夢流し

辺りはあまりに静かでも、頭の中はどんちゃん騒ぎ。京都の地に独り暮らし、苦節の学部生生活を送る京都大学生のブログ。文化、言語、娯楽、心理、生活等に関して、大学における教養科目の講義で得た知識を再解釈および適用し、その知を広く社会に還元することを目指す。

11月祭と《集合的沸騰》

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もう二週間も前のことになってしまったが、京都大学11月祭があった。
NFももう三回目である。一年目はそれなりに企画も回ったが、二年目は講演会を聴いたぐらいで、クラス企画もなければサークルにも所属していない僕にはただ雰囲気を楽しむだけの行事だった。
しかし今年はそうではない。祭を楽しむ心構えができた。
心構えというのは、その熱狂を冷ややかに見過ごすのではなく、そこに呑み込まれ同調する覚悟のことである。
この11月祭の間に、僕は二回の《集合的沸騰》を経験した。

《集合的沸騰》は、 宗教社会学デュルケーム(E.Durkheim)の提唱した概念で、宗教的儀式の中で生じる人々の熱狂状態のことである。この現象は宗教に限らず、ライ ブやスポーツなど、ある種の《カリスマ》を大勢のファンやサポーターが前にした時にも見られるものである。こうした非日常な場こそは聖俗二元論における 《聖》あるいは《ハレ》の場であって、日常の《俗》あるいは《ケ》とは異なった行動様式を引き出す。さらにこうしたトランス状態は集団でなくとも二者間や 一人でも引き起こせるのであり、これを宮台は《変性意識状態》と呼ぶ。

最初の《集団的沸騰》は前夜祭のフィナーレである。前夜祭は今回初めてまともに観覧した。クイズなどはしょうもなかったが、最後の応援団の演舞が見たかったのだ。
大変な迫力であった。ダンスやチアリーディングもそうであるが、応援団というのは規範化された身体の型を壮烈に表現するものであり、それも極めて男性的である。なるほど彼らはマッチョな存在であり、それゆえカッコイイのである。
さて、そのあとフィナーレというものが始まった。どういうものかと見ていると、前に坐っていた観衆が一斉に舞台の元に集結する。ここでソるのでは今までと何も変わっていないと思い、私もその流れにノった。
舞 台の上で始まったのは、京都大学学歌・第一応援歌、「新生の息吹」の力強い歌唱であった。すると舞台の下でも人々が波を作って大斉唱が始まる。右隣の女性 に肩を組まれ(これは僕にとってすごい衝撃であった)、僕も両隣に腕を回し、目の前に貼り出された歌詞を見ながら波に揺られて訳も分からず歌を歌う。何度 も何度も。
「新生の 息吹に満ちて 息吹に満ちて 躍動の 若き腕に 勝利分たん 守れ 守れ 守れ 母校の栄誉 京都大学 京都大学
そ れを何度繰り返したか分からないが、最後に舞台から酒やらお菓子やらがばら撒かれ、それに気を取られているとフィナーレの終わりが宣言され、さっきまで寄 せ集まっていた人々はあっけなく解散してしまった。お菓子を拾いながら、僕はまだ興奮していて、先の歌を歌いながらグラウンドをぴょんぴょん跳ね回ってい た。このような経験を、僕は今までほとんどすることがなかったのだ。

次の《集合的沸騰》は、NF目玉のスペシャルライブ、歌い手ピコのライブで あった。ちなみに去年のスペシャルライブも歌い手でChouCho、その前の年はヒャダインである。ピコの歌はアニメ『貧乏神が!』のオープニング曲 『Make My Day!』しか知らないのだが、両声類の歌というものを一度この耳で聞いてみたかったのだ。このライブにはピコのファンである学外の友達二人とやって来 て、それはもう楽しいもので書きたいことがたくさんあるのだが、ここでは話をライブに限ろう。
とはいえライブの前からすでに盛り上がっていて、ニコニコ動画の踊ってみたサークルの企画にはしゃいでいた。それが終わるとすぐに座席に詰め込み、開始直前には舞台の下に押し寄せた。前から二つか三つ目の、歌手が非常によく見える場所である。
ここまで来ると周りはファンばかりで、ピコが現れると熱狂が始まった。歌では皆がある種のフリをするので、僕もそれに合わせて手を突きだしていた。周りのファンや歌手による歌に同調しているようで、心地が良い。フリのタイミングもなんとなく分かってきた。
そ してあっという間に30分のライブが終わると、お決まりのアンコールが始まる。そこでピコが歌ったのが、やはりお決まりの『千本桜』であった。そしてこの 曲において、会場の盛り上がりは最高潮となる。飛び跳ね、合いの手を入れ、舞台の方へ手を伸ばす。友達も興奮してはしゃいでいる。これはもう本当に楽し い。このような場を共有できる友達はこれまでにいない。
ライブが本当に終わっても、まだまだ興奮は冷めなかった。奮発して屋台の食べ物を奢り、浮かれた気分でおしゃべりしたあと、そのままカラオケに行った。そこでも最後はやっぱり『千本桜』だった。

