稠密なる図書たち

ビブリオバトル用図書の処分状況。

医療者が語る答えなき世界ー「いのちの守り人」の人類学 (著:磯野真穂)

 

 文化人類学者から見た、医療現場という世界ーーコンセプトを一言でまとめると、こうなる。なぜ文化人類学者が、医療現場を研究対象とするのか?
 冷静に振り返ってみると、病院とは、世間一般の常識とは外れたことが当たり前のように通用している場所である。例えばお医者さんは、患者に対し、当たり前の顔で「裸になりなさい」と迫ってくることも珍しくない。初対面の相手に裸になるシチュエーションとは、かなり特殊なケースだろう。この他にも、昨日の朝昼晩に何を食べたのかと、いきなりプライベートなことをほじくり返してくるのだ。普通こんな事を出し抜けに尋ねられると、思わず警戒をしてしまわないだろうか? しかし不思議なことに、病院という場で医者という立場の人かこう聞かれると、私たちは当たり前のように従ってしまう。このことから、病院という世界は、世間一般の常識から外れた世界、つまり異文化であると見ることができる。そして異文化の世界の住人を理解するには、文化人類学という枠組みが強力なツールになる。
 この本に登場する異文化人とは、すわなち医者や看護師や理学療法士など、医療現場で働く種々の人たちである。彼ら彼女ら医療従事者を理解するために、わざわざ文化人類学という大それたものを用意する意義とは一体何なのか? ここでちょっと考えて欲しいのだが、私たちは病院を訪れてお医者さんたちと会う時「この人たちが、私の病気や悩みを完璧に解決してくれるんだ!」という理想像のようなものを頭に描いていないだろうか?しかし、いくら医学が発達したとはいえ、完璧な治療というものはあり得ない。それに医者や看護師など医療従事者も、私たちと同じ人間であり、当然ながらそれぞれ悩んだり迷ったりしている。私たちの持っている「理想のお医者さん像」と「現実のお医者さん像」の間には、ギャップが存在する。このギャップを乗り越えて、お医者さんを1人の人間として、職業人として理解するにはどんな方法があるか? 異なる文化に身を置いている人間を理解しようとするとき、文化人類学という学問の出番となるのだ。著者は医療現場で働く人たちへ数多くのインタビューを行い、どんな思いで仕事をしているのか、自分の仕事についてどう考えているのか、などなどを本書で分析したのである。
 タイトルにも「答えなき世界」と書かれている通り、医療の世界には答えのない問題が数多くある。しかも判断を誤ると人の命にも関わるという、重い問題だってある。根本的な話をしてしまうと、そもそも医療とは患者の病気を治すためにあるものだが、実際には、絶対に治らない病気を抱えた患者だって存在する。そんな患者に対して医療者は一体何をしてあげることができるのか? これはなかなか答えの出せない問題だろう。まだまだある。自力で食事もできないくらい症状の進んだ認知症患者に対し、胃ろうを作ってまで栄養分を補給するという行為は適切なのか? 自力で入浴できない認知症患者を、ロープで縛り付けて無理やり入浴させるという行為は?どうしても高齢者施設を出て独居生活をしたいという患者に対し、何をしてあげるべきなのか?
 この他にも、医療現場には「答えのない問題」が溢れている。おそらく、医療とは人間の命に関わる仕事であるがゆえ、答えのはっきりしない問題がたくさんあるのではないだろうか。
 答えのない問題に対し、医療で働く人たちが何を考え、問題とどのように向きあっているのか? もちろん医療従事者と一言でいってもいろんな人がいて、いろんな考えがあり、同業者の間で意見が対立していることだってある。とはいえ、答えのない問題にぶつかって前に進もうとする人のことを理解するのは、読んでいて勇気付けられるところが数多くある。たとえ、最悪の結末を迎えるることとなってしまったエピソードであったとしても。
 余談。個人的に私がとても面白いと思った話。病院が舞台のテレビドラマで、これから手術をしようというお医者さんが、両手を前にかざしているシーンっというものを見たことがあると思う。あれは、お医者さんの体が汚れないように、周りの物や人に触らないようにするためと言われており、実際の手術でもこれと同じように、周りに触っちゃいけないというルールがあるのだ。しかし、実はあのルールには、科学的根拠は無いというのだ。というのも、ちょっとくらいお医者さんが周りの人やモノ触っても、あたかもエンガチョであるかのように、手術が不可能になるくらい体が汚くなるなんてことはそもそもあり得ない。では、このルールの存在意義とは一体なんなのか? 実はこれは、昔からこのようなルールがあるから今でもこのルールを守っているという、ただそれだけの話だそうな。
 この話はこれで終わりではない。ここからが、文化人類学っぽい考察になるのだ。まず、そもそも論からいくと、手術とは失敗は決して許されないものである。ところが実際にはいくら近代医学が発達したとはいえ、絶対に成功する手術というものは有り得ない。有り得ないのだ。だからこそ医療スタッフというのは、この手術を絶対に成功させるという強い信念を持つことが大切だといえる。意識を強く持て、と。この著者によれば、この触っちゃいけないルールというのは、医療者にとって、手術を成功されるという信念を強くするための儀式の役割をしていると分析してる。例えば、大学受験の祈願でお参りや、安産の祈願でお参りなど、そういう儀式と同じ役割を、この触っちゃいけないルールというものが持っていると言っている。医療現場を支えているのは近代科学技術だけではない。このような呪術的儀式が、従事者のメンタルの支えになることだってあるようだ。

