ライター標本5・6

インドネシア帰りのかけ出しフリー編集・ライターのブログ

天才になれなかった人たちの背中を、自己啓発本の100倍強く押してくれるマンガ「左利きのエレン」

cakes.mu

少年誌、青年誌あわせて、いろんな漫画雑誌を読み続けてるなかで、最も更新を楽しみにしてたマンガのひとつ「左利きのエレン」が最終回を迎えた。「日本一絵が下手な漫画家」を自称する、かっぴーのマンガ。サイコーだった。

■仕事論、成長譚、クリエイティブ論…いろんな側面をもった作品

告代理店でアートディレクター経験のある作者が、マンガ「SNSポリスのSNS入門」などがバズったあとで描いた、ストーリーマンガ。
kakeru.me


たまたま同じ高校に居合わせた、ガチの天才画家・エレンと美大志望のさえない凡人・光一が、お互いに刺激しあっていく物語。凡人が天才に刺激を受けるのは当たり前だけど、その逆に、親の死による呪いで絵がかけなくなったエレンも、凡人が無邪気に絵に向かう屈託の無さに刺激を受ける。

マンガは、高校時代は美大志望だった凡人の光一が、広告代理店の若手デザイナーとして働いているところからスタート。高校、大学時代の思い出を挟みながら、徐々に未来へと進んでいく。

光一が、代理店のなかで、やり手アートディレクターに成長していくのと同時に、エレンはNYへ渡り、当代イチのファッションデザイナーに認められたり、バンクシーと対決したり、世界的なアイコンに上り詰めるも、正体不明のまま、社会の表舞台には出てこない。

天才側であるエレンの話はスケールがでかすぎて、荒唐無稽になりそうだけど、作者のかっぴーが、もともと広告代理店で働いていたことにより代理店の話がやたらリアルなので、マンガ全体で違和感なく、とっても楽しめた。個人的には、エレンの話をもっと読みたかったけど、やりすぎると破綻するし、天才の話って難しいんだろうけど、どうなんだろう。

成長した光一が、クライアントに向けて、広告リブランディングのプランをその場で組み立てるシーンは、“広告論”としても、非常に高レベルらしくて、知り合いの広告マンも、「あれはわかりやすい」と言ってて、ほへーと思った。そんな感じの話がやたら多くて、意識高い系の人が、わかったつもりになれるので、そういった層にも刺さってたのかもしれない。

小説「クライマーズ・ハイ」みたいな、営業とクリエイティブの攻防が熱量高めで描かれていたのも、すごい良かった。華やかなクリエイティブの話に偏りがちな代理店の話を、営業側も描くことで、他業種の営業の人が読んでも、共感できる話になってたのかも。
 
仕事ができないやつ(世の中のほとんどの人間を指すし、もちろん自分もここに含まれる)の葛藤もあって、ひとりの成長物語としてもおもしろい。

■「描けよ」というメッセージの重み

こんな感じで、いわゆる“お仕事モノ”として楽しむこともできたけど、このマンガがサイコーなのは、最終回。

作者は、もともとマンガ家じゃないから、絵がうまいわけじゃない(構図が抜群によかったり、それを補って余りある強いフレーズがたくさんあるから、気にならない)。でも、だからこそ、サイコー。最終回の終盤に、こんなフレーズがある。


「天才になれなかった全ての人へ」

「この世界のすべての才能たちへ」

「描けよ」

これは作品内の重要なセリフで、作品全体のメッセージにもなってる。この「描けよ」の目的語は、きっと絵だけじゃなくて、小説でも、コピーでも、雑誌の原稿でも、ウェブ記事の原稿でも、表現に関することならなんでもいい。

