muuchan-sensei’s blog

プロ飼い猫であるむーちゃん先生が飼い主の独り言をまとめている。飼い主は都内の某外資系IT企業で社畜ライフを満喫しながら日々何かを模索しているらしい。

アートを買う理由

最近合理主義に走り過ぎると人生がつまらなくなるというテーマのブログを書いた。

 

muuchan-sensei.hatenablog.com

 

タイトルにピンと来た方は是非共読んで欲しい!のだが、要は

 

「何でもかんでも合理的かどうかで物事を判断しながら過ごしていると心が死んでしまうよ、人間の存在こそ非合理極まりないのだから心の赴くままに過ごしてみる時間を持つことでバランスよく生きよう!」

 

という全力で岡本太郎先生の影響を受けまくった内容なのだ。(詳しくは先生の名著「自分の中に毒を持て」をどうぞ)

 

「心の赴くままに行動する」という意味はつまり、「やりたいからやる」という意味である。

 

カッコよく見られたいから筋トレをするでもなく、仕事で役立つから簿記の勉強をする訳でもなく、ただ風を感じたくてバイクに乗る、土をいじりたいから庭の手入れをする、シャボン玉が見たいから膨らましてみるといった特定の目的を持たない行動である。

 

自分の場合は何が当てはまるだろうと考えた。真っ先に浮かんだのがギター演奏だ。心赴くままに弾いてみる。すぐに飽きてしまった。新しい曲にも挑戦してみる。お、少し楽しくなってきた。夢中になる。しかしある程度コツが掴めた状態で飽きてしまった。

 

何がいけないのだろうか?答えはすぐに見つかった。いつもギターを弾くモチベーションは披露する機会があったからだ。学生時代は何とか自分のアイデンティティが欲しくて、学園祭や何気ない放課後なんかで披露するためにやたら練習していた。それが純粋に楽しかった。

 

今はどうだろうか?バンドは少し休眠させている。新しい曲やスタイルの方向性が自分の中でまだ定まっていないからだ。楽器を持つといつも新しい曲のアイデアはないだろうかと、何か曲を作る目的の練習になってしまう。そして新しい曲をいつも作りたい理由は自分の名刺がわりになるような曲が欲しいからだ。その曲を元に少し有名になりたいとさえ思っている。ここでもやはり目的が先行してしまった。

 

次に映画鑑賞が思い浮かんだ。映画館に見にいく場合もあれば、レンタルショップで借りる場合もある。ここでも一つ問題にぶち当たってしまった。気が付いたら今のプライベートや仕事の悩みを解消してくれそうな、そうしたヒントになりそうな映画といった軸で選んでしまっている自分がいたのだ。ここでも目的が先行してしまった。

 

そして今日ついにコレだ!!と、頭がぶっ飛ぶぐらい嬉しい瞬間に遭遇してしまったのである。

 

今日は子供服や家具を見に妻と自由が丘をぶらぶらしていた。そこで立ち寄ったIDEEにて、下記の作品を発見したのだ。

 

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観る人によっては何も感じない人もいるだろうが、ぼくは何かよく分からないエネルギーが全身から湧き出て、「...欲しい!!!!」と全力で感じたのだ。

 

久々に心が躍動するのを感じた。まだ買ってもいないのに部屋のどこに飾ろうか、廊下に飾れば毎日この筆の質感を見ながらうっとりできるな、だとか、この少し不気味な目で真夜中トイレに立った時に睨まれたらゾワっとするだろうな、だとか色々妄想してしまったのだ。

 

よくよく考えたら「アートを買う」という行為こそ、ただ欲しいから買う、その作品と共にただ上質な時間を過ごすということに他ならないのだ。(投資目的だとか、有名画家のアートを見栄の象徴のように買い漁る行為は別だが)

 

別に他の誰に見せる訳でもない、自分が「所有している」という感覚を味わいながら、作品が醸す様々な表情を味わう。この上ない幸せじゃないか...!

