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【下剋上とは?】なぜ日本は戦国時代に突入したのか

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【下剋上とは?】なぜ日本は戦国時代に突入したのか」というテーマでお伝えしたいと思います。

 戦国時代とは、どんな時代だったのでしょうか。それを説明出来るひとつの現象が下剋上でしょう。

 下剋上の「剋」の字は、訓では「かつ」と読み、返り点をふると、「下、上に剋つ」と読みます。かつて古代律令体制の社会では、官位によって人間の上下が定められ、下の階層が上の階層の者を打倒することは、許されざることでした。

 という今回は、そんな下剋上の時代について触れていきながら、なぜ日本は戦国時代に突入してしまったのかについて解説していきたいと思います。

当時の武田信玄織田信長も、今が戦国の世であることを知っていました。家柄や身分のせいで立身出世を阻まれてきた実力者たちのフラストレーションが一気に爆発し、誰でも国を盗れる実力主義社会、すなわち戦国時代が到来したのです。

 甲斐の武田信玄が制定した『甲州法度』のなかに、「現在は『戦国』の世の中だから、武備を怠ってはならない」という条目があります。

 しかし、平安時代鎌倉時代、江戸時代といった現在の我々が接している時代区分は、明治以降に編み出された時代区分であって、鎌倉時代に生きた人達が「現在は鎌倉時代だから○○しないと」などとは意識するはずもありませんでした。

 しかし、戦国時代だけは、『甲州法度』からもわかるように、「戦国時代」という直接的な用例はなくても、「戦国の世」「戦国の乱世」という言葉が使用されています。つまり、戦国大名たちは、自分達の生きている世界が「戦国状態」であることを悟っていたのです。

 戦国時代というと、100年以上も争乱が続いたことから、殺伐とした世相となり、一般大衆は悲惨な生活を送ったというイメージが強いです。しかし、争乱が続けば、実力優先の社会となり、農民出身である豊臣秀吉が天下人にもなれる社会環境が生まれました。逆に考えると、実力があっても権威のない人間は、成り上がることが難しかったです。

 それが応仁の乱がきっかけとなって、室町幕府の権威が凋落するとともに、実力があっても権威のない人々のフラストレーションが一気に爆発して、実力本位の時代、すなわち戦国時代が到来したのです。

 

 下剋上という言葉自体は、13世紀の鎌倉時代にすでに生まれていました。それが14世紀半ばの南北朝時代には定着しました。南北朝時代とは、天皇が2人いるという非常に不安定な時代でしたが、そんな気風から権威に対する挑戦としてバサラという風潮が流行ったりしました。やはり動乱の時代には、下剋上現象、つまり実力のある下級の者が上級者の立場を脅かす風潮が強まるようです。しかし、南北朝時代は形式的には南朝北朝という2つの中央政権による争いなので、群雄割拠の時代ではなかったことから、戦国時代とはいえない。

 そんな下剋上現象が決定的となったのが、応仁の乱以後のことでした。もともと室町幕府は日本国内をゆるやかに支配していましたが、応仁の乱とともに、遂にその統治権を失い、群雄が割拠する混沌とした状態が生まれ、戦国時代へと突入しました。

 戦国時代は、実力のない権威は否定されました。それまで、天皇を中心とする公家や宗教勢力は、実体のない「権威」によって荘園と呼ばれる土地を維持していました。ところが、下剋上の風潮が強まると、彼らの荘園は、実力のある武家によって横領され、彼らの永克基盤を脅かしたのです。下剋上という言葉には、落ちぶれていく公家や宗教勢力の怨恨が込められています。

 

 戦国時代とは、政治は乱れていましたが、経済は大きく成長しました。基本的には戦争や内紛が起こると、経済は右肩上がりに成長し、好景気となります。一方で豊かで平和な世の中であれば、経済は停滞し、不景気となります。それは昔も現代も変わらないようです。人間は命の危険に晒されると、思考をめぐらせ、積極的に行動するようになるのです。

 国の経済は、生産・流通・消費の活動を繰り返しながら循環し、成長していきますが、農村では農業技術も改良され、生産力はアップ、都市部を中心に貨幣経済が浸透したことで、商業・流通・金融が発展していきました。

 そうした経済力を背景に農民たちは一致団結して自衛組織(惣村)をつくり、領主や地頭からの不当な搾取に抵抗しました。それはやがて自治組織へと発展していき、1485年には南山城の南部では、1485年に地侍(国衆)たちが守護の畠山氏の支配を嫌って蜂起、その結果、南山城から畠山氏の影響力は排除され、「山城国一揆」という自治的組織が8年間にわたって南山城を統治しました。それまでの秩序のなかで最下層にランクされていた地侍や農民たちは、一揆という横型の結束により、権威によりかかった支配者を排除することに成功したのです。下剋上を象徴する出来事(事件)といえるでしょう。

