Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

振り上げた握りこぶしはグーのまま振り上げておけ相手はパーだ(枡野浩一)

 25年ほど前に書かれた短歌だが、今ふうにも解釈できる内容である。SNSクソリプに腹を立てて、つい返信してしまいそうになるとき、「こんなアホを相手にしてもしょうがない」と、「振り上げた握りこぶし」を振り下ろすのをやめるときの心境とそっくりである。

 

 以下、私の読みを記す。

 この歌は、言語の遊戯性を楽しむ歌であり、おしまいの一語でものの見え方がガラリと変わる。激しい感情が発露されそうな場面が、別のルールを持ったジャンケンゲームの場へと読み変えられ、緊迫感が脱臼される。

 変化してゆく様子を少し丁寧に見てみる。まず「握りこぶし」という言い方である。これは、握られた手の形を描写したものである。人が「握りこぶし」をつくるのは相手を殴るときだけではない。身体に力がはいるときはつい「握りこぶし」をつくる。その意味で「握りこぶし」じたいに暴力的な価値が内在するわけではない。この歌で「握りこぶし」が相手を殴るためのそれであると思わせているのは「振り上げた」という動作がつけられていることによる。振り上げる動作は継続して振り下ろす動作を想定させるからだ。振り下ろすために振り上げたのである。振り上げる動作には振り下ろす動作が潜在している。

 歌は「握りこぶしはグーのまま」とある。ここで読み手は多少の違和感を感じはじめる。小説でいえば伏線である。どこに違和感があるかというと、「握りこぶし」のすぐあとにトートロジーのように「グーのまま」と付け加えられていることにある。手の状態としては全く同じなのに、あえて言い換えをしている。そこにチラッと作為的なものを感じはするが、この段階ではまだ意図がわからない。わからないままここで「握りこぶし」と「グー」が併存することになる。そして最後に「パー」とあることによって併置されていた「グー」のほうに力点が移り、認識の枠組がジャンケンに移行する。違和感として存在した伏線がここで回収される。「握りこぶし」と「グー」が併存していた段階で、暴力的な場面の裏にジャンケンというゲームの世界が滑り込まされていたことがわかる。

 こうやって見てみると、既に「握りこぶし」といういささか古めかしい言い方がされていた時点で、ジャンケンへの移行のたくらみ=兆候が隠されていたことがわかる。「握りこぶし」は、複数の意味をほのめかすことができるあわいに位置する言葉として使われていたのだ。

「握りこぶし」を「グー」と言い直すことは、状況の見立てを暴力からジャンケンゲームに移行させることである。それに伴い、他の言葉も意味が変容する。この歌では「振り上げ」るという動詞も繰り返されるが、短歌のように短い形式で何かを語る場合、同じ言葉を繰り返すことは情報量が減少してしまうので通常は避けるはずである。にもかかわらずそれをやるのは、そうする理由があるからである。この冗長性(繰り返し)は、重層したレイヤーを生み出すためのものである。

 はじめの「振り上げた」は「握りこぶし」について言っている。次の「振り上げておけ」はジャンケンの「グー」について言っているものである。それぞれ異なる見立ての身体動作である。「振り上げ」るという言葉の反復が、世界の見え方が二重になっていることを、より印象強く読み手に与えている。この短歌に流れる時間は直線的に進むというよりは、「グー」の直前で切断され、二度目の「振り上げ」るは、最初の「振り上げ」るの位置に重ねられる。枡野は「短歌は一行書きにせよ」とどこかで書いていたが、この短歌を図像的に書けば二行の分かち書きになる。

 

       振り上げた握りこぶしは

 グーのまま 振り上げておけ相手はパーだ

 

 このように、一つの動作を二重像で描いている。改行は認識の遅延(ズレ)を表現している。

 相手を殴るための「こぶし」がただのジャンケンの記号(グー)へと無害化されてしまったわけだが、そうなったのはおそらく語り手自身がそうしたかったからである。語り手も「こぶし」を「振り上げた」まではよかったが(つい勢いでそうしてしまったのだろう)、そのあと、この場をどう収めればよいかわからなくなってしまったのだ。自分も本当は「こぶし」を振り下ろしたくない。だから振り下ろさないで済むようにこの状況をジャンケンに見立て、認識の枠組をスライドさせたのである。先にも述べたように、振り上げる動作は振り下ろす動作とセットである。振り上げたままでは動作が完結しない。それを完結させるには、その動作を違う意味の仕草へとずらすしかない。

(中学校のとき、授業でみんなが手を挙げるので、勉強のできない私の友人もおそるおそる手を挙げたところ、先生に指名されてしまった。彼は「頭を掻いてました」と釈明した。また別のときは「袖を直してました」と言った。)

 この状況がジャンケンだとすると、相手がパーを出しているので、こちらがグーをだせば負けてしまう。だからグーの手を振り下ろせない。ここで、「振り下ろせない→振り下ろさない」という選択肢を、論理的なものとして得ることができた。もちろん相手が実際にパーをだしていたのではない。語呂合わせによって作られた二重性である。自身の認識のなかでのみ完結する論理(見立て)であり、相手と共同の認識ではない。

「振り上げた握りこぶし」を振り下ろしたくないので、そのことの論理的な理由が得られたところまではよかった。しかし、ここで、金縛りのようなジレンマに追い込まれてしまった。相手をパーとみなしたことによって、「アホなやつにお灸をすえる」という衝動性(振り上げた握りこぶし)に加え、「アホを相手にしても仕方ない」という客観性(グーのまま振り上げておけ)が生じた。実は、短歌で(直接的に)歌われているのはここまでである。短歌で描かれた状況の、その先がなければならない。それは「こぶし」は振り上げたままなので、それをどうすればよいかという問題である。このままでは、「振り上げた」腕が疲れても振り下ろすこともできない。腕を下ろすには、そこからさらに進む必要がある。それには自分の行為の中断を表明するしかない。つまりなんの理由であれ、その行為が完遂できず失敗したこと(=負け)を認めることである。

 振り上げたこぶしを下ろすのは、中途半端なみっともなさが残る。たとえ「負けるが勝ち」などと、大人ぶった余裕を見せてもごまかせない。だが、同じ負けるにしても、その意味づけによって受容しやすさは異なる。暴力的な場面からの逃避(男性性の敗北)ではなく、遊戯のルールにしたがったもの(論理的な帰結)であれば、自らを諭して受け入れやすい。

 この場合は、負けたと言ってもジャンケンに負けた(とみなした)だけであるから、プライドは傷つかない。ジャンケンに意味の場を移行させたのはそのためである。ジャンケンというのは、その勝敗に自分の実存が左右されずに結果の強制がともなう極めて簡易な行為である。勝っても負けても行為は泡のように消え、結果だけが残る。勝敗じたいに重みはないから、結果を受け入れやすい。こだわりを発揮する場面ではない。漫画風に言えば、「バカを相手にしても仕方ない」という態度で、軽く「ふっ」と笑って、「負けるが勝ち」を受け入れるところだ。ただ、その意味は相手にはわからない。ジャンケンの見立てを共有しない相手は、なぜこちらが動作を途中でやめたかわからない。

 この短歌は、さらに深読みをいざなう。そもそも本当に相手は「パー」なのか、自分でそう思いたいだけではないか、というのも読み方次第である。「パー」は、あるいは「愚」を装った「大愚」かもしれない。また、ジャンケンのパーが勝ちの意味を持つのは、グーを包み込むからであるが、相手をパーとみなすことは、相手の方が包摂性を持っているということ、自分のグーは開かれない頑なさを象徴しているともとれる。ジャンケンに見立てた時点で、お互いの本質をはからずも見抜いていたのかもしれない。

 もしジャンケンの論理で勝とうと思えば、パーにたいしてチョキを出すしかない。チョキの手の形をよく見ると、それはピースサインになっている。つまり戦いは終わり、平和にやろうよということになる。パーの相手には暴力(グー)ではどうしても勝てない仕組みになっているのだ。

 

 この歌ではジャンケンは見立てに用いられているが、実はこの歌を知ったあとでは、ジャンケンをするときにこの歌が脳裏をかすめて、なんだかジャンケンにさえ悲しみを感じるようになるかもしれない。

 

歌がわかれば『ウルトラマン』がわかる

 日本でカラー放送が開始されたのは1960年からだが、当初はカラーテレビじたいが少なく、カラーで撮影された番組も少なかった。NHK総合テレビの全番組がカラー化されたのは1971年である(「NHK放送博物館」)。71年時点のカラーテレビ普及率は42.3%、白黒テレビは82.3%である(http://honkawa2.sakura.ne.jp/2650.html)。足して100を超えるのは、カラーテレビと白黒テレビは併置されていたからである。カラーテレビは70年代の前半に急速に普及し、普及率は9割に達する。

 それより前、1966年から67年にかけて放送された『ウルトラマン』はカラー放送で、番組制作が白黒からカラーへと変わる過渡期の作品である。66年当時のカラーテレビ普及率は0.3%にすぎないから、ほとんどの子どもは白黒でウルトラマンを見ていたことになる。カラータイマーが青から赤に色が変わっても白黒テレビでは判別できない。点滅するのは白黒テレビでも変化がわかるようにというエピソードがある。

 ウルトラシリーズを概観すると、大方の評価は、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の2作品は傑作で、だいぶ落ちて『帰ってきたウルトラマン』までは大人の鑑賞に耐える、ということになるだろうか。私の視聴経験では、『ウルトラマンエース』『ウルトラマンタロウ』は幼稚すぎて、小学校低学年の当時でも見るのが苦痛で、はじめの数回しか見ていない(大人になれば大人の見方をする人もいるだろう)。『ウルトラマンレオ』は、セブンが出てくるというので見てみたが、すぐ変身できなくなるし、レオは殴る蹴るばかりではがゆい。平成のウルトラシリーズでは、『ウルトラマンガイア』と『ウルトラマンネクサス』が面白かった。『ウルトラマンメビウス』のあとは見ていない。変身シーンについては、やはりウルトラマンは文句なしだが、セブンは残念、新マンの最後の浜辺での変身は神々しささえ漂っていた。

 2022年は『シン・ウルトラマン』の映画が話題になったこともあり、NHKでもウルトラマンについて度々放送されていた。その中で、『ウルトラマン』の第1話(怪獣ベムラー)と第30話(怪獣ウー)のハイビジョンリマスター版が放送された。大人が見ても楽しめるはずだと思い、両作品を見たが、「こんな出来だったっけ?」と拍子抜けした。その主な原因は脚本にある。制作当時は、これほど繰り返し見られることになると思っていなかったのだろうか、あるいは時間がなかったのか、あるいは子どもだから深く追求しないと思ったのか、勢いで書き流しているように思えた。細かく指摘すると切りがないので第1話から2点だけあげるにとどめる。

 

 ハヤタとウルトラマンとのファーストコンタクトで、次のような会話が交わされる。

 

ハヤタ「これは何だ」

ウルトラマン「ベータカプセル」

ハヤタ「ベータカプセル?」

ウルトラマン「困った時にこれを使うと、そうすると…」

ハヤタ「そうするとどうなる」

ウルトラマン「フッハハハ。心配することはない」

 

 心配しなくていいと言われても、宇宙人からわけのわからないものを渡されて使い道も効果もわからないのに、それは無理だろう。「困った時にこれを使」えと言われても、どのように「困った時」なのかわからない。電車に乗り遅れそうになったとか、タクシーで財布を忘れたとか、いろんな「困った時」がある。それなのにハヤタは、怪獣に襲われたときカプセルをかざすという正しい使い方をする。いずれにせよ「フッハハハ。心配することはない」と答えるウルトラマンはどこか楽しんでいるかのようだ。

 ヒーローが変身するというのは、今ではすっかり当たり前のことになっているが、当時は新鮮な驚きだったのではないか。それまでの日本のヒーローといえば、鞍馬天狗月光仮面も変装した姿で現場に駆けつけたのだった。

 アメコミでも、スパイダーマンバットマンも人に知られないところで着替えてから登場したので、変身したわけではない。スーパーマンはワイシャツの下にスーツを着込んでおり、眼鏡とネクタイをはずし、シャツの胸を開くとその下に「S」のマークが見えるのである。『ウルトラマン』も第1話を見ると、科特隊が基地から出動するとき、青いブレザーの下にオレンジ色の隊員服を着込んでいることがわかる。スラックスの裾からチャックをあげると、隊員服が出てくるのである。私たちも小学生のとき水泳があると事前に海水パンツを履いていったのと同じである。

 ちょっと違うのはハルクで、これは感情が高ぶると緑色の巨大な怪物に変身する。日本の漫画では手塚治虫の『ビッグX』が薬を飲むと巨大化する。ハルクは1962年、『ビッグX』は1963年の初出である。同じ1963年には『8マン』という漫画があった。これはロボットだが、人工皮膚を持っていて、どんな顔にも変身できる。怪人二十面相とか、多羅尾伴内七色仮面の流れである。薬を飲むと変身するのは『ジキル博士とハイド氏』である。

 ウルトラマンがこれらと違うのは、同一人物が変身するのではないということだ。変身する前と後とでは別個体に置き換わっている。ハヤタの体が大きくなってウルトラマンになるのではない。ハヤタとウルトラマンは入れ替わっているのである。『シン・ウルトラマン』では、この点を深堀りしていて、ベータカプセルを起動することによって、別次元にあるウルトラマンの身体を呼び寄せているということになっている(たぶん)。

 会話をもう一度引用すると、

 

ウルトラマン「困った時にこれを使うと、そうすると…」

ハヤタ「そうするとどうなる」

ウルトラマン「フッハハハ。心配することはない」

 

 ウルトラマンにはこのとき、まだ「変身」という概念がなかったのかもしれない。それで「そうすると…」と口ごもったのかもしれない。変身するときに「変身!」と叫ぶのは仮面ライダー2号からで、ウルトラシリーズでは何も言わないでポーズを取るだけか、あるいは「デュワッ」と叫んだり、「タロウ」「レオ」「エイティ」など名前を呼ぶだけである。

 ところで、ウルトラマンがハヤタに、「困った時にこれを使」うように指示するということは、ハヤタには自由意志が残されているということである。ハヤタはウルトラマンと一心同体になったが、それまでのハヤタの肉体や精神は継続して存在している。だが、最終回でウルトラマンとハヤタが分離すると、ハヤタには記憶がなくなっている。「僕は竜ヶ森で衝突して・・・衝突して今までどうなっていたのかな」ときょとんとしている。ハヤタの精神はウルトラマンに乗っ取られていたのだろうか。それとも記憶だけ消されたのか。物語の中では、ハヤタの人格がどこまでウルトラマンと融合していたのか、自律していたのか不明である。

 

 ウルトラマン』第1話の脚本で気になったところをもう一点掲げる。

 ハヤタは肝心なところで「そんなこと」と言って話を逸らす。

 行方不明になったハヤタを科特隊のみんなが探しているとき、不意に連絡が入りアキコ隊員がそれを受ける。

 

アキコ「ハヤタ隊員! 一体どこにいるの? あなたのことをみんなが探しているのよ」

ハヤタ「そんなことはどうでもいい。それより特殊潜航艇S16号を竜ケ森のYマークの地点まで運んでほしいんだよ」

 

 その後、ムラマツ隊長と話をして、どうして助かったのかと詮索されたときの会話はこうだ。

 

ムラマツ「ゆうべは一体なにが起こったのだ。ビートルからどうやって助かったのだ」

ハヤタ「彼が助けてくれたんですよ」

ムラマツ「彼? 彼って誰だ」

ハヤタ「キャップ、そんなことより、まずベムラーをやっつけるのが先です」

 

 ムラマツとしては疑問で頭がいっぱいだ。しかしハヤタは、そんなことはどうでもいいと一蹴する。隊長としても、怪獣を前にしては一隊員の不審な行動にかまっていられないから、それ以上ハヤタの詮索はやめてしまう。物語としても、枝葉のことは気にせず話をどんどん進めていきたいときに、疑問をスキップさせる「そんなことより」という「うっちゃり語」を使うのが便利なのだ。

 ハヤタが乗った潜航艇は、このあと怪獣によって地上に放り出され、光線を浴びて炎上する。(このときハヤタはヘルメットをかぶっていたにもかかわらず、額に一条の血を流していた。何のためのヘルメットか。)ハヤタはウルトラマンに変身して怪獣を倒し、人間に戻って科特隊の隊員たちと再会する。

 

アラシ「ハヤタ、大丈夫か」

ハヤタ「五体ピンピンだよ」

イデ「ハヤタ、君は本当のハヤタなのかい?」

ハヤタ「本当も嘘もない。実物はたったひとつだよ。キャップ、ところでベムラーはどうなりました?」

ムラマツ「うん、宇宙人が追っ払ってくれたよ」

ハヤタ「やっぱり彼が出てきましたか。僕もそうじゃないかと思って安心してたんですよ」

アキコ「すると、あなたを助けてくれたのも・・・」

ハヤタ「彼だ」

(中略)

ムラマツ「君は全く悪運の強い男だよ」

ハヤタ「僕は不死身ですよ、キャップ」

 

 こうした会話で、ハヤタは自分がウルトラマンであることをみんなに隠したままにする。自分とは別にウルトラマンが出てきたかのように装っている。だが、この時点ではまだ、自分がウルトラマンであることを、それほど強い秘密事項にするつもりはなかったのではないだろうか。誰がウルトラマンなのかということは、この時点では焦点にはなっていないが、自分とウルトラマンとの関係を曖昧にする巧妙な会話になっている。私には、初めに言い出せなかったことがずっと秘密になってしまったような気がしないでもない。

 ハヤタはどうして自分がウルトラマンに変身したことを隠そうとしたのか。どこまで徹底的に隠すつもりがあったのか。この先、何度も怪獣と戦ううちに、ウルトラマンとハヤタはなにか関係がありそうだと誰でも気づくはずであるが、科特隊は鈍感なのか、誰も疑問に思わない。そんなことにも気づいてもらえなほど、ハヤタの人間としての存在は希薄なのだ。物語の中でのハヤタの役割はウルトラマンが出現するまでの過渡的なもので、人間性は薄いのである。最終回でハヤタは、今まで自分は何をやっていたのかと首をひねるが、その乗っ取られ感と、主人公であるにも関わらずハヤタ自身の魅力のなさとは、ある意味一致していて整合性がある。これが『ウルトラセブン』になると、最終回でダンはその正体をアンヌに明かし、どこかメロドラマっぽい別れになる。BGMもクラッシクが使われ、悲壮さが盛り上げられる。

 ヒーローはその正体を隠すのか隠さないのか。隠すとしたら、「善きこと」をしているのになぜ隠すのか。その議論は本稿の趣旨とはズレるので、ここでは措く。

 

 では『ウルトラマン』の主題歌「ウルトラマンの歌」の歌詞を見ていこう。

 作詞は東京一(あずまきょういち)で、円谷一つぶらやはじめ)のペンネームである。円谷一は、円谷プロの創業者、円谷英二の長男で、TBSテレビを経て、父の死後、円谷プロの社長になっている。ウルトラシリーズでは『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』で何本か監督をつとめている。作詞家としては、他のウルトラシリーズや『ミラーマン』『ファイヤーマン』など円谷プロが製作した作品の作詞をしている。

 

ウルトラマンの歌」(作詞、東京一)

 

  胸につけてる マークは流星
  自慢のジェットで 敵をうつ
  光の国から ぼくらのために
  来たぞ 我等のウルトラマン

  手にしたカプセル ピカリと光り
  百万ワットの 輝きだ
  光の国から 正義のために
  来たぞ 我等のウルトラマン

  手にしたガンが ビュビュンとうなる
  怪獣退治の 専門家
  光の国から 地球のために
  来たぞ 我等のウルトラマン

 

 歌はフルサイズでは3番まであるが、テレビのオープニングで流れるのは2番までである。「ウルトラマンの歌」とはいうものの、〈胸につけてる マークは流星/自慢のジェットで 敵をうつ〉とか、〈手にしたガンが ビュビュンとうなる/怪獣退治の 専門家〉というのは科特隊のことで、科特隊の歌といってもいいくらいである(「特捜隊の歌」は別に作られている)。聞き手の子どもたちは、露払いの科特隊のことよりも、ウルトラマンについて歌ってほしかったのではないか。

 1番で〈自慢のジェットで 敵をうつ〉と科特隊が出てくるのはいいとしても、2番で〈手にしたカプセル〉でウルトラマンに変身したのだから、3番ではスペシウム光線などの必殺技でやっつけてほしいところである。そういう順番なら、ドラマの展開に沿ったスムーズな流れになる。ところが、3番の歌詞では〈手にしたガン〉と科特隊のことにまた話が戻ってしまった。たしかに、科特隊の活躍は馬鹿にならず、ジェロニモケムラーゼットンなど、科特隊の銃やバズーカで倒した怪獣もある。ビートルによる攻撃ではなく、手で携行する兵器でたおすところが科特隊ならではだ。とはいえ、科特隊が戦いの決着をつけるのはやはり例外的だ。歌では科特隊の秘密兵器のことはもういいから、ここは主役のウルトラマンの必殺技を話題にして欲しかった。例えば、〈手にしたガンが ビュビュンとうなる〉ではなく、〈光の光線ビュビューッとうなる〉とでもしておけば、〈怪獣退治の専門家〉がウルトラマンのこととしてスムースにつながるのである。

 以下、歌詞を順に細かく見ていこう。

 

〈胸につけてる マークは流星〉

 たしかに隊員服の左胸には流星のマークがついている。だがそれは、たんなるマークではなく、ピンバッジの形をした小型無線機であり、実用品である。

 科特隊はこの流星マークに囲まれている。隊員服には、胸のほかに、腕にもマークが縫い付けられている。また、ヘルメットの正面にも大きく描かれている。オレンジ色の隊員服は現場に行くときの服装だが、基地にいるときは青いブレザーとグレーのスラックスを着用している。このブレザーの胸には大きい流星バッジがぶら下がっており、衿にはそれよりこぶりの流星バッジがつけられている。また、ジェットビートルの主翼垂直尾翼、自動車や潜航艇、基地の外壁などにも流星マークが描かれている。小学生が自分の持ち物全部に名前を書くように、空いているスペースがあればこのマークを描いている。

 科特隊といえばオレンジの隊員服姿であるから、〈胸につけてる マークは流星〉というのも、この隊員服の小型無線機のことであろう。ただそれは、いくつもつけられたマークの中では、小さく目立たないものである。にもかかわらず、あえて〈胸〉のマークが選ばれている。同じ作詞者による「特捜隊の歌」(「科特隊の歌」ではなく「特捜隊の歌」となっている)でも、〈流星 流星 流星 胸に輝くこのマーク〉とある。場所は胸というより衿なのであるが、〈胸につけてる〉ことが重要なのである。では、〈胸につけてる〉とはどういうことか。

 胸につけるものといえば、リボンとか勲章、バッジ、ブローチ、名札、といったものである。これはその人がどういう人かを示す展示場所として胸が最適だからである。所属や階級をあきらかにしたり、見せびらかしたりするのに目につきやすい場所である。胸に飾るものは人に見てもらいたいものである。科特隊の場合、流星マークを誇らしく思っているということが伝わってくる。これは続けて〈自慢のジェットで 敵をうつ〉と言っていることとつながっている。

 科特隊は立派なすごい組織で、そこに所属している人たちもそれを誇りに思っている。科特隊が頑張っているから、それに呼び寄せられるようにウルトラマンも宇宙の彼方から来てくれた。もし科特隊がショボい組織だったら、そんな連中を誰も助けたいと思わないだろう。ウルトラマンが最初に接触した地球人は科特隊の隊員だった。しかも中でも真面目なハヤタであった。ハヤタは科特隊を代表し、科特隊は地球人を代表する。ウルトラマンはハヤタと接触し、地球人はみんな真面目で一所懸命だと思ってしまったのである。

 次に、〈マークは流星〉とあるところの流星について検討してみよう。実は『ウルトラマン』の半年前まで同じTBSで放送していたアニメ『スーパージェッター』で主人公が愛用していた乗り物の名称が流星号で、オープニングの「流星号応答せよ、流星号」というセリフは、私も真似した記憶がある。『帰ってきたウルトラマン』では主人公が乗るレーシングカーとして用意されていた車が流星号と名付けられている。のちには『流星人間ゾーン』という特撮番組もあったりして、流星というのはどこか未知なものに対するかっこよさがあるようだ。

 歌詞に〈流星〉が使われているのは『帰ってきたウルトラマン』もそうである。〈大地をとんで流星パンチ〉とある。この場合の〈流星〉は素早いという意味である。科特隊も素早く現場に駆けつける。だから流星みたいだ、という意味もあるだろう。だが、本来、流星というのは夜空で突然光っては消える得体のしれないものである。古来、不吉なものとされることが多かった。SF映画でも、宇宙からの未知の侵略者は流星となって地球にやってくる。流星は地球にもたらされる禍々しいもの、災厄の兆候である。『ウルトラマンタロウ』で〈彼方からせまりくる赤い火〉も一種の流星である。科特隊がそれをマークに取り入れているのは、地上での異常事態ではなく宇宙規模の事変に対処するということである。

