秋月黒田城主のつぶやき

ほんわか、明るく、楽しく、でも凛と生きるための応援歌

秋月黒田と武士道ー「武士道」④武士道の源とは

皆さん、こんにちは。

 

早速、前回からの続きとして、今回は「武士道」の源について確認していきたいと思います。少しお勉強的な要素が強いかもしれませんが、お付き合いください(笑)。

 

皆さん、「武士道」はどこから生まれてきたかわかりますか?

新渡戸稲造氏の『武士道』の冒頭には「日本の象徴である桜と同じように、日本の国土に咲く固有の華」というようなものだとあります。

 

この『武士道』の第二章にはこの武士道の源についての紹介、説明が続きます。

そこでの内容は日本の歴史や文化の成り立ちの理解にとってもとても参考になると思います。

 

まずは「仏教」との関係から説明がなされています。そして「禅」にも触れられます。武士道に仏教が与えられなかったものが「神道」によって補われたと説明されています。

この章では海外での生活や経験が豊富でキリスト教信者の新渡戸氏ならではのキリスト教との比較、古代ギリシャの教え、ローマ人の宗教観などとの相違なども織り交ぜてあり、とても説得的な解説がされています。

 

「武士道は、道徳的な教義に関しては、孔子の教えがもっとも豊かな源泉となった」とあり、「君臣、親子、夫婦、長幼、朋友」などといった今の社会にも残る(ただし、以前よりは影響が薄くなってきている、変化している)関係のあり方についても守るべき考え方、ルールのようなことが武士道を通じて示唆されます。そして、孔子に加えて孟子の教えも、武士道に「大いなる権威をもたらした」とされています。このように「孔子孟子の著作は、若者にとっては主要な人生の教科書となり、大人の間では議論のときの最高の権威となった」とあります。

 

中には我々の勉強のあり方の戒め、気を付けるべき点もあります。次のような文章は特に私自身も頷けることと思いました。

 

「知識というものは、これを学ぶ者が心に同化させ、その人の品性に表れて初めて真の知識となる」「だから、知的専門家は単なる機械だとみられた。要するに知性は行動として表れる道徳的行為に従属するものと考えられたのである」。また「武士道におけるあらゆる知識は、人生における具体的な日々の行動と合致しなければならないものと考えられた」とあります。

 

今の世の中で、人の振る舞いが回りへの配慮を欠いたものであったり、自己中心主義などが強まっているのであれば、それはこれらの言葉をよく噛みしめ、戒めにするのがよいと思います。さらには「AIか人間か」というような対立した設定で議論がされる時も、そこでの人間にはここで言われる「知性」を伴った人間であることが望まれるように思います。

 

今回の回の最後に神道と仏教についての説明で興味深い点がありますので、それらを紹介したいと思います。

 

神道に関しては「神道の自然崇拝は、われわれに心の底から国土を慕わせ、祖先崇拝はそれをたどっていくことで皇室を国民全体の祖としたのである」とあり、神道の教義に「愛国心」と「忠誠心」という二つの大きな特徴が含まれるといっています。これらについては、現れ方に違いがあるにせよ、英国やその他の国でも多かれ少なかれ現れうる特徴でもあると思います。

 

仏教に関しては「武士道に運命を穏やかに受け入れ、運命に静かに従う心をあたえた。それは危難や惨禍に際して、常に心を平静に保つことであり、生に執着せず、死と親しむことであった」とあります。最後の「死と親しむ」というくだりは別の機会にもう少し考えてみたいと思いますが、「運命を穏やかに受け入れる」や「運命に静かに従う心」、「危難や惨禍に際して、常に心を平静に保つ」というあたりは、黒田官兵衛有岡城で幽閉された時のこと、またその際、織田信長に官兵衛が寝返ったのではないかと疑われ、その子長政(当時「松寿(しょうじゅ)」)を殺害せよと命ぜられた時のことなどを思うと、現実問題、こういった「心を平静に保つ」という姿勢や向き合い方を持たねばならなかったのではないかと思います。

 

