ニワノトリ

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日記:完全犯罪≠いちご完全犯罪

2023年9月24日

倒れたショートケーキ服についたジャム溶けた苺フラッペ

2023年9月26日に発売されるMETAMUSEMAPA『いちご完全犯罪』。この曲の歌詞やジャケット、MVに登場するケーキや苺のイメージは大森靖子の過去の曲を想起させる。僕は大森靖子ファンなので、そういう「記憶」がMETAMUSEやMAPAを聞く時にもとっかかりになる。

最初に思い出されるのは、ベストアルバム『大森靖子』のデザート盤だ。大森靖子のメジャーデビュー5周年目に発売されたこの三枚組のアルバムは、「ごはん」「おかず」「デザート」という三つのコンセプトで楽曲がセレクトされた。「デザート盤」たる三枚目に並ぶのは『IDOL SONG』『イミテーションガール』『GIRL'S GIRL』『みっくしゆじゅーちゅ』など、"女の子"という生き方を拡大して、覗き込むような気持ちになるような楽曲ばかりだ。

大森靖子』では収録された一曲一曲にジャケットが用意されている。例えば、「ごはん盤」の一曲目の『ミッドナイト清純異性交遊』には明太子スパゲッティ、「おかず盤」に収録された『ZOC実験室』には、チーズダッカルビ……など。それぞれ、ごはんものとおかずが一品選ばれ、ジャケットが一枚ずつ書き下ろされた。書き下ろしているのは、このアルバムのアートワークを担当した青柳カヲルである。

 

 

14曲のデザートが書き下ろされた「デザート盤」のジャケットを並べ、『いちご完全犯罪』の核を為すデザート、「いちごヨーグルトパフェ」にイメージが近いものを探してみる。『PINK』のいちごミルク、『イミテーションガール』のパフェ、『子供じゃないもん17』のショートケーキなどがそれにあたるだろうか。 

……などと考えながら聞いてしまうものだから、初めて『いちご完全犯罪』を聞いた時、僕は大森靖子がこれまでに作った「デザート」楽曲がめたまっぱのメンバー10名の声でかき混ぜられ、すべて同時再生されてるような感覚に陥った。この曲は、『イミテーションガール』や『子供じゃないもん17』が作られた9年前の大森靖子の楽曲への応答、すなわち、"Re:イミテーションガール"、あるいは、"Re:子供じゃないもん17"、あるいは"Re: PINK"にも聞こえた。同時に、5年前に発売された『大森靖子』への応答としての"Re:大森靖子"にも聞こえた。*1

 

大森靖子の過去の楽曲を掻き混ぜたように聞こえるのに、これまでの楽曲とは感触も後味も違う何か。それが、僕の『いちご完全犯罪』のイメージである。

 

skream.jp
METAMUSEMAPA本人が『いちご完全犯罪』を語るインタビューはこちら

 

『いちご完全犯罪』のMVを見ながら僕が大森靖子の過去の楽曲を思い出してしまうのは、僕が大森靖子ファンだから。というばかりでなく、恐らく、この曲が過去に遡っては今に戻ってくるような、時間の往来を体験させる曲だからだろう。

『いちご完全犯罪』のMVはその"往来"を視覚的にも追体験させてくれる。

 

youtu.be

 

例えば、間奏で突然、監視カメラの映像に切り替わる。それまでメンバーが踊ったり、デザートを食べたりする場面を映していたのに。監視カメラはピンク色の部屋に立つMETAMUSEメンバー、巫まろを映す。監視カメラに映った彼女は、カメラ目線で「監視カメラついてないよねー?」と言う。その視線は監視カメラがどこにあるのか、あらかじめ知っていたかのようにも見える。この後、彼女はこのように語る。

もし全部全世界に放映されても
堂々と恋しましたって言ってやるんだー
だって全部私だもん
恥ずかしいこといっぱいしてきた私のこと私は恥ずかしくなんかないもん

恐らく、この「もし」から始まる台詞は、これから起こるかもしれない"仮定"ではなく、"既に起きてしまった過去"を語っている。あるいは、語り直している。と思う。なぜなら、彼女はこう言う。「堂々と恋しましたって言ってやるんだ」。"堂々と恋してます"ではないこの過去形は、それが既に終わったものであることを示唆する。そうだとすると、監視カメラの前に立つ巫まろ……という構図は、"過去の監視カメラの映像に"今の"まろが乗り込んでいる"というような、時空の捻じれを感じさせる。

完全犯罪(パーフェクトクライム)とは、そこで起きた出来事の痕跡を残さない犯罪である。完全犯罪が達成されたとき、犯罪が起きたという現実そのものが消え、"なかったこと"になる。それは非実在の現実、ある種のハイパー(あるいはメタ?)リアリティである。
もしも、まろ様が完全犯罪を目論むのであれば、監視カメラの映像を見つけた時点で映像を削除した方がいい。監視カメラの映像は犯罪の痕跡を残し、その実在を暴露する。痕跡が残れば残るほど、犯罪の"完全さ"は遠のいていく。

