「こちらポポーロ島応答せよ」

momongamo2007-02-02



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「こちらポポーロ島応答せよ」乙骨淑子 おつこつよしこ(理論社


「こちらポポーロ島応答せよ」は1967年から68年にかけて同人誌「こだま」に連載後、1970年太平出版社から刊行。1986年に理論社から「乙骨淑子の本」第3巻として、1995年「新装版 乙骨淑子の本」第3巻として発行される。


四国の山のなか、とある水力発電所に転勤となった「ぼく」は、医師の「トド先生」とともに天狗塚へ登り、テングと遭遇する。山の奥深くにサケビという天狗がいると恐れられていたのだが、これは原住民で、「下の人間」に追われて山の奥へ奥へと追いやられ、「ヤマトウ国」をつくっていたのだった。


やがてぼくとトド先生は、「ポポーロ国」から妻を捜しにきた「ひょう六氏」と出会う。警察からスパイと疑われ追われるひょう六氏をヤマトウ国に逃がし、ぼくとトド先生と旅館の女中さんだった「モコ」の三人は、ひょう六氏の故郷である地中奥深くにあるというポポーロ国へと向かう。銀色のもぐら号に乗り、オレンジ色の炎をくぐって。


ポポーロ国は、東京を裏返したようなウリ二つの街でありながら、国境もなく、貨幣経済もなく、色々な人種の人々が色々な文化を重んじながら自由に暮らしているユートピアだった。トド先生が東京での夜に霞ヶ関ビルの窓から見た「くらいくらいやみ」宮城の場所は、ポポーロ国ではアゴラと呼ばれる広場となっていた。


地上に戻ったぼくは、ヤマトウ国が焼き討ちにあった現実を知る。そして世界国際会議では、ポポーロ国に原子爆弾を落として消滅させることが決定する。トド先生はつぶやく、「おれたちはほんとうにポポーロ国へ行ったのだろうか――」と。ぼくとモコは、自分たちのポポーロ島をつくるために、漁船に乗り無人島へと向かう。


著者の乙骨淑子は本書で、国家とは何か、というテーマをストレートに投げかける。それは、敗戦の日皇居前広場で土下座したという軍国少女だった著者の、終生のテーマであったのだろう。国境のない世界、貧富のない世界は、本当に実現できないのだろうか……。


そんなあつい思いを抱えながらも、共産党の内部対立にまきこまれ組織に絶望した経験をもつ著者は、決して声高に「起ちあがれ!」とは言わない。本書の最後に著者は、電波の糸でつながるトランシーバーのように小さな心の糸で、しかし力強く共鳴することを求め、モコの口を借りて読者に呼びかける――
『こちらポポーロ島 こちらポポーロ島 応答せよ』、と。

《モコの顔に夕日が赤々とさしこんだ。ぼくは今、銀色のもぐら号の中でみた、あのにえたぎるオレンジ色の炎の中にいるのだ。ポポーロ国の人たちの心の中に――。》


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「雷の落ちない村」


雷の落ちない村
「雷の落ちない村」三橋節子 みつはしせつこ (小学館)1977年発行


昔々、琵琶湖のほとりの小さな村に、「くさまお」といういたずら小僧の男の子がいた。あるときくさまおは、村人を悩ませていたカミナリを退治してやろうと心に決める。琵琶湖の主の大なまずに、カミナリの手下の雷獣を捕まえるよう教えられたくさまおは、村人たちと大きな網をつくりとうとう雷獣を捕まえる。だが、村人たちに石や棒でいじめられる雷獣をみたくさまおは……。


作者の画家 三橋節子は、1939年(昭和14年)生まれ。1973年、癌のため右腕を切断。その後も左手で作品を描きつづける。日増しにつのる死の予感のなかで、長男くさまお、長女なずなの二人の子どもに贈ろうと描き始めたのが、本書であった。絵本の完成を見ることなく、1975年、節子は35歳の若さで亡くなる。くさまお5歳、なずな3歳の初春であった。死の前日まで、本書の制作に当たっていたという。


