殺菌できない消毒

 ある幼稚園に通う園児たちとその家族に赤痢の集団感染が起きた。その幼稚園ではそれまで、水道水と石けんで手洗いをした後、さらに念を入れて、逆性石けん(塩化ベンザルコニウム)を薄めた消毒液へ10秒間程度手を浸させていたという。そんな幼稚園で起こった集団感染の原因を、当該地域の保健所が検討し報告している。これによると、感染源は消毒液だった可能性が指摘されている。すなわち、この幼稚園での使用状況を模擬的に再現した消毒液の中で、赤痢菌は殺菌されずに残っていたことから、そのような状態の液中へ手を浸した園児が次々と感染していったことが十分考えられたという。塩化ベンザルコニウムの消毒液は有機物の混入(手指を浸すこともこれに当てはまる)によって、殺菌効果が大きく低下することが報告されている。さらにこの園では通常用いられる濃度よりも低い濃度で使用していた上に、朝作った消毒液は一日中取り替えなかったという。
 幼稚園児の手指はバイ菌でいっぱいだから水道水の手洗いだけでは不十分などと、役所からお達しがあったはずもない。手を洗った後に消毒液へ浸すなんて医療施設みたいなこと(効果が低いので昨今は病院でもやらないそうだが)は、その園で独自に決めたのだろう。むろん幼稚園の先生方にしてみれば、園児達に良かれと思って消毒液を毎日作っていたはずだ。
 「自己責任」という言葉が新聞などによく登場するようになったのはいつ頃からだったか。戦争状態にある他国で武装集団に捉えられた人までが自己責任と突き放されそうになったから、この言葉は根強く社会へ浸透してきた感がある。自主的とか自律的なんていうのも似たような言葉だ。権威や専門家に頼らず独自の判断で行動するのがこれからは正しい、というか、そういう前提だからどんなリスクも自分で引き受けるのがこれからの世の中だと言われている感じ。それらが間違いなのかどうかはわからない。ただ、自分たちで素人なりに考えてドンドンやっていこう、っていう住民運動(最近で言えばNPO)のような行動にも、それ相応のリスクが厳然として存在する。でも例えば塩化ベンザルコニウムの消毒効果の変化なんて、知っていればなんてことないと思えるが、一般的な知識じゃぁない。
 じゃぁどうすればいいのかな。この一件については、健康な幼稚園児ならきちんと石けんで手洗いするだけで十分という保健所指導が入って落着している。でも赤痢患者が出た以上、消毒効果が無かったなんて知らなかった、じゃ済まされない話にもなるだろう。とにかく全国の幼稚園、保育園、ついでに小・中学校や老人ホームなんかにも、「通常の健康体なら石けんの手洗いだけにすべし」とか「塩化ベンザルコニウム消毒液を使う場合は...」なんて内容の規則を徹底させれば、少なくとも同種の被害は防止されるから良しとすべきなのか。しかしそれでは同種の被害は抑止できても別の種類の被害は防止できない。リスク、って言った場合、それは既知の事柄のリスクを指しているのが通常であって、未知のリスクはあまり議論されない。知らないんだから議論のしようも無い。
 そうすると、これはいわゆる危機管理も重要ということになるのか。どんなことが起こるかも分からないことを心配するよりも、起こった時にどうするかを準備しておく。それから情報収集も大切だろう。一般に野次馬というのは褒められるような行為ではないような扱いを受けるが、他人の不幸も明日は我が身と思えば野次馬するのも悪くない。
 こういうのを杞憂って言うんだろうか。

長い文を読むということについて

 長い文章が苦手。すぐ飽きてしまう。例えば3ページ以上だろうか。何とか見開きを読み進んでも、ページをめくるともう辞めたくなっちゃう。一応断っておきたいのだが、自慢しているわけでは当然ない。
 国語の時間というのは無意味に近かった。文章を「読む」ことは出来る。名前を指されて、どこそこを読め、と言われれば読むけれども、声に出して「読んでいるだけ」なのである。意味など取らなくたって「読める」から、お茶の子さいさいだなんて思っていた。サザンの桑田佳祐が曲を作るとき、歌詞の意味なんか重視しないで、音感で言葉を並べていると言っているのを昔に聞いた覚えがある(本当かどうか知らない)が、たとえばそういう感覚である。幸い、個々の文の意味は何となく解るから、傍線部の主語を書けとか、ひらがなを漢字にしろなどといった問題でテストの点を稼ぐしかない。この段落全体の内容を踏まえて以下の問に答えよ、なんてのは、無茶ださえと思った。
 本をたくさん持っている人は、それだけで自分には尊敬の対象であった。それだけの財産を本に費やす→いろいろな文章を読んでいる→私なんかよりずっと深い人生経験をお持ちだ、というおかしな論理がつながっていた。でも、蔵書の量と人生の深さはそれほど相関しないってことは30過ぎて知った。
 とりあえず今はそんなところ。オチは、無い。

医療職の方々、お疲れ様です

 誰とは言えないが、ある保健師の方が、これも誰とは言えないのだが、ある人が自分のことを「パラメディカル」と呼んだ、と憤慨されていた。「パラメディカル」とは医師以外の医療従事者を指す言葉だが、それに対応する英単語"paramedical"の接頭辞"para-"に、医療の本流でないというような侮蔑的な意味合いが感じられるとされ、これを"co-"に替えた「コメディカル」"comedical"と言う言葉を使う方が良いとされることが多い。医療現場での地位はどうしても医師の方が強いので、看護師や臨床検査技師の方々は、同じ医療に携わる職業としてそのあたりは敏感にならざるを得ない。「チーム医療」という言葉が使われるように、主従関係でなく、対等な立場でやりたいという意思の表れか。
 ところがどうやら、こういったこだわりは日本人だけらしい。慈恵医大の多田先生によると(放射線診断こぼれ話34:3題)、米国でも看護婦や技師は"comedical"なのだが、あくまで、