ジュリアス・シーザー(著:シェイクスピア)

 

ジュリアス・シーザー (光文社古典新訳文庫)

ジュリアス・シーザー (光文社古典新訳文庫)

 

ざっくりしたあらすじ。英雄シーザーが権力を持ちすぎることに恐れた周りの人たちが、シーザーの暗殺を実行する。シーザーは死ぬが、彼を暗殺した人たちもその後に彼の亡霊に襲われ、最終的には主要人物はあらかた自刃してしまうというもの。
実際に読んでみてわかったことが色々ある。
まず、シーザーは英雄として描かれているかと思っていたが、そこまで完璧超人な人物として描かれていない。彼は軍人としては確かな実績を残しているということは描かれている。しかしこの戯曲中の彼は、どこか情緒不安定で、精神面もあまりタフではなさそうで、癇癪持ちとも思えるところもある。信心深いところもあり、不吉な夢を見たので外出は控えると言うシーンがあるが、側近から、それは夢の解釈を間違えていますよ云々と説得され、結局シーザーは外出してしまう。夢の解釈すら自分の考えをあっさりブレさせる人間というもの、皇帝としての素質があるかは甚だ疑問。逆にいうと、シーザーのこの人としての不完全さが、人としての魅力なのかもしれない。
シーザーの暗殺について、彼は暗殺されるに値する具体的な間違いはなにも犯していない。彼が暗殺されたのは、彼の持つ権力が大きくなりすぎるのはまずいと周囲から警戒されたからだという、非常にふわっとした理由だ。こんな理由で人殺しが許されるとは思えない。とはいえ、上に書いた通り、シーザーに皇帝の素質があるかというと、小説を読む限りはどうも微妙な印象を受ける。素質のない人間を皇帝に即位させることは下手すれば国を傾けることにも繋がりかねない。そう考えると、彼の暗殺が正しかったのかどうか、よくわからくなってくる。
そんなシーザーの暗殺を企てた主要人物二人が、ブルータスとキャシアスである。この暗殺を企てるきっかけがまたみみっちい。子供時代の思い出話中のシーザーの批判から始まっている。子供の頃に一緒に川を泳いだらシーザーが溺れたとか、そんなレベルの誹謗中傷だ。この戯曲は言うなれば権力闘争を描いた政治劇でもあるのだが、現実の権力闘争ってのも、根本を探ると案外こんな大人気ないことから始まっているんだろうなと考えされられるところもある。
暗殺を企てるブルータスやジュリアスやその他諸々。彼らはなにかと、この暗殺はローマの為だとか、ローマを愛するが故に彼を殺すのだとか、しつこいくらい自分らの暗殺の正当性をセリフで説明する。さっきも書いたが、シーザーは殺されるに値する具体的な悪事は何もやっていない。暗殺する側がやたらしつこく自分の正しさを繰り返し口にするもの、逆に、彼らが自分のやろうとしている暗殺が正しいことがどうが自信が持てないことの表れかもしれない。ブルータスはシーザーの暗殺後、民衆に対し自分の行ったこと、つまりシーザーを暗殺したことの正当性を演説し、民衆の理解と共感を得る。この演説もまた、ブルータスは民衆に訴えると同時に、自分自身に自分の犯したことの正しさを言い聞かせているようにも見える。このあたり、ブルータスの人としての感情や弱さが読み取れる。
シーザーのことを慕っていたアントニーという人物は、シーザーの死に嘆き悲しむ。色々あって、アントニーは民衆の前でシーザーへの追悼の演説をする許可をブルータスからもらった。しかしブルータスにとってはこれが過ちだった。アントニーは一見するとシーザーを失った悲しみをナイーブに民衆に訴えているように見える。ただし、かれはシーザーの部屋から見つけたという遺言書を読んで聞かせるとか、シーザーの遺体を見せて、その傷口をみせて彼の最後がどんなに痛ましかったかを民衆に語るとか、そんな調子である。ちなみにアントニーはシーザーが刺された瞬間に立ち会っていない。遺体を民衆に見せて、さも自分が現場でシーザーが刺される最後の瞬間をこの目で見たかのように語っているである。アントニーの策は功を奏し、民衆はアントニーにどんどん扇動される。このあたり、ぼんやりと読むとアントニーはシーザーを失った悲劇に立ち向かうヒーローのように見えるが、よく見ると彼のやり口はそれなりに狡猾である。
クライマックスは、アントニー率いる軍とブルータスの率いる軍との戦争劇。結果から言うと、ブルータスや彼と同じくシーザー暗殺を企てたキャシアスは自刃してしまう。彼らの死後、アントニーのオーラス直前のセリフもまた狡猾。ブルータスは公正明大な人格者だとか、彼こそ人間だとか、唐突に彼を褒めちぎる。このセリフが唐突すぎて、不自然さを感じた。敵ながらあっぱれだったと言いたいのかもしれないが、むしろ死後に敵方を持ち上げることによって、それに勝った自分はすごいんだぜと自分を持ち上げるための台詞なのかもしれない。どこまでも狡猾なアントニーである。
ちなみにアントニーはシェイクスピアの別の戯曲で、クレオパトラにローマを明け渡すような真似をする文字通りの売国奴として描かれているのだ(こっちはまだ俺は読んだことないが)。