 

今までアートに高い金を出して一体何が楽しいのだと考えていたのだが、実際はアートを高値で買うという行為こそが非合理極まりない行為かつ最高に人間らしい行為だと気づいたのだ。(ただの合理主義的観点で見ると人を殴る鈍器のような目的でしか使えないし)

 

国宝級の絵画を鑑賞しにいくだけ、という楽しみ方ともまた少し違うのだ。コピーを買って楽しむでも無いのだ。(もちろんそれはそれで楽しむけど)作者の息遣いが見えてくるような「本物」の作品を「毎日」眺めて楽しむことに意味があるのだ。

 

アートコレクター。うん、響きも悪くない。新しい趣味を見つけるとこんなに気持ちがいいのか。

 

予算は最高でも10万以内にしよう。有名無名は考えず、心赴くままに良いと思ったものを手に入れよう。そんな素敵な経験をするために仕事を頑張る、という考え方も悪くはない。

かめのように生きる内向型、うさぎのように走る外向型

どうも生まれてからずっと生き急いでいる感覚がしている。

 

幼稚園の頃はみんなとわいわいがやがやするのが得意では無かったらしく、気の合う仲間とだけゲームの話をしたり、普段入ってはいけない体育館の隅っこの本棚にある世界の昆虫を載せた大きな図鑑を忍び込んでずっと読み込んでいるような子供だったらしい。この頃はまだ何にも影響されていないからか、自分の本性に近い行動をしていたのかもしれない。

 

それからそれなりに器用にやっていたのだろう、小学校、中学校と友達もそれなりに多く、成績もそれなりに良く、運動神経も悪くはない。また、学級委員長を良く任されるようなタイプの人間だった。

 

きっかけはそもそも自分が人と比べて体力があまりないと感じ始めた頃からだろうか。

 

小学校、中学校と野球部に所属していたがいつも練習後に遊びでサッカーを始める部員をよそにぼくはどっぷり疲れきってすぐ家に帰ってくつろいでいた。

 

高校時代は部活にこそ入らなかったが、あまり気の合う人間と巡り会えず、遊びにも誘ってもらいはしたが気を遣いすぎて疲れてしまうので体良く断るうちに誘われなくなったが、それでも何となく仲間外れになるのが嫌でなるべく色んなイベントには参加はしていた。

 

決して人嫌いな訳でも無い。気の合う友人と少人数で深い話をするのであれば朝まで楽しくいられる。

 

ただ、体力(もっと正確に言うと気力)が減退している時はどんな遊びも断りたいし、予め予定されていた予定もなんとか理由をつけてドタキャンしたいという思いはずっと持っていた。

 

まるで無尽蔵の永久機関でも持っているんじゃないかってぐらいのアクティブな人達がずっと羨ましかった。

 

彼らはいつも楽しそうだ。また、どんなに不健康な生活を送ってもなぜが元気そうなのだ。

 

外交的で、常に新しい刺激を求めていて、繋がった人脈や経験をもとに自身の可能性を広げていく。基本的に世の中一般の「デキる」と言われている人間はこのような特徴を持っている、またはこのように動けと指南しているビジネス書や自己啓発本が溢れている。

 

子供の頃からそうだ。友達は多ければ良いだとか、みんなと仲良くしなさいだとか、外に出て遊びなさいだとか、そうした所謂「外向型」の特徴を奨励する教育が一般的なのだ。

 

ではこの「外向型」至上主義の世の中を「内向型」であるぼくがたくましく生きていくにはどうしたらいいのか?そもそも同じような先人はたくさんいるはずだから取り敢えず本の中にヒントを求めてみようと外向型、内向型に関する本をたくさん読んでみた。その中でも一番自分に響いたマーティ・O・レイニー氏の著書「内向型を強みにする」には示唆溢れるヒントがたくさんあった。(いつも外国人の著書の方が世界中の英知が結集してより研ぎ澄まされている感を受けるのはぼくだけですか?)