今 までの自分を振り返れば、こうした《集合的沸騰》にどうしてもノることが出来なかった。それは彼らと信条(?)を同じくしていない自覚があったからだし、 彼らからソることそのものが僕の在りうる術だったからだ。その集団に同化してしまったが最後、僕はここから消えてしまう。僕にはそれが怖かった。
しかし個として在ろうとすることは、かえって僕を虚しくさせる。社会からの逸脱は実存からの疎外であり、生きるためにこしらえた道が果てには死へと繋がるのである。
ならば己を世界に没入し、世界そのものとして生きるべきだ。世界を通して他者を見るために、僕は主体性を捨てねばならない。それでも世界を律する術を、僕はもうすでに身に付けているはずだ。

恋愛・性愛について考えるために私が読んだ本

 宮台真司『「絶望の時代」の希望の恋愛学』を先日読み終わった。長期的な愛情関係を取り結ぶまでもなく、その瞬間の交換不可能性 のうちに「瞬間恋愛」は可能であるというナンパ論は、愛についてこれまで自己省察してきた持論がまさしく自己の域を出ていないのだと、その確信を大きく揺 るがせるところがあった。
 それについてはまた後日詳しく書くことにして、ここではこれまでに読んだ恋愛や性愛について書かれた本について挙げ、ごく簡単な解説と感想を述べる。

三島由紀夫『不道徳教育講座』、角川文庫、1967年


  これがすべての先駆けだろう。この本についてはすでに様々なところで書いてきたが、後の私の性愛の理解に大きな影響を及ぼすこととなった。見出しを挙げる ならば、「処女・非処女を問題にすべからず」、「童貞は一刻も早く捨てよ」、「女には暴力を用いるべし」、「痴漢を歓迎すべし」、「モテたとは何ぞ」、 「恋人を交換すべし」といった章である。これらの優れたエッセイを、私の言葉でまとめるには及ばない。

森岡正博草食系男子の恋愛学』、MF文庫ダ・ヴィンチ、2010年


  恋愛について書かれた本で、恐らく私が初めて読んだもの。というのも当時、恋愛という相互行為のありようについて真剣に思いを巡らしていたからである。そ してそうした私の態度は、ちょうど「草食系男子」のそれであった。哲学者・生命学者の森岡正博は「草食男子」あるいは「草食系男子」の語を世に広めた一人 と言われている。
 森岡の著作は以前に『決定版 感じない男 (ちくま文庫)』(2013年。旧版の新書版は2005年)を読んで大変考えさせられていたので、この本も自身の内面としてのセクシュアリティを見つめ直す意味で読んだ。
  自身もモテない暗い青春を経験したという森岡は、こうした「草食系男子」がモテないのは勘違いに基づいた劣等感によるものであり、生身の人間の心の動きを よく観察するところに生じる「誠実さ」を、具体的な行動として女性へと届ける技術をここで書いている。女性との会話の仕方といった初歩的なレベルの指南か ら、女性の心理や生理、社会的な立場についての理解、そしてひいては男としての自分との付き合い方など、ジェンダー論の立場から恋愛について考察してい る。
 恋愛という営みについて当時見識の狭かった私には、これこそが規範的な恋愛だと思った。ここで語られる恋愛は男性が誠実である以上に、女性 もまた誠実であることが前提となっている。しかし後に挙げるようなAV監督やナンパ学者の著作を読めば、その期待は見事に裏切られることになるだろう。女 とはそんなに単純一様ではない。彼の誠実さは彼女に対する失望に繋がることもあれば、彼女を心から苦しめる毒にもなるということだ。

二村ヒトシ『すべてはモテるためである』、文庫ぎんが堂、2012年
二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』、文庫ぎんが堂、2014年



