「セイジ 陸の魚」を観てきたよ

伊勢谷くんが撮る映画ということで、どんな原作なのかなあと思い、先に原作は読んでいました。
今、映画を通して伝えたいことはなんなんだろうと。
原作を読んだ感想は、セイジは間違ってるんじゃないか、でした。

以下映画の感想、というか、思ったことと、ネタバレありです。

おおお伊勢谷くんっぽい映像!カクトを思い出す!とテンションの上がるところがあったりしましたが、
とりあえず、それは置いておいていいです。

映画の宣伝の露出で伊勢谷くんは、「観たあとに、なにかを考えてほしい」と言っていました。
そこにも、観たあとになにかを考えさせることをエンターテイメント、っていう、
是枝さんのスピリッツかなあ…かっこいい…、と思いましたが、それも置いておきます。

観たあとに考えたことは、やっぱりセイジの行動は間違ってる、ということでした。
去年の3月11日に地震があって、まったくなんの被害も受けなかったわたしは、
なんで自分は無事なんだろう、どうして心配することしかできないんだろう、と自分がなんともないことがすごく苦しかったです。
まったく無事な場所から、少しばかり募金をしてみたり、傷ついたものをへ思いを馳せても、
実際なにも経験していないことがすごく負い目でした。
苦しんでいる人がいるのに、結局わたしはなにも失っていないし、どこも痛くないのです。
これは地震に関係なく、世界はいつだってそういうものなのだけど。
過去に似たような経験をした人や、当事者が言える「気持ちわかるよ」を、わたしは言えません。
どんなに痛みを想像したって、実際の経験じゃないです。

でもわたしは、セイジみたいに手首を切り落とすことはできません。
この世に不幸な人がひとりでもいると幸せになれないと思っているらしいセイジがしたみたいに、
被害者を救うため(そんな大層な風には思ってはないかも知れないけど)、同じ側に立つために、
同じ経験はできません。
そういう寄り添い方もあるのかもしれないし、同じ側になれば、「被害者でない」という苦しみはなくなるのだけど、それは逃げなんだと思いました。

逃げとか、そういうこともセイジは考えていないかもしれません。
あー違うかもな、逃げだと思ってたから、その時まで、手首を切り落とさないで、
誰の痛みにも添わないで、死んだみたいに生きてたのかもしれないし、
死んだふりでずっと逃げないで戦っていたのかもしれない。
周りの人が言っていた、「セイジはこういう人間だ」っていう評価が合っているとは限らないです。
だから、自分の生に興味がない、みたいな評価をされてたのに、あんなにムキムキな身体だったのかもしれないです。
(観た当初は、西島さん良かったけど、あそこだけ合わなかったな…と思ってました)

難しいな、セイジ。

セイジが手首を切ったことで、あの少女は救われて、ちゃんと成長できて、その後の人生でセイジを神と崇めていたけど(あの辺りの描写は、映画の描き方が素晴らしかった)、
セイジの行動は、わたしは間違ってると思います。
でも、あの少女が救われたのは事実なので、あの子にとっては、間違ってなかった。
難しい。

わたしはセイジとは違う形で、添いたいです。
非被の側のまま、できることをしたいです。
同じ側に立ってもらわなくても、添いたい、と思ってくれるだけで、わたしは救われます。

ちょっと違和感あること。
わたしが少女だったら、自分の手を失ったことより、親が殺されるところを見た傷の方が遙かに大きいです。
原作読んだときにも違和感あったんだけど、映画見てもそこはわからなかったです。
わたしなら、手首切り落としてもらっても、そこじゃないし、って思います。
そこまでして添おうとしてくれた気持ちぐらいはなんとなくわかっても、やっぱ違うと思います。
あと、轢死したたぬき類を冷凍したり、さばいてたのは何でだろう…。
生命であったものを無駄にしないとかそういうことだろうか。
それとも、自分の親を殺したっていう狂気的な感じと結びつけたかった?違うなー。
ティーチイン行きたかったです。切実に!

