反省と抱負に代えて

 そんな余裕はないときの方がかえってこういうものに向かってしまうものです。今回に関して言えば、連休に挟まれた授業をオセロのように休みに塗りつぶしたにもかかわらずせっかくの10連休を現実逃避に費やしてしまってもう残すところ休みはあと一日といった体たらくなのであります。今もこうして何かを書こうとして手を動かしてはいるのですが、ほんの1分前に書こうかなと思っていたことも頭からこぼれてしまって、ああ、言葉というものはつくづく自分とは異質なものでつかみどころがないなぁなどと思わされてしまうのです。裏切られ方としては、言おうとしていないことを言ってしまうよりマシでもあるがそれ以下でもあるのでしょうそれでも現時点ではさっき言おうとしたこととは別のことを言っているのであり、その点ではしっかり裏切られているわけですが、それは言葉の問題と言うより自分の問題であるのではないかと疑ってしまうのです。自分は語ることのなさを語ることで証明していく節があって、それは自分の寄る辺のなさを確かめることでもあるのです。そんなことを言ってもその営みは頓挫するものであり、実質的には言葉にべったりなのです。しかしこれぐらいがちょうどいいのではないか、別に無理して抗ったとしても、いったい何になろうか、などとぼんやりディスプレイを見ながら思うのであります。

コーヒーブレイク

 読むと書きたくなるってどうやら事実(というよりみんなが実感として納得できること)らしいのだが、どうなんだろう。そういう気分にはあまりならないのだが、自分の浅学さ故であるように思えてくる。それでも読んだ言語と同じ言語で書こうとする感覚というものはあって、簡単なメモすら外国語で書けないときには歯がゆい気持ちでいっぱいだ。まだ読むだけでかなりつらいものがあるが、ひたすらこのまま読むほか道はない。のでは。ないので、しょうか…
 もう少しで10月が終わってしまうということで、わずかな時間を見つけて書いている。こんなことをするぐらいなら他にするべきことはあるのだが、頭の片隅にずっと引っかかっていたもので。新学期始まってからというもの、予想以上に暇がない。こんなことになるとはあまり考えていなかった。暇。ひま。ヒマ。ここにきて今まで暇を満喫してきたことを全面的に賞賛できる。どこへ行ってもこんなものだろう。どこに行っても、「こんなところに来るんじゃなかった」だとか「ほかに行けばよかった」と思うことは、逆に言えばどこでも自分には均一に開かれているということでもあって、まぁ悪いもんではない。まだ生活のリズム、過ごし方の点で慣れない感じがあって苦痛なのだが、時間様に土下座して解決してもらいましょうね。という考え、おそらくは好ましいものではないのだろうなぁ。
 

休日

 北の方、といっても大した距離もないお隣の県なのだが、用事があって行くことが多い。中途半端に空が広く、その田舎とも都会とも言い難いどっちつかずな空がどことなく不安をあおってくる。ここにやってくるようになってまだ日が浅く、見慣れない。目線を下にやれば、まぁどうってことはない。少しゆったりしてるかなー程度。とぼとぼ歩いて目的地。そこは改装中で、入り口もとってつけたようなものであるが、中はいかにも新しいといった顔をしている。用があるのは奥の方だ、奥に進むにつれ新しさは身をひそめていく。親近感と失望感、言い過ぎか。

 部屋に入ると、懐かしい気持ちと歯がゆい気持ちに毎度のことながら向かい合うことになる。何事もなさそうなら一安心、何かあれば心配。しかしそれ以上に油断しようものなら自分の愚かさがそれこそ矢のように刺さってくる。この歳で5年前はおろか、10年、15年前のことを後悔するなんてな。まったく。些細な日常の出来事の中に、いかに当時の自分が何も考えていなかったが割と鮮明に思い出される。この後悔から学ぶもの、反省するところは一切ないといってよい、と思っている。自分が今後どう振る舞ったって、その過去の事実は消えるわけではないし、自分の思いを「そうなってほしくない」といって他人に投影して押し付けるのもナンセンスだ。教訓めいたものを何も得られず、何にも生かせない、それでおしまい。だからこそその後悔は一回きりのものとして私に残り続ける―そうであると信じるのではなく疑わず。なんにでもthatをつけてしまえばこっちのものである。そしてまた一つ、自分は何も知らないし、知ろうともしてこなかったことを知る。それならばなおさら、せめて自分の中にあるものくらい、手放さずに済むということはないのだろうか。自分の中にあると思っていた身体感覚や記憶、そういった類の消失というやつは予想以上に手ごわいもので、1なくなっただけでも10ぐらい持っていかれた気がしてくる。取り戻せないばかりか、もう二度と触れられないことがわかりきってしまっていることがただただ恐ろしくて。持っていかれたものはどこへ行くのだろう。代わりに何かやってきたというのかい、悲しみなんてちっぽけなもんじゃあ埋まりっこないさ、僕をなんだと思ってるんだい、もう。