しかし、このMVの巫まろは、カメラの映像を消すのではなく、その映像そのものに乗り込み、「全部私だもん」「恥ずかしくなんかないもん」と、映像を見る人たちに言い放つ……というようなことをしている(ように見える)。"今の"私が過去に乗り込み、その出来事を語りなおすこと。完全犯罪が痕跡のない犯罪であるとすれば、「"いちご"完全犯罪」は、私自身が犯罪の痕跡を再演し、実在を暴露することによって遂行されるのだ。上記の台詞の最後に巫まろはいう。

ねえ 私が何しても完全犯罪にして

ここでいう「完全犯罪」とはどのようなものなのだろう。僕はここで、この歌詞を"いちご完全犯罪にして"と読み替える。勝手に。なぜなら、この曲は、こう始まるからだ。

いちごヨーグルトパフェになりたい

"パフェ(parfait)"が"perfect"を意味することを踏まえ、僕は、「いちごヨーグルトパフェになりたい」を"いちご完全犯罪になりたい"と解釈する。すなわち、「いちご完全犯罪」とは、"自分(たち)によって達成される何らかの出来事"ではなく、自分自身が"なりたいもの"として歌われている。という仮定。

こういう仮定をしたくなってしまうのは、完全犯罪が"非実在の現実"を指すのだとすれば、"いちご完全犯罪になりたい"と(しても解釈できる)歌い出しが、METAMUSEのコンセプトである「実像崇拝」を思い起こさせるからだ。

ここで更に仮定する。アイドルとは完全犯罪である。すなわち、それは非実在の現実である。完璧にバーチャルな存在として、実在性あるいは他者性が抹消された鏡の世界の住人。鏡の世界こそが"ホンモノ"として認識され、鏡の前に立っている人間など端から居なかったかのように、最初から鏡しかなかったかのように、実在が消失するアイドル。

"アイドル"(なるもの)が完全犯罪なのだとすれば、METAMUSEが謳う「実像崇拝」こそが「いちご完全犯罪」ではないか。すなわち、バーチャルを漂い、"実在"が消失しようとする瞬間に真っ赤な血を流す生身の身体。鏡に映せない肉体の生々しさを持った「私」という実在こそをアイドルとして提示するということ。

という仮定の仮定を繰り返し、件の「私が何しても完全犯罪にして」は、"(この行為を)完全犯罪にして"というよりも、"(私を)いちご完全犯罪にして"ということなのだと捉え、僕はこの曲を聞く。"今"ステージに立つ、アイドルという肉体は、過去と実在の消失点においてこそ反撃を開始する。監視カメラの映像は消されない。過去にあった何某かの出来事は、アイドルに相応しくないものとして、"なかったこと"になり消去さられるのではなく、「ぐちゅぐちゅ」と生々しい音を立てるからこそ、パーフェクト=「ぱふぇ」の破裂音に続く。このMVの後半では何かが起きたであろう痕跡が残る"現場"こそが、めたまっぱのパフォーマンスの"現場"として浮かび上がっていく。

赤い未来 白い過去 ぐちゅぐちゅ混ざるピンク
ぱ ぱ ぱふぇでぇと

こうして"仮定"を重ねるうえで、忘れてはならないのは、「いちご完全犯罪」が、サビの最後に、「ぱ ぱ ぱふぇ でぇと」と、非-実在の現実たる完全犯罪(パーフェクトクライム)を、"今"、一緒にパフェを食べる「でぇと」(パフェデート)に置き直していくということだ。この繰り返しによって、"いちご完全犯罪にして"という語り掛けは、僕の頭の中において、"アイドルを見る"観客の実在、すなわち、パフェを混ぜ、食べる肉体を持つ観客の肉体への呼びかけへと再構成される。無色透明の観客ではなく、肉体と過去を持つ者として"現場"に立つこと。

 

というところで話は冒頭に戻る。『いちご完全犯罪』を聞くと、ベストアルバム『大森靖子』を思い出してしまう。という話である。

このベストアルバムにおいて、「大森靖子」はこの作品の作者であり、作品を歌い、演奏するパフォーマーであり、同時に、作られた作品でもあった。「大森靖子」を一品一品の「デザート」として聞き手に提示し、聞き手が「大森靖子」を味わい、食い尽くすとき、聞き手が味わう「大森靖子」とは何者なのか。「大森靖子」を作り、歌う「大森靖子」はどこにいるのか。『大森靖子』が完全犯罪として完遂されるとき、「大森靖子」は実在するのか。あの5周年の祝祭空間に「大森靖子」が実在することを僕は知っていたのだろうか。あれから数年の間に、時に"曲だけ作っていればいいのに"という声が飛ぶのを見た。今日も、様々な創作に対して、あなたは徹頭徹尾、私を心地よくする作品でありさえすればいいのだという声が流れていく。中傷としても、賛美としても。刺激への反応だけを繰り返すゾンビのような言葉。「不快さ」への謝罪。なかったことにされていく出来事、記録、歴史。

