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[小学校 図工科の授業] 対話・共創・繋がりを通して、社会変革(SDGs・IoT等)をみんなで考えるblog @話題提供

忙しさを選んでみる。

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活動拠点を幾つにするか

 幼少期の「習い事」について、皆さんはどう捉えていますか?

 

「学びは、受験勉強のためだけにあるものではない。」本当にその通りだと思う。

 “学び”は、いつ何時でも自分自身の生き方を体現しているものになっているべきだし、大切な何かを守ったり、笑わせたりするための新しい発想や感性を得るためにしていくべき過程だと思っている。

「なんのために学んでるの?」と問われたら、「人を笑顔にするためです。」わたしは、そう答えたい。

 

 がむしゃらに勉強をすることで得られることもあるだろうし、本気で頑張った経験は“いつか”活きてくる。CMや広告にもありそうな言葉だが、この“いつか”という言葉が曲者だと思う。知識はパズルのピースなだけであって、その“ピース”を連ねてどんな絵を描きたいかがないと、作品として成り立たない。そんな感覚を持っていつも教育活動に取り組んでいる。知識がたくさんある人ほど、描ける額が大きくなるとは思う。(創造できる範囲の広がり方が違う。)

 でも、その“いつか”という名の「描きたい未来や創造」の絵がないと、せっかくのそのピース(知識)を持て余してしまう気がする。

 「描きたい絵」が見えてくると、きっと「あとどんなピースが足りないか。」が、なんとなく自分の中に見えてきて、そのピースを持っている人に出会いたくなるし、自らそのピースを作りたくなっていくのだと思う。その過程に必要なのが“学び”。そんな気がしている。

 この‘‘知識と創造のバランス‘は、本当に大切にしたいと思っている。どちらかに偏ることなく、本気でどちらもを楽しむこと。

 偏ると、“楽しむ気持ち“が欠落し、苦しいとか辛いとかの感情が出てきてしまうと思うから。

 

 話は戻り、「習い事」へ。

 4歳の娘と「体操教室の体験会」に行った。人間の素地を作る大切な要素「体験と経験」を得るために。

 まだやったことのないことや見たことのない景色・聞いたことない音・触ったことない感触…「未知との出会い」は人を豊かにすると思う。しかし、そうしたこととの出会いが後々に“強制された学び“になってしまっては、そうした感性と出会ったときに、感じられる感覚にとても大きな異なりがでてしまうと思う。

 夫婦共に「本人がやってみて、どうしたいかだね。」と話しているため、決して急がず、強めず、相変わらず多様な経験に共に触れていこうと思っている。そんな娘の成長期とともにいる中で、最も大事にしたいのが、大人側も「未知との出会い」をし続けていく、わくわく感である。

 がむしゃらに「未知との出会い」を求めることもあってもいいのかもしれないが、「描きたい未来や創造」に必要なピース探しの旅。そんなイメージで大人?というか意思を思った時点からは、人はそう歩んでいくといいのかな〜。なんてざっくり思っている。

 そのため、生活の中に幾つの「活動拠点」をもち、そうした「新しい世界」とどう出会っていくかは、多様な選択肢の中から「選べる忙しさ」として大切にしていきたいと考えている。

 

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「選べる忙しさ」 〜ピースを集める旅〜

 「忙しさを選んでみる。」というのは、おごった意味ではなく、新しい「出会い」を求める「活動拠点」への旅のことを指したい。

 ライフワークが絞られた拠点しかない場合、新しい感覚に出会える可能性は低く、もしかすると単調なリズムが生まれていってしまうかもしれない。それは決してルーティーンのようなポジティブなものではなく、(ルーティーンは、何か仕掛けているときに必要なもので、生活習慣とは一線があるように思う。)作業としてこなす「習慣」の一貫のように。

 

 「選べる忙しさ」として記載したのは、そうした「活動拠点」へ参加したり、体験したりすることは、自分が“選択する“という「行動」を取らなければ、何も動き出さないが、“考えて“、“選んで“、“行動”してみると“気持ちのいい忙しさ“と出会える、という意味を込めたいと思ったからだ。世の中には“選べない忙しさ”も、きっとあるのかもしれない。でも、後からでもそれらも取り込んで、プラスの意味に変化させ、自分の「描きたい未来や創造」に必要なピースにできたら、それは素晴らしいことだとも思う。それがきっと「心の強さ」なのかもしれない。

 

 気持ちのいい忙しさに触れている時は、“疲れない。“そんな体験、みなさんもありませんか?

