鳥取県東部地区における、道徳科教科書採択過程への疑義と諦念

【採択結果への疑義ではありません。議論の過程の杜撰さに疑義があるだけです】


まず、私は、現在の職を賭すくらいの思いで投稿しておりますのでご承知ください。

令和6年度から使用される教科書の採択結果等が公表される時期となりました。自分が道徳科の教科書を編集・作成していることもあり、次年度以降の教科書を、自分の地域ではどのような過程で採択しているのかについて確認をするようにしています。以下のリンクに会議録がアップされています。

第2回 東部地区教科用図書採択協議会会議録(要旨)に、各教科の調査報告と協議の内容が書き上げられています。
p.22からの「道徳」を読み、内容を確認しました。採択の結果は、これまでの教科書会社のものを引き続き採択するということで、「まあ、そうなるのだろうな」と特に驚きはありませんでした。
ただ、調査員からの報告とそれに基づいた協議内容には、疑問を抱かざるを得ませんでした。

二点ある中の一点目は、「鳥取を取り上げた教材について」です。調査員の報告の中で、委員から「鳥取県の教材を使っているところは○○(教科書会社名)だけだったか」との質問に対し、調査員は「はい。委員で見たときはそうだった」と答えています。
これは事実と異なります。私が作成した教科書には、「一木一石運動~自然保護運動の先駆け」という教材を来年度から掲載するようにしています。鳥取県民なら、ましてや教職員なら、「一木一石運動」と聞いて鳥取県大山を扱った教材だとわからない者はいないと考えます。複数名の調査員すべてが、この事実を見落としたということでしょうか?それとも、別の意図があってのことでしょうか?いずれにせよ、私が作成した鳥取県を取り上げた教材は、調査員の報告では存在しなかったこととされたというのが事実として記録に残されたわけです。
この報告を受けてなされた協議でも、「○○(教科書会社名)は、鳥取の教材が使用されており……」、「鳥取の教材は○○(教科書会社名)かなと」、「教科書で鳥取の題材が使用されることはそんなに見かけない」という事実誤認に基づいた調査報告によって議論が進行されています。

もう一点、協議の中で、「(○○は)県内の元校長も執筆者の一人。県内の人間が作成に携わったという意味でも……」と、教科書編集委員に県内関係者がいることを理由に挙げています。私の携わる教科書会社は、私も含め複数名の地元の教育関係者が執筆・編集に携わっています。もちろん(あまり気は進まないのですが)教科書の奥付にも学校名と氏名は記載していますし、教育委員会には教科書の執筆・編集に関わる兼業届も提出して受理されています。そのうえでこの協議内容ですので、私は鳥取市の教育関係者として認知されていないのか、私が教科書編集に携わっていることに些かの価値も見出していないのかのどちらかだと捉えざるを得ません。

繰り返しになりますが、採択結果に一切の反論はありません。どの教科書であれ、使いこなしてみせるのが担任教師の本分です。
しかし、教科書調査員の杜撰な調査、それに基づく偏った情報による協議内容については、疑念を抱かざるを得ません、それが、教科書作成と編集に携わる者の矜持だと考えます。ましてや、自分が現在勤務している自治体がこのあり様では……

未来を創る子どもたちの教育の基盤となる重要なツールのひとつが教科書であると考えます。そこに関係するすべての人が、真摯に職責を全うする思いで取り組んでいただくことを切に願います。

(なお、以下のリンクに掲載されている全ての文書は、保存済みです)

https://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1693381969759/index.html?fbclid=IwAR3gNrGFpIbB24tcvkcXEffB3LiTaV7OZhtddhkZJ8Qyvbh2IcnVjoSsaj8

 

なお、以下のリンクは、隣接する自治体の教科書採択過程とその結果です。
誠実な調査報告と協議の過程が本当によくわかります。私の携わる教科書は採択されていませんが、その判断はそれまでの過程の公明正大さから、全く疑義を挟む余地はありません。こういった調査と協議がなされている教育委員会の方々、調査員や採択委員の先生方に敬意を表します。

先の自治体と比べ、まさに「雲泥の差」と呼ぶべきものです。

 

https://www.city.kurayoshi.lg.jp/gyousei/div/kyouiku/gakkou/w610/?fbclid=IwAR0SFGmUWJ-hj-RBQnXtUBSXoCbCj_5SEU6ZqcKHTKghGdbZxmGMHgiPkgo