きっと、「才能がなかった」なんて言い訳してないで、なんでもいいから描けばいいじゃん。というメッセージ。

もともと絵がうまいわけでもない作者が、めちゃめちゃおもしろいマンガを描いた。だからこそ、この「描けよ」が刺さる。

ふつうの会社員である作者の友人が、エレンをイメージして作曲をしたという。

いま、友達がエレンをイメージした音楽をつくってくれています。彼は普通の会社員です。いわゆるクリエイターではありません。
久しぶりに呼び出されて、何やらもじもじしてて、2時間ほど他愛も無い話をしながらご飯を食べた後に、やっと曲を作ってると白状してくれました。恥ずかしかったんだと思います。クリエイターでも無い自分が音楽をつくった事、それをぼくに言う事。それは分かります、ぼくは新卒から大層なクリエイティブ職と呼ばれる仕事をしてきましたが、ぼくのどこがクリエイターなんだと毎日恥ずかしかった。彼がつくってくれている、まだ未完成のエレンの曲は、紛れもなくエレンの曲でした。

引用:note.mu

こうして、誰かにこのメッセージが届いて、また誰かが“描き始める”。すげーいい話。

たしかに、なにかを作る、それを人に伝えるのって最初は恥ずかしい。

ぼく自身も、結婚した友だちのために作って歌った曲、その後一度も歌ってないし、その友だち以外には、作詞・作曲したことがあるなんて、恥ずかしくて言わない。(いま、ここに書くのだって恥ずかしい)

若い頃は、「自分になんらかの才能がある」「自分は特別だ」って信じたかったけど、だんだんと、そんなことはなく、むしろ凡人以下であることに気づいていく。そんな人がほとんどなんだけど、それでも…と自分を信じてなにかを作りたいひとの、背中を押してくれるマンガなんだと思う。

世の中にごまんとある自己啓発本のほとんどが、千ウン百円を払わせて、何百ページも費やして、結局は「とりあえず目の前のことをやれ、以上」というメッセージを発信しているのに対して、極めて誠実であり、なにより読んでいておもしろい、稀有なクリエイティブ。それが「左利きのエレン」だ。

よし、ずっとやりたかったけど、目の前の仕事が忙しいと自分に言い訳しながら、温めすぎてたものを、ぼくも「描く」ぞー!という気持ちになった。(気持ちになるだけだと、1ミリも意味ないので、1行でもいいから描く必要がある)

とりあえず、昨日、3年間サボってたランニングを開始した。

「少年ジャンプ+」で、作画を別に立てて連載が始まるみたいだけど、これは元の絵でいちどは読むべき。最終回の「描けよ」というメッセージの意味がまったく変わってしまうので。

「アントレース」というマンガの原作も担当してたり、有名原作者にもなっていくのかも。
映画化も狙ってるようで、「少年ジャンプ+」連載ののちに書籍化、でドラマ化か映画化はぜんぜんありそうな流れ。
実写化するなら誰か? という話を始めるのも、ぜんぜん早すぎないと思う。

キーワードは「共犯者をつくる」ーキングコング西野とぼくのりりっくぼうよみの共通点と方向性の違い

ハットをかぶってチケットを手売りする売れっ子芸人

割と炎上しがちなキングコングの西野亮廣さんが、彼のなかで恐らく過去最大級の火力で燃え上がっている。


ぼくはもともとbaseよしもとの芸人さんたちが大好きで、キングコングもそのなかのコンビだった。
西野さんは一時期、当時のブログ「西野公論」で、「おれは常に努力してる、がんばってる」的な記事を連発していた。
この件を「はねるのトびら」でネタにされ、「いつもドヤ顔で走ってきたことをアピールする」などといじられて、笑いにはなってたのはさすがだったけど。


ぼくはそれを見て、「芸人さんは努力してる姿見せないほうがいいんじゃないかな?」とあんまり快くは思っていなかった。絵本を描きはじめたときも、周りの芸人さんたちと同じで、割と冷ややかな目で見ていた記憶がある。


