畳み掛ける

 

扉を開けては次の扉を目指して走り…開けた扉は決して閉めることをせず、そこからだくだくと水が流れて足元に溜まり、気づかないうちに身動きがとれなくなっている。それでも目の前の扉を開けずにはいられない。そんな毎日。

 

水が引くの待っていると、大事にしていたものも一緒に流されてしまいそうだ。動悸はとまらない。開けては開けては、どんどん開けていかないととあせる。水が必要だ。ここちよい温度の水が。

 

水はドアの外側からやってくる。夏が近いから温かい水や清流のように厳しい冷たさの水もある。みんな混ざる。水の温度にはいつのまにか慣れている。その水圧に押しつぶされそうになる。

 

冷たさは目を覚ましてくれる。あたたかさは安心感を与えてくれる。生ぬるい水は気持ち悪さを感じることもある。

 

そうやって毎日は絶えず出来上がっては流されていくのだ。

春にはまだ早い

 

 春にはまだ早い。しかし暖かい日が2日ほど続いている。新年が明けてからの抱負、頑張りたいことなど昨年からあれこれ考えていたものの、その勢いとは裏腹に穏やかに一年ははじまった。車の洗車をして、散歩をして、次の日にはモーニングのバタートーストを頬張る。一年をおだやかにすごしたい。こんなにも日差しの眩しい日々ばかりが続いてゆけばいいと思った。

 

 思えば昨年の今頃は鬱の闇の中にいたものだから、比べるその対象に驚いているのかもしれない。もし去年の自分がこの日記を見ていたら、どうか安心してほしい。あたたかいひとや環境に囲まれている。春にはまだ早いけど、外に出ても寒くない日がきっとくる。

 

 しかし一人で生きていくにはまだあまりにも未熟だ。そう思う。ひとに寄りかかってはふらふらとなんとか日々をこなしている。まだ1人でどうやって生きていったらいいのか何もイメージできてはいない。自分ひとりで生きていけるようにと、個人事業主としてやっていく、そのために資格を取得することなど去年は空想していたが、それにしばられなくともいいのかもしれないと考える。ホッファーやブコウスキーのように、日々色んな職で食い繋ぎながら、やりたいことだってできるのだ。読書は自分にとってここではないどこかへ連れていってくれる存在でもあり、地に足つけろと諭してくれる存在でもある。

 

 どこまで歩いても歩き疲れない。そんな一年にしたい。

 

 

そろそろ種を蒔きたい

 

 今の日々はかなり不安定な土壌の上に成り立っていて、下の土ばかりに気を取られていると今度は目の前のことが全く見えなくなり、ただ動くのが怖くてうずくまっているようなものである。こんな風にいうと可哀想に思えるが、地面に水をまいたのは僕だし、その場に好んでうずくまっているのもまた僕であるので、そう考えると致し方ないと思う。

 

目の前のもやが晴れるようにと書店に行っては本を買い、メルカリでは欲しい本を探す努力を惜しまない。狭い部屋には寝るスペースのほか至るところに本が散らばり、お金はないはずなのにあまりにたくさん本が出てくるので、家族は僕のことを奇術師か何かではないかと訝しんでいる。

 

この後の人生は、そんな風にして本を読んでいた日々をいかに思うかで変わってくると思っている。自分を正当化するわけではないが、本が悪くないということだけは言っておかなければいけない。本だけが今自分のいるぬかるんでいる土壌を豊かにしてくれると思う。

 

 『アラブ、祈りとしての文学』を途中まで読む。文中に引用される小説の部分を読むことで、パレスチナ難民であり作家である人たちのまなざす物語に触れる。その物語の先にある風景を僕は知ったとはとても言えないが、それを読むことを通して遠くの地に想いを馳せる。この本のよいところは、著者が様々な物語を引用しながらパレスチナの歴史的背景にも触れてくれるところで、そこで何が起きているのかわからない人も手に取りやすいと思う。著者のメッセージも力強くうつくしい。

 

 『白鯨』は序盤でつっかえている。出てくるモチーフや、言葉自体に慣れずなかなか読み進められないのである。自分が神話などに馴染みがないことも影響しているのだろうか。いずれにしても、この物語を年内に読み切るのはなかなか難しいので、図書館で借りている本を先に読もうか迷っている。 

 

 クリスマスのプレゼント交換のためのプレゼントを買い、日用品の買い物をすませながら、もうすぐ終わる1年のこと、なかなか読み終わらない本のことを思った。

 

 

冬を感じた。

 