 

人の考えや行動は情動、気分、気質の三つで決まるらしい。

 

情動とはまさに瞬間の気持ち。例えば満員電車の中でおっさんが臭くて瞬間的に殺意が芽生えた等その情動を起こした原因は分かりやすい。

 

気分とは数時間から数日続く気持ち。何となくここ最近気分が優れない、等原因は顕在的なものから潜在的なものまで様々。

 

そして気質。これは遺伝子レベルで初めから決まっている要素も多いが、成育環境や経験に影響される場合もある。

 

そして、この気質は情動や気分の更に土台となるレイヤーでずっと横たわっているのだ。その気質には「内向型」と「外向型」がある。

 

人間は本来「内向性」と「外向性」を両面持っているという。それぞれが両端にある線が存在するとすれば、例えば内向性に寄った点で居心地が良い人間は比較的内向型であると言った具合だ。

 

居心地が良いとは、「エネルギーを補給しやすい、バッテリーが回復しやすい」かどうかである。

 

外向型は外界の刺激を受けることにより興奮し、生きる喜び、明日への活力を得る。

 

それに対し、内向型は外界から得られた情報について考えたり、整理したり、過去の経験と照らし合わせて新しいものを生み出したり、体の内側、頭の中で起こる活動に対して感動、興奮、生きるためのエネルギーを生み出すのだ。

 

これらの性質の違いは遺伝子レベルでも少しずつ解明され始めているらしい。

 

D4DR遺伝子というものがあるが、これは神経伝達物質ドーパミンに対する受容性に関わる遺伝子だ。

 

これが長いとドーパミンに対する受容性が低くなる。つまり興奮しにくくなる。そして短いと逆の現象が起こる。

 

つまり、外向型の人間はD4DR遺伝子が長いのだ。ちょっとやそっとの刺激じゃ足りないから常に外界へ新しい刺激を求め動き回るのだ。

 

それに対し内向型はD4DR遺伝子が短い。つまり少しの刺激にも多大なドーパミンが放出されるのだ。外からの刺激が強過ぎたり、長時間晒され過ぎることには向いていない。むしろ自分の中にある適度な量だけ摂取できればそれで充分なのだ。そしてその受けた刺激を充分に咀嚼、反芻する時間が欲しいのだ。

 

どんな統計を取ったのかは知らないが世の中の75%は所謂「外向型」で、残り25%は「内向型」らしい。見分ける一番分かりやすい方法は前述の通り、どんな時に自分のバッテリーが回復するかだ。

 

そりゃ同調圧力大国日本だから75%の外向型人間に合わせて動き続ければ疲れてしまうよなと、納得した。

 

生まれてから高校卒業ぐらいまでは外向型に合わせて生きる、または自分も外向型の特徴を備えなきゃと思って行動することが非常に多かった。

 

大学に入ってからは連む仲間も選べるし、自由に動けるから比較的楽だった。

 

社会人になってからは再び「外向型」こそ成功するといったような教育を受けた。また、私は営業畑にいる人間なのでその要素は尚更強かった。

 

自分の性質をもう少し早期に理解していればそれに合った仕事を選べたかもしれないが、今更色々言ってもしょうがない。

 

タバコ場や飲み会でしか商談のFBを受けられなかったり、社内の非協力的なバックオフィスの人間に頭を下げ続ける日々は辛かった。

 

転職してから少し変わった。今までフルスロットルで働いていたが、少し仕事の負荷が下がったことを機に私生活も徐々に変えていった。

 

今までは外向型のバッテリー回復法、つまり外界からの刺激を受けることによるエネルギーの補給を試みていたため日夜飲み会に繰り出したり土日には誰かと会ったりと精力的に活動していたのだが、今の仕事はコアタイムがしっかり決まっているため規則正しく生活が出来るようになった。

 

規則正しく生活していると毎日の身体の調子と仕事のパフォーマンスの関係性が分かってくるため、今度は身体の健康を強化するようになった。身体が健康になると仕事のパフォーマンスも上がるし、気持ちも良いため、無駄な飲み会に行く機会も減った。

