桃大福のメモ

感想文みたいなものです。

本を守ること、本に託すもの-『ナチスから図書館を守った人たち 囚われの司書、詩人、学者の闘い』

ナチスから図書館を守った人たち 囚われの司書、詩人、学者の闘い』(デイヴィッド・フィッシュマン)

ナチスから図書館を守った人たち:囚われの司書、詩人、学者の闘い

ナチスから図書館を守った人たち:囚われの司書、詩人、学者の闘い

 

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学生時代の終わり頃、コンマリさんの本を読んで断捨離をしたことがある。ものを手に取ってみて、それがときめくかときめかないかで、残すもの、手放すものを決めてゆく。その結果、日常で着る服が2着しかなくなり、当時お金がなかった私は新たに服を買うこともできず、着る服がなくてとても困った記憶がある。

 

その時にほとんど手放せなかったのが本だった。コンマリさんの教え通り、ちゃんと一冊一冊手に取って考えた。ときめくかどうかを。それはもう、時間がかった。時間をかけて選別した末に、ほとんどの本が手元に残った。

 

 

私は本が好きだ。読書が好きだ。文字、言葉に触れることが好きだ。

 

「あなたにとって“本”とは?」と問われたら、「ロマンです」と答える。私を楽しませてくれるもの。壮大な夢を見させてくれるもの。新しい見解を与えてくれるもの。美しい言葉で癒してくれるもの。前を向かせてくれるもの。私は本というものに、強い憧れを抱いている。

だから、文章を書く人、それを本として仕上げる人、流通させる人、そういう人たちを尊敬してる。そして、本を守る人も。

  

 

本か、それとも命かーー

 

見つかれば命はない。それでも服の下に隠して守ったのは、食料でも宝石でもなく、本だった。

最も激しいホロコーストの地で図書館を運営し、蔵書と文化を守ったユダヤ人たちの激闘の記録。 

ナチスは迫害を正当化するため、ヨーロッパ全土のユダヤ人から蔵書や文化的財産を略奪し、ドイツ国内のユダヤ民族研究図書館へと移送した。しかし、ドイツに送られるのはほんの一部。残りの大半は焼却され、神聖なトーラーの巻物はナチス兵の革靴に再利用された。 

本書は、最も激しいホロコーストがあったポーランド領ヴィルナで、自分たちの文化が踏みにじられるのを許すまいとした通称「紙部隊」――知識人ら40名のユダヤ人たちが命をかけて闘った、知られざる歴史の記録である。

http://www.harashobo.co.jp/book/b436791.html

 

自分自身の命をかけて、本を守るために闘う。「紙部隊」の人々全員の、本に対する思いが同じであったとは思わないが、それぞれに本を守りたかった理由があったのだろうと思う。主人公のシュメルケとその友人のスツケヴェルは詩人であったし、「紙部隊」の隊長は図書館の館長だった。本が略奪されたり廃棄されたりすることに対して、黙って見過ごすことができなかったのだ。本が、それほどまでにある人にとって大きな、失ってはならない存在になることがある。

 

そもそも、どうして彼らは本や書類のために、命を危険にさらしたのか?彼らによれば、文学と文化は絶対的な価値があり、個人やグループの命よりも偉大だという。もうじき死ぬに違いないと信じていたので、残りの人生を本当に大切なものに捧げることを選んだ。たとえそうすることによって死ぬことになっても、シュメルケにとって、本は少年時代に犯罪と絶望の人生から救ってくれたものだった。今度は恩返しとして、彼が本を救う番だった。

ナチスから図書館を守った人たち 囚われの司書、詩人、学者の闘い』p130

 

文学や文化の価値を信じ、危険を顧みずそれらを守ることを選んだ人々の存在に、私は尊さを感じた。極限の状況に置かれていも、守り抜きたかったもの。自分が死んだ後もこの世界はきっと続いていく。だから、自分がいない世界でも、その世界を生きていく人々のために文化的財産を守ること、引き継いでいくこと。その勇敢な行為に舌を巻く。

 

 

『書物の破壊の世界史 シュメールの粘土板からデジタル時代まで』(フェルナンド・バエス)には、本の破壊について以下のように書かれている。

だからこそ私は、書物は単なる物質としてではなく、個人や共同体のアイデンティティ、あるいは記憶として破壊されていると考えるのだ。

『書物の破壊の世界史--シュメールの年度版からデジタル時代まで』p32

 

破壊されるのが“単なる物質として”の書物ではなく、“個人や共同体のアイデンティティ、あるいは記憶”であるならば、守るものもまたそうだ。ナチスから本を守った人々は、自分たちのアイデンティティや記憶を守りたかったのだ。本を守ることで、彼らの希望を、戦争が終わって生きのびたユダヤ人に託したかったのだ。

 

 

 

本が好きな立場として妙なことかもしれないけれど、「本が破壊される」というテーマにとても関心がある。服が破られる、コップが割られる、本が燃やされる。物質が“ダメになる”という点では同じなのに、本が燃やされるという行為に何か意味を見出そうとしてしてしまうのは、単に私が本好きだからで、本への偏愛によるものなのかもしれない。しかし、本というものをただの紙と紐でできた物質以上のものとみなしている人は、少なくないのではないかと思う。それほど本は人を魅了するし、人は本に期待を寄せる。そういう存在である本というものが、明らかな破壊の意図とともに失われていくことに対し、本を愛する人はやるせない思いを抱くのではないだろうか。

 