そして、関ケ原の合戦の間、官兵衛が九州地方を軒並み平定してまわったが、子の長政の「活躍」のおかげで予想よりも短期間で関ケ原の合戦が終わってしまったということがありました。そこで徳川家康から官兵衛に九州での進軍を止めるようにと指示があった時に、実は天下取りの野望を持っていたのではないかとされる官兵衛の心境、心持はいかばかりのものであったか。それを思うと、「運命に静かに従う(心)」というものを官兵衛は強く感じていたのではないかと思わざるを得ないです。

 

これらの出来事をみてみても、「武士道」というものが行動やふるまいの端々に表れているように思います。今回はこれくらいにします。次回も続いていきます。

 

武士道 新渡戸稲造のことば

 

 

 

 

(新シリーズ)コトバの玉手箱ー日本語に敏感になろう!まずは「しかと」!?

皆さん、こんにちは。

 

このブログでは、つれずれなるままに、でもテーマを設定して、歴史を軸にしつつも、それが今の社会や世界にどんな影響があるのか、どんな良い影響を及ぼせるのかを考えて発信し、皆さんに紹介していこうとしています。

 

それとは別に、最近、なんとはなしに「我々の日本語の美しさや音の響き、そして漢字や平仮名の形を大切にしたい」と思うようになり、日本語をもっと知りたいと思うようになっています。

 

そんな私が日常で偶然を含めて出会ったコトバに焦点を当てて、なんとはなしにざっくばらんに語っていきたいと思っています。それがこの「コトバの玉手箱」を発信したいと思ったきっかけです。どんな風に流れていくのか、自分でもよくわかりませんが、こうご期待!

 

という1回目に相応しいかどうか微妙ですが(笑)、今回は「しかと」。

「しかと」?

 

たまたまとある所で立って何かを待っていた時に、横を通った女性の2人組の声が聞こえてきたのです。「いや、それってしかとじゃない?」「そうかしら」「そうよ、そうよ」

 

何故かこの「しかと」という言葉にピンときてしまったのです(笑)。なぜなんでしょう?そういえば、何故「しかと」という言葉なんだろうか。どこからきた言葉だろうか。

 

モトさん(私のことです)が調べたところ、以下のようなことがわかりました(但し、真偽不明)。Wikipediaからです。

 

「特定の対象(主に人)を無視すること、つまり冷遇することや存在しないものとして扱うことを指すことば。元々はヤクザ(暴力団)の隠語だったが、一般の間でも使用されている。」

 

へえ、そうなんですね!?ヤクザの隠語から一般でも使われるようになったとのことですが、最初に使った一般人は一体だれで、どんな経緯で知ることになったんでしょうね。(笑)日本語の奥深さを思い知ることとなりました。

 

さらに「語源」まで見てしました。

「はな札で10月(紅葉)の10点札が、そっぽを向いた鹿の絵柄であることから転じて、博徒の間で無視の隠語となった。」

 

へえへえ、そうなんですね。

確かにみてみたら、鹿がこんな風になっていました。そうだったんですね。

 

花札の絵柄(鹿)

しかしながら(注、ここの「しかしながら」は「しか」とは関係がありません。。。)、古来、鹿の遠音を愛でるのは文化人、風流人の嗜み(たしなみ)だったとのことで、そんなことを前提にした逸話が残っているという。

ある秋の夜、鹿の遠音を楽しむため、酒席を設けられ、数人の男性が集まった。そこでの話題は暗い話題ばかり、大の男が集まって、身の上話で、挙句の果てには、男性が涙を流して話をする始末。

そこで、ある男性が「鹿が泣きませんね。どうしたんだろう」と障子を開けると、庭に大鹿がいて、「人間がなくのを聞いておりました」と。

 

「しかと」はせずに、話を聞いて、聞いて、そして一言でもいいので返してあげましょう!

 

日本語は面白く、奥が深いものですね。

 

秋月黒田と武士道ー「武士道」③武士道とはなにかー殺し合いのためにそれはあるのか?

皆さん、こんにちは。

ゴールデンウィークはいかがお過ごしですか?