金持ちは、なぜ高いところに住むのか―近代都市はエレベーターが作った (著:アンドレアスベルナルト、訳:井上周平、井上みどり)

 

金持ちは、なぜ高いところに住むのか―近代都市はエレベーターが作った

金持ちは、なぜ高いところに住むのか―近代都市はエレベーターが作った

 

  人類史上には、生活スタイルや社会のあり方そのものを変えた大発明というものがある。かつてであれば火薬や車輪やネジがこれに当たるだろうし、近現代では自動車やあるいはスマートフォンもそうだろう。
  しかし、エレベーターもまたそんな人類史上の大発明だと言われても、ピンと来ない人も多いのではないだろうか。そんな人は、この「金持ちは、なぜ高いところに住むのかー近代都市はエレベーターが作った」という本を読んで欲しい。エレベーターの歴史についての本である。エレベーターが社会に普及したことによって、人々の生活環境がどのように変化したかについて焦点を当てて分析・解説を行なっている。著者はドイツの方で、分析対象のエレベーターもドイツとアメリカのものが中心である。
  エレベーターの起源は、実はかなり古く、古代ギリシャやローマまで遡ることができる。ただし、この時代のエレベーターとは鉱山の発掘現場などのために使われていたもので、ロープが切れる事故がたびたび起こるなど、安全性に問題のあるものだった。エレベーターの安全性の問題が克服されるには、19世紀の中頃まで待たなければならない。この時代に、エレベーターの安全装置を発明したというプレゼンテーションが博覧会で行われた。ロープが切れてもエレベーターかごが自動的に停止して、中の人の安全が確保されるというものである。この安全装置の発明が、一般の人々が利用するためのエレベーターの生まれる土壌がとなったのだ。 (ただし本書によれば、このエレベーターの安全装置のプレゼンがエレベーター普及の起源であるというストーリーは後世の後付けで、実は博覧会が開かれた当時はこのプレゼンに対する反響はそれほど大きくなかったらしい。技術が社会に普及するスタートポイントというのはもう少し複雑だという話だ)
  エレベーターが一般社会に普及するようになったのは19世紀の終わりごろから20世紀に始めごろである。この頃、アメリカやヨーロッパで鉄骨の高層ビルが次々と建てられ始めた。そんな高層ビルにエレベーターが導入された。言うなれば、縦方向の移動装置である。このほか水道管や電気ケーブルもまた高層ビルの中を縦方向に走る要素である。縦方向を貫く要素とは、これまでの時代の建物には無かったもので、やや大袈裟な言い方をするなら、近代の建築を特徴付ける要素の1つでもある。
  しかし、エレベーターの登場とは、単に建物を上り下りするための便利な設備が誕生したというだけの話ではない、というのが本書の主題である。
  本書の邦題「金持ちはなぜ、高いところに住むのか」という言葉の通り、私たちは無意識のうちに「金持ち=高いところ」というイメージを持っている。金持ちに限らず、例えば映画やTVドラマでも、大企業の社長や重役が、ビルの高いところに社長室を構えて、窓ガラスから偉そうに外の街並みを見下ろすというシーンを見たことがあるだろう。では、このようなイメージがどのようにして生まれたのだろうか?