残された原画が12枚12場面。夫の画家 鈴木靖将が6枚6場面を描き足し、文章をつけて、本書は完成した。描き足した場面は白黒となっており、本書にどこか未完成感を漂わせている。幼い二人の子どもを残して筆を置くことが、母親としてどんなに無念であったことだろう。自身画家でありながら、描き足した6場面を白黒とした夫の勇気と喪失感にも、心を打たれる。


右腕切断後、わずか半年で描いた代表作のひとつ「三井の晩鐘」は、三井の晩鐘に伝わる母と子が引き裂かれる哀しい民話をもとに描かれた。その三井寺を遠望する大津の高台に、三橋節子美術館が建っている。今年はぜひ、訪ねたいと思っている。


google:三井の晩鐘
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「わたしを離さないで」


わたしを離さないで
「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ 土屋政雄=訳(早川書房)2006年発行


提供者と呼ばれる人々の世話をしている介護人「キャシー」は、自身が仲間とともに育った謎の施設「ヘールシャム」についての回想をはじめる。施設での奇妙な日々、謎めいた展示会への出品、謎の人物「マダム」、教師たちの不可思議な態度、仲間たちとの出会いと別れ……。


これから本書を読む方のために、これ以上のストーリーは控えるべきだろう。読み進めるのが難儀なネチネチとした筆致(作者の血液型はAB型か?!笑)だが、頁をめくる手が止まらないのは、謎めいた施設や人々の織りなす世界に漂う終末感に引き込まれてしまうからだろう。


私(本ブログの管理人)は難治性の難病患者のひとりだが、いつの日か特効薬が見つかり、治療法が確立することを心の底から願っている。病気に苦しむ本人や、その家族、親しい友人であれば、至極当たり前の願望であるだろう。だがしかし、「待てよ?!」と立ち留まらせる力が、本書にはある。高度にシステム化された社会には、光とともに陰がある。そして、陰のなかにも希望がある……。そんなことを感じさせてくれる本だ。


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「二つの国の物語」

momongamo2007-01-08



ISBN:4652042248
「二つの国の物語」赤木由子 あかぎよしこ(理論社)1981年発行


1966年、「柳のわたとぶ国」として発刊。1980年〜81年、続編の第二部「嵐ふきすさぶ国」・第三部「青い眼と青い海と」を加えた三部作を「二つの国の物語」として発行。1988年、著者の赤木由子氏没。1995年、理論社の戦後50年特別企画として、三部作が一冊にまとまった「二つの国の物語」《全1冊》が発行される。


1935(昭和10)年、両親を亡くした小学校1年生の「ヨリ子」は、《満州》の寧安で写真館を営む兄三郎と愛子夫婦の元にもらわれて海を渡る。三郎は優しく、愛子は天女のような素敵な女性だった。ワンパク娘のヨリ子は、寧安の街中でも元気に走りまわり、中国人の友人もすぐにできた。現地の中国人と日本人は、その頃は比較的仲良く暮らしていたのだが、日本の戦況の悪化とともに、日本人の振舞いは横暴となり、憲兵や軍の行ないは陰湿化・凶悪化の一途をたどる。


ヨリ子は、中国人とのふれ合いのなかで、日本軍がアヘンをつくって軍資金とし、「抗日匪賊」がケシの花畑をつぶそうとしていることを知る。そして、憲兵に追われながら中国からやってきた青年「路英」とヨリ子との運命的な出会い。抗日運動に身を投じる中国人たちとのふれ合い、日本軍や教師・芸者さんなどの様々な日本人との出会いを通して、成長し、勉強し、自分の頭で必死に考えようとするヨリ子。


やがて、日本の敗戦、ソ連軍の侵攻・略奪、逆転する中国人と日本人との関係。極限の状況の下で、人間はどうもがき、どう生きるのか。敵地のなかで国に棄てられた国民は、寒さと飢えに耐えながら、どう生きるのか。国境を越えた普遍的な人間の姿を、見事に映しとって行く。最後の場面、引き揚げ船のなかで生まれる、青い眼の新しい生命。激しく非難する人々は、絶望のなかで生まれた新しい生命を祝福することができるのか……。


日本軍に村を焼かれ小さな弟を殺された中国人の少年が、ヨリ子の前で自作のこんな歌をうたうシーンが心に残る:

