夏の近況

久々に書こうと思ったけど、1000字くらい話せるオチのある話題がないからポツポツ記しておこうと思う。最近のこと。

 

・9/1付で異動がきまった。新任店長での着任で、昇進というやつだけどわたし自身はなんだかぼんやりしている。半年前からずっと言われ続けていたからか、もしくは異動先が見知ったスタッフもいる同じブロック内の店舗だからか。

今いる店のスタッフたちに内示を告げたところ、「おめでたいけど、居なくなったらうちの店どうなるの」と不安がる声の方が多かった。中には泣いてくれる子もいて、それだけ愛されていたんだなあというありがたさと、残り1ヶ月弱でどれだけ不安を取り除いてあげられるか、の焦り。これからの期待より、今やるべきことの方が頭の中を占めていてぐわんぐわんし始める。

一方で純粋に祝ってくれる人たちもいて、そうかこれっておめでたいことだったのか、と思い出した。最近そういう真っ直ぐな暖かい気持ちに触れると泣きそうになっちゃう。だめだね。仕事もプライベートも楽しみなさい、と言われ、しばらくそんな余裕ある生活はできる気がしないけど、前向きに頑張れたらいいなぁ。

 

・日韓関係悪化のニュース、どちらが良い悪いはさておき、ヘイトは良くない。両国とも、国外に敵を設けることで国民からの支持を得ようとする常套手段で、内政の問題をあやふやにしているだけだと思う。さらにマスメディアがナショナリズムを煽動するので見ていてはらはらする。何故かテレビのコメンテーターの発言や活字のニュースに説得されてしまうけど、あれは本当に事象の一部を編集しているだけ。事実とこうであったらいいなという希望的観測の線引きが曖昧で(それすらも意図的なのかもしれんけど)、受け手は都合よく捉えてしまうから。政治がどうこうというより、国の偉い人たちが誂えたストーリーに乗っかって、わたしたちが自分の感覚を失ってしまうのがとても怖いよ。どんな国の生まれであっても差別されていい人は存在しないし、お国柄と個人の人間性を結びつけて悪く言うのは最低のこと。

 

・前に華子と美穂が勧めてくれた『あの子は貴族』を読んだ。まだ読了してないが、今のところ主人公の華子の生活が全く理解できない。ストーリー自体はともかく、こうした階級の人間が存在することさえフィクションに感じてしまう。都会と田舎の対比が明確に描かれているんだけど、わたし自身はどちらにも振り切れない人生を歩んできたから終始共感できないのだった。

わたしは転勤族の子どもで幼稚園ふたつ、小学校もふたつ通って、前橋の中学から千葉の高校へ進学した。地元がどこかと聞かれても答えられない。いつだってその土地土地にはわたしより遥かに根深い「地元の人」が存在しており、それを痛感するたび微かな疎外感を感じてきた。だからそういった生まれ育った場所に由来するアイデンティティを持った登場人物たちが、単純に羨ましいと思った。

 

大森靖子ちゃん

♫マウンティング回避の美容室〜

玉城ティナちゃんにしてください!!!

 

髪を切ったよ、後ろだけ…もう耳より長くすることさえできないんじゃないかと思っていたけど、なんとか耳が隠れるくらいに伸びてきて、うれしい、、

 

GW中は連休はないけど休日はもらえてて、でも人混みが嫌すぎてほぼ家にいた。久々に大森靖子が聴きたくなって、YouTube見てたら道重さゆみと絶対彼女歌っててびっくりした。

 

メンヘラを売りにするのって音楽に関わらずサブカルチャーに浸ってる女の子の割と常套手段だと思うけど、大森靖子はこの界隈においてほんと大成功だよね。私の好きだったのはちょっと前のギター1本で弾き語ってた時だから、今のピコピコした音楽は好みど真ん中ではなくなったけど。相変わらず風俗的な表現でわたしの気持ちなんで知ってるの?って思わせるのがうまい、、

 

あと、自分の見せ方を知ってるっていうか、大森靖子はメンヘラを徹底的にエンターテイメントとして昇華させてると思う。そういうキャラとして自身をプロデュースしてるっていうか。だから変に保身に走ったり、恣意的な内容でブレたりすることがないのかなって勝手に考えて納得した。