  実は、エレベーターが一般社会に普及する以前は、「金持ち=高いところ」というイメージは人々の間にはなかった。建物の最上階といえば当時は屋根裏部屋というイメージが強く、建物の高いところといえばむしろ貧乏人や召使いなど、身分の低い人々のための空間だったのだ。これはエレベーターが無ければ上り下りをするのが大変なので高いところでとても不便であることに加え、建物の最上階や屋根から太陽の熱が伝わりやすく、熱がこもりやすいため衛生面でも不潔な空間だった。その時代の金持ちは、低いところに住んでいたのだ。
本書では、エレベーターの登場によって、「高いところ」と「低いところ」の社会的なイメージ、つまり高いところ、低いところはどんな人のための空間なのかを、あらゆる角度から分析を行なっている。例えば高層ビルのホテルにおいて、高い階の部屋と低い階の部屋では宿泊料がどのように設定されていたのか? または、この時代の小説の世界で、高いところに住む人、低いところに住む人は一体どんなキャラクターとして描かれていたか? その結果わかったこと。エレベーターが普及して間もない19世紀の終わりごろまでは、まだ「金持ち=低いところ」というという旧時代の価値観が残っていた。そして時代が進んで20世紀になると「金持ち=高いところ」というイメージが生まれたということがわかった。つまりエレベーターの登場によって、「高いところ」と「低いところ」という場所が持つヒエラルキーが逆転したのだ。現在私たちが当たり前のように持っている「金持ち=高いところ」というイメージは、こうして生まれたのだ。
  エレベーターの登場によってもたらされた、身の回りの環境の変化はこれだけではない。私たちは、建物やビルの中は1階2階3階と空間が階ごとに水平方向に区切られていることに、何の疑いを持っていないだろう。実はエレベーターが普及するまでは、建物の中が階ごとにきっちり秩序立てられていないものも多かった。「階」という概念そのものはかつての時代にもあったのだが、それほど厳密なものではなく、中2階のように、部屋の床の高さが部屋ごとに揃えられていないものも多かった。エレベーターが建物に導入されると、エレベーターとは階ごとにしか止まることができないため、建物内の空間もエレベーターの動きに合わせるかのように階ごとに水平方向に秩序付けなければいけなくなった。「階」という概念が建物を秩序づけるためになくてはならないものになったのは、実はエレベーターの登場以降なのだ。
  エレベーターというと、今では私たちの身の回りに空気のように当たり前のようにあるものだが、実はこれは、社会の構造や、私たちの持っている社会的なイメージまで更新するほどの力をもったものだ。
  最後にひとつ、こんなエピソードを紹介。1913年、ロシアの皇帝がドイツを訪問したときのこと。最初はロシア皇帝一行は4階建ての建物に宿泊する予定だったが、とある事情から2階建ての宿泊所に変更された。そのとある事情とは次の通り。当時のロシアの皇帝やその側近は、歩き方やドアの開け方など、動作の一つ一つが様式として厳格に決められていた。しかし4階建ての宿泊所にあるエレベーターの中では、皇帝とその側近はどのように振る舞わなければならないのか、その様式がそもそも存在しなかった。だから皇帝もその側近も、どうやってエレベーターに乗ればいいのかまったくわからなかったのだ。王室と新技術とは、かくも食べ合わせが悪いものだ。

 



 

 

AI vs. 教科書が読めない子どもたち(著:新井紀子)

 

 

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

 