 AV監督・二村ヒトシによる著作で、前者は男性向け、後者は女性向けとして発売されたものである。しかし私としては後者がかなり恋愛の核を突いていると思った。
  前者を読んでいた当時、私はすでに「モテる」という経験ができていたため、モテることをそれほど逼迫して求めていなかったし、今の自分はもはや「キモチワ ルい」わけではないとも思ったので、前半はクリアされていた。後半はより実践的な内容であり、「あなたの中の、女の子。」の章では次の著作に繋がる興味深 い指摘がなされている。すなわちあなたの中にも【女】があり、それは母親からの影響を多分に受けているということである。

 これは女性に とっても同じことであり、そうして親にあけられた「心の穴」について述べたのが後者である。恋に駆り立てられ恋人との関係もうまくいかない原因は自身の、 ナルシシズムが強すぎるために自己受容ができていないからだと説き、「オタク」や「ヤリチン」ばかりの男性や、「心の穴」をあける張本人である親との関係 について確認したのち、自己を受容できるようになるための処方箋を下す。
 AV監督という経験を通して書かれたこの書は女性のセクシュアリティに 対する非常にすぐれた洞察である。精神分析学を少しでもかじった者なら、この「心の穴」というものが心的外傷、すなわちトラウマに他ならないことを悟るだ ろう。それが大変平易で、かつ直截な表現によって、撫でるように解説されている。
 それでもこの書も結局は男性によって書かれたものである。それが10章の女性のお悩み相談や、補章の臨床心理士との対談で、あるものは確認されあるものは批判される節は感心しながら読んだ。
  心の穴と言えば、まだ小さかった頃に木を描く心理検査(バウムテスト)を試したときから木の幹に洞穴を描き込んだ私であった。私が親密さを抱くのがどうい うわけか心に時おり暗い陰を兆す少女であるのも、私自身親によっていつか心に穴をあけられたからなのはきっと間違いない。

坂爪真吾『男子の貞操 ――僕らの性は、僕らが語る』、ちくま新書、2014年


 性の若き社会活動家・坂爪真吾の、セックス・ヘルパーの尋常ならざる情熱 (小学館101新書)に 続く二冊目の著作である。彼の活動については平成25年度の江口先生による応用倫理学の授業で見聞しており関心を抱いていたが、今年になってまさしく私の 考えていた問題、すなわち男性のセクシュアリティについて、「男子の貞操」という問いかけで生協の書店に並べられているその新書を見て、目次を読んだのち すぐに私は購入したのであった。
 上野ゼミ・宮台ゼミで社会学の手ほどきを受けた坂爪の議論は大変的確で、様々な二項対立に付けられた「トロ フィーセックス」「飽色」「ジャンクヌード」といったキャッチーな用語によって「人格」と「記号」との対比が明快に記述されている。我々男子は「お上の見 えざる手」によって性的な記号を通して操られていることに無頓着であり、そのことに自覚したならば自分の性、そして他者の性に向き合っていく技術が必要で あると説き、「男子のセックス」への七つの処方箋を示している。まさしく「性は、僕たち個人や社会の欲望を映し出す「鏡」」である。
「記号化され た性」の消費に対する見通しについては納得した一方で、目指すべき性生活もまた経済的な視点から述べられているのには少し違和感を覚えた。もっともここで 「エゴ」に対しての「エコ」とは"ecology"すなわち生態学的な含意のものであり、性生活の持続可能な循環システム=「セクシュアル・ビオトープ」 を目標として掲げているのだが、「利息」「元本」「コスト」といったアレゴリーからは、むしろ経済のものの考え方が想起される。「セックスは、あくまで睡 眠や食事と同様の、日常生活行為」と言い切る以上、そうした性行為を経済学的に割り切るにはやはり抵抗がある。そして濃密な性体験はどうやら必ずしもそう したコストを必要としない。「ナンパ」という行きずりの方法でさえ、それは可能である。

