Muranaga's View

読書、美術鑑賞、ときにビジネスの日々

「ライトアップ木島櫻谷」展(泉屋博古館東京)

サントリー美術館をあとにして、新緑が美しい泉屋博古館東京へ。企画展「ライトアップ木島櫻谷 ― 四季連作大屏風と沁みる生写し」を見る。

木島櫻谷(このしま・おうこく)は好きな京都画壇の日本画家の一人で、特に《寒月》が大好きである。今回はその《寒月》は出ていないが、四季連作大屏風などの大作が展示されている。

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展覧会の Web サイトから概要を引用する:

大正中期に大阪天王寺茶臼山に建築された住友家本邸を飾るために描かれた木島櫻谷の「四季連作屏風」を全点公開します。

大正期の櫻谷は、独特な色感の絵具を用い、顔料を厚く盛り上げ、筆跡を立体的に残し油彩画のような筆触に挑戦しています。そのために櫻谷は、「技巧派」などと称されましたが、櫻谷の真骨頂は、それに収まらない極めて近代的なものでした。リアルな人間的な感情を溶かし込んだ動物たちは絵の中で生き生きと輝きはじめ、とりわけ動物が折節にみせる豊かな表情は、観る者の心に沁みます。

江戸時代中期(18世紀)京都で生まれた円山四条派の代表的な画家たちによる花鳥画表現を併せて紹介することで、櫻谷の「生写し」表現の特質をライトアップします。

木島櫻谷《燕子花図》大正6年(1917)

木島櫻谷は写実的な動物画も素晴らしい。持っている画集から、今回の展覧会に出品されていたものをいくつか。

木島櫻谷《獅子虎図屏風》明治37年(1904)

木島櫻谷《竹林白鶴》大正12年(1923)

今回の展覧会にはなかったが、大好きな《寒月》も載せておく。

木島櫻谷《寒月》1912年

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サントリー美術館の名品(ときどき、迷品)コレクションを楽しむ

ゴールデンウィーク最初の美術館巡りは、六本木方面。サントリー美術館から泉屋博古館東京、そして麻布台ヒルズまで足を延ばす。

「サントリー美術館コレクション展 名品ときたま迷品」が開催されている。展覧会の概要を Web サイトから引用する:

「メイヒン」と聞いてまず思い浮かべるのは、国宝や重要文化財に指定され、その芸術的な価値の高さを誰もが認めるような「名品」ではないでしょうか。しかし「メイヒン」とは、それだけにとどまりません。これまでほとんど注目されず、展覧会にもあまり出品されてこなかった、知られざる「迷品」の世界もまた、同時に広がっているのです。そしてたとえ「迷品」とされるようなものであっても、少し視点を変えるだけで、強く心を惹かれる可能性を秘めているかもしれません。そうした時、「名品」と「迷品」を分ける明確な基準はないといえるでしょう。

そこで本展では、「生活の中の美」を基本理念とするサントリー美術館コレクションの「メイヒン」たちを一堂に会し、さまざまな角度から多彩な魅力をご紹介します。作品にまつわる逸話や意外な一面を知れば、「迷品」が「名品」になることも、「名品」が「迷品」になることも——目の前にある作品がどちらであるのか、それを決めるのは「あなた次第」。自分だけの「メイヒン」をぜひ探してみてください。

漆工、絵画、陶磁、染織と装身具、茶の湯の美、ガラスの 6つの章から構成される。いくつか写真に収めたので、説明文とともに紹介する:

鞠・鞠挟(江戸時代)

蹴鞠は鹿皮製、鞠挟の架台は黒漆塗に蒔絵で渦巻きと上がり藤の紋を散らしている。

国宝 浮線綾螺鈿蒔絵手箱(鎌倉時代 13世紀)

蓋や胴の張りが強く表された量感のある手箱。表面は金粉を密に巻いた地とし、螺鈿による遠景の浮線綾文を等間隔に配す。北条政子が愛蔵した手箱の一つと言われている。

重要文化財 泰西(たいせい)王侯騎馬図屏風(桃山時代 17世紀)