AIブームは続くよどこまでも。この本もまた、世の中に数多く出回っているAI本の1つとして書店で平積みされていることの多いものである。タイトルに「vs(バーサス)」と付いていることからも、AIと人間、言い換えればコンピュータと人間の対立・対決を予感させる。しかし、この本に書かれているAIと人間の対決・対立とは、巷に数多くあるAI 本と比べても、極めて異色である。
本書の内容は、大きく2つに分けることができる。前半は、「AI(人工知能)とは何か」という話を、かなり詳しく解説している。著者は数学者だけあり、言葉や概念の定義にはかなり厳格で、しかも昨今のAIブームのなかで使われるAI技術関係の言葉ーー例えばAI、ビックデータ、強化学習、シンギュラリティなどなどーーのいい加減さに対する著者の苛立ちも、行間から臭ってくる。
著者によるAIの解説は、かなり身もふたもないものである。例えば、著者は「AIが人間に完全に取って代わられるという未来は、まずあり得ない」と断言している。その理由は次の通り。AIとは計算機に過ぎないので、突き詰めて言えば、足し算や掛け算といった四則演算しか行うことができない。つまりAIに解ける問題とは、何かしらの形で数学の形式に置き換えられるものだけである。AIが囲碁のプロに勝つことができたのは、囲碁のルールを数学の形式に置き換えることに成功したからである(もちろんこれは凄いこと)。しかし世の中に存在する数多くの問題のうち、AIに解ける問題、つまり数学で置き換えられるものはごく一部だけ。つまりAIに解けない問題というものは数多くある。よってAIが人間に変わってこの世のありとあらゆる問題を解決してくれるという未来はあり得ない。こんな調子で、AIへの夢をぶち壊すようなことを、極めてロジカルに説明してくれるのだ。
著者はAIに関するとあるプロジェクトのリーダーを務めていた。この話が本書の前半のヤマである。それは「東大の入試に合格できるAIを開発する」というものである。結果から言ってしまうと、このようなAIを実現することはできなかった。しかしこのプロジェクトを通じて、AIに何ができて何ができないかをより深く理解できたことが、このプロジェクトの大きな成果である。例えば、AIの苦手科目って一体なんだろうか? それは国語と英語である。さらに、一見するとAIは数学が得意と思われるかもしれないが、実は文章題になると途端に苦手になるのである。これらに共通する要因として、そもそもAIは文章の意味を理解できないという特性がある。確かにAIは文章を生成したり翻訳したりすることはできる。しかし、これはAIが文章の意味を考えて行っているのではない。大量の文章のサンプルデータを与えて(これが俗にビックデータと呼ばれるものである)、そこから確率・統計的な手法を用いて、もっともらしい文章を作っているのである。さらに著者は、計算機の処理速度が今より向上しても、それで東大入試に合格できるAIが実現できるわけではないと主張している。理由は、上記の「AIは文章の意味を理解できない」という特性は、計算機の処理速度が早くなったからといって克服できるようなものではない、ずっと根本的な問題点だからだ。
本書の後半では、子どもの学力へと話題が移る。上記のプロジェクトの中で、AIを開発することと並行して、実際の中高生の学力調査が行われた。この調査結果により、本書のタイトルにある「教科書の読めない子どもたち」というものの実態が明らかになる。中学生・高校生のうち、文章を読んでその意味を正しく理解することが苦手な人が多いことが明らかになった。AIは文章の意味を理解することができない。では人間は文章の意味を理解するのが得意なのかといったら、そうでもないという皮肉な結果が出てしまったのだ。もちろん子どもによって能力差はあるにはあるが、多くの子どもは、教科書レベルの日本語も正しく理解できないという結果なのだ。
かく言う私自身も、高校受験や大学受験に挑んでいたのは遠い昔の話だが、その頃を振り返ってみても、教科書を隅から隅まで読み込んだという記憶や実感がまったくない。むしろ、どうやってテストの点数を稼ぐかのコツを身につけようとしていた記憶がある。要するに私自身も、教科書を読めていなかったのかもしれないし、正しく読んでいたのかと改めて問われると、思わず目が泳いでしまう次第である。これでは、受験が終わった瞬間にそのとき必死で覚えた知識があっという間に頭から消え去ってしまうのも、当然といえば当然の話だ。つまり、この本で書かれた学力調査結果は確かにショッキングなものであるが、私自身の学生時代の体験と照らしわせて考えると当てはまるところがかなりあるように思える。そう考えると、この調査結果も納得のできるものではないかと個人的には思った。
本書のポイントを改めて述べると①AIは、世間で言われているほど万能なものではない、②AIが苦手な読解力は、多くの人間にとっても苦手なもの、ということ。私がその辺の書店でAI本をいくつかパラパラ立ち読みした印象では、世間に溢れる数多くのAI本は、AIという技術がいかに凄く、それが社会のあり方をどう変えるか、人間はどう進化するか? といった意識の高い話が多い気がする。しかしこの本は「AIはそこまで凄くない。しかし人間だってへぼい」とでもいうような、まるでダメさ加減で争っているようにも見えて、他のAI本とはアプローチが180度異なる。この本が数多くのAI本の中でも異色なのは、まさにこの点に尽きる。
というわけで人間にとっては、AIとかシンギュラリティとかによって変容していく未来に適応するには人間はこの先一体どのような進化を遂げる必要があるのかと意識高く悩む前に、まず教科書レベルの文章を読める読解力を身につける教育法を作ることの方が急務なのだ。実際には子どもにも能力差があり、はじめから読解力の高い子どもは教科書もスラスラ読めるし、そういう子どもは極端に言えば放っておいても勝手にいろんなことを勉強していろんなことを身につけてしまう。逆に、読解力の低い子どもは、AIが苦手である読解力でもAIに対抗することはできない。では、近い未来にいろんな職業がAIに取って代わられたとき、読解力の低い子どもには、大人になった時に一体どんな職業が残されているのか? 子どもの読解力の格差は、未来の格差社会の火種そのものである、というような話が本書でも展開されている。
ちなみに、著者も一応は、子どもの読解力を向上させる学習法はなにかないかとあれこれ検討したが、今のところ有効と言える方法は見つけられなかった、と本書で記している。もしうまい学習方法がが見つかって、それを本にして、売れば……もっともっと本が売れるのに!とも嘆いていた。子どもの読解力を鍛える方法……大きなシノギの匂いがするぜ。