宮台真司『「絶望の時代」の希望の恋愛学』、中経出版、2013年


 これは本当に刺激的な本であった。読者を否が応にも性愛の実践へと突き動かすものである。
 本書はKindle版の電子書籍、『宮台真司・愛のキャラバン――恋愛砂漠を生き延びるための、たったひとつの方法』が元になっている。この時点で数年前から知っているナンパ師の男が引き合いに出しており、興味はあったものの電子書籍なので手が出せなかった。それを再構成し、新たに書き下ろしを加えたものが本書である。
 宮台真司については援助交際の紹介者として知り、『制服少女たちの選択』は長らく読みたいと思っているが手に入っていない。『増補 サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在 (ちくま文庫)』は現代音楽の歴史的変遷について確認するために少しだけ読んだが、議論が専門的で難しいという印象を受けた。本書は一般向けに書かれた者であり、文章も平易で内容の大半もトークショーのものであるので大変読みやすかった。
  第一部はやや堅い内容で、現代日本と近代ヨーロッパの性愛の変遷をたどり、性愛と政治の二領域においては「変性意識状態」が重要な役割を果たすと述べる。 社会成員に求められるのは損得勘定抜きで湧き上がる「内発性」で、我々が生き残るために必要な「ホームベース」を構築するために、それを獲得する最大の方 法が性愛実践であると説くのである。
 第二部は鈴木陽司、高石宏輔、公家シンジといったカリスマナンパ̪師を交えたトークショーである。この内容 が本当に神経を疑うばかりで、それでいて深く勉強になるのである。ナンパや性愛に対する女性の態度の目から鱗であったが、ナンパ師としての彼らが辿たどっ た経緯もまた興味深いものであった。
 さて私が「自己啓発としてのナンパ」を始めたとして、果たして愛に至ることはできるのであろうか?そうでは なくても、学問的に実りがあることは間違いない。それからすでに窮まったこの状況、打開するにはそれしかないようにも思えるのである。自己の内省に満足す るのではなく、他者との一瞬に生きることだ。今を生きることなしに、未来を夢には見られない。

「男女が制服を交換し、男女の価値観について見つめ直す授業」に対する批判

男女が制服交換し一日を…山梨の高校で試み
男女制服交換:299人がチャレンジ 山梨の高校で
高校生が男女で制服交換 「らしさ」見つめる試み 山梨

 山梨県の県立富士北陵高校で、有志生徒が男女で学校制服を交換して一日を過ごす試みがなされた。"sex"と"exchange"の二語を併せて「セクスチェンジ・デー」と呼ばれるこの企画は生徒の立案によるもので、普段と異なる視点を通して、常識にとらわれることなく男女の価値観を見つめ直すことが狙いだという。この授業の成果をもとに、富士北陵高校は男女それぞれの価値観を尊重した学校づくりを目指すとしている。

 テレビ報道や誌上では、「男らしさ」「女らしさ」について考え直す画期的な試みとして、おおむね好意的に取り上げられている。他方でネット上では「真摯さがなく、ふざけている」「セクシャルマイノリティへの理解に繋がらない」などと批判的な意見も見られた。

 さて、私はこの企画について指摘しておきたい点が一つある。この試みは「男らしさ」「女らしさ」といった男女の性役割を、むしろ強化する方向に働くということである。

  どういうことか。この企画が「男女の価値観」について見直すことを目標としている以上、そこには当然「男らしさ」「女らしさ」といった性役割を含む「男女 の価値観」が社会的に存在していることが前提とされている。それを最も象徴的な形で担う学校制服を男女間で交換することによって、異性の性役割を体験する というのがこの企画の意義であった。

 このとき異性の制服を着たという体験は、異性がその性として生きる体験そのものには必ずしも結びつかない。なぜならそれは学校において制服を着るという制度のなかで得られた「異性」の経験に過ぎないからである。男も女も制服によって、ある性別としての振る舞い、すなわち性役割を強いられていることを、参加者は知ることになるのである。

  そして彼らの「異性」としての非日常の体験は、日常の性的自己同一性を客体化し、より自覚的なものにするだろう。彼らは今日を限りに、再び自身の性別の制 服を着なければならないのだから。異性装という行為そのものは、本来こうした制度をすり抜ける柔軟性を持っている。しかし学校という制度の中においては、 彼らはその性別でしかありえない。

 私がこの企画にどこか息苦しい印象を覚えるのはこの一点においてである。結局の所この試みは、男女別の学校制服という制度の内から出ていない。性別ごとに割り当てられる制服が、男女で入れ替わっただけである。