 

また、同棲、結婚も良い方向に働いた。毎週予定が埋まっていないと何か充実した気分になれないような恐怖感からも解放された。また、信頼出来る気のおけない妻との毎日のやり取りは、自己肯定感を高めてくれた。

 

ここ2〜3年は人生で一番幸せだと感じている。理由は自分が本来持つペースに生活をフィットされることが出来たからだと思っている。

 

学生時代は、クラスのメンバーを選べないコミュニティの中で如何に外向型の人間と仲良くするか(概して外向型の人間がクラスの中心になりやすいからそれに合わせることも多かった)に囚われていたし、社会人の新人時代もとにかく最初は自信もスキルも実績も無い中で盲目的に先輩や周りの人間についていくしかなかった。

 

今は自分のスキルレベルに合わせた仕事選び、そしてトップ層含め比較的内向型に寛容な職場環境のお陰で無理に周りのペースに合わせる必要も無くなったのである。

 

「内向型を強みにする」の中には次のような例え話がある。うさぎとかめの話だ。

 

話のあらすじは誰もが知るところではあるが、まさに外向型はうさぎ、そして内向型はかめなのだ。

 

外向型は次々に外界の刺激を求め、たくさんの人や出来事と交わり興奮、快感を覚える。更なる刺激を得るためにはどこまでも行動し続ける。だから内向型より、早く前へ進んでいるように見えるのだ。

概してこういうタイプの人間はチャンスを掴みやすい。理由は当たり前だか外に対して働きかける回数が内向型に比べて圧倒的に多いからだ。ひょんなきっかけから小さな成功を体験し、それが更なる行動によって連鎖されていくのだ。目に見えて直ぐに結果に出やすいのも一つの特徴である。

 

私ももれなくそうだが、そうして成功を収めていく彼らに対して強烈な劣等感やジェラシーを覚えていた。自分もそうならなくてはいけない。そのために無理をして積極的に色々なところに顔を出してみたりした。まさに外向型の成功パターンに追いつけ追い越せを繰り返してきたことが常に生き急いでいる感覚を覚えていた正体だったのだ。

 

しかし外向型も良いことばかりではない。彼らは外界に対して働きかけることで刺激、快感を得られる一方、振り返る力や、ペースダウンする力が弱い。その結果周りを客観的に見る力が欠けていたり、いつのまにか燃え尽きてしまっていることで急ブレーキを掛けざるを得ない状況に陥るリスクがある。

 

それに対してかめはスローだ。積極的に外界に刺激を求めることもしない。するとしても入念に、慎重に自分のバッテリー残量を見ながら歩みを進める。

 

そして歩み進めた上で得られた刺激に対して内省を入れる。その結果三歩進んで二歩下がるようなことも多々ある。

 

でもそれで良いのだ。一歩は進んでいる。スローに、しかし着実に歩みを進めている。常に周りをクリアに把握しながら進んでいるからだ。

 

確かに結果を出すためには時間が掛かるかもしれない。しかしそれで良いのだ。日々小さな迷いはあれど、毎日軌道修正を繰り返しながら一歩ずつ着実に進む、そのプロセス、「成長」に生きる意味、幸せを見出すのだから。

高い(≒良い)ものしか買わない理由

この間ランニング用のイヤホンを買った。

 

今メインで使っているものははBOSEノイズキャンセリングイヤホンなのだが、肩掛けが割と大きく、走ると肩にガンガン当たってしまうためシンプルにコードで繋がっているものを買った。

 

完全ワイヤレスではなく紐付きを買ったのは、トレーニング好きの友人から音楽を聴かない時の収納先に困るからというアドバイスを聞き、なるほどなと思ったから。更にイヤホン同士が磁石でくっつくため、ネックレスのようになるものを買った。

 

BOSEの完全ワイヤレスも気になっていたのだが、もちろん高いし、Amazonで3000円ぐらいのものを見つけたので始めはこんなもんで良いかと妥協したのが全ての元凶だった。