 

赤いオーロラの街で(著:伊藤瑞彦)

赤いオーロラの街で (ハヤカワ文庫JA)

赤いオーロラの街で (ハヤカワ文庫JA)

私たちの想像し得る、最もリアルかつ最も過酷な危機的状況とはなんだろうか? 戦争や核兵器という答えがまず挙がるかもしれない。これと匹敵するくらいの状況として「エネルギーが無くなること」という答えもあるだろう。私たちの生活がどれだけ電力に依存しているかを考えれば、エネルギーが無くなるという状況がいかに過酷であるかは言うに及ばないだろう。しかも我が国はエネルギー自給率の低いことや自然災害の激しいことを考えると、これはリアルに考えうる危機的状況とも言える。ひょっとしたら今の現役世代にとっては、戦争よりもエネルギー危機のほうが、リアルに想像できる危機的状況なのかもしれない。

「赤いオーロラの街で」とは、そんな危機的状況を描いた日本のSF小説である。舞台は現代の日本。ある日、超巨大な太陽フレアが発生し、桁違いに巨大な太陽風が地球を襲う。これにより地球の磁気圏が大きく変形する。変形した磁気圏は元に戻るのだが、元に戻るときに強力な誘導電流が巻き起こる。この誘導電流で世界中の変電設備が焼き切れる。そして世界中で停電が発生する。焼き切れた大規模な変電設備は、作り直すことそれ自体に大きな電力を必要とするが、世界中が停電した今、変電設備を作り直すのに一体何年かかるのかまったく目処が立たない。おまけに、この巨大な太陽風の影響でGPSなど通信電波もほぼ使い物にならなくなってしまう。

電力も通信電波も使えないとなると、私たちの生活に一体どんな支障が起きるのか? 電灯が使えないので室内が暗い。冷蔵庫が使えないので食品の保存も難しい。水道ひとつとっても、水を汲み上げたり汚い水を処理したりするのにも電力が要るので既存の水道システムも役に立たない。エレベーターももちろん使えない。おまけに通信電波も使えないため、テレビも受信できない。携帯電話も使えない。つまり私たちの生活もあらゆるものを支えていたインフラが死んでしまうのだ。吉幾三もびっくりの文明レベルを受け入れざるを得ない。この作中の言葉を借りると、人々は中世並みの文明で生活せざるを得なくなったのである。

主人公は日本のごく普通のITエンジニア。たまたま北海道に出張に行っていたときのこの大災害が起きる。作品タイトル「赤いオーロラの街で」とは、太陽風の影響で世界中に赤いオーロラが発生したことに由来する。太陽風の影響でGPSが死んだため、飛行機が飛び立てなくなってしまい、主人公は北海道に立ち往生せざるを得なくなる。この北海道の地で、地域の人たちと協力しながら、この危機的状況でどうやって生活を立て直そうかと奮闘する物語である。

この小説には、特別な能力をもったヒーローのような存在はいない。主人公も含めて、皆がごく普通の人たちである。役場の職員、病院関係者、酪農家、土建業者、あらゆる職業の人たちが集まり、何ができるかを考え、実行していく。例えば、通信電波が死んだため、情報の伝達手段には回覧板や掲示板が使われるようになる。船の航海法には、GPSが発明される以前の、天測航法が再び重宝されるようになる。大規模な電気設備は死んだが、家庭用のソーラーパネルはまだ生きているものも多いため、それらをかき集めて、工場を稼働させる電力を作ろうという試みも行われる。