 参加者の女子生徒においては苦にならない生徒が多かったのに対し、男子は居心地の悪さを感じたというのは、性役割のありようをよく表している。女性、とりわけ若年の女子は日常的に男性的な視線をますます獲得しつつある。 これは先に述べたように社会における女性の地位と処遇が向上したからであろう、というのも女性をそこに迎え入れるという形を取った社会は、本来的に男性の (幻想的な)共同体だからである。ただし二村ヒトシの言うように、女性でありながら「男目線」を持ち、「男と女の社会/女だけの社会」をともに生きること は「しんどい」*。一方の男性においてはその同質的な社会性のため、異性と交流のある一定の割合しかそのような目線を持ちえない。ここにおいてもジェン ダーは非対称である。そして制服という規律こそは、まさしくその非対称な性役割を少年少女に身体化させる装置なのである。
*二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』、文庫ぎんが堂、2014年、95-103頁。

  もちろん、ジェンダー規範が解体してゆくままに、学校制服という制度を全く廃止してしまうのにも問題がないではない。世界的に女性の人権運動が躍進した七 十年代、日本では八十年代以降、人々の間で共有されていたそれまでの性規範が崩れ、若者の性行動の乱れが顕著になった。そのような時代にあって、まさしく 学校の外部において制服がその制度性を漂白し、それを指し示すための記号として利用された女子中高生の援助交際はその最たる例であろう。学校制服は良くも 悪くも、すでに日本の文化の一要素である。

 それでは制服は今後どうあるべきか。私が考えるには、そこに多様性と自主性が取り入れられるべきだ。 制服に「男らしさ」「女らしさ」を残しつつ、それらを自身の性別に関係なく選択することができる。ファッション性や利便性の観点から、ズボンを穿く女子や スカートを穿く男子があっていいと思う。制服の制度性は保持しつつ、日常の服装と同じように選択の余地を設けるのだ。もし制服についてこのような選択が可 能だったなら、私は性別を含めた自身のあり方に対して、もう少し主体的に向き合えたのではないかと思うのである。

 男女の制服を交換するという今回の試みは、それ自体は面白いものであった。しかしその前提として常識とされている、そもそも制服がどうして男女で区別される必要があるのか、その価値観についてこそ人々は見つめ直すべきだったのではないだろうか。

荻上チキ『彼女たちの売春(ワリキリ) 社会からの斥力、出会い系の引力』、扶桑社、2012年

荻上チキ『彼女たちの売春(ワリキリ) 社会からの斥力、出会い系の引力』(扶桑社、2012年)を読了した。

彼女たちの売春(ワリキリ) 社会からの斥力、出会い系の引力

  • 本書に至る契機

 この本を読むに至るまでには一つの筋道がある。そもそもの始めより、若者の性にまつわる文化には大変興味があった。宮台真司『制服少女たちの選択』はかねてより読みたいと思っているのだが、今となっては入手がほとんど困難である。研究の関心がセクシュアリティ、それも男性側のものへと内省的に向かっていた折、生協の書店にて坂爪真吾『男子の貞操 ――僕らの性は、僕らが語る』(ちくま新書、2014年)に思わず目が留まり、それを私はすっかり読んだ。一般社団法人ホワイトハンズを主宰し、社会学者として性の問題に実践的に取り組んできた著者は、そうした性の現実について記述した優れた書籍をSNSにて時おり紹介している。そのうちのうち目に留まった一冊が仁藤夢乃『女子高生の裏社会 「関係性の貧困」に生きる少女たち』(光文社新書、2014年)、そしてもう一冊が荻上チキ『彼女たちの売春(ワリキリ) 社会からの斥力、出会い系の引力』(扶桑社、2012年)であった。

『女子高生の裏社会』は現代のJKビジネスについて、そこで働く女子高生へのインタヴューを通じて極めて冷静にかつ克明に記述したうえで、「子供の現実に目を背けず、大人の側から関係性を築き直す」という、ささやかではあるがはっきりした解決への指針を示した名著であった。それだけに、ジュニアアイドルやエロゲに対する著者のSNSでの感情的なコメントには意外な印象を受けもした。

『彼女たちの売春』はその二年前に出版されたもので、出会い系メディアを介して行われる現代日本の売春(ワリキリ)について広範に取材し、今日に至るまで解決されていない社会問題としてその現状を記述・分析した書である。現在、売春という業態不定の性産業についてまとまった統計データを示したものとしては恐らく他に類を見ない。取材方法は当事者女性へのインタヴューとアンケートであるが、その調査の手法が凄まじい。かたや出会い系喫茶に自ら出向いては片っ端から「トーク」を申し込み、かたや出会い系サイトを巡回しては手当たり次第にメールを送り付け、そしてようやくワリキリ女性との取材に漕ぎつける。こうして得られたアンケート結果は計画的に統計され、調査対象となった女性の総数は三年間でのべ2600人にも及ぶ。しかし読んでいてやはり興味深いのは、インタヴューの中で語られるワリキリ女性の経歴や疾患、ワリキリにまつわるいくつもの体験談、すなわち出会い系に身を置く女性の社会現実である。