初期洋画風の名品。オランダ・アムステルダムで刊行された世界地図の、周囲に描かれた図を拡大して彩色を施し、大画面へと仕上げられた。描かれているのは右よりペルシア王、エチオピア王、フランス王アンリ4世とされる。左端の人物はイギリス王など諸説ある。

おようのあま絵巻 上巻(室町時代 16世紀)

一人貧しく暮らす老法師の草庵に日用品を商う「御用の尼」という老女が訪れ、身の回りの世話をする若い情勢を紹介しようと言う。しかし結局は自分が老法師の妻になると言う悲喜劇。絵は建物の遠近法が無視され、すべてがアンバランス。このいびつさによって物語に滑稽味が増している。

重要文化財 染付松樹文三脚(みつあし)大皿(有田・鍋島藩窯 江戸時代)

鍋島とは佐賀藩の藩窯「鍋島藩窯」で焼かれた日本最高級の磁器で、主に徳川将軍家への献上品とされた。本作は盛期鍋島の染付尺皿で、見込には縁に沿って屈曲する松樹が巧みに図案化されている。外側面に木蓮の折枝文が丁寧に描かれ、蛇目高台の三方には葉形の脚が付く。

重要文化財 色絵花鳥文八角大壺(有田 江戸時代)

胴の四方に窓を設け、2羽の鳥が遊ぶ梅の樹と、池に枝を伸ばす桃の樹といった中国風の図様を交互に配す。黒の細線と赤・黄・緑・紫と金彩で描き出した本作は、ヨーロッパ輸出用の古伊万里金蘭手大壺のうちでも早い時期の作で、最上手の色絵を施した名品である。金蘭手(きんらんで)とは、藍色の染付を下地として、その上に色絵具で文様を描き、金彩を焼き付けたもの。しかし本作は染付が全く使われていないというものになる。

色絵梅枝垂桜文徳利(古清水 江戸時代 18世紀)

細くなめらかに伸びた頸に青い梅花文が散らされ、緑釉の下部も花形に演出されている。また貫入と呼ばれるひび模様が入る卵色の胴には、青と緑で枝垂桜が描かれる。現在、古清水(こきよみず)と呼ばれる初期京焼の一つ、御菩薩(みぞら)焼の作例である。

色絵桜文透鉢(すかしばち)(古清水 江戸時代 18世紀)

胴は円筒形で六角形の鍔縁(つばぶち)を付ける。見込に桜の枝を配し、花と枝は青、葉は緑の絵具を用いて柔らかな筆致で描く。鍔縁上面の角に桜花を配し、その間に緑の唐草を描く。側面には木瓜文(もっこうもん)を透かし、同外面の透かしの間に花菱文、七宝文、菊葉文、笹文を緑色で描いている。

青い釉薬「桜」を描くのは何とも奇妙。京都で作られた古清水は、赤を基調とする肥前・有田の金欄手との競合を避け、青と緑を多用したと言われている。

色絵赤玉雲龍文鉢(有田 江戸時代 17-18世紀)

口縁(こうえん)が鐔上に開いた厚手の大鉢。見込には中国風の雲龍を染付・赤・黄・金彩で描き、外側には赤字に唐草を巡らして、四方に丸く鳳凰と草花を交互に配す。本作は中国・明時代後期の金欄手や五彩磁器を模したもので、国内市場向けの高級品であった。

白泥染付金彩薄(すすき)文蓋物(尾形乾山 江戸時代 18世紀)

緩やかな方形の蓋物。表側には白泥・染付・金彩で武蔵野を想起させる薄(すすき)文様を描き、内側には白土を塗った白化粧地に染付で染織文様を施して、外側との強いコントラストを作り出している。尾形乾山琳派を代表する絵師・尾形光琳の弟で、京焼に多くの新機軸をもたらした。

緋綸子(りんず)地葵藤牡丹扇面模様打掛(江戸時代 18世紀)

緋色の綸子地に、糊置きや絞りで扇面、藤、葵、牡丹の形を白抜きにし、紫、萌黄、緑、金の糸で詩集を施した打掛。扇面には文様や花鳥などが表されており、扇の形は末広がりの吉祥文様として好まれた。祝いの席にふさわしい華やかな衣装である。