 

 

感想交流をジャムボードで

教育関係者としてのエンディングへのカウントダウンが始まっているので、たまには実践も(笑)

 

2年以上私と道徳科の学習をしてきた子どもたちですが、今年は感想交流にやたらと時間がかかったり、なかなか意見が出なかったりと、授業のなかでどうにも機能していないと感じていました。
感想交流で既にかなり深いところで考え始めているために、挙手発言ではまとまりきらない感じがするようなので、感想交流をジャムボードで置き換えてみました。

 

すると、2分ほどで次々と付箋が貼られ始めました。付箋に8分、ボードの確認に2分を設定しましたが、付箋自体は6分くらいで良さそうに感じました。

結果として、問いづくりの時間も確保しながら、中心的な問いの自由交流や最後の問いの時間もかなりよい感じになりました。

 

しばらくは感想交流をジャムボードでやっていこうと考えています。

 


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道徳科の評価軸 私案

お久しぶりでございます。論文を書いて、シンポジウムに登壇して、また論文を書いて、ラウンドテーブルをコーディネートして......本務以外にあれこれとやるべきことがあって、このブログを完全に店晒し状態にしておりました。ただ、全く意外なところから、このブログを授業づくり等に活用していただいているとの話をいただき、細やかながらも更新せねばとの思いに駆られております。

とはいえ、これからもさほど更新頻度が上がらないですし、かなりマニアックな話ばかりになろうかと思いますが、ご容赦ください。

 

さて、今回のテーマは道徳科の評価についてです。

道徳が教科化され既に小学校では5年が経過し、教科としての制度設計の難しさが明らかになってきつつあります。現場の視点でいくと、特に次の2点に困難さを感じるのではないでしょうか。

 

(1)道徳科の教科の特質とされるものの現状と、それに基づいた制度設計上、内容項目や道徳的諸価値に分節した評価は許されていない。また、道徳的諸価値は、理解の対象でありながら、(ある種の)知識とは見なされていない。

(2)同じ理由から、道徳的判断、心情、実践意欲と態度についても、それら単体に焦点化した評価は許されていない。

 

これらの何が問題かと言えば、道徳科において授業のねらいと評価との一体化が、実際問題として不可能な状況だということです。

 

道徳科の授業の本時のねらいをみなさんはどのように記述なさるでしょうか?

おそらく「(A 本時の学習で扱う道徳的価値)について、(B 具体的な学習活動)を通して、(C 道徳的判断、心情、実践意欲と態度のいずれか)を育てる」という形が、教育課程の伝達講習等で指導され、一般化しているのではないかと思います。

一方で評価に関しては、上記の2点の制約がありますので、ねらいで示したAとCに関して評価の遡上にのせることはできないわけです。結局、それぞれの授業における評価に関しては、Bの学びの様相しか対象にできないわけです。現状の道徳科の授業と評価とが一体化していないとされる原因が、ここにあるわけです。

 

この状況が改善されるのは、次期学習指導要領の改訂を待たねばなりませんが、座して待つだけで状況が変わるとは考えにくいように思えます。なにより、道徳科が改訂された後で提言され、各教科の評価軸として規定された「資質・能力の三つの柱」に、次期改訂では道徳科も合わせることが求められるだろうと考えます。そこで、道徳科の評価軸を以下のように規定できるのではないかと考えました。

 

道徳科の評価軸 私案
【知識・技能】
道徳的諸価値に関する知識の更新の状況の見取り
【思考力・判断力・表現力】
教材に関わる学びで顕在化された諸様相の見取り
【学びに向かう力、人間性
自分との関わりで道徳的諸価値をとらえ、自らの生き方への考えを深めようとしている様相の見取り

 

当然、数値化しないことが前提です。そのうえで、授業で設定したねらいと評価そのものをストレートに繋げることができるかと思います。

もちろん、資質・能力の三つの柱に合わせるために、道徳科の制度設計そのものを改訂せねばならない部分もあるのですが、そのあたりは徐々に詰めていければと考えています。

道徳科の学習と対話についてまとめてみた

 久しぶりのblog更新です。あわただしさに追われながらも、自分の時間を見つけていかなければと考える毎日です。

 

 今回は、道徳科の学習と「対話」といういささかシンプルに過ぎるように感じられる内容です。ただ、シンプルだからこそ、様々な授業技術を支える根幹にかかわる重要な部分だと考えます。