 ワリキリの研究に至る著者の経歴には個人的に惹かれるところがある。学生時代から出会い系喫茶を利用していたという著者は、当初から「出会いそのものよりは、観察のほうが目的」だったという。そして「友人や(元)恋人が見ている光景を共有してみたい」という思いが、彼をこの世界へと駆り立てたのであった。私がそこに目を向けるのもまた、「知ってしまった者の義務」からかもしれない。

 私はソープランドピンクサロンといった性風俗はもとより、出会い喫茶ガールズバーといった水商売のサービスを受けたことがない。出会い喫茶はおろか、メイド喫茶にさえ行った経験もない。こうした夜の業界に関心を持つようになったきっかけの一つは『女子高生の裏社会』を読んだことであって、それらを手掛ける人々が息づく夜の都市に少女が繰り出し、たやすくその中に取り込まれていることを知って私は戦慄した。大学に入ってもなお都市に生きることを知らなかった私にとって、大通りから一歩外れた夜の街はとても恐ろしい世界である。去年、地元神戸の名だたる風俗店街、福原・柳町の中を通行しようと足を踏み入れたものの、店番の男に声を掛けられると、私は肝を冷やしてたちまち退散したのであった。他方でそんな都市に幼くしてはぐれ込んだ「不良少女」を私はよく知っている。彼女は一体どのような思いで、それらの世界を見てきたのだろうか?児童福祉をめぐる最近の私の関心は、その目を共にしたかったという思いに間違いなく根を持つものである。

  • 本書の内容と私の感想


 ワリキリとは「お金だけで割り切った、大人の関係」。あけすけに言えば「売春行為(ウリ)」のことである。ワリキリの対価として取引されるのは金銭であり、彼女たちはその金銭を切実に必要としている。出会い系メディアはそうした女性を、異性との出会いや買春目当ての男性と引き合わせる役割を果たしている。

 出会い喫茶は「出会い」を求める男女のための会員制の喫茶店である。男女別々に仕切られたルームにそれぞれの客が控え、基本的には男性が女性のプロフィールカードを勘定し、「トーク」を申し込む。そこで五分ないし十分の制限時間で両者間の「交渉」がなされ、それが成立すれば外出となる。外で男性客は自身のおごりで女性客とカラオケに行ったり、共に食事をしたりするほか、形式上は禁止されているものの売買春も行うことがある。喫茶店の利用料はもちろん、それらの体験に対価を支払うのは男性であり、他方で女性は無料で喫茶店を利用できる。店舗勤務ではなくあくまで喫茶店なので、時間を気にすることもない。出会い系サイトは出会いの場が掲示板上に移ったもので、交渉はメールを通じて行われる。こちらは自宅でできるため、喫茶店に出向く必要もない。

 ワリキリを行う理由は一様ではない。日々の食事や住居にも困窮している「貧困型売春」もあれば、遊ぶ金が欲しかったり将来のために貯金をしたいという「格差型売春」(あるいは「落差型売春」)もある。また彼女たちはしばしば鬱病やパニック障碍といった疾患などのために他の職業に就くことが難しく、社会からの斥力をその身に受けている。ワリキリとても職業として行っているわけではない、ましてやそこで行われる性行為そのものに生きる意義を見出しているわけではないが、時間に制約されない、サービスを強要されない、中間マージンを取られないといった出会い系メディアの利点は、彼女たちにとって強力な引力として作用する。

 彼女たちの証言からは、一概に貧困とか底辺とは言えない女性たちの現状を窺い知ることができた。ホストが心の拠り所になっている者。自傷行為の絶えない者。家庭からは追い出され、住む家を探して男の住居を転々とする者。借金のカタを背負わされ、その返済のためにワリキリを続ける者……。その言葉が真実かどうか疑う必要があろうか?話が聞きたいと取材を申し出る誠実な珍客に、初めて語り出される自らの経験もまた真剣だと思う。