 一方、『ウルトラセブン』に出てくるウルトラ警備隊のマークは横長で、青い地球を赤い円が囲み、左右に矢印が長く伸びている図案だ。私にはこれは監視する眼のように見える。続く『帰ってきたウルトラマン』のMATはウルトラ警備隊の図案を翻案したものになっている。『エース』『タロウ』のTAC、ZATのチームも赤青の色と円のイメージは継承している。何が言いたいかというと、科特隊が図案化した流星というのは危機の象徴そのものであり、対処される対象であって対処する主体ではないが、セブン以降は、対処する主体の図案になっているということだ。ウルトラ警備隊の場合は監視する眼であり、他のマークには「MAT」「TAC」「ZAT」とチームの略称が入っている。科特隊のマークは受動的、セブン以降は能動的な主体になっている。

 この流星マークは縦でも横でも使われている。科特隊の制服や隊員服では縦置きだが、ビートルの垂直尾翼や潜水艦、専用車は横置きである。『ウルトラマン』のオープニングのシルエットでも横向きに出てくる。つまりこのマークは天地の定めがなく、場合によって縦でも横でもいいというユルイものなのだ。流星がモチーフなら横向きが妥当だろうが、縦だとロケットのように見える。服では縦置きなのは来賓のリボンみたいだからだろう。いずれにしても、このマークは使用規定も決められていらず、科特隊がよく使っているけれど、本当に科特隊のための専用のマークなのか怪しいところがあると私は睨んでいる。

 ところで、ウルトラ警備隊のマークはなぜ赤で縁取られているのか。これは企画段階でレッドマンとも言われたウルトラセブンと共通点を持たせたいためであろう。ウルトラ警備隊のマークはウルトラセブンが変身するときに用いる赤い縁のウルトラアイを彷彿させもするのである。この点は『ウルトラマン』も同じである。科特隊の所有するジェットビートルは、鈍く輝く銀色の地に赤い縁取りがなされていて、これは銀色の巨人で赤い模様のウルトラマンと共通のデザイン思想に貫かれている。ビートルとウルトラマンは外見だけで仲間だとわかるのである。

 チームのマークと変身アイテムに関係が見いだされるのはウルトラマンタロウもそうである。タロウに変身するとき主人公は腕につけたバッジをはずして天にかざす。このバッジのデザインとZATのマークの雰囲気が似ている。科特隊の流星マークは、『タロウ』では昇格して変身アイテムになったのである。タロウの変身バッジは中心の円から三方に小さな円が雫のように飛び出ている。ZATのマークは中心の円から四方に小さな円が飛び出ている。これはもう同じコンセプトに基づいたものであると言っていいだろう。このタロウの変身バッジは、当初、隊員服の胸につける予定であったらしい。しかしアクションの邪魔になるので上腕に変更したという。科特隊も隊員服の胸には流星マークのバッジ、上腕には同じマークのワッペン(エンブレム、アップリケ)がついている。このエンブレムが『タロウ』では変身アイテムにまで昇格したと言えそうである。

 

〈自慢のジェットで 敵をうつ〉

 この〈ジェット〉というのはジェットビートルのことだろう。〈自慢のビートルで 敵をうつ〉としたほうが具体性があっていいと思うが、作詞したときは、まだ名称がきまっていなかったのかもしれない。2番3番でも〈カプセル〉〈ガン〉とあるだけで、固有名詞を使っていない。

 ウルトラマン』の初期のオープニングでは、〈胸につけてる〉というところで流星マークのシルエットが出て歌詞と画面がシンクロするが、続く〈自慢のジェットで〉のところでビートルのシルエットがでるかというと、そうでもない。流星マークはオープニングのタイトルバックで3回使われているが、ビートルは出てこない。『ウルトラマン』のシルエットは怪獣中心で、『セブン』『新マン』はチームと兵器が中心、『エース』は怪獣中心(しかも旧作の怪獣)になる。『タロウ』は一転して、シルエットではなく基地からメカが発進する様子を映している。子どものメカ好きを反映したものらしい。

 ウルトラ警備隊以降になると戦闘機も3種類くらい持って充実してくるが、科特隊は普段使いの戦闘機(?)としてはジェットビートルしかない。このころはまだ乗り物にまで手が回らなかったのかもしれない。

 〈自慢のジェットで 敵をうつ〉という歌詞は、意味としてはわかるが、ひっかかるのは〈自慢の〉という部分である。はたして科特隊の面々はビートルを〈自慢〉していたのだろうか。そもそも大人になると人は「自慢」ということをしなくなる。自分から得意げに何かをすることはない。無邪気に自慢をするのは子どもである。そういう意味では〈自慢のジェット〉と誇示するのは子どもっぽいしぐさであり、大人である科特隊にそぐわないといえる。

 自慢というのは、辞書には「自分のこと、自分の持ち物、自分が所属するものなどの良さを他に対して得意げに示すこと」とある(デジタル大辞泉)。逆にいえば、自分で「得意げに示」さなければ、他者にその良さをわかってもらえないということである。ということは、他と違いが際立っていないということである。あからさまに違うのであれば、わざわざ自慢しなくても他人は「すごいな」と感心してくれるであろう。ジェットビートルはどうか。ああいう航空機を持っているのは日本でも科特隊だけである。わざわざ自慢しなくても認めてもらえる。ビートルは、自慢するまでもなく、人々はそれを見ただけで褒め称えるだろう。

 ビートルを自慢する必要はない。だが、歌詞をよく見ると〈自慢のジェット〉とあって、自分が〈自慢しているジェット〉ということではない。どうも、他人から自慢しているように見えるということである。先の辞書には、「自慢」のもう一つの意味として「おはこ。転じて癖のこと」と書いてある。なるほど、こちらのニュアンスのほうで解釈できそうである。「怪獣が出た。また科特隊がいつものビートル出してきたよ」という感じである。「おはこ」とは、「その人の、よくやる動作や口癖」のことである(前掲辞書)。何かというとビートルで出るのは科特隊のおはこ、つまり自慢なのである。この意味の〈自慢〉はちょっとシニカルである。「いつものビートル出してきた」のは、自慢だからそうしているように見えるのだろう。

 歌詞を解釈するとそういうことになるが、子ども向け番組で、こういうシニカルな意味で〈自慢〉という言葉を使うとも思えない。〈自慢〉という言葉は、ちぐはぐな居心地の悪い言葉なのである。実は、この歌には他にもそういうところがある。3番の歌詞に〈怪獣退治の 専門家〉がある。〈手にしたガンが ビュビュンとうなる〉のあとに続くから、この〈怪獣退治の 専門家〉というのは科特隊のことなのだろう。学者を指すかのような響きのある〈専門家〉という言葉と、〈怪獣退治〉という子どもっぽい言葉のつながりがチグハグである。

 そもそも科特隊は〈怪獣退治の 専門家〉なのだろうか。第1話の冒頭では次のようなナレーションが入っている。

「パリに本部を置く国際科学警察機構の日本支部科学特捜隊と呼ばれる5人の隊員たちがあった。彼らは怪事件や異変を専門に捜査し、宇宙からのあらゆる侵略から地球を防衛する重大な任務をもっていた」

 このナレーションでは、警察のような「捜査」する機関なのか、それとも自衛隊のような「防衛」する組織なのかはっきりしない。特捜隊、つまり特別捜査隊というくらいだから捜査が主軸なのだろう(『シン・ウルトラマン』ではそんな感じだ)。しかし第1話の怪獣ベムラーのときは、ろくに捜査もせず攻撃している。ベムラーはただ湖から姿を現しただけなのに攻撃されている。ハヤタのビートルが墜落したのは怪獣のせいだと思ったのだろうか。実はそれはウルトラマンのしわざなのに。科特隊は捜査より攻撃に比重がある。特別捜査隊というより、特別攻撃隊といったほうがいい。だがそれでは略すと特攻隊になってしまう。

 科学特捜隊とはいうものの、たいして捜査はしない。挿入歌で「特捜隊の歌」という歌があり、特捜隊という省略方法もあったことを伺わせる。だがあまり捜査もしないので捜査の文字が入らない科特隊になったのかもしれない。

 防衛チームは、『セブン』ではウルトラ警備隊の名称だが、『新マン』ではMAT(Monster Attack Team)、『エース』はTAC(Terrible-monster Attacking Crew)、『レオ』はMAC(「Monster Attacking Crew」)と、いずれも攻撃(アタック)の文字が入る。たんに不可解なものを捜査する警察の延長ではなく、敵を定めた攻撃が主眼になる。(ちなみに『タロウ』のZATは、Zariba of All Territoryということで「全地域防衛機構」という意味らしい。「らしい」というのは「Zariba」という単語が謎だからである。この語については、以下に考察がある。http://mekago.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/zatz-eb59.html

 のちのチームに比べたら、科特隊はまだ捜査と攻撃のあいだで揺れていて、はっきり目的が定まらないチームだった。『セブン』以降は武装が充実しているが、科特隊は戦闘機といったらビートルしかなかった。どこかのんびりしていた。しかし歌は攻撃を主眼としたチームであることが述べられる。〈自慢のジェットで 敵をうつ〉〈手にしたガンが ビュビュンとうなる/怪獣退治の 専門家〉といった歌詞は、もっぱら科特隊の攻撃の威力をアピールしている。「特捜隊の歌」でも〈悪いやつらをやっつける〉〈スーパーガンでたちむかう〉とあって、捜査のことなどどこにも書かれておらず、敵をみつけてやっつけることに主軸が置かれている。

 科特隊の捜査する組織という性格は、のちの『怪奇大作戦』(1968年)のSRI(Science Research Institute、科学捜査研究所)に引き継がれているといえる。主題歌の「恐怖の町」も〈謎をおえ〉〈怪奇をあばけ〉と、謎の解明に主眼がある。『シン・ウルトラマン』の禍特対(禍威獣特設対策室)も調査分析し対策をたてる頭脳派集団で、攻撃はしない。科特隊の本来の役目である捜査の部分を受け継いでいるといえる。

 

〈光の国から ぼくらのために/来たぞ 我等のウルトラマン

 ここでは〈国〉という言い方をしているが、他のウルトラシリーズでは〈星〉となっている。

 

・はるかな星が 郷里だ(「ウルトラセブンの歌」)

・君にも見える ウルトラの星…はるかかなたに 輝く星は あれがあれが 故郷だ(「帰ってきたウルトラマン」)

・遠くかがやく 夜空の星に(「ウルトラマンエース」)

 

 なぜ〈国〉という言い方をしなくなったのだろう。私たちがよく使う意味での「国」には二つの意味がある。一つは近代国家。もう一つは地域とか故郷である。川端康成の小説『雪国』、テレビドラマの『北の国から』、ペギー葉山の歌う「南国土佐を後にして」などで使われる「国」である。「お国はどこかね」というのは出身地を尋ねている。だが、こうした意味での「国」は現在はあまり使われなくなっている。それは「国」が国家を意味するような使い方が主流になっているからだ。出身地としての「国」を使う人は明治生まれまでであろう。そうした意味での「国」は古代の行政区分で、明治時代の廃藩置県で県ができてからは、次第に馴染みのない言い方になっていく。

 〈光の国から〉というとき、それは出身地を表している。しかし述べてきたように、そこにはどこか古くさいイメージも随伴していた。「ウルトラセブンの歌」や「帰ってきたウルトラマン」の〈星〉は〈故郷〉とセットであるから、この〈星〉は出身地という意味での〈国〉の言い換えであることがわかる。

 この〈光の国〉という言い方はイメージをふくらませる力があったようで、多くのウルトラマン一族が暮らす「国」として設定が整えられていった。故郷という意味での「国」が、国家という意味での「国」にずらされていったのである。

 

 次に〈ぼくらのために/来たぞ 我等のウルトラマン〉という歌詞であるが、これは大変問題が多い言い方である。そもそもウルトラマンが地球に来たのは、凶悪怪獣ベムラーを護送中に逃げられたのを追って、たまたまやってきただけである。そこでハヤタを死なせてしまったので、ハヤタと一体化し、地球に住み着いたのである。刑事モノのドラマで言えば、護送中の犯人が逃亡し民家に立てこもり、刑事が誤って発砲して家の住人を殺してしまったので、その家に住み込んで親代わりとなって子どもを育てるようなものである。

 ウルトラマンが地球に来たのは〈ぼくらのため〉ではないし、正体不明の宇宙人であるウルトラマンを勝手に〈我等の〉と持ち上げるのはおかしい。しかし『ウルトラマン』に限らず、男の子のヒーローものの主題歌にはこの〈ぼくらのため〉とか〈我等の〉といった言い回しがよく出てくるのである。

 

・無敵の力はぼくらのために(「マジンガーZ」)

・斗え 僕らのミラーマン(「ミラーマンの歌」)

・斗え ぼくらのアイアンキング(「アイアンキング」)

・超人超人ぼくらのバロムワン(「ぼくらのバロム1」)

・He came to us from a star(「ウルトラマン80」)

 

 制作者としては、ヒーローに親しみを感じてもらいたいから〈ぼくらの〉という言い方をしているのだろう。〈ぼくらの〉と言うことで活躍を応援したくなる。子どもを番組に巻き込む言葉である。

 作品に即して考えると、人間が操縦するロボットや、人間が変身するヒーローは、人間のために、〈ぼくらの〉ために動いてくれることは期待できる。しかし、ウルトラマンは宇宙人なので何を考えているかわからない。視聴者には、人間のために動いてくれる理由が知られている。だが、ハヤタを死なせた負い目というのも、気まぐれに近いものだ。

 だいたい、宇宙から来るのは侵略者ばかりである。ウルトラマンのシリーズでも、地球に来る宇宙人で侵略するつもりがないのはウルトラマンだけで、ウルトラマンは例外的な宇宙人なのである。しかも傍観者ではなく、地球のために戦ってさえくれるのである。ウルトラマンは人間に向かって言語的メッセージを発するわけではなく、たんに怪獣をやっつけて去っていくだけである。いまのところ人間に害を及ぼすわけではなく、人間に益することをやってくれているようなのであるが、その行動を意味づけるのは人間である。ウルトラマンは、他の怪獣に比べたらデザインはシンプルですっきりしていてカッコいい。カッコいいものは味方だと思われやすい。それにウルトラマンは人間に似ている。たぶん味方であろうが、断定はできない。もしかしたらウルトラマンの一族は地球を植民地化しようとしていて、その準備のために他の宇宙人を追っ払っているだけなのかもしれない。

 ウルトラマンは、よくわからない曖昧な存在なのであるが、この曖昧さを排除するために、はっきり言語化してウルトラマンの位置づけを確定してくれているのが歌詞である。〈光の国から ぼくらのために/来たぞ 我等のウルトラマン〉という解釈は、ドラマの外部にある歌によって提示されており、ドラマの見方を指示するものである。ここでは二度も〈ぼくらのために〉〈我等の〉と言っている。こうした言葉によって解釈の方向性が刷り込まれ、視聴者は迷わずにすみ、番組は見やすくなる。歌詞は、劇中でのウルトラマンの位置づけを明確にするのに役立っている。

 

 ところで、〈ぼくらのために〉ということをウルトラマンの側から言うと、自分以外の人のために、ということであり、これは利他的行動を意味している。

 

・みんなのためにみんなのために未来を開け(「勇者はマジンガー」)

・そうだ おそれないで みんなのために…いけ! みんなの夢 まもるため(「アンパンマンのマーチ」)


 ヒーローというのは、自分を捨てて、世のため人のため、みんなのために働くからヒーローなのである、ということを子どもは学んでいく、というか刷り込まれていく。悪人というのはだいたい自分のことしか考えていない。自分がよければ他の人が不幸になってもかまわない。人の財産に手をかけるのは悪いことだが、それよりももっと悪いのは自分のことしか考えない奴である。鼠小僧次郎吉みたいに金持ちから銭を盗んで庶民に再分配するのは義賊と呼ばれる。善とか悪とかは、手段や方法の問題ではない。

 

 〈来たぞ 我等のウルトラマン〉というフレーズは、のちの「帰ってきたウルトラマン」の〈帰ってきたぞ 帰ってきたぞ ウルトラマン〉というフレーズに受け継がれている。

 〈来たぞ 我等のウルトラマン〉というときの〈来たぞ〉は、どこから来たかというと〈光の国〉からである。『ウルトラマン』ではまだはっきり言われていないが、この〈光の国〉というのは地球から遠いところにある。『ウルトラセブン』以降で、ウルトラ一族は、遠いところからわざわざ地球にやって来たのだということがはっきり打ち出されていく。

 

・はるかな星が 郷里だ(「ウルトラセブンの歌」)

・君にも見える ウルトラの星/遠くはなれて 地球にひとり…はるかかなたに 輝く星は/あれがあれが 故郷だ(「帰ってきたウルトラマン」)

・遠くかがやく 夜空の星に/ぼくらの願いが とどく時/銀河連邦 はるかに越えて/光とともに やってくる(「ウルトラマンエース」)

・遠くの星から 来た男が/愛と勇気を 教えてくれる(「ウルトラマン80」)

 

 これらの歌に共通するのは、「遠くから来た」ということである。『シンウルトラマン』の主題歌「M87」でも、「来た」とは言わないが〈遙か空の星が ひどく輝いて見えたから〉と〈遙か〉を入れている。ウルトラマンの存在を考えるとき、遠くからわざわざ来て人間に深く関わっているということが強い意味を持っている。なぜ地球にきたのか、なぜ地球にとどまっているのか。そういったことはウルトラマンの存在にとって本質的なことなのである。

 ウルトラマンのシリーズも第5作となる『ウルトラマンタロウ』ともなると、この遠くから来たという特徴は変質して、ウルトラマンはもっと身近にいる存在になる。主題歌の作詞は阿久悠に変わり、歌詞もドラマの変化を反映したものになっている(それまで作詞をしていた円谷一は『タロウ』放送の2か月前に亡くなっている)。

 ウルトラマンタロウ」の歌詞はこうなっている。

 〈ウルトラの 父がいる/ウルトラの 母がいる/そしてタロウが ここにいる〉

 タロウは、遙か彼方からやってくるのではなく、すでに〈ここにいる〉のである。〈そしてタロウが ここにいる〉の〈そして〉は、父母がいるおかげでタロウがいるという由来を述べている。タロウは不可解な宇宙人ではなく、視聴者である子どもたちの家族と同じような家族構成をもった親しみのある隣人として存在しているかのようだ。そもそもウルトラマンに「タロウ」という和風の典型名を折衷させることは、ウルトラマンから超越性、神秘性を剥奪し、強引に世俗の中にねじりこませることに他ならない。タロウの実母ウルトラの母もまた、地球では「緑のおばさん」に身をやつして子どもたちの安全を見守っている。遠くからやってくるのは〈かなたから迫りくる 赤い火〉というように謎の侵略者のほうである。

 ウルトラマンタロウ」の2番では、〈ウルトラの 父が来た/ウルトラの 母が来た/そしてタロウが やって来た〉と、タロウも〈来た〉者であるという起源へと遡って語られている。やはりタロウは宇宙人なので、どの時点においてか地球に来なければならない。タロウは起源としては来訪神なのだが、5人目のウルトラマンともなると、その存在に驚きや神秘性はなく、身近な慣れ親しみのある神となっているのである。

 

 以上で「ウルトラマンの歌」の1番の歌詞は読み終わった。次いで、2番と3番の歌詞を概観しよう。歌詞を再掲する。

 

  手にしたカプセル ピカリと光り
  百万ワットの 輝きだ
  光の国から 正義のために
  来たぞ 我等のウルトラマン

 

  手にしたガンが ビュビュンとうなる
  怪獣退治の 専門家
  光の国から 地球のために
  来たぞ 我等のウルトラマン

 

 2番と3番の歌詞は、出だしに共通の形式を持っている。〈手にしたカプセル〉〈手にしたガンが〉とあって、〈手にした〉アイテムについて語っている。そしてそれらがどうなるのかは、〈ピカリと光り〉とか〈ビュビュンとうなる〉とあるように、擬態語・擬音語で表されている。また、1番はどうだったかというと、〈胸につけてるマーク〉である。つまり出だしはどれも、身体に付属した小さなアイテムから歌詞の発想をふくらませているのである。

 

〈手にしたカプセル ピカリと光り/百万ワットの 輝きだ〉

 ハヤタが変身するときに使うアイテムは「ベーターカプセル」という。歌詞ではたんに〈カプセル〉である。これは不思議である。というのも、それは棒状のマイクロフォン、あるいは小型懐中電灯のようなものにしか見えないからだ。いわばスティックである。カプセルというのは筒状の容器のことである。容器の中には何かが入っている。あんな小さいものの中に何が入るというのだろうか。『シン・ウルトラマン』ではこの考えは発展して、「ベーターシステム」というものが封入されていることになった。ベーターシステムというのは、ウルトラマンが巨大化するときに異次元から物質を呼び寄せる装置のことらしい。あの片手に入る小さなカプセルは、たんに変身のきっかけのためだけのものではない。『シン・ウルトラマン』は、このベーターシステムを巡る物語だと言ってもいいくらいで、カプセルはSF的発想を誘発する重要なアイテムにまで昇格しているのである。

 ウルトラセブンはメガネ、ウルトラマンエースとレオは指輪、タロウはバッジで変身する。指輪というのは魔法物語によく登場するし、タロウの変身バッジのデザインは魔法陣に似ている。魔法陣というのは、悪魔を呼び出すときに描く図像である。いずれも、変身にあたって何か実のある役割を受け持っているというより、たんなる呪術的記号になっている。仮面ライダーは風車のついた変身ベルトをしているが、それは風力エネルギーを変身のためのエネルギーに転換しているからである。もちろんそんな理屈は滑稽だが、変身というスペクタクルを本当らしく見せるギミックとして重要なのである。一方、指輪とかバッジで変身するというのはいかにも魔術的である。それに比べ、ウルトラマンのベーターカプセルが、ベータースティック=魔法の杖ではなく、超科学的な何かが詰まっている容器=カプセルとして設定されていることは重要である。

 そのカプセルが、〈ピカリと光り/百万ワットの 輝きだ〉という。〈ピカリと光り〉というが、〈光り〉の語源は擬態語の〈ピカリ〉なので重言的である。また、その〈輝き〉が〈百万ワット〉だと説明したり、ウルトラマンの故郷も〈光の国〉だったりと、光ることが重ねられた歌詞になっている。

 〈ピカリ〉にもう少しこだわってみたい。〈ピカリ〉というのは、私の感覚だと豆電球が灯るようなかわいい光が〈ピカリ〉である。ウルトラマンが変身するときの莫大なエネルギーが瞬時に消費された感じではない。辞書的には、〈ピカリ〉には、消費電力の大きさの意味は見当たらない。その継続性のみが問題にされている。つまり、その光が強烈であるかどうかは関係なく、一瞬だけ光るのが〈ピカリ〉なのである。稲妻もピカリである。『擬音語・擬態語辞典』では、「ピカリ」は名詞として広島・長崎に投下された原爆をさすとも紹介している。井伏鱒二『黒い雨』には、「ピカリの閃光を見て数秒後に」とある。ピカドンという言い方のほうがよく知られているが、これもピカである。私が〈ピカリ〉に可愛らしさを感じるのは、接尾辞〈リ〉の響きがこじんまりした感じをだしていることと、〈ピ〉という半濁音にある。瞬間的な強烈な明るさを擬態語で表現するなら「ビカッ」となるだろう。だが、この歌が書かれたのは戦後まだ20年しか経っていないころである。当時はまだ原爆の強い光を「ピカリ」と表現する語感が残っていたのだろう。

 ところで〈手にしたカプセル ピカリと光り/百万ワットの 輝きだ〉とあるが、実際の変身シーンを見ると、〈手にしたカプセル ピカリと光り〉と〈百万ワットの 輝きだ〉は切り離して解釈したほうがいいと思える。というのも、変身するときにカプセルの先端部分は一瞬光るので〈手にしたカプセル ピカリと光り〉というのはいいとして(まさにピカリと小さく光る)、ウルトラマンがこぶしを突き上げて巨大化する場面は、赤いバックにフラッシュが何度も明滅するのであり、これは〈百万ワットの 輝き〉ではあっても、〈ピカリ〉という一瞬の光りとは言い難い。つまり〈百万ワットの 輝きだ〉は、〈手にしたカプセル ピカリと光り〉を説明しているのではなく、〈手にしたカプセル ピカリと光り〉、その後に〈百万ワットの 輝き〉をともなってウルトラマンに変身するという継起する2段階の状態を描写していると考えたほうがいいと思うのである。

仮面ライダーは仮面をかぶっているのか?