 

ゆっくり過ごされた方、いや、実は仕事があって大変だったとか。皆さま、それぞれのゴールデンウィークを過ごされたのではないでしょうか。

 

コロナ禍の時のことを思うと、隔世の感がありますね。マスクを外している方も増えて、あのコロナの時は一体なんだったのかと思わざるを得ないですね。そんなコロナ禍で縮こまっていた身体を大きく手や腕を広げ、空気をたくさん吸って、我々のこの平和を尊く味わいたいと思いました。

 

さて前回までは、新渡戸稲造氏の『武士道』を題材に武士道とは何かを紹介してきました。このシリーズではしばらく新渡戸稲造氏の『武士道』を一緒に読み解きながら、日本における武士道の現代的な意味や意義を考えていきたいと思います。

 

ところで我々秋月黒田は、黒田官兵衛黒田長政につながる黒田長興(ながおき)を初代として、現在の福岡県朝倉市秋月などを領有していました。秋月藩は石高でいうと5万石でしたが、1万石以上が大名家ですが、江戸の約300ほどあった藩の中でもだいたい真ん中あたりの大きさの藩でした。

 

秋月藩は1623年に藩として成立したわけですが、昨年2023年はなんと立藩400周年に当たる記念すべき年でした。その1623年は関ケ原の合戦から20年以上もたち、そして豊臣政権が崩壊する大阪夏の陣(1615年)から8年も経過した、そんな時代だったわけです。

 

ここに至るまでの日本史の流れをみると、室町時代末期から続く戦国時代を織田信長豊臣秀吉と経て、徳川家康がようやく全国を統一し、その後260年以上平和な時代を築き上げたのは歴史で学ぶことですね。

 

その後、島原の乱が1637年から1638年にありましたが、この乱が鎮圧されたことにより、その後しばらくは大きな内乱もなくなり、名実ともに平和な社会になっていたと言われます。

 

秋月藩黒田官兵衛や長政が活躍をした時代とは少し状況が違った中で藩が動き出すことになりましたが、そんな中で武士(サムライ)としての規律が緩まないようにというのが藩の運営上最も難しい課題だったのではないでしょうか。

 

従って、他の大名家も多かれ少なかれそうであったように、藩の子弟のための教育施設である藩校の設立が秋月藩でもありました。稽古館(けいこかん)という名前ですが、そこで行われていた教育はとても重要な人材教育、育成の場として機能していました。

様々な教育のプログラムがあり、それはまた追ってご紹介していきたいと思いますが、こういった人材育成、教育に関して、一本の筋として通っていたものが、「武士道」であったと思います。

 

ここで、新渡戸稲造氏の『武士道』に繋がってきますが、その第一章の「武士道とはなにか」の中で、私が好きな部分の一つがあって、それが以下の内容です。

 

「(武士は)年を重ねるに従い生活範囲が広がり、人間関係が多方面にわたってくると、当初の信念はそれ自身を正当化し、満足させ、発展させるために、より高き権威や合理的な支持を求めるようになる。もし、武士が殺し合いの軍事的なものだけに頼り、より高き道徳的な拘束力なしに生きたとするならば、武士の生活の中に武士道なる崇高な道徳律は生まれなかったであろう。」

 

ここでは「より高き権威」というような宗教であったり、天皇といったそれこそ「権威」であったり、自分以外の第三者からお墨付きや認めてもらうことで、自分のしていることが正しいということを示したいということを言っています。

武士道というものは、単なる殺し合い、戦うこと自体を追求するものではなく、自分自身の中に何かを作り上げることを指していて、そして、それが日本の多くの人に道徳的な影響を強く与えていたということを新渡戸氏は説明してくれています。

 

「自分自身の中に何かを作り上げること」、このことにとても大切なエッセンスがあるのだろうと思います。

 

さて、今回はこれくらいにして、次回は続けてこの武士道の源泉と考えられるものを探っていきましょう。

 

武士道 (岩波文庫)

武士道 新渡戸稲造のことば

 

 

 

秋月黒田と武士道ー「武士道」②力と美の対象、ノーブレス・オブリージュ

皆さん、こんにちは!

お元気ですか?

