狩猟採集民のように走ろう!

狩猟採集民について学びながら、現代社会や人間について考えるブログ

毎日更新することにします。

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先週の金曜日は友人の通夜、土曜日は親戚の結婚式でした。どちらも埼玉県だったので、安宿に泊まって埼玉県をジョギングしようとおもっていたんですが、「お通夜と結婚式を掛けもちするなんてとんでもない」と妻に言われ、「そんなものかな」とモヤモヤしつつも金曜日はうちに帰ることに。両日ともクタクタになって、結局走らず。日曜日も雨が降り、寒くて走らず……。

そんなこんなで、月間目標180kmが危うくなっています。27日からの5日で49km走らなきゃなりません。27日11km、28日10kmとゆるジョグし、残り3日で28kmとなりました。

写真は府中・大國魂神社の枝垂れ桜。きのう(3月28日)、19時にライトアップ終了になりますが、数分前に到着しました。雨も降っていたため、数分間一人占めでした(スマホのレンズが濡れていたのか、映りが悪かったので、小さめに掲載します)。気温が少々低くても、半月前と比べて体感温度がずいぶん違います。神社からの帰途、ずいぶん濡れましたが、寒いとは感じなかった夕方でした。

間永次郎『ガンディーの真実』2/2

ロンドンで英国法定弁護士資格を取得したガンディーは、南アフリカにわたり、インド人移民が多かった南アフリカに渡ります。

1880年代、彼の地で、ガンディーは理不尽な人種差別を体験します。チケットを持って一等車に乗っていたのに、白人乗客な鉄道員が乗り込んできて、三等車に移るよう命じたのです。チケットを示してそれを拒んだガンディーは、荷物もろともマリッツバーグ駅に放り出され、寒さをこえらながら待合室で一夜を明かします。

翌朝、ガンディーが乗合馬車に乗ったところ、態度が生意気だと白人乗客に暴力をふるわれ、走行中の馬車から落とされそうになります。真鍮の手すりにしがみついたガンディーを、白人乗客は容赦なく殴りましたが、周囲の白人が暴行を止めました。この不条理な差別体験をインド人の同僚に話しますと──

これを聞いて彼らが驚いたのは、ガンディーが語った人種差別体験ではなく、ガンディーが人種差別体験を問題視していることだった。[……]まさに、ガンディーを人種差別体験以上に驚かせたのは、明らかに不正に思える社会的慣行を、被差別者たちであるインド人地震が自明のものとして甘受している姿だった。(ゴシック部分は原文では傍点)

ガンディーは差別を受ける者と差別をする者の二項対立で物事を考えたのではなく、より俯瞰的な観点から、差別をする者さえもが野蛮な文明の被害者であると見なしたのであった。差別を根絶するために必要なことは、加害者を糾弾することだけではなく、システムを変革することだった。

[ガンディー]は、社会で最も巨大な「暴力」を可能ならしめるものとは、専制君主や暴漢やテロリストではなく、社会の大多数の人々の何気ない不正に対する同意であると考えるにいたった。個人の無思想が、社会全体の人種差別の淵源であると見たガンディーは、その不正に対する絶対的な不服従・非協力を誓った。生涯のある時点から、死よりも真実に忠実であろうと決心したのだった。

翻って、現代日本。安倍政権以降の数々の不正や、いま取り沙汰されている裏金問題や事実上の増税、防衛費倍増などなどに関して、《個人の無思想》が後押ししているのではありませんか? お〜い、みんな声を上げていますか?