 

届いたので早速弄っていると、どうやら3つあるボタンのうち、真ん中のボタンを押し続けると起動するらしい。しかし押し続けても一向にランプがつかない。出荷時に充電していなかったのかな?と思い早速充電を開始した。

 

10分ぐらい経ってから、流石に起動する分は蓄えられただろうとスイッチを押してみるが、一向に起動しない。結局フル充電を示す青いランプが点灯するまで起動しなかった。

 

起動後早速聴いてみた。カナル型のイヤホンは少し窮屈だったが思いのほか音は良い。3000円でいい買い物したなと満足していた。

 

ランニング当日、起動しようとしたが一向にランプが付かない。おかしいなと思い充電すると充電中の赤いランプが付いた。完全な故障ではないと分かったが、どうやら電源が切れてなかった?ので充電が全然無かったよう。ガッカリしてその日はイヤホン無しで走った。

 

その夜は、フル充電し、しっかりと電源を消したことを確認し、明日に備えた。

 

次の日起動してみるもまた付かない、、再度ガッカリして今度は充電したまま当日を迎えた。

 

次の日は流石に起動した。ホッとして着用後走ってみると、ポロポロとイヤーチップが外れる。何度も外れる。走っているので少しストレスが掛かっているから余計にイライラしてぐるぐるっと丸めて排水溝にぶち込みたい衝動に駆られたがぐっと堪えた。また、コードの擦れ音もかなり気になる。正に安物買いの銭失いだと激しく後悔した。

 

そもそもなぜ今回の出来事で激しく後悔したんだろうと色々考えていると、一つ思い当たることがあった。

それは、仕事柄顧客体験について学ぶ機会が多いのだが、「顧客体験の教科書」という本を読んだ時のことだ。

 

かなり端折って内容をまとめると、要は「お客様は期待以上のサービスを求めているのでは無く、期待していることが期待通りに実現されることを望んでいる」ということ。

 

例えば飛行機に乗る場合、機内食が美味しいだとか、CAの対応が丁寧だとか、その辺りはあくまで付加価値であって、時間通りに離陸して、時間通りに着陸、預けた荷物が破損なく受け取ることができればそれで良いのだ。

 

イヤホンに話を戻すと、音質が最高だとか、見た目がカッコいいというのはあくまで付加価値である。当たり前のように充電ができ、Bluetoothの通信が途切れにくく、イヤーチップが簡単には外れないといった、音楽を聴くため(スポーツ用なら尚更)に最低限必要な機能が備わっていれば一旦満足なのだ。

 

高機能については2種類の解釈がある。1つはどれ程色々なことが出来るかということ。もう1つは、どれ程実現したいことがストレス無く簡単に出来るかということだ。

 

特に後者について重要視している。BOSEの宣伝みたいになってしまっているが、本当にイヤーチップは外れにくいし、スマートフォンとの接続もスムーズだし、その他アプリケーションについても使い手への配慮が伝わってくる。

 

BOSEより音質の良いイヤホンはいくらでもあるが、上記のようなユーザビリティに高いお金を払っていると言っても過言では無い。

 

そうした物選びをすることで、日常の無駄なストレスが減り、集中力を本業へ注ぐことが出来るのだ。結果更なる仕事の成果を生み、投資を上回る報酬を獲得、更なる投資、、、といった正のスパイラルを生むことが出来るのだ。(そしてお客様のことを考えた製品を選ぶ、実際に使うことで、そうした視点が育まれ、仕事の質が更に高まるという副次的な効果もあると考えている)

 

当たり前の期待が当たり前に叶えられることがどれだけ大変かを普段から考える人は(自身も含め)少ないように思う。その「当たり前」には多くの企業努力、コストが掛かる。だから値段が多少張ってしまうのも当然だ。

 

しかし、しっかりと身銭を切った上で、その分の気持ち良い時間を享受することで、人生を豊かにしていきたいと考えている。

 

 

 

合理主義に走り過ぎると痛い目に合う?