 

さて、前回は武士道の概観として「武士道とは何か?」ということの大まかなお話しをして、新渡戸稲造氏の書いた『武士道』の紹介を始めたところでした。

 

今回はその新渡戸氏の『武士道』の中からこれはご紹介したいと思う内容をいくつか抜粋して説明していきたいと思います。

 

「武士道は、日本の象徴である桜花と同じように、日本の国土に咲く固有の華である。それはわが国の歴史の標本室に保存されているような古めかしい道徳ではない。いまなお力と美の対象として、私たちの心の中に生きている。たとえ具体的な形はとらなくとも道徳的な薫りをまわり漂わせ、私たちをいまなお惹きつけ、強い影響下にあることを教えてくれる。」(PHP研究所Bushido 武士道 新渡戸稲造のことば」から)

武士道 新渡戸稲造のことば

 

これは新渡戸氏の『武士道』の冒頭の書き出しの部分です。新渡戸氏が『武士道』を書いたのは初版が1899年12月だったので、明治も32年ほどたった時期ですね。

この冒頭の書き出しから推察されるのが、明治も30年以上たってくると、「武士道」も当時の社会においても一般的には「古めかしい道徳」と捉えられるようになってきていたことが伺えます。

 

それでも、日本の象徴たる桜と同じ、「日本の国土」に咲く「固有の華」でもあり、さらにはいまなお「力と美」の対象として、私たちの心の中に生きている、そういう存在なのですね。

 

ここで興味深いと感じるのが、「武士道」とは一般的な印象では「力」に関係することと想像してしまうと思います。しかし、ここでは「美」の対象でもある、ということで、「美」にも関係してくる、ということです。

 

この「武士道が『美』にも関係してくる」という部分については、これからおいおいと『武士道』を読み進めていく過程でその関係性などを確認していきたいと思います。

 

さて、新渡戸氏の『武士道』はもともとの原本は英語で書かれたものですが、その後日本語に翻訳されて我々日本人の多くの手に届くようになったという流れがあります。そこで「武士道」とは英語で何と表現されているか。

 

Chivalry(シバルリー)という単語を使っていますが、これは「騎士道」という意味で使われているものとのことで、それを日本の「武士道」をどう訳するかという段でこのChivalryを使っています。これは日本の武士道との比較を意識した使い方だったようです。但し、新渡戸氏の『武士道』では騎士道と武士道との歴史的な比較研究はこの『武士道』の中ではメインのテーマではないということで展開しないと言っています。

 

そして、「武士道」の定義のようなことを説明している箇所にたどり着きます。

「武士道は、、、武士階級がその職業、および日常生活において守るべき道を意味する。一言でいえば、『武士の掟』、すなわち、『高き身分の者に伴う義務』(ノーブレス・オブリージュ)のことである」と説明しています。

 

「武士道」が、高き身分の者(武士)に伴う義務、ノーブレス・オブリージュであるという風に言われていますが、武士の義務であるという話からも、やはり「武士道」は武士にとってとても大切な、特別なものであることが伺えます。

 

それでは今回はこれくらいにして、次回はさらに先に進んで行きたいと思います!

 

秋月黒田と武士道ー「武士道」①概観

皆さん、こんにちは!

 

前回、直近に行った黒田塾のセミナーを受けて、久しぶりにこちらのブログでアップしました。その際、「ふるさと・拠り所」と「武士道」ということをテーマにお話をしたと伝えました。

 

今後、黒田塾で行おうとしていることを皆さんに順次伝えていきたいと思っていますが、今回は「武士道」についてです。武士道については、1回ですませられるほど簡単、単純なものではありませんので、折に触れて扱っていきたいと考えています。

 

これから、「武士道」について、どういったことなのか概観していきたいと思います。前回お伝えしました黒田塾での第1回講演会では、武士道とは「武士階級がその職業、および日常生活で守るべき道。武士の掟、すなわち、高き身分の者に伴う義務(ノーブレス・オブリージュ)のことである」としています。「武士道」についてはおそらくその定義や解説は山とあると思いますが、私が参照したのは、新渡戸稲造氏が著したまさに『武士道』という本です。

 

新渡戸稲造1862年8月盛岡の生まれで、1933年にカナダで亡くなりました。まさに幕末最後の時代に生まれ、明治時代から昭和時代前期の教育者として有名な人物です。札幌農学校に学び、内村鑑三らとキリスト教に入信しました。当時、欧米に留学の経験もあり、京都帝大、東京帝大の教授、東京女子大学の学長等を歴任。そして大正9年1920年)に国際連盟国際連合の前身)の事務局次長にもなっています。「太平洋の橋」になることを願い、世界平和をとなえたと言われています。(以上、主に「日本人名大辞典」から)

