もーりーの森

描きながら考えるひと

ここんとこのもーりー

お久しぶりです。

 

ここんとこ1年くらいは、大きなイベントでバタバタして、いつの間にか過ぎ去っていました。

 

昨年の12月ごろから、なんだかおかしい…!

前向きになれない!

 

と言う状態がこの夏くらいまで続き、若干今も尾を引いている模様。

 

こんな時もあるよね…ゆっくりしようかと思っています。

 

そんな混沌としているうちに、無事に産業カウンセラーにも合格!!

 

 

人生のうちで多くの人が多くの時間を使う勤労の時間。

 

やらされたり、嫌々働くのはもったいない!生活のためと割り切るその前に、自分でできることを増やしたい!

 

そんな思いを昔から持ちながら、色々進んで行っています。

 

さて、次は復習しつつ、次のステップも視野に入れて頑張ろう! 

 

 

とりあえずおしまい

昨日実技試験も終わったし、とりあえずこのことについて考えるのはやめときます。

 

だってどう採点されるかわからないし。

 

介入しすぎたかなとか、もっと間合いを大事にしたらよかったかなとか色々思うところはある…

 

とりあえず反省は、その後に入った鰹のタタキ屋さんでノートに殴り書きしたので、そっとしといてください。

 

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足掛け1年ちょっと…

 

長かった!

嫌だなぁ。疲れるなぁ。ドキドキするなぁ。

そんなネガテイブな思いしかなかった一年間。

やれば出来るんだろうけど、あまり簡単に足を踏み込んではいけない世界でした。

 

出来ないから、訓練を積む、そして、そんな簡単には出来るようにはならない。だから訓練を積む。その無限ループにハマる、そのためのスタートラインに立つために1年間頑張ったんだと言うことが今更ながらわかりました。

 

ただ、求めることは、話をしている人の自立した判断を促すこと(多分)

 

気付かせるための介入。

そのために、よくよく話を聞いて、伝え返して、確認して、悩みのタネに気づいてもらって、そっと後押しして…

 

ムズカシイ…

 

 

私はカウンセリングをしよう!という思いがあったというよりも、忖度や他人の価値観に左右されない、自立した働き方がこれからの時代に必要ではないかと思って…(出た!意識高い系発言)

自立した行動や内省を促すための介入ってなんだろう…と(そしてそんなに簡単にわかる訳ではないという沼)

 

とりあえず、

傾聴も勉強しつつ、

可視化な視点から、自分の思いを吐き出して、図解にまとめて、納得して、行動するプロセスを、諸々の理論だったりなんかしたりを、もっと探求していけたらいいなーと思います。

 

もともと、頭の中の考えがとっちらかって、うまく喋られないことが笑い事ではなく真剣に長年の悩みだったので、自分を被験者として色々実験してみますー(´∀`)

 

マズハサクラサケー!

なぜ人は勉強するのか

どうも。明日は産業カウンセラーの学科試験。

 

残業で疲れたーを言い訳に、わりと壊滅的な状況で、さらにブログを書くという大バカ者の私です。(当たり前だけど、この試験、「ちゃんと」勉強してたら通るんだろうな)

 

とりあえず問題集をもくもく。そろそろ寝よう。←

 

ところで、他人によく言われる(正しくは言わせてる)こととして、

 

①勉強熱心だね

②想像力(創造力)があるね

 

ええ。ブンと殴ってやってくださいな。

 

個人的にはどちらも自覚がなく、

(ジョハリの窓というやつか…)

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そういう、「問い」をいただき、改めて考えたのであります。

(どうでもいいけど、「とい」と検索して、「たい」「対」「隊」って、そもそも「と」じゃないじゃないー)

 

私の座右の銘?は

明日死ぬかのように生きよ

永遠に生きるかのように学べ

 

マハトマガンジーの言葉です。

 

まだピチピチのJDだった自己信頼の低い私は、「人は永遠に不完全であるという運命からは逃れられないのだな。」と変にしんみりしたものです。刹那…

 

とはいえど、よりよくいきていくためには、前向いて勉強して、磨き続けたらいいんだなー、と、よく分からないけど、今していることが大事かどうかは別にしてとりあえず前に進む原動力になったような気がします。

 

そういうのが一つ。信条とかいうやつかしら。

 

あと、環境的要因。

 

自閉症の弟がいて家で勉強ができず、とりあえず取れる単位みんな取ったこと、またその意気込み。

 

・周りが看護師、検査技師などの技術系な専門職で、「自己研鑽し、知識も技も磨き続ける」という考えにある人が多く、またその影響をうけたことから。

 

そういう複合的な要因が関係しているものと思われます。

 

 

まわりには、私のとても、とても比じゃないくらい勉強している方は、直接お知り合いの方をはじめ、ごまんといます。

 

私にとって、何か新しいことを知ることは、特に深い意味があるというより、生きることそのもののような気がします。

 