 庵野秀明の『シン・ゴジラ』とか『シン・ウルトラマン』といった『シン』のシリーズは、原点に還って、そこから新たなものを生み出すということが共通している。「ゴジラ」はそもそもどういう怪物なのか。「ウルトラマン」はそもそもどういう存在なのか。発想の根本に立ち返って、自分ならこうだという新しい見方を提示する。

 おそらく『シン・仮面ライダー』もそういう作品になると思うが、『ゴジラ』や『ウルトラマン』と違うのは、『仮面ライダー』の原点を考える場合、そのタイトルじたいがヒントになっているということである。

 仮面ライダー」というのは「仮面をかぶったオートバイ乗り」という意味である。オートバイに乗る人は普通はヘルメットをかぶっているが、ヘルメットではなく仮面をかぶってオートバイに乗っている人はいったいどういう存在なのか。なぜ仮面をかぶるのか、なぜオートバイに乗るのか。どういう特殊な事情があるのか。仮面とオートバイという連立方程式を解くことで、ヒーローの存在性格が固まってくる。

 あらためて「仮面ライダー」という名前を考えてみると、不思議な名前であることがわかる。「仮面」と「ライダー」というのは、それぞれ普通名詞である。その組み合わせが固有名詞として使われている。実際、支援者の一人、立花藤兵衛も、変身した本郷猛のことを「ライダー」と呼んでいる。ヘルメットではなく、仮面をかぶったオートバイ乗りというのははとても珍しいから、固有名として機能していた。

 当時は「ライダー」という英語は日常ではなじみがなかったから、これをヒーロー固有の名前であるとして受け入れることに抵抗はなかった。「ライダー」に一般的な意味があることに、ほとんどの子どもは気づかなかった。私も、子どものころ、のちに「ライダーというのはオートバイに乗る人のことなんだよ」と大人から教えられ、ずいぶん驚いた。明治時代に日本人が西洋犬のことを「カメ(come)」とか「カメヨ(come here)」という名前だと思ったようなものである。

 仮面ライダー」が一人しかいなければ「仮面ライダー」以外の名前は必要なかったが、「仮面ライダー」は途中で一人増え、二人になった。二人になると「仮面ライダー」は普通名詞となり、個別の名前が必要になった。それで「1号」「2号」と呼ばれるようになった。いくら改造人間とはいえ、「1号」「2号」では機械の製造番号みたいで、あんまりである。これが「V3」だと名前らしくなる。「3」は製造番号だが「V」がついている。この記号は、人間の名前でいえば「一郎」の「郎」みたいに、番号に血を通わせる。

 「兄弟」「稲妻」「あんパン」といった普通名詞に「マン」をつけて固有名詞にしたヒーロー名がある。「キョーダイン」「イナズマン」「アンパンマン」などがそうである(「キョーダイン」は変則的)。これらの名前はなじみのある普通名詞を強引に固有名詞に変えている。ヒーロー名にしては親しみ安すぎる。「マン」をつけても元の意味を隠しきれない。隠そうともしない。「ガスピタン」とか「のどぬ~る」といった市販薬も同じである。その点、「ライダー」は視聴者である子どもにとってなんの意味も持っていなかったので、個物に直結してヒーローの名前になることができた。

 脱線するが、石森作品で、「なじみのある普通名詞を強引に固有名詞に変えているヒーロー」といえば『人造人間キカイダー』(1972年)が最初である。「人造人間キカイダー」というネーミングのセンスは、それより8年前の『サイボーグ009』(1964年)より後退している。当時は「サイボーグ」という呼び方は新しく、それを取り入れた石森のセンスが光っている。

 当時、石森プロにいて「キカイダー」のコミカライズを担当したすがやみつるによれば、「人造人間キカイダー」は、直前まで「人造人間ゼロダイバー」という名前だったという。だがテレビ局から、それだと視聴率ゼロをイメージさせて縁起が悪いという意見が出て、石森が急遽「キカイダー」に変えたという。石森は「ほとんどヤケクソで命名した」ようである。「あまりに直裁(ママ)的な、そして、ダジャレにしか思えないタイトルに、私たちは「これ、ギャグ番組か?」と思った」という。(『コミカライズ魂』河出新書、2022年、p150)

 私(筆者)はテレビ放送時7歳だったが、「キカイダー」はあんまりだと思った記憶がある。ヒーローへの思い入れを拒むネーミングである。「ゼロダイバー」なら、もっとヒットしていたはずだ。だが、「キカイダー」の名がなければ「ハカイダー」もなかっただろうし、機械人間という存在の困難さも表現が甘くなっていただろう。「ダイバー」は響きはよいが意味がヒーローの存在性格と連携できなそうだ。そうはいっても「キカイダー」は良いとは思わない。「ダー」の語尾にこだわらず、人造人間だから「アートマン」でよかったんじゃないか?「ゼロ」の名前は続編の「キカイダー01」に引き継がれている。

 

 仮面ライダー」に話を戻す。

 「ライダー」はオートバイに乗っているから「ライダー」である。「月光仮面」(1958年)もオートバイに乗っているし、「まぼろし探偵」(1957年)もオートバイに乗っている(マンガ版。テレビ版は空飛ぶ自動車)。「まぼろし探偵」は鳥打帽とアイマスクで顔を半分隠している。「仮面の忍者赤影」(1966年)もアイマスクで顔を隠しているがそれを仮面と言っているので、「まぼろし探偵」も仮面をかぶっていると言っていいかもしれない。

 月光仮面」も「まぼろし探偵」も仮面にオートバイは共通しているので、どちらも仮面ライダーである。だが両者では、オートバイに乗ることについてはネーミングでことさら表現されていない。ライダーであることに意識が向かなかったのかもしれない。

「仮面+ライダー」という性質はいくつかのヒーローに共通したものである。「仮面ライダー」だけの特徴ではない。だが「仮面ライダー」というネーミングには固有の性質が表されていない。「月光仮面」の「月光」、「まぼろし探偵」の「まぼろし」にあたる名前がない。『月光仮面』のあとに作られたのは『七色仮面』(1959年)。敵の名前にはどくろ仮面やコブラ仮面があり、「○○仮面」という名付け方には伝統がある。「仮面」のネーミングを活かすなら、バッタの改造人間なので「仮面ホッパー」という名前でもよかった。しかしなぜかオートバイに乗ることが重要視されて、「仮面ライダー」と名付けられた。ライダーであることをあらためて発見して、名前として切り出してきたことによって固有名として機能することになった。

 

 仮面ライダーはなぜオートバイに乗るのかよくわからない。仮面ライダーのうち「仮面」は改造人間であることを表しているが、オートバイに乗ることは改造人間であることとは関係ない。変身するためにオートバイが必要なのだというかもしれない。しかしなぜ変身するときに風で風車をまわす必要があるのか。ショッカーの改造人間で変身するのは仮面ライダーだけだ。なぜショッカーはそのように改造したのか。あるいは脳改造の途中で脱走したから完全な姿に変身する余地を残しており、それが変身(完全態への変化)なのか。ベルトは変身のために必要であるが、ショッカーは変身する必要があることを事前に考慮してベルトをつけたということになる。あるいはパワーアップのためにつけたベルトを変身のために流用しているのか。しかもオートバイに乗っていなくても、高いところから飛び降りて風車をまわして変身することもできるので、オートバイは必ずしも必要ではない。

 

 仮面ライダー」の「仮面」というのも不思議な名付けである。劇中、仮面ライダーに対し、「あんたは仮面をかぶっている」と言っている人はいるのだろうか。仮面ライダーは改造人間であり、仮面をかぶっているわけではない。ただ、この点はテレビ版とマンガ版では解釈が異なっている。石森章太郎のマンガ版では、感情が昂ぶって変身するときに顔に改造手術の後が醜く浮かび上がるので、それを隠すためにマスクをかぶっているとされていた(ただ、それだと首から下が強化服になっていることの説明がつかない)。一方、テレビではそういう説明はなく、変身すると瞬時に異貌の存在となって、同時にパワーも増すことになっていた。つまり仮面の部分だけではなく、身体全体の見え方が変化し、同時に強化したものである。頭部は首から下の強化服と一体のものであり、ヘルメットのように随時着脱できるものとしては表現されていない。ただ、初期には、マスクの下から髪の毛が出ていたりして、また「仮面」という名前からしても複数の解釈を許す余地があった。この点は、後に二つの方向の解釈へと別れていく。「変身重視」と「仮面重視」である。

 テレビシリーズは基本的に「変身重視」の路線になっているが、特にこの点を突き詰めたのがオリジナルビデオ版『真・仮面ライダー 序章』で、変身ではまさにモンスターへの変化となっている。ウィキペディアでは、本作について次のように記されている。

「これは第1作の『仮面ライダー』で描写が見送られた「仮面やスーツを着用して改造人間の醜い体を隠す」という本来の「仮面」の意味を、次回作で語るという狙いがあった。(中略)仮にシリーズ化が実現していれば、シンが仮面とスーツやバイクを手に入れて仮面ライダーガイアとなってゆく過程が描かれたはずであり、原作者のラフデザインも存在している。」

 モンスター化したシンが、さらにその上から仮面をかぶるというのは「サナギマン」から「イナズマン」に二重変身するようなことに相当するだろうか。もしそれが実現していれば、変身と仮面という矛盾する事態はその続編で融合されることになったであろう。(ここでシンというのは主人公・風祭真(かざまつり しん)のことである。『シン・仮面ライダー』の名前は先取りされていた。)ちなみに、二重の仮面というテーマは、あとでもふれる石森章太郎のマンガ『鉄面探偵ゲン』で取り上げられている。

 『真・仮面ライダー 序章』の構想された続編で、そこまで生真面目に「仮面」にこだわるのは、タイトルが『仮面ライダー』だからである。テレビ版では「仮面」の意味が曖昧なまま「仮面ライダー」は固有名詞化していた。劇中ではショッカーも「仮面ライダー」と呼んでおり、「仮面」という言葉の意味は希薄になり、「ライダー」とセットで仮面ライダーという固有名になった。結果的に「仮面」には、着ぐるみを意味する楽屋落ちの言葉としてメタレベルのものが忍び込むことになった。

 

 仮面には多様な役割がある。そのひとつは顔を覆うことである。先にもふれたが、それまでも「月光仮面」や「七色仮面」、「仮面の忍者赤影」で「仮面」という呼称は使われていた。だが、それらの仮面の素材はバラバラであり、機能として共通しているのが顔を隠すことだった。顔を隠すのは正体を隠すのが本義だが、かっこよく見せるためにそうするということがヒーローものには重要である。

 英語ではかぶり物のことを「マスク」というが、日本語の「仮面」とはニュアンスが異なる。多くの日本人が仮面から連想するのは「ひょっとこ」「おたふく」「般若」といった伝統芸能で使用される面であろう。そのポップな展開が縁日で売られている子ども向けのお面である。仮面をつけたように見える土偶が出土していることから、縄文時代の昔から仮面はなじみのあるものだったといえる。

 ウィキペディアの「仮面」の項目は、網羅的かつ簡潔に記述されているので、そちらも参考になるが、ここでは、日本人にとっての仮面を次のように定義しておく。

 「仮面は、硬質な材質で作られた、顔の前面を覆う着脱可能なもので、異相を表現したもの」

 本稿は、ヒーローと仮面の関係を考えているので、以下、いくつかの仮面ヒーローについて、上記の定義との関係を述べてみたい。

 

 1.仮面の材質(硬質(鉄製、木製等)か軟質(布製、紙製等)か)

 月光仮面」は、その前年の映画で日本初の特撮ヒーロー「スーパージャイアンツ」(1957年)と同じく、全身白タイツ姿である。「スーパージャイアンツ」は「スーパーマン」を真似ているが、頭部は白い布で覆われており、「鞍馬天狗」のように顔だけ露出している。「鞍馬天狗」は黒づくめで闇にまぎれるが、「月光仮面」は月の光なので白づくめである。白をまとうのは弁慶の五条袈裟以来の伝統である。「月光仮面」は鼻と口も白い布で覆い、目はサングラスで隠している。頭に白いターバンを巻いて三日月のマークをつけている。

 月光仮面」は柔らかい素材で顔を隠しているが、それを仮面と呼ぶには違和感がある。目だけ開いている竹田頭巾の延長である。敵の「どくろ仮面」や「サタンの爪」は硬質の仮面をかぶっているので仮面といっていいが、むしろ主人公のほうが仮面の本来の意味と離れている。

 月光仮面」の「仮面」は仮面の物質的な定義からは外れているものの、この場合の仮面は、正体を隠して超法規的なふるまいをするという記号になっており、顔の社会性を閉ざす役割をはたしている。だから材質は何でもよいのである。水着では性器は布一枚で覆われるだけでなんの防護機能もはたしていないが、布一枚でも視線が遮られればよいのである。

 布で顔を覆う場合にもいくつかやり方がある。白い包帯で顔を隠すのはミイラである。拷問で顔が崩壊した「ダークマン」はミイラ男のように包帯巻きである。紙で顔を隠す例はマンガ『予告犯』。主人公たちは新聞紙で顔を隠し「シンブンシ」と名乗る。バットマンシリーズに出てくる「ジョーカー」は化粧で顔を隠す。ただし彼らはそれを仮面とは名乗らない。正体を隠すだけなら、物質的な遮蔽物は不要な場合がある。ふりをすればよいのである。滑り止めの大学に入学して志望大学を目指す学生を「仮面浪人」というが、これも本当の自分を隠すという意味で「仮面」であり、この場合、仮面は物理的に顔さえ隠していない。むしろ普通であることが重要である。

 硬質と軟質の中間として皮革(レザー)がある。アメコミ出身のヒーローに多い。物語上はレザーではなく、特殊な物質であることもある。

 

 2.被覆する部分(目の周辺、口元、顔全体の前面、頭部全体)

 仮面の忍者赤影」は目の周辺だけをアイマスクで隠している。頭部は隠していない。忍者であるが露出が多いといえる。むしろ「月光仮面」のほうが忍者ふうのいでたちである。「まぼろし探偵」はアイマスクだが、頭に鳥打帽をかぶっている。

 仮面舞踏会(マスカレード)では目の周辺だけ隠せば顔を隠したことになるようだ。アイマスクには洋風なイメージがある。アメリカの映画やドラマにはアイマスクのヒーローは結構ある。古くは「怪傑ゾロ」「グリーン・ホーネット」などがそうである。変装としては安上がりである。彼らはいずれも帽子をかぶって輪郭の印象を曖昧にしている。

 頭部の覆いとアイマスクが一体化したものに「キャプテン・アメリカ」「バットマン」「デアデビル」「ザ・フラッシュ」「ヒット・ガール」などがあり、アメリカ人はこうした変装を好むようだ。「バットマン」「デアデビル」は鼻も隠している。口元はしゃべるために開けているということもあるだろうが、アメリカ人はあまり顔を隠すことを好まないのかもしれない。「スーパーマン」のように素顔をむき出しにするのが基本なのだろう。日本なら「ライダーマン」「電波人間タックル」「シルバー仮面」などは、口元を隠していない。前2者は、未完成の変身を意味している。顔の全部を覆わないと完全ではないという前提がある。「シルバー仮面」は巨大化すると口元も硬質なマスクで覆われる。

 目は露出するが口元を隠すのが「キャシャーン」である。戦闘モードになるとマウスシャッターが閉まり顔を防護する。「キック・アス」「キャットウーマン」(ザ・バットマン版)は目の周辺と口元を露出し、鼻だけ隠している。「ねずみ小僧次郎吉」のようなほっかむりである。

 仮面ライダー」の仮面はライダーという点からもヘルメットの延長であり頭から顔まで頭部全体をすっぽり覆うものになっている。首にはマフラーを巻いて下のボディスーツとのつなぎ目から肌が見えないようにしているが、首元の肌や頭髪がわずかに見える場合もある。

 マフラーはヒーローの定番アイテムである。機能的には防寒だが、夏冬関係なく着用している。マフラーは「鞍馬天狗」の首巻き以来の定番だが、マントの省略形だともいえる。「スーパーマン」も「バットマン」「黄金バット」「月光仮面」もマント(ケープ)をつけている。マントの本来の機能は防寒だが、空を飛ぶ翼のイメージもある。子どもが風呂敷を首に巻いてヒーローになりきるように、場違いないでたちをすることで日常を超越していることを示す記号になっている。マントは大きく、どこか鬱陶しいし、体の輪郭の特徴も一律にしてしまうので、マントに似ているマフラーになったのではないか。だからマフラーは首に巻く剰余の部分(垂れ下がっている部分)にこそ意味があるだろう(マンガではマフラーを描くことで流麗な曲線を表現できる)。

 ちなみに、『仮面ライダー』のギラーコオロギの出てくる第69話で、「すべての力を吸収してしまう吸収マット」に覆われた小部屋に閉じ込められたライダーは、ジャンプやキックの能力が封じられ、脱出できず困っていたが、「そうだこれだ」と思いついて首のマフラーをシュルシュルとはずして明り取りの窓の格子に投げつけて結びつけ、手で体を引き上げて窓にスクリューキックをぶち込み脱出する。マフラーが飾りでなく役立ったのである。

 タイガーマスク」は覆面レスラーである。覆面レスラーも、マスクの仕様からいって頭部全体を覆うもので、布やレザー等でできている。

 頭をすっぽり覆ってしまうと頭の形の特徴が消えてしまう。特に「仮面ライダー」のように丸いヘルメットをかぶると禿頭のように単調な形状になり、ツルツルした滑稽さが生じてしまう。そのため、頭頂部の単調な曲面をくずすために工夫がなされる。「仮面ライダー」ではそれは眉間から伸びるアンテナである。歴代の「仮面ライダー」は、頭部の丸みをくずすための突起を例外なくデザインに加えている。「ウルトラマン」でも同じく、頭部から伸びる突起がある。「七色仮面」ではそれはチョンマゲのように乗せられた三条の板である。「ウルトラセブン」の前身ともいえるが、正面から見ると「オバケのQ太郎」の三本の毛みたいである。そういう滑稽な突起をつけなければならないほど、そこには何かが必要だったのである。「鞍馬天狗」も菱形の宗十郎頭巾にすることで覆った頭部に個性をもたせ、「月光仮面」は巻くことを強調することで輪郭に変化をつけている。

 「ゴレンジャー」に始まる戦隊ものはどれも仮面の頭頂部に突起がない。それは彼らが量産タイプだからである。チームで協働して解決することを期待されているから、個性を表すものは省かれ、全員同じ輪郭になっている。この輪郭が枠となり、違いは色や枠内部のデザインで表現される。量産タイプはどうあるべきかをはっきり打ち出したのが『機動戦士ガンダム』の「ジム」である。「ジム」は「ガンダム」に比べてのっぺりしている。頭部は、チョンマゲは残っているがツノは省略されている。「ザク」と「シャアザク」の関係も同様で、「ザク」には「シャアザク」のようなツノがない。

 

 3.着脱可能か

 楳図かずおのホラー漫画には、お面を主題にした作品がいくつかあるが、中に、つけられた仮面がとれなくなる、仮面と顔が一体化してしまうといった作品があった。仮面(非日常)と日常の切り替えができなくなると困ったことになる。いくらカッコ良くても「仮面ライダー」の姿のままでは日常生活は送れない。仮面は脱着が自由にできる限りにおいて便利なアイテムである。

 仮面ライダー」は仮面の着脱ではなく変身によって、その切り替えをしていた。「ダークマン」「デッドプール」「エレファントマン」では逆に、包帯やマスク、かぶり物をして顔を隠しているほうが日常である。

 石森章太郎のマンガ『鉄面探偵ゲン』は、二重の仮面をかぶっている。ある事件によって脱ぐことのできない鉄仮面をかぶせられたゲンは、その上にさらに現実の自分の顔を模したマスク(リビングマスク)をかぶっている。このマンガでは、変身に相当するのがリビングマスクを脱いで鉄面を見せることである。ふつう、変身というのは生身の顔に鉄面をかぶることであるが、このマンガではその仕草が反転している。

 石森章太郎の作品には、変身による日常/非日常の切り替えがないタイプのヒーローが存在する。「ロボット刑事K」や「キョーダイン」(途中から変身できるようになる)などがそうである。常に「変身後」に相当する姿である。アメコミの『ファンタスティック・フォー』に出てくる、岩のような外見の「ザ・シング」も、人間の姿との切り替えができず、醜い姿に悩んでいる。仮面なら、その着脱によって日常/非日常の切り替えができるが、着脱ができなければそれが自分の顔である。「ロボット刑事K」の顔は仮面ではなく自前であり、他の誰かが変身して「K」になれるわけではない。

 仮面の機能の一つに個性の消去がある。仮面じたいにそれぞれ個性はあるが、それは人間の顔ほど微細なものではない。単純化、様式化されている。また、仮面はアイテムとして譲渡できれば、それをつけることで誰でも同じ外見になれる。「仮面ライダー1号」と「2号」は同じ「顔」をしている。それは同じ仮面をつけているからである。変身前の本郷猛と一文字隼人を混同する人はいない。しかし立花藤兵衛は変身後の1号と2号の区別がつかないときがある。例えば第72話で久しぶりに2号が登場したときは、変身を解くまで2号であることに気が付かなかった。スーツは違う(手袋やブーツの色、体のライン)ところがあるのに、仮面は全く同じだからだ。『仮面ライダー555』に出てくるライダーたちは、オルフェノクであれば、譲渡されたベルトによって誰でもライダーに変身できる。『ウルトラマンネクサス』では、デュナミストという資格者であればウルトラマンに変身できる。複数の人が同一の存在になることができるのは、変身後の姿が仮面をつけたものだからである。

 千と千尋の神隠し』に「カオナシ」という妖怪が出てくる。「カオナシ」は呪術的な意匠がデザインされた仮面をかぶっている。なぜ「カオナシ」と呼ばれるのか。それは仮面しかないからであろう。その奥にあるはずの自分の顔がないのである。『銀河鉄道999』の車掌さんもそうである。

 カオナシ」というのは仮面にとって本質的なことである。顔がないということは、個性としての顔がないということである。仮面の奥に誰の顔があっても、仮面に覆われてしまうから関係ない。複数の人が同一の仮面ヒーローに変身できるのはこのためだ。ただそこには制約があって、特定の資格が課せられる。その資格はたいてい特定の個人(改造された等)に結び付けられているが、『仮面ライダー555』や『ウルトラマンネクサス』のように複数に開かれている場合もある。「仮面ライダー1号」と「2号」は同じ「顔」だが、複数の人が変身して一つの仮面の姿になるのではなく、同一の仮面が複数あるとされる。仮面の裏の演技者は固定しなくてよい。当初、「仮面ライダー」のスーツアクターは本郷猛役の藤岡弘がやっていた。しかし大怪我を負ってしまったので、その後は別の人がやっている。それが可能なのは仮面をかぶっているからである。

 

4.異相か

 異相というのは人間ではない顔をしたもの、あるいは人間の顔でも平均からずれた特徴をもったものである。重要なのは、仮面をつけると、仮面が表象している性質がその存在性格として仮面をつけた者に宿るということだ。バッタを模した仮面をつけた「仮面ライダー」はバッタのように跳躍する。戦隊ものの仮面は単純なデザインを旨とし、色分けが主たる特徴になっている。その仮面に表象されているのは集団のチームワークである。「進め! ゴレンジャー」の歌詞で〈五つの力を 一つに合わせて〉と書かれているとおりだ。彼らはキャラがかぶらないように、仮面によって色分けが固定されている。ずっと同じ色の仮面(キャラ=ペルソナ)を演じ続けるしかないという抑圧を受けている。

 異相でない仮面もある。変装や覆面である。

 変装というのは別人になりすますことである。特定の他者になること、あるいは匿名の誰かにまぎれることである。したがって、仮面(マスク)をつけていることを感づかれてはならない。「怪人二十面相」が得意とするところであり、『ミッション・インポッシブル』でおなじみのリビングマスクもそうである。整形はそれが固定されたものである。

 たんに当人であることを隠すのであれば覆面を用いる。覆面レスラーの覆面は模様がデザインされており、一貫して同じものが使用されるのでアイデンティティが付着するが、覆面強盗の目出し帽には個性はいらない。『ザ・ファブル』の殺し屋「佐藤アキラ」は、目出し帽をかぶることで、おとぼけ佐藤から殺し屋ファブルに変身する。その目出し帽は、目の部分をくり抜いた手製の粗雑なものだが、定例的に使用しており、個性になっている。個性(顔)を消すための目出し帽が個性になってしまった。

 月光仮面」の場合は、白い布で顔を隠す覆面のように見える。しかし「月よりの使者」を名乗っているので、想像上の存在を模した異相の仮面といえるかもしれない。

 