 

その新渡戸氏が1899年、37歳の時に書いたのが、有名な『武士道』です。もともとは英語で書かれたものですが、それを日本語訳にしたものが我々多くが手に取る『武士道』という本になります。原文は以下のような内容で始まります。とても格調の高い英語だと評価もされています。

 

「Chivalry is a flower no less indigenous to the soil of Japan than its emblem, the cherry blossom; nor is it a dried-up specimen of an antique virtue preserved in the herbarium of our history. It is still a living object of power and beauty among us; and if it assumes no tangible shape or form, it not the less scents the moral atmosphere, and makes us aware that we are still under its potent spell.」

 

このChivalryという単語ですが、英語圏では「騎士道」という意味で通っているようですが、新渡戸氏としては、日本の「武士道」というものを海外の人々に紹介し、理解をしてもらおうとしていたわけで、その意味でも、欧米での「騎士道」になぞらえて日本の武士道を説明しようとした意図がわかると思います。

 

さて、この「武士道」について、次回以降で順次紹介していきますが、新渡戸氏の『武士道』を参照しながら、秋月黒田家の活動、活躍を武士道という文脈でお話していきたいと思います。

 

今回はこのあたりで!

(以下、「武士道」関連での書籍ご紹介)

武士道 (岩波文庫)

武士道 新渡戸稲造のことば

2024年第1回黒田塾セミナー開講しました!「日本のよき面影~秋月黒田と武士道・鎧揃えを振り返る~」

皆さん、こんにちは!


大変ご無沙汰をしてしまいました。
これからはできる限りここでの発信も再開していきたいと考えています。よろしくお願いします。

 

新年度、色々な区切りの時期であるこの頃、皆さんは何を思い、何を考え、日々お過ごしですか?

 

私どもは、昨日4月20日(土)に、虎ノ門霞が関ビルにある旧華族会館霞会館で講演会を行ないました。その演題が今回のメルマガの題として書いたものでして、講演会には20数名の方にお越しいただきました。そして講演会の後、霞会館内の食堂にて食事会も行ました。なかなか普通では立ち入ることのできない場所での講演会と和気あいあいとした食事会、楽しんでいただけたように思いました。

 

講演会では、大きく「ふるさと・拠り所」と「武士道」をテーマにお話をしましたが、特に「ふるさと」の部分では、我々のふるさとである秋月(福岡県朝倉市秋月)について、黒田家の歴史のご紹介とともに、地元の名産品として有名な葛(くず)、川茸(かわたけ)そして和紙についての紹介も行いました。

 

そういえば、つい先日、NHKの『ファミリーヒストリー』という番組に、卓球の元日本代表の石川佳純さんのお母様のご祖先が、我が秋月藩で多大な活躍をしていただいた方であったとの紹介がありました。この場を借りて感謝を申し上げたいと思います。人のご縁とはとても不思議なものですね。

 

講演会での話に戻りますが、歴史のあるこれらの名産品を貴重な価値あるものとして地元で維持、発展されていらっしゃる方々3名にも登場していただき、紹介もしていただきました。このような地元の名産品などのご紹介はこれからもどんどん発信していきたいと思っています。

 

地元秋月と東京の会場とをオンライン(Zoom)でつなぎ、肉声、表情も交えての3人のお話はとても臨場感かつ親近感ある雰囲気があったように思います。我々としては初めての試みでしたが、今後もふるさととつないでの活動をさらに発展させてやっていきたいと思いました。

 

講演会では参加者の皆さんにグループに分かれていただき、グループ内でお話をしていただく形にしました。東京や関東圏の方もいれば、それら以外の九州、新潟、大分などそれぞれの「ふるさと」の想いを語っていただきました。中には幼少期に過ごしたアメリカでの思い出が強い、そこにふるさとのような思いがあるといったお話であったり、旅行や旅でいったところに思いや感慨を感じるといったような紹介もありました。

 

「ふるさと」と言えば、まずは日本の原風景ではないですが、山であったり、川であったり、美しい風景などと結び付くことが多いように思いますが、ニューヨークの高層ビルを見ると落ち着く、良いなって思えるというようなお話もあり、必ずしも日本のいわゆる「原風景」のようなものとも限らないなという風にも思いました。