 

そういうところをちょっと分解してみましょう。ちなみに、私自身を分析した話なので、学術的に正しいかどうかといった視点はありません。

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 生まれた時は、この世のことはほんのわずかしか知らないとして、何年色んなことを蓄えていく(DNAとか遺伝の話はちょっと置いておいて)

 

歳をとると、経験だったり人脈だったり、いろいろ蓄えが増えていきます。

 

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 絶対的な評価ができないとしても、なんでも「あるに越したことない」と思うのです。

 

むしろ、たくさん蓄えた方が、次の一手を踏み出しやすい、悪い言い方をすると、たくさんの人に出会っていろいろな考えに触れた方が、そこから、いい考えをもらってぱくりやすい。

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私は自分の中に天性の何かがあるとは思わなくて、また、0から1を生み出すことは出来ないと考える人です。

 

 たくさんの考えや、モノ、コト、あらゆることにいかに触れるかで、アウトプットに作用すると考えています。どろくさい。

 

なので、なにか役に立つために、生きる意味を果たすために、蓄えては出して、蓄えては出してしています。

 

蓄えなくしてはアウトプットなし。

そんな感じ。

(逆に蓄えたらばアウトプットしなさい)

 

だから、何か私から出ていたら、ああ、何か蓄えたものが出てるんだな!と思わなくてもいいけど。

 

時々、「少子化の世の中のために子どもをたくさん作りなさい!」と言われることがありますが、子どもがいない分際で言えないですが(言うけど)、子どもだけが、世の中への貢献ではないと、今はそう思っているため、おひとり様をしています。

 

今の私の幸せの中には子どもはないんですよね。

 

 

そんなこんなで、ガンジーさんがいったように、

 

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 学びの世界は底なし沼。

 

なので、私も、明日の試験に向けて必死で追い込むのです。

 

本当に人は学ぶのであれば、もっと早く勉強しはじめましょう。

 

やはり、いつまでも勉強ですね。

今年の目標!

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の前に、

私がよくおちいるループ。

 

いろいろ考える→思いつくまま話す→言い過ぎる→落ち込む→ますます考える→でもそのまま言っちゃう→言い過ぎる→落ち込む→さらに考える→でもやっぱり言っちゃう→言い過ぎる→落ち込む→

 

あまりにもいつもすぎて、そろそろ学習しなさいよ!とも思うのですが、

 

あまりにもいつもすぎて、多分、私はこんなもんなんだろうと、30になって諦めました。コミュ障だし、がんばりません。

 

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おそらく考えてから話すまでの間に、どこか欠落しているものがあると思うので、そこを埋める何か、を探そうと思います。

 

仮定

(頭の問題)

①考えをまとめられない

②忖度できない

(口の問題)

③口が悪い

④唐突に話してしまう

 

①考えをまとめられない!

お!これはグラフィックで解決できそう!!

 

②忖度できない

これは、もしかすると忖度しすぎて墓穴を掘っているパターンかもしれない疑惑あり。

ここは正直にはっきり言ってみる路線で言ってもいいかも。空気読む…もいいけど、なんでもほどほどに。

 

③口が悪い

これは結構致命的。

バリバリ播州人丸出しはさすがにあかん…

最近周りにど丁寧な話し方をする人がいるし、直そう。

 

④唐突に話してしまう

これは、私が宇宙人と言われてしまう、頭の中の宇宙をそのまま話してしまい、周りポカーンな現象。

これも、グラフィックで現実のものとして具現化してから話し始めます。

 

そんなこんなで、

今年も元気に生きて行くために、

ぼちぼち、書き書きしながら、

がんばりますー

 

 

ファシグラで2017年を振り返る

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こんばんちは。

 

先日、One Day Cafe.kyotoさんのファシグラで2017年を振り返るというイベントに参加してきました。

 

(ファシグラって何…?ググってください)

 

午前中は、ひたすら基礎練基礎練!!!!

 

午後は、今年1年を振り返るという事で、①聞き手②話し手③書き手の3人1グループ書き合いっこしました。

 

書いたことある人も、書いたことない人も一緒に、ぶっつけで書くので、非常に熱い!熱い!時間でした。

 

①聞き手をして思ったこと

語ったことが見える形で残るので、ただ何もなく聞くよりも聞きやすかったです。

普通に聞くだけだと、話が流れていくような印象ですが、言ったことが見えると、いったん止めたり、戻ったり、先に進んだり、お互いに確認しながら、話を深めていくことが出来ます。

 

②話し手をして思ったこと

聞き手の方が、見える化された情報をもとに深堀りしてくださるので、さらに話が進みました。20分話す時間があったのですが、足りない足りない!もっと話出来そう!と思いました。実際に事前に宿題として考えてきていた1年の振り返りの半分くらいしか話せませんでした。それだけ深く話せたのだと思っています。