わたしはみなさんにそう問いたいのです。

間永次郎『ガンディーの真実』1/2

あたくしは、反権力について考えています。ガンディーの非暴力不服従とはどんなものだったか、知りたくなりまして、ちょうど書店で『ガンディーの真実 非暴力思想とは何か』というタイトルの本を見つけたのでした。

まず、ガンディー(1869〜1948)の非暴力思想は、必ずしも「絶対に手を出さない」という意味ではなさそうです。ガンディーは、1920年、こんなことを話しているそうです。

もし臆病か暴力のどちらかしか選択肢がないならば、私は疑いなく暴力を選ぶように助言するでしょう。[……]私はインドが臆病な姿になって不名誉を被るのを大人しく見るぐらいならば、名誉を守るために武器を取るように勧めます。

《ガンディーは生涯の中で、幾度となく、自らの「非暴力」の意味を無抵抗(厳密には「受動的抵抗(passive resistance)」)と混同されそうになった時、非暴力は「臆病」とは異なることをはっきりと断言した。加えて、重要なポイントは、非暴力とはあらゆる力の否定とも異なることなるということである。》

《さらに、私たちは非暴力という思想を、専ら政治的なものであると考えがちである。ガンディーの非暴力は歴史書の中でも、ほとんどの場合、反英独立運動の文脈でのみ言及される。しかしながら、ガンディー自身は、非暴力を食・衣服・性・宗教といった一般的に人々の私的なものとされる関心事にも繫がる主題として語っていた。》

本書では、ガンディーの「サッティヤーグラハ」(真実にしがみつくこと)すなわち《自らが「真実」だと思う信念に決して妥協を許さないという断固たる意志・実践》について考え抜きました。

たとえば、「食」について。ガンディーのカーストはラクト・ヴェジタリアン(乳製品は摂取する菜食主義者)でしたか、動物はもちろん植物を食べることも暴力だと考えたガンディーは、南アフリカで活動した21年間、果実ばかり食べたといいます。味覚があるから旨い物を食べたくなるのだと考えて調味料も断ちましたが、のちに塩だけは身体のために必要だと考えたようです。

インド帰国後は、南アフリカ時代のようにフルーツが豊富ではなく、菜食主義者になります。ただし、これは食事に限らないのですが、ガンディーの考えは必ず遂行されたわけではありません。搾乳時に乳牛は痛みを感じると知り拒否したミルクを、ガンディーは結局やめられなかったそうです。

ガンディーに影響を与えたのはヘンリー・デイヴィッド・ソローやレフ・トルストイで、トルストイとは手紙を交わしていたんだとか。全然知らなかった。

読めばわかるとおり、ガンディーの思想には綻びもあり(エッチはダメだなんて、ガンディーさん、あんまりよ)、また、家族は彼のことを快く思っていなかったようでもあります。著者はガンディーの抵抗を《批判的に継承していくこと》が大切だと書きます。公民権運動の指導者マルティン・ルター・キング、『スモール・イズ・ビューティフル』のE・F・シューマッハー、政治理論家ジーン・シャープらが、まさしくガンディーの思想的批判によって「ガンディー主義」を継承しているのだとありました。

ちなみに、ガンディーは1日10〜12マイル(16〜19km)のウォーキングを日課にしていたそうです。1930年3月12日〜4月5日にかけて、イギリス政府の塩税に反対する有名な「塩の行進」が行われます。241マイル(約388km)を徒歩で行進する、集団的不服従の運動でした。ガンジーは当時60歳でしたが、行進は子どもの遊びだったと述懐しているらしい。

春分の日

春分の日、今年は3月20日。風が強いなかのジョギングでした。

リボンが真横に揺れています。俺が進むべきは左か、右か……。結局、向い風6キロ、追い風7キロ。自分を1キロ分甘やかしてやりました。

夏になると走る不整地が、舗装されていました。ここで行われる駅伝にはいいかも。

春分の日の太陽が沈みゆく……だからなんだってことありませんけど。

アディダス スーパーノヴァ ライズ

アディダス スーパーノヴァ ライズというシューズを購入しました。

数週間前、あるスポーツショップに行き、勝手に試し履きしてたら、女性店員に話しかけられました。「コロナ前はマラソンを走っていたけど、まだカーボンシューズを履いたことがないんです」と言うと驚かれました。そんなもんでしょうか。