平四目(ひらよつめ)紋革羽織(一番組よ組)(江戸時代 19世紀)

松葉などを燻した煙で革を染め、模様を白抜きにする燻革(ふすべがわ)の技法が用いられた革羽織。襟に「よ組」の文字を表し、背中に「田の字」の紋章を配していることから、江戸に48あった町火消の一つ、一番組の「よ組」で使われた家事装束であったとみられる。

色絵七宝繋文茶碗(野々村仁清 江戸時代 17世紀)

京焼を大成させた野々村仁清(にんせい)による茶碗。碗型に整形した後、胴下部を八角に削って姿を引き締めている。口縁の外側に銀彩の帯を巡らせ、胴の中段に赤・青・緑の8個の七宝文を、下段に8個の蓮弁文を連ねる。七宝文と蓮弁文は白釉地に色絵で表し、金彩で輪郭を描く。

下地となる白の釉薬の上にさらに黒の釉薬を塗り、白抜きした部分に文様を施すと言う非常に手の込んだ表現方法がとられている。こうした華麗な作品は、今日の公家よりもむしろ武士、特に江戸や地方の大名が求めたものであった。

赤楽茶碗 銘 熟柿(本阿弥光悦 江戸時代 17世紀)

本阿弥光悦は 1615年、徳川家康から洛北・鷹峰(たからがみね)の地を拝領した頃から本格的に作陶を始めたとされる。本作は豊かに張った丸い形の赤楽(あからく)茶碗で、丈の低い手づくねによる歪んだ姿、胴に沈み込んだ低い高台はまさに「熟柿」の名にふさわしい。

藍色ちろり(江戸時代 18世紀)

伸びやかさと清々しさを兼ね備えた、凛々しい佇まいのちろり。胴の下半分を型に吹き込み、上半分は中空で成形されて、ふくよかな丸みを持つ。把手(はしゅ)はガラスを捻って作られている。本来、ちろりは酒を温める金属製の容器で形状も異なる。本作は冷酒用なのであろう。

薩摩切子 藍色被船形鉢(薩摩藩 江戸時代 19世紀)

正面に翼を広げた蝙蝠を、後方には陰陽勾玉(まがたま)巴文を配した大型の船形鉢で、良質なガラスと乱れのないカットが薩摩藩の技術の高さを物語る。蝙蝠の羽の部分は凸レンズ上に研磨され、藍色ガラスが美しいグラデーションを見せている。

飾枕(籠枕)(江戸時代 18世紀)

竹を編んで枕の形にした籠枕。風通しが良いため夏の昼寝などに用いられた。籠枕は中国の南方地域で使われていた抱き枕「竹夫人(ちくふじん)」を小型化したものともされ、江戸時代に長崎に伝わって広まったと言う。夏の季語ともなった。

一見素朴な籠編みの枕と思いきや、縁には精緻な文様が彫られ、象牙製の小さな扇の飾りが嵌め込まれている。秋田の久保田藩主・佐竹家の家紋であり、箱には佐竹家より到来したと記されている。

サントリー美術館の名品コレクションを堪能した後は、いつものように HARBS でランチ。毎回同じパスタを頼んでいる気がするので、今日は趣向を変えてみた。

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「旧派」の日本画を見る:「生誕150年 池上秀畝―高精細画人―」(練馬区立美術館)

老親を見舞った帰りに、練馬区立美術館で開催されている展覧会「生誕150年 池上秀畝―高精細画人―」を見る。池上秀畝(しゅうほ)という画家の名前は初めて聞くが、高精細画人という副題に惹かれたのである。

展覧会のサイト(チラシ)から概要を引用する:

池上秀畝(1874–1944)は、長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に生まれ、明治22年(1889)、本格的に絵を学ぶため上京。当時まだ無名だった荒木寛畝の最初の門人・内弟子となります。大正5年(1916)から3年連続で文展特選を受賞。また、帝展で無鑑査、審査員を務めるなど官展内の旧派を代表する画家として活躍しました。