 

 やりたい!知りたい!ということと向き合っている時、人はものすごく満足し、あまり困らないのかもしれない。肉体的な疲労は蓄積があるのかもしれないが、心の疲労が少ないと「行動」は早まる。多少の体の疲れも、心のわくわく感によって連れて行かれる。そんな感覚が好きなのかもしれない。

 北海道の大学生の希望に満ち溢れる講演を聞いた。講演者の今野菜優(@nayu konno)さんは、「行動」から次の「行動」を生み出している。行動した人にしか見えない、行動した人だからこそ見える新しい課題に出会い続けていくのだと思う。それに楽しさを覚えた菜優さんの成長は止まることはないだろうなと、講演を聞いていて確信した。

 本当に共感したし、尊敬した。学びに年齢は関係ないし、常に自由であるべきだと本当に強く感じた。これからも活動に期待しつつ、学びの旅を続けていれば、いつの日か会えそうなそんな気さえした。

 

 以前にも記載した、「準備と用意のバランス」を大切に教育活動に日々取り組んでいる。

 

 ・準備はレール(教員のエゴ) → 用意はイメージ(学び手の選択)

 ・本筋はねらい(一定の達成点)→ 遊びは工夫(個々の相互承認の体現)

 ・目標は達成点(評価ありき) → 目的は過程(「描きたい未来や創造」の想像)

 

 こんな風にマインドを変化させて教育活動にあたっていると、嬉しい変化とも出会える。

 それが人の「自主性や自発性」である。20歳以上よりも柔軟な発想をもつ10歳たちは、環境設定があると“自分の意思”をしっかりと表現することができる。そして、それに必要なことを信じられない速さで吸収し、表現してくる。やっぱり天才だ。

 「子どものような絵を描くのに一生かかった。」ピカソの言葉の意味を、勝手に解釈し、「ふっ」と笑う自分が気持ち悪いなと思う日もあった。(笑)

 

 プログラミング学習が教育課程に入ったが、人をプログラムするような学びにだけは、絶対にしたくない。

 “お祝いの会“(お誕生日でも、結婚式でも、入学式でも何でもOK)で、プログラム1番〇〇って用意する、そのわくわく感だけでも感覚として体感できれば“学び“にもなるかな…。誰かを祝いたい!そのためにプログラム(相手に伝えたいことを整理したこと)を考える。そんなことから学びに入っていけたら良いと思っている。

 習い事も、教育課程も、はじめは一定程度整っていることを知ることから入ることが多く、そうした面白さとの出会いもあると思うが、それが形式だつ(強制や習慣)と途端につまらなくなってしまう。

 世界は本当に広い。そのことを大切に、娘と奥さんをともに学び続ける人でありたい。

そんなことを思う日曜日の朝でした。

 

今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 ほんとうに遠回りですが、20年先がよくなっていくようなblogに成長していきたいと思っています。

 家庭 ×  教育 ×   社会 ×   環境 ×   熱意 = 平和  

 人と人・人と環境を紡ぐblogを目指して。

「大切なことを、大切にできる人」が増えていけば、世界が抱える課題は、あっという間に希望へと変わっていく気がします。

 

 次回 :「社会と繋がる教育活動 〜 町を丸ごと学校へ 〜」

 今度ともご愛読の程、よろしくお願い致します。

 @mucchuart

「選択制のある授業」から生まれるクリエイティビティー

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教える、育てるのは先生だけではない

「教えるのは、先生だけではない。」そんなタイトルを掲げると、仕事放棄ですか?と思われてしまうかも。笑

 伝えたいことは、「先生という仕事の立ち位置を少しずらしてみる。」という話。

 以前にも記載した「先生は、teachingからcoachingへ」という話と重なるところもありますが、よろしければお暇つぶしに読んでください。

 

選択制のある授業

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 教え込みの授業形態ではなく、自発的に取り組みたいことが見つかる環境と体験設定を準備してみたい。

 そんなことをイタリアのレッジョ・エミリアは街単位で行っているのだから驚きだ。

 学校単位で行おうとしてみても、それを体現するには本当にゆっくり話伝え続けていくしかないのだと思う。

 本当にゆっくりと。

 でも、そんなことにチャレンジしてみたい!と春先からずっと準備してきた単元「わたしの図工力」(選択授業)に取り掛かることを決意した。

 

 選択制…この言葉がなかなかな曲者で、「子どもたちがやりたい学びを、自分で選べたら楽しそう!」という安易な一点で考え始めたことがツキであった。笑

 それを作る側になってみると「こんなにもいい意味でいそがしく、思考がぐるぐるスパイラルする単元」は久しぶりで、時折思考停止になったこともあった。(初任の頃、クラスの子1人ひとり課題が違うから毎日クラス全員に違う宿題を用意していた頃の時々の思考停止な感じが似ていて思い出した。あれは大変だった。笑)

 しかし、一度に20個くらいの仕事を請け負うプロのデザイナーさんたちの頭の中って本当にどうなっているんだろうと感心する。

 

 当たり前だが、選択制を授業に導入するのであれば、それに関わる人数分、40人いれば40の思考・材料・場所・空間・雰囲気…などの用意や備えが必要になる。準備ではなく用意である。使われるかどうかも分からない、こちらの勝手なお節介も多く含むからだ。