 

もともと、講演会の中では、自分にとっての「ふるさと」、あるいは「拠り所」という言い方でお話をし、皆さんにも問いかけを行なったのですが、「ふるさと」が持つ意味や価値はどんなものなのか、あらためて考えてみたいと思ったのがこのテーマ設定の理由なのですね。

 

最近の世の中、世界は、従来以上に不透明な、激動の時代の中にあるように思いますし、価値観もゆらゆらと揺れて変化していっているように感じます。こういったこと自体はおそらくどの時代にもある、あったようには思うのですが、近年は特に強まっているのではないかと思うのです。

 

そういった中で、我々は何か「寄って立つ」ところや場所のようなものがあれば、不安な気持ちがすこしは和らぐのではないか、だからそういったものを考えてみることで、自分を強く持てる、少なくとも不安な時間を少なくしていけるヒントが得られるのではないかと思っているのです。

 

秋月の地元の方から、「ふるさととは『変わらないもの』」というお話をいただいたのが個人的にはとても印象的でした。

 

時代的には「変わる」ことが求められていますし、そういった観点でのお話の流れが多いように思いますが、そういう時代や環境だからこそ「変わらないもの」を知っている、理解している人が持つ強さや芯の強さを感じましたし、さらには穏やかで豊かな時間を過ごせていらっしゃるのではないかと思いました。

 

ありきたりの点ではありますが、物質的な豊かさや華やかさ、エンターテインメントの豊富さ、便利で効率的な環境に住んでいると、日本はもっともっと奥深く、多様であるということを見逃してしまいます。

 

私自身、秋月に20年以上前あたりから年に最低2回、春・秋には必ず帰っていましたし、多い時には月に1度は帰るような生活になっています。さらにはご縁も重なり山口県美祢市の方に古民家を持つようになって、特に「日本の地方の持つ美しさ」「人々の優しさ」に触れる機会がたくさんあります。

 

東京にいると気づかない、気づけない、「時の流れの優雅さ」や日本というこの素晴らしい国を地方が支えているという強い実感を持つにいたるようになりました。これこそ、地「宝」(ちほう=地のたから)だ!と思います。

 

こういったことを多くの人に伝えたい。この素晴らしい日本の優しさ、自然や人々の優しさと多様性が、実は日本の「強さ」でもあり、これが国際社会での日本が果たす役割や貢献の源泉となるのではないか。私の今の活動や発想のモチベーションや想いはそこにあります。

 

というようなことを考えていると、一日、一日を大切に生きていきたいなと強く思います。そして、また皆さんとの出会いを楽しみにしていきたいと思ったこの週末でした。

 

今回は第1回目のセミナーでしたが、第2回目から第5回目まで、秋月現地での体験ツアーなどを含めて、日本の良さ、日本が持つ豊かで多様性に基づいた平和への貢献を世界にもアピールできるのではないか、といった問題意識についても、発信していきます。

 

ダイアログK合同会社という会社でもイベントのご紹介をしていきますので、引き続きよろしくお願いします。(ダイアログK合同会社 (dialogue-k.co.jp)

 

【城主はこう考えるシリーズ】ロシア民間軍事会社ワグネルによる「プーチン」への「反乱」?

皆さん、こんにちは。

蒸し暑い日が続きますね。まだまだ梅雨明けはしていませんので、降ったりやんだり、暑くなったりという不安定な日が続くかもしれません。くれぐれもご自愛ください。

 

さて、今回はまた趣向を変えて、「こう考えるシリーズ」としてみました。世の中で起こっていること等を、仮説、勝手な想像を含めて簡単に解説、問題提起してみる試みです。新聞やメディアによる報道に接して、まずどんな風にその情報を受け止め、想像を膨らませて考えていくかを紹介してみたいと思います。

 

この際、正しいかどうかは「強く」意識しないことにしますし、いわゆるなかなか手に入れることの難しい「インテリジェンス」情報なども意識せず、新聞やインターネットにあがってくる玉石混交の情報をどう料理するかで考えてみたいと思っています。

 