 

道重さゆみが大好きで会いたくて歌手になって、夢叶えただけじゃなくて楽曲提供までしてて素直にすごいよ。有言実行な上、好きなものがずっと変わらないのも格好いいなぁ。

 

好きな曲はいろいろあるけど、今日はライブ版の「音楽を捨てよ、そして音楽へ」を聞いたらなんか泣きそうになっちゃった。おわり。

4月28日

(こういうところでは書いてこなかったこと。記しておきたいから書いた。いつもに増して暗いから、元気ないなら読まない方がいいと思う。)

 

 

 

わたしは友だちと毎日連絡をとったり会ったりすることが苦手なんですけど、でも友だちのことはちゃんと好き。そして誰が1番の親友っていうのもない。わたしの中でそれぞれ友だちが担当をもっていて、自分の話したいことやコンディションによって会いたい人が変わる感じ。そもそも距離的な問題で全然会えてないけど。

 

もう二度と会えない友だちがいる。仲良くなった期間っていうのは結果的にそんなに長くなかったと思うけど、彼女は既にちゃんと私の担当を担って、定期的に会いたくなる人だった。そんな彼女がいないことをわたしは受け止めているような気もするし、やっぱり遠いところにいるだけでまた会えるんじゃないかと期待してしまうこともある。

 

詳細は書かないけど、その日のことは鮮明に覚えてる。まだ埼玉に住んでた時。遅番出勤の日だった。お昼の12時ごろにツイッターみて、すごく嫌な予感がして、電話したけど繋がらなかった。そのまま、いなくなってしまった。

 

あと2時間早く気づいてたら、もしかしたら何か違ったかもしれない。…いや、変わんなかったかもしれないけど。ずっと後悔していて、これからも後悔し続けるんだと思う。だって、その前だって映画行こうって誘ってくれてたのに、結局残業してて実現しなかった。こんなことになるんなら、仕事なんてほっといても、会いに行くべきだったんじゃないのか。彼女の状況だって、なんとなく察してたのに、私はなんにもしなかった。

 

いつだって自分が1番可愛くて、手を差し伸べることをしなかった自分を呪ってやりたくなる。わたしがどうこうしたところでって思うかもしれないけど、忙しいことを理由に何もしない選択をしたのは、だれでもないこのわたしなんだ。こんなことを考えても仕方がないのも分かってる。でも、私は彼女を思い出すたび、そういう気持ちにならざるを得ないよ。彼女の顔、声、好きな歌、、とかできるだけたくさんを覚えていたいと思うし、その一方で考えるとぐずぐずの気持ちでいっぱいになって、どうしようもなく虚しい。弔うってどうしたらいいんだろう。

 

2年が経った今も、結局わたしは自分のことに精一杯で、なんにも変わっちゃいない。彼女は寂しかった、愛されたかったと言っていた。もう誰かをそんな思いにさせたくないよ。目の前の人だけでも守れるなら守りたいよ。わたしにできることは何だろう。問い続けてばかり。

うんざりですよ

今日はコミュニケーションが下手だった。変に人の顔色を伺ったり、その表情や語気に対する感受性が強すぎる日だった。お客さまとの電話でも上手く話せず、聞き返されることも多かった。疲れて頭が回らなくなって、だんだん気持ち悪くなってきた。

 

なんだかそういう時の私はひどく弱気で、高校の教室のドアを目の前に立ちすくんでいたあの頃に戻ってしまう。26にもなって、という感じだけど。あの時は教室に入れなくてそのまま家に逃げ帰っても、受け入れてくれるところがあったんだけど、今はないから、冷静になって踏ん張るしかない。

 

…大丈夫、私は出来は良くないけど踏ん張れる子なので、ちゃんと今はドアを開けられます。

 

今日もやるべきことを片付けて、1人で暮らす家に帰ってきたよ。前に社会に出たら業績が全てだって書いたんですけど、会社が家や学校と大きな違うのは、「そのままでいい」って言ってくれないところなのよね。私は本当は怠惰で弱い、色々諦めている人間だけど、そんな私を会社は必要としてないから、真面目に努力して頑張ります!って言っている。でも、どこまで続くかな。

 

そのままでいい、って言われても大概その言葉を信じることができた試しってないから、まぁどっちにしても他人の期待に応えたほうが自分自身よかったりする。クソだめな自分をどうにか慰めて許容する労力よりも、客観的に見てイケてる自分を努力して作り上げるほうが楽な場合があるということ。うううん、自分で書いてて思うけど動機が不純すぎない?