僕は自分が透明な観客であることを求め、肉体の不在を衝動的な短文で埋めてきた人間であるので、僕もまた「生き延びた」人間の気配を嗅ぎまわるゾンビの一部である。身体の不在を知らないゾンビ。

そういえば、『大森靖子』のFC版ボックスは「棺桶」ではなかったか。それでは、『いちご完全犯罪』のMVの後半に映る「死体」の跡にも見える人型は、誰の身体をなぞったものなのだろう。アイドル?作り手?聞き手?

 

 

 

『いちご完全犯罪』を聞くと、こうして僕がこれまでに聞いてきた「大森靖子」や、これまでに起きた様々な出来事が、僕の奥に沈殿している記憶や罪悪感と同時に、思い出され、掻き混ぜられていく。それは、めたまっぱ10人の声が(聞こえなかったことにしてきた)声の交錯として響くからなのかもしれない。はっと吐き出される息が、そこにいる/いたはずの"誰か"の温度を伝える。『イミテーションガール』の「ぼくが抱きしめられなかったあの子の声」、『子供じゃないもん17』の「傷ついてよ」、『PINK』が描く「50年後だか100年後だか」の「真白な病院」。『いちご完全犯罪』は、様々な声を聞き、これまでに聞き、観た過去の"記憶"をブレンドする場としての"僕"の肉体を浮かび上がらせる。"僕"自体が"なかったこと"になっていては、パフェを食べることも、掻き混ぜることも、デートに向かうこともできないのだから。

ぐちゅぐちゅとした感触とぱふぇの白さ、刺激と甘さ、かわいさときもさ、過去と未来、画面の向こうとこちら。『いちご完全犯罪』はそれらを混ぜ、混淆する"現場"としてのグロテスクな身体を再度召喚する。恐らく、だからこそ、この曲はMETAMUSE"MAPA"によって歌われるべきものとして生まれた。聖と俗が混じり、生と死が混じり、正気が狂気になる、カーニバル/祝祭空間の現場としてのMAD PARTY。

僕は、『いちご完全犯罪』を聞きながら混乱する現場としての僕の意識と身体の様子を書き出しておくべきと思いこのような日記を書いているわけだが、本当はこういう硬い感じでない方が『いちご完全犯罪』に相応しいのかもしれない。『いちご完全犯罪』は「完全犯罪」を暴き、裁く曲というよりは、むしろ、"いちご完全犯罪になる"ことを祝祭する歌であると思うからだ。そもそも、「完全犯罪」を歌い、CDやMVとして「全世界に放映」すること自体がMADさを孕んでいる。「完全犯罪にして」とカメラの前で呼びかけるのも"冷静に"考えれば"馬鹿げて"いる。最初から暴露されている完全犯罪。例えばこれが「完全犯罪」を冠したミステリー小説だとしたら、探偵が完全犯罪の痕跡に気が付いて、犯罪を暴いていくとか。あるいは犯人がその追跡から逃れようとするとか、そういう展開が必要になるだろう。しかし、『いちご完全犯罪』にそうした展開は成立しない。『いちご完全犯罪』はむしろ、実在が露見すること自体を祝福する。そこには、探偵でも裁判官でもない、秩序を反転させ、笑い、新たな祝祭空間を生む道化師の視線がある。

 

 

11月11日に開催される『TOKYO PINK FES』から、METAMUSE、MAPA共に新体制が始動するという。このニュースを聞いた時、叶うなら22年から23年のMETAMUSEとMAPAの曲が入ったアルバムが発売されるといいな、という感想を抱いた。しかし、実際に『いちご完全犯罪』を聞いてみれば、それは複数の声が歌う過去と未来を同時に聞く、というような祝祭的でアクロバティックな一枚であり、僕は一曲目から順に聞いていく……というような秩序立った聞き方ができない、アルバムとは違うアルバムのような何かを聞いたような感覚に陥り続けている。

 

参考文献。ジャン・ボードリヤール. 『完全犯罪』. 塚原 史 (翻訳).紀伊國屋書店. 1998.

*1:ちなみに『大森靖子』は大森靖子メジャーデビュー5周年を祝う「超歌手5周年ハンドメイドミラクル5!」と題された5つの企画を締めくくるものとして発売されており(2020年2月12日)、これはZOCのデビュー時期にも重なっている(『Family name』の発売が2019年4月30日)