 仮面ライダーには、以上に示した仮面の定義がどのていどあてはまるだろうか。仮面の定義をもう一度書くと、「仮面は、硬質な材質で作られた、顔の前面を覆う着脱可能なもので、異相を表現したもの」ということである。

 

 1.仮面の材質は硬質か→ ライダーというくらいで、ヘルメットの発展した硬質なものである。

 2.被覆する部分は顔の前面か→ 首から上の頭部全体を覆っており、身体部位の特徴をほぼ消している。首はマフラーを巻き、肌(人間くささ)を隠している。「仮面ライダー」の仮面は、顔を隠すが、正体を隠す覆面としての機能は限定的である。というのも、その正体は周囲の人たちに知られているし、敵のショッカーにもばれている。そもそもライダーに改造したのがショッカーだ。

 3.着脱可能か→ テレビ版では首から下のボディスーツと分離して頭部が露出したことはなく一体的である。つまり仮面として着脱はできないようである。変身によって着脱しているともいえるが、全身的な変化であり、改造人間として皮膚と一体化したものとも考えられる。映画『仮面ライダー THE FIRST』では、仮面として着脱しており、仮面性が強調されている。テレビの『響鬼』でも頭部だけ変身が解かれた姿が見られたが、こちらは仮面の着脱ではなく呪術による変化である。「ライダーマン」の変身ポーズは、ヘルメットをかぶることである。「ライダーマン」は「仮面ライダー」ではない。ライダーにあやかって仮面をかぶっているといえる。

 4.異相か→ バッタと人間を融合させた顔貌である。石森のマンガ版では、ライダーは「大自然がつかわした正義の戦士」と自ら名乗っている。仮面をかぶっていることで人間を超えた存在になることができる。もし、顔をさらしたままで「大自然がつかわした正義の戦士」などと名乗ったら滑稽である。

 

 こうして見てくると、「仮面ライダー」は仮面をかぶっている、と言うとき抵抗を感じるのは「3.着脱可能性」についてである。この点について、日本人が「仮面」という言葉を聞いたときにいだくイメージと、「仮面ライダー」の仮面にはズレがあるように思える。「仮面ライダー」の仮面は、日本的な仮面よりももっと意味を広げた解釈が必要なようだ。それは「変身」という意味である。

 変身ヒーローは多々あるが、「変身」という言葉を最初に使いだしたのはどの作品からであろうか。「ウルトラマン」(1966年)は変身するとき「変身」とは言わない。ベータカプセルを持った右手を黙って上に掲げるだけだ。「ウルトラセブン」(1967年)はウルトラアイを目に当てて「ジュワッ!」と言うが、これは変身にともなう効果音を自分で言っているようなものだ。「帰ってきたウルトラマン」(1971年)は何も言わないし決まったポーズすらない。「仮面ライダー」は同時期放送だが、「変身」の掛け声とポーズは2号からである。

 私の記憶では「変身」という言葉を作品内で常用するのは『スペクトルマン』(当初は『宇宙猿人ゴリ』として1971年1月放送開始)である。「スペクトルマン」は自力では変身できない。母星のネビュラ71から送られる光線を浴びることで変身する。そのためネビュラに変身を請い、許可を受けるという過程が必要になる。このとき「変身願います」「変身せよ」というやりとりが交わされる。『仮面ライダー』は『スペクトルマン』の3か月後の1971年4月放送開始だが、2号が登場するのは第14話(1971年7月3日放送)からで、『スペクトルマン』が「変身」という言葉を使いはじめて半年たっている。

 スペクトルマン』の「変身願います」「変身せよ」というやりとりは子どもにとってまどろっこしかったのか、上司の決裁をあおぐサラリーマンのような変身方法では「変身」という言葉への憧れは生じなかったと思われる。変身を願い出る際は右手を挙げる。私は子どもの頃、空に向かって片手を上げて「変身願います」とやっていて、そのことを今でもありありと覚えている。「スペクトルマン」の窮屈な変身よりも、自分の判断で自由に変身できる「仮面ライダー2号」の変身のほうが人気がでるのは当然だろう。しかも「変身願います」という陳述はいかにも文であるが、「変身!」は行為遂行的な発話であり、発話することじたいが変身という行為を生じさせるかのようでもあった。そしてそれは変身ポーズとセットになることで特別な行為として括りだされることになった。

 己の意志で自在に変身できる2号ライダーが登場する前、初代ライダーが変身するには、オートバイに乗るか高いところから飛び降りるかなどして、風を受けなければならないという制約があった。『仮面ライダー』の第2話では次のようにナレーションされている。

「改造人間本郷猛はベルトの風車に風圧を受けると仮面ライダーに変身するのだ」

 ここでは「変身」は事実を述べている言葉にすぎず、「スペクトルマン」の変身の延長にあった。「スペクトルマン」は右手を挙げて変身を乞う。これは変身ポーズといっていいだろう。だが受動的に変身する「仮面ライダー」には「変身」という言葉はあっても、変身を生じさせる動作はない。このとき『仮面ライダー』において、変身を生じさせる行為に相当するのが「仮面」化だったのではないか。変身に至る準備行為がなく、仮面の装着としてただちに変身が実現される。このことをわかりやすく表現しているのが「ライダーマン」の変身だ。「ライダーマン」の変身ポーズは仮面をかぶることである。仮面をかぶることがすなわち変身であることを示している。もし『仮面ライダー』が最初から変身ポーズで変身していたら、タイトルは『変身ライダー』になっていたのではないか。実際、翌年の忍者ものは『変身忍者嵐』なのである。『仮面の忍者赤影』と比べれば、「仮面=忍者」が互換的で等しいことがわかる。

 「変身!」というかけ声はあまりに直接的だったため、その後は変身時の掛け声はキャラの名前を呼んでその身を召喚するものや、関連する言葉を唱えるものに変わっていく。「シルバー仮面ジャイアント」に変身するには「シルバー!」、「ライオン丸」は「忍法獅子変化!」、「バロム・1」は「バロームクロース!」、「キカイダー」は「チェンジ! スイッチオン! ワンツースリー」、「イナズマン」は「超力招来(チョーリキショーライ)!」、「アイアンキング」は「アイアーンショック!」、「ゴレンジャー」はシンプルに「ゴー!」である。かけ声とポーズは必要である。ちなみに、アニメのロボットものも、合体や出陣のときに「パイルダーオン!」「ライディーン! フェードイン!」などと叫んでいる。ガンダムの「アムロ行きまーす!」も同じである。これらは「変身!」の代わりであろう。

特撮ソングの深い意味「レッツゴー!! ライダーキック」

 3月に公開を控える『シン・仮面ライダー』。庵野秀明による『シン~』というリブートのシリーズは、原点に還るというシンプルな手法で想像力を起動させようとしている。

 「原点に還る」といっても、様々なレベルの切り口がある。『シン・仮面ライダー』の場合は、文字どおり「仮面をかぶったバイク乗り」というところにキモを見出すのではないか。ヘルメットではなく仮面をかぶっていたら、それはどういう「バイク乗り」なのか。

 仮面ライダー』にも、かつて原点回帰を志向した『真・仮面ライダー 序章』(1992年)というオリジナルビデオがあった。このライダーは、仮面や強化服が皮膚と融合しているバイオモンスターで、「変身」をつきつめるとこうなるという造形であった。一方、今回の『シン・仮面ライダー』でいう「仮面」は文字どおりの仮面であり、脱着可能なものであって、仮面や強化服の下には人間の身体があることをアピールしている(強化服は変身により出現するのではなく、普段はロングコートの下に隠されているのだろう)。こちらは、「仮面」をかぶることをつきつめたものになっている。

 同じく「真=シン」を銘打っても、正反対のアプローチなのである。どちらが原点なのか。初代ライダーの「仮面」は、どちらの要素も含んだ曖昧なものだった。こういう場合は、仮面ライダーの他の特徴を見ればいい。それはベルトである。『真~』ではベルトは消失している。『シン~』では大きなベルトはそのまま残されている。『シン~』のほうが、初代がはらんでいた曖昧さへの解答として率直なものになっていると言えそうだ。

 では、主題歌はどうなるのか。旧作の主題歌を主人公の俳優が歌っていたように、『シン』のプロモーション映像では、本郷猛役の池松壮亮が「レッツゴー!! ライダーキック」を無骨に歌っている。このプロモ映像は、オープニングを旧作に似せて作ってみせたパロディなので、この歌も余興的なものであり、これを映画に使うとは思えない。

 特撮番組は『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』が放送された1966~1968年が第一次ブームで、1971年に『スペクトルマン』に始まり『仮面ライダー』や『帰ってきたウルトラマン』へと続いていくのが第二次ブームである。この第二次ブームでは『仮面ライダー』が切り開いた等身大の変身ヒーローが量産され、’74-5年になるとマンネリ化して、以下は尻すぼみになっていく。’80年以降は戦隊もの宇宙刑事ものといったシリーズで占められ、’96年から新生ウルトラマン、2000年から新生仮面ライダーがそこに加わる。

 1971年4月に放送を開始した一番最初の『仮面ライダー』の主題歌は「レッツゴー!! ライダーキック」で、作詞は原作者の石森章太郎である。石森は自分が関わったアニメや特撮の作詞をいくつもしているが、この歌はその最初期のものであり、これ以前には『サイボーグ009』や『ドンキッコ』などのアニメソングがいくつかあるくらいである。

 「レッツゴー!! ライダーキック」は、ライダージャンプとかライダーキックとか歌っている、いかにも子ども向けの特撮ソングらしい内容で、歌詞について言語の作品として講釈を垂れるほどのものではないと思われるかもしれない。『仮面ライダー』は石森が初めて関わる特撮であり、「レッツゴー!! ライダーキック」はその主題歌であるので、当然ながら作詞にも力がこもっているはずだ。番組がヒットしたのでシングルレコードも売れ、130万枚の大ヒットになった。

 この歌は当初、ライダー役の藤岡弘が歌うバージョンが放送されていたが、早々にケガで降板して主役が交替するとともに、子門真人(藤浩一)が歌唱するものに差し替えられた。私が子どものころ、子門真人の独特のクセを真似して〈迫るショッカー〉と歌うのが流行っていた。子門はこのあと、アニメや特撮ソングや「およげ! たいやきくん」で大活躍することになるが、その最初が「レッツゴー!! ライダーキック」だったのである。

 

 「レッツゴー!! ライダーキック」(作詞:石森 章太郎)

  迫るショッカー 地獄の軍団
  我等をねらう 黒い影
  世界の平和を 守るため
  ゴー ゴー・レッツゴー 輝くマシン
  ライダー「ジャンプ!」
  ライダー「キック!」
  仮面ライダー 仮面ライダー
  ライダー ライダー

  迫るショッカー 悪魔の軍団
  我が友ねらう 黒い影
  世界の平和を 守るため
  ゴー ゴー・レッツゴー 真紅のマフラー
  ライダー「ジャンプ!」
  ライダー「キック!」
  仮面ライダー 仮面ライダー
  ライダー ライダー

  迫るショッカー 恐怖の軍団
  我が町ねらう 黒い影
  世界の平和を 守るため
  ゴー ゴー・レッツゴー 緑の仮面
  ライダー「ジャンプ!」
  ライダー「キック!」
  仮面ライダー 仮面ライダー
  ライダー ライダー

 

 予備知識なしに『仮面ライダー』のオープニングを見た人は首をひねるかもしれない。荒れ地を走るオートバイがまっすぐこちらへ向かってくる。丸い輪郭に丸い目の仮面が大映しになる。愛嬌のある造形だが、濃緑のマスクは陰鬱で牙は怪物めいている。そこに〈迫るショッカー〉と歌が流れる。〈ショッカー〉というのは、こちらに迫ってくるこのマスクの怪物のことだろうか。『巨人の星』の「重いコンダーラー」と同様、映像に同期する歌詞をキャプション的に理解したものである。

 仮面の大映しにタイトルが重なり、あとはひたすらオートバイを操縦している映像が続く。正義の味方である月光仮面はスーパージャイアンツゆずりの白づくめだったが、この丸顔の怪物は黒づくめである。番組を見るうちに、この怪物はショッカーではなく、仮面ライダーという名であることがわかる。当時の子どもはまだ、ライダーという語とオートバイ乗りという意味とが結びつかない。言葉の意味が伝わらないため、ライダーを仮面の男の固有名だと錯覚する。

 

 歌詞について見ていこう。

 歌詞が3番まであるうち、どれも始まりの言葉は〈迫る〉である。〈迫る〉というのは目標の近くまで来つつあるということで、勢いを感じさせる言葉だ。だが、どこに〈迫る〉というのか。文頭で唐突に〈迫る〉と言われてもそれがどこに向かっているものなのかわからない。しかしすぐ〈我等をねらう 黒い影〉とあるから、どうも〈我等〉のほう、視聴者である私たちのほうに矢印が向いていることがわかる。

 ショッカーは私たちに迫っている。まだその姿は見えるか見えないかである。〈地獄の軍団〉という情報だけはある。〈我等をねらう 黒い影〉ともあって、正体ははっきりしないが、来てほしくない連中であることは確かだ。わずかな情報をふくらませて想像する時間が一番怖い。この〈影〉というのは影法師のことではなく、人の姿かたちのことである。『金田一少年の事件簿』の「犯人の犯沢さん」が文字どおり〈黒い影〉である。

 〈我等をねらう 黒い影〉であって〈ぼくらをねらう 黒い影〉ではない。歌詞に〈ぼくら〉が入るととたんに世界観が甘くなる。ここでは〈我等〉とあるので、子どもだけでなく、大人も含めた社会全体が狙われているのである。子どもだけを狙っているのなら大人に守ってもらえばいいが、そういうわけにはいかない。普通の大人を超える存在が必要とされる。仮面ライダーへの期待値がここで高められる。

 実際、ショッカーは大人を狙う。社会を混乱させるには大人をあやつらなければならない。子どもは特有の好奇心をもって大人の周りをうろちょろするから、人質になったりして事件に巻き込まれる。子どもは大人を動かすために利用されることはあるが(ショッカーに操られると目の周りが黒くなる。怪人が倒されると催眠が解けるというパターン)、子どもじたいを狙っているわけではない。だから〈ぼくらをねらう 黒い影〉ではなく、〈我等をねらう 黒い影〉なのである。

 ちなみに「ウルトラマン」では〈光の国から ぼくらのために/来たぞ 我等のウルトラマン〉とあるように、〈ぼくら〉と〈我等〉が混在している。〈ぼくら〉と言ってはみたものの、〈我等〉と言い直している。〈ぼくら〉は〈我等〉に含まれる。〈ぼくら〉だけの世界ではなく〈我等〉も含まれた世界である。

 ショッカーは、〈地獄の軍団〉〈悪魔の軍団〉〈恐怖の軍団〉というように様々に形容されるが、いずれも〈軍団〉の比喩で語られている。〈迫る ショッカー〉というのは軍隊なみの集団が押し寄せているということである。〈我等〉の社会を狙うので大規模な侵攻である。〈我等〉と規模が対応しているのが〈軍団〉であるる。

 物語の中では、大軍が一度に押し寄せて来るわけではなく、なぜか怪人は一体づつ小出しに出てきている。一人の怪人に対応するのは〈我等〉の中から選ばれた一人、あるいは1グループである。〈我等〉の中から特定の個人が標的にされる。怪人は個人の身近に忍び寄る。

 ライダーがアジトに乗り込む場合は、町道場(アジト)に殴り込んできた仮面ライダー(道場破り)に抵抗する師範(改造人間)と道場生たち(戦闘員)という感じになっている。アジトは分散されている。軍団とはいっても分散されているからライダー一人でも戦うことができる。しかし、ライダーが戦うのは、気まぐれな個人や小集団のグループではなく、軍隊並みの秩序をもったそれなりの大きさの組織である。そのため、執拗に、途切れることなく戦いが続けられる。

 ナレーションでは、ショッカーは「世界征服をたくらむ悪の秘密結社」と言われている。秘密結社といえばフリーメイソンとかテンプル騎士団をイメージするが、それらの構成員は各地にネットワークとして分散しており、意図も不分明で手段も迂遠で媒介的であり、直接行動はせず背景の黒幕として存在する。だからこそ秘密が保たれた謎の組織になっている。一方、ショッカーはいつも集団でまとまり、目的達成のために直接的な行動をとり、人前に姿をさらすことも厭わない。なるべく人々に気づかれないようにこっそり行動するものの、露見しても暴力的に解決するので隠れることに気を使いすぎることはない。

 仮面ライダー』の世界ではマスメディアはあまり発達していないか、あるいは悪事に勘づいた記者はすぐ消されてしまうようで、ショッカーという組織の全容が世間に暴かれることはない。また、警察も交番の巡査が事件に巻き込まれるくらいで、組織だって解明しようとしない。事件は公的なものにならず、本郷猛の探偵まがいの行動により、あくまで個人的な奇妙な出来事として解決されるだけだ。本郷も、ショッカーの組織を調べ上げてそれを根絶やしにするつもりはなく(一人だけでそんなことはできない)、対症療法的に行動するだけである。決まり文句は「出たなショッカーの改造人間」で、向こうから出てくるのを待っている。ショッカーは世間に認知された犯罪組織ではなく、噂話的な〈黒い影〉である。〈黒い影〉の暗躍に対抗できるのは、非公式に動ける別の〈黒い影〉、それが黒づくめの仮面ライダーである。

 ショッカーは毎回個性的な怪人(改造人間)が登場するがその手先になって動くのが無数の戦闘員である。彼らは覆面(最初期は顔の装飾)をかぶり、一律の戦闘服(骸骨模様の黒タイツ)に身を包むことで個性を消されている。個人間の身体能力の差に目立った違いはない(科学者は白衣を着用している)。並の成人男性よりは強いが武道の達人よりは弱いレベルである。仮面ライダーの動きを阻止することはできないが邪魔する役には立つ。うざい連中で、いわゆるザコである。こういう連中は時代劇のチャンバラでもよく登場した。のちの『スターウォーズ』には帝国軍の歩兵ストームトルーパーが出てくるが、こちらは武装しているぶん強い。

 怪人は首領の意向に沿って自分の特殊能力にあった計画をたて(蝙蝠男なら人間を吸血鬼に変えて操ろうとする)、戦闘員とともに実行していく。シリーズの中盤から、ゾル大佐、死神博士地獄大使といった大幹部が出てくるようになり(博士とか大使とか大佐とか肩書きはバラバラだが、なにか偉そうな感じがすればよいのだろう)、組織内の階級性が強化された。怪人が特殊能力をもっているということは、怪人は技術者であり、その行動は自分で判断できる部分が相当あったと思うが、組織性が強調されることで、怪人は命令を受けてこなすだけの組織の一員にすぎないとされ、怪人の実存的な魅力は描かれることはなかった。

 

 次に、〈我等をねらう 黒い影/世界の平和を 守るため〉というときの〈世界〉について考えてみたい。

 仮面ライダー』の3クールめ(第26話)から番組強化策としてゾル大佐が登場する。ショッカー中近東支部から日本支部へ派遣された大幹部で、ゾル大佐の登場によりショッカーの組織のスケール感が拡大され、「首領 - 大幹部 - 怪人 - 戦闘員」といった組織構成が確立された(ウィキペディアゾル大佐」の項)。

 ショッカーは世界各地に支部があり、幹部ばかりでなく、優れた能力をもつ怪人も海外から呼び寄せられることがある。グローバルに活動している組織である。ショッカー怪人の出身地はメキシコとかアマゾンとかの中南米、アフリカ、ニューギニアなど南太平洋の島々が多い。どうもそういった辺境に妖気が満ちていると思われているようだ。http://tadahiko.c.ooco.jp/LISTCOLE/001-SHOCKER.HTML

 一方、仮面ライダーは、1号も2号も、脳改造手術の手前で運よく逃げ出せたことにより偶然誕生した反逆者なので、他の国でも同様にライダーが存在しているとは思えない。仮面ライダーが仲間を増やすなら、仮面ライダーV3のように自分たちで改造人間を作るしかない。仮面ライダーはショッカーのバグとして日本にだけ特異に存在している。ショッカーが世界的なネットワークを持っていることをほのめかしているのがFBI捜査官である滝和也の存在である。アメリカでもショッカーは暗躍していたのである。滝はなぜか、長期間にわたり、日本で仮面ライダーのアシスタントをしている。

 仮面ライダーは東京近郊を主な舞台として戦っているが、日本の各地へ出向くこともある。第71話の予告では次のようにナレーションされている。

「さて次回は地方ロケシリーズ第1弾、神戸有馬六甲山を舞台にメキシコの怪人アブゴメスとライダーの大追跡。特に高さ130メートルで行われる六甲ロープウェーでの大アクションはスリル満点だよ。次回、怪人アブゴメス六甲山大ついせき! 抜群の迫力だよ、見てね」

 番組としては、地方ロケは視聴者サービスであろう。だが、ここからは、日本に仮面ライダーは一人しかいないが、必要とあらば地方にも赴き、日本全体を守っているのだというメッセージが伝わってくる。番組では、1号ライダーから2号ライダーへ、そしてまた新1号ライダーへと入れ替わるが、そのとき、1号はショッカーを追ってヨーロッパへ、2号は南米へ旅立ったとされる。ヨーロッパのショッカーは少ないだろうが、南米からはショッカーの怪人が次々送り込まれてくるので、ショッカーの巣窟になっているかもしれない。2号が南米に旅立つのもわかる。

 だが、1号や2号が海外で戦う姿が放送されるわけではない。視聴者の実感としては、立花藤兵衛が経営するスナックを中心とした日本の片隅で戦っている印象である。スパイダーマンがニューヨークという街のヒーローであると同じように、仮面ライダーも「街のヒーロー」といっていいだろう。ライダー側の勢力は微力で、組織化されておらず(少年ライダー隊!)、ショッカーとは非対称である。

 歌詞の2番3番からもそれはよくわかる。〈我が友ねらう 黒い影〉〈我が町ねらう 黒い影〉となっていて、身近な友人や日常生活をおくる町を守っている。歌詞は〈世界の平和を守るため〉と続くが、そのような〈我が町〉を守ることがどうして〈世界の平和〉を守ることにつながるのか。それは飛躍だろうか。

 地球を守るという歌詞はヒーローソングにはよくある。『マグマ大使』では〈地球の平和を まもるため〉と歌うが、マグマ大使は地球の創造主が造ったもので、宇宙から来た敵と戦うので、地球を守るというのはそのとおりだろう。『科学忍者隊ガッチャマン』の当初の主題歌「倒せ! ギャラクター」では〈太陽輝く 地球を守れ〉と歌う。敵のギャラクターは地球規模の災害を起こし、ガッチャマンはゴッドフェニックスに乗って世界のどこにでも赴くから、これも地球を守っている。『バビル2世』は、〈地球の平和を まもるため/三つのしもべに 命令だ〉と歌う。主人公はバベルの塔を造った宇宙人の子孫で、世界の各地でグローバルな戦いをしている。マグマ大使ガッチャマンバビル2世のように長距離飛行が可能な乗り物があれば、遠くの異変を感知して赴くことができる。ただ、「守る」とはいうが、自衛というより反撃である。また、地球を守るとはいっても、人間の文明を守るということである。

 一方、仮面ライダーが活躍するのは、オートバイで短時間で移動可能なエリアに限られる。ライダーは長距離を高速移動できるマシンを持っていないので、海外に日帰りで遠征するわけにはいかない。ショッカーが近づいてくるのを待つだけである。〈迫るショッカー〉をその都度、迎え撃つのがライダーの戦いである。ショッカーは全国どこでも悪事をはたらくことができるはずだが、基本、ライダーの近くで悪事をはたらく(ライダーをおびきだす意味もある)。仮に遠くの街で異変が起きても、たいていの場合、ライダーは知りようがない。だからライダーが〈我が町〉を守るというのはよくわかる。だが、さすがにそれを拡大して〈地球を守る〉とは言い難い。〈日本を守る〉というのも難しい。ライダーは殴ったり蹴ったりの接近戦で目の前の敵を倒すので、広い地域を守備範囲にすることはできない。たまに出張試合をするていどである。世界はおろか、日本の各地に仮面ライダーの仲間のネットワークがあるわけではないし、個人で行動しているから「面」での守備は無理で、「点」で勝負をしている。ショッカーは世界各地の怪人を関東近郊に呼び寄せている。ライダーの存在じたいがショッカーを呼び寄せている。ライダーが存在する限り、ショッカーはライダーの拠点(立花藤兵衛のスナックがある町)を攻略することに力を注いでいくであろう。このため「点」の戦いにも意味がある。

 いずれにせよ、「レッツゴー!! ライダーキック」にあるように〈世界の平和を守る〉というのは無理である。仮面ライダーローカルヒーローなので世界の国々を守れるわけがない。ではこの歌詞は間違いなのかというとそうでもない。〈世界〉という語は多義的である。辞書には主な意味が、次のようにある