 もちろん、戦国乱世の時代には、武将たちの下剋上も起こりました。1491年には北条早雲堀越公方を攻め滅ぼし、1565年には松永久秀らが室町13代将軍・足利義輝を殺害し、1582年には明智光秀が主君の織田信長を攻め滅ぼしました。

 そして、最終的には豊臣秀吉が天下統一という偉業を達成します。農民出身の豊臣秀吉が天下をとったことは、下剋上の時代の象徴ともいえますが、天下人にとって下剋上は好ましい現象ではなかったので、秀吉は関白に就任し、下剋上の動きを封殺しようとしています。

 成り上がりの秀吉により、下剋上は下火になり、徳川家康が政権を奪取すると1615年に『武家諸法度』を制定し、法治主義による支配体制が出来上がりました。天下泰平の時代の到来とともに、下剋上の時代に終止符がうたれることとなったのです。

【永仁の徳政令】御家人が貧窮した3つの原因とは?

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【永仁の徳政令御家人が貧窮した3つの原因とは?」というテーマでお伝えします。

 

元寇(蒙古襲来)の前後から、御家人たちの困窮はますます強まっていました。それは元寇に対する十分な恩賞がもらえなかっただけでなく、惣領制に伴う、分割相続という相続形態が所領の細分化を招いたこと。そして貨幣経済の浸透によって、多くの御家人たちが土地を担保に借上(金融業者)から借金をしており、返済の充てがなくなった御家人たちは、土地を取り上げられてしまいました。そんな御家人の困窮に対し、鎌倉幕府は強権的な政治姿勢で、1297年に永仁の徳政令と呼ばれる法令を出しました。

 元寇(蒙古襲来)前後の13世紀後半から、御家人たちの生活は困窮していきました。その理由は以下の3つです。

  • 元寇に対する恩賞が不十分であったこと。
  • 分割相続を繰り返したことで、領地が小さくなり、その分徴収できる年貢が少なくなってしまったこと。
  • 貨幣経済が浸透したこと。

1つづつ見てきましょう。

 元軍の襲来で御家人たちは奉公にはげみ、大きな負担を強いられました。しかし、元寇は外敵防御だったため、相手方の領地を奪うことが出来ず、幕府は武功のあった御家人たちに十分な恩賞を貰うことができませんでした。

 さらに、分割相続を繰り返すことによって、領地が小さくなり、生活が苦しくなる御家人が増えました。そのため、借金で領地を手放す者も増えてきました。

 そして、貨幣経済が浸透したことで、御家人たちもお金(貨幣)が必要になり、自らが持っている土地や地頭職を担保に、借上などの金融業者からお金を借りていました。しかし、返済が出来なくなった御家人たちは、当然ですが、土地や地頭職を取り上げられてしまいました。

 このように御家人たちの困窮は恩賞不足なだけでなく、社会の変動によっても、もたらされたのです。

 こうした御家人たちの困窮に対処するべく鎌倉幕府は、1297年、に徳政令永仁の徳政令)を出しました。これは地頭・御家人が借上(金融業者)などに土地を売ったり、質に入れたりした地頭職などを無償で取り返してよいという内容です。このような強権的な政策によって、幕府は地頭・御家人を救済しようとしたのです。

 徳政とは、徳のある政治という意味ですが、もともとは天変地異や疫病などが起こるのは、政治を行う者にいたらないところがあるからだという考えから、庶民の苦しみをやわらげるために立派な政治を行うことを徳政と言っていました。しかし、この永仁の徳政令が出されてからは、売ったもの、質にあずけたものを、無償で取り返すことが出来ることが徳政たといわれるようになりました。室町時代になると、農民らが借金の帳消しを求めて、しばしば徳政一揆を起こすようになります。

しかし永仁の徳政令は、抜本的な御家人たちの経済力の回復にはつながりませんでした。こうなると、御家人にとって、幕府に魅力は無くなってしまいます。そんな中で、京周辺や畿内を中心に、幕府にもどこにも属さず、集団で略奪などを繰り返す、悪党と呼ばれる新しい武士勢力が台頭しました。これが鎌倉時代後期の大きな変化の1つです。

 幕府が強権的な政治姿勢で、徳政令を出したことで、借上などの金融業者は以後、御家人には絶対にお金を貸さないという手段をとりました。当然でしょう。しかし、これによって貨幣経済が浸透しているご時世で借金さえ出来なくなった御家人の生活はかえって苦しくなり、徳政令は抜本的な御家人たちの経済力回復には至りませんでした。これによって御家人たちの不満は高まっていきました。

