mizuctronica

映画について

ノーマルさの融解、そして浮遊「わたしはロランス」

 

果たして今世紀に「映画」という枠組みで見るに値する作品がいくつあるのだろうか。これまで「映画」と呼ばれてきた現実の再構築としての映像は死に絶えてからいくらか日が過ぎ、もはや乾いた泥土のように細かく散乱している映像断片が細切れにそれもストリーテラーの役割に終始し画面をなぞるだけである。そんな今世紀にグザヴィエ・ドランという男が「映画」を見る動機を再検討させその補正を試みている。

 

グザヴィエ・ドランは廃れゆく作家主義を自認している、私はその想いを一層強く持った。それは彼自身の新大陸のパリ(モントリオール)というハリウッドと作家主義達の交錯点に生を成したことこそ運命なのだろう。言語・文化的にシュレール一派の影響を色濃く受けることのできる地、尚且つ世界の映画を規格化していった合理的精神が渦巻く地という二つの何より土壌の映画的豊穣さをたたえた地にふさわしい才能である。彼が「わたしはロランス」でアンナ・カリーナを言葉にださせたりナタリー・バイの出演から当然詮索可能で挙げだすと切りが無い。そして彼が作家主義を自認していることは今世紀の映画界にとってほとんど唯一と言って良いほど明るいニュースだろう。

「わたしはロランス」において注目される点はトランスジェンダーとういひとつ大河的に多く語られるところであろう。実際近年の映画の主題または根底にトランスジェンダーものは産出している。古典的な愛、友情、冒険の物語が出しつくさえた感がある現在においてそれらはより語られることになるのだろう。そこでドランはトランスジェンダーの正常化を丹念に描き出している、つまりロランス(メルヴィル・プポー)中心主義へのほど良い距離感である。それが近時特に多くみられる単なるマイノリティーのための映画ではなくより包括的で人類的な役割を担える映画を作り出している。

ただ一つ注文を付けるとするならば彼ほどの才能をもってしてもタバコという映画史上最も頻出で優れた演出装置に頼り切っていたのだけは残念だった、それはドランならばタバコを超える新たな装置を映画に定義づけられるのではないかというかすかな期待からである。ただタバコという光学上優れたイメージ(静的、動的関わらず)を表せるもっとも映画との相性が良いものはなかなかないのだが。タバコと映画の関係性はまた後述したい。