医師の指示のもとに医療協力する医療協力者
なのだそうだ。意味がねじれちゃっているのである。それでは"paramedical"はというと、検眼士(optimetrist)や心理学者(psychologist)、社会福祉士など、
医師以外で患者の治療をするために患者に触れることを許される医療者
を指すんだそうで、医師の指示無しで患者を診られる彼らは医師と競合状態にある。また一方、ある人のページ(病院のコメディアン)によると、英語圏では医師以外は皆"paramedical"であり、Googleの検索結果での用例を示して"comedical"じゃ「喜劇的」だと揶揄している。
 慈恵医大の先生の方が情報源もきちんと記してあるから、少なくとも米国での状況はその通りなのだろう。どうやらもうこれは言葉だけの問題ではなく、彼我の医療体制の違いとか、職場の人間関係が公私混同しやすい国民性とかといった話のようである。
 とりあえず、「パラメディカル」も「コメディカル」も使わない方が良いかも知れない。それでは何の解決にもならないが。

What are you doing?

 自宅で初級の英会話教室を開いている人から聞いた話。
 その人はいわゆる帰国子女で、旦那は米国人なので、家族の会話は日本語と英語のチャンポンなのだけれども、やんちゃな6歳と4歳の娘も、ついでに英会話教室の生徒に入れてしまっているらしい。
 で、ある日のレッスン。この日は"What are you doing?"(「何をしているのですか?」)と問いかけて、"I am playing baseball."(「私は野球をしているところです。」)などと答える練習をしていた。すると自分の娘が、それを聞きながら、何か違うな〜という顔で意外な発言。「それって怒られた時に聞かれる言葉だよね。」
 確かにそうなのだ。特に子どもにとっては。テーブルに落書きとか、料理に指を突っ込むとか、何かいたずらしているところを見つかるとまず、「何やってるの?」と聞かれる。そのあたりは日本語でも英語でもあまり変わらないから、この家の場合はよく"What are you doing?"となる。(おぉ、日常会話なんだねぇ。)ちなみにその娘が最初に覚えた英会話表現は、"Don't touch!" (「さわっちゃダメ!」)だそうだ。
 だいたい、目の前の人が何をやっているかなんて、普通は聞くまでもないことだからね。初期に習う会話にはそういうものが多いので、よく考えるとおかしいことはよくある。通常の会話なら、分かり切ったことを改めて聞く場合、その問いには何か別の意味(大抵は咎めている)があることになる。
 別に、こういう会話練習を批判するつもりはない。ただ、そんな日常レベルの知識も一緒に知っておいた方が、英会話としての習得も早いのだろうと思う。怒ったり怒られたりといった感情を伴うと、記憶は増強されるらしいし。

「なしくずし」

 ついさっきまで自分は、「なしくずし的に」と言った場合は「他に方策が何も無いのでしようがなく」に近い意味だと思っていた。「無い」から「崩れていく」と勝手に解釈していた。教養の無さを露呈し恥ずかしいがその一方で、まんざら皆がきちんと知っているわけでもないのだろう、とも思う(負け惜しみに近いが)。
 つい先ほどふと、「的」を取って「なしくずしに」とは言えないのかと思い、国語辞典を開いた。「物事を少しずつ片づけること。特に借金の返済」(新明解第二版)とあるではないか。全然意味が違う。こりゃまずいなぁ、とググってみると、

「物事がだんだんダメになって崩れていくこと」と思っていました。
なーんて、私なんかに比べればずーっと正解に近い。
 「的に」と後ろに付いた言葉は大抵怪しいものなのだが、私の場合それ以前でした、はい。

家を建てるだけの建築家

今日放送の建てもの探訪で自宅を紹介していた女性がおもしろいことを言っていた。「建築家は家を建ててはくれるけど、家を作るのはそこに住む自分達」だとのこと。中年女性らしい直截な言葉だと思う。建築士の立場でこう言われたらどう思うだろう。「家を建て」るだけなどと扱われたくはないのが建築士としてのプライドだろうと思う。番組の中でその女性は、自分の寝室に建築士が海の見える大きな窓をつけようとしたのを「最後まで抵抗して」小さくしたのだと自慢していた。その建築士はやはりどのように住まうかを自分なりに想像して発案したに違いない。ただ、結局その家に住み、維持していくのは施主。どんな風に想定してどんな風に工夫しても、引き渡しされた時点で自分の作品は他人が好き勝手できるものになる(納得済みだろうが)。古い建築物を保存するのも結構だが、古いという時点で既に当初建てた物と現存する物とは明らかに変わっている。絵画や骨董品だったら改変された時点で価値が下がるのにね。いったいどこまでが建築の芸術なのだろう。建築士が芸術家の仲間だとしたら(時々そういう風に見えるんだけど)、彼らはどういうところに芸術家としての充実を感じているのだろう。「住んでも良いけど、なるべく触らないでね」とか本音で思ってたりしたら、それはそれでかわいいが。