのは、マルコム自身の方です。

ネイション・オブ・イスラムの指導者イライジャ・ムハンマドによる女性への性加害についても、その対応に大きな問題があります。性加害の事実を知ったマルコムは、まず知らないふりを、ついでイライジャ・ムハンマドを助けようとしました。結局これが教団からの離反の遠因になったということは、教団幹部として性加害に向き合わなかった責任を免除するものではないと思います。

『スパイナル・タップ』

下高井戸シネマで『スパイナル・タップ』を見ました。最近の映画かと思ったら、1984年公開の古典だったのですね。

ヘビメタバンド「スパイナル・タップ」のツアーに密着取材した映画、という設定のモキュメンタリー。スパイナル・タップはパロディバンドですが、作中では実際に出演者が演奏していて、レコードも出してツアーもやってるのだそうです。ラトルズみたい。

やたらオーバーアクションでなれなれしいプロモ担当者とか、ボーカルが易経にはまってるとか、ディティールが絶妙に凝っていて楽しい。しょうもないバカ映画かと思っていたら、しょうもないバカ映画ではあったのだけど、傑作でした。

『ブルース・ブラザーズ』

『ノーザン・ソウル』でブラックミュージックの気運が高まったので、Youtubeムービーで『ブルース・ブラザーズ』を見ました。すっげえ!

ジェイク、エルウッド、ブルース・ブラザーズ!の二人組が、あらゆる説明と理屈と警察と保安官と陸空軍とネオナチとカントリーバンドを、R&Bとブルースモービルでふっとばして、クック郡税務署に5000ドルの税金を納める話。

音楽もダンスもセリフもアクションも最高。兄弟の友情と音楽への愛が、さもなければ爆発四散するはずの映画を、強烈な作品としてガッチリまとめあげてます。

ゲットーの路上でジョン・リー・フッカーがBoom Boomを演奏するシーンが最高にかっこよかった。

『ノーザン・ソウル』

立て続けに音楽映画を三本見ました。

まず下高井戸シネマで『ノーザン・ソウル』。DJ二人組のバディ・ムービー。

ノーザン・ソウル界隈の雰囲気は、こんな風だったのかーという感じ。音楽は良かったけど映画としてはそこそこ。R&Bが好きなだけの若者二人組では、笑いのないプロットを引っ張るには無理があった気がする。