彼女は見た目からしてランナーです。冷やかしのつもりだったのに、久々のマラソン談義が楽しく、最近のシューズ事情を聞きました。厚底シューズばかりになり、おじさんは浦島太郎状態です。

カーボンではないけど、同じように弾むシューズとして、アディダスの新作「スーパーノヴァ ライズ」を勧められました。店内を十歩ほどジョギングすると、グイグイ前に進みます。

インソールの土踏まず部分が盛り上がっているシューズが苦手ですが、その点では問題ありません。踵が高すぎるシューズも合いません。アディダスのサイトを見ると、踵のほうが10mm高いとのことですが、立ってみると、前足部よりヒールが柔らかいのでしょう、むしろ踵が沈む感じです。

「インターバルもできますよ」とお姉ちゃん。私は、まず減量なんスよ。

気に入ったのですが、その日は「少し考えます」と帰りました。もともと買う気がなかったし、消耗品であるシューズに1万円以上出さない主義ですし、「ネットで安く買えるかも」という魂胆もありましたし。でも、検索したところ、どこも定価です。1万5千円は払いたくないけど、折角ならあの店で買うか、と翌週末お店に行くと、あの女性店員が私を見つけて接客してくれました。ごめんね、ネットで買おうなんて思って。

初めて履いた日、グイグイ進むので焦りました。あと約4kg痩せるまで、6:30〜7:00/kmペースでタラタラ走るつもりなのに、このシューズは先に進もうとしちゃうんです。どんなにゆっくり走ろうとしても、6:00/kmを切ります。助けてくれ、これじゃ踊りつづけなければいけない赤い靴じゃねえか。何度も止まってゆっくり走るフォームを模索しましたが、徐々にペースアップしてしまい、結局、計11kmを5:45/kmで走りました。ふう。

スーパーノヴァ ライズを初めて履いた翌日、ミッドソールのないメレルベイパーグローブ(もちろん、安売りのものを購入しています)で走ったんですが、やはり身体が前に運ばれます。抑えても、6:00/kmペース。どうやら、しばらくそのペースのジョギングになりそうです。

びょんびょん跳ねる機能は「筋肉がサボるんじゃないか」という先入観があったんですが、正しい前傾フォームを強要され、お尻やハムの筋力を鍛えられそうです。歩くのには不向きだし、片足277g(27cm)は個人的にはちょっと重いけど、悪くないかもしれません。

お店で対応してくれた店員さん、名古屋ウィメンズを走ると言っていたけど、どうなったかなあ。

2月のラン

2月は150km走るぞ〜って宣言し、28日までに達成しないと、閏年だから得したね、と言われるところ。きちんと28日に、ジャスト150kmに到達しました。

全部、6:30〜7:30/kmくらいのダラダラジョグです。

寒い日、暑い日、雪の日、雨の日、風の日。猫の目みたいに天気が変わりました。

2月5日夜。雪が積もっているなか、近所のコンビニまで行ったんです。ジョギングで履くソーティマジック LTを履きました。ソーティマジックにはLT(Light?)と RP(Response?)の2種類があり、私はずっと後者を履いていました。LTは初めてです。

マンションのエントランスを出て、べちゃべちゃした雪を踏むと、ジワーッと水が浸みて冷たいのです。雪はべちゃべちゃで車のタイヤの轍はほぼ融けています。なるべく轍を選んで歩きました。「穴があくほど走り込んでないけどなあ」と、帰ってソールを見ると、通気性を良くするためでしょうか、もともと穴が空いているのでした。 知らなかったなあ。

2月24日のデモに立川でデモがあると知りました。たしかその日は立川・昭和記念公園でハーフマラソンのイベントにエントリーして、キロ7分くらいで完走する予定でした。そのあとデモと掛けもちできるかな。

ハーフは何時からだっけとチェックしたら、な、なんと、主催者から「参加者が少ないので中止します。参加費は全額返金します」というメールが来ていました。

申込みの受付終了が同月19日。返金の呼びかけが17日。返金申請の〆切が同月31日。私がそれらのメッセージに気づいたのが、2月14日。参加費用が5,000円。2週間遅れで返金の申請をしましたが……。