ちなみに、私の2017年は「受難の年」というタイトル・・・

良くない事もたくさんあったのですが、、、いいこともあったかな。

 

③書き手をして思ったこと

他の書き手の方を見て思った感想になるのですが、やはり、わかりやすさを構成するものは=綺麗さではないなと思いました。

(以前も書きましたが、「綺麗」という言葉に若干のトラウマがあるので…)

文字だけでも十分通じる。わかる。

綺麗な絵を書こうと思って書くのではなく、わかりやすく書くことを主眼に置いて、ビジュアルエイド的に絵を使うというスタンスでよいのではないでしょうか。

 

あと、個人的には前にホワイトボードミーティングの時に課題だった、要約しすぎず、言葉をそのまま書いてみるということに気を付けてみました。あとは、話している人の方を向いて書いていると、どうしても字が斜めになってしまったことが改善点かな。

 

聴く話す書くが三位一体となって、相乗効果が働いていたように思います。面白い!!!

 

(KFKF書いても聞いて書くぞー○本ノックの会しなきゃ…!)

 

そして、最後の問い。

「あなたは何故ファシグラをするのですか?(うろ覚え)」

 

私の中では、まだ自分のため、自分のぐちゃぐちゃした思考をまとめるため、内省するため…としか言えません。(ファシグラというかただの「グラ」?)

 

いっぱい書いた日、内省が深まった日というのは、ダメージもそれなりにあって自分自身と向き合うという事は意外と大変なことなのだなと感じています。

 

向き合いたいとき、ただ悶々と悩むよりも、書いて解決する。

その方がいいときもあるのかなと。そういう時に可視化進めていきたいです。

 

可視化は多分メンタルヘルスの諸問題に良いこともあるはず。

 

あ、あとパリジェンヌはファシグラ体験が1回だけでも、グラフィックレコーダーと名乗るそうなので、私も今日からそう自称しますわ。おほほ。

 

あこがれのリオデジャネイロ…もとい、パリジェンヌ!

(注:あこがれのリオデジャネイロとは、ファンクラブに入るほど好きなピアニスト塩谷哲さんの曲名。また塩谷氏は自身の前世をパリジャンと自称している。)

 

 

可視化とモヤモヤのいい塩梅

ところで、横文字は得意ですか?

 

私はこれでも英文科卒業、短期留学あり!という家計に合わず贅沢なJDだったのですが、

 

横文字を使うのはあまり得意ではありません。

(というかだんだんダメになって来た)

 

というのも、海外から来た言葉は100%日本語に訳することができないからで、

 

その言葉を聞いたり、理解することが「なんとなく」掴めても、それが他の人にも伝わっているのかどうかというと、日本語よりもさらに怪しい感じになるからです。

 

ただ、手法だったり、固定化したものもありますね。(A-KOMIKとか、KYTとか…しまったこれは横文字ではなかった。)

 

あとどうしても訳せないとか。

 

アイデンティティ…の意味は…

 

うむ。アイデンティティですね…

 

 

意味は分からなくても英語のモヤモヤを楽しむのは好きなので、夜中にムフムフ言いながらラジオを聴いて、ニュアンスや音を楽しんでいたりします。

 

ただ、人数が多くなるとき、しっかり共有したいとき、そういう時は、横文字の方がメジャーになりしっくりくるのか、訳した方が良いのか、それともキャッチーな言い方に変えた方が良いのか。

 

可視化する人として、そういうところにも気をつけていきたいなとおもいます。

 

 

可視化とモヤモヤのいい塩梅〜プロローグ〜

可視化とか、デザイン思考とか、見える化とか、構造化とか、なんかそう言う感じのものに興味があるもーりーです。

 

私はわりと知ったかぶりというか、知ってるような知らないような曖昧なことを誤用して適当なことを言ってしまうことが多いのです。

 

あとから、違うよなーって恥ずかしくなります。

 

でもいいんです。…いいのかな…。

 

 

ところで、美しさだけが見える化の要素ではないと思うのです。

 

というのも、5,6年前ワークショップのような社内プロジェクト等で資料を作ることがあったのですが、その時にある職員より、

 

「綺麗すぎて頭に入ってこない」

 

と言われたことがありました。

(その人はフィードバックの鬼なので悪口というわけでは決してない)

 

その時に、私は何のために資料を作っていたのかなと思いました。

 

【作りたかった資料】

①分かりやすい

②楽しくなる

 

元々あまり楽しくないミーティングだったので、極力分かりやすく親しみあるものを目指していたら、

 

①自分が楽しくなって装飾しすぎた

②分かり易さよりも親しみの方が勝ったが、受取手は楽しさを求めていない

 

ような感じになってしまったと思います。

 

受け取り方は十人十色あるとは思うのですが、23や24の調子乗った私には、非常に良いフィードバックだったように思います。

 

そういうことがあり、美しさというものに偏らず、わかりやすさを構成するものは何か?ということを追求するようになったのでした。