 

 1 地球上のすべての地域・国家。「―はひとつ」「―をまたにかける」

 2 自分が認識している人間社会の全体。人の生活する環境。世間。世の中。「新しい―を開く」「住む―が違う」(デジタル大辞泉)。(3以下省略)

 

 ここで「2」の意味ならば、〈世界の平和を守る〉ことと〈我が町〉の平和を守ることとは矛盾しない。〈世界の平和を守る〉というときの〈世界〉は「1」の意味であるのだろうが、「2」の意味も持っていることによって、町内的な日常世界を活躍の舞台としている仮面ライダーであるにもかかわらず、歌詞はそのまま理解できるのである。もし仮面ライダーが〈地球の平和を守る〉と言えば、それは誇張が過ぎるが、〈世界の平和を守る〉というなら、受け入れられるのである。

 等身大ヒーローの仮面ライダーにとって、〈我が町〉が行動可能な〈世界〉である。巨大怪獣とウルトラマンの戦いであれば、影響範囲は〈我が町〉だけにはとどまらない。広域で警戒が必要になる。だがショッカーが対象とするのは各個人であり、影響範囲も限られている。『仮面ライダー』では日本各地にロケに行くが、それはライダーが日本全体を守ることにはつながらない。ロケ先が〈我が町〉となり、ライダーはその〈世界〉を守るのである。ロケ先が増えても、それは〈我が町〉が日本中に拡大したということではない。〈我が町〉はライダーが存在する場所に、その都度、点として存在するだけである。

 〈地球〉と〈世界〉の違いは、〈世界〉のほうが思弁的で、その範囲や地点が融通無礙である。ある人にとって想像の及ぶ範囲が、その人がその一部である〈世界〉である。

 

 さて、〈迫るショッカー〉に対して、仮面ライダーは〈ゴー ゴー レッツゴー〉と向かっていく。〈迫る〉と〈ゴー ゴー〉は、「来る」と「行く」で、セットなのである。

 アニメや特撮の主題歌では、力強さや景気よくするために〈ゴー ゴー〉がよく使われる。思いつくものを発表年順に並べてみた。

 

・マッハ ゴーゴー/マッハ ゴーゴー/マッハ ゴーゴーゴー(「マッハゴー・ゴー・ゴー」1967年)

スペクトルマン スペクトルマン/ゴーゴーゴーゴー ゴゴー(「スペクトルマン・ゴーゴー」1971年)

・チェインジ チェインジ/ゴーゴゴゴー ゴゴゴー(「ゴーゴー・キカイダー」1972年)

・ゴーゴー トリトン/ゴーゴー トリトン/ゴーゴーゴーゴーゴー トリトン(「GO! GO! トリトン」1972年)
・ゴー ゴゴー/五つの力を 一つに合わせて(「進め! ゴレンジャー」1975年)

 

 「レッツゴー!! ライダーキック」は発表順では「スペクトルマン・ゴーゴー」の次になる。「ゴーゴー・キカイダー」と「進め! ゴレンジャー」はライダーと同じ石森章太郎の作詞である。

 タイトルを見るとよくわかるが、〈ゴー〉は1回ではなく、〈ゴー ゴー〉と2回繰り返されるのが基本である。歌では、「マッハゴー・ゴー・ゴー」や「GO! GO! トリトン」のように、2回繰り返したあと、締めでは3回以上繰り返されることがある。「スペクトルマン・ゴーゴー」や「ゴーゴー・キカイダー」などは〈ゴー〉が執拗に繰り返されるが、これは歌詞の穴埋めのように使われたとも考えられる。

 〈ゴー ゴー〉は日本語で言えば〈行け行け〉ということになろう。

 

・ゆけゆけ飛雄馬 どんとゆけ(「ゆけゆけ飛雄馬」1968年)

・行け! 行け! タイガー タイガー/タイガーマスク(「行け! タイガーマスク」1969年)

 

 〈行け行け〉も2回重ねになっているのが面白い。また、〈ゆけゆけ…どんとゆけ〉という語の構成は、〈ゴー ゴー レッツゴー〉に似ている。3回めの繰り返しで、さらに拍車をかけている。

 〈レッツゴー〉についてもう少しふれる。「Let’s go.」は、「さあ行こう」「一緒に行こう」ということで、話し手が、その場にいる相手に一緒に行こうと促すことである。

 仮面ライダー』の始まった1971年当時は「レッツゴー」という言い方が流行っていた。

 

  レッツゴー! 若大将(映画、1967年公開)

  レツゴー三匹(お笑いトリオ、1968年結成)

  レッツラゴン赤塚不二夫の漫画、1971年連載開始)

  レッツゴーヤングNHK音楽番組、1974年放送開始)

 

 67年の映画の題名に採用されるくらいなので、60年代半ばにはみんな気軽に「レッツゴー」と口にしていたのだろう。

 〈迫るショッカー〉に対して、〈ゴー ゴー〉と立ち向かう仮面ライダー。この段階では両者はまだ直接向き合っていない。お互い激突して戦いが始まるのは次の段階である。それを実況したのが、〈ライダー「ジャンプ!」/ライダー「キック!」〉である。

 仮面ライダーのキャラ造形は月光仮面によく似ている。オートバイに乗る。マフラーをしている。マスクをしている。だが決定的に違うところは、仮面ライダーがライダージャンプやライダーキックのように肉弾戦をするのに対し、月光仮面は二丁拳銃という飛び道具を使うことだ。敵も銃を持っているが、月光仮面のほうが射撃の腕前が上である。しかも二丁持っている。月光仮面は奇抜な衣装に身を包み、「月よりの使者」を名乗ったりするが、射撃が得意で危険な現場に飛び込む勇気があれば誰でも月光仮面になれそうである。

 一方、ライダーキックは仮面ライダーにしかできず、他の誰かと代替不可能である。当時、キックボクサー沢村忠を主人公にしたマンガ『キックの鬼』が人気があり、アニメ版は『仮面ライダー』放送開始の直前まで放送されていた。ライダーキックがとっておきの技でありえたのは、当時、キックには、それで何でも粉砕できるという神話的な力があったからだろう。ブルース・リーの映画によってカンフーがブームになるのはまだ2年先である。

 

 〈ゴーゴー・レッツゴー 輝くマシン〉とあるが、ここになぜ〈輝くマシン〉が入るのだろうか。

 〈輝くマシン〉というのは改造オートバイのサイクロン号のことだ。それまでの歌詞の中で、初めて、仮面ライダーに直接関わる要素が出てきた。

 初代の仮面ライダーに変身ポーズはなく、オートバイに乗っているときに風を受けてベルトの風車がまわり変身する。〈輝くマシン〉が出てきたということは、ここで仮面ライダーに変身したということではないか。つまりこの歌詞は番組の流れをなぞっているのである。歌詞の流れは、ショッカーが忍び寄る、本郷猛が現場へ行く、バイクで変身する、ライダーキックをお見舞いする、仮面ライダー万歳、そういう一連の流れになっていて、番組の展開がそのまま歌詞に歌われているのである。(最後に〈仮面ライダー 仮面ライダー/ライダー ライダー〉と連呼するのは、ヒーローを称賛しているのである。)

 少し戻って〈輝くマシン〉について考えてみよう。〈輝く〉とは何なのか。2番、3番の歌詞では相当する場所に〈真紅のマフラー〉〈緑の仮面〉とあり、共通するのは色彩なので、1番の〈輝く〉も色彩に関わる表現ということになる。サイクロン号はフルカウルだが、ホイールやマフラーは金属の光沢があるので〈輝くマシン〉に見えるのは間違いない。〈輝く〉には、誇らしいとか素晴らしいといった比喩的意味もあるので、それも含意されているだろう。

 〈輝くマシン〉がライダーに対応する表現だとすれば、ショッカーに対応する表現は〈黒い影〉である。輝きに対して黒い影と対照的である。

 石森章太郎は「戦え! 仮面ライダーV3」の歌詞も書いているが、そこでは1番から3番の出だしは、それぞれ〈赤い赤い 赤い仮面のV3〉〈青い青い 青い車のV3〉〈白い白い 白いマフラーV3〉となっていて、色から連想をはじめている。また「進め! ゴレンジャー」は5つの色が歌詞に織り込まれている(これはプロデューサーの要望によるものとウィキペディアには書いてある)。キャラクターは色別にすると違いがわかりやすくなる。

 続いて、2番の〈真紅のマフラー〉、3番の〈緑の仮面〉について考えてみたい。

 仮面ライダー1号と2号は〈真紅のマフラー〉を首に巻いている。なぜ赤色なのか。当時のヒーローはマフラーを巻いていることがよくあった。色は白や赤が多い。ライダーは上半身前面のプロテクターが青緑色であるほか、全身が黒っぽく地味である。その中で赤いマフラーは華やかさを演出している。マスクとプロテクターなどが青緑色なので、補色の組み合わせになったともいえる。

 赤い頭巾をかぶる女の子を「赤ずきんちゃん」と呼ぶからといって、ライダーのことを「赤マフラー」と呼ぶことはできない。〈真紅のマフラー〉は隣接関係に基づく換喩になるほどライダーの中心的な特徴にはならない。しかし際立つ差異にはなっている。グローブとブーツについては、1号は青緑からシルバーに変わり、2号は青緑から赤に変わったが、マフラーはどちらも赤のままだった。一方、6人のショッカーライダー(偽ライダー)は、マフラーは色とりどり(黃白緑青紫桃)で、グローブとブーツは共通の黄色をつけていた。本物のライダーにとって、グローブとブーツの違いはアイデンティティに関わらないが、マフラーの色は変えられないものであることがわかる。マフラーは体の中心に近い位置にある。同じ色のマフラーは、1号も2号も同じ意志を持つことの換喩なのである。

 逆にショッカーライダーはマフラーの色はバラバラで、グローブとブーツという端部は揃えられていた。端部の統一は統制がとれていることを示しており、マフラーの差異は識別のためであるが、それはショッカーライダーは外見の統制とは裏腹に内面において共有するものがないことを示している。

 〈真紅のマフラー〉は仮面ライダーとして変わることのない特徴である。作詞時もそのことは直感的に把握されていたから〈緑のブーツ〉や〈緑のグローブ〉という歌詞はありえず、〈真紅のマフラー〉が選ばれるのである。

 歌詞の3番は〈緑の仮面〉である。〈仮面〉のあり様のほうが〈マフラー〉より仮面ライダーの特徴を表現しているので、先に歌詞の2番に使ってよさそうなものだがそうなっていない。おそらく色名に問題があったのではないか。仮面ライダーのマスクには色や形状に変遷があるが、最初期のものは、色については緑というより濃い青緑色であり、それを〈緑の仮面〉というのはやや無理があった(後の映画『仮面ライダー THE FIRST』では1号は青色に解釈されて造形されている)。そういう形容詞し難い色であれば、あえて〈緑の仮面〉などと言わないで、〈正義の仮面〉とでもすればよかっただろう。実際、エンディングの「仮面ライダーのうた」(作詞は八手三郎)では〈仮面ライダー 正義のマスク〉となっている。2番の歌詞で〈真紅のマフラー〉と書いたので、3番は色つながりで〈緑の仮面〉と書いたのかもしれない。〈緑〉には、たんにマスクの色というだけではなく、緑つまり自然からの使者という意味も込めているのであろう。石森章太郎のマンガ版では、ライダーは自分のことを「大自然がつかわした正義の戦士」と名乗っている。

阿久悠 VS. ウルトラマン

 1970年代、ヒット曲の作詞は阿久悠の名で埋め尽くされていた。

 阿久悠は、演歌やアイドル歌謡はもちろんのこと、「ピンポンパン体操」などの子ども向けの歌、「宇宙戦艦ヤマト」などのアニメ、「ウルトラマンタロウ」などの特撮も作詞している。

 阿久悠が作詞に関わったウルトラシリーズは『ウルトラマンタロウ』(1973)、『ウルトラマンレオ』(1974)、『ザ•ウルトラマン』(1979)の3作品である。『ウルトラマンA(エース)』(1972)までのウルトラシリーズは、円谷一つぶらやはじめ、円谷プロ二代目社長)が東京一(あずまきょういち)の名で作詞していたが、『タロウ』放映の2か月前に亡くなっており、『タロウ』からは阿久悠が登板している。

 

 「ウルトラマン・タロウ」

  タロウ ウルトラマン ナンバー6

 

  ウルトラの父がいる ウルトラの母がいる

  そしてタロウがここにいる

  空を見ろ 星を見ろ 宇宙を見ろ

  かなたから迫りくる 赤い火を

  何かが地球におきるとき 胸のバッヂが輝いて

  タロウがとびたつ タロウがたたかう

  タロウ タロウ タロウ ウルトラマン タロウ

 

  ウルトラの父が来た ウルトラの母が来た

  そしてタロウがやって来た

  あれは何 あれは敵 あれは何だ

  なぞをひめ 襲い来る 侵略者

  力がほしいと願うとき 胸のバッヂが輝いて

  タロウがとびたつ タロウがたたかう

  タロウ タロウ タロウ ウルトラマン タロウ

 

 それまで東京一が作詞したウルトラシリーズの主題歌では、どれも〈怪獣〉というワードが使用されていた(「エース」のみ〈超獣〉)。だが、この「タロウ」には〈怪獣〉は出てこない。代わりにあるのは〈かなたから迫りくる 赤い火〉とか〈何かが地球におきるとき〉という明確でない脅威である。怪獣という実体に結実する手前の〈何か〉である。あるいは〈あれは何 あれは敵 あれは何だ/なぞをひめ 襲い来る 侵略者〉ともあるように、対象として捉えがたい侵略者である。このような漠然とした言い方をするのはなぜなのだろう。

 テレビ番組の主題歌というのは、出来上がった作品を見てから作るわけではない。まだ製作途中で設定の細部もどこまで決まっているかわからないような状態で、作品の大まかな内容をもとに書いている。そもそも、事前に最後の結末までしっかりプロットを決めてそれに沿って作品を作っていく場合は少ないので、歌詞も今後の展開の邪魔にならない程度のあたりさわりのないものにならざるをえない。

 いずれにしても、歌詞と作品の齟齬を目立たなくするには、歌詞では一般論を述べるにとどめるか、具体性を避けて多義的な言葉を使うか、あるいは、細部の変わらぬ一点を取り込んだり、それで歌詞を全面展開することが試みられる。

 例えば、最初の『仮面ライダー』の主題歌である「レッツゴー!! ライダーキック」には〈ショッカー〉という固有名が入っているが、〈地獄の軍団/我等をねらう 黒い影〉といった一般論以上にショッカーを規定しておらず、仮面ライダーも〈ジャンプ〉や〈キック〉はするが〈世界の平和を 守るため〉という一般論以上になぜ戦うのかという理由は示されない。

 「細部の変わらぬ一点」というのは、この歌の2番における〈真紅(しんく)のマフラー〉を例にすると、仮面ライダー1号と2号は〈真紅のマフラー〉を首に巻いているが、ライダーのマフラーが〈真紅〉であることに内在的理由があるとは思えず、配色の観点からは、白でも青でも黄でもよかった。また、マフラーとその色はライダーが進化するにつれて変化するポイントになるわけでもない。赤い頭巾をかぶる女の子を「赤ずきんちゃん」と呼ぶからといって、ライダーのことを〈真紅のマフラー〉と呼ぶことはできない。〈真紅のマフラー〉は隣接関係に基づく換喩になるほどライダーの中心的な特徴にはならない。しかし際立つ差異にはなっている。2号は途中でグローブとブーツが緑から赤に変わったが、マフラーは赤のままだった。一方、ショッカーライダー(偽ライダー)は黄色のマフラーとグローブ、ブーツをつけていた。グローブとブーツの違いはアイデンティティに関わらないが、マフラーの色は深く関わることがわかる。それはマフラーが身体の中心の位置にあるからだろう。〈真紅のマフラー〉は仮面ライダーとして変わることのない特徴である。作詞時もそのことは直感的に把握されていたから〈緑のブーツ〉は歌詞にならず、〈真紅のマフラー〉や(3番では〈緑の仮面〉)になるでのである。

 時間的な細部を取り出してみせるのが『宇宙戦艦ヤマト』のオープニングである。主題歌は旅立ちの瞬間を歌っている。旅立ちという特定の時間にこだわって、それを全面展開した歌詞になっている。一方、エンディングは、赤いスカーフという一点のアイテムから想像を広げている。赤いスカーフは、ヤマトのドラマ上なんらかの意味が担わされているかというと、そうではない。仮面ライダーの〈真紅のマフラー〉と違って、赤いスカーフはたんなるイメージである。作詞者による想像なので、ヤマトがどういう展開になろうとも使える。

 『ヤマト』は長期のシリーズとなったが、当初作られた主題歌はヤマトの印象と強く結びついていたので、テレビ版の『ヤマト2』『ヤマト3』はイスカンダルとは関係がないにも関わらず、〈イスカンダル〉という固有名が入った歌がオープニングとしてそのまま使われており、強引だなと思った。もし〈イスカンダル〉という固有名を入れずに、代わりに〈遙かな星〉とでもなっていれば、違和感なく使いまわせたであろう。リメイク版の『ヤマト2202』ではインストルメンタルだけになった。

 「翔べ! ガンダム」は一般論的な歌詞である。〈ガンダム〉という主役メカの名称こそ出てくるが、それ以外の部分は何にでも応用可能である。『ゲッターロボ』の歌詞としても成り立つ。〈怒りに燃える闘志〉とか〈正義の怒りをぶつけろ〉とか、かなり怒っている。ロボットアニメの主人公はたいてい短気で怒りっぽいので、一般論的な歌詞としてはこれでいいのだが、『ガンダム』のアムロは主人公としては異例のクールな少年で、怒ることはほとんどないので、一般論的であるにも関わらずズレのある歌詞になってしまった。

 とはいえ、歌詞が作品とぴったり一致しているのがよいということではない。歌詞があまり具体的だと作品が作りにくくなってしまうだろう。歌詞が作品内容を説明する必要はない。『エヴァンゲリオン』の「残酷な天使のテーゼ」のように、作品の内容と付かず離れずで、想像力を掻き立て、自律性のあるもののほうがいいだろう。

 

 そこで「ウルトラマンタロウ」の歌詞をあらためて見てみよう。

 この歌には、敵の脅威に対する具体的な描写はない。代わりに、〈かなたから迫りくる 赤い火を〉とか〈何かが地球におきるとき〉〈あれは何 あれは敵 あれは何だ〉など、漠然とした言い方がなされている。

 〈赤い火〉というのは不吉なものの象徴である。歌詞を書く段階で設定の詳細が決まっていなくても、ウルトラマンの敵は怪獣か宇宙人と相場は決まっているので、そのように書くこともできたはずだがそうしなかったのは、ウルトラマンもシリーズが進んで、怪獣や宇宙人はすっかり既知のもの、想像の範囲内のもの、親しみのあるものになってしまい、そうしたワードでは脅威を表現できないと思ったからだろう。曖昧で未知な状態のほうが恐ろしいのである。〈何〉の使用もその延長にある。

 先日、水木一郎が亡くなったのでその作品集を聴いていたのだが、そこで流れてきたのが「アストロガンガー」である。私が子どものころの作品で、『マジンガーZ』と同時期の放送だ(1972年開始)。

 その歌詞は〈どこかでどこかで何かがあれば〉〈だれかにだれかに何かがあれば〉〈いつでもいつでも何かがあれば〉とふんだんに〈何か〉を使っている。〈どこかで何かがあ〉るのは当たり前だろうと思ったが、私たちがふだん「何かあったら」と言うとき、その「何か」にはなんでも代入できるわけではなく、たいてい、よくないこと、嫌なこと、不安に思うことである。未知に対する漠然とした恐れが反映されている。「タロウ」や「アストロガンガー」の歌詞で繰り返される〈何か〉や〈何〉は、原因や正体がわからないものは、人の心を不安にさせるということを踏まえている。

 〈何かが地球におきるとき〉は決してよいことが地球に起きるわけではない。不吉な出来事が予感されている。〈何か〉わからないことに人は怯える。ヒーローソングにありがちだが「地獄だ」「悪魔だ」とはっきり言わないでも、〈何か〉と曖昧に言うだけで十分効果はあるのである。〈あれは何 あれは敵 あれは何だ〉というのは興味深い並べ方である。ここでは「何=敵」である。〈あれは敵〉とわかっているにも関わらず、さらに〈あれは何だ〉と言っているのは「何=敵」だからである。〈何〉という未知のものに〈敵〉が投影されている。未知の段階ではとりあえず敵とみなして警戒を高めるに越したことはない。

 

 違う角度から「タロウ」の歌詞をみてみる。

 〈空を見ろ 星を見ろ 宇宙を見ろ かなたから迫りくる 赤い火を〉

 これは、「空を見ろ! 鳥だ! 飛行機だ! いや、スーパーマンだ!」というおなじみのセリフにヒントを得たものであろう。〈見ろ 見ろ 見ろ〉と畳み掛けており、歌詞として力強い。2番の歌詞では〈あれは何 あれは敵 あれは何だ〉となっており、〈あれ あれ あれ〉が繰り返される。作詞家は言葉を連打する効果を狙って使っている。他にも、〈ウルトラの父がいる ウルトラの母がいる/そしてタロウがここにいる〉、〈タロウがとびたつ タロウがたたかう〉〈タロウ タロウ タロウ ウルトラマン タロウ〉など、反復がリズムを作っている。

 〈空を見ろ 星を見ろ 宇宙を見ろ〉というのは、視点としては、地球にいる私たちの位置から語られており、〈空〉→〈星〉→〈宇宙〉へと目(=探索の隠喩)を向け、地球から遠い宇宙の深部へと視界を展開していく。そうしておいて、その遠い〈かなたから迫りくる 赤い火〉があると、一挙にこちらに向かってベクトルを反転する。〈何かが地球におきるとき〉と続き、地球から出発した意識が折り返されて地球に戻ってくる。この大きな往還運動が、歌詞をダイナミックなものにしている。

 なお、〈空を見ろ 星を見ろ 宇宙を見ろ〉の前に置かれているのが〈そしてタロウがここにいる〉という詞である。宇宙から脅威が飛来しても、近くにタロウがいてくれるから安心なのである。

 

 この歌詞で意外に重要なのは、〈ウルトラの父がいる ウルトラの母がいる そしてタロウがここにいる〉とあるところの接続詞〈そして〉である。タロウはウルトラの父母の子どもである。初代ウルトラマンウルトラセブンの出自はよくわからない。だがタロウは父母あってのタロウである。タロウがいくら超人であっても、父母がいなければタロウは存在できない。時間的な順序、つまり原因と結果という因果関係を、この〈そして〉が表している。子どもが憧れるヒーローでさえ、父母があって存在しているのだ。

 阿久悠は自分の子どもに「太郎」という名前をつけており、奇しくも同じ名前のウルトラマンの主題歌を書くことになって「大いに喜んだ」という。父母がいて〈そしてタロウがここにいる〉というのは、自分の子どもに諭すように書いたのかもしれない。

 しかしそうすると、この〈そして〉というのは、ひとつの抑圧のようにも感じられてくる。タロウは〈そして〉という順番を覆すことはできない。タロウはこの歌を歌うたびにいつも〈そして〉を意識させられることになる。どんなことがあってもウルトラの父母を乗り越えられず、それを思い知らされ続けるのである。

 

 タロウに変身するためのバッジは、二つの三角形を上下逆さに重ねたダビデの星に似ており、その六芒星の両肩と下の部分をグッとのばしてタロウのイニシャル「T」に近い形にデザインされている。六芒星というより十字架に近い形にも見える。そうすると、〈ウルトラの父がいる ウルトラの母がいる そしてタロウがここにいる〉という歌詞を、キリスト教ふうに解釈したくなる誘惑にも襲われる。ウルトラの父は天なる父ヤハウェウルトラの母は神としてのマリア、タロウは神ヤハウェが人間界に遣わしたイエス・キリストという見立てである。実際、ウルトラシリーズにはウルトラマンが十字架にかけられるシーンがあるし、ウルトラマンは人間の代わりに戦う苦難を背負っているのだというモチーフも通底している。ウルトラマンは何の縁もない地球人を命がけで守るという利他行を行う菩薩とも思えるが、いずれにしてもウルトラマンの存在は、人間の延長である仮面ライダーよりは宗教的なのである。

 

 「タロウ」の歌詞を他のウルトラシリーズの歌詞と比較してみる。『タロウ』の前の4作品(『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』)の主題歌は全て東京一(あずまきょういち、円谷一ペンネーム)が作詞している。