ちょっと群像劇っぽくってよかったです。
セイジと旅人以外の人間の部分も描かれていてよかったです。
劇中歌がよかったです。歌詞がメッセージドーン!みたいな感じで、セイジとまったく逆みたいでした。

伊勢谷くん、なかなか難しいものを提示してきました。
色々考えられて嬉しいです。
自分が出したかった答えも、誤答を見て、やっぱそうじゃないわ、そっちじゃないわ、と思いました。

「『被』側にいない自分が『被』へ添いたい場合は、『被』側へ行くしかないのか」っていうのを考えたかったので、今ほしかった映画でした。

ちょうどよかったです。

ソラニン観てきたよ

ソラニンを観てきました。

以下ネタバレあり感想ー。
というより、ソラニン観て思い出した自分についての雑感みたいな、ソラニン関係ない感じの話とかです。

すごいよかったです。
わたし、浅野いにお大好きで、ソラニンも大好きなんですが、原作の世界を本当に大事にしてくれた作りでした。
ソラニンを読んだとき、映画をまんがにしたようなまんがだなーと思ってたので、そのまま映画で観ることができて嬉しいです。

あおいちゃんの歌うシーンがすごくいいです。
こういう歌は上手さじゃないと思わせる代表みたいな感じでした。
まんがと映画の違いが、音が出るかぐらいしかないので、映画の感想は特にないかな…
でも、その音が映画の醍醐味だから、すごくよかったです。
映像も落ち着いた感じですっごい観やすいです。

主人公と同じぐらいの感覚を生きている人より、わたしみたいな、主人公のがいるところをもう捨ててしまった人が観ると、すごくぐっと来ると思います。

わたしも働き始めて少し経ったぐらいに、会社から帰る車運転しながら、
「何でわたし、こんな誰でもできるような、誰でもできることしてるんだろう」と思ったことがありました。
今はもう、自分の個性を誰かに求めてもらえるとは思ってないので、どこの何の歯車だって、代替きく部品だって、特に思うことはありません。
わたしの手の届く範囲の人たちが、元気で笑っていてくれれば、わたしとか、わたしの人生とかは何だっていいです。

でも、ソラニン観て、昔の感覚を思い出しました。
昔の感覚を思い出して、自分っていう存在がいることを思い出しました。
感性が澄んでいた頃に思ったことや、考えていたことを、今の自分がリアルにそう思えなくなっていたとしても、
そう思っていた、っていうことは絶対に忘れないようにしたいと思ってました。

幼稚園の頃に、地球が全部終わって誰も何もなくなって、宇宙になって、何もない世界になったら、時間だけ過ぎていくんだろうか、
でも何も生きてなかったら、時間が流れるってことさえわからないんじゃないか、って思ってたのとか、
小学校の頃、都会に行って夜に、マンションとかたくさんの家の明かりを見て、あの明かりの数だけ人が生きてるってすごいことだ、
自分じゃない、ぞれぞれの自分が存在してるってすごいことだなって思ったのとか、森の木が切られるのを見て、あの木を住処にしてた動物たちはどうなるんだろうとか、どうして大人は、正しくないと思っていることを仕事にしてるんだろうかとか、環境問題についてどうして笑って話せるんだろうとか、
世界のどこかでは確実に戦争だったり、ひどいことが起きて、人が苦しんでるってことを、誰もが知ってるのに、どうしてみんな何もしないでいるんだろうとか、何かいろいろ思ってました。

自分を大事にしてると、上手くいかないことや、無駄にダメージを負うことが多くて、そういうのが嫌で、個を覆い隠して、
今のわたしみたいになってるんだと思うんですけど、覆い隠した核の自分っていうのはまだ存在したんだなーと思いました。
せっかくあるなら、無くさないように、たまに意識してやりたいと思います。
わたしが自分であることの存在意義とかは全然ないですが、なんとなく自分のことをたまに思い出したいと思います。

自分についてじゃなくても、何かについて考えさせられる映画って、
いい映画だなーと思います。