長い歴史の中で、多くの本が破壊され、失われてきた。別にそれは本に限った話ではなく、誰かが大切だと思っているもの、残していきたいと思ってきた他の何かも、同じなのかもしれない。ただ、私は“一本好き”の人間として、できるなら、いつも本が傍にあってほしいし、多くの本が未来に残され、多くの人に共有されてゆけばいいなと思っている。そしてその存在が、いつの時代も自由なものであってほしいとも思っている。

 

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文中で引用した本。

『書物の破壊の世界史--シュメールの年度版からデジタル時代まで』(フェルナンド・バエス

書物の破壊の世界史――シュメールの粘土板からデジタル時代まで

書物の破壊の世界史――シュメールの粘土板からデジタル時代まで

 

 

 

 

 

テレビの向こうのアイドルにはなれないけれど-『オーディションから逃げられない』

『オーディションから逃げられない』(桂 望実)

オーディションから逃げられない

オーディションから逃げられない

 

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新卒の就活がはじまりましたね。人事関係の仕事をしている友人が「2019年入社の新卒、大変だった!全然採用できなかった!」って嘆いてました。売り手市場、すごい…。今年もそんな感じで、学生さんにとってはよい状況なのかな?

 

私が就活したのは結構前で、リーマンショックの影響がまだまだ続いている時期でした。だいたいの年齢がばれますね。自慢じゃないんですが、いえ、やっぱり自慢しますが、私は100社以上にエントリーし、落ちました。リクナビのボタンをポチ、だけの企業はカウントしていません。エントリーシートなりSPIなり、一次選考に参加した企業の数です。盛ってません。ほんとに100社以上です。

これだけの企業に落とされるというのは、リーマンショックのせいではなくて、明らかに自分のせいです。突出する能力のない、勉強と部活とアルバイトをそれなりにやっていただけの私が、それに加えて性格もちょっと…という私が、簡単に内定をもらえるわけなんてなかったんです。反省しています。

それでも、同じようなスペックの友人や私より成績が悪く不真面目だった知人(失礼)が、苦しいながらも内定を獲得してゆく。私は一向に内定が出ない。もうほんと、辛かったです。

結局、その就活の時期に私の内定は出ませんでした。その後いろいろあって今は定職に就いていますが、あの時私は選ばれなかったんです。1社からも。

 

中学生と高校生のとき、あるスポーツをしていました。私は一度もスターティングメンバーになったことはありません。控えとしてベンチには座っていましたが、公式戦に出場する機会はありませんでした。真面目に練習をしてきたけれど、一度も選ばれませんでした。

 

数年前、好きになった人に3回連続でふられました。3人連続です。私は恋人として、選んでもらえませんでした。

 

 

 人生はオーディションの連続だと思います。

 本気でそう思っています。

『オーデションから逃げられない』p3

 

“選ばれない女性”の展子。自分の好きな人は自分の友人のことを好きになってしまう、美術部に入ったけれど作品で賞がとれない、内定がでない、夫の会社が倒産する… 自分のことを“ついていない”と思っている。それでも生きていくうえで、誰かに選ばれたり評価されたりすることは避けて通れない。日々、オーディションの連続。そんな女性の物語です。

 

選ばれる人っていますよね。テレビに出ている女優さんやアイドルを見ていると、ああこの人は選ばれる人なんだなあ、って思います。もちろん彼女たちには彼女たちなりの努力があるとは思いますが、美しい顔やスタイルはある程度生まれ持ったもので、彼女たちにはそれがあった。そして私にはそれがない。

 

私はすっかり“選ばれない癖”がついてしまっているので、最近は選ばれないことによるダメージは少ないのですが、たまーに、どうして私は選ばれる星のもとに生まれてこなかったのかなーと、ぼんやり思ったりはします。

 

物語の主人公・展子は結局、自分なりの幸せを見つけます。

 先のことはわかりませんが、選ばれなかったことも楽しめるような、そんな人になりたいと思っています。

『オーデションから逃げられない』p341

 

物語の終盤は予定調和な感じで、まあこんな感じに幸せを感じていくのがいいよね、というのが感想です。歳を重ねて、いろんな経験をして、こういう形で落ち着くよね、という感じ。穏やかな展開。

 

 

こういう“選ばれる・選ばれない”の話をすると、夫は厳しい顔をします。そうですよね。私は夫に選んでもらえたんだから。テレビの向こうにいるアイドルのようには選ばれないけれど、夫からは伴侶に選んでもらえた。それは私にとって幸せなことでした。(“選んでもらった”と書いていますが、もちろん夫はそんなこと言いません。私があえて書いているだけです) 

 

「ぐだぐだ言ってないで選ばれるように努力しなよ」ごもっともです。

「自分が選ばれるフィールドで戦いなよ」ごもっともです。

でも、人が選ぶもの、ペーパーテストじゃなくて就活の面接とか何かの作品とかそれこそオーディションとかって、多かれ少なかれ選ぶ人によって判断基準が異なっていて、理不尽なこともあると思うんです。そういう場面で、“選ばれる”人と“選ばれない”人がいて、ああ自分はいつも選ばれない側の人間だなあと思ってしまうことがある。ほんとはそんなこと(いつも選ばれないなんてこと)ないはずなんだけど。

 

長々と“選ばれる・選ばれない”ことについて書いておいてあれですが、私としては、私の人生としては、選ばれたとか選ばれなかったとか意識しなくなることが幸せかなあと思っています。日々オーデションな人生は、ちょっと遠慮したい。精進しなくちゃ。

 

“選ばれない”話で思い出すのは、はせ おやさい さんのエントリー。“選ばれない”ことに悩んでいた当時、とても勇気づけられました。

hase0831.hatenablog.jp