 阿久悠の「タロウ」と、東京一のウルトラ4作品には、どういう違いがあるだろうか。

 東の作詞に共通するイメージは、ウルトラマンは遥か遠くの星から地球にやってきたということである。

 

ウルトラマン…〈光の国から僕らのために 来たぞ我らのウルトラマン

ウルトラセブン…〈はるかな星が郷里だ〉

帰ってきたウルトラマン…〈遠く離れて地球に一人〉〈はるかかなたに輝く星は あれがあれがふるさとだ〉

ウルトラマンエース…〈遠くかがやく 夜空の星に/ぼくらの願いが とどく時/銀河連峰 はるかに越えて/光とともに やってくる〉(歌詞カードには「銀河連峰/連邦」の揺れがあるが、「連峰」表記が多い)

 

 一方、「タロウ」では、ウルトラマンは遥か遠くの星から地球にやってくるというよりは、既に地球に来ている、〈ここにいる〉とされる。〈空を見ろ 星を見ろ 宇宙を見ろ かなたから迫りくる 赤い火を〉という歌詞の視点は地球であった。〈かなた〉からやってくるのはウルトラマンではなく、侵略者のほうなのだ。歌詞の2番では〈そしてタロウがやって来た〉となっているが、〈来た〉とあるように、既に過去に来ていて、今は〈いる〉のである。「タロウ」は地球になじんでいて、地球人の視点でものを見ている。それを可能にしているのが、〈来た〉という過去から〈いる〉という現在までに蓄積した時間である。

 また、「帰ってきたウルトラマン」の〈遠く離れて地球に一人〉〈はるかかなたに輝く星は あれがあれがふるさとだ〉という歌詞のように、「タロウ」の歌詞には遠く離れた星(故郷)からやってきて地球で一人で寂しいといった感じはない。「タロウ」には〈光の国〉という故郷よりももっと直接的に支えになる父母の存在があるからである。東京で一番という意味のペンネームを持つ作詞者が書いた歌詞にどこか高度成長期に流行った望郷歌謡曲の影があるとしたら、「タロウ」にはそうした時代の刻印はもうない。故郷を離れて地球にやって来たウルトラマンの存在が放つ寂しさには、故郷を離れて東京にやってきた金の卵たちの寂しさが投影されているかもしれない。奇しくも『タロウ』放送中の1973年10月に第一次オイルショックが起きて高度成長は終わりを迎えている。タロウは故郷から集団就職で出てきた陰りのある青年ではなく、その子どもたち、東京で生まれ核家族ウルトラの父母)の下で無邪気に育った離郷二世なのである。

 名前の点でもそうである。他の兄弟が、ゾフィー、セブン、エース、レオと外国風なのに、タロウだけが和風である。企画段階ではジャックという名前だったが、タロウに落ち着いたという経緯がある。古風な名前が与えられ、兄弟や親子といったファミリーの概念が強調されるのも、ウルトラマンを地球人と異質な存在ではなく、類似の存在と考えようとするからだろう。これまでのウルトラマンは、遥か遠くの星から地球にやってきた孤高の存在であったが、タロウには隣人のような親しみやすさがある。

 ウルトラ兄弟というのは、シリーズが続いて、似たようなヒーローが増えてきたときに、彼らを同一空間、同一時間の中で互いにどう位置づけるかについての製作者からの提案である。似ているから兄弟でどうかというわけだ(血のつながった兄弟ではなく仁侠的な兄弟である)。そして兄弟がいるなら父母もいるだろうということでウルトラの父母が創作される。ここでは因果は逆転され、父母は子を原因としている。

 

 阿久悠が作詞した他のウルトラシリーズウルトラマンレオ』と『ザ•ウルトラマン』の主題歌についても簡単に見ておこう。

 『レオ』は『タロウ』に続いて放送され、作詞作曲は『タロウ』と同じコンビである。主題歌が前期後期で変わっているが、作詞作曲は同じ人たちである。私は前期の歌のほうが好きである。ネットの評判も同様である。歌っているのは主演俳優で、テレビではなぜか歌詞の2番が用いられている。2番はこうなっている。

 

 「ウルトラマンレオ

  突然あらしが まきおこり
  突然炎が ふきあがり
  何かの予言が あたる時
  何かが終りを 告げる時
  誰もが勇気を 忘れちゃいけない
  やさしい心も 忘れちゃいけない
  獅子の瞳が輝いて ウルトラマンレオ
  レオ レオ レオ レオ レオ
  燃えろ レオ 燃えろよ レオ!

 何やら不穏な雰囲気のある歌詞である。世の終わりを告げる予言が的中したかのように、〈突然あらしが まきおこり/突然炎が ふきあがり〉と不気味な現象が起こっている。1番の歌詞にも〈地球の最後が 来るという〉とある。怪獣や宇宙人なら街を少し破壊するだけだが、自然現象の変異は、私たちが住む地球という基盤の環境がおかしくなっているわけで深刻である。

 それまでのウルトラシリーズの主題歌とは違い、阿久悠が書いた「タロウ」「レオ」「ザ•ウルトラマン」のいずれにも、怪獣や宇宙人というワードは出てこない。本当の脅威は怪獣なんかではない、もっと違うところにあると言いたかったのかもしれない。

 

 『レオ』が放送されたのは1974年。前年の1973年には五島勉の『ノストラダムスの大予言』や小松左京の『日本沈没』が出版されて終末ブームが起きていた。『日本沈没』は同年末に映画が公開され大ヒットしている。『レオ』には当時のそういった雰囲気が取り入れられており、歌詞もそれを反映していた。〈何かの予言が あたる時〉というのは、ノストラダムスの予言を暗示引用している。

 一方、番組の第1・2話は、『日本沈没』を踏まえたものになっている。第1話のサブタイトルは「セブンが死ぬ時! 東京は沈没する!」、第2話は「大沈没! 日本列島最後の日」である。ダン隊長による「ウルトラマンレオが負ければ、日本が沈没する!」という台詞もあった。

 ただし、沈没の原因は地学的なものではなく、怪獣が引き起こす津波である。これは『帰ってきたウルトラマン』のエピソード「津波怪獣の恐怖 東京大ピンチ!」の反復である。『帰マン』の大津波も迫力があったが、『レオ』も大津波によって東京が破壊されるシーンが丁寧に描写されたスペクタクルあふれるものになっていた。子どもには十分である。

 このあとのエピソードでも『レオ』には残酷な場面が多いという評判がある。極めつけは怪獣攻撃隊MACが中盤で全滅してしまうことだろう。信頼し依拠していたものが不意になくなってしまい、空虚感におそわれた子どももいたのではないか。

 

 ウルトラマンレオ』は前期(1-13話)と後期(14-51話)で主題歌が変えられたという珍しいケースである。しかも前期は歌詞の1番でなく2番がオープニングで使われている。ネットを見ると、歌詞の1番が使われなかったのは〈地球の最後が 来るという〉というフレーズを子どもが怖がるからという書き込みがあるが、詳しい理由はわからない。

 前期と後期で歌が変わった理由は、番組の視聴率が悪くテコ入れで路線変更にあわせて、暗く不吉な歌詞を明るい歌詞の歌に変えたと言われている。後期で使われた歌は敵に立ち向かうレオが主役になった歌詞になっている。ただし、「当初はこの曲が主題歌になる予定だった」(Wikipedia)ようなのでややこしい。

 ヤフー知恵袋には、次のような書き込みがあった。

「歌が変更されたのは視聴率うんぬんよりも、放映当時の1974年に伊豆で起こった地震によって死者が出たそうです。この地震の被害者に対して「突然炎が吹き上がり」や「突然嵐が巻き起こり」という歌詞が災害を彷彿とさせるのではないかという配慮の意味もこめて、変更したのだそうです。当時の番組の書籍に記載してありました。」

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11161382416

 実際、1974年5月9日に伊豆半島南端で震度5地震があり、山が崩れ、死者30人、負傷者102人、家屋の全半壊は300棟以上という被害があった。

https://www2.nhk.or.jp/archives/311shogen/disaster_records/detail.cgi?das_id=D0010060218_00000

 終末ブームに便乗した作風だったが、子どもには合わず、早々に路線変更を余儀なくさせられたようである。

 

 世相はさておき、歌詞じたいの作りを見てみたい。まず目につくのは、反復の形式である。〈突然…り〉〈何か…る時〉〈忘れちゃいけない〉などが繰り返されている。繰り返すことで話題を深めていくパターンを持っている。

 この〈何かの予言が あたる時/何かが終りを 告げる時〉の〈何か〉は「ウルトラマンタロウ」でも〈何かが地球に おきるとき〉と使われていた。

 「タロウ」との共通点では、ほかにも、〈腕のバッチが かがやいて〉という「タロウ」の歌詞は、「レオ」では〈獅子の瞳が輝いて〉になっている。〈獅子の瞳〉というのは、レオに変身するためのアイテムである指輪のことで、獅子の顔の造形になっており、変身時にそれが光る。レオは「獅子座L77星」から来た宇宙人だから獅子なのである。また、〈タロウ タロウ タロウ〉〈レオ レオ レオ レオ レオ〉という名前の反復も同じである。

 ついでに言うと、1番の歌詞には〈誰かが起たねば ならぬ時/誰かが行かねば ならぬ時〉とあるが、この〈誰かば…ねばならぬ〉は、『レオ』の半年後に放送された『宇宙戦艦ヤマト』主題歌の2番の歌詞〈誰かがこれを やらねばならぬ〉に流用されているように思える(『ヤマト』の作詞も阿久悠である。)『レオ』と同時期の『ヤマト』もまた終末思想を背景にした作品であることが興味深い。

 

 『レオ』の後期の主題歌についてもふれておく。

 

 「戦え! ウルトラマンレオ

  レオ! ウルトラマン
  レオ! 君の番!
  レオ! たたかえ!

  レオはそこまで来ている
  レオは怒りに燃えてる
  赤い炎をくぐって
  やがてあらわれる
  平和をこわす敵は
  この手で叩き伏せる
  それが レオの使命
  それが レオの願い
  獅子の瞳が燃えて
  嵐たちまち起こり
  たたかう たたかう
  ウルトラマン レオ

 前期の歌が、後期はこの歌に差し替えられたということだが、同時に作られた歌なのであろう。歌詞には共通している言葉がある。(前期/後期)

「燃えろレオ/レオは怒りに燃えてる」「突然炎が ふきあがり/赤い炎をくぐって」「この平和を こわしちゃいけない/平和をこわす敵」「獅子の瞳が輝いて/獅子の瞳が燃えて」「突然あらしが まきおこり/嵐たちまち起こり」

 だが、両者の印象はかなり異なる。前期の歌は、天変地異で地球環境が悪化し人間に未来はない状況で、それでも諦めず立ち上がるという感じの歌だったが、後期の歌には、地球レベルの危機をもたらす災害のイメージはなく、敵の姿は〈平和をこわす敵〉へと形をとり、その敵をやっつけるレオの力強さが焦点になっている。いくら超人レオでも地球レベルの災害には太刀打ちできないが、敵として具体的な姿をとってくれれば〈この手で叩き伏せる〉ことができる。

 前期の歌で、終末へと向かう予兆を示す〈突然あらしが まきおこり/突然炎が ふきあがり〉とある〈あらし〉と〈炎〉は、後期の歌では、〈赤い炎をくぐって やがてあらわれる〉〈獅子の瞳が燃えて 嵐たちまち起こり〉というように、レオが登場する際の威勢のよさを表現する舞台装置へと変換されている。

 これは『仮面ライダー』のエンディング「仮面ライダーのうた」も同じである。〈嵐とともに やってきた/誰だ! 誰だ! 悪をけちらす嵐の男〉とあるように、仮面ライダーも登場するときに嵐を呼び起こす。嵐は激烈さの比喩であろう。石原裕次郎嵐を呼ぶ男」の〈俺らがおこれば嵐を呼ぶぜ〉の伝統に連なる。裕次郎は怒っているし、ライダーもまた〈怒りをこめて ぶちあたれ/ショッカーどもを ぶちのめせ〉と怒っている。

 後期の歌はレオの頼もしさがクローズアップされる。ヒーローソングでは、私たちを助けてくれる正義の味方が今どこにいるかということが重要である。私たちが助けを求めた時にすぐ駆けつけてくれなければ意味がない。

 東京一が作詞した「帰ってきたウルトラマン」では、怪獣が暴れている街にウルトラマンが急行して、〈燃える街に あとわずか〉だという。ここにはピンチに間に合うかという緊迫感がある。同じく「ウルトラマンエース」では〈遠く輝く 夜空の星に/ぼくらの願いが とどくとき/銀河連峰 はるかにこえて/光とともに やってくる〉とあり、遥か彼方から光の速さで駆けつけてくれるという。願いはすぐに聞き届けられたのである。

 阿久悠作詞の「ウルトラマンタロウ」になると〈ウルトラの 父がいる/ウルトラの 母がいる/そしてタロウが ここにいる〉と、タロウはもう身近に来ていて、守りのスタンバイができている。

 ではレオはどうかというと、「戦え! ウルトラマンレオ」では〈レオはそこまで来ている…赤い炎をくぐって/やがてあらわれる〉という。すぐそこまで来ているという途中経過な感じが面白い。来る途中、あるいは待っているときのドキドキした感じが表現されている。例えば100km離れたところからレオが飛来するとして、姿が見えるか見えないかのあと1kmくらいが一番まちどおしいものである。ここは「帰マン」の〈燃える街に あとわずか〉という歌詞にヒントを得たのかもしれない。「帰マン」はウルトラマンの視点だが、「戦レオ」は待つ側の視点である。

 また、「エース」の〈遠く輝く 夜空の星に/ぼくらの願いが とどくとき/銀河連峰 はるかにこえて/光とともに やってくる〉に対応するかのように、〈レオを呼ぶ声響けば レオは今すぐ答える/空の果てからマッハで すぐにとんで来る〉とある。助けを求めたらすぐに駆けつけてくれることが安心感を与えてくれるのだ。

 『ザ•ウルトラマン』はウルトラシリーズの中では異色のアニメ作品である。1979年の放送当時はアニメブームで『機動戦士ガンダム』と同時期の放送である。アニメ製作は日本サンライズで、これも『ガンダム』と同じである。

 

 「ザ•ウルトラマン

  誰もが知ってる ウルトラの戦士
  光か はやてか 音か
  今 燃える
  緑の地球を 汚(けが)したやつらは
  決して許しておけないと
  ウルトラマン

 

 テレビドラマ『月光仮面』(1958年放送開始)はその後のヒーローものの基礎を作った。川内康範が作詞した「月光仮面月光仮面は誰でしょう~」の歌詞は〈どこの誰かは 知らないけれど/誰もがみんな 知っている〉〈疾風のように 現われて/疾風のように 去って行く〉というヒネリのあるものだ。以後、正義のヒーローは、正体を知られないことと、現場に早く駆けつけて用件が済んだらすぐさまたち去ることが特徴になっていく。もちろん『月光仮面』は神出鬼没の覆面ヒーロー『鞍馬天狗』を現代風に置き換えたものであるが、言葉で「誰にも知られない、疾風のように現れる」と歌われることで、それがヒーローの性質として意識されていく。アメコミではマスクをかぶり正体を隠すヒーローもいるが、そういうことに頓着しないヒーローも多い。スーパーマンに本当に韜晦志向があるか疑わしい。

 阿久悠はアニメ作品では『デビルマン』(1972年)の作詞をしている。エンディングの「今日もどこかでデビルマン」は、〈誰も知らない 知られちゃいけない/デビルマンが 誰なのか〉という歌詞である。これは「月光仮面」の〈どこの誰かは 知らない〉という一般市民の視点をヒーロー側に反転させたものだ。

 「ザ•ウルトラマン」では、〈誰もが知ってる ウルトラの戦士〉と歌われる。これは「月光仮面」の〈誰もがみんな 知っている〉から来ているし、「ザ•ウルトラマン」の〈光か はやてか 音か〉というのも「月光仮面」の〈疾風のように 現われて〉から来ているといえるだろう。『レオ』の後期の主題歌〈空の果てからマッハで/すぐにとんで来る〉というのもそうだろう。昭和12年生まれの阿久悠にとって、知っているヒーローソングといえば昭和33年にテレビ放送された『月光仮面』だったのだろう。阿久悠が就職した先である宣弘社が当時『月光仮面』を制作していたというつながりもある。

 

 昔のアニメや特撮には「悪を許さない」とか「怒りに燃えて」といったアツい歌詞が多かった。感情が激することは「燃える」と比喩表現されるが、「レオ」も「ザ・ウルトラマン」も燃えている。前期レオでは〈燃えろ レオ 燃えろよ〉、後期レオでは〈レオは怒りに燃えてる〉、「ザ・ウルトラマン」では〈光か はやてか 音か/今 燃える〉とある。『レオ』放送の直前にカンフー映画燃えよドラゴン』が公開されて一世を風靡していたから、燃えやすくはなっていたのだろう。

 「燃えること」と近似なのが「怒ること」である。ゴレンジャーもガンダムも「怒りに燃え」ている。

・真っ赤な血潮 怒りに燃えて(「進め! ゴレンジャー」)
・まだ 怒りに燃える 闘志があるなら(「翔べ! ガンダム」)
 ヒーローは正義の名のもとに怒りっぽかったのである。「ザ•ウルトラマン」も怒っていて、〈緑の地球を 汚(けが)したやつらは/決して許しておけないと〉と言っている。「レオ」も、先に引用したとおり〈レオは怒りに燃えてる〉と怒っている。

 

 「ザ•ウルトラマン」の歌詞はいっけんただのヒーローソングにありがちな言葉を羅列しただけのように思えるが、独特の表現が見受けられる。ヒーローソングでは、正義のために戦うのだというフレーズが決まり文句になっている。だが「ザ•ウルトラマン」は正義のために戦うとは言わない。1番では〈緑の地球を 汚(けが)したやつらは/決して許しておけない〉、2番では〈この世のルールを 乱したやつらは/宇宙の果てまで運び去る〉と言うのである。悪は正義を踏みにじるからではなく、〈緑の地球を 汚(けが)

した〉とか〈この世のルールを 乱した〉ことにある。

 地球を守るという歌詞はヒーローソングにはよくある。〈地球の平和を まもるため/三つのしもべに 命令だ〉と「バビル2世」でも歌っているが、敵が宇宙人など地球外の存在かどうかということは関係ない。「バビル2世」では世界の各地でグローバルな戦いをしている。「ガッチャマンの歌」でも〈地球は一つ〉だという。ガッチャマンはゴッドフェニックスに乗って地球規模の戦いをしている。では仮面ライダーはどうだろう。ライダーが戦うのは日本各地である。さすがに地球云々は言えない。だが日本を守るとも言いにくい。そこで無意識に採用されたのが〈世界の平和を守るため〉(「レッツゴー!! ライダーキック」)である。〈地球〉と〈世界〉の違いは、〈世界〉のほうは思弁的で、その範囲が融通無礙だということにある。ある人にとって想像の及ぶ範囲が、その人がその一部である〈世界〉なので、身の回りだけが〈世界〉の人もいるし、地球の裏側まで〈世界〉である人もいる。

 「ザ•ウルトラマン」では〈緑の地球を 汚(けが)したやつら〉が許せない敵である。私たちが生きている土台である地球は何より重要である。(この場合の地球というのは惑星というより、人間の生存環境である。)正義という概念は相対的なものであるから自分の正義を主張するのはあやういところがあるが、地球という基本的な環境を守ろうというなら反対する人はいないだろう。ヒーローソングで、守る対象が正義から地球へ変遷していった過程を調べれば面白いかもしれない。

 「ザ•ウルトラマン」で面白いのは〈この世のルールを 乱したやつらは/宇宙の果てまで運び去る〉という歌詞にある。「正義」というワードを拒否し迂回した表現になっている。〈この世のルール〉というのは人間どうしの取り決めである。ウルトラマンの相手は怪獣や宇宙人なので、人間どうしが作る〈この世〉を共有していない。〈この世のルールを 乱したやつら〉というのではスケールが小さすぎる。人間レベルの犯罪である。だが、あえて〈この世のルールを 乱したやつら〉という遠慮がちな表現にしたのは「正義」という硬直した言葉を使いたくなかったからだろう。また、悪いやつらをやっつけると直接的な表現ではなく、〈宇宙の果てまで運び去る〉と迂遠な言い方をするのもどこかポリティカル・コレクトネス的な言い換えのような雰囲気がある。「戦え! ウルトラマンレオ」の〈レオは怒りに燃えてる…平和をこわす敵は/この手で叩き伏せる〉という荒々しさに比べたら、ずいぶんお行儀がいい。〈平和を守る〉という歌詞はよくあるが、「レオ」のように〈平和をこわす敵は/この手で叩き伏せる〉というのは、ちっとも平和的な解決手段ではない。〈宇宙の果てまで運び去る〉と言い換えたほうが政治的に正しい。ただ、字義どおりだとすると残酷ではあるし、手間がかかりすぎるので比喩なのだろうけど。

「帰ってきたウルトラマン」の歌の謎を解く

 帰ってきたウルトラマン』の謎というと、多くの人は、初代のウルトラマンとは別のウルトラマンなのだから、「帰ってきた」というのはおかしいではないかと思うだろう。定番の疑問である。

 これについてはすでに答えが出ている。もともと『ウルトラマン』の続編として企画されたから「帰ってきた」とついたのである。「帰ってきた」という言い方は、当時テレビドラマ『帰って来た用心棒』やフォークソング帰って来たヨッパライ」があったので、「ウルトラマンも帰ってこさせたらどうかね」と円谷英二社長が言ったからである(白石雅彦『「帰ってきたウルトラマン」の復活』双葉社、2021年、54頁より孫引き)。だが、企画を練っていく過程で続編色は薄まり独自性が強くなっていった。変身の際はアイテムを使わないし、主人公の雰囲気も違うし、体の赤いデザインも違いをおおきくした。

 「帰ってきた」とはいっても、前作と同一の個体であるウルトラマンが帰ってきたわけではなく、外見はよく似ているが、人格としては全く別の人格である。両者は、首周りと大腿のあたりの模様が異なっており、新マンは、赤い模様の周囲をもう一本の赤い線が囲んでいる。これはゾフィーのデザインを応用したものだろう(MATの隊員服では、二代目隊長だけ胸の黒のV字模様が二重線になっているところにもデザインの共通性が認められる)。視聴者は、この二人のウルトラマンの関係について最初は混乱するが、異なる存在だということがなんとなく腑に落ちてくる(第38話で初代ウルトラマンと共演したのは決定的だ)。そしてそのときから、ウルトラマンというのは特定の個体を指す呼称ではなく、レベルが上のまとまりを指すものという認識ができてくる。

 初代ウルトラマンに対し、この帰ってきたウルトラマンウルトラマン・ジャックと呼んで差別化することがある。しかし本編の中では使われていないので、本稿では専ら「新マン」と呼ぶことにする。

 私の考えでは、帰ってくるなら、ゾフィーを帰ってこさせればよかった。新マンとゾフィーのデザインは似ている。だがゾフィーは地球に対してあまりよい感情を抱いていないようだ。『シン・ウルトラマン』では地球を滅ぼそうとさえする。だが地球人につれないウルトラマンというのも面白かったかもしれない。

 ゾフィー以下、ウルトラ6兄弟という設定がある。血縁関係はないが宇宙警備隊の精鋭として絆が強いので義兄弟として扱われる。宇宙は広いが、この兄弟たちはなぜか全員地球に来ている。地球はどうもそこで試練を受ける通過儀礼のような場所になっているようだ(ゾフィーは除く)。地球とウルトラマンの故郷であるM78星雲とははるか離れているはずだが、ウルトラマンゼットンにやられたときゾフィーは瞬時に駆けつけているし、その後も兄弟たちは仲間がピンチになると登場する。常に地球の動向にアンテナを張っていて、ワープして駆けつけるのだろう。

 

 帰ってきたウルトラマン』は今から50年前、1971年から72年にかけて放送された。私が6歳のときで、リアルタイムで見た最初のウルトラマンである。私が何かで入院しているとき、病院のベッドで読んでいた雑誌(学年誌?)に、『帰ってきたウルトラマン』が放送されると小さなニュース記事が出ていたのを覚えている。

 印象に残っているエピソードは、たいして強そうでない怪獣にウルトラマンが負けた第4話、ツインテールが出てきた第5-6話、東京が2大怪獣による津波に襲われる第13-14話、ウルトラブレスレットをもらった第18話、奇妙な印象が残った怪獣使いと少年の第33話、坂田兄弟が殺された第37-38話である。ウルトラブレスレットを使うようになったら何でもありになったのでつまらなくなった。

 本稿では『帰ってきたウルトラマン』主題歌の歌詞に焦点をあてる。主題歌のタイトルは「帰ってきたウルトラマン」、作詞は東京一(あずま きょういち)。プロデューサー円谷一つぶらや はじめ)のペンネームである。