 さらに、諸国の守護が有力御家人から北条氏一族へと次々とかえられ、全国の守護の約半分が北条氏の一族で占められるようになりました。しかし、北条氏一族は勢力ばかり強くなり、失政を続けてしまったことか幕府は御家人からの信用を失い、幕府の基盤であった御恩と奉公の関係も揺らいでしましました。

 そして、幕府の支配体制をゆさぶる動きが各地で起きてしまいました。京や畿内周辺では、荘園領主に対抗する地頭や非御家人の新興武士達が、武力を背景に年貢の納入を拒否し、荘園領主から年貢を奪い、乱暴をはたらくなどしました。彼らは幕府に属さないという意味もこめて、悪党とよばれるようになりました。

 鎌倉時代末期、大和国奈良県)では、悪党と化した武士たちが奈良の春日大社を襲撃し、御神体として祀っていた鏡を奪い取る事件が発生しました。そんな悪党たちを征伐したのが春日大社とつながりの深い興福寺の軍勢で、山に立てこもる悪党たちを討ち取るべく結集しました。

 そんな状況ですので、朝廷や貴族からは「悪党をめしとるように」という要請がしばしば出されました。鎌倉幕府は守護や六波羅探題に命じて捕らえさせようとしても機動力のある悪党たちを捕らえることは容易ではなく、有効な対策がとれませんでした。

 悪党が襲う場所は、14世紀のはじめころから港や市場などへと拡大していきました。海上交通の拠点を支配下におさめていた北条氏にとって、これを放置しておけば重要な経済基盤を失うことになります。悪党を取り締まることが、幕府の緊急の課題となったのです。

 幕府は中国・四国地方に悪党討伐にあたる使節を派遣するなどしましたが、悪党の活動はいっこうに止まず、やがて東北地方からも住民の反乱が伝えられました。鎌倉幕府の勢いの衰えは、もはや誰の目にも明らかでした。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

聴くだけ 日本史  古代~近世  東京受験日本史研究会  Gakken

読むだけですっきりわかる  日本史  後藤武士=著  宝島社文庫

【日朝貿易】室町時代の日本と朝鮮の関係とは?

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【日朝貿易】室町時代の日本と朝鮮の関係とは?」というテーマでお伝えします。 

1392年、朝鮮半島では、高麗政府の武臣であった李成桂が高麗王にかわって新たな国家として朝鮮を建国しました。同年、日本でも室町3代将軍・足利義満南北朝の合一の成功し、極めて大きな権力を獲得しました。

 14世紀半ば、日本では、鎌倉幕府が滅び去り、室町幕府が成立するという大きな変化がありました。一方、朝鮮半島でも14世紀からその情勢が大きくかわりました。

 長いあいだ元に服属していた朝鮮半島の高麗では、元の王室から王妃をむかえ、その子を王としていましたが、明が建国されると、国の政策をめぐって意見の対立が起こりました。中国を追われた元が引き続きモンゴル高原に宮廷を置いておいた北元にしたがうべきか、新しく建国された明に従うべきかで意見が対立したのです。高麗政府の指導者たちは、反対派を抑え、北元にしたがって明と戦うことにしました。

 そこで、1388年、高麗政府の武臣の李成佳(イソンゲ)は、大軍を率いて明との戦いに進みました。しかし、その遠征の途中で、李成佳(イソンゲ)は、軍を引き返して都・開城(ケソン)に攻め入り、親元派の指導者たちを追い出すというクーデターに出ました。

 これによって1392年、高麗王に代わって国王の位についた李成佳は、新王朝をたてて国号を朝鮮と定め、都を漢陽(ハンソン、現在のソウル)に置きました。この1392年は、日本で室町幕府3代将軍・足利義満南北朝の合一が実現した年です。これによって義満は公家と武家の頂点に立ち、朝鮮や明などの諸外国との外交及び貿易に乗り出していきます。

朝鮮半島では、高麗政府のときから倭寇の海賊行為に悩まされていました。1392年に建国された朝鮮は、日本に倭寇禁圧を求めて日朝貿易を形成しました。しかし、その貿易は日明貿易のような幕府の独占ではなく、西国の守護大名や、対馬の島主の宗氏なども貿易に従事するカタチとなりました。

 こうした動きがあった一方で、朝鮮半島の沿岸には倭寇とよばれる海賊集団があらしまわっていました。

 室町時代の日朝関係を語るうえでどうしても外せないのが、この倭寇の問題です。朝鮮半島倭寇の被害が増えだしたのは、1350年頃でした。彼らはたびたび海から人家に乱入しては米穀を奪い、男女の別なく住民を連れ去りました。連れ去られた人たちは、奴隷として酷使され、あるいは高値で売り払われるのです。

 はじめは20隻くらいだった船団が400隻といわれる大規模なものとなり、税として徴収した米を蓄えておく倉庫などを狙って沿岸部ばかりではなく、内陸部にまで押し寄せました。