 

やっぱりなんでもっとまっすぐな人間になれなかったんだろう。もうちょっとマシになりたかったな。だめだだめだ、今日はやっぱりだめな日なんだ、、、

 

ニュー社会人へ

びっくりした、もう4月が始まっていた。

 

学生の時なら春は学年上がって履修組んだり、卒業までのカウントダウン数えて、新しい出会いがあって。何もしなくても外から季節の変わりを教えてくれたものだけど、ここ最近は繁忙期で春の訪れを知ります。あとは麻素材の商材の入荷も職業的春の風物詩。できたらもう少し感傷的に季節を受け止めたい。

 

今日から新社会人の子たちもいるんでしょう。おめでとうございます。社会に出るのはとても怖いと思います。私は上司に生意気な態度をとったり仕事がかさむと怒った犬みたいになってしまう社会人なので、特に立派なアドバイスはないです。

 

でも私が社会に出ていくつか気づいたことがあって、楽しい社会人になってほしいから勝手に綴ります。

 

ひとつは、金があることは精神的余裕に繋がるということ。時給制ではなく毎月決まったお金が口座に振り込まれるというのは思ってる以上に安心材料だったよ。金がないとなにもできないけど、金に物言わせるととても美味しいものやびっくりするようなサービスを受けられます。多少の出費にも、寛大になれます。金が全てではない、とよく言いますけど、それはお金があるからこそ言えることだと思う。

 

2つ目は、意外と大人はしっかりしていないということ。サラリーマンの評価は、人柄ではなく業務の実績が全てです。だから仕事のできるやばいクズみたいなのがいっぱいいます。ほんとにめっちゃいる。今まで接したことのないようなタイプの人たちも同じゴールを目指す仲間で、それは私にとってとても新鮮だったし、そういった人たちと仲良くなれたのはよかったなって思うよ。

 

1年目なんてなにもできなくて当然なので出会いを楽しんでね。でも仕事だけにはなんないでね。あなたはあなたのままで、社会に馴染んでいったらいいよ。私もがんばるね。

分かりあえない

相手との会話の共通項が減った時、ああ自分は変わったんだなと実感する。

昔わたしはずっとダウナーな感じでひどい時には電車に乗れなかったり人に会えなかったりした。1週間に1回は自室に引きこもらないと具合が悪くなり、それでよく泣いてた。死にたかったし、自分には価値がないと思っていた。

就職するにあたりそれなりに覚悟を決めないといけないと思った。明るい人間になろう、いや、なれなくても公共の場に則した人格で振舞おうと決意した。

そしたらだんだん行動が性格に影響してきたのか、死にたい夜は依然としてあったけど、回数は減っていった。仕事を辞めたい、正社員のレールから脱線したら自殺しようと思ったりもしたけど。ちょっとずつ、変わっていった。

今でも、八方塞がりになったら死んでもいいルールは現存している。でも、そもそも死にたいと思わない。仕事に行きたくない日もそりゃあるけど、わたしがいないと進まない業務が増えたし、やりたいことを見出してそれを遂行したいという思いがあるから。休みの日に悶々とするより、職場に行って手を動かした方が気持ちが晴れる場合さえある。やりがいに生かされているのかもね。

そんな日々を過ごしていたら、わたしは死んでしまいたい、という友人たちの気持ちが分からなくなってしまった。昔はあれだけ共感できていたのにな。今の自分が、死にたいと思わなくなったのか、それよりも仕事に気持ちが向いているから気がついていないだけなのか、分からないけど。前向きな提案ならきっといくらでもできるけど、ただ、うんうん、と頷くことは至極難しいことになってしまった。