 東京一は、1966~1973年のあいだに、『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『マイティジャック』『ミラーマン』『トリプルファイター』『緊急指令10-4・10-10』『ファイヤーマン』といった円谷作品の主題歌、挿入歌を作詞している。

 本作の歌詞については別稿「ウルトラマンの歌」でもふれる。本稿では、作詞家としての東京一の独特のセンスあふれる言い回しを中心に述べる。

 以下は歌詞を読んで推察したことを書いていく。参考にしたのは、前掲の書籍(『「帰ってきたウルトラマン」の復活』)のほか、ウィキペディアとユーチューブであり、誰でも参照できる情報を元に書いている。それでも意外な発見はあるはずである。

 ちなみに前掲書には歌詞についての言及は一箇所しかない。「ツブちゃんが書いた主題歌の1行目が、ある意味では僕のテーマだったわけですよ。(中略)それはM78星雲じゃない、もっと身近な、君にだってその気になればウルトラの星は見えるんだよということです」(プロデューサー橋本洋二、97頁)。これはウルトラマンが体現している正義や勇気を視聴者である子どもたちにも我が事として感じ取ってもらいたいということだろう。

 本作では視聴者の子どもと作品世界をつなぐ役として坂田次郎という少年が存在し、「次郎くん」と呼ばれる。一方、主役の郷秀樹を演じるのは団次郎で、オープニングクレジットで名前が表示される。私は子どものとき、この「次郎かさなり」に混乱させられた。また、少年の兄を演じるのが岸田森で、MATには岸田隊員がいる。こうした混乱を招くような名付けをどうしてしたのだろうか。

 ネットを見ると、ヤフー知恵袋などに本作の歌詞についていくつかの疑問と回答が見受けられる。本稿とも重なる部分があるが、常識の範囲内の回答なので、いちいち言及しない。

 まず、歌詞を掲げておく。

 

 「帰ってきたウルトラマン」作詞、東 京一

  君にも見える ウルトラの星
  遠くはなれて 地球にひとり
  怪獣退治に 使命をかけて
  燃える街に あとわずか
  とどろく叫びを 耳にして
  帰ってきたぞ 帰ってきたぞ
  ウルトラマン

  十字を組んで 狙った敵は
  必殺わざの 贈りもの
  大地を飛んで 流星パンチ
  近くに立って ウルトラチョップ
  凶悪怪獣たおすため
  帰ってきたぞ 帰ってきたぞ
  ウルトラマン

  炎の中に くずれる怪獣
  戦いすんで 朝がくる
  はるかかなたに 輝く星は
  あれがあれが 故郷だ
  正義と平和を 守るため
  帰ってきたぞ 帰ってきたぞ
  ウルトラマン

 

 最初に言っておくと、私は、この歌詞は、東京一が作詞したものの中では最も出来のよいものであると思う。以下、1番から順に見ていくことにする。

 

〈君にも見える ウルトラの星〉

 出だしである。この〈君にも〉というのは、テレビの視聴者である子どもたちということであろう。最初にまず子どもたちに呼びかけることで、作品世界の中にグッと引き入れようとする。テレビの壁を越えようとする巻き込みタイプの歌詞である。実際、親にどれが〈ウルトラの星〉なのか聞いて夜空を見上げた子どもたちも少なくなかったのではないか。

 歌詞の文脈で考えると、〈君にも〉というのは、〈君〉の他にすでに〈ウルトラの星〉を見ている人がいることを想定してそう言っていることになる。それは誰なのかというと、〈ウルトラの星〉を〈ウルトラの星〉と知って見ている人であるから、地球にやって来たウルトラマンということになる。

 〈君にも見える〉ということは、「誰にも見える」ということとは違う。誰にでも見えるのなら、あえて〈君にも見える〉とは言うまい。見えない人もいるのであり、選ばれた〈君〉にだけ見えるということである。テレビの前にいる子どもたちは一律にそう呼びかけられているが、では、そのうち誰が特別に選ばれているのか。それは子どもたち次第である。ウルトラマンと同じものが見えるということは、ウルトラマンと仲間であるということだ。自分はウルトラマンの仲間になる資格があると思えば見えるはずだし、そうでなければ見えるように努力するだろう。

 〈ウルトラの星〉について考えると、3番の歌詞では、〈はるかかなたに 輝く星は/あれがあれが 故郷だ〉と歌われていて、ウルトラマンが郷愁をもって〈ウルトラの星〉を見ていることがわかる。この歌詞の語り手はウルトラマン本人か、近い立場からその心情を理解する者であるようだ。他のウルトラシリーズの歌詞が、外からウルトラマンに戦えとはやしたてるものであるのに比べ、「帰ってきたウルトラマン」の歌詞は、ウルトラマンの内面をくんだものになっており、そこには孤独と郷愁がただよう、しっとりした陰りのあるものになっている。この歌がウルトラシリーズには珍しく、ウルトラマン=郷秀樹役の団次郎が歌っているのも故なしとしない。

 

〈遠くはなれて 地球にひとり〉

 〈君にも見える ウルトラの星〉というのは、あんなに遠くから僕(ウルトラマン)はやって来たんだよということでもある。そのことは、続く歌詞〈遠くはなれて 地球にひとり〉から遡って解釈される。〈遠くはなれて 地球にひとり〉というのは、〈ウルトラの星〉を〈遠くはなれて〉ということである。

 〈遠くはなれて 地球にひとり〉という文は、文法的に間違っているわけではないが、どこか座りが悪い。〈遠くはなれた 地球にひとり〉としたほうがしっくりくる。〈遠くはなれて〉という言い方では、離れるという行為の過程が取り立てられ、その行為の結果〈地球にひとり〉という事態がもたらされたということになる。ここには動きと時間の流れが強くでている。〈遠くはなれた 地球にひとり〉と名詞修飾節にしても時間の流れがあるが、結果から見た言い方になり、静的な感じになる。書かれた文字として見るならば、〈遠くはなれた 地球にひとり〉のほうがしっかりと落ち着いた感じになる。時間の流れとともに言葉が耳を通過していく歌としては、〈遠くはなれて〉という動きのある歌詞のほうがいいかもしれない。

 

〈怪獣退治に 使命をかけて〉

 作詞者による独特の言いまわしが、この〈使命をかけて〉である。〈使命〉と〈かけて〉のつながりは不自然なコロケーションである。〈使命〉という語を使うなら、〈怪獣退治の使命を受けて〉とか〈使命を帯びて〉、〈使命に燃えて〉といったところになるであろう。あるいは逆に〈かけて〉を活かすなら、〈怪獣退治に 命をかけて〉といったところか。作詞者は「使命を受ける」「命をかける」を混同して用いたのかもしれない。

 では、なぜ混同したのか、あるいは混同させたのか。それはまず、〈使命〉という語を使いたかったからだろう。なぜ〈使命〉という語を使いたかったかというと、故郷を離れて戦う理由が必要だったからである。〈あれがあれが 故郷だ〉と思いを募らせていながら戻れない故郷への斥力が必要なのだ。それが〈使命〉である。故郷を懐かしむウルトラマンを故郷から引き離す力が〈使命〉である。

 次に、なぜ〈使命をかけて〉と「かける」を使ったのか。使命というのは、最後まで遂行することが強く望まれる任務であり、その威光はそれを授けた人が発している。しかし、ここで〈使命を受けて〉としてしまうと、他に誰か使命を与えた人がいるということになってしまい、その使命を与えたのは誰かということにもふれないわけにはいかなくなる。だが、そういう設定のドラマではないため、そこは曖昧にしておきたい。そのため、〈使命をかけて〉と、〈使命〉の起源を意識させず、自分で選択したもののようにしたのである。〈とどろく叫びを 耳にして/帰ってきたぞ〉と言っているように、ウルトラマンは他人(地球人)を助けるために、自らすすんで戦いに身を投じている。怪獣をたおすことを自分の使命とすることを「自分で決めた」のである。いわば「自分で自分に使命を与えた」のである。その任務は崇高なので、遂行すべき使命になり得たのである。

 宇宙戦艦ヤマト』の主題歌では、〈地球を救う 使命を帯びて〉と歌われる。ヤマトに使命を与えたのは地球防衛軍であり、ひいては人類全員である。地球を救う目的のためにヤマトは建造されたのだから当然である。一方、ウルトラマンが地球に来たのは偶然であり、怪獣との戦いはボランティアである。もしウルトラマンが誰かの命令で戦っているのだとしたらウルトラマンは兵隊の一人にすぎなくなり、人類のウルトラマンへの感謝の念は薄くなるだろう。ウルトラマンが地球人に義理もないのに自主的に戦ってくれていると思うから人は応援するのである。

 〈使命を受けて〉のように通常のわかりやすい用法はウルトラマンの存在を矮小化する。そのため、少しずらして〈使命をかけて〉にしたのではないか。これなら、全力で取り組んでいるという意志が伝わってくるし、ウルトラマンの利他行に感謝したくなる。

 

〈燃える街に あとわずか〉

 まるで現場まで急ぐ消防隊員のようであるが、ウルトラマンは郷秀樹が怪獣と戦ってピンチになると変身するので、たいてい現地にいきなり現れる。歌詞では離れたところで変身して飛行して駆けつける感じである。無理に解釈すれば、郷秀樹がマットアローとかに乗って現地に向かうイメージであろうか。〈あとわずか〉には切迫感がある。いずれにしても、この歌詞は動きがあるところがいい。ドラマ部分にはなさそうなところも、ドラマの説明ではない歌詞独自の世界観を形作っていていい。

 

〈とどろく叫びを 耳にして〉

 〈とどろく叫び〉のことを、私はずっと〈燃える街〉の住人たちの悲鳴だと思っていた。〈燃える街〉では、建物が壊れる音と住民の泣き叫ぶ声とが入り混じっている。ウルトラマン観音菩薩のように世界を見渡し、人々のうめく声を漏らさず聴き取り、たとえ遠くても駆けつけて救済する、そう思っていた。

 だが、それにしては〈とどろく叫び〉というのはおかしな言い方だと思った。〈とどろく〉というのは大地を揺るがすような、あるいは広範囲に空気を振動させる低く響く轟音である。たんに大きな音ということではなく、大砲とか雷とか地鳴りとか、そういった腹の底に響くような音が〈とどろく〉である。悲鳴は高く響くので、広範囲に浸透する低音ではない。〈とどろく〉とはイメージが違う。だからこれは、東京一の独特な言語感覚による歌詞なのだろうと思っていた。

 しかし、本稿を書くにあたり、他の東京一の歌詞を読んだら、これは人間の悲鳴ではなく、怪獣の叫びだということがわかった。『ウルトラQ』の「大怪獣の歌」では〈怪獣 怪獣 大怪獣/響けビルの谷間に/叫べ夜のハイウェイ〉となっている(これは半年前まで放送していた「鉄人28号」の主題歌〈ビルの街にガオー/夜のハイウエーにガオー〉によく似ている)。また、同作の「ウルトラマーチ」では、〈山をゆさぶるゴメスの叫び〉〈なだれと共に ペギラの叫び〉とあり、『ウルトラマン』の「特捜隊の歌」では、〈怪獣 怪獣 怪獣/耳をつんざく このさけび〉とあって、怪獣の存在と〈叫び〉声はセットになっているのである。

 とすると、この〈とどろく叫び〉というのも街を破壊している怪獣の〈叫び〉なのだろう。たしかに怪獣なら轟くような大音響を発しそうだ。ウルトラマンは人々の悲鳴を聞いて駆けつけたのではなく、怪獣の雄叫びに反応して駆けつけたことになる。ウルトラマンは菩薩のような慈悲で私たちを守ってくれるというよりは、怪獣の存在を目印に地球に来ているようなのだ。そう思うとちょっと残念だったが、子どものとき以来の勘違いに気づけて軽く興奮した。

 

 2番の歌詞に移る。テレビでは1番しか流れないので、2番の歌詞を知らない人は多いだろう。だが歌詞を読むと、1番、2番、3番とつなげて解釈できるように書かれている。

 2番の歌詞をもう一度掲げておく。

 

  十字を組んで 狙った敵は
  必殺わざの 贈りもの
  大地を飛んで 流星パンチ
  近くに立って ウルトラチョップ
  凶悪怪獣たおすため
  帰ってきたぞ 帰ってきたぞ
  ウルトラマン

 

〈十字を組んで 狙った敵は/必殺わざの 贈りもの〉

 いうまでもなくこれはスペシウム光線のことであるが、〈十字を組んで 狙〉うという言い方は、ライフル銃のスコープなど十字の線が入っているものを想像させ、十字を組むという仕草が、狙うことの換喩として働いている。

 興味深いのは、〈必殺わざの 贈りもの〉という言い方である。〈贈りもの〉というのは本来相手が喜ぶものを選ぶはずだから、必殺技を〈贈りもの〉にするのはシニカルな言い方になる。これは「お見舞い」と同じで、病人を慰めるために渡すものが「お見舞い」であるが、「パンチをお見舞いするぜ」などと相手を嫌な目にあわせるという反語として使われるのと同じである。そういうシニカルな言い方を子ども番組の主題歌で用いるというのが東京一らしい作詞作法である。あるべき緊張感を脱構築させる用語法である。

 また、〈十字を組んで 狙った敵は/必殺わざの 贈りもの〉というのは文法的にちょっとヘンで、これは〈十字を組んで 狙った敵に〉が正確であろう。ただ、ここは〈十字を組んで 狙った敵は〉どうなってしまうのかというと〈必殺わざ〉の餌食になるということであるから、省略した言い方だとも考えられる。歌の場合、あまり正確にわかりやすいものにしてしまうと、歌詞がこじんまりまとまったものになってしまうということもある。あえて不明瞭で曖昧にしておくというのも広がりをもたせるやり方といえる。

 

〈大地を飛んで 流星パンチ/近くに立って ウルトラチョップ〉

 これはヒーローものの歌詞によくあるパターンで、必殺技を並べたということであるが、スペシウム光線や八つ裂き光輪ではなく、パンチやチョップに流星だのウルトラだのをつけただけで、プロレス技のような安直さがある。聞いている子どもにしてみれば、なぜ必殺技の名前にしないのかもどかしいだろう。

 脱線するが、ヒーローものの主題歌は必殺技の名称を入れ込むというパターンがある。そのとき、どの必殺技を入れるかで作詞家の本気度がわかると思っている。例えば『マジンガーZ』の主題歌では、「ロケットパンチ、ブレストファイヤー、ミサイルパンチ、ルストハリケーン」が出てくるが、もっともよく使う「光子力ビーム」が出てこない。ルストハリケーンを入れるなら「光子力ビーム」を入れてよ、と子ども心に思ったものだ。

 東京一作詞の「ウルトラセブンのうた」には「ウルトラビーム」が出てくる。「ウルトラセブンの技 人気ランキング」というのがネット投票であって(https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/545172/)、ダントツ1位でアイスラッガー、2位ワイドショット、3位エメリウム光線である。エメリウム光線というのは額から出る光線であるが、これが別名「ウルトラビーム」らしい。別名? 別名なんてあるのかと思うが、歌詞に「ウルトラビーム」という意味不明の技があるから、たぶんこのことだろうと同定したのだろう。〈ウルトラビームでストライク!〉という歌詞は〈アイスラッガーでスライス!〉とでもすればよかった。

 主題歌は、まだ番組がはじまる前に作られるので、作詞者に渡る情報も少ない。何がメインの武器になるのかもわからないかもしれない。だが、そうした制約のもとに作られた歌詞ではあっても、番組が終わるまで(あるいは途中まで)流されるわけだから、その間、聞き手はもどかしい思いを抱き続けることになる。

 話を『帰ってきたウルトラマン』に戻す。

 そもそもウルトラマンは、仮面ライダーのように技の名前を叫ぶわけではないから、その技が何という名前なのかということは、テレビ以外から情報を得るしかない。最終回でゼットンを投げ飛ばすときは「ウルトラハリケーン」と叫んでいたが、基本的に技の名前を叫ばず、そのことは技の種類を固定しないことにつながった。スペシウム光線やその他の大技は反復的に使用されるが、それ以外は、状況に応じていろいろな技を繰り出せるのである。マジンガーZのようなロボットなら装備は限られているので武器は限定的だが、ウルトラマンは宇宙人なので超能力で技はいろいろ出せるのである。

 初代ウルトラマンからそうだが、とにかく困ったときはウルトラマンは回転する。垂直軸のスピンをしたり、飛行形態で臍を中心にプロペラ回転したりする。回転すればたいていのピンチは切り抜けられる。回転というのは全身を使ってするから、これ以上ない大技を繰り出しているように見える。回転は、ウルトラマンに異なる次元の力をもたらす。『ちびくろ・さんぼ』で木の周りをぐるぐる回ってトラがバターになるように、回転は見るものの視覚を混乱させることで、存在レベルで質の変化をもたらす。

 ウルトラブレスレットも万能の武器である。万能すぎて番組をつまらなくしている。ブレスレットは様々に形を変え、槍にも鞭にも盾にもナイフにもなる。なかでも、ウルトラマンが冷凍されて手足首胴がバラバラになったとき、ブレスレットがピカッと光って体がもとに戻ってしまったのには驚いた(第40話)。

 歌詞に戻る。

 〈大地を飛んで 流星パンチ/近くに立って ウルトラチョップ〉という歌詞である。動きをとらえている。たんに技の名前を伝えるだけではなく、そのときのウルトラマンの身体の動きを描写している。〈大地を飛んで〉とダイナミックに動き、〈近くに立って〉と間合いを詰める。

 ただ、ここで違和感があるのは、〈大地を飛んで 流星パンチ〉である。大地を飛ぶのは足によってであるし、身体の大きな移動をともなうので、体全体を使う足技となるのがふさわしいだろう。実際、〈近くに立って ウルトラチョップ〉とあるように、元来、パンチやチョップは接近戦で使うものである。

 ここは〈大地を飛んで 流星キック〉となるべきではないだろうか。実際、第4話は「必殺! 流星キック」というサブタイトルで、宙空に飛び上がって四足怪獣に上からキックをお見舞いしてツノを折っている。『帰ってきたウルトラマン』には別に「戦え! ウルトラマン」という歌があって(主題歌の候補だった)、歌詞が共通している部分が多くあり、当該部分は〈大地を飛んで キック一発〉とキックになっている。

 「流星キック」のほかに「ウルトラキック」という技もある。第27話では郷秀樹がキックボクサーにウルトラキックを伝授している。またこの回には沢村忠が出演している。TBSで『帰ってきたウルトラマン』の放送時間帯の前番組は、キックボクサー沢村忠を主人公としたアニメ『キックの鬼』であった。沢村の決め技は「真空飛び膝蹴り」で、何が真空なのかわからぬまま、子どものころこれもよく真似した。飛び膝蹴りは脚を伸ばさないので普通のキックとは違うが、蹴り技ではある。

 子どもたちにキックが流行しているときに放送されたウルトラマンである。そういうキックブームのおりであるにもかかわらず、しかも文脈上キックがふさわしいものであるにもかかわらず〈大地を飛んで 流星パンチ/近くに立って ウルトラチョップ〉と、歌詞でキックを使わないのは、それをあえて避けたのではないかと思われる。もしかしたら、ウルトラマンのスーツを着て、キックボクサーのように派手に蹴り上げるキックを撃つのは無理だろうと判断してキックという語を使わなかったのかもしれない。同時期放送の『仮面ライダー』がキックを必殺技に取り入れたのとは対照的である。

 ちなみに、〈大地を飛んで 流星パンチ〉とあるところの、この〈大地云々〉というのも東京一の好きな言い回しである。「進め! ウルトラマン」では〈大地をけって空を飛ぶ/それ行け それ行け/ウルトラマン〉、「ウルトラ警備隊のうた」では〈ウルトラカーで大地をけって/走れ 走れ/地球を守る警備隊〉、「ウルトラマンエース」では〈大地をけって すばやいジャンプ〉などとある。

 これらを見ると、大地をけるのは、空を飛んだりジャンプしたりするときのようである。「帰ってきたウルトラマン」では〈大地を飛んで〉とあるから、これはもうはっきりとジャンプして飛び上がっているということである。ちなみに『仮面ライダー』のエンディング「ライダーアクション」では、〈大地をけって ライダージャンプ〉と歌われる。『仮面ライダー』は『帰ってきたウルトラマン』と同時期に放送されていたライバル作品である。仮面ライダーはバッタなのでジャンプするのはわかる。しかしウルトラマンは空を飛べるのでジャンプするまでもなく空中に舞い上がれる。大地をけったりする必要は本来はない。

 こまかい指摘はこのあたりでやめておく。〈近くに立って ウルトラチョップ〉という歌詞で注目すべきは次のことである。手技なので〈近くに立〉つ必要がある。怪獣と接近して戦っている。怪獣と近距離にいるということが、歌詞の構造上、重要だ。

 これまでの歌詞を振り返ってみると、〈遠くはなれて 地球にひとり〉とあり、ウルトラマンは遠くから来ていると言っていた。それが〈燃える街に あとわずか〉となって、怪獣にだんだん近づいてくる。そしてついに怪獣の〈近くに立って ウルトラチョップ〉である。つまり、超遠距離、中距離、近距離という3段階の移動になっているのだ。歌詞では次第に怪獣という中心に接近してくる様を描いている。人々が待ち望んでいたウルトラマンが遠くからやって来た、もうすぐ来てくれそうだ、そして今は目の前で怪獣と対面している。そういうだんだん近づいて来て、今は目の前にいるんだという移動の感覚が歌われている。中心に怪獣がいて、その周辺で災害が起こり、MATやウルトラマンが集まってくるのである。

 

 歌詞の3番に移る。3番を再掲する。


  炎の中に くずれる怪獣
  戦いすんで 朝がくる
  はるかかなたに 輝く星は
  あれがあれが 故郷だ
  正義と平和を 守るため
  帰ってきたぞ 帰ってきたぞ
  ウルトラマン


〈炎の中に くずれる怪獣〉

 気になるのは〈くずれる怪獣〉という言い方である。ウルトラマンスペシウム光線などで怪獣をたおすと、たいてい爆発して粉々になる。怪獣が消滅し、戦いが終わったことをはっきりわかるようにするということだろう。これは『仮面ライダー』でも同じで、ライダーキックなどで息の根を止められると景気よく爆発する。怪人も生物なので、蹴とばされて爆発することはありえない(もしかしたら、重傷を負うような強い衝撃が加わると爆発するように改造されているかもしれない。治療するより殺してしまったほうが簡単である)。

 もし怪獣がたおされても爆発して消えなかったら、その巨大な死骸が残ることになり、あと片づけが大変である。映画の『パシフィック・リム』や『大怪獣のあとしまつ』ではそれが描かれている。爆発すれば、あと片づけの心配はしなくて済む(肉片は飛び散るが)。

 また、特に『帰ってきたウルトラマン』ではウルトラブレスレットの使用により、怪獣の手足や首、胴体が無残にも切断されて死ぬという場面が多くなった。切断というのも、これで最後だとはっきりわからせる手法である。切断されて爆発炎上することもある。つまり怪獣は、爆発するにせよ切断されるにせよ、凄惨な最後をとげるのである。それに対し〈くずれる怪獣〉という言い方は上品で、テレビの画面で伝えられるものとは異なるということである。

 歌詞では〈炎の中に くずれる怪獣〉とある。怪獣は生物ではあるが、ウルトラマンの攻撃により、自身で炎を吹き出して死ぬことがある。怪獣の最後を知らせる演出である。だが、歌詞の〈炎の中に〉というのは、ウルトラマンの攻撃により怪獣自身から炎が出ているというよりは、先に〈燃える街〉とあるから、その街の炎であろう。

 

〈戦いすんで 朝がくる〉

 時間の経過を意識したフレーズである。〈朝がくる〉というライブ感覚のある言い方もいい。先に、距離の移動を描いている歌詞だと指摘しておいたが、ここでは時間の経過も取り込んでいる。

 だが、疑問に思うのは、〈戦いすんで 朝がくる〉という言い方には、ある程度長い時間を戦ったという印象があり、戦いの長い夜が終わってようやく朝が来たと言っているのであるが、はて、ウルトラマンの活動時間は地球では3分のはずなのに、ここでは夜通し戦っていたかのように受け取れるのである。この〈朝〉を秩序の象徴、混沌の夜の終わりとしてとらえることもできるし、MATの戦いも含めて長い時間だったのだと解釈することもできる。だが私にはあまりそうは思えなくて、これは字義通りのことを言っているのだと思える。ただそうした場合、歌詞とドラマとにズレが生じるのであるが、そのズレは歌詞独自の味として受け止められると思う。例えば『ウルトラマン』をコミカライズしたときに、多かれ少なかれ漫画家の味が出るものだが、歌詞もそうした二次創作物のように楽しめるだろう。