 そこまで素直に信じてよいものかは分からないが、出会い喫茶発祥の地と言われる大阪の「ツーバなんば店」の創業者・福田氏の話は読んでいて非常に面白く、また考えさせられた。親に捨てられ、貧しい農家に引き取られ、弁護士を目指すも高校を中退して大阪に出てきた彼は、「アングラな仕事」で莫大な資産を築くも博打で蕩尽、そのうえ難病に罹って余命を宣告される。一時はあいりん地区でホームレスとして暮らすも、「ババア」の声に一念発起して風俗店を創業。しかしそこで「ダメだわ。こんなことしとったら。女の子がかわいそうすぎる」と思い立ち、「自分を傷つけて、汗と涙を流してつくったお金なんやし、全部自分でもらっていい」と、店の規則や給与体系に縛りつけない売春の場をこしらえた。これが彼の言う「コンビニ喫茶店」であり、後に出会い喫茶と呼ばれるようになる業務形態である。

「必要悪なんですよ、風俗って」と語る彼の言葉には、政治家が語る同じ言葉より遥かに重みと凄みがある。彼もまた人生の瀬戸際で、性産業に活路を見出した一人だったのだ。社会の安穏を謳う市民はこのような現実を果たしてこれまで直視しようとしてきただろうか?本当は彼らこそが無批判に彼女たちを搾取してきたのではないだろうか。

「今よりマシになるために」ワリキリを行う彼女たちに対して、社会はその施策を考え直さねばならない。この本はそうした問題に光を当て、ワリキリの現場に至る道筋を示した。折しも2020年に開催される東京オリンピックに向け、歌舞伎町や吉原といった東京の歓楽街は都市から一掃されるのではと危惧されてもいる。そうでなくとも風営法はますます強化される趨勢にある。しかしそれは最低限のセーフティネットとして作用していた労働の場を奪い、性風俗に従事してきた人々をもっと酷い暮らしに突き落とすものである。

 性産業の現状を是認しようというのではない。最善の策を練るためにはまずその現状をよく見なければならない。臭いものには蓋をする態度に、果たして何ができようか。

 ここに集められた体験談を読む者は、この日本にワリキリを行う女性が十万人前後存在しており、一日に少なくとも一万件以上のワリキリが成立しているという現実に思いを遣らずにはいられないだろう(とはいえやはりこの本を手に取るに至るのは、もとよりそうした問題意識を持った者であろうが)。しかしそれで十分ではない。読者には「知ってしまった者の義務」があるのである。

「買春男に彼女たちを抱かせることをやめたいなら、社会で彼女たちを抱きしめてやれ。」我々も社会の現実から目を逸らさず、生=性の現場に踏み込んでいかなければならない。ワリキリとは異なる、別のやり方で。

 

彼女たちの売春(ワリキリ) 社会からの斥力、出会い系の引力

彼女たちの売春(ワリキリ) 社会からの斥力、出会い系の引力

 
男子の貞操: 僕らの性は、僕らが語る (ちくま新書 1067)

男子の貞操: 僕らの性は、僕らが語る (ちくま新書 1067)

 
女子高生の裏社会 「関係性の貧困」に生きる少女たち (光文社新書)

女子高生の裏社会 「関係性の貧困」に生きる少女たち (光文社新書)

 

 

野々村兵庫県議の会見についての精神分析学的考察

野々村兵庫県議の号泣記者会見が話題になっている。私は昨日は日中手が空いておらず、夜帰ってきてTwitterのタイムラインでこのことを知った。動画を見てみて思わず笑ってしまったのだが、私は彼の取り乱し泣き喚く言動が面白おかしいと揶揄しようとか、あるいは議員失格であると非難したりとか、そういうつもりはあんまりない。私が興味を持ったのは、その様態よりはむしろ発言の内容である。

兵庫県議の号泣会見に「多くの批判」 議会が対応協議へ:朝日新聞デジタル

彼は自身の政務活動費について弁明し、指摘を真摯に受け止め、議員としてそれへの折り合いをつけるのでなければ大人の社会人ではないと述べる。活動費の使途については、調査活動費として正当なものだと信じているようにである。しかし「小さなものが大好きで、ほんとに子供が大好きなんで」と、こうして非難されている大人の自分が子供に対してどうかということに話が及ぶと、言動がやや不安定になってくる。自身が議員になるまでの経緯を述べ、議員として辛くて申し訳ないと震え声で恥じ入った後、高齢者問題の話に至ってその情動は極大となる。私は彼の政治的信条についてよく知らないが、少子高齢化問題についてただならぬ思いを抱いていることが映像からはよくわかる。この言動が演技であるとの指摘がいくつか見られたが、私にはそのようには思われなかった。防衛機制の自然な発露ではなかろうか。