 たまりかねた高麗政府は、1367年に室町幕府に使者を送り、倭寇を取り締まってもらうよう求めました。しかし、この頃の日本は南北朝の動乱が収まっておらず、幕府は高麗の要求に応えることができませんでした。

 そこで高麗政府は、倭寇に強い影響力をもつ九州探題今川了俊や、周防国山口県東部)の大内義弘対馬国長崎県対馬)の宗氏など西国の大名らに協力を求めました。その結果、倭寇に対抗できる機動力と軍事力が整えられ、日朝両国で倭寇の討伐が行われました。

 この倭寇との戦いで功績をあげていたのが李成桂(イソンゲ)でした。彼は、この功績から民衆から高い信頼を得ていたため、1392年、朝鮮の国王に就くことが出来たのです。

 こうして、1404年、朝鮮と幕府(日本)は正式に国交を結びました。しかし、朝鮮側は倭寇の取り締まりを幕府だけでなく、西国の守護大名や武士達を通じても倭寇を抑えようとしていたので、日朝貿易は、日明貿易のような幕府の独占とはならず、大内氏・大友氏・宗氏などの守護大名や、対馬壱岐肥前松浦地方(長崎県)の武士、商人、僧など、いろいろな人々が貿易に参加しました。

 このような努力の結果、朝鮮半島を荒らしまわる倭寇は撃滅されていきました。朝鮮側は、倭寇を武力によって鎮圧するだけでなく、懐柔政策も始めました。具体的には、貧しい倭寇に対し、投降を呼びかけ、これに応じた者には十分な食料と衣類を与えました。さらには官職を与え、住居までも与えた例もありました。

 その結果、多くの倭寇が朝鮮政府に投降し、それでも海賊行為を辞めなかった一部の反攻者は、武力制圧されました。1419年には、倭寇の根拠地の一部であった対馬朝鮮軍が襲う事件(応永の外寇)なども起こりました。こうして朝鮮半島での倭寇は、15世紀までにはほとんど消滅していきました。

 一方、この日朝貿易は極めて限定的なもので、朝鮮側は富山浦(ふざんぽ)・乃而浦(ないじほ)・塩浦(えんぽ)の三浦(3つの港)のみが開かれ、ここに日本側の商人などが居住して日朝貿易が進められました。やがて、15世紀頃から日本側からの貿易拡大の要求が高まりますが、朝鮮側はなるべく制限しようとしました。このため、16世紀はじめ、三浦の日本側の商人や武士達が朝鮮側の貿易統制強化に反発した反乱(三浦の乱)が起こりました。

 日朝貿易では、日本から朝鮮へは、銅・硫黄のほか、琉球沖縄県)との貿易を通じて香料・染料など南方の特産物が輸出されました。朝鮮から日本へは、室町将軍をはじめ各地の武士たちの求めに応じて、高麗版の大蔵経(仏教の経典をすべて集めたもの)が多数もたらされました。さらに、朝鮮人参や、まだ日本では生産していなかった木綿も大量に輸入され、日本人の衣生活に大きな変化をもたらしました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

【御伽草子】庶民が楽しんだ文化とは?

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【御伽草子】庶民が楽しんだ文化とは?」というテーマでお伝えしたいと思います。

 今回は、室町時代の文学作品として御伽草子について見ていきますが、それだけではなく、当時の庶民が楽しんだ文化全体についても見ていきたいと思います。

 室町時代とは、政治は乱れていましたが、経済発展は大変著しい時代でした。そんな経済成長を背景に、庶民の中にも娯楽を楽しもうとする気風が生まれました。

 当時の庶民が楽しんだ文化の代表的なものは、歌と踊り、そして祭りでした。特に祭りは、村や町でさかんに行われるようになり、女性は華やかな衣服と、花笠などの飾り物をつけて、笛や太鼓などの拍子に合わせて群れて踊る風流踊りが人気を集めました。

 お盆には、念仏を唱えながら踊る念仏風流も行われ、京都では年中行事のひとつになりました。やがて、念仏抜きの踊りだけとなり、盆踊りが生まれました。

 芸能では、室町3代将軍・足利義満の保護のもとで能が発展しましたが、庶民のあいだでは、手猿楽という素朴でより娯楽性の強いものが演じられ、庶民に喜ばれました。手猿楽は、見るのも演じるのも素人の庶民で、女性が演じる女猿楽も人気を呼びました。

 

 さて、文学についてですが、室町時代には夢溢れる物語(御伽草子)がたくさん生まれました。作者は不明なものが多いですが、そのなかには、『浦島太郎』や『ものくさ太郎』、『一寸法師』などの現在も親しまれている物語もあります。