 それを150人に向けて実施してみようと考えたとき、“新しい教育の世界観“が広がった気がする。

 “よく失敗していいからやってみな。“という言葉を聞くが、今の子どもたちとは今しかないため、失敗はしたくなく、本当に慎重に進め、大胆に単元に入ってみた。選択制の授業で起こった最も嬉しいこと「自然発生的な異年齢集団の関わり」については、次回記載したいと思います。

 今回は、その授業を形成するに至った経緯を記載したいなと。

 

教育課題って一体何個あるんだろう。

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 教育課題は何個あるのか。その答えはない。人が相手だから気分や状況で刻一刻と変わっていくから当たり前である。

 でも、SDGsのように具体的に数に示さないと取り組みすら進まないから、数値化することが主流になっているように思う。

 SDGsも学校の中で取り込んでいるが、絶対にしないことがある。それは「教える」ということ。

 SDGsは人から教わるものではないと思っている。教わるのではなく「感じるもの」といった方が私はしっくりくる。自分が世の中で生活しているときに、「え?これっていいの!?」って思ったことが、すべてSDGsの視点に入っているからである。

 誰かが言っているから“やる・やらない“では、絶対に世の中は良くならないと思う。一時良くなっても、それになんの価値があるんだろう。そんな風に思うから、SDGsは「教える」ことはしないで、感じてもらうことを点在させるようにしている。

 

 話は少し変わるが、ここ10年で小学校という場所の中で、教科や授業単元として取り扱う内容が多岐に渡ってきたように思う。

 社会と学校はつながっているため、時代の流れに応じて変化していくことは当たり前の話である。

 過去からの積み重ねの上に、さらに重なり合い、scrap & Bildを繰り返して今に至っているとは思う。

 新しい時代に応じ、新しい取り組みを取り入れていくことは決して悪いことではない。

 しかし、その新しい取り組みにHeart(心)をもって全力で心の底から楽しんで、肯定しながら取り組めている教員は決して多くはないと思う。それだけ膨大な学習課題が取り扱われているのだ。歩み進んでいるのではなく、課題に追われてしまっている教員が多くなってきたように思う。資質が下がったのではない。教育システムとして変わり、それに順応できるかどうかなんだと思う。 

 一例として、道徳教科化、外国語必修、プログラミング教育、キャリアパスポート、GIGA…どれも次世代を担う子どもたちにとって、大切な資質だとは思う。でも、これだけ増えたら“選択制の授業形態“に抜本的に変容した方がいい。

 もっと言うなら変容していかなくては、どれも中途半端な獲得に終わるかもしれない。

 どの分野もそれに精通したプロフェッショナルな大人たちが作り上げたもので、そうした資質をすべての子どもたちに一律に入れ込む事は困難である。興味、関心を抱くため?にしても、どれも中途半端な知識量、経験量しか入らないことは往々にあり得る。

 人間が本来持つキャパシティーをはるかに上回ってきたのかもしれない。

 もちろん、「すべての分野を完璧に習得させる!」なんてことでの導入ではないことは理解している。しかし、導入されればおざなりにはできない。

 教員としてできる一番の対応は、社会変革のアンテナを最大限に張り、それはまるで株価の動きと連動するかのように、社会の動きとほぼ同時に自ら考え、教育現場に入れ込むということがある。今、水素の車について語れる教員は全国に何%いるのだろうか。

 

 この資質も教員としてとても大切なため、日頃から意識して取り組んではいるものの、世の中の全教職員が、当然私自身も含め、その社会のスピード感に遅れを取らずついて行き続けることは可能なのか?

 
 上記あげた、最近導入された教育課題を表面的に見てみましょう。

 ・道徳教科化・・・全国的にいじめ件数が増加し、社会問題に。道徳という教科で抑制を。

 ・外国語必修・・・グローバルになる世の中に対応できる人材育成のために。

 ・プログラミング・・・society5.0に向け、Agencyな人材を。 …

 

 ものすごく表面的にみても、これら社会の動きをキャッチーに反応し、すべての分野に先手を打つことは難しい。

 でも、すべてに先手を打つのではなく、確たる信念“プリンシパル”があれば、世の中がどう動こうが、曲がらなず対応することができると思っている。

 何が起こるかを予知するのではなく、見通しをもってより良くするために“今本当に必要なこと“を考えることが大切だと思う。

 

 今回、小学校の図工領域、「5領域:造形あそび・絵画・立体・工作・鑑賞」を児童に選択してもらった。

 授業内容は次回に記載したいと思うが、上記挙げたように、世の中、選択肢が膨大に増えているのに、それを選べる授業、考えられる時間が幼少期や小学校・中学校期に少なすぎると思っている。

 自らの意思で選んだこともない子に、「何がしたいの?」って問うことほど酷なことはないと思っている。

 はじめは選べなくてもいいと思っている。選べず1時間が終わってもいい。

 そんなに長い時間、何かを選ぼうとした経験が残れば。

 

 選択肢を多くしたため、いやいまだに多くなっているため、不透明になってきているのだと思う。

 人間は進化していくべきだが、自分たちで空気を汚し、不透明な景色を眺めている国と同様、思考や考え方の多様性は時として人の視線を不透明にしていく。

 でも、そんな道だと分かっているなら、「選ぶことに慣れる。」ということが大切だと思う。

 そんな思いをもって取り組んだ選択授業「わたしの図工力」について、次回記載します。

 

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 次回 :選択授業「わたしの図工力」

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VUCAへの挑戦 ② 街を学校にすること

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GO!新時代!

