殺人考察(笑)

6月27日に、日本の犯罪者リストを眺めて思って書いたメモ。

※「空の境界」の考察ではありません。

誰も見ないと思いますが、この記事に書いていることで私を犯罪者など勝手思わないでください。普通の人で、多分ほとんどの人よりは優しいと思っています。

 

どうせ、誰も見ないので公開をします。

 

人を殺した人の殆どは、殺人を犯した自覚がないと思う。もしくは、殺人を犯す前から、殺すということはわからないだろうね。大体は「死んじゃった」ものだろうから。

  • 放火は自らで手をくださないため、さほど罪の意識を感じられないと思う。殺すなら目の前で相手の目玉をもぎ取り、窒息などではなく、相手ののどか頸動脈を思い切り突き破り、血の雨を振らせて殺す。このくらいしないと、人は自分が殺したという、「殺人を自覚しないのでは?」

バットで殺しても「あれ?死んじゃった?」とかでその人は済ましてしまうでしょ?

 

殺すのならば惨殺な方法を持ちいらなければならない。「自らが殺した」といっぺんの疑問も疑いもなく、やれなければいけない。

 

ナイフで刺しても、「あれ、刺さった?血がなんか流れてきている?」とかではいえない。“自らの体で他人の体を死に至らしめたときだけの感覚”がなければ人は自覚しない。

 

  • 多分こいつらは、「幼児が相手ならば人格がないよね。」とか、変な感覚を持っている。いや、殆どの人がそうか。

 

だから、子供のスナッフビデオなどがある。

「人ではない」と思い込んでいるからね。日本と言うか、殆どの人がそうなのだろう。だから、奴隷や子供は殺してもいいという缶買うになる。

結局は「自分が悪い気がしないから」というどうしようもない、自己愛的で自己中心的、かつ、他者に対しては「虫と何ら変わらない感覚」を持っているのだろう。殺すなら同い年にしろと。」

 

なにが言いたいのかというと、より間接的なところなくしていかなければ自覚がわかないだろと。

 

こどもであってはならない。女であってはならない。奴隷など、下に見る人であってはいけない。外国人出会ってはならない。無関係な完全な他人であってはならない。

言葉を交わしたものでなければならない。

その上で、素手で殺せ。後でもしないとお前らは自分の殺人を殺人だと自覚できないだろ?

 

女であってはならないのは

「俺は今、自分の手で人を殺しているんだ」ということをハッキリと自覚しなければ行けないため。だから、ビデオなども本来はあってはいけない。

 

  • 変態性欲はその程度であってはならない。本物でなければならない。そんなもので満足をするような人は本当にそのような、人の首をしめて殺すところも本物ではなくなるだろう。

 

間接的なものを介してのものであってはならない。素手でなければいけない。誰かにやらせるなど論外である。ものに頼るなど論外である。自らの手で相手の、体温を感じながら、血をその体に浴びせながら、相手の命を絶つのでなければいけない。

 

それ以外は偽物だ。弱き者の、弱き、自分ものを、自分と感じたくないための行為だ。素手でもいくらでも殺せる。目でも突けば相手を殺せる。そこから、脳みそまでえぐれば良い。指で突き刺した後に目玉から棒で脳みそをかき混ぜれば良い。

 

微塵も怖いとは思わないな。なぜなら、殺人者に恐怖や自覚がないのだから。

 

殺人は「人を殺すこと」に主眼を置かなければならない。

性的なものであってはならない。

 

  • 本当に情報操作など、こっちのほうが職業にはあっていそうだな。生ぬるすぎる。

 

  • 「悪い」ことってなんだよ?「悪い」ってなに?人を自分の手で殺したこと?

 

多分悪いことをした人の大半は「悪い」という言葉や罪悪感というものに感情をごちゃまぜにしてしまうが、要は自分が何をしたのか、よくわかっておらず自覚がないわけでしょ?

 

姦淫も罪よ。自分のために人を利用した辞典でそれは罪なんだからさ。

自分は間接的であれば「自分は違うね」など、自覚のないばかりか、「やっていないよ」などと主張をしてしまうのも嫌いなんだ。

 

  • だから、人は殆どの人は鬼畜であると思っている。ただ、間接的で自覚がないだけだと思うよ。

 

  • 殺すならばできるなら、友人であったほうがいい。同い年などの友人であれば、「自分と同じような人間を殺すんだ。命を奪うんだ。」という自覚が出てくるだろ。これが同い年であっても他人になれば、一気に人を殺すという自覚性が減る。果たして自分は人を殺しているのかもわからなくなるだろう。もしかしたら、人の形をしている何かを殺しているのかもしれないなどと考えたりするかもしれない。

 

殺すのは他人であってはいけない。その時点で人を殺している自覚性が減るからだ。

 

  • 正直なところ、家族や友人殺しよりも、他者を殺すほうがよっぽど罪が重いけどな。俺の中では。それは「自分の感情を満たすための行為」へと変わる。殺人としては手段的なものへと成り下がるためだ。殺人は殺人そのものが重く見られなければならない。

 

家族や友人を殺すほうが「自分が、”人を殺すんだ”」と自覚が芽生えていいだろ。“感情の持っている、痛みも感じるし、自分と同じ人間を殺すんだ”と思えたほうが。

何かを身に着けようとすると何も身につかない。「役に立つかもしれないから」的な考え方でやっても、ほぼ身につかないし、やるだけ無駄な時間だと思わされることを繰り返して