 ここを後にする際はどうもいたたまれない気持ちになる。振り返って見上げて、「よろしくお願いします」と呟く、殊勝じゃあないか。

 このままだとどこまでなくなっていってしまうかわからないという焦り不安と気丈に振る舞うその姿は自分の中では相反するもののように思えて、どこか腑に落ちない。忘れることで自らを守ろうとしているのであれば、甚だ迷惑余計なお世話である。ただ、これは誰しもが通る道で自分はおそらく対処の仕方が下手なんだろうなぁ…そう思いながら家路につく。次の休日に、またここに来れることを信じながら。

10月1日

 と書いておいてもう2日になっているところが自分という人間をよく表しているように思いますがそれは置いといて。
 
 何を思ったかこのブログ、再び始めることにしました。自分の中ではだいぶ間があいた気がしていたのですが、実際は半年ちょっとでそれほどでもなかったかなぁと。何かをしていない、という期間はそれが意図的であるにしろないにしろ割と長く感じてしまいます。

 再び書き始めようと思ったのは、今日が10月1日という本来なら大学が始まるであろうキリのいい日だったからという間接的な理由もあるが、やはり何か変わらないといけない、という予感・迷い・疑いが先細った挙句最も手軽なところで落とし前をつけた、というところだろう。また、なんだかんだ書くことから逃れられなかった、ということもある。それは「書く」という行為それ自体によるものであるかもしれないが、私の自覚している性格であるところの「なかなか始めることはしないが一度始めたことはなかなかやめ(られ)ない」というしつこさ、諦めの悪さ、執着心に起因するものでもあると思う。こうした心境になったのは、ある時期からなるべく考えないようにしていた進学先がとうとう、ようやく、ついに、というより思いのほかあっさりと決まってしまったことの影響は少なからずあるのだろう。だいぶ長い前フリを終えてもうすぐ始まろうとしているのだが、自分の身辺を探ってみるにどうもそのような気がしない。私の思いとは裏腹に物事は進んでしまうもので、大抵は遠くからその様子をぼんやり眺めている。そしてああ遠いなぁ、と独り言。私は大学という場所で、何もしてこなかった、何もできなかったに等しい。私は、ここで書くことを以って始めたい。

 こう言葉にすると何かたいそうなことでもするかのように思えてしまうがまったくそんなことはなく、特別書くことなどない。あっても身の回りのことをあれこれ、それだけのことだ。それがなんだっていうんだ、しかし今の自分にはそのことが割とたいそうなことであるという思いがしてしまう。だからこそ、大袈裟に振る舞って見せる。まぁ単なるその時点での些細な気持ちの動揺とか、そういった類の大したことのないものが原因なんだろうが、気づいた時にはどうしてか前のようにはいかなくなっていたせいだ、それが積りに積もって。傲慢にも何かを失った気にさえなった。そういったことは一番避けていたつもりだった。

 なんで今更(ニュアンスは少し違うが)ブログなんて、という思いもある。今どういう人がこういった媒体で物を書いたり、あるいは書こうとしたりしているのだろう。ブログを日常的にやっている人なんてほとんど知らないし(ぱっと思いついたのが桜雪とか?)、いつの間にか自分も他人のブログを見るということもしなくなった、SNSってやつの浸透によるのだろうか、よるのだろうね。たぶん。だが自分にはああいうところよりもこういうところのほうがいい、と思うのもこれで何度目か。なんとなく、なぜだろう、考えてみるに人の目を気にしないとかそういうことか、単純。twitterでも誰かとコミュニケーションを交わすことはめっきり減ってしまったし、それはできなくなってしまったということかもしれない。しかし他人の目をまったく気にしていないわけでもなく、前からとぼとぼ続けていたものに加筆していくのは若干の気恥ずかしさを伴う。さっぱり新しいものにお引越しするという誘惑も結構あるが、今まで書いてきたものは自分で受け止めていかなきゃね、のような義務感もあり結局こうすることにした。誰も見ていないかもしれないし、誰か見る人もいるかもしれない、そのこと自体は自分にはあまり関係ない。そんなもんだ。