 道徳科の学習を考えたとき、学習活動のなかで「対話」を楽しもうとする学びの姿を求めていきたいと考える先生方は多いのではないでしょうか。もちろん私もその一人なのですが、「そもそも道徳科における『対話』って何? 何に対してどういう関係性を持つことなの?」というぼんやりとした問題意識がいつも頭の片隅にあります。そこで、言葉を自分なりに整理しながら、道徳科における「対話」について定義めいたものを設定し、実践につなげようという試行錯誤の記録を紹介したいと思います。

 

 まず私は、(おそらく多くの先生方にも共感していただけると思うのですが)、単に自分が知っていることを言い合っている状況を、道徳科における「対話」とはしたくないという思いがあります。 単なる情報や知識の交換は、言語によるやり取りという意味での「会話」でしかないと考えます。


 そこで、道徳科における「対話」を、“情報や知識を受け渡ししたときに、学習者のある種の変容をともなうような(それが期待できるような)活動”と定義したいと考えます。この場合の変容とは、「体験を通して新たに芽生えた感情」や「友達と話し合ってよりよい解決方法を見いだす活動」、「今までの自分をふり返り、自分がどうありたいかを自問すること」など多岐にわたるでしょう。また、学習者にある種の変容を伴うことを期待したいのですから、未知なるものと出会いや、自分の知識がその対象の表層でしかないということを認識することを、道徳科の学習過程で重視し、その更新をきちんと位置づけられる必要があると考えます。


 では、具体的に、道徳科における「対話」にはどのようなものがあるのでしょう。道徳科の対話といえば、真っ先に思い浮かぶのが「自己内対話」でしょう。言葉の定義も比較的明確で、「自分に深く問いかけ、考えを深めていく内省への働きかけ」という解釈が一般的だと思います。その他に、「教材との対話」「他者との対話」といった言葉も、雑誌や書籍等で目にすることがあります。これらの言葉を一括して、道徳科における「対話」として整理し役割を明確にすると、次のようになるでしょう。

 

①「教材との対話」
自己の未知なるものとかかわって、気づく、変わる。価値あるものとの出会い。
②「他者との対話」
応答的な関係性のなかで、自分の考えと他者の考えとを交流し、集団として高まる。相手意識のある、他者の変容を促すような話し合い活動。
③「自己内対話」
自分の生き方に重ねながら自問自答し、言語化することで考えを明確にする。課題に対して自力で解決に取り組む活動。

 

 そして、道徳科において、「対話」を活動の中心にして構成することで、児童が以下のような力の獲得を期待できると考えます。

・    対象に関する表層的な知識から、より深い本質へと追究する学び方の獲得。
・    自己認知の深まりによる自尊心の向上。
・    市民的資質の育成による望ましい社会性の獲得。

 

 下の図は、道徳の時間のなかで対話がどのように働くことを期待しているかを示したものです。

 

 「考え、議論する道徳」が標榜されている以上、「対話」は学習を構想するうえで欠くことのできない要素です。しかし、教材や発問を前に「沈思黙考」する子どもの姿もまた、ある種の対話であることを、授業を構想する教師としては常に心に留めておきたいと考えます。活動としてのアクティブさは、思考がアクティブになることに裏付けられたものであってほしいという願いを込めて……。

 

「わたしは ひろがる」の授業を子どもたちに委ねてみた

このblogをご覧の方々のほとんどは、教育関係の仕事をなさっているだろうと思います。道徳科に移行して4年となりますが、みなさんは毎週1時間の授業を楽しみに取り組んでいらっしゃるでしょうか?

 

私はと言えば、なかなかに苦しんでいるというのが正直なところです。年間指導計画を組み、それに沿って授業を行うことは、教科化以前と何も変わらないわけですが、基本的に採択された教科書の教材を用いますので、「この内容項目は、この教材よりも他社の教材の方が......」と思っても、それを差し替えて活用することは御法度です。差し替え可能なのは文科省の教材か地教委作成の郷土資料くらいのものですが、教科書教材よりも良いと思えるものは、ほんの一部に過ぎないのが実際です。教科書の教師用指導書を読んでも、いや読むほどに「これじゃ、道徳科の学習としての面白味に欠ける!」という思いがつのります。それでも、なんとかして授業を機能させることができるフレームをつくろうと足掻く日々ですので、なかなか「楽しい」と感じることができないでいます。