同じく長野県出身で同い年の菱田春草(1874-1911)らが牽引した「新派」の日本画に比べ、秀畝らの「旧派」と呼ばれる作品は近年展覧会等で取り上げられることは少なく、その知名度は限られたものに過ぎませんでした。しかし、伝統に基づく旧派の画家たちは、会場芸術として当時の展覧会で評価されたことのみならず、屏風や建具に描かれた作品は屋敷や御殿を飾る装飾美術としても認められていました。特に秀畝は徹底した写生に基づく描写に、新派の画家たちが取り組んだ空気感の表現なども取り入れ、伝統に固執しない日本画表現を見せています。

本展は生誕150年にあたり、秀畝の人生と代表作をたどり、画歴の検証を行うと共に、あらたなる視点で「旧派」と呼ばれた画家にスポットを当てる展覧会です。


www.youtube.com

今回の展覧会が開催されている練馬区立美術館と長野県立美術館の学芸員が、池上秀畝と、その数々の作品を紹介している。

  • 東京画壇の中では「旧派」に位置づけられる荒木寛畝の弟子
  • 文展・帝展といった官展に毎回 2点出品して、3年連続で受賞している

ポスターやチラシに採用されているこの絵、《桃に青鸞図》はクジャクではなく青鸞(セイラン、鳳凰のモデルと言われている)を描いている。この絵だけでなく、多くの鳥を高細密に描いている。その写実性はなかなか凄い。

洋画と対比する中で日本画という概念が生まれた。『日本美術史』などの概説書で、近代日本画の歴史が語られる時には、フェロノサや岡倉天心をルーツとし、国際的に通用する日本画を求めて、朦朧体をはじめとする新しい試みを続けた「新派」が主に取り上げられるため、保守的な「旧派」の画家たちはあまり知られていない。この展覧会では、池上秀畝と同い年の新派のリーダー、菱田春草の絵と並べることで、その比較を行っている。

この展覧会を機に、日本画の「旧派」について少し学んだ。

古田亮『日本画とは何だったのか』は、新派・旧派を対比させつつ、近代日本画の変容の通史を描く、とても面白い近代日本画史論である。地方で受け入れられていた「旧派」の画家の一人として、池上秀畝が言及されている。

また草薙奈津子『日本画の歴史 近代篇』では、「忘れられた明治の日本画家たち」の一人として、池上秀畝の師匠である荒木寛畝(かんぽ)が「旧派」の重鎮(文展の審査員)として紹介されている。一時、洋画に転向して高橋由一に学んだ後、再び日本画に戻った画家である。東京美術学校岡倉天心が追われた折に、連袂辞職した‿橋本雅邦の後任として、教授となっている。

祝・本屋大賞受賞!宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』

小説をあまり多くは読まないのだが、去年『成瀬は天下を取りにいく』がめっちゃ面白かったので、続編の『成瀬は信じた道をいく』を速攻で買い、一気読みした。テンポよく、ムダなく、キレのある文章の青春小説。個人的には最終話のオチが気持ちよかった。

1月末にそんなことを SNS に投稿していたら、何と『成瀬は天下を取りにいく』が、本屋大賞を受賞した。宮島未奈さん、おめでとうございます!

www.hontai.or.jp

小説は何らかの受賞作の中から選んで読むことが多いので、自分が先に読んだ本が受賞することは初めての経験だし、その本がとても面白かったことについて「世間も皆そう思っていたんだ」とわかって、何となく嬉しい。

ちなみに宮島未奈さんのサイトはこちら。ブログは二つある。地元について書いたオオツメモと、数多くの資格取得経験(独学か通信講座)を語ったシカクメモ

muumemo.com otsu.muumemo.com shikaku.muumemo.com

32年ぶりに旧友と会う

研究所時代を 10年近く一緒に過ごし、公私ともにお世話になった旧友と、何と 32年ぶりに再会した。実家の家業を継ぐために帰省されてから、年賀状のやりとりをするくらいで、一度も会っていなかった。