 こんな感じで、毎日なんて書けっこないし、少しずつでいい。肩肘張ることなんてないし、これがなんにもならなくったっていい。そんなのは当分おさらばだ。


 ここまで書いてみて、言葉に鈍感であるなぁという感想。痛感。

既に、もう

 一年間を(半ば強制的に)考えさせられる機会があったが、時期が時期だけに受験のことが脳裏をよぎってしまう。思えば受験に対するコンプレックスを拭いきれず引きずりまわった年と言えるかもしれない。そしてこれは少しずつ形を変えてはいるかもしれないがいまだに自分の中に確固たるものとしてある。消すのではなく、薄く小さくすべきなのだろう。
 大学にいると、自分はなんでここにいるのかなぁという気がしてくる。どうしてここまで来ちゃったのかなぁと。こんなところに。こんなところまで。
 振り返ればやはり私は何かにとらわれ、抗おうとしていた。というより逃れようとしていたと言った方が適切か。この身を取り巻く、その流れに。それはいわゆる「何と闘っているかわからない」状態だったかもしれないし、結果として何の実にもならなかったかもしれない。おそらくそうだ、だれの目にもそうだ。しかしまた、その場で足踏みをしたという事実そのものが自分にとっては何らかの重みをもっている気がしてならない。進んで足踏みをしたということ、これが大きな一歩である認識が、どうしても自分から離れない。時間に追われず、あえて時間を無駄にすることで、十二分に気儘にやれたと思う。ただ、時間が足りないというより時間が遅いというのがどうしても越えられない壁のように立ちふさがっている。こればかりはどうしようもないのだろう。問題は、問題としてそこにあるから問題なのであって、もう過ぎてしまえば、問題ではなくなる。解決する必要はなく、それは不可能かもしれない。
 この一年は異質なものとして、自分の前にある。と思う。似合わないことをしないつもりが、それ自体が似合っていないという転倒は、起きていたかもしれない。よくわからない。回帰していくのかもしれない。そこには暖かいがどこかつまらないもの、がある。という信念。やっぱり面白い方がいい。結局、私は幸せであってきたし、今もそうだ。ただ。一寸先から目をそらしているだけだ。残したいものなど何もないかもしれない。それは、自分の中だけからは生まれえない。多分、一度見た道のはずなんだが、戻ってきたという感じではない。

 朽ちていく中では全てを汲み上げることなど不可能で、そこには諦めがついて回るのだが、そこでまた諦めきれないものが出てくる。今の私は諦めるために生きているというのに。

5thツアー

試験も一段落ついたということで。普段はなんか書くかぁといって適当に書き始めるのですが、こう特定の内容を書くぞ!って意気込んでずいぶんと久しぶりな気がします。ある種もともとの目的が達成されるような。

というわけで先日武道館に行ってきたわけですが、ライブに行くのは一年少しぶりというのと前評判?がよかったのもあって結構期待していましたが幸運にも裏切られることはなかったです。うーん、こうアルバムの出来がイマイチというか質はそれほどいいとは思えなかっただけにどういった感じになるのか不安もあったのですが、うまく料理してくれたといったところでしょうか。「HOW CRAZY YOUR LOVE」と自分でタイトルつけただけあって「聴きに来てくれるぐらいの愛情があるの?」とでも言いたげなようにも。

今回は一階席の奥で良席とは言い難かったのですが、スクリーンで彼女の表情を見ていて「あれこんなにも表情豊かだっけかなぁ」と思わされました。曲調に合わせるかのごとく顔がリラックスしたりキリっとしたり変わっているように見えたのは、あの人が緊張しいだという先入観で今まで気が付かなかっただけかもしれませんが新鮮でした。

また、ラストの涙を見せながらも歌いきる様は4年前とどこか重なるようでどこか違っているようで。アンコールの時?もう少し前かな?途中からどこか涙ぐんでいるような様子を見せてはいたと思うのですが、本人にも思うところはあったのでしょうね。私自身としてもどこかそういう雰囲気はありましたし。曲数もいつもより多めでセトリも充実していて、今まで行った中で最高の出来だったと思います。

