23℃ 曇
風が強い一日だった。夕方から低気圧による不調が生じた。
9時ごろ起床。
公園で念願のさくらんぼを収穫した。通りすがりの住民の多くが、こちらの木登りを眺めていった。声をかけてくる老夫婦もあった。「おおすごい、たくさん実ってるねえ!」「公園の反対側にもさくらんぼの木があるよ」と友好的。そしてどうやら我々を夫婦と勘違いしていたようだった。我々は見かけからして地味で大人しそうなどこにでもいる一対そのもので、住民に警戒心を抱かせる要素が一つもなかった。
何か羞恥心を抑制する時に、習い事で取り組んでいた英語演劇の、演技の緊張、盛り上げ役の緊張を思い出す。今はもっぱら「大人げない冒険」「ちょっとした不良ぶりっこ」においてでしか抑制しない。10代の頃は、年下の子供たちを楽しませるために、尻文字だとか手遊びだとかを気合いを入れてこなしていた。仕事ではもう全くもって使われない勇敢さ。図太さを装えることがむしろネガティブにとられることもあると理解している。
11時半ごろ、中華で昼から紹興酒を飲んだ。自分は半チャー付坦々麺を、Tはもやしと豚肉のピリ辛炒め定食に舌鼓を打った。デザートに黒糖きな粉のアイスを食べた。
帰宅して、さくらんぼをジャムにするために下処理を施した。Tはここでも大いに活躍してくれた。一昨日ホタルイカのくちばしや目玉をとる作業を器用にこなしてくれたように、今度はさくらんぼの種を取り出す作業を担ってくれた。
砂糖をまぶす待ち時間の間に、ベランダに放置していた、天井裏から降ってきた劇画ジャンプに2人で取り掛かった。真っ黒い埃をウェットティッシュでぬぐい、ページを開く。まごうことなく40年前のエロ漫画(劇画)だった。生々しくえぐみがあるトーンが全体を貫いていた。写真も数ページあり、ふとましいというか現実的な体型の女体があられもない姿を曝していた。こういうのを見て育ったら現実の人間の身体に夢を見ることもなく、したがって幻滅もないよなと思うような生々しさ、グロテスクさではあった。ただ商業コンテンツとしてのエロにはマニアのロマンがたっぷり詰まっているものだと思う。で、その意味で、自分の中の新たな扉が開放された感覚があった。自分の趣味ではなく汚いと感じるのだが、それはそうとして、半世紀近く前のエロ本を脳内でどう処理したらいいのか受け止めるのに時間がかかった。そして家に歴史ありというか、ご近所の一般家屋全てに、昔ながらのエロ本が眠っている可能性があるのだということを思った。Tは漫画家の名前で検索して現役の作家がいることに感心していた。
畳の上でごろごろと昼寝し、2時間してからジャムを煮始めた。収穫したうちの半分はホワイトリカーに漬けて酒に、半分はジャムにする。出来上がったものを煮沸消毒した空瓶に詰めた。
弛緩した時間が続いた。Tといる間は孤独になることができない。家自体は広く部屋数が多くても、結局同じ部屋で一緒に過ごすことになり、またTの出国が近いことも相まってなんとなく別れがたく、くっついて過ごした。我々2人の間では、倦怠期だとか「刺激がない期間」というものが存在したことがない。
Tの去り際に焼き立ての煎餅を出した。ちょっと焼き加減が足りない硬い煎餅を2人で食べた。
17時ごろ1人になってからは脱力して、布団に潜り込んだ。低気圧だった。
fairness、誠実さに欠けるアホはなるべく酷い目に遭えばいい。いつもそう思いながら生活しているのではないか、と自分自身を疑っている。ネットを見ていて、無責任で利己的な人間が酷い目に遭う、そうした単純な勧善懲悪を自分から好き好んで摂取しているような感覚を覚える。就職してからの傾向で、かなり危険性を感じる。反知性的だ。親しくもない他人が誠実であろうがなかろうが、自分には関係ないではないかと思う。そしてfairであったところで解決できる問題というのは社会には少ない。態度や姿勢云々ではなく、言語化不足をどうにかしたほうがいい場合の方が多い。しかし誠実さは何よりも増して輝く宝だ。誠実であること抜きにして、高貴であることができるだろうか?
疲れるのだと思う。立ち回りだの処世術だの小手先のテクニックだの、心の底からどうでもいい。