 例年にはない短い夏休みを終えて、図工科の授業が先週から再スタートです!

 

 4月からの臨時休校により、15年間の教員生活での感覚や意識・信念などに大きな影響と衝撃があり、教員としてのマインドセットはもとより、人として"生きること"について考えだすことが止むことがなくなった。

 わくわくしながら、今までにはないマインドの大きな揺れを感じている。

 情報が入りすぎているのかな、それを処理できるほどスペックがないのかな、それとも生きるとはそういうことなのかな。

 常に心にあるのは、自分がそうしてきてもらったように、今の子どもたちが過ごす未来を素敵にしたい。という一点だけ。

 VUCA、GAFA、STEAM、個別最適化、IoT、ICT、society5.0・・・ 

 VUCA ワールドとは、 元々は軍事用語であるが、Volatility, Uncertainty, Complexity, Ambiguity の 4 つの単語の頭文字から取ったもの。 つまり、不安定で変化が激しく(Volatility)、 先が読めず不確実性が高い(Uncertainty)、かつ複雑で (Complexity) 曖昧模糊とした(Ambiguity) 世の中、ということで ある。

 教育界だけでも、これだけ横文字が賑わうことこそ、新時代への幕開けだと感じている。

 今、頭の中は大きく分けて2個に分かれている。

 ①楽しいものをバンバン取り入れて、ガンガン進む道。

 ②人の思考を解放して、自分の生き方をゆっくり探す道。

 

 この後の世の中を賑わすのは間違いなく①。

 でも、その要素に必要なのは②。

 でも、これを2つ同時にこなせるほど、果たしてキャパはあるのかな。

 っというのが、今の頭の中。

 そんな頭の中の状態で接しられる、小学生たちは果たして図工をしているのか、図工室から「世の中探検」をしているのか分からなくなってしまうかもしれない。

 でも、その揺れを体感しておいて欲しいとも思っているのが本心である。

 世の中、安全なようで危険で、安心なようで不安な瞬間は誰にでもやってくる。

 でもでも、それを避けるのではなく楽しめるようになって欲しいから。

 それを受けつつ、楽しめるようになるのに必要なのが、あくまでも自分の感覚だが、①のように"知る"ということと、②のような"解放"なのだと思う。

 生き方は最終的にその人が決めればいいと思う。極論、というか当たり前だが、"ねばならない生き方"なんてない。

 でも、地球という最大の資源の上に、社会という大きな牢屋を作ってしまったような感覚に陥ってしまう人は決して少なくないと思う。

 縄文時代が約2万年繁栄したのは、求める欲が限られていたからだけなのだろうか。

 あの時代は、全員幸せだった。と言い切れるのだろうか。

 繁栄が原因なのか。

 進化は悪なのか。

 正解を知っているのは、地球に住んだことのある全員であることは間違いない。

 そのために歴史を勉強するんだろうし、未来をつくっていくんだと思うから。

 では、何を求め生きるのか。そのために必要な時間・空間・仲間とは?

 それを落とし込んで、図工の授業をしたい。と考えているから、人生最大に悩んでいるんだと思う。

 今、1番取り組んでいることは「社会と学校と人と」という、繋がりを意識した活動である。

 だが、何のために繋ぐ?繋がってでっかくなったコミュニティーの行き着く先は?

 そこに関わる、関わらない全員が幸せになれるのか?

 

 ・・・なんていう妄想と言ってもいいところから解放されるために、こないだは星を観に行った。

 この解放という時間もなくてはならないが、一体何から解放される必要がある生き方をしているのかを見直した方が早いのかもしれない。社会から離れる=田舎にいく?っていう単純なことではない。

 やっていることにモチベーションがあれば、きっとそこは息苦しい社会ではなく、キラキラ輝く社会のど真ん中になるんだと思う。

 

 いざ、VUCAの時代へ!と考えることをやめようと思う。

 VUCAだから考えるんじゃなくて、

 SDGsが言ってるから取り組むんじゃなくて、

 STEAMが謳ってるから学ぶんじゃなくて。

 自分がいる場所から見えることが繋がっていって、見て・聞いて・感じたことで動いていくことを大切にしたい。

 新時代になることは間違いないが、あくまでも繋がってきた歴史の1ページであることを大切にして生きていきたい。

 

 だからこそ、考え続けるんだろうな。

 悩む質を上げるために、環境に変化をもたせようと動いてみた今年。

 環境を変えたから見える景色があることは分かったから、もっと変えてみよう。

 