初回はまさにロシアでの昨日、今日の出来事として、ロシアの民間軍事会社ワグネルという組織がロシアで「反乱」を起こしたという報道がありました。ロシアによるウクライナ侵攻において戦力不足を補う役割も果たしてきたワグネルという会社。この動きに関して、少々長くなりますが、お付き合いください。

 

このワグネルの創設者エフゲニー・プリゴージン氏がロシア国内での「武装蜂起」を宣言したと報道されていました。

ロシア民間軍事会社ワグネル創設者エフゲニー・プリゴージン氏(写真:ロイター/アフロ)

場所はロシア南部、ウクライナ国境にも近いロストフ州の州都ロストフナドヌーに入ったとプリコジン氏が表明。さらにそのロストフから北上し、リペツク州に到達、さらにはモスクワを目指すとも報道されていました。

 

その後、今日になってロシア大統領府から「プリゴージン氏とワグネル部隊のモスクワへの進軍中止を合意した」と発表がありました。さらにプリゴージン氏はロシアの隣国ベラルーシに出国できるよう、プーチン大統領ベラルーシ・ルカシェンコ大統領とも話をし、身の安全を保証した、とも報道されています。

ロシア、プーチン大統領

ベラルーシ、ルカシェンコ大統領

これら一連の報道の中で、「国家分裂に(プーチンが)危機感」、「ロシアによるウクライナ侵攻に影響も」などのキーワードが出てきています。

 

さて、これらの情報からどんな風にこの事態の「意味」が捉えられるのでしょうか。

 

先に仮説の結論をお伝えすると、

  • 今回の件はグローバルの文脈でみると、欧米(米英等)の負け、プーチン大統領の勝ち
  • 国内ではプリゴージン氏がプーチン大統領の取り巻きの保守派との権力闘争に負け、国外に逃れることになった
  • 今後、欧米はさらに今回の「反乱」を使い続けプーチン大統領への揺さぶり攻勢をかけ続ける。
  • ロシア国内のプーチン大統領「取り巻き」の保守派、そして欧米(特に米国)の関係機関等によって、このウクライナ侵攻収束を巡っての「落しどころ」を探る動きが活発化していく。

といったことが仮説としてあげられるかもしれないと考えてみました。正しいかどうかは今後の進展等が明らかにしてくれるでしょう。

 

まずこのプリゴージン氏がどんな人物なのかについて、報道では「プーチンの料理人」の異名を持つとありました。もともと、プリゴージン氏自身が窃盗や詐欺で服役した過去の経歴があるものの、その後1990年代にサンクトペテルブルグで高級レストレンの事業を開始、プーチン氏がそのレストレンに訪れるようになったとあります。ワグネルとなっていく組織を作ったのが2014年、当時、ロシアによるウクライナ東部紛争、クリミア侵攻・制圧などに参加するなど、政権と持ちつ持たれつの関係が続きます。

 

これらの民間軍事会社でのプリゴージン氏の活動はプーチン大統領との直接の関係での話であり、当然、ロシアの正規軍、軍幹部にとっては統制が効かない、反発に発展しかねないことになります。ショイグ国防相、ゲラシモフ参謀総長などの名前も報道であがっていますが、これらを巡る対立が激化して、今回の事態に陥ったのだろうと予想できます。ただでさえ、ロシアによるウクライナ侵攻が予想以上の長期化を強いられていて、ロシア国防軍のメンツが立っていない状況です。

ロシア、ショイグ国防相

ロシア、ゲラシモフ参謀総長

プリゴージン氏もロシア軍幹部を、2022年2月のウクライナ侵攻に関して、ウクライナ側が攻撃をしかけてくるとの偽情報で侵攻開始を正当化して自らの利益としてきたと批判しています。この情報の真偽は検証が難しいですが、プーチン大統領というとても合理的かつ計算づくの人物がなぜウクライナ侵攻を開始したのかの一つの理由、背景を示唆するとも考えられそうですね。

 

もう一歩視点をロシア国内から外に向けてみましょう。

 

この侵攻で誰が利益を得ているのか? 