「御伽」とは、話し相手をつとめるという意味で、「御伽草子」とは「人の退屈を紛らわせるための物語」という意味です。しかし、御伽草子の物語は、当初は語り聞かせるものでした。それが絵巻物に描かれるようになり、やがて読みやすい横長の絵本へとかわっていきました。

 御伽草子というと、子供向けの童話のように考えられがちですが、そうした話ばかりではなく、大人でも十分楽しめる題材のものもたくさんありました。昔話や伝説、歴史的な事件などを題材にしたものが多いですが、全体的には「めでたし、めでたし」のハッピーエンドで結ぶものが多いです。登場人物の心理的描写はあまりなく、味わいや面白みのあるストーリー展開に重点が置かれています。

 それらは、内容や登場人物によって以下の6つに分けられます。以下、それら解説と簡単なあらすじを紹介していきます。

【公家に関する物語】

平安時代以来の貴族を主人公にした物語で、恋愛や、近親相〇、血縁関係のない者へのいじめなどを題材にした物語が多いです。代表作には、『鉢かづき』、『和泉式部』、『小町草子』などがあります。

・『鉢かづき』のあらすじ

河内国に姫君がいました。姫君は信心深い母親が亡くなる直前に、鉢をかぶせられてしまいます。姫君は母の意図がわからず、鉢を外すことも出来ずに苦労を重ねました。やがて姫君が命の危険に晒されたとき、これを助てくれた若君と結ばれました。その後、鉢が割れると、その姫君の姿は絶世の美女でした。こうして母の意図がわかった姫君は、若君と幸せに暮らしたというお話です。

 

武家に関する物語】

武士を主人公とした鬼退治や化け物退治、または武士同士の争いなど武勇を題材にした物語が多いです。代表作には『酒呑童子』、『横笛草紙』があります。

・『酒呑童子』のあらすじ

丹波国大江山酒呑童子という鬼神が住んでいました。酒呑童子平安京に下りてきては、財宝や美女をさらっていく恐ろしい存在でした。ある日、天皇から勅命を受けた源頼光は、坂井公時ら四天王を率いて大江山に向かい、神仏の助けを借りて、酒呑童子を見事に退治したというお話です。

 

【僧侶・仏教に関する物語】

僧侶や寺に仕える少年(稚児)、さらには神仏が人間だったころを主人公に、信仰や出家に関する物語です。代表作には『秋の夜長物語』、『さいき』、『ささやき竹』があります。

・『秋の夜長物語』のあらすじ

比叡山東塔の稚児である桂海は、三井寺の稚児で花園左大臣の娘でもある梅若に恋をしました。やがて梅若も桂海に恋い焦がれ、比叡山に向かう途中、天狗にさらわれ、石牢に閉じ込められてしまう。梅若が行方不明になったことで、大騒ぎとなった三井寺は桂海の仕業だとして、比叡山と対立し、さらには花園左大臣の邸宅も焼き討ちしてしまいました。これに憤った比叡山三井寺を焼き討ちにしました。その後、竜に救出された梅若は、実家も三井寺もなくなっていることに絶望して入水してしまいました。これをはかなんだ桂海は東山雲居寺を建立し、梅若の霊を弔ったというお話です。

 

【庶民に関する物語】

庶民を主人公とした物語で、滑稽な話や、出世や求婚に関する物語などがあります。代表作には『一寸法師』、『ものくさ太郎』、『文正草子』があります。

・『文正草子』のあらすじ

常陸国鹿島神宮の下人である文太は、実直勤勉であったにも関わらず、解雇さえてしまいました。しかし、そんな文太ですから、製塩業を始めると瞬く間に成功し、大富豪となりました。やがて文正と改名し、さらには鹿島明神に祈ると娘2人を授かりました。その娘たちは、やがて貴族の妻となり、文正自身も、貴族の仲間入りを果たすことが出来たというお話です。

【異国を舞台にした物語】

中国やインドなどの外国、さらには竜宮などの想像上の異世界にまつわる物語です。代表作には『浦島太郎』があります。

 

【異類に関する物語】

動植物や道具類を主人公にした物語で、人間と結婚したりするなどの異類婚姻譚も含まれています。その代表的なものには『蛤(はまぐり)の草子』、『猫の草子』などがあります。

・『猫の草子』のあらすじ

京都で猫を綱から放すように、という命令が出ました。猫は喜びましたが、鼠は逃げ隠れるようになりました。ある晩、高僧の夢の中に鼠が現れ、その苦しみを訴えました。そこで、高僧は猫に鼠を殺すことをやめるようにいいました。しかし、猫はそれを受け入れられず、結局、鼠たちは各地へと散っていったというお話です。