 

「わたしは ひろがる」も、そういった教材のひとつでした。作品としては、確かによい詩なのですが、これを道徳科の教材として学習に活用しようとすると、どうにもピンとこないのです。ステキな作品だからこそ、道徳科の教材として、あれこれと発問を重ねて授業をすること自体が、なんとも野暮に思えるのです。

 

とはいえ、この教材用いて授業にかけなけれぼならないと考えたとき、「いっそ、授業のほとんどを子どもたちに委ねてみようか......」という思いに至りました。

 

教材をプレゼンにまとめ、最初の問いだけを「この詩の『わたしは ひろがる』とは、どういうことを言うのだろう」と決め、子どもたちに委ねました。「挙手して発言」のスタイルではなく、友達や教師と考えを自由に立ち歩いて交流することに時間を使いました。

 

板書も、これまでの学習の経験をもとに、基本的に子どもたちに任せました。できるだけ長文にならないように書くことをアドバイスし、私は子どもたちの考えのポイントだけを加筆しました。

 

子どもたちに議論と板書を委ねることで、本時の学習のねらいに迫ることが可能なのかという多少の懸念はありましたが、それは杞憂に終わりました。むしろ、教師が下手に問い返しをした場合よりも、学習としての機能度は高かったとすら思えました。

 

子どもたちの考えと板書から、最後に「あなたが、今よりももっとひろがるために、大切にしたいことはどんなことですか?」と問いました。本時の学習をふまえた自身の納得解をワークシートに書き、交流したり板書に書き留めたりして、学習を終えました。
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道徳科の教科書について、SNS上では「教材がよろしくない」、「使いにくい」、「以前の副読本時代の方がよかった」などの否定的なコメントを目にすることは少なくありません。確かにそういった側面があることも否定はしません。ただ、その「やりづらさ」は、教師自身が旧態依然とした授業スタイルとイメージにとらわれていることに起因している場合もあります。時には思い切ったやり方で授業してみることで、教師にも子どもたちにも、新たな気付きが生まれることもあるでしょう。

たとえ授業者としてお叱りを受けるとしても……

久しぶりのblogへの投稿です。この間、たくさんの方々にこのblogを見ていただいているようで、恐縮しています。なにぶんにも、有益な情報を提供できているという自覚も自信もないもので……

 

始めに申し上げておきますが、授業者として評価を受けるのであれば、今日の授業はまちがいなくダメな授業に分類されるものです。「こんなステキな授業ができました!」という発信は、それはそれで意味あることなのは間違いありません。しかし、「なぜそんな授業ができたのか」、「それまでにどんな営みがあったのか」といった部分を私たちは知りたいと思いますし、共有することが大切だとも思います。逆に、一般的には評価されないとしても、一定の意図をもって臨んだ授業にも意味を見出だすことができる場合もあると考えます。「何年も教員をしていて、この程度か?」というお叱りを受けることを承知のうえで、今日の授業の意図と記録を残しておきたいと考えました。

 

今日は、「世界へ羽ばたく『航平ノート』」での授業でした。内容項目は「希望と勇気、努力と強い意志」です。
本時のねらいを「内村航平の生き方についての話し合いを通して、夢をもち困難を克服することの大切さについて考えるとともに、夢を抱いて生きることについての自分なりの納得解をもつことで道徳的心情を培う」としました。
授業の構成としては、「内村選手の紹介と演技の動画視聴」→「教材範読」→「感想交流」→「学習テーマと中心発問の設定」→「考えの交流と共有」→「自分の納得解を紡ぐ」としました。教師の立場として、本時の学習テーマは、「努力を続けることの根っこにあるものは?」と想定し、中心発問は「なぜ、内村航平さんは、困難を乗り越えて世界を驚かせる演技ができるような選手になれたのだろう」としていました。

 

もちろん、これまでの学習と同様に授業を組むことは可能でした。しかし、今日の学習ではそうはしませんでした。私の用意した授業のフレームにのって流れていくのではなく、子どもたち自身が教材やそれに付随する知識、諸価値の理解、自己の経験からの類推などから、子どもたち自身で授業のフレームを見つけ出していこうとする、「道徳科の学びの作法」を子どもたちが体験し、習得するための時間としたいと考えたからです。

 