  • 科学のこれがやばくて「科学的方法を施行すればなんでも解決すると思っている。」

 

例えば「英語を身に着けたい」ならば、コツを教えてもらって、映画などを見たりする。1週間位は続くがその後はぱったり。みたいなことね。他にも、「夜に単語帳を読み返して、寝る前の長期記憶にインプットする」これらもまずいよね。そういった「効用的なやり方」は長続きしない。

 

そもそも動機が弱すぎる。歯磨きなどは普段からやっているからいい。必要だからやっている。けど、学習などは言ってしまえば「必要ではない」から、やりたくなければやらないで済む。

 

  • 文章力もそうだけど、簡単にコツを読もうとするとおそらく続かない。いや、コツを今でも調べようとしないのはだめだけど、新たなことを学ぼうとしてはいないけど、簡単にコツを実行してしまうとそれで終わってしまう。

 

  • 試行錯誤も自分にはあっていないよね。「まずは自分で自由に書くことから」これからなんだよね。

 

まあ、学生のときは寝る前に単語帳を見るのはいいかもね。まだ、必要性があるから。けど、おとなになってから「身につけたほうがいいから」とかで夜に単語帳を見ても続かないんだよね。

 

  • 最大限の動機は「必要性」なんだよね。英語なんて「必要性」でやっている。けど、コミュニケーションなどで必要性がないとやらなくなるよね。だから、今になって必要性が出てきている。

結局やることは変わらない。

 

英語、投資の勉強など。

 

まあ、実際には1ヶ月で身につくものでもないからこそ、全力を尽くして「ある程度のレベルにまで行きたい。」簡単な読み書きや話せるレベルになると後はそこからは、ニュースを見たり映画を見たり趣味的な自然学習でもどんどん上がっていくから。何を言ったり書いているかがある程度わかるから、わからないところだけをピンポイントで調べればいい。単語でも何を言っているかはわかるけど、見慣れない単語ならそれを覚えるだけでいい。

 

  • まあ、「必要性にもレベルがある」がこれも、身近であるかどうかだろうな。身近に起これば起こるほど必要性が増す。

 

  • 基本的には継続性

けど、「興味・探究心」は永続性があるが、どうもブレが出てくるね。やらなくなれば、全くやらなくなる。

ここでは、基本的にワードでの独り言を載せているので、誰かに見せるために書いているわけではありません。

 

タイトルの通り、ここでは基本的にワードでの独り言を載せているので、誰かに見せるために書いているわけではありません。メモというよりはつぶやきです。

 

なので、基本的になんの脈絡もなく話が進んでいることが多いです。文脈もメチャクチャです。1年後に自分で自分の投稿をした文章を見てもワケがわからなくなっていると思います。

 

なので、基本的に(もし、僕の記事を見てくれるような暇人がいるとしたら)ここでの文章はワケがわからないことが通常であると思ってください。勝手に僕の文章を読んで、勝手に解釈をしてくれても構いませんが、文章に前後関係と補完性がないためメチャクチャですので、あしからず。

功利主義についての思考断片メモと、ネットでの情報の扱いについて

  • いいか、悪いかというよりはどうであるかだよね。まず、よくわかっていないのにいいか悪いかを決めてしまうのはおかしい。なぜなら、さっきも話したように「それが自分なら?」判断は覆るし、主張もブレブレになる。「そういう話じゃない」と言わんばかり反論はするが、けど、「あなたがさっき自分で言っていたことじゃん」となる。だって、そういうことだから。

 

ようは状況によって簡単に覆るような考え方は正しいとは思えないね。まずは、そこを吟味してから思想がどうであるかなどを考える。

 

  • ちょっと待って“科学的見解に基づくなら“、「と言われてる。」など、根拠の薄いものに頼るのは危険すぎやしないか?そもそもその根拠は正しいか正しくないか以前に、どこからそんな話が出たの?どんなデータからその見解が生まれたの?そもそも「言われている。」という言葉が使われるくらいだから、根拠以前にそもそもサンプルが少なすぎて、現代科学の数の多さから導く統計的手法が行われていなのでは科学もクソもないのでは?

 

だって、10人の話を聞いてあなたも実行すれば簡単に金持ちになれる。そんな話でしょ?けど、あなたがその行為をするだけでお金持ちになれるのなら、だいたい殆どの人がお金持ちだろうね。ここでの言いたいことは「そもそもサンプルがまったく足りていないのに、たまたま少ないサンプルから出てきた結果をあたかも、その物事全てに適用させようとしていることね。」

 

東大生は方眼紙ノートを使う。ならば、みな方眼紙ノートを使えば東大にいける。(もしくは行ける可能性が高くなるか、それに準じた大学か)

んで、東大生全員にノートは何を使ってますか?って聞いたことはあるの?5000人以上のノートは見たことはあるの?東大には毎年3000人ほどの入学者がいるらしいけど。

 

  • 要は偏見に満ち溢れているということ。情報はね。

 

まあ、正しいかどうかで結論づけてしまうのもどうかと思うけど、「結局のことは人々の見方や、最終的に行為によって得ようとする結果は変わらない」んだよね。その行為に対して、不快など一種の感情を感じるだけで、やることは変わらない。

 

むしろ、それを何度も正当化しようとして失敗している。失敗と言うか本質が変わらないのに、その場その場の状況によって主張を放っても、目的が一貫していないので、無理があるのだけど。