まるで仕事讃歌に聞こえるかもしれないが、そういうことを言いたいんじゃなくて。これからどうなるかなんてみんな分からないし。共通の話題がなくなったあの子たちと縁を切りたいとかではなくて、ただただ、もう分かりあえないかもしれないことを寂しく思う。

家具のおじいさんの話

出張で東京や大阪に行った時は、できるだけ色んなお店を見て回ることにしている。で、見たり聞いたりしたことを帰ってきてスタッフに話す。みんな鹿児島は好きだけど、田舎ゆえの狭さを憂いているところはあって、わたしが話すと目をキラキラさせて聞いてくれるのが嬉しくてやっている。

 

というわけで今回はお仕事の話(備忘録に近いです)。

 

どこで何を見るか考えた挙句、目黒通り沿いにあるアンティーク家具を扱うお店を中心に回ることにした。好きな古着屋さんがあるけど今日はスルー。収穫があってもなくてもいいやというスタンスでぶらつく。

 

中目黒駅を降りて五反田方面へずっと歩いていく。夕方だからかオシャレな犬たちの散歩に出くわした。駅周辺こそあたり一辺洗練された街並みだけど、だんだん潰れたラーメン屋とか汚い定食屋がぽつぽつ現れる。そして、「松本民芸家具」の看板が目にとまる。

 

伝統工芸的な感じだったら違うかなぁと思いつつ入店。1階をぐるっと見て回り、階段を上って2階に上がると、「こんにちは」とおじいさんが声をかけてきた。

 

「ほらあなた、あの奥にあるソファに座ってみて」と促され、驚きつつレンガ色のクッションが綺麗な1人がけのソファに座る。「はい、そしたらこっちのソファに座って」ぱっと見同じデザインの、3人がけのソファに移る。座ってみると全然違くて、こっちの方が断然、安定感がある。今まで感じたことがないくらい、座り心地がいい!

 

「全然違うでしょ。そっちは西洋の寸法で、今座ってるのが日本人向けの寸法だから」

 

おじいさんによれば、日本人は小柄で胴が長く(西洋人よりも腸が3m長いんだって)家では靴を脱いで暮らしているから、靴を履いたまま生活をする大柄な西洋人の家具は身体に合わないそうだ。身体に合わない椅子は椅子ではなくてただの腰掛けだと言う。

 

「でも、みんなカリモクやマルニの家具がいいって言うでしょ。何がどういいの?家具は生活に関わるものなのに、見た目でしか選べない。そんなだからみんな身の丈に合ってないデカいソファを買うんだよ」

「どこでどんな家具を買ったっていいけど、何がよくてそれを買うのか。それが見た目しかないって言うのがね」

なんだか説教に近い調子で、おじいさんは繰り返す。

 

その後もおじいさんの家具談義は続く。この店にある家具はその道20年以上の職人たちが丹精込めて作っていて、デザインは昔から変わらない。椅子で言えば1脚10〜15万ほどするが、親子三代で使えるくらい丈夫だと聞くと、なるほど安く感じられる。実際、展示してある家具は30〜50年前に作られたものばかりだが、ガタつきは一切ない。新品は黒に近い見た目で、年月が過ぎると明るくなり木目がはっきりしてくる。その時間の経過も楽しんでほしいそうだ。

 

1時間ほど話を聞いて退店(長かった…)。でも私も一応商売人の端くれとして、色々考えさせられた出来事で。自分たちが売っている商品は果たして本当に生活に必要なかたちをしているかとか。仮にそうだとして、何がどうよいのか伝えられているのか、とか。何を元に価値判断を行うかはお客様に委ねられているけど、まずは私たちが情報を提供しなきゃね。

 

すごく悶々としたまま鹿児島帰ってすぐ、仲良い社員3人で飲んでこの話をしたんだ。そしたら思いの外みんな熱くなっちゃって、なんか学生に戻ったみたいに語り合ってた。それが妙に嬉しかった。久々にワクワクした夜だったんだよ。