おいらに、弟がいたよ。 きかんぼで、かわいかったよ。 おいらに、母さんがいたよ。 ときどき、おいらのおしりをぶったけど、 おいしいさとう菓子を、つくってくれたよ。 おいらに、父さんがいたよ。 まっ黒に陽にやけて、大きな手に、 クワをもって、畑をたがやしてたよ。 父さんがまいた、ちいさなタネが、 土のなかで、ダイコンになったり、ニンジンになったり、したよ。 でも、いまは、村に、だあれもいない。 日本の鬼がきて、殺したよ。 弟よ、おまえは、ヒバリになって 村を守っていておくれ。 ザオチェン兄さんが、同志をいっぱいつれて、 村へ帰る日まで。


「柳のわたとぶ国」は、著者のデビュー作であった。この作品は、奇跡的とも思える困難な状況下で生まれている。大陸から子どもを連れて引き揚げた著者の日本での生活は、上野の地下道から浮浪者の子どもたちと共に始まった。貧困、本を読むことも小説を書くことも許さない夫、闘病、火災による子どもの焼死、原稿の焼失……。著者と家族たちは、そんな絶望のなかで、《その原因にたいして体当たりしないかぎり、希望は生じないことを自覚するように》なる。そうして生まれたのが、本書であった。


本書は、《満州》という地で何があったのかを克明に描き出し、人間社会の絶望に満ちている。ヨリ子の明るさ、前向きさが、私たちに救いを与えている。著者の願いとは遠く、中国と日本は、そう遠くない将来に、また戦争に巻き込まれるような気がしてならない。「二つの国の物語」には、どんな未来が待っているのだろうか?


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『final your song』


final your song
最近、SeanNorth(シャーンノース)の『final your song』という歌にすっかりハマッています。この夏、一番のお気に入りです。


SeanNorthは、千葉県出身の男女3人組ユニット。透明感あふれるボーカルと、どこか懐かしさを感じさせるメロディライン。30数年前に『翼をください』の《赤い鳥》を始めて聴いたときのような感覚です。

《僕がもしもいなくなれば 君は泣いて鳥になるだろう ナミダの海を背に 空へ溶けてゆくだろう。 だから僕は生き抜かなきゃ アスファルトに根を張ってでも……》


アスファルトに根を張った「ど根性ダイコン」を彷彿とさせるこんな言葉から始まる歌は、喪失への怖れを漂わせながら、生きること愛することの意味を問いかけ、《愛はいまここに きみのすぐ近くに》あることを伝えます。

《……生きることはただそれだけで 素晴らしいとか 誰が決めたの? そんなの意味がない……》


この歌を聴きながら、すぐそばにある《愛》に気がついたり、思いを伝えられなかったひとのことを思い出したり、離れ離れになってしまったひとのことを想ったり、日常から足をとめて、ひとはそれぞれ色々なことに想いをめぐらすことでしょう。


夏の暑さにも、台風にも、病気にも負けない、元気をもらえる歌です。


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「被爆太郎伝説」


シナリオ 被爆太郎伝説
被爆太郎伝説」伊藤明彦 いとうあきひこ(窓社)1999年発行


被爆太郎》とは何者なのか?を描いた、シナリオ文学。ところどころに挿まれた、写真の頁が効果的だ。原爆で半分になった神社の鳥居、原爆資料館で展示に見入る若者の眼差し、カラーで映し出す現代社会の断片、そして被爆者一人一人の名前が書かれた録音テープがまるで位牌のように並ぶキャビネット……。


主人公「津川」は、被爆者およそ2000人を訪ね、“被爆者体験”を収録しつづける。約半数の方からは、人でなしと罵倒され、政治団体かと疑われ、嫌なことを思い出させるなと、冷たく拒絶される。


そんななかで出会った被爆者「木村信二」は、美しく献身的な姉との被爆体験とその後の闘病体験を、とつとつとリアルに語り、津川を感動させた。だが、ひょんなことから、彼がニセ被爆者であり、美しい姉もいなかったことを、知ってしまう。


木村信二とは何者なのか?どうしても確かめたくなった津川は、木村の「自殺」後、彼の兄を探し出し訪ねるのだが……。


やがて津川は、原爆搭載機の出撃の際に祝福を与えたとウソを語る神父が、来日し平和行進に参加していることを知る。《被爆太郎》に、《加爆ジャン》。彼らはいったい、何者なのか?