SF小説と呼ぶには、あまりに地味な行動や出来事が続く物語に見えるかもしれない。実際、物語の導入こそスケールの大きな話だが、そこから先はただ「生活を立て直す」という目的に向かって行動する様子が続くのみである。しかしこれは逆に、危機的状況への闘い方として私たちがリアルに感じることのできるものであるとも言える。結局のところ、太陽フレアというスケールの巨大すぎる災害を食い止めるなど、人類の叡智を遥かに超える行為である。私たちにできることは、起きてしまった事態に対して、いかに状況を立て直すかということのみである。一瞬ですべてを無かったことにしてくれる超越的な解決手段は存在しない。社会を立て直すことは、普通の人たちが力を合わせて地道なことを続けることによってのみ可能なことなのだ。

状況こそ深刻だが、それに対しこの小説の登場人物たちがどんな工夫を凝らすのか、その様子を読み解くのはとても楽しい。それは、この主人公も台詞にも現れている→『不謹慎な話かもしれないけれども、停電当初に起こったことを聞きに町内を回ることは、とても楽しい仕事だ。それは、世界停電前までは意識することもなく生活に使っていた様々な社会システムを、つまり世界がどのように成り立っていたのかを知る作業と言えた。(p204-205)』

おクジラさま(著:佐々木芽美)

 

おクジラさま ふたつの正義の物語

おクジラさま ふたつの正義の物語

 

 

  「動物が好きな人」と「動物に興味がない人」との間にそびえ立つ温度差は激しい。決してどっちが正しくてどっちが間違っているという話ではないのだが、お互いを理解することは難しい。歴史上には、動物が好きすぎるが故に困った人物というものがいる。その最たる例が、「生類憐れみの令」で有名な徳川5代目将軍綱吉だろう。
  綱吉の話は置いておくとして、今回紹介する本「おクジラさま」というタイトルは生類憐れみの令の「お犬さま」を意識してつけられたもの。タイトルの通り、クジラに関する本である。
  日本には古くからクジラ鯨漁が行われているが、欧米からは批難を受けている。日本としては、国際会議の場でも、鯨が絶滅しないような科学的・技術的な措置は取っていると説明しているのだが、欧米からは「鯨は我々と同じ哺乳類だ。鯨を殺すなどという野蛮なことは許されない」という論調で、まったく建設的な話ができない状況が続いている。
  この本の作者の佐々木芽美は日本人だが長い間アメリカ暮らしをしている人である。この本を書くきっかけは、アメリカでとある映画を見たことから始まる。日本の鯨漁についてのドキュメンタリー映画だが、それを見て怒りとも悲しみともつかない感情に襲われたという。鯨漁反対の立場で作られた映画だが、日本の漁師、まるでスプラッター映画のように残酷な形で誇張し、漁師を悪者に仕立て上げている。おまけに伝えている内容に事実誤認が多数ある。日本人として不快だったという感情のほかに、ジャーナリストとして中立性にまったく欠けた映画を見せつけられたことに対する不快感も立ち上がったという。
  作者のこの不快感とは裏腹に、この映画は国際的にも高い評価を受けた。しかも、作者にはアメリカ人の知人も多く、その人たちはみな教養が高いのだが、鯨業の話になると、日本が残酷なことをやっていると思い込んでいるという。作者はここで「日本の鯨業について、海外への情報発信が足りない」と確信した。そこで、日本の捕鯨という同じテーマで、それも出来るだけ中立な立場で映画を作ることにした。そのための取材の過程を書いたのが、この本である。
  言うなれば異なる文化の衝突問題についての本であり、解決の糸口を見いだしづらい話である。取材の過程で、鯨漁の漁村にある青年と交わした「国際人とは何か?」という話が興味深かった。その青年が言うには、国際人とは英語が喋れる人だとか、外国の文化をよく知っている人だとか言われるけれど、そうではない。国際人とは、自分の国の文化について他の文化の人へ堂々と説明できる人だ。さらに言えば、自分の国の文化がおかしいと言われても、それに怯まずに堂々と自分の文化のもっともらしさを伝えられる人だと言っていた。これはまさに、この作者がこの本の中で行おうとしていることそのものである。しかし現実的には、文化の対立のある人に対し自分たちをわかってもらおうとするのはとても難しく、ストレスのたまることである。実際、この作者は映画の製作中に海外からネットで激しいバッシングを受けて心が折れそうになったことも語っている。しかし、ただ黙っていたり、内輪で愚痴をこぼしあっているだけでは断絶は増すばかり。わかり合うことはとても難しいことだけれど、その難しさから逃げてはいけないという心が伝わる。
  また、この本は捕鯨問題についてただ淡々と中立かつ客観的なことを述べているだけではない。取材や映画製作を通じての作者の心の迷いや戸惑いも書かれている。作者は「アメリカ暮らしの長い日本人」という、欧米の立場も日本の立場もどちらともアクセスできる立ち位置にあるが、だからこそ余計に、対立するふたつの文化に対し、どちらに対しても感情を動かされてしまう。ジャーナリストとしては、冷静かつ客観的に事実を描くのがあるべき姿なのかもしれないが、この手の文化対立という話に接するとき、どうしても感情動いてしまうのは人として自然なことだと思う。その感情の動きを追うことも、この本の読みどころである。「自分の文化を相手に伝えることが大切」というと、いかにも意識が高そうで立派なことに聞こえるけれど、実際にこれをやることがどれだけ難しくてストレスのたまることなのかも、直視しないといけないはず。作者の心の動きまで読んで、その難しさも直視することが、相互理解することの難しさを乗り越えるために必要なことなんじゃないかと思う。