耐え難い状況で泣き喚くといった行為は、防衛機制でいうところの幼児退行に相当する。それでは彼はいったい何を防衛しようとしたのだろうか。議員として、大人の社会人として折り合いをつけねばならないことを彼はしきりに強調した。彼が守ろうとしたのは議員としての大人の像である、しかしてそれは万能な行為主体としての像である。

彼は自身の大人としての像を、議員という役職に同一化している。ところが彼の政治的主張の場面からは、本来的に子供に属するナルシシスティックな一面を汲み取ることができる。彼が惜しみもなく政務活動費を自身の調査費に当てることができたのも、幼児期に端を発する万能感からであろう。彼が泣き散らしたのは、そのような万能感が否定されたことに対する心理的防衛からであった。「私は議員として万能である、しかし議員であるがゆえに大人としての制約を受ける」…。彼にとっての理想的な自己は、自らが実現せんとするところの理想的な社会とほとんど同一である。それゆえに議員としての自身の必死の活動を非難されたことが、そのような理想的な社会の否定、ひいては理想的な自己の否定へとつながり、彼に耐えがたい心理的破綻をもたらしたのである。

しかしながらこの自己像があくまで自己の一局面に過ぎないことを、感情的な場面とは打って変わって冷静沈着としたそれ以外の場面に見て取ることができる。それは幼児的な理想主義者から議員としての本来の立場に切り替わった、ある種の二重見当識のように見える。あるいは「大人」としてのあり方が、コンプレックスとして彼の中に深く根を下ろしているとも言える。

彼はおそらく日頃の政治活動において、至極まっとうな議員であったろう。その精力的な行動力の源泉は、彼が自ら恃むところの子供らしい万能感にある。その子供らしさが議員としてはもとより、大人としてふさわしくないと思うなら、万能であった自身の子供時代を無意識の底から引きずり出すがいい。人々が彼の失態を執拗なまでに反復するのは、子供時代を失った我々もやはり、否定された万能感という外傷を持っているからに他ならない。

ところでどうしても気になったのは、「小さなものが大好きで、ほんとに子供が大好きなんで」という発言である。彼にとって、いやたいていの政治家にとって、子供は所詮自らの政治的理想を投射するための「もの」に過ぎないのだろうか。

西宮・夙川

西宮市展に作品を出しに降り立った夙川の天気は悪かった。
香櫨園のラブホテルの前に、カップルの姿が一組見えた。阪神電車の路線の南側は治安が悪いというが、中流階級の住むこの辺りでも事情は変わらないらしい。
街は殺風景であった。川に沿って遊歩道が整備されており、街並みはよく整備されているはずなのに、人々はどこか空虚に見えた。ランニングする者がたくさんいたが、地面に足を跳ね上げられて、余分な時間に逐われているかのようだった。スプレーの落書きをよく見かけたが、このような環境に暮らしていては、少年非行があるのも無理はないなどと思う。
 
作品を出し終えた後、方角を間違えて浜の方へ出て来てしまう。子供や高齢者がなにやら川の中を覗き込んでいた。引き返して阪急電車の沿線まで来たが、もう一駅歩いて行こうと思い、東の方向にひたすら歩くことにした。
ところが駅にはなかなかたどり着かない。地図を持っていないので、駅がどこなのか、あとどのくらいで着くのか、よくわからない。だんだん陰鬱な気持ちになってきた。雨まで降ってきて、さびしい、だんだん気持ち悪くなってくる。
 
空虚であるのは私であった。実際、あそこに居ていられなくなって、西宮という馴れない土地に足を踏み込んだのだった。人々が空虚に見えるのは、私が彼らをよく知らないからであり、そうして嫌悪される空虚さは、投射された私自身のものである。
死ぬのがいやでのがれてきた…出展した作品は、まさしく生を主題としたものだった。
 
絆とはなんぞや、それは人々の関係性にある。果たしてそれは抽象的に語れるものか。世間の絆言説がうそぶいて聞こえるのは、それが関係性を抜きにして、共同幻想のために投げかけられるものだからだ。むしろそれは個人的に、特定の他者との間に取り結ばれるものである。絆を取り結びたいと願う他者は、孤独な私の心にもいる。
 
やがて駅が見えた。安心して思わず、私はそちらへ走り出した。電車はさらに東の方へ、母から離れる方へ向かう。地面に撥ね上げられ、逐われ続けるわたしの生!