その気持ちが変わったのは、2014年に開催した「西野亮廣 独演会in日比谷公会堂」のチケットを手売りしはじめたとき。ツイッター上で、「今日は〇〇時に、どこどこにいます」と告知し、本人が本当に手売りするシステムだった。なんとなくおもしろいので、ある日、連絡して現地に行ってみると、ハットをかぶった西野さんがいた。2000円(くらいだった気がする)を払って、チケットを買った。場所は新宿駅の東南口。


f:id:mori17:20170123214852p:plain:w300
https://twitter.com/nishinoakihiro/status/468335197767733248/photo/1
はてなブログ経由でうまく引用できなかったので、キャプチャとリンク


この場所は奇しくも、ルミネtheよしもとのお膝元。気軽に彼をディスっている人たちは、ルミネのチケット売りや呼び込みをスタッフにまかせているのに対して、すでにかなり売れっ子の西野さんは自分で手売りをしているという対比。(もちろん、ルミネに出る人たちは、超有名人が多いので、そりゃそうだろ、ってのはその通りなんですが)そして、2年連続で、割とでかめの日比谷公会堂、2016年には東京キネマ倶楽部ソールドアウトしている。

クラウドファンディングで共犯者をつくる

その前後から、ブログやFacebookをフォローして、定期的に見るようになった。それらのポストでは、下記のような主張を頻繁に見かけるようになる。

チケットを手売りしているのも、絵本を書いているのも、いままでお笑いに興味を持っていなかった人が、劇場に足を運んでもらえるように、いろんな活動をしているのだ、と。


昨年末に、現在のブログ「『魔法のコンパス』キングコング西野オフィシャルダイアリー」にて、「まだ『情報解禁』とか言ってんの?」というエントリが上がった。

ちなみに、昨日、21万部を突破した『えんとつ町のプペル』は、クラウドファンディングを使って、1万人で作った。
支援してもらうことで、作り手側にまわってもらったわけだ。
クラウドファンディングの本質は、資金調達ではなく、共犯者作りだ。
『えんとつ町のプペル』は発売1ヶ月前の予約で1万部が売れた。

何が言いたいかというとね、
『お客さん』を増やすのではなくて、『作り手』を増やした方がいいということ。
なぜなら、『作り手』は、そのまま『お客さん』になるから。
そして、『お客さん』なんて、もう存在していないから。


そうやって考えていくと、『情報解禁』という文化が、いかに時代に合っていないかが見えてくる。

誰に向けて情報を解禁するつもり?

お客さんなんて、いないぜ?

引用元:キングコング 西野 公式ブログ - まだ『情報解禁』とか言ってんの? - Powered by LINE


これは、けっこうクリティカルな指摘であり、なるほど、そうだよな…。と思わされた。


おもしろいのは、「クラウドファンディングは、共犯者作りだ」と言っていること。


実は、クラウドファンディングで自分だけのメディアを作ったぼくのりりっくぼうよみさんも、同じような事を言っている。

― なぜクラウドファンディングで出資を募ることにしたんですか?

今、自分が出資を募ったらどのくらいの共感を得られるのだろう、と。自分の価値を証明する、実験的な意味合いが強いですね。

価値を証明するとき、お金って便利な尺度なんです。たとえば僕のプロジェクトに3000円払ってくれた人がいたとします。その人はさまざまな使い道があるなかから『ぼくのりりっくのぼうよみ』のクラウドファンディングを選んでくれたわけです。僕にとっては価値を認めてもらえたということになる。

― 出資者は「ファン」という関係を超えそうですね。


誤解を恐れずに言うと“共犯者”ですね。出資することで「お金を払ったんだから、楽しまなきゃ」というある種の強迫観念が芽生えると思うんです。

『Noah's Ark』はあえて万人受けする内容にはしていません。『Noah's Ark』のようなメディアの場合、出資者とそうでない人とで得られる情報の質や量に差が出てきます。つまり僕のことを理解して出資してくれた人を対象としているからこそ挑戦ができる。