24日には、れいわ新選組の「増税反対デモ」に参加。今年、デモに参加したのは2度目かな、3度目かな。自公政権による悪政はもうやめてもらいたい。さすがに今回の裏金事件で、自民党が国を破壊し私物化したことがわかったんじゃないでしょうか。能登半島の援助もまったく足りていません。

さて、3月は180km走り、4月以降は200km走ることにします。

イリイチ『シャドウ・ワーク』

中学のとき日本史の先生がこう言いました。「古来、男は外で仕事をして稼いでくる。女はセックスでお返しをする」──そのときは言葉の成否を深く考えず、セックスという言葉を聞くだけで下半身をもぞもぞさせていた私ですが、今思うに、まるっきり資本主義の考え方なのでした。

イヴァン・イリイチ『シャドウ・ワーク』(玉野井芳郎・栗原彬訳、岩波文庫。原著は1981刊)が文庫化されていたので、早速読みました。

シャドウ・ワーク(影の仕事)とは、自立・自存の生活を奪い取り、財とサーヴィスの生産を補足する、支払いがない労役。女性に押しつけられた家事、会社でのお茶くみ、通勤時間、教師や看護師の厖大な書類づくり、経済成長に資する「自己啓発」などが含まれます。シャドウ・ワークの領域に囲いこまれた人々は逃れようがなく、時間、労苦、尊厳を奪われます。

私たちは産業社会に囲いこまれてしまって、ヴァナキュラー[根づいていること、土着]な価値を剥奪されました。イリイチは産業主義社会を批判し、人間のコンヴィヴィアリティ(自立共生的)な暮らしを取り戻そうと主張しています。

冒頭の中学教師の言葉に対しては、この引用をもって反論しましょう。

 〈シャドウ・ワーク〉と賃労働とはともに連れだって歴史の舞台に登場した。(略)〈シャドウ・ワーク〉への繋縛は、なによりも性[セックス]で結ばれた経済的なつがいをとおして、はじめて達成された。賃金を稼ぐ者とそれに依存する者より構成される十九世紀の市民的家庭が、生活の自立・自存を中心とする生産=消費の場としての家にとってかわった。

賃労働する男と、家事、育児、教育などシャドウ・ワークを請け負う子専業主婦のセットは、わりと最近、産業主義社会の成立とともに生まれたものだと、人類学の本を読めばわかるはずです。さらに、現代では《資本家も人民委員[コミッサール]も、ともに賃労働よりも〈シャドウ・ワーク〉からより大きい利益を引き出す》。要は、資本主義は女からより搾取しているのです。

本書で提示される、「ヴァナキュラーな価値」という概念はなかなか興味深い。産業主義以前、人間は自立・自存していて、固有の言葉や文化を持っていて、シャドウ・ワークなんてなかったのです。

たとえば、帝国主義が発明した「母語=つくられた標準語」は、征服した未開人たちにも教えこまれます。独自の(ヴァナキュラーな)言葉や生活様式は、徐々になくなり、自立・自存だった社会が揺らいでいきます。産業社会の下地が出来上がるのです。日本も、明治以降は標準語を作り、教えることになりました。莫大なコストをかけて学校で言葉を教えはじめたのです。アイヌや沖縄はじめ地方の言葉や文化はどんどん消えつつあります。

今や資本主義は暴走しています。

生態系を破壊し、多様性を拝し、富める奴らの欲望が肥大する一方の社会に、私はなんの希望も抱いていません。経済成長の名のもとで犠牲になっている人たち──イリイチのいう、隔離体制の犠牲者たち、すなわち女性、患者、黒人、無学者、低開発国の人々、中毒者、敗残者、プロレタリアートを解放し、ヴァナキュラーな価値や自立・自存を取り戻さなきゃなりません。