数年前に仕事を変え、以前よりかなり規則正しく生活するようになった。

 

昔は仕事で上手くいかなかったことや寂しさを紛らすために毎晩飲み歩き、朝まで飲んだ日には、翌日テレフォンブースで爆睡と言った具合だった。

 

今は7時にはオフィスに到着、18時にはほぼきっちり仕事を切り上げ23時には就寝、土曜の朝は部屋全体の掃除、ランニング 、と絵に描いたような健康的な生活を送っている。

 

これは仕事のコアタイムが9:00〜18:00に凝縮されたからだ。顧客対応は基本的にこの時間以外には行わない。以前のようにダラダラと遅くまでオフィスに残ったりすることも無い。ということはいかにこの9:00〜18:00の間に全力投球を行うかが重要であり、前後の時間の組み立ても全てこのコアタイム中心に考えられる。

 

コアタイム中に集中力を極限まで高めるために様々なことをルーティン化した。筆者は集中力をMP(ドラゴンクエストに従ってマジックパワー)と呼び頭の中で仮想的に可視化している。

 

主にMPを消費するタイミングは2パターンあり、それは

 

1:何かを「する」「しない」と判断した時

2:何かを望んだ時

 

なのだが、要はこの2パターンを日々の生活で如何に減らすかが重要になってくるのだ。

 

そのためにいつも使う洗剤や、歯磨き粉や、通うコンビニや、着る服のブランドや、そのバリエーション、お昼何を食べるか、何時に寝て、何時に起きるかといったあらゆる行動をルーティン化した。

 

結果、仕事のパフォーマンスは飛躍的に向上した。今まで感じたことない程の集中力を維持でき、その結果として仕事が早く終わるので規則正しい生活が送れ、またその結果として翌日への体力と集中力をキープできるという好循環が生まれた。

 

ルーティン化すればする程仕事は上手く回るようになったし、健康にもなっていった。しかし同時に非合理的なことや無駄だと感じることが以前にも増して極端に嫌いになった。

 

有益で無かったり、不快な思いをさせられそうだと判断した人には会わなくなり、(そもそもかなり人付き合いが減った)テレビも無駄な内容だと思うことが多くなり、眠気覚ましの朝のニュース番組ぐらいしかまともに見なくなり、面白そうな小説ではなく何かに役立ちそうな実用書ばかりを読み、損得勘定で動く場合が非常に多くなった。

 

その結果どうなったか?何のために生きているのかよく分からなくなった。

 

身体も健康、仕事も順調、家族とも円満、他に何を望むんだという程の状況にも関わらず言い様の無い虚しさが時々襲った。

 

その原因は何なのか、探るために様々な本を読んだ。その中で一番ヒットしたのは岡本太郎先生の「自分の中に毒を持て」だった。

 

人間は元々無目的、非合理な存在として生まれた。また、なぜこの世に生まれ、生き続けるのかを誰も知らない。にも関わらずほとんどの人間は科学主義、合理主義、つまり政治、経済だけが価値であり、社会の現実だと思って生きている。条件のみの上に成り立つ世界。それだけでは虚しい。割り切れる面ばかりではなく、いわば無目的な、計算外の領域に生命を飛躍させなければ生きがいはないと彼は述べている。

 

まさにこれが原因だと思った。つまりこの数年間過激な程社会の科学主義、合理主義のシステムに心も体もフィットさせた結果人間本来の無目的、非合理さを深く押し殺してしまっていたという訳だ。

 

また、今の仕事は限りなく効率的に業務を回すかが肝であり、その仕組みづくりに関わる機会も多くなっていたため余計にフィットを助長させてしまったのも原因である。

 

ではどうすれば人間らしさを取り戻せるのか?単純に生きる喜びを、復活させることができるのか?