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2人とも技術者というよりは、経営者として経験を積んでの再会である。中目黒にある「一饗」の美味しい料理を前に、経営者として会社を立て直した大変な苦労を伺いつつ、やはり懐かしい思い出話に花が咲く。

ikkyo.com

自分でも不思議なくらい、すっかり忘れていた記憶が、次々に思い出されてくる。劇団夢の遊民社の『小指の思い出』や『贋作 桜の森の満開の下』など、当時、衝撃を受けた野田秀樹の舞台や、そのセリフまで、20代の青春がよみがえってきたのだった。

中目黒の桜はまだ全然咲いておらず。おかげでふだんなら駅のプラットフォームから溢れんばかりの大混雑に巻き込まれずに済んだ。

「パーペチュアルカレンダー」の腕時計はパーペチュアルではなかった

長年愛用していた腕時計が止まった。電池切れが近くなると秒針が2秒づつ進むようになる。今回もその兆候を見せていたのだが、とうとう止まってしまった。

セイコー ドルチェ SACN007(キャリバー:8F32-0260)

2100年2月末まで日付修正が不要となる「パーペチュアルカレンダー」という特別な機構を持った時計のため、電池交換するのもメーカー修理扱いになる。

www.seiko-design.com

いつものように時計販売店に持っていき、電池交換をお願いした。メーカーによる見積もりをお願いしたところ、数週間ほどして回答があり、今回は電池交換だけでは済まず、オーバーホールする必要があり、それには3万円、つまりこの時計を買った時の価格の 1/2 弱の費用がかかるとのこと。

さらに交換部品が、もう製造中止になっているので、もし交換が必要となっても、それ以上修繕できないらしい。その場合、3万円を無駄にすることになる。したがってオーバーホールはやらないことにした。

また数週間かけて自分の手元に戻ってきた。なぜか復活して、秒針が4秒づつ進んでいるが、完全に停止するのも時間の問題だろう。

パーペチュアルカレンダーは、1998年に開発された画期的な技術であったが、残念ながらパーペチュアルではなかった。その名が示す「万年暦」ではなかったことになる。

僕がこの腕時計を購入したのは 2001年(2009年1月にメーカーに預けた時に「購入から7年半」と書いている)。20数年使い続けた愛着のあるものであるが、しかたない。あきらめよう。記念に取っておくことにしよう。

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マウリツィオ・ポリーニが亡くなった

マウリツィオ・ポリーニ亡くなった。完璧なテクニックを持つピアニスト。ショパンエチュード(練習曲集)を何度聴いたことだろう。そしてベーム指揮の「皇帝」や、盟友アバド指揮によるバルトークのピアノ協奏曲も。あぁ、ストラヴィンスキーの《ペトルーシュカ》も忘れられないアルバムである。すべて 1970年代のレコードである。

www.adnkronos.com

当時、少しでもピアノを習ったことがある人にとって、ポリーニエチュードは衝撃的だったのではないか?美しく濁らない音。清冽な響き。完璧な技術を持つと、こういう演奏が可能になるのか。「もっと歌うように」ショパンを弾くように習った人にとっては、その対極にあるような演奏とも言える。エチュードという練習曲集ならではの若きポリーニを象徴するような演奏である。ピアノを習う者にとっては、その完璧なテクニックは憧れであり、ヒーローのような存在であった。

僕がその 1972年の録音の演奏を聴いたのは、おそらく学生時代だから、当時は LP を持っていたのだろうか?それとも LP からカセットテープに落として、ウォークマンで聴いていたのだろうか?

ポリーニのファンの方が、ディスコグラフィー日本での全公演をまとめてくれているサイトがある。その情報を手がかりに記憶を辿ることができる。

僕がライヴでポリーニの演奏を聴いたのは、1989年4月19日の東京文化会館でのリサイタルである。人気のショパンシューマンを組み合わせた B プログラムのチケットは取ることができず、ブラームスシェーンベルク、そしてベートヴェンの「ハンマークラヴィア」ソナタという C プログラムだった。正直あまり興味のなかったシェーンベルクの音楽が、ポリーニの手にかかると、緊張感を持って面白く聴ける曲になっており、4階の席から身を乗り出すようにして聴いていたのを思い出す。感動のあまり、出待ちまでしたのだった。

スカラ座に安置され、葬儀も行われるとのこと。享年 82歳。合掌。