 前回、VUCAのVolatility(不安定な変化)について記載した。

 多々ある要因の中で、その要素になるであろう[society5.0の体現がもたらす不安定要素と生活基準の変化]について思考し、自分なりの解釈を見出す、ということで文を書いた。

 自分なりの解釈としては、不安定を如何に楽しめるかがポイントになるかなと思ったことを書き残した。

 VUCAの続き。UCAも同じかな。また、ゆっくり読み解こう。

 先が読めず不確実性が高い(Uncertainty)、かつ複雑で (Complexity) 曖昧模糊とした(Ambiguity) 世の中を、如何にして楽しめるか。

 うん、やっぱり楽しいってことに勝てることはないのかもしれない。

 考えていることが楽しい。

 やっていることが楽しい。

 そんな空気が世の中に流れ始めたら、文化の進んだ縄文時代が来るのかな。

 

 前回、「街を学校にすること」に全然届かずでしたが、そろそろ小旅に出かけますので、また次回記載致します。

 でも、理想にしたい街はさっき書いたことなんだろうな。

 楽しいを見つけられる、ゆとりをもった人のマインドセットを作り出すこと。

 文明の進化のせいにせず、今あること、人の考え、創造性を主張し、地球にとって良いことを加えて、みんなで作っていくそれぞれの幸せ。

 欲があるうちは、他者と比べない生き方は難しいのかな。

 でも、それでもそんな世界・社会を目指して図工の授業から何かを発信し続けてみようと思う。

 

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街を学校にすること① 〜 VUCAへの挑戦 〜

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VUCA(ブーカ)への挑戦

 関東も梅雨が明け、入道雲が映える本格的な夏がやってきた。

 梅雨が長かったせいか、空を眺めると目が痛い。でもそんな痛さも心地よく感じられる。

 世の中が落ち着かず、連日暗いニュース・暗い空に囲まれていては、いい発想も浮かばなくなってしまいそうだ。

 こんな晴れた日には、本と珈琲を鞄につめて、自転車に乗って木陰を探しに出かけよう。

 この夏の"読書"の仕方に必要不可欠な"最適な空間探し"と本や自然、人から学ぶ"新しい発想"に出会う小旅に出かけよう。

 今は難しいことはしない。今だからこそ、身近にあるいいものとの向き合い方に時間を掛けてみようと思う。

 「人・本・旅で過ごす。」それが、今年の夏の行動になればいいな。

 

 考えたいこと、やりたいことが多すぎて体現できる残りの人生を惜しまず、楽しめるようにのんびり過ごしたい。

 そんな矛盾だらけの感情に支配されている脳に、本は安らぎと発想を与えてくれる。

 考えることから目を背けるのではなく、"考える質"をあげるということ。(*前記載) 

 

 今、頭の大半を占める思考の要素に最も近く、いずれ求めたい"教育の本質"にとどかせる為にも"VUCA"を自分なりに解くことにした。

 VUCA ワールドとは、 元々は軍事用語であるが、Volatility, Uncertainty, Complexity, Ambiguity の 4 つの単語の頭文字か ら取ったもの。 つまり、不安定で変化が激しく(Volatility)、 先が読めず不確実性が高い(Uncertainty)、かつ複雑で (Complexity) 曖昧模糊とした(Ambiguity) 世の中、ということで ある。

 

 今回は、Volatility(不安定な変化)の要素になるであろう[society5.0の体現がもたらす不確定要素と生活基準の変化]について思考し、自分なりの解釈を見出せたらいい。

 これが書けたら『アノニム』著)原田マハを読みに行こう。

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Volatility

 不安定が起きる原因は明確な気がする。答えやゴール(学校で言えば目標のような)を用意してしまうからだ。

 一見あった方が良さそうな答えやゴールというもの。

 これがあるが故に頑張れる。そんな経験はもちろんたくさんしてきた。

 でも、それがあるが故に生まれてくる"不確定要素"も同時に多い。

 極論「学校がなければ不登校も、いじめもない。」

 そう。場がなければ起きないこともある。

 もちろん、なければないで新しい課題が生まれてくることは明確である。

 だが、極論として思考してみて"学校"というスペースがなくなり、社会の在り方に「こうでなければならない。」といった答えや固定概念をなくしてみたとすると、誹謗中傷も意味をなさなくなるし、誰もが自分の中で満足することができる。

 他者と比べるから生まれる軋轢も、僻みも、嫉妬もなくなる。

 同時に切磋琢磨という四字熟語も無くなってしまうが。

 

 SNSで巻き起こる誹謗中傷の大半は、民衆の大定義から起こることが多い。

 いつの間にか出来上がっている「これが答えだ。」という定義から。

 

 答えやゴールというのは"常識"という言葉にも置き換えられて、そこからはみ出すのは異質と捉えれることと似ている。

 人間という生き物は、本来もっと高尚なもので、そんな一つの答えや常識に収まるものではないはずである。

 だが、人は強くないから"仲間を求め、共感を抱き安心する。"

   この行為自体は決して悪くない。むしろもっとも人間らしい。

 