彼の兄から話を聞いた津川は、その答えを知る。《被爆太郎》と《加爆ジャン》の意味を、知る。そして最後に津川は、自分が被爆者から罵られながら、なぜ1000人もの被爆者の声を集めつづけたのか、その自分の行動の意味についても考え、明かしはじめる。《被爆太郎》に導かれるようにして……。

《死者を死せりと言うなかれ。
生者のあらんかぎり、死者は生きん。》


被爆者の声》
http://www.geocities.jp/s20hibaku/index.html

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「原子野の『ヨブ記』」

momongamo2006-08-13



原子野の『ヨブ記』―かつて核戦争があった
「原子野の『ヨブ記』」伊藤明彦 いとうあきひこ(径書房)1993年初版


1968年の晩秋、長崎放送のラジオ番組「被爆を語る」がスタート。初代の担当者となった著者は、第一回放送日に32歳の誕生日を迎える。それから、著者の長い旅が始まる。半年後には担当を降ろされるが、翌年退職。早朝・深夜の肉体労働を続けながら、著者はほとんど一人で全国の被爆者を訪ね、その声の収録を続けた。


被爆者およそ2000人を訪ね、半数の方には断られ、1002人の収録を終えたのは、1979年夏、著者は43歳となっていた。その後、音声作品化された『被爆を語る』は、全国900余の公共図書館や大学・高校等へと寄贈された。被爆者のいくつかの話を中心に、収録作業のなかで感じたこと、考えたことを記したのが本書だ。


広島のある被爆者は、被爆直後にこう感じたという。

《人類の滅亡を直感した。原子爆弾とはあとからきいた。そのごの核兵器の状況など思いつくすべもない。しかし人類はほろびると直感した。》


冷戦は終焉したとはいえ、今も世界は不毛な争いに満ちている。敗戦後、原爆を落とした国の核の傘のもとに高度経済成長を続け、自ら歴史を顧みる機会を逸してしまい、昨今では米国への追随を強めるばかりにみえる日本。そして、劣化ウラン弾が経済的という理由で何の躊躇もなく使われる世界。


本書の第二部では、16世紀の終わり近くから始まったキリシタン禁令以降、信仰露見による過酷な迫害を幾たびもくぐりぬけ、カトリック信者の聖地ともいえる長崎浦上、その象徴ともいえる浦上天主堂のほぼ真上に、神はなぜ原子爆弾を落とされたのか、という疑問を、被爆者の話をもとに考えてゆく。


被爆を契機に棄教したという浦上の信者に、著者はひとりだけ出会う。しかし30数年後に、実は信仰を棄てていなかった事実を知らされる。かれらは神をいささかも疑ってはいない。

《もっとも多い意識は、……全能の神が人類にたいする警告として原子爆弾を投下されたとき、燔祭のいけにえとしてもっとも清らかな魂をよしとされたという意識だと、わたくしには感じられます。……浦上にたいする原爆投下が種痘としてのやくわりをはたし、人類を天然痘という全身の業病から救済した。全能の神はそのいけにえとしてみずからにもっとも忠実であり、みずからがもっとも愛する浦上のひとびとを選ばれたのだという意識です。》


この夏、私はなぜ本書を読んだのかに触れておきたい。同じ著者による『未来からの遺言』を、私が読んだのは今から27、8年前。この本も被爆者の話をまとめたものだが、私のこころの片隅には、この本がずうっと滓のようにへばりついていた。今年の4月と7月に、伊藤明彦氏のことを伝える新聞記事をたまたま読み、ネットで検索して未読だった本書のことを知ったのだった。


『未来からの遺言』でとりわけこころに残ったのは、とつとつと被爆体験をリアルに語っていたある《被爆者》が、実は被爆を経験していなかった《被爆太郎》であった、というくだりだ。私のこころがこの本にへばりつかれてしまった原因は、何だったのだろうか?それについては、もう少し考えてみたい。


本書「原子野の『ヨブ記』」にも、実は加爆を経験していなかったと思われる《加爆ジョージ》が登場する。いったい彼らは何者なのだろうか……?


http://www.geocities.jp/s20hibaku/index.html
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