中国、でしょうか?インド、でしょうか?それとも米国、でしょうか?。。。と。

詳しくは説明しませんが、案外論理的に考えていくと明らかな部分があるように感じます。残念ながら、「もうそろそろ(利益を得すぎもまずいので)いいのではないか?」という考え自体が出てきても物事の見方が多面的になるかもしれません。これは一つの仮説です。

 

プリゴージン氏には「ウクライナの情報機関が接触していたとの情報もある」との報道もあります。ここから先は直近の報道では出ていませんが、歴史を振り返ると、ウクライナの背後には米国を中心とした欧米が存在し強く影響しています。

アメリカ合衆国、バイデン大統領

西側、反ロシアの立場からすると、プリゴージン氏が反乱の動きで頑張ってくれることに利益がありました。ただ、もう少し頑張って北上しモスクワに近づいてくれると踏んでいたとすれば、思いのほか早く中止の合意に至ったという印象かもしれません。

 

さらには、かつてプーチン大統領に叛旗を翻したオリガルヒ(財閥)は多くが英国(ロンドン)に出国していましたが、プリゴージン氏は結局ロシアの影響圏にあるベラルーシに出国する流れになっています。西側からすると自分たちの影響圏には置いていないことになります。余談になりますが、今後はプリゴージン氏の生存確認(不審死等がないかなど)が注目点の一つかもしれません。

 

プーチン大統領は今回のワグネルの反乱について「裏切りは処罰する」と緊急のテレビ演説で述べていましたが、この点は報道されている情報だけを見る限り、プリゴージン氏とベラルーシのルカシェンコ大統領との旧知の関係性と、ロシアによるベラルーシへの核兵器配置との駆け引きでプーチン大統領がルカシェンコ大統領に借りを一部返した形になったのかもしれません。

 

あるいは、プーチン大統領自身は表向きの処罰の話とは異なり、プリゴージン氏とはそれなりの関係を維持しているため、急進派、保守派からの「突き上げ」に対して、プリゴージン氏をロシア国内ではなくベラルーシに出国させることができたということで、プーチン大統領の力がまだ保守派よりも上回っていることを示す一つの証拠になるのかもしれません。ただ、いずれにしても、ロシア国内での「反乱」を望む存在はロシア国内外にそれなりにありそうですね。

 

最近になり、米国等欧米の外交雑誌でロシアによるウクライナ侵攻の和平を目指すような論稿、米国で有名なシンクタンクランド研究所等)も和平を選択肢とするような論文などを発表するようになってきている印象があります。これは米国の政権がそのような情報を意図して流してきていると見ることもできるかもしれません。

 

ロシア大統領選挙は予定通りであれば来年2024年3月、そして米国大統領選挙は同じく来年2024年11月に行われます。これらの政治日程などをにらみながら、来年初までの関係者、関係各国の動きにますます注意が必要となってきそうです。

 

さて、最後に、今回のようにロシアについて「多面的、多角的な物の見方」「中長期の歴史的視点も踏まえながら考えてみる姿勢」に役立ちそうな本を以下にご紹介します。関心がおありでしたらどうぞ手に取ってみてください。

 

【歴史的な視点や力学から欧米とソ連・ロシアとの関係を眺める】

地政学と冷戦で読み解く戦後世界史

 

【米露という大国における諜報活動に関する記録】

米露諜報秘録1945-2020:冷戦からプーチンの謀略まで

 

【ロシア・プーチン大統領理解のための一つの教科書的本】

プーチンの世界

 

【ワグネルに関する数少ない本。ウクライナ、シリアでの実戦に身を置いた元指揮官による手記】

ワグネル プーチンの秘密軍隊

 

【米国バイデン大統領の自伝。プーチン大統領との面会の様子が興味深い】

約束してくれないか、父さん 希望、苦難、そして決意の日々

 

佐藤優氏による地政学についての考え方を授業で丁寧に教えてもらう内容】

現代の地政学 (犀の教室)

 

ウクライナ出身のユダヤ歴史学者によるロシアの20世紀の歴史を一年ごと丁寧に説明。ロシア民族の歴史的な文脈などの理解もすすむ】

ロシアの二〇世紀 〔100の歴史の旅〕

 

山川出版社から読みやすい文章のタッチであらためてロシア史を学べる書。上下2巻。近代ロシア史、ソビエト連邦氏が専門の和田春樹氏による編。】

ロシア史 上 (YAMAKAWA SELECTION)

 

 

ロシア史 下 (YAMAKAWA SELECTION)