出資者のみなさんとは役割が違うだけで、僕との間にヘンな力関係みたいなものはありません。高揚感や達成感を共有していく存在になれると思っています。

引用元:『ぼくのりりっくのぼうよみ』の言葉たち -インターネット、クラウドファンディング、未来について。 | CAREER HACK


クラウドファンディングを使って、共犯者をつくる。

ふたりとも先進的な考えを持っていて、同じ言葉を使っているのに、まわりの反応がまったく違うのがおもしろい。


何が違うのかといえば、目的の方向性の差なんだと思う。


ぼくりりさんは、目的を共有できる人の選別としてお金を尺度にした。
(ぼくもクラウドファンディングに参加しました。どんな対談記事がアップされるのか楽しみだし、一発目もなかなかおもしろかった。ぼくりり数学解説CDとパーカーが届くの楽しみ。)


西野さんは、いままで自分を知らなかった人たちにも認知を広げることが目的のため、攻撃性の強い言葉を使っている。
そこへの反論や批判をすべて薪に変えて火を大きくしている。


本人もブログでこう書いている。

「是非のイタチごっこ」こそが最大の無料広告で、近年だと、『アイスバケツチャレンジ』がその代表格。

引用元:キングコング 西野 公式ブログ - ウーマンラッシュアワー村本君の指摘 - Powered by LINE



割と計算づくで攻撃的な立ち回りをしているので、いろんな人が批判をすればするほど、特に有名な人がその流れに乗れば載るほど、彼の思い通りなので、ほくそ笑んでいるのではないでしょうか。


西野さんの攻撃的な、いうなれば失礼な物言いのため、僕が知っている人たちの何人かも怒っていて、何とも言えない悲しい気持ちにもなっているんだけど…。


どうせなので、この火がどこまで大きくなるのか、その火の大きさは、劇場に足を運ぶ人をどれだけ増やすのか。


ひっそり楽しみにしている。

ライターとブロガーの違いと映画「ヘアスプレー」が好きな女の子の話

■チャーミングなゴキブリの姿?

ある映画好きの女の子が、「すっごいおもしろい映画があるから、見てほしいんだけど」と話しはじめた。


「『ヘアスプレー』っていう映画でね。ジョン・ウォーターズっていう、カルト映画をたくさんつくってる監督の映画。悪趣味映画の帝王とも言われてる人なんだけど。(:このカギカッコ内、このあと、読まなくてもいいです)舞台は1960年台のアメリカの片田舎で、ダンスが大好きな太った女のコが、地元のテレビに出て人気になっていくの。その子はノリノリの曲ならなんでも好きで、上手に踊るんだけど、ブラックミュージックで踊ろうとすると、『そんな音楽はダメ』って言われちゃって。当時のアメリカはまだ人種差別がすごかったから…


と言った感じで、当時の情勢や映画のあらすじ、おもしろいシーンを、ひととおり語ってくれたんだけど、映画偏差値が著しく低いぼくにとっては、あんまり頭に入ってこなかった。なにより、ストーリーを全部話しちゃうのって、逆に見る気を無くしちゃうような気もする(そういうブログ多いけど)。とりあえず適当に相槌を打っていた。


彼女が話し終えたところで、映画のなかで一番おもしろかったシーンを聞いてみた。


すると「最後の方で、主人公の太った女の子がゴキブリの衣装を着て、ゴキブリダンスを踊るシーンがあって、その姿が最高にチャーミングで素敵!」と答えてくれた。


それはおもしろい。つまり、「太った女の子がゴキブリの衣装で踊る」という光景は、ふつうイヤなものだけど、この映画を見ると、不思議とその姿がかわいく見えてしまう。そういう映画なのかな。こう理解して、この考えで合っているか、と聞いた。


すると、「そういうこと! その言い方いいね。その紹介の仕方を何かの機会で使ってみて」と、自分の言ったことじゃないみたいに褒めた。


このやり取りを終えた後、この映画を見たい気持ちが芽生えた。同時に、このふたつの紹介の違いは、ブロガーとライターの仕事の違いと同じだ、と思った。

■オリジナルの拡張子に変換、圧縮する仕事

ブログは、基本的に興味を持ってくれた人だけが訪れるメディアなので、ブロガーが興味を持ってることや、おもしろいと思ったこと、あらすじを、この映画好きな女の子のように、ずらずらと語って、全て書いていけば良い。なんなら長いほうが良しとされる風潮すら感じることがある。