ともあれ、帰ってきてくれたなぁという印象を受けました。待った甲斐があったというものです。もう一回ぐらい行きたかったなぁ。

よくある話

 私は極めて自己中心的な考えの持ち主で、他人を人と思っていない節もあります。最悪独我論に陥ったりもしてみたり。他人のことについては冷めた見方しかできないですしねぇ。ブログというのはしょうもないある種病的な自分語りをするのにぴったりなわけで、今日も画面に向かってしまっています。


 もともと他人の言う事はあまり聞き入れない方でしたが、大学に入ってからは自分の中にこもって考えることが増えたような気がします。嫌われないように人の目なんかも気にする方だったのに、どうでもいいなぁというかしょうがないよな思うようになって。昔とは異なって、自分はこうだと盲信していたものを、実はそうではないのではと、ゼロベースとでも言いましょうか、今まで積み上がってきたものを打ち崩して、振り出しに戻るようになりました。そこから見えてきたものも多いですが、その分自分の考えがガタガタにぐらついてフラフラによろめきました。以前と異なって頼る自分もない。
 だけど自分の中だけで全てをどうにかするのは限界があるんですよね。当たり前ですが。まぁ無理だとわかっていても、語り得ないものを語りたいと思うように、そうしたいと思うこともあることはあるのですが。そのくせ自分でしようにも中途半端なままで抜け出せなくて。そもそも、あそこに行ったのも自分でどうこうするためではなく、周りから何かを学び得たいという思いがあったはずなんですよね。人任せではあり普段のスタンスとは矛盾していたのですが。まぁ薄々実感を伴っていたのでしょう。それが、自分の卑小さに完膚なきまでに打ちのめされ、自分が自分でなんとかしなければいけないともがくようになり、空回りしていった。もうこんな歳なんだしだったり、今までの自分の遅れを幾度となく感じ焦っていたことも関係あるかもしれません。これは今でも拭いきれてはいなくて、これからどうにでもなるとはいえ棒に振ったという思いは脳裏に焼きついて離れません。コンプレックスのようにこびりついている。生きていれば誰かには迷惑をかけてしまうし、情けなくもなる。つまるところ自意識の中に閉じ籠ることで自分の傲慢さ、驕りを放置し、見ないようにしていたんですね。意識はしてないでしょうがふと気づかせてくれた人たちには感謝しています。当人は多分これを見てはいないでしょうしだからこそこう書けたりもできるわけで。普通に見られたらこっ恥ずかしいですね(苦笑)私には友人と呼べる人はごく僅かしかおりませんが、だからこそそういう方たちとの出会いを大切にしたいなぁと改めて。

 今の自分は、躍起になって自分に拘っているようで。自分の危うさに辛抱が利かなくなってきたとともに人も捨てたもんじゃないよという思いも少しは生まれつつあるなぁと。自分の思想、考えの弱さというものも、年季を入れて耐えていくことで強くしていくことも考えますが、どうなんでしょう。まだ確信を得ているわけでもないですし。同じところに立ち続けるのはなかなか困難です。何かに気づく時に、それが頭から消えない保証は、少なくとも自分の場合にはなくて、何回も同じ道を通っているかもしれません。しかしその度に深く跡を残せたら私は満足です。

 
 今なぜ死ねないか。この場において。このまま。やはり、未練たらたらで執着しまくりなんですよ、この世に。死ぬ程絶望してないし、この年にしては珍しく真剣に死のうとしたこともない。自分の一生に意味が見いだせないのと同じように、この場で命を絶つ意味もまるで見出だせない。楽になるか?本当に?得体の知れない世界に足を踏み入れる勇気がない、と思えるぐらいにまだ期待してはいるのでしょう。最近の自分は自分でも目も当てられない程ですが、それでも、です。

 人生なかなかうまくできているようで、やっと自分にとっての難題をくぐり抜けたかと思って少し安心していたらまた別の難題が生まれるもんなんですね。一難去ってまた一難とはよく言ったものです。そう言えば、「カンタンにいかないから生きてゆける」なんて言ってた人がどこかにいた気がしますが、どうなんでしょうねぇ。