ベタベタのベタ

ベタとは - はてなキーワード
<略>
「本気であること」「真剣であること」を指すようになった。
 
意識の問題では「演出されていない本来の意識、感情、欲望」を指す。
 
<略>
 
例:「ベタなドラマ」=「真剣なドラマ」
例:「ベタな感情」=「本気の感情」
 
 
ベタという言葉が、「真剣」を意味しているという。
 
これは、
ヤバイという言葉が「美味い」の意味で使われたのに
匹敵する驚きだ。
 
 
ベタなドラマと称されてきたものを、素直に、
演出が臭い、漫画みたい、表現が誇張である
という意味であり、それに合致するものだ…と思って
観てきたからだ。
 
若者には、あれらが、マジに「真剣で真面目なものだ」
と受け止められていたのかと…改めて驚く。
そういう節があるのは予測していたこととは言え。
 
 
たしかに、ベタな…誇張された…表現は、ダイレクトに
感情に訴えかけ、免疫のない子どもには、むしろ衝撃的で
感動的であり、かけがえのない作品となっていただろう。
 
しかし、こういう辞典的な場所でトップに掲げられるほど、
それほどの地位を獲得していたことには、正直驚いた。
 
 
もちろん、真剣で本気であるからこそ、それを表現する手法が、
ベタになり、それ以外を取捨し、誇張されたものになるのだ。
…という理屈として、十分にこの主張も判る。
 
ヤバイという言葉が若者の言葉の乱れだと槍玉に上がっていた時、
私はそう表現しなければならない必然性を理解し、
何故そのような表現に至ったのかを解説し弁護した
 
 
 
ただし、以下の表現は
いささか不適当なのではないかと思われる。
 
ベタとは - はてなキーワード
「ベタベタなネタ」と言う場合
 
繰り返し語られ、使い古され、ありきたりな「ネタ」を指す
 
それから転じ、一部で「字義どうりの」
 
「真剣であるネタ」「本気であるネタ」
 
=「本気であること」「真剣であること」を指すようになった。
 
<略>
 
意識の問題では「演出されていない本来の意識、感情、欲望」を指す。
 
たしかに、ベタという場合、
繰り返され、使い古され、ありきたりになっていた。
 
そうなっているとしても、ベタベタと言う場合のベタベタには、
「必要以上に誇張された」、「虚飾された」、「剥き出しに描き出された」
…とでも言うような“確かな意志”、“意図”の存在が
欠かせないと、私は考えていた。
 
だから、それが、
「演出されていない本来の意識・感情・欲望」とまで言ってしまうのは
行き過ぎだと思われる。
 
 
意図や意志の無い単なる感情の吐露が、「表出」が、
表現の域に達するとは、とうてい考えられない。
 
その程度のものが、ベタベタと形容されるに相応しい表現にまで
合致するとは、さすがに私でも思えない。

閉鎖空間

みんながみんなで
頑張れば頑張るほど、
みんなが不幸になる


1930年代なんか、
そんな感じだったと思うのだけれども…。


そういう仕組みや構造ってものの
存在しうることってのを
判りやすく例える簡単な寓話ての
無いでしょうかね。


社会学的な仕組みってものを。

浄銭化死捨てむ

何故、企業に問題が発覚すると、政治は、
政治家は、その企業からの献金を返還する
という対応をするのですか?
マスコミはそのような対応を求めるのでしょう?!


それって、まさに“盗人に追い銭”じゃないですか?!


もし、その献金の見返りとして口利きがなされていた
とするならば、受けた口利きは過去のもので、その
利益はすでに受けている。そこへさらに、献金の返金
としての臨時収入が戻ってくるって構造になっている。
それって、悪人にとっては、一石二鳥の構造になっている。


例えば、その元手が詐欺のようなものであって、
直接の被害者が居るのであれば、被害者救済のための
返金もあっていいと思うのですが、

今の対応では、悪人ばかりが栄える構図だ。

善人は見返りが無く、ただ払うだけ、
悪人は見返りがあって、払うというより実質「預金」


政治が真に正義と善意に基づくのならば…、

見返りを期待するような悪人の資金を、
その欲望に基づいて回収しながらも、
その欲望を満たすことには決して使わず、
社会正義の実現のための資金源へと回すだけ
だと胸をはって宣言できないのでしょうか。

大量首切り時代いつまで?

毎年3万人の自殺者に対してろくな対策をしていない日本政府です。
この雇用崩壊に対しても、利権団体に金を流す方便に利用するだけで、
抜本的対策をすることはないでしょう。


しかし、国民も良心が全く無いわけでもないのだから、何時かは何か
始めるでしょう。その“いつか”が来るためには、だいたい何人の
「犠牲者」が、「生け贄」が、必要だと思いますか?



・心優しい日本人ならば一人でも大騒ぎ。
・蒟蒻ゼリーを食べて亡くなった人くらいで。
秋葉原無差別殺人事件の被害者を超えれば。
・尼崎の列車脱線事故に並べば。
・現在の交通事故の死者数をを越えれば。
・アジアかぜ流行時の日本での死者数。
・交通戦争と言われた頃の事故死者数に並ぶ頃。
・年間の自殺者数を越える頃。
・スペインかぜ流行時の日本での死者数。
・太平洋戦争での戦死者に迫るくらいになれば。



蛇足(私感)

日本でも確実に、この社会は餓死者を頻繁に出すようになるのでしょう。
車に跳ねられた犬猫がぺちゃんこになるまで放置されているように、
駅前に餓死者が倒れていることが、日常の風景になるかもしれません。
電車の到着が遅れたら、あ、また誰か飛び込んだのかな? と思ったように、
早く誰か片づけろよ…と思って見過ごすようになるのでしょう。
200年もしない前には、それも日常の風景だったのだから。


老人は戦後の貧困を引き合いに出して「若者は甘えている!」と言って
捨てているのだから、それをちょっと引き延ばせば、上記の状況までは
ほんの直ぐです。


さて、自殺者に対する対策があの程度なのだから、この雇用崩壊も、
アリバイ造りのような言い訳の対策のみで放置されるのでしょう。


年間3万人の餓死者程度では、この社会は自業自得の自己責任で
済ますのではないかと思えてなりません。

染脳

一般に用いられる「洗脳」ということばが
マインドコントロールの意味で用いられている事に対して
その意味を分離させる目的で作った造語。


染脳…特定の目的を持って、他者にとある思想や
行動を植え付けること。または、本人にとっての
「あたりまえ」に偏執的に捕らわれている状態。


洗脳…文字通りの脳を洗い戻すこと。
マインドコントロールおよび日常の盲執等々から
解き放つこと。

しかし、そのような洗脳された状況は、完全に価値中立である
が故に、精神的には安心すべき絶対的支柱が無くなってしまう。
故に、もっとも“染脳”されやすい状態でもある。

だから、洗脳という言葉を染脳の意味で使っても間違いではない。
多くの場合、染脳は「洗脳→染脳」の手順で行われるのだから。