ライターの場合、書いた文章を読んでもらう相手は、基本的にはその文章に興味を持ってない人までも想定して、誰が相手でも最後まで読み進めてもらうことを目標とする。基本的には短ければ短い方がいいし、大体の場合、ひとつの文章で、伝えられることはひとつだ。


この「ヘアスプレー」という映画を紹介したい場合、たぶんだけど、良いところはたくさんあるし、語るべきシーン、切り口もたくさんあるのだろう。でも、まずその映画に興味を持ってない人にオススメをしたい場合、多少強引でも「これは〇〇な映画で、だから見るべき」と言い切らないと、まず聞いてすらもらえないし、何も伝わらない。


文章をすべて読んでもらうことを目的とするならば、短ければ短いほうがよい。


そういう意味では、ライターは情報を圧縮する仕事なんだと思う。毎回、情報を集めた後で、企画や読み手に合わせて、そのときどきの切り口を考えて、オリジナルの拡張子に変換して、圧縮する作業


以前、好きなアイドルグループについての原稿を書いた際に、1万字くらいになってしまって、途方にくれたことがある。原稿がうまい先輩ライターに見てもらって、1200字に削ってもらうと、ようやく読める原稿になった瞬間があった。そのときのことを強くおぼえている。


「ヘアスプレー」の説明も、wikipedia的な情報をつらつら聞くよりも、「ゴキブリ呼ばわりされてた太った女の子が、ゴキブリの衣装でダンスする姿がチャーミング」みたいなシーンを軸の話を聞くほうが、ぼくは興味が持てると思った。


人にとっては、「差別を笑いでふっとばす話なんだよ」って説明をはじめると、興味をもつかも。


好きな映画、本、音楽などを誰かに説明・紹介する時、「ひとことでいうとどんな作品なのか」「どうおもしろいのか」と説明できないうちは、語れるほど整理できていないんだと思う。


っていう話を、その映画好きの女の子に聞いてもらったところ、「めんどくさいやつだな…」といいたいような顔で、苦笑いされました。


たぶん、「ヘアスプレー」の話を聞いてたときのぼくのように、とりあえず適当に相槌を打ってくれていたんだろう。

「番組を作るのは会議室じゃない!現場のお前たちだ!」とADをはげましたヒロミ

■カンペを奪って破り捨てたのは、ADをはげますためだった

すごいいまさらというか、ちょうど1年前なんだけど、2016年のお正月にTBSで放送された番組「新春解禁!余談大賞」で、タレントのヒロミが「スタッフに怒鳴り散らした」とネットニュースに書かれた。

ヒロミがスタッフに怒り爆発 カンペを奪い取り破り捨てる
http://news.livedoor.com/article/detail/11021327/

この回を、今でも鮮明に覚えているんだけど、これはスタッフにただ怒鳴り散らした、という話ではなかった。

たしかに、カンペを奪い取って破り捨てるという、若干凶暴な行動もあった。でも、むしろ、番組作りの現場スタッフをはげますような話だったはず。ぼく自身、編集・ライターとして、いろんな方面からの指示を受けながら、右往左往することも多い身としては、とてもはげまされるエピソードだったのだ。

ヒロミは「今のバラエティ番組はナメたカンペが多すぎる」と主張する。彼の知る昔の収録現場では、カンペはあったものの、タレントが企画の内容を把握していれば、あとはタレントが自由に盛り上げるのが当たり前だったというのだ。

ところが、昨今の現場ではカンペで逐一指示が飛び、それにタレントの側も従うケースが多いというのだ。ヒロミは、スタジオの空気を無視してカンペ通りに進行するMCに対しても怒りを覚えるとか。