 これら御伽草子は、平安時代に創作された物語の系統をしっかりと受け継いでおり、江戸時代になると、浮世草子として庶民に親しまれます。

こうした庶民にもわかりやすい物語が成立したということは、室町時代の文学の大衆化を表していると思います。

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

【室町文化】人々の暮らしはどのようなものだったのか

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【室町文化】人々の暮らしはどのようなものだったのか」というテーマでお伝えしたいと思います。

 現代の日本人の衣食住や日常の暮らし、そして文化には、日本独特のものが多くあります。それらはいつ頃から始まったのでしょうか。多くの場合、それは室町時代からとされています。室町時代は生活の様々な分野で、現代の私達の生活や文化の基本が形成された時代でした。

 今回は、そんな当時の人達の生活と文化について見ていこうと思います。

室町時代は、和服のもとになった小袖が生まれ、和食の基本が出来上がりました。住居では、書院造の発達によって和風住宅が生まれ、風呂やトイレも生まれ、公共浴場や共同トイレも整備されました。

 和服のもとは小袖にあります。それまで袖口のせまい小袖は、庶民の日常着でしたが、公家や武家は下着として使用していました。これが身分に関わらず小袖を上衣として着るようなったのは室町時代の終わりごろからです。

 男性では、小袖を下に着て、袴を上衣としました。それまで武士の一般的な服装だった直垂(ひたたれ)は、より威厳あるものに改良され、上級武士の礼服にまで格上げされました。中級以下の武士は、直垂の一種である大門や素襖(すおう)を着ました。つまり、直垂、大門、素襖の順に服装の階級が生まれたのです。アニメ『一休さん』をご存知の方なら、蜷川新右衛門の服装が直垂になります。

 女性では、美しい模様の小袖を着て、その上には何もはおらない着流しが多くなりました。しかし、武家の女性や庶民の女性での豊かな人達は、小袖を着て細帯をしめたうえから、打掛(うちかけ)とよばれる丈の長い小袖をはおりました。

 

 食生活の面では、現在の和食に近いかたちが出来上がりました。生のものでは、刺身が登場し、調味料として醤油が使われるようになりました。日本特有の煮物の味もつくられるようになりました。

 さらに、それまで禅宗の寺院でしか食べられていなかった豆腐・納豆・そうめんなどの食品も、一般に普及するようになりました。

食事の回数は、1日2回で、朝と夕方が普通でした。しかし、裕福な家では1日3回をとるものも出てきました。

 調理法も発達し、包丁師とよばれる専門の調理人が生まれ、料理の流派もうまれました。包丁師は、まな板の上で食材に直接手を触れないように、はしを手にして魚や鳥を押さえて調理しました。

 流派によって調理法や配膳のしかたに工夫がされ、武家のあいだでは、日本特有のお膳も生まれました。四角い盆(折敷)に、ご飯と汁、おかずが並べられ、食事の席での礼儀作法も武家を中心に重んじられるようになりました。

 

 住まいについては、書院造が発達し、畳が敷き詰められた部屋が現れるようになり、公家・武家・僧などの住まい、現在の和室とほぼ変わらない姿となりました。

 住まいの施設として欠かせないのが、風呂とトイレです。当時の風呂とは蒸し風呂のことで、湯に浸かるのは湯屋といいました。当時、一般的だったのは、蒸し風呂のほうで、公家・武家の屋敷や寺院には浴室が設けられていました。一方で庶民の家には浴室はなく、代わりに公衆浴場が都市を中心に整備されたので、そこを利用しました。公衆浴場は、たとえば建物の左側が脱衣所なら、右側が蒸し風呂になっており、川などの洗い場に近くに位置していました。

 トイレが整備されはじめたのも、室町時代のころからです。それまでは、庭や空き地などで用を足すことが多かったのですが、京都の町屋などでは共同トイレがつくられるようになり、たまった糞尿は捨てたり流したりせずに、田畑の肥料(下肥)として利用されました。

 

今回は、室町時代の人々の暮らしについて解説してみました。

 

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

【室町時代】なぜ各地に小京都が誕生したのか【宗祇】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【室町時代】なぜ各地に小京都が誕生したのか【宗祇】」というテーマでお伝えしたいと思います。

 

室町時代には、中央で開花した文化が地方へも波及していった時代でした。

今回は、室町時代の地方文化についてみていきながら、なぜ各地に小京都が誕生したのかについても触れてみたいと思います。

 

 1567年、応仁の乱が勃発すると、その戦火を逃れるために京都に住んでいた公家や僧は次々と地方都市へと亡命していきました。

 そんな亡命者たちを地方の武士たちは、温かく迎え入れたため、彼らとの交流が進むうちに、京都の文化は地方へも広がっていきました。

 たとえば、大内氏の領国である周防国の山口(山口市)には、多くの僧や学者・公家が集まり、儒学儒教を研究する学問)や古典の研究、出版などが行われました。また、雪舟水墨画は、大内氏の保護のもと、大成されたといっても過言ではありません。