心の哲学入門(著:金杉武司)

 

心の哲学入門

心の哲学入門

 

 

「ロボットに心はあるのか?」「ロボットに、人間と同じような心を持たせることは可能なのか?」とは、SFの世界でも古くから問われている問題である。この問題を考えるには、「そもそも心とは何か」という話から深く考えないといけない。よくよく考えると不思議なことに、私たちは、人間には心があることにはなんの疑いも持っていない。にも関わらず、心とは一体何かと問われると、明確には答えられない。
心の哲学入門」とは、その名の通り「心とはなにか」を哲学するための入門書だ。「哲学」という名が付いていることからも分かる通り、心の正体について、理屈でもってアアデモナイコウデモナイという議論が繰り広げられる。本書の目的はもう一つあり、「心とはなにか」という具体的な問題を一冊まるまる通して解説することで、「哲学的に考えるとは、こういうことだ」という哲学一般の方法論を示した入門書にもなっている。例えば、哲学的に考えるためにまず土台となるのは、常識的な考えなのだということ。「心とはなにか」ということを私たちは常識的には知っている。何かを欲しがったり、嬉しかったり悲しかったりするのは何故かというと、これは常識的に考えれば、私たちに心があるからだ。心の定義はできなくても、心とはどんなものなのかは、ある適度までなら常識であれこれ論じることができる。この常識こそが「心とはなにか」という問題を考える出発点になる。もちろん常識が間違っているということはいくらでもあり得る。例えば太古の昔は地面は平らだという考えが常識だったが、それは間違いで、実は地球は丸かったのだ。そういう意味では、常識とはそれほど当てにならないものである。しかし常識のまったくない状態で何かを考えたり哲学したりすることはそもそも不可能。哲学の土台となるのは常識である、という考え方の作法が学べてしまう入門書なのである。
出発点こそは常識だが、そこから先へ考えを構築していくための道具になるのは、あくまで理屈である。とりわけ論理的であることが重要視される。「心の志向性」「構文論的構造」「想定可能性論法」といった、難しそうで読み飛ばしたくなるような漢字だらけの名称の概念もしばしば飛び交う。しかしこの本は親切なことに、これらの概念の説明には必ず私たちが日常的・常識的に身近に感じられる具体例が付け加えてられている。この本を読む上での専門的な予備知識は必要ないと言っていい。概念や専門知識の解説はすべて本書の中に用意されている。解説を読んで、あとは自力でじっくりと考えてその概念を理解しながら読み進めればいいのである。
逆にいうと、この本の内容を理解するには、それ相当にじっくり頭を働かせて考えることが要求される。概念を理解するためには、自分で納得できるまで考え込まなければならない。簡単には理解できない概念だってある。この本には要所要所でQ&Aのコーナーがあり、初心者によくある疑問とそれへの回答も紹介されている。質問の中には「この概念、おかしくないですか」という批判めいたものもあるが、中途半端な批判は回答でメッタメタに返り討ちにされているのが恐ろしいところ。
この本の結論は「心とはなにか、という問いには私たちはまだ明確な答えが出せない段階である」とまとめられている。一見すると拍子抜けの結語であると思うかもしれないが、そんなことはない。この本を通じて得られるのは「哲学的に考えるとはどういう事か? どんな方法があるのか?」ということであり、もっと噛み砕いて言えば「私たちの生活の土台となるような基礎的なものだが、それが何なのかうまく説明できないもの」を説明するための方法論なのである。例えば「時間」や「道徳」なども、「私たちの身近にあり、それがなんなのか知っているつもりだけど、明確な定義はと問われるとうまく説明できないもの」である。この本を参考に、じっくり考えてみるのも悪くないかもしれない。