なぜ「スタジオの空気を無視してカンペ」が出てしまうのか。その理由をヒロミは、「現場にいないで、別の場所にいるプロデューサーやディレクターの指示に従うから、スタジオの空気にそぐわない進行になってしまう」からだ、と主張していたのだ。

続けて、「別の場所にいる人間の指示に従ってないで、現場にいるお前が指示をしろよ。違う場所にいる偉い奴らじゃなくて、現場にいるお前たちが番組を作るんだよ!」と発破をかけていた。

もはや、「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」と喝破した、踊る大捜査線の青島警部補ばりの名言ではないか。

■どんな業界でも「ものづくりは現場で起こっている」

たしかに、テレビの番組にかぎらず、ものづくりの現場においては、いや、なんなら世の中のあらゆる仕事において、いろんな思惑や事情が絡み合っていて、現場の人たちは、ただ指示に従うだけになりがちだ。

正直、そこまで詳しくは知らないけど、テレビ業界では、その傾向は強いのかもしれない。
ヒロミが干される前に好き勝手していた時期に比べると、コンプライアンスだなんだと、どんどん攻めづらくなっていて、現場のスタッフも、ただ指示に従うだけになっていってるのかもしれない。

そんな状況を見て、「ものづくりをしてるのは、現場にいるお前たちなんだ」と発破をかけてくれたのが、ヒロミだったのだ。

上の人がこう言ってるから…諸々の事情があるから…と言いわけばっかりするのではなく、出来る限りで良いので、現場の判断でおもしろいことをやろう。

そう思えた番組だったので、「ただキレた話」に要約する記事を見て、モヤモヤした。

ライターとしては、PV至上主義に負けないように、こういう記事を書かないことが、このヒロミのコメントに応えることなのかな、と思う。

SMAPの解散で“お茶の間”の歴史が終わったのかもしれない

お茶の間という言葉がある。

よく使われている言葉だけれど、どんな意味かと聞かれると、的確に応えるのは難しい。そんな言葉だ。

建築的な側面から考えると、現在でいうリビングルームだろうか。でも、この言葉がよく使われる文脈を考えると、どうやらテレビの歴史とつながりが深いように思える。

テレビの出演者が、視聴者に向けて「お茶の間のみなさん」と呼びかけたり、世間での、老若男女に向けた認知度が上がると「お茶の間に届いた」という言い方をする。

家族みんながリビングルーム的な空間に集まって、ブラウン管のテレビを一緒に見る。昭和初期に見られた、そんな光景の延長上にあるのが、“お茶の間”という言葉ではないだろうか。そういうことにして、話を進める。

建築的な意味だけで考えると、時代が進むうちに、核家族化が進み、おじいちゃんおばあちゃんちが、お茶の間から抜けていく。そしてリビングルームだけでなく、それぞれの部屋に専用のテレビが設置され、さらにはスマホやPCでの視聴する習慣を持つ人が増えていった。お茶の間が解体されていったわけだ。

時代を経るに連れて、老若男女に広く届いているコンテンツは減っている。

お茶の間が消えかけている。

そして、2016年。SMAPが解散した。

お茶の間にとって、この意味は大きい。

子どもも、大人も、おじいちゃんおばあちゃんも、みんな知っている。そんな存在を、かすかに残ったお茶の間だとするなら、SMAPはお茶の間そのものだったんじゃないか。

そんなことを、「SMAP×SMAP」の最終回を見ながら、思った。

SMAPの解散で、お茶の間という空間がなくなったのかもしれない。せつない。

これからも、SMAPのメンバーたちは、それぞれの道を進んでいくのだろう。でも、あの5人が一緒に立って、「世界に一つだけの花」を歌う光景が、最後に残った“お茶の間”だったんじゃないか。

SMAPの解散、そしてスマスマの最終回とともに、お茶の間の歴史が終わった。90年代から、その黄金期を見てきて、その最後を見届けられてよかった。

いちばん好きだった企画は、古畑拓三郎と、計算マコちゃんでした。