 大内氏は、かつて明との貿易を独占していたため、山口は「西の京」とよばれるほど豊富な人口や経済活動、そして都市開発も進んでいました。そんな山口では、京都を真似た町づくりが行われ、山口市には京風文化を象徴する建造物が作られました。京都と同じように祇園祭も行われるようになりました。

 現在も山口市には京風の建物が残っており、その代表例として挙げられるのは瑠璃光寺五重塔でしょう。これは応永の乱で敗れた大内義弘の霊を弔うために1442年頃、建てられたそうです。

 

 また、土佐国の中村(高知県四万十市)では、関白だった一条懐良の子・教房(のりふさ)が応仁の乱を逃れた後に定住したことから、土佐の小京都として栄えました。

 このように、各地の小京都は、応仁の乱の戦火を避けるために、京都から亡命してきた貴族や僧、学者などによってもたらされた文化のもと、形成されていったのです。この時代、他にもたくさんの小京都が地方に誕生しました。以下に列挙しておきます。

岩見国の津和野(島根県津和野市)

但馬国の出石(兵庫県豊岡市

美濃国の郡上(岐阜県郡上市

飛騨国の高山(岐阜県高山市

伊予国の大洲(愛媛県大洲市

 また、地方文化への広がりということでは、旅をしながら生涯を送った連歌師たちの役割も大きいものがありました。彼らは地方に招かれて連歌の指導にあたり、京都と地方を往来して文化や情報を伝える役割も担いました。

 そんな連歌師の代表的な人物に、宗祇がいます。宗祇は、若い頃に出家し、京都の相国寺で修行しながら和歌や古典の教養を身につけた後、連歌師として諸国を遊行して過ごしました。

 1488年、宗祇は弟子の肖伯・宗長とともに3人で連歌集『水無瀬三吟百韻』を後鳥羽上皇を祀る水無瀬宮で詠んだ正風連歌の傑作といわれています。個人としての連歌集は『新撰菟玖波集』があります。宗祇は、連歌を芸術の域にまで高めました。その他、宗祇は自身の遊行体験を綴った『白河紀行』や『筑紫道紀』などの旅行記を著しました。

 

 学問では、儒学が大名たちに必要な学問としてみなされました。明で儒学を学び、帰国した佳庵玄樹は、肥後国熊本県)の菊池氏や、薩摩国(鹿児島県西部)の島津氏に招かれて講義を行い、薩南学派という一派を開きました。また、五山文学後期の臨済宗の僧侶である万里集九は、中部や関東をめぐり、漢詩文を残しました。

 関東では、15世紀中ごろに、関東管領の上杉憲実が、鎌倉時代後期に最高学府とされながら廃れていた足利学校を自らの蔵書を寄進して再興させ、儒学を学ぼうとする多くの僧や武士が各地から集まりました。

 また、地方武士たちは、弟子や子供を寺院に通わせて教育をしました。教育が行われる寺院は寺子屋とよばれ、教科書には『御成敗式目』や『庭訓往来』が使われました。

こうした教育は、都市や農村の裕福な人々にも広がっていきました。

 

 以上、今回は、室町時代の地方文化についてと、なぜ小京都が誕生したのかについてみていきました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

【能と狂言】なぜ猿楽は伝統芸能に発展したのか【観阿弥・世阿弥】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回は「【能と狂言】なぜ猿楽は伝統芸能に発展したのか【観阿弥世阿弥】」というテーマでお伝えしたいと思います。

 現在も日本の伝統芸能として演じられ続けている「能」。

 この能を大成させたのが、観阿弥世阿弥父子と言われています。能の演目は1番、2番と数えられますが、現在も頻繁に上演されているのは240番くらいまであります。そのなかに確実に世阿弥のつくったものが50番以上含まれていることから、能の天才としての世阿弥を見ることができます。

 ということで、今回はそんな観阿弥世阿弥父子に注目して、ストーリーを展開していきながら、なぜ猿楽は伝統芸能へと発展したのかについて見ていこうと思います。

 

鎌倉時代、多くの人が集まる場所では芸能が楽しまれました。

当時、もっとも流行した芸能は田楽でした。田楽は豊作を祈る農村の祭りから発展したもので、笛や太鼓などの楽器を演奏しながら踊ります。「二条河原落書」には、「犬、田楽は関東のほろぶるといいながら、田楽はなおはやなるなり」と書かれていて、鎌倉幕府が滅んだのは、執権の北条高時闘犬や田楽に夢中になり、政治をかえりみなかったためにいわれているのに、それでも田楽の人気はおとろえない、と皮肉っています。