 しかし、これに必要以上な固執が加わると、それは暴力に変化していく。

 自分と同じ。というコミュニティーはとても安心感がある。

 そこに外的要素を入れられる多様性があれば問題ないが、排除してしまったり、否定してしまったりすると、いつの間には「自分さえよければ。」となってしまう。

 不安定な世の中を生きることは、みんな不安になる。

 そんな中、不安をなくせる共感性が目の前にあれば、誰だってすがりたくなるのは当然だと思う。

 

 授業の展開の仕方に「オープン・エンド」という考え方がある。

 先日、横浜の大学の先生とお話しする機会があり、その理論について語る中で「先生の在り方」に行き着いた。

 考えは同じで、「teachingからcoachingに変えたいですね。teacherじゃなくて、coachって呼ばれたい笑」I時間しかなかったので、また会ったらもっと深く話したいな。

 オープンエンドの捉え方自体にも正解はないが、一つに"正解や答えを提示しない"、結果主義ではなく、過程をいかにして学べるかにかかっている授業展開である。

 先生が"教えすぎない。"という絶妙にわくわくする、もっとも不安定な中での学びをいかにして楽しめるかにすべてがかかっている。

 不安定をいかにして楽しめるか。

 ここにVolatilityを突き詰める鍵があると思っている。

 

 何かができたらいい!という授業展開は、取り組みも明確で、知識獲得の最短距離をいくので人気がある。

 でも、Volatilityな世の中では、もっとも力を発揮しづらい条件も含まれてしまっている。

 知識は、パズルのピースとして多い方がいいとは思う。

 しかし、与え得られ学びだけでは、この先の世の中には利用しづらく、露頭に迷ってしまうかもしれない。

 だからこそ、あえて不安定な状況を作り出し、「答えやゴールを目指す」ではなく、「悩むことを楽しめる経験」を積むことが大切だと思っている。

 要は、Volatility(不安定な変化)を楽しめるかどうか、ということなのかな。と、一先ずは自分の中で解釈してみることにした。 

 学校現場に流れ込んできてたICT、今それと向き合い、子どもたちとあーでもない、こーでもないと共に見えない授業を創ることが楽しくて仕方ない。

 去年、卒業した子にプログラミンが上手な子がいたので、先日メールをした。そして学校に来てもらった。

 駐車場で2人iPadに目を向けている姿は、異質だっただろう。でも、その異質さを2人で夢中に楽しめた。

 その子に「次回はチャットで。」と言われ、宿題も出してもらった。

 中学生に教わる教員。この不安定さを楽しめるかどうかは、本当に大切だと思っている。

 その子に認めてもらえるよう、励みたい。

 Iotと共存し、より豊かに生活を送るためには"ちょうどいい具合を見出す"必要がある。

 なんでもまずはやってみる。そして自分なりに楽しみ、それを他者と共有し、みんなでわいわいしていく。

 それができれば、世の中の不安定が当たり前になり、答えのいらない世界が生まれるかもしれない。

 

 「街を学校にすること」に全然話が届かないですが、そろそろ小旅に出かけますので、次回記載致します。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

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何のために"考えられる人"になるのか。

生み出すことと楽しむこと

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「はい、撮りますよ〜。パシャ」

 最近、娘がcameraに興味をもっていて、よく撮ってくれる。

 チェキ持って散歩に行ったのがよかったのかな?

 3歳が撮る写真は本当に魅力的で、視点や構図が大人には撮れないことをしてくれる。

 きっと自分自身も、小さな頃はこうだったかな?

 娘の"アート思考"をずっと大切にしたい。共にその思考力を高めていこう。

 ピカソも言っているように、もともと人はアート思考を持っているはず。忘れてしまっているだけ。

 もう一度呼び覚まそう!

 

 写真好きな娘に何枚でもどうぞ!としてあげたいが、チェキのフィルムって安くはないですよね?

 デジカメや一眼レフもいいけど、3歳の娘には重いのと機能性とを考えると・・・。

 「う〜ん!何がいいかな〜。」とひたすら考え、試行錯誤を繰り返すこと2日。

 「よし!画用紙カメラだ!」となりました。無限想像film。最高です!

 それをon iPadにするとリアルな撮影も可能に!

 これだーーー!となった。

 

 ここで大切だな。と思ったことが、

 「う〜ん!何がいいかな〜。」と考えている時の自分と。

 「よし!これだー。」と完成した後、娘と夢中に遊んでいる時の自分

 どっちの時間も最高だな。と思ったこと。

 

 人はメーカーであるし、新しいクリエイティビティーを育むため、教育現場に様々な手法や教育観が溢れかってきている。

 でも、その本質として、なぜメーカーやクリエイティブな人材の育成に注目が集まっているのか。

 図工科から、それに向かうためのSTEAM教育や環境設定としてレッジョ・エミリアの視点を大切にしているが、それができることが決して目的ではないということ。

 言うまらば、その先にあることをねらいたいのだ。

 それがきっと上記の通り、自身が感じたことなのだと思う。

 考えられる人・作れる人であることは通過点で、その先の楽しめる人という視点が絶対的に好きである。

 でも、この考えられる・作れるという過程がものすごく大事で、1から自分たちにしかないものを、自分たちにちょうどいいものを生み出すことが本当に楽しいと、そのあとは自然と楽しいのだと思う。