 朝、愛車のタイヤを冬用に交換する。

軍手の外から染み入ってくる冷たさはもう冬だと思いながら、ジャッキで車体をあげてタイヤを外していく。

 

 年月や季節を感じることのできる感覚というものが、自分の中にどのくらいあるものだろうと思う。農業を営んでいるひとや、毎日木々に触れるひとは、その手の先にあるものたちからきっと教えてもらえるのだろう。テレビを毎日つけて、日々のニュースに敏感なひとは、その耳から時節の情報などを得ることはできるのだろう。日々の中にある確かな変化に気づけるように、感覚を研ぎ澄ませたいと思いながら、暖房を点ける手に躊躇いはない。

 

 と、そんなことを考えたのはパワーズの『オーバーストーリー』を図書館で借りてきて、その始めの数ページを読んだから。そこには木の年月についての描写があった。『白鯨』を読み進めたい気持ちもありつつ、返す期限のある『オーバーストーリー』を優先して読んでいくことになるかと思う。装丁がよくて手に入れたい気持ちはやまやまだが、値段が値段なので読み終えてから購入を検討することにしようと思う。

 

 

布団と海と

 

 今日は気圧の影響か身体が重く、午前中は外の雨音を聴いて過ごした。雨の日に落ち着いて過ごすことがとても久しぶりなことのように感じる。こんな日は随筆など比較的短く読みやすいものを読もうと思い、小沼丹『ちいさな手袋/珈琲挽き』を手に取り数篇読む。

 

 昼にじいちゃんにもらった助六寿司を食べると、少し身体が持ち直した気がしたのでメルヴィルの『白鯨』に取り掛かることにした。この小説を読むに至った経緯は単純で、まとまった時間のある今読んでおかないとこの先読む機会を失ってしまいそうだったからだ。2段組の本を読むのは初めてで、小学生の時に初めて『ハリーポッター』シリーズを手に取った時のようなワクワク感がある。第六章まで読む。

 

 語り手イシュメイルはこの世に興味を失い、大海原へ出ることを決意する。このイシュメイルの行動のスケールの大きさに驚いた。ある日ふと世の中が退屈になった時に行く場所といったら、僕の場合間違いなく"布団"だとおもう。

ホッファーも季節労働者として鳥のように移動して生活していた時季があり、このような生き方もあるんだなと思った。自分の世界を布団から広げていくにはどうしたらよいのか考える必要があると布団で考えた。

 

 そして大海原へ出るために海沿いの街へ繰り出すのだが、あいにく宿屋はどこもいっぱいで、食人族の銛打師と寝床を共にすることになってしまう。いきなり食人族と一緒になるなんて、旅のスタートとしては迫力満点。続きも楽しく読み進められそうです。

 

今日はここまで

 

 

自分の物語を語ること

 

https://muu-hu.hatenablog.com/entry/2021/12/28/054110

 

 この日記を初めて公開してから、1年がたとうとしている。あれから僕は当時勤めていた会社をやめて、無職として静養することを決めた。それから早くも半年が経とうとしている。

 

 身近な人々に支えられて、たべることやねることは徐々にできるようになってきていて、沢山の人がいる場所は苦手だが人と会うことそれ自体は苦でなくなってきている。

 

 イサク・ディネセンの小説とエリック・ホッファーの自伝を最近たまたま手に取って読んでいた。どちらの本からも、「自分の物語は自分自身で物語っていくこと」というメッセージを感じ(個人の所感です)、また再びブログを継続的に続けていこうと思い立った。

 

 いつかの僕のために物語の道筋を忘れずにとっておきたい。

 

 

緊張すること。

 

なにに緊張するのかなと考える。

 

自分の隣を車が通っていくこと。

明日初めて通る道を左に曲がること。

鳥のふんが急に落ちてくること。

電話の先にいる人の顔を想像すること。

電車の中の人がなんでか怒っている気がする。

できないことができなかったら。

静かなこと。

遠くの人のこと。

友達がなにか心配してること。

とおくから話がきこえてくること。

 

ぜんぶ余計な心配なのだ。と思ってしまう。

 

余計ってなんだろう。

CHAGEASKAに相談したい。

 

昔小学生の時に地球滅亡論のテレビを見て、世界が平和でいられるように10回お祈りすることが日課になった。その時イラクは戦争していたし、僕が生まれたのは1995年だったから、小学生の頃にはとっくに大予言の日は過ぎてきた。

 

いったいいつ心配するのをやめてしまったんだろう。