教材の範読までを終え、子どもたちの感想を交流しました。具体的に場面を限定した問いがあるわけではないので、簡単には感想が出てきません。沈黙の時間が続きます。それでも、切り返しや補助発問は一切しませんでした。教材や補助資料と向き合いながら、子どもたちなりの思いや考えが出てくるのを、ただひたすら待ちました。本当に少しずつ、わずか数人ずつですが、率直な思いや疑問が表出されはじめました。そして、ここでの子どもたちの感想から、本時の学習テーマを「夢を実現させるために大切なことは……」、中心発問を「最下位からのスタートだった内村航平さんが、くじけながらもあきらめなかったのはなぜだろう?(彼の生き方を支えていた思いに迫ろう)」としました。

 

「自分たちの感想交流から本時の学習テーマを設定し、本時の学習の中核となる問いを見出すことは、他教科だけでなく、道徳科でも可能なのだ」という学びの作法は、実際の道徳科の学習を通して体得してもらうより外にありません。ここまでにかなりの時間を費やしてしまったため、残りの時間は限られたものになってしまいました。ただ、自分たちの意見から紡いだ中心発問に対する子どもたちの考えは、様々な諸価値の連関を通して、これまでと同様かそれ以上に道徳的価値の理解を深めることになったと考えます。

 

この授業を録画して視聴したならば、時間配分や子どもたちの意見交流の活発さという視点からは、授業者として失格の烙印を押されるでしょう。しかし、道徳科であっても、他の教科と同様に、学びの内実を子どもたちが形づくるという営みをどこかで経験しなければ、道徳科は通り一遍の授業のままで終始してしまうだろうという危惧を覚えます。「ステキな授業」なんて空虚な言葉で、誰かから褒めてもらうために授業をするのではありません。道徳科を教科として成立させるために、情緒のみに流されず、表面的ではなく本質的な学びに変えていく授業の質と構造の転換が、小学校高学年以降には必要になると考えています。そのための「はじめの一歩」が、今日の授業であったと信じています。

道徳科における「知識」の問題を検討する~「もったいない」の授業を事例に~

この十数年の道徳の時間と道徳科の学習において、いかなる文脈においても「知識」という言葉を用いて何かが語られることは、皆無といってよいでしょう。道徳科と知識とを結びつけることがあえて避けられている背景には、「価値の教え込み批判」を回避したいという道徳教育に関係する人々の意識があるように思います。代わりに「道徳的価値の理解」という言葉が繰り返し用いられているのが現状です。

道徳に関わる「知識」については、1970年~1990年ごろまでの書籍には「道徳的知識」という言葉が示されているものが多くあります。このブログでの詳細な言及は避けますが、道徳的知識を3種に類別した論考もあります。また、近年では、『道徳教育はこうすれば〈もっと〉おもしろい』(北大路書房)において、道徳科における知識の在り様についての言及がなされています。

単なる判断や心情ではなく、それが「道徳的」であるためには、子どもたちの道徳的諸価値及び探求のための教材に関わる知識を基盤としなければ、道徳的諸価値の理解へと深めていくことも、道徳的判断や道徳的心情を培うことも難しいと考えます。換言すれば、この営みによる人間性の向上によって、「知識」は「知性」へと昇華するのではないでしょうか。そこで、道徳的諸価値に関する基盤となる知識と、教材に示された事象に関する客観的事実としての知識とが、道徳科の学習にどのような影響を与えるのかについて、人物に焦点を当てた現代的諸課題に関する授業実践を通して検討したいと思います。

 

授業の具体に基づいた検討

「もったいない」(『新・みんなの道徳5』学研教育みらい)

 

まず、本時の授業を構想するにあたって、教材分析を行いました。本時の内容項目は『自然愛護』なので、学習指導要領解説編の該当部分を読み、これまでの子どもたちの道徳的価値の理解の想定と、高学年として踏み込んでいきたい内容とについて考えました。
具体的には、中学年までの道徳的価値についての理解を「自然や動植物を大切にすること」と「自然を守ることで自分たちの生命も守られていること」の2点とし、高学年における道徳的価値の理解を「自然環境にかかわる課題の理解の上に立って、自主的、積極的な環境保全への意欲と態度を培う」ことと想定しました。
そのうえで、教材の構造と内容、それらに付随する客観性の担保された事実について検討し、授業を構想するにあたって必要な要素を抽出しました。私が本時の学習で、「マータイさんの自然愛護の精神を共感的に理解するために必要な要素」と考えたのは、以下の5点です。