 さて、〈戦いすんで 朝がくる〉というのだから、ここは薄闇のなかに朝日がさしてきて、その夜から朝への移行時期に佇むウルトラマンの姿を思い浮かべることになるだろう。実は新マンというのは、私の記憶の中では、夕焼けが似合うウルトラマンなのである。ツインテールやナックル星人にやられるときは夕日の中である。そもそもウルトラマンは太陽の光がエネルギーの源だから、日没が近い状態では太陽エネルギーも枯渇ぎみなのである。夕日が似合う新マンは、ウルトラマンの最盛期ではなく、その黄昏時のヒーローなのである。

 ちなみに、同じ作詞者による「ミラーマンの歌」には〈朝焼けの光の中に 立つ影は ミラーマン〉という歌詞がある。『ミラーマン』は『帰ってきたウルトラマン』と同じ年に放送された円谷プロの作品である。また、同歌詞の2番には〈夕焼けの光の中に 立つ影は ミラーマン〉とある。ミラーマンは、朝と夜のあいだの移行の時間が似合うと言っているのである。3番の歌詞は〈星空の光の中に 立つ影は ミラーマン〉となっている。実際、ミラーマンは夜の戦いが多いという印象がある。セットを作り込まずに済むためだろう。だが歌詞を作る時点でそういう予算的なことまで考えていたとも思えない。

 

〈はるかかなたに 輝く星は/あれがあれが 故郷だ〉

 先の歌詞は〈戦いすんで 朝がくる〉とあって、〈朝が来た〉ではない。まだ薄闇が残っている。そこに輝く星が見える。それが故郷の星である。怪獣をたおすという役目が終わったので、帰る場所に目をやったのである。

 歌詞の始めの方を思い出してもらいたい。そこには遠い星からやって来たということが語られていた。そしてこの終わりの方でもまた、はるか遠くに故郷の星があると言っている。つまりここで最初と最後がつながるのである。遠くからやって来て、また遠くへ帰る。すぐ帰るわけではなさそうだけれど、帰る方向を見定めている。役目は終わった、もう帰ってもいいかなという気配がある。ウルトラマンは地球に出稼ぎにでも来ているかのように、故郷を懐かしむのである。

 ウルトラマンは毎回怪獣をたおすと、空の彼方へ飛んで消え去る。いったいあれはどこへ行くのか。ウルトラマンは空から来て空へ帰っていくのだから、元の場所(故郷)へ帰っているふり(予行)をしているのかもしれない。用事が済んだらその場からただちに立ち去るのは、緊急の仕事に共通する行動様式である。疾風のように現れて、疾風のように去ってゆく、月光仮面と同じである。

 歌詞の1番では、遠くの星から地球にやって来て、怪獣のあばれる現地に向かうところまでが語られていた。2番では怪獣と格闘し、3番ではやっつけている。これはドラマの展開をなぞっている。歌詞を1番から3番まで通して読んでみると、そこでは一話の物語が語られていることがわかる。歌の最後では、自分の故郷の星に目を向けて、冒頭と接合している。こちらはウルトラマンが地球に来てから帰るまでという、もっと大きな物語を語っている。

 

〈正義と平和を 守るため〉

 ウルトラマンが〈帰ってきた〉のは〈正義と平和を 守るため〉であるという。歌詞の2番では〈凶悪怪獣たおすため〉となっていた。この〈○○のため〉というのはウルトラマンにとって重要である。なぜ遠い星から来て、寂しい思いをして地球にとどまるのか、その理由だからである。

 しかしこの理由は理由になっていない。なぜ宇宙人であるウルトラマンが、地球の〈正義と平和を 守るため〉に戦うのか。なぜ地球に出現する〈凶悪怪獣たおすため〉に命がけで戦うのか。どこにそんな義理があるのか、わからない。

 初代ウルトラマンの歌でも、〈光の国から ぼくらのために〉〈光の国から 正義のために〉〈光の国から 地球のために〉と〈○○ために〉が3回繰り返されている。ここでも、なぜ〈ぼくらのために〉〈正義のために〉〈地球のために〉ウルトラマンが戦うのかはわからない。ウルトラマンは、地球を含めた宇宙の平和や正義のために戦うことが使命になっているのかもしれない。では、なぜそんな使命があるのか、それはわからない。

 日本人もかつてはアメリカが日本のために戦ってくれると信じていた。強大な力をもっている大国は、世界に正義がいきわたるよう利他的にふるまうはずだと根拠もなく信じていた。スパイダーマンでは「大いなる力には、大いなる責任が伴う」と言っているが、それはアメリカのことを言っているようにも聞こえる。日本人もアメリカに、「大いなる責任」を感じていてほしいと都合よく思っている。

 ウルトラマンが個人的な関心にもとづいて行動しているという可能性もある。〈凶悪怪獣たおすため〉というのは、ウルトラマンが格闘家で、腕試しをしているとか、戦闘種族で戦いに生きがいを感じているからそうしているのだという解釈もできる。

 しかし〈正義と平和を 守るため〉というのはわからない。正義というのは人間同士でも相対的なものであり、ましてやウルトラマンは宇宙人であり、宇宙人と地球人の正義観はかなり違う可能性がある。マーベル映画『アベンジャーズ』のサノスは極悪人のように描かれているが、サノスにはサノスの正義があってやっている。ウルトラマンが人間中心主義者である保証はない。これまでたまたまそう行動しているように見えたのであるが、本心はわからない。明日、ウルトラマンが人間を虐殺し始めるということを否定する根拠はない。ウルトラマンが他の宇宙人の侵略から地球を守っているのは、自分たちが地球を侵略したいからたんに追っ払っているだけなのかもしれない。

 いかし新マンでは、「ウルトラ5つの誓い」という人間以上に人間を理解している言葉を残して去っていったので、結果的にウルトラマンの思考や感情はほぼ人間と同じだったと言える。しかし『シン・ウルトラマン』のゾーフィは人間性?に乏しく、地球を破壊しようとする。そしてゾーフィがウルトラ種族の一般的な考えであり、ウルトラマンのほうが例外のようである。

 ただ、『ウルトラマン』『帰ってきたウルトラマン』『シン・ウルトラマン』のいずれも、地球を守るという抽象的な目的で地球に来たのではなく、たまたま接触した人間が「いい人」だったので、人間を好きになり地球にとどまったようである。これはかなり心もとない理由である。もし接触したのが凶悪な人間だったら、ウルトラマンもゾーフィのように地球を破壊しようとしたかもしれない。

 いずれにせよ、〈正義と平和を 守るため〉というのはウルトラマンの行動原理ではなく、そうあって欲しいという人々の希望にすぎない。ウルトラマンがなぜ怪獣と戦っているかは全編をとおしての最大の疑問であり、人間にはその理由はわからない。主題歌で、ウルトラマンが〈ぼくらのために〉戦ってくれているのだと繰り返すのは、そう信じたいだけで、そう言い続けていればそれが真実になると思いたいからなのかもしれない。またそれは、視聴者への刷り込みになる。ウルトラマンという宇宙人がわけのわからないまま存在するのは人を不安にさせるが、それを自分に都合よく解釈して無害化し、安全だと言っているのである。

 

〈帰ってきたぞ 帰ってきたぞ/ウルトラマン

 最後に、〈帰ってきた〉という言い方について考えてみたい。

 〈帰ってきた〉というのは、そこを本拠地とする人に視点が置かれた言い方である。だから『帰ってきたウルトラマン』というのは、地球人から見て、ウルトラマンを〈帰ってきた〉ものとして見ているということである。だが、ウルトラマンにとっては、全然、帰ってきたということにはなっていない。というのも、歌詞にあるように〈遠くはなれて 地球にひとり〉なのであり、ウルトラマンはホーム(故郷)に帰ってきたのではなく、反対に、一人で遠くはなれた地に赴いているのである。

 歌詞は、タイトルと同じ『帰ってきた~』ではなく、〈帰ってきたぞ〉と〈ぞ〉がついている。〈帰ってきたぞ〉というのは、誰の、何を意味する言葉なのか。

 はじめのほうで、この歌詞はウルトラマンの内面に踏み込んだもので、ウルトラマンの心情を代弁したものであることを指摘しておいた。その一貫性を重視するならば、ここはウルトラマン自身が〈帰ってきたぞ〉と言っていることになる。だが〈帰ってきた〉というのは、そこをホームとする者がとる視点だから、ウルトラマンが自ら〈帰ってきたぞ〉というとそこには捻じれが生じてしまう。ウルトラマンにとって地球は第二の故郷であるから〈帰ってきた〉ということなのだと言いたいところだが、初代ウルトラマンが帰ってきたわけではないから、この説は無理である。

 考えられるのは、ウルトラマンが地球人のために「帰ってきてやったぞ」と思っていることである。凶悪怪獣をたおす〈ため〉に「帰ってきてやった」のである。〈帰ってきた〉のは同一個体ではなく、個体としては違うが、ウルトラマンという括りでは一緒であり、ウルトラマンという役割として〈帰ってきた〉のである。

 また一方で、この〈帰ってきたぞ〉というのは、テレビを見ている子どもたちの歓声でもある。1970年代初頭では怪獣ブームはすでに去ったと言われていたが、5年前の『ウルトラマン』は、再放送すると視聴率が高かった。また、戦いの場面を切り出して編集した『ウルトラファイト』も人気があったし、怪獣関係の玩具の売れ行きも良かった。子どもたちの新しいウルトラマンが見たいという声は高まっていた。『ウルトラセブン』終了から2年半経って、新しいウルトラマンがようやく放送される。その子どもたちの喜びの声が〈帰ってきたぞ〉である。それは同時にまた、慣れ親しんだ特撮番組のヒーローが〈帰ってきたぞ〉と告げる声でもあった。

 さらに、制作する円谷プロとしても、『ウルトラセブン』のあとの作品は視聴率がふるわず困っていたところ、TBSに本作の企画がとおり、数年ぶりのウルトラマンとして〈帰ってきたぞ〉という自信と喜びがあったと思う。「帰ってきた」とつけたのは当時存命だった社長の円谷英二の一言からだったし、歌詞を作詞したのは息子でプロデューサーの円谷一だった。

 まとめると次のようになる。

 

1 地球人から見て、ウルトラマンが地球に帰ってきてくれたこと

2 ウルトラマンから見て、地球へと帰ってきてやったこと

3 子どもたちから見て、ウルトラマンがテレビ番組として帰ってきてくれたこと

4 慣れ親しんだ特撮番組のヒーローからの帰ってきたぞという声がけ

5 円谷プロが、再びウルトラマンを作れたという喜び

 

 この5つの声が、〈帰ってきたぞ〉というフレーズの中にユニゾンとなって響いている。〈帰ってきた〉というフレーズはいろんな考察をいざなう、含みのある言い方なのである。

 〈帰ってきた〉という言い方のなかには、本来、帰ってこないもの、めったに帰ってくるものではないものが意外にも帰ってきたという、「えっ?」という軽い驚きのニュアンスが含まれている。「帰って来たヨッパライ」がそうである。この歌では、死んだ人間が帰ってくるのだから、そもそも帰ってくるはずのないものが帰って来たということで、驚きは大きい。

 ウルトラマンも帰ってくるとは思われていなかった。制作側としては、怪獣ブームは一旦終わったと思われていたから、再始動するのに時間がかかった。一方、ウルトラシリーズのドラマの中の論理でも、ウルトラマンが帰ってくるのは想定されていなかった。というのも、地球は自分達で守ると決意していたからである。『ウルトラマン』でも『ウルトラセブン』でも、最終回では地球は自分たちの手で守らなければならないと言っているのである。

 ウルトラマン』では、最終回でゾフィーがこう言っている。「地球の平和は人間の手でつかみとることに価値がある」。またウルトラマンが去る姿を見て、科特隊の隊長のムラマツは、「地球の平和は我々科学特捜隊の手で守り抜いていこう」と決意を口にしている。

 ウルトラセブン』の最終回でも、苦闘するセブンの姿を見て、ウルトラ警備隊のキリヤマ隊長は、「地球は我々人類自らの手で守り抜かなければならないんだ」同じことを言っている。

 にもかかわらず、そんなの無理でしょと言わんばかりにウルトラマンは帰ってくるのである。せっかく地球人は自立していこうと決めたのに、また舞い戻ってくるウルトラマン。子どもが一人で立ち上がろうとしているときに手を貸す親のようなもの。

 地球の平和は自分たちで守ると言ってはみたものの、怪獣相手に苦戦するのは必至。ウルトラマンがいてくれたほうがいい。実際、自分たちで何とかすると決意するのはウルトラマンがいなくなるときなのだ。頼る者がいなくなり、自分たちで何とかするしかないときの決意なので、帰ってきてくれるとわかれば歓迎する。なんで帰ってきたのかと追い払うことはしないのである。

 

映画ガリレオ『沈黙のパレード』主題歌、KOH+「ヒトツボシ」の女性観

 福山雅治主演の映画『沈黙のパレード』を見た。

 エンドロールとともに流れてきた主題歌「ヒトツボシ」が印象的だったので、それについて書いてみる。

 

1 映画

1-1

 まずは映画の感想である。

 はじめの20分くらいは、長い歳月を隔てた二つの殺人事件と、幾人もの登場人物がからみあった複雑な相関図を頭にいれるのに集中力を要する。殺された少女(食堂の娘で19歳ほど)について生まれたときからの映像が断片的に挿入され、被害者人物にふくらみをもたしている。主役は大学教授だし、重厚で面白い映画になるのではないかと期待した。

 だが、次第にありきたりの人情話になってきた。私は、原作者である東野圭吾の小説は古いものを十数冊読んだことがあるだけで、『秘密』や『白夜行』は面白いと思ったが、他の長編は出だしは面白いが後半はだらだらしてくる傾向があると思った。最近のものは知らないが、この作品も(映画を通してだが)そういう悪い癖が出ているように思えた。

 本作では女性刑事として柴咲コウが再登場している。映像のガリレオシリーズでは、女性刑事は花をそえるだけで、無知でからかわれる役どころである。本作でもそれは変わらず、女性の扱い方が古くさいと思った。

 事件の場所は都下の菊野市というところで、そこの商店街の人たちの下町的な人間関係が軸になるので、これはむしろ同じ作者の加賀恭一郎シリーズ向けではないかと思った。殺し方がガリレオ風にアレンジしてあるだけで、福山雅治はその謎解きを披露するものの、事件への関わり方は人情によるものであるし(たまたま行きつけの食堂の主人が疑われたため首を突っ込むことになる)、詰めの「推理」は論理がゆるく根拠も希薄。物理学者ではなく名探偵になってしまっている。つまりこれはガリレオでなくても入れ替え可能な世界なのである。

 福山雅治はそれほど活躍しないので、ファンには少しものたりないだろう。北村一輝が主役を食っているところがある。

 

1-2【この節はネタバレがある】

 実は、殺された少女がそれまで生きてきた記録を観客に見せるのは伏線になっている。作者は『オリエント急行の殺人』を意図したのだろう。商店街の人の何人かが犯行に関わるが、他人の子どものための復讐に手を貸すには、その子どもなり家族なりに相当の思い入れがないとできない。だから、どういう子どもでどういう家族だったのかを見せておくことがストーリーにリアリティをもたせるために重要である。原作を読んでいないが、おそらくこの少女の人生の描写にかなり枚数を費やしているのではないか。映画でこの点がうまくできているかというと、首をかしげる。犯行に関わる人間が多いほどバレやすいし、商店街という地域の人間の横のつながりがそれほど強固だとも思えない。

 少女を殺した犯人が、血のついた作業着をわざと警察に発見させる意味もわからない。音楽家の妻(檀れい)を脅迫するためだというが、自分が逮捕され有罪になるリスクが高すぎる。物証があるのに黙秘でやりすごせるとも思えない。引き換え、脅迫のためにちらつかせるのは「俺は見たぞ」という裏付けのない証言だけだ(ビデオ撮影したとは言っていない)。物証と証言とどちらが重要か、考えなくともわかる。

 他にも、犯人は少女を運ぶ一方で、檀れいの身元をどうやって知ったのか、専業主婦らしい檀れいは脅迫代金をどうやって捻出したのか、謎だらけである。犯人と同じ産廃業者に15年前の被害者の関係者が働いていたというのも偶然すぎる。犯行に使ったトリックもひねりすぎていてそこまでやる必要性が薄く、商店街の人たちの日常とも連続性がない。

 なにより、檀れいが少女を突き飛ばして頭を打って気絶したのを見てびっくりして逃げたというところは、よくあるパターンだが、こんな大仕掛けの作品で隠されていたのがそんなショボい「真実」だったのはがっかりする。その不自然さを軽減するにはキャスティングが重要だが、檀れいの配役はそれを多少なりともカバーするものだったといえよう。しっかりしてそうで実は不安定な脆さを抱えている奥様の風情である。そもそも椎名桔平檀れいが夫婦役という段階で怪しさがみなぎっているのだけれど。

 

2 歌詞

2-1

 以下、主題歌KOH+「ヒトツボシ」について述べていく。歌は柴咲コウ、作詞作曲は福山雅治である。

 まずタイトルである。カタカナになっているが、それはなぜか。

 歌詞サイトで検索すると「ひとつ星」というタイトルの歌が2つ、「一つ星」が2つ、「ヒトツボシ」がKOH+含め3つあった。カタカナにしている「ヒトツボシ」の歌詞はどれも歌詞の内容からはカタカナにする必然性は見当たらなかった。

 カタカナだけのタイトルは珍しくはない。ミスチルの「ニシエヒガシエ」、JUDY AND MARY「イロトリドリノセカイ」、B'z「イチブトゼンブ」、Greeen「キセキ」、MISIA「アイノカタチ」、あいみょん「ハルノ匕」など切りがない。

 ここでは、SMAPの「夜空ノムコウ」と比べてみる。この歌も歌詞の内容からはカタカナにする理由は見当たらない歌であるが、漢字+カタカナになっている点に特徴がある。

 カタカナにする効果はいくつかある。一つは目立つこと。通常、漢字やひらがなにすべきところをカタカナにしているので目を引くことになる。二つめは差異化すること。もし「夜空の向こう」というタイトルだったとしたら、文字は意味を伝達する透明な媒体となって、それによって示される内容は瞬時に理解されるが、「夜空ノムコウ」であれば、文字は文字として意識され、解釈はいったん立ち止まる。普通の「夜空の向こう」とは別のものがあることが暗示され、それはこの歌をとおしてしかわからないものになる。カタカナにした意図が詮索され、そのぶん歌詞は深く読まれるようになる。通常の用途から外れた表記方法にすることで、思わせぶりな何かが付け加えられる。

 また、「夜空ノムコウ」は「ヨゾラノムコウ」ではない。漢字が一つもなければわかりにくくなり暗号みたいになってしまう。一方、「ヒトツボシ」は「ヒトツ星」ではない。「夜空」や「星」という、意味の中心的な部分は漢字に残しておいたほうが解釈の助けになる。「ヒトツボシ」は5文字、「ヨゾラノムコウ」は7文字である。その違いもあるだろう。カタカナが続くと文字を目で追うのに時間がかかり、一瞬では読み取りにくくなって、たどたどしさが増す。また、「ヒトツ星」では「ヒトツせい」と誤読される恐れがあることを危惧したのかもしれない。

 「ほし」の語源を見るといくつか説があるが、どれも「ほ」は「火」から来ているとしている。夜空にあって火のように光るものが「ほし」なのである。

 一つ星というのは、辞書的には明けの明星、宵の明星である金星のこと、また方位の基準になる北極星のことである。歌詞には〈君のヒトツボシになれますように〉とあるから、この歌での一つ星は北極星のことだろう。

 映画の中では「Jupiter」という歌が印象的に使われている。ジュピターは木星である。惑星と恒星とは違うが、天空では同じ星として現れる。この映画では星つながりの歌ということになる。

 

2-2

 歌詞は、いかにもJポップふうの言葉遣いになっている。

 映画館で聞いていて思ったのは、繰り返される〈君〉が気になるということである。特に文頭にでてくる〈君〉がそうである。〈君〉の「き」は鋭い音で、耳につく(飛行機は甲高い音でキーンと飛び、急ブレーキはキキーッとけたたましい音を立てる)。

 歌詞をみると一人称は〈わたし〉、二人称は〈君〉で、語り手の意識は〈わたし〉と〈君〉のあいだを行ったり来たりしているだけで、世界はこの二人で閉じている。

 この歌から、〈わたし〉と〈君〉を抜きだしてみる。


君にサヨナラ
わたしひとり
君がわたし
君の物語
君と ただ君と
好きな君
あのわたし
君のヒトツボシ
君が 誰か愛し
わたしが君のこと

君の旅

 

 以上のように、〈わたし〉は4回、〈君〉は10回も出てくる。〈わたし〉と〈君〉だけの世界なのだから、そんなに「君、君」言わなくてもわかるので省略すればいいと思うが、つい口をついて出てしまうのだろう。

 歌でよく使われる二人称は「あなた」と「君」である。両者には音象徴の点で大きな違いがある。母音を見ると、「あなた」は「anata」と「a」だけで構成され、「君」は「kimi」と「i」だけで構成されている。母音「a」と「i」は、大きさ/小ささというイメージが大きく異るとされている。「a」は大きい、「i」は小さいと感じられる。「あなた」は大きく、「君」は小さく感じられるということだ。「あなた」は自立した大人、「君」は小さい子どもにふさわしい二人称と言えるかもしれない(もちろん例外の用法はある)。

 この歌では一貫して〈君〉が用いられている。〈君〉という響きには小さいイメージが伴っているから、どこか頼りない感じもある。実際、〈君のヒトツボシになれますように〉と言っていて、これは〈君〉には基準を示してあげる必要があるということを意味している。〈わたし〉は死ぬことによって〈君〉を導く存在になる。〈わたし〉は死んでからも〈君〉のことを案じている。もしこれが〈君〉ではなく〈あなた〉だったら、〈あなた〉は誰にも頼らず、自力で生きていこうとするだろう。

 

2-3

 歌詞の内容はメタファーに満ちている。どういうメタファーかというと人生を旅に喩えたものである。旅は海を行く小舟に見立てられている。〈わたし〉は舟を漕いでいる。〈わたしひとり星になったね〉という言い方は死を暗示させる。そしてその星はどういう星かということに連想がつながっていく。すでに述べたように、この文脈での一つ星は北極星として理解される。〈君〉の人生はメタファーとしてもほとんど語られることがないが、〈君のヒトツボシ〉とあることによって、〈君〉もまた北極星を頼りに舟を進める者として想定されているらしいことがわかる。

 

2-4

 もう少し細部をみていく。

 ひっかかるのは次の部分である。

〈いつか いつの日にか/君がわたしのこと/泣かずに思い出せるように/君の物語の邪魔しないように〉

 というところである。この〈君の物語の邪魔しないように〉というのは、どういうことか。

 1977年に松山千春の「旅立ち」という歌がヒットした。「旅立ち」は〈貴方〉の旅立ちで、「ヒトツボシ」は〈わたし〉の旅立ちという違いはあるが、いずれも好きな男のために身を引く女の歌である。男のことを中心に考えて、自分のことは二の次にする。だから歌詞の雰囲気も似ているところがある。

 「旅立ち」には、〈私の事など もう気にしないで/貴方は貴方の道を 歩いてほしい〉という歌詞がある。私が足枷になるくらいなら捨ててかまわないということだ。それが〈貴方〉の〈旅立ち〉である。

 一方、「ヒトツボシ」の方は、〈君の物語の邪魔しないように〉自ら進んで姿を消すのである。〈君が 誰か愛し 愛されますように〉とも言っていて、不在となった〈私〉の代わりに別の女性と幸せになるように願っているのである。自分を犠牲にして男を庇護する、古い日本の献身的な女性のように思える。

 「ヒトツボシ」の女性観のこのような古くささ(男のために自己犠牲を選ぶ女)は、『沈黙のパレード』という映画での女性の扱いとマッチしている。

 映画で主要な女性登場人物は3人いる。女刑事の柴咲コウはテレビ版からそうだったが、男たちほど知性的ではなく、からかわれ、軽くあしらわれる扱いをされる。歌手を目指してずっと努力をしてきた女の子は、交際相手の子どもを妊娠し、自己実現の夢をあっさり捨て母になることを選ぶ。音楽家の妻である檀れいは、アクシデントによる傷害事件で気が動転し救護を怠り現場から逃げてしまう。そのため脅迫され、いいなりになり、最後は夫に守ってもらうことになる。

 彼女たちは男社会のなかで自分の人生を主体的に生きていない。近年の映画はジェンダー意識に敏感だが、そんな目でこの映画を見ると古いなあと思うのである。強いて言えば吉田羊は芯のありそうなところを見せるのだが、たいして活躍することなく引っ込んでしまう。