 

ヒントは子供の行動特性にあると思った。人は大人になるにつれ行動を起こす動機のうち、損得勘定が占める割合がどんどん大きくなってくると言う。これをやれば儲かるのか?モテるのか?無駄が減るのか?といった具合に。

 

それに対して子供はただやりたいからやるだけだ。ザリガニを捕りたいから捕るし、シャボン玉は膨らませたいから膨らませる、お絵描きしたいからお絵描きする。

 

そういうことではないだろうか?いつのまにか純粋に何かをやりたいという気持ちを抑える癖がついてしまっている。別に絵を描けだとか、作曲しろだとか、限定した話ではない。

 

原っぱに寝っ転がりたい、だとか、駄菓子をいっぱい買って思いっきり食べたい、だとか日常の小さなことでいい。ただやりたいことをやりたいようにやる、という癖をつけてみてもいいのではと考えている(無理矢理やるとまた目的的な意味合いが含まれるので気をつけたいが)

 

もちろん科学主義、合理主義を完全に否定する訳ではない。この社会に生まれた以上生き残るためには物理的に生きる術は必要だ。その場合には科学主義、合理主義はかなり重要なポイントになってくる。また、やりたいことをやりたいようにやるのにもお金が必要だ。

 

また、非合理や無目的に立ち向かい過ぎると悲惨な目に合う。狂気の世界へ突入し、数多くの芸術家は自らの命を絶っている。

 

要はバランスが重要なのだ、合理も非合理も両方必要なのだ。このバランスを上手く保つことが健やかに生きるコツなのだという結論に至った。

 

長くなってしまったが、この結論を元にバランス良く生きてみたいと思う。またしばらく経ってから結果は報告する。では。

 

 

 

 

 

コミュニケーションは100を超えて初めて相手に伝わる?

「あいつ何言ってるか全然分からない」

「あいつ物分かり悪過ぎる」

 

と言う上司や同僚を見た時いつも思うことがある。

 

それは自身の「伝える」能力と「受け取る」能力を客観的に捉えられていないということだ。

 

筆者はいつも人と会話をする際に、頭の中でコミュニケーションに必要な能力である、「伝える」「受け取る」能力を数値化(完全に主観でしかないですが)し、両者間で合計100を超えた場合に初めて伝わると言った妄想を繰り広げている。

 

例えば

 

自身の「伝える」能力値が80あっても、相手の「受け取る」能力値が15であれば合計95なので伝わらない。

 

逆に自身の「伝える」能力値が25であっても、相手の「受け取る」能力値が90であれば合計115なので伝わる。

(どんなにこちらが拙くてもいつも気持ちいいぐらい理解してくれる人は周りにいないだろうか?)

 

何が言いたいかというと、コミュニケーションを成立させたいのであればどちらか一方に依存するのではなく両者が互いのレベルを把握して歩み寄らねばならないということだ。

(ちなみに、歩み寄ることによって瞬間的にどちらか、もしくは両者の能力値が上がり、合計が100を超えて伝わるというイメージ。始めから100を超えていれば何の苦も無くコミュニケーションができている状態)

 

上司と部下の関係で言えばわざと突き放して能力値を上げさせるという行為もあると思うが、きっとそれは自身と部下の現状能力をしっかりと把握した上での愛のムチだろう。

ハナから諦めている訳ではない。

 

筆者は社会人になりたての頃、海外研修に向けカナダ人の講師の元、英語の訓練を受けた経験がある。

 

そこでいつも彼が口を酸っぱくして

 

「Push to understand, push to be understood」

 

という言葉を何度も繰り返していたことを覚えている。

 

これは「理解する方もされる方も努めろ」という意味なのだが、新人同士あまり英語が得意でない状況下(つまり互いの能力値を足しても全然100に到達しない状況)でなんとか相手に伝えよう、なんとか相手の言葉を理解しようとする経験を通して、改めてこの言葉の意味が身体に沁みた。

 

コミュニケーションには両者の歩み寄りが必要だという至極当たり前な話だが、読者の方々もドラゴンボールスカウターみたくこんな妄想をしてみてはいかがだろうか?

 

ではまた。