① マータイさんの生涯の概要
② ケニア政府が森林を伐採してまでコーヒー栽培を推進した理由
③ 森林伐採によるケニアの人々への影響
④ 過酷な労働と生活の実態
⑤ 「グリーンベルト運動」の目指したもの

①は、この教材を用いて学習のための前提としての知識。②~④は「自然愛護」の内容項目について、高学年の学習内容として成立させるために欠くことのできない具体的事実としての知識。⑤は、「自然愛護」の内容項目に含まれる道徳的価値の理解のために必要な要素としての知識と考えました。
これらの知識の様相に基づいて、各種の知識を効果的に授業の中に配置し、それらの知識を基盤として道徳的価値の理解を深め、道徳的心情や実践意欲と態度を育てることを志向する授業として構想しました。

 

導入では、「もったいない」という言葉をどんな時に使うかをたずねました。
「何かを残した」、「捨てた」、「むだにした」といったことが、子どもたちのイメージとして共有されました。そこで、自然保護運動に取り組み、「MOTTAINAI」を世界に紹介したワンガリ・マータイさんの生き方をもとに、「自然を守るのは何のため?」というテーマを設定して学習を進めることにしました。

 

まず、マータイさんの生涯を概観する3つのプレゼンシートを提示しました。そのうえで、「あなたは、マータイさんの自然を守り再生しようとする姿についてどう思いますか?」と問いました。

 

マータイさんの生涯を概観する①の知識だけを得た段階では、これまでの道徳科の学習で獲得した「自然愛護」に関する道徳的価値の理解に基づいた考えが、子どもたちから表出されるだろうと想定した問いです。


子どもたちは、「自然を守るのはいいこと」、「すごい」、「やさしい」、「自然を守ることで、動物の命も守られる」、「自然の豊かさや美しさ、大きさを守りたいという意思の表れ」といった考えが出されました。これらは、中学年までの「自然愛護」という内容項目における道徳的価値の理解をもとにした考えです。そのなかで、「学業に優れていて留学までできたのだから、安定した生活ができたはず。なのに、なぜ自然保護活動に取り組んだのか?」という疑問が数名の子どもたちから出されました。

 

そこで、ケニア政府が森林を伐採してまでコーヒー栽培を推進した理由と、森林伐採によるケニアの人々への影響、過酷な労働と生活の実態という②~④までの情報を提示し、その状況のなかで自然保護活動を始めたマータイさんの考えをプレゼンシートで伝えました。
そのうえで、先ほどと同じ問いをもう一度子どもたちに問いかけました。


子どもたちが②~④までの情報を知識として得たうえで、同じ問いを重ねることで、中学年の内容から高学年の「自然愛護」の内容にシフトして考えを深めるための基盤となることを期待した構成です。

 

子どもたちからは、「他者を優先し、人のことも動植物のことも考えて、自然環境をもとに戻そうとする姿がすごい」「きっと自然保護への使命感があったのではないか」といった内容とともに、「最初の問いのときは、単に意志や気持ちの問題と考えていたが、もしマータイさんがいなくなってもこれからの人が続けていけるようにという責任感や義務感があったのだと思う」といった自然保護活動の持続可能性についても意見が出されました。「まさに、これってSDGsですね」と表現した子どももいました。

 

最後に、「グリーンベルト運動」の目指したものについて、マータイさんの実際の言葉を伝え、「マータイさんの言葉から、自然を守るのは何のためだと考えましたか」と問いました。

 

ここでは、「自然愛護」の内容項目に含まれる道徳的価値の理解のために必要な要素としての知識⑤をもとに、本時の学習での自分の考えを見つめ直すことで、道徳的価値の理解を基盤とした心情や実践意欲と態度に至るのではないかと考えて、最後の問いを設定しました。

子どもたちは、互いの考えを交流することで、「人、自然、すべての生き物の命を未来へとつなげていくため」という本時のテーマに対する納得解を紡ぐことができました。そして、その心の根底にあるものが、自身の欲ではなく、本気で自然を守り抜きたいという意志であるということにも気付くことができました。


道徳科の学習における知識の様相とその在り方を、具体的な授業を通して検討することを試みました。道徳科を教科教育学として俎上にのせることを志向するならば、「知識」の問題を避けて通ることはできないということを、本実践だけでなく、他の実践についても考察を加えながら明らかにしていきたいと考えています。