また、鎌倉時代には田楽を専門におこなう田楽法師が現れ、京都やその周辺には、田楽法師の一座ができました。1349年、橋をつくる費用を集めるため京都の四条河原で田楽を催されたときには、将軍の足利尊氏をはじめとして公家や僧、庶民にいたるまで多くの見物人がおしかけたため、見物人がくずれて大勢の死傷者が出る騒ぎになったほどです。

 

この田楽と人気を競い合った芸能が猿楽でした。猿楽も農村の祭りから発展した芸能で、めでたい舞いやこっけいなものまね芸などを行いました。鎌倉時代の終わり頃から人気が出てきて、大和国奈良県)や近江国滋賀県)などの京都周辺の村々には、猿楽を上演する一座も生まれました。これらの猿楽能は、各地の寺院や神社の祭礼などに招かれ、舞台の上で猿楽を演じました。

南北朝時代大和国奈良県)には、春日大社の神事(神をまつる儀式)に奉仕する猿楽の座が4つありました。そのうちの結崎座をまとめていた観阿弥は、新しく歌(謡)と舞を取り入れて、物語としての面白さをもつ猿楽能をつくりあげていました。

 

このように鎌倉時代を経て、南北朝時代に流行した田楽や猿楽は、まだまだ民衆の好むいやしい芸能だと見なされていました。

 

それが、室町時代になると、上級武士や貴族に愛好されるようになり、やがて能や狂言という室町文化を代表する伝統文化へと発展していきます。そのきっかけは一体何だったのでしょうか。

 

1374年のある日、観阿弥は、子の世阿弥とともに京都の今熊野の地で猿楽を演じることになりました。その評判を聞きつけた室町3代将軍・足利義満は見物にきました。そして観阿弥世阿弥父子の芸を見物した義満は、その素晴らしさに感激し、彼らに特別な保護を与えることにしました。

特に、美男子であった世阿弥は、義満に気に入られ、幕府内の一部の権力者しか入れないところまで連れられました。このとき、義満は18歳で、世阿弥は15歳でした。義満は、世阿弥にメロメロで、「一緒に飲まない?」とか「お祭りを見にいこう」と誘いまくったそうです。

 

そんな義満の保護のもとで、観阿弥世阿弥父子は、猿楽を洗練された美しさをもつ能へと大成させていきました。

観阿弥は、「幽玄」を重視し、田楽や近江猿楽の芸風を取り入れながら、能は「ものまね芸(写実)」を根本に置かなければならないとして、大和猿楽へと革新させました。しかし、観阿弥は猿楽能の初心を忘れることはなく、「衆人愛敬」を第一として、どのような観衆の心をもとらえることを基本方針としました。

一方、世阿弥は、貴族や上級武士の好みにあうように能を改革し、「幽玄」や「ものまね芸」、そして「花」を芸能の根本としたうえで、父・観阿弥の築いた猿楽能をより芸術性の高い能として大成させました。その後、世阿弥は『高砂』、『井筒』などの多くの謡曲(能の台本)をつくり、1400年には父・観阿弥の教えをまとめた能の理論書である『風姿花伝』などの著作にまとめました。『風姿花伝』には能の美しさを花にたとえ、年齢に応じた稽古や演技の仕方などについて述べられており、「秘すれば花」、「初心忘るるべからず」など現代の芸能や演劇にも通ずる言葉も述べられています。

しかし義満の死後、特に6代将軍・足利義教の時代になると、世阿弥は幕府から圧迫を受けることになりました。将軍や幕府の重臣たちは、もともと低い身分の者だった世阿弥たちが才能を発揮することを快く思っていなかったのです。

身の危険を感じた世阿弥は59歳で出家するも、1422年に佐渡国新潟県佐渡島)に流されてしまいました。後に許されて京都に戻った後は、女婿の金春禅竹の邸宅で余生を過ごしたそうです。

 

猿楽が持っていた滑稽で即興的な要素を発展させたのが、狂言でした。能は主として古典の物語や神話・説話に題材をとったのに対して、狂言は下級武士や下人、農民などの民衆の生活のなかでの出来事を取り上げ、当時の話し言葉(俗語)を使って、こっけいな劇として演じました。

劇の内容には、公家や武家・僧などを風刺するものもあり、しばしば支配者たちかの怒りを買いましたが、そうした風刺は、庶民のあいだでは、大変喜ばれました。

狂言を演じる役者たちは、猿楽の一座のなかで独立した地位を占めるようになり、能と狂言が交互に上演されるようになりました。

こうすることによって、互いの芸が際立つようになり、両者を差別化する一方、能と狂言は切り離すことが出来ない一体化した芸能として発展していきました。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史2  鎌倉~安土桃山時代  木村茂光=監修 ポプラ社

あの偉人たちにも黒歴史!? 日本史100人の履歴書  矢部健太郎=監修 宝島社

読むだけですっきりわかる 日本史    後藤武士=著  宝島社