 そんな作る前から、作っているときから、それを使っているときも、そのあとも楽しめる人になってほしい。

 そんな願いをもって、また図工の楽しい時間を考えたいと思う金曜日の夜。

子どもが授業を受けるのは、当たり前のことではない。

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平和をcreativeする授業を創りたい。

 なぜ授業するのか。

 先生だからではない。指導要領に書かれているからじゃない。

 「世の中が平和になってほしいから授業を通して話しているし、行動しているんだ。

 平和をのんびりでも、じっくりでもいい。

 平和を他人事にせず、自分と人と地球のことを考えながら生きる人が増えて欲しくて授業をしている。

 だから、図工の授業ではなく、

 図工科を通して「平和をcreativeする授業」を創造していくことにした。

 その視点は教科も関係ない。横断?意図的にする必要はない。

 

 今だから授業よりも子どもに楽しさを、と記事にされる方がいるが、それは今までもそうだったはず。

 コロナで表情が見られない。みんなの笑顔が薄れてきていないか?

 前から人の表情を見れていたかな?

 言葉の前に"コロナ"ってつけて何でもつけて考える風潮に学校現場はある。

 安全管理のためなどでは、話題になるのは当たり前だが、コロナだからじゃない。

 それを通して初めて先生たちが「今までのままじゃ違ったんじゃないか?」と考えることができたのだと思う。

 だから、コロナ対策の授業ではなく、この先もずっとずっと本質的に必要とされる視点を話し合うことが重要なんだと思う。

 

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片付けまでARTにして欲しいな。

 この言葉には、図工の道具のことだけじゃない意味を込めて、子どもたちには話をしている。

 図工科を始めるにあたり、「図工✖️〇〇」で様々なことを考えた。

 自分の願い・得意なこと・好きなこと・・・それらを組み合わせて現実で行うことは何か。

 技法も大切だし、そこからイノベーションが溢れ出ることもある。

 でも、それをどう使うか、どこに導けるか、それをアドバイスできなくては図工ではない。

 というよりかは、学校の価値がない。

 

 いろいろなことを考えていく中で1番難しいのが、「自分の思っている願いは、決してみんなが思っている願いではないかもしれない。」ということである。

 当たり前だ。似ていても同じ筈はない。

 だけど、その価値観が沿っていかないと辛さや寂しさが生まれてくる。それが人間の弱さなのだと思う。共感されないことは単純に悲しいことなのだと思う。

 

 でも、その視点が大切だと感じることがある。 

 それは自分の価値観を人に押し付けようとしていないか。理解してもらおうとしてしまっていないか。と考えるだけで、その寂しさからは解放される。

 そもそも先生が上位であるという固定概念がいけない。対等というニュアンスもあまり好きではない。共存・共創がいいが堅いな。

 「一緒になって楽しいことをして、世の中を明るくする仲間!」こんな感じがいい。

 だから自分がやってみたいことを全力でやってみる。

 それをみてどう思うかは相手に任せるしか他にないのだから。

 

「片付けまでArtにしたい。」

 環境のことを考えると、最近ゴミ箱に何かを捨てる時に躊躇う。

 このことも楽しむためにしていることがある。それは、それをARTにしてから捨てるまたは、飾ることである。

 使った絵の具は、そのまま流さず水をはった空き瓶に溶かし"色水ART"に。

 紙や木材の切れ端たちは、1センチずつ線を引いて"My定規"に。・・・とか。 

 ゴミの分別をしなさい!って怒って伝えるより、何百倍もいいかなって思う。

 SDGsは教わるものじゃない。感じる得るもの。

 片付けまでARTに。ってことを、自分の生活の中にも大切にして、自分が発した言葉や行動も無責任になっていないか。その後まで創造的になっているか。いま,共に学び合う子どもたちの未来をARTにできている発言なのか、授業なのか、存在なのか。

 そのためにもまずは自分が楽しく、のんびり平和のことを考え、それを体現することを続けていけたらいいと思う。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 ほんとうに遠回りですが、20年先がよくなっていくようなblogに成長していきたいと思っています。

 家庭 ×  教育 ×   社会 ×   環境 ×   熱意 = 平和  

 人と人・人と環境を紡ぐblogを目指して。

「大切なことを、大切にできる人」が増えていけば、世界が抱える課題は、あっという間に希望へと変わっていく気がします。

 

 次回 :「オンライン学習とオフライン 〜いつ飲み屋さんに行けるんだろう〜 」

 今度ともご愛読の程、よろしくお願い致します。

 @mucchuart

当たり前という視点をやめる。

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お説教より前に"環境設定"を

 学校ってそもそも誰のためにありますか?

 「子どものため」という回答が多数を占めると思う。

 しかし、その当たり前から見直したい。

 子どものためというワードはもちろん正解だと思う。

 しかし、子どものため"だけ"ではないはず。

 そこに関わる全ての人にとって、価値のあるものになっていなくては、そこに生まれてくるはずの価値が見えてこなくなってしまう。

 (人は誰しも、自分があってこそな生き物であることは変えられないし、それがなくては人を大切にはできないから。)

 ズレや差というものから学ぶこともあるのかもしれないが、ここで言いたいのはそうした差ではない。

 価値観のズレは、それは決していい方向には向かないズレになってしまう。

 

 先生は"教える人"。もうこの考えはやめる。共に学び、成長し続ける人です。

 子どもは"授業を受ける人"。いえ、出会い方や学び方で可能性を無限に広げられる人です。

 保護者は"通わせる人"。いえ、子どもと共に人生を歩む最高のパートナーです。

 地域の方は、"地域の方"。いえ、全てを支えてくれる方々です。

 上げたらきりがありませんが、学校という名の場に関わる方々、全員がかけがえのない存在である。

 

 しかし、誰か一人が他人事にしてしまった時点で、そのバランスは簡単になくなる。

 他人事から自分ごとに変化するには何が必要なのだろうか?

 最近はずっとそんなことを考え続けている。行動もしている。でもどれも正解とは思えない。でも止めない。

 

 一つ言えるかもしれないのが、自分ごと化に必要なのは根性論ではないということ。

 必要なのは「環境設定」その言葉が最近は1番しっくりきている。 

 

 図工科で、はじめての単元を「世界で一つの〇〇をつくろう!」というテーマで、今までの体験や経験・学びを生かし、自分だけの作品をmucchuにつくろう!というめあてを元に、自己紹介を兼ねて、一人ひとりと対話しながら、その作品にかける思いや今までの学びをインタビューしながら制作を見守っている。オリエンテーションを含む単元のため、子どもたちも緊張やわくわくなど、様々な感情の中でも、自己表現をよくしている。

 そんな中、「材料が何もない。」という子がいた。

 5年前までだったら、お説教?指導?が先行していたかもしれない。

 

 「なぜ持ってこない?」「理由は?」

 この言葉を今は、自分に問いかけるようにしている。

 

 「この子はなぜ持ってこない?」・・・簡単だ。まだ図工の時間が魅力的になっていない。かけがえのないものになっていないから。

 「理由は?」・・・持ってきたくなるような空間・環境にできていないから。

 

 こうしことにまず教員が取り組むことが優先だと思っている。学ばないのではない、学びたくなる空間にする。

 初回の授業から全員がそんな意識になっている、なんて言ったらその方が不自然である。

 

 それを共に創り上げていくのには時間はかかる。

 だんだんでいい・徐々にでいい。でもいつの日か、一歩その部屋に入るだけで、その日1時間でも図工があると思えるだけで、翌週をすでに今週から楽しみに思える。そんな時間になって、そして誰から言われるでもなく、自ら学びたくなる空間になっていればそれがいい。

 それが学校全体に広がっていったら、どの授業、どんなことをしているときもそんなわくわくの中にいたら、子どもは一体どこまで成長していくのだろうか。

 

 教員はその最高の場を作るファシリテーターであり、デザイナーであり、サポーターであればいい。

 教える人ではそうした空間は作れない。

 

 「忘れ物しました。」「やる気ないの?」ではない。

 根性論では、この先のsociety5.0時代には応用できないし、ただただ学ぶことが嫌いになるだけだ。

 

 その視点からいかに教員が誰よりも学べるか。そうしている姿を子どもたちが見て、何を感じ取ってくれるか。

 そっちの方が、何倍もクリエイティブな視点や思考が双方の中に生まれてくる。

 学ぶことをさせるためにお説教をするのは大人の都合。

 学ぶことがどれほどかけがえのないことか。それを大人たちが実践し、その姿を見せられているだろうか?

 

 私も、一人の父親としてという肩書ではなく、先生という肩書ではなく、常に素敵な生き方を楽しみながら探し、その過程を共に歩む最高のパートナーが奥さんであり、娘であってほしいと思っている。

 

 学校でもそう。世界70億人の中から出会えた奇跡。

 大人も子どもも関係なく、出会えたすべての人から学べることに感謝の気持ちを忘れない。

 

 言わされるありがとうからは決して感じられない。

 心から"ありがとう"と言えているかな?

 そうした環境下にいるかな?

 そんな感情が溢れ出るには、空間や環境がとても大切。

 

 そうしたことが溢れる空間・環境のあり方について、ずっと模索し続け、この世界が少しでも明るく元気になったらいいなと思っています。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 ほんとうに遠回りですが、20年先がよくなっていくようなblogに成長していきたいと思っています。

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「大切なことを、大切にできる人」が増えていけば、世界が抱える課題は、